02 古事記はこ(子)事記

古事記はこ(子)事記

古事記はふること文として帝記になっている中下巻と、神代の形を借りて古こととなる今現在が創造されていく姿を映した上巻の三巻で構成されています。

古事記は漢文で記されているのではなく、日文の読みを漢字を借りて記されたものです。ですので古事記の表記に【古】とあるから、古の日本語の意味の古いを当てはめるだけでは古事記の日文の意図を得たものとはなりません。

人は時々刻々創造活動をなして現象を積み重ねて行き経験となします。精神的に物質的に子を生みなすことが人の道です。

古事記は【こ】事記でです。三巻の内、神代の巻である上巻は心の今現在の生成変態流転を記したもので、その結果として子現象の理想的な創生を述べています。人の産む子現象というのは、物質的には子供で、精神的には意識で、その表現となる言葉のことです。

【こ】事記の【こ】は、こころの事、こころの子現象、つまりこころの活動による創造物である言葉の創生物語として読まれるように仕組まれています。

しかし子現象の創生だからといって、神話や精霊信仰、伝説伝承等の意識現象によって、天から授けられた帝記の序列を保障しようとするものではありません。

全く思いも寄らないことですが、理想の思惟規範に元付く歴史創造行為へと導くものです。

ですので神様の世界の話でもなく、人を超越した神界の話でも、精霊の話でもありません。

意識により創造された様々な現象ではなく、意識現象を産み出す意識行為そのもの、人類に普遍な今現在に生き関わる意識活動の謎、今現在時々刻々と意識現象を産む人間の仕組みを解いたものです。

神代の巻きは、いまここの心の活動していく様子が冒頭の百神の列記で示され、そしてその後の心の運用の応用問題としての神話物語との二部構成です。

冒頭百神は古事記の本論として書かれていて、心と精神意識の原理として記録されています。

百神は心の五十の要素と五十の運用神のことです。物質に元素があるように心の精神元素が五十です。そしてその心の動きによる組み合わせや整理、運用が五十あります。

五十というのは今後に新しい精神元素が見つかるとか、五十一番目の精神運用の方法があるとかいうもではなく、きっかり五十と五十で百を形成し、言霊百神、百(も)の道(ち)として毎正月に餅を食い祝うようにされています。

この百神はその記述のされ方がそのまま心の生成活動となっていて、心の今一瞬の生成を百の神名を引用して述べるという、人類史上前例の無い思惟活動の成果であり、人類の至宝です。

【こ(子)】事記を述べるため漢字を借りたように、こころの事を述べるために神名を借りているので、実際にそういった神様達がいるわけではありません。またそういった神様達を拝むようにさせていることもありません。

そのような構成になっているのは、古代において心の原理の発見が早すぎ、その運用の歴史条件が整っていないばかりか、それを整えるために子孫に謎々を残しておいた為です。母親の子育てと同じで、子に真実を語りかけますが、内容の説明は省略しています。

古事記の上巻百神は心の原理として書かれていますので、子事記は大和日本という一国の為に書かれたものではなく、人類世界の歴史を導くものとしてあります。その内容を保持しているようにされていたのが神道とスメラミコトです。

そのためには日本語の構造を知らねばならず、その構造ずばりが冒頭五十神となって五十音図に対応しています。(皇室の賢所に秘蔵されているそうです。)

現代は歴史の物質方面の全人類への寄与は整いつつありますが、歴史運用の思惟方面は混乱しています。誰も理想の思惟規範を持てないでいます。

しかしそれは既に古代スメラミコトによって八千年前に完成していました。さらに千三百年以上前には古事記として謎々で書かれました。というのも、古事記の序にある通り、虚偽誤りが増えてきたというのは、いわゆる神代記のことで、それは神武天皇以来停止されたフトマニ原理による政朝運営に伴うものでした。

神の名前を借りての人の意識原理構造の記述が不明瞭になってしまったということです。

その要点は、人間意識における持続変化する今の一瞬がそれぞれ百神の循環によって成り立ち、その循環の前承する階乗が心と歴史を形成するというものです。

一言で言い表せば、古事記の冒頭の一句、天地をあめつちと読み直すことです。

あめつち(天地)、とは

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となす、ことで、

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすべし、です。

智は道(ち)をなす実践智のことです。