08 天照す大御神

心とは何か、人間とは何か、人の持つ心はどのように働くかを記述した古事記の、総結論として天照す大御神がいます。

冒頭の、天地(あめつち)・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となす、から始まって、とうとう、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすべしへの飛躍が完成したことになり、それを、私の意識、吾の間(あま)を照らす大御神と名付けました。

とはいいましても人間知性の運用法を神と名付けたのは、せいぜい二三千前のことです。これまでに、太陽の神格化とか人を照らす光とか、皇室の祖神とかの、神話に変化していきました。

ここでは本来の意味の、私の意識、吾の間を照らし大いなる現象、実を産み成す実体である天照す大御神を探ってみます。

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天照す大御神は身禊の最終段階に出てきた三神で、イザナギの命を大いに喜ばした一人です。

というのも、イザナギの先天規範が自覚された運用規範として、天照す大御神としで現象したからです。赤子が口癖のようにマママママッと言っていた段階から、母親の眼を見てママ、ママと呼んだということになるでしょう。

天照す大御神とは何かといえば、今まで出てきた97神を自覚的に捉え直されたものです。意識規範としての天照す大御神をおさらいしておてきましょう。

0) あめつちの規範。

古事記は心とは何かを解明したものですから、その冒頭の「天地」も心のアメツチで、天地(あめつち)を、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすと読み替えるべきものです。そしてその心の動き始める始めの事が記述されていきます。

心が動き始める前には何もありませんが、出るときには一定の規範に従って出てきます。

天照す大御神のあめつちの規範次元では、完全無欠な0)あめつちの規範としてできているものに依拠しています。

1) 先天の規範

心は一見自由自在奔放にみえますが、その先天の構造によって縛られ自らを明かします。これが冒頭十七神で現わされ、実在の意識主体側と客体受動側、とその両者を結ぶ働きの動韻とで示され、全体を表出する根源韻で保障されるという規範になっています。

この段階では無自覚さが自由と見られますが、それは十七神の構造は決まっていても、その出現が恣意的であるからです。

一方天照す大御神の先天の規範次元では、自覚された構造の運用の元に意識が活動していますから、恣意的な勝手気ままさはありません。自他ともにきっちりした了解があります。

2) 後天要素の規範

動韻が活動すると、現象が起き人間意識の様々な後天的な要素が生じてきます。

ここに意識元素ができあがります。要素の数は丁度五十でアイウエオ五十音表を規範図とします。全て人の成す意識活動はこの五十の組み合わせになります。

この段階では後天要素の処理運用にアイウエオの実在要素は無自覚恣意的ですから、アイウエオのどこに重点を置いたものかによって、ア行の配列が変わります。

天照す大御神の後天要素の規範では自覚された意志目標運用の元に事を運ぶので、ア行はアイエオウの実在構成とそれに固有に対応した創出の動きに従います。

3) 整理運用の規範

要素が客観的な事物となっていくと、物質を介した現象となる表現が産まれ、心とは言葉になります。ついで、要素の山を検討整理に入ります。

この段階では検討材料が集まるたびに整理が繰り返され、材料の変化に依拠した大雑把な枠組みが立てられますが、またその中で持ち込まれる材料も処理されます。

天照す大御神の整理運用の規範では、材料の時処位が既に分明されていますので、それぞれの位置づけが与えられます。

4) 主体内真理の規範

客観材料はそれぞれの場所に配当し運用することはできるようになりました。客観材料は客観法則のもとで整理できましたが、整理するのは主体側の意識です。そこで主観となる主体側の意識を探ります。そして、主体なりの主体としての真理を得ます。

天照す大御神の主体内真理の規範では、主体としての主体の真理が自利的なもの、主観内の真理であることが分かっていますので、それが利他との関係に入ることを忘れません。

5) 黄泉国での規範

主観内での真理は、世界の片半分の客観性に有効的実用的であるかも、主観的でしか見られません。適用や創造はできますが、いつまで経っても全体に届きません。

天照す大御神の黄泉国での規範では、主観と客観の分岐点がはっきりしているので、主観を主張し押しつけることがありません。

6) 禊祓の規範

ここでは重複する二段階あります。黄泉国の客観世界を禊祓することと、その世界に係わった主観を禊祓することです。そしてその両者を禊祓して、それを前段として、主体主観そのものの禊祓をします。その後者が完成した時点で天照す大御神がでてきます。

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さて、天照す大御神の意識規範だということでずらずら並べました。

実は実際に修得したわけではないし、記述したものが真実だという保障もありません。悪しからず。

このように無責任な態度は普通のことでどこにでも見受けるものです。しかし、ここからでも先天原理に沿って意識の八方向へ向うことができ、そのことによって、天照らすさんの真似事や反省もできるわけです。

古事記冒頭の原理部分にはアマテラスの発言は何も無いのですが、物語編になると変化があります。スサノウのウ次元世界への対応から始まっています。

アマテラスのエ次元世界にウ次元世界が主張要求をしてきます。

ウ次元は有るものは有りで、それを欲しているときは欲しくて、今欲しているので、手に入れるのは当然のことという世界です。

アマテラスは応戦する構えですが、戦争のためではありません。富士山を眺めに行こうと休日の行楽の出発間際に、まず腹ごしらえをすると言い出すようなものです。本日の予定がぶち壊しになるかもしれないのです。選択されたものにはそれに沿った選択が続くべきものですが、出てきた欲望は自己主張をします。

実はウ次元とエ次元の意識の運用法が違い、交わることはありません。ウ次元の主体から客体へ向う意識運用は、エ次元の運用法を理解できません。ウ次元の運用はその場での足踏み運用のようで、主張即結果を求めます。エ次元の計画や予定も、即時に成るものとしてウ次元に引き下げられて了解されています。

アマテラスのエ次元では結果の即時性は調和ある意識の中に出てきます。「おたけび」を上げて「待つ」とあるように、緒田気霊、現象結果の全体は今は意識の中にあるので、現実の現象としては待て、といいます。

スサノウはそんなことに構っていられませんから、どっちにするか決めてしまおうと、「ウケヒ」宇気霊、ウ次元の結果であるかどうか、を申し出ます。しかし、もともと次元の違う両者に交流はありませんから、それぞれの結果を持ち寄るだけとなります。

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