02章-2  客体論

客体論の目次

一般的な客体理解

客体とは、物質から物化へ、という飛躍の連鎖において自他ともに喜びを得ようとし成るもの

「アメツチ」から「カクツチ」へ

物質という客体世界 (物質に吾の眼が付いて地に成る・イエウオアの世界)

物の相互作用世界が主体に宣(の)る(感覚が頭脳にのって感覚意識となる)

心(イエウオア)と心の意識(言霊イエウオア)・(感覚と感覚意識、その他)

飛躍の連鎖 = 変態の連続 = 言霊螺旋循環

自分の頭の中の客体

客体論のはじまり

物質世界の客体と意識世界の客体

タカアマノハラ・頭脳に客体が宣(の)る

何を持って始めとするか

客体の系列その一瞬

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一般的な客体理解

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まず一般的な客体理解を挙げておきましょう

【客体】

1 主体の認識・行為などの対象となるもの。⇔主体。

2 意識から独立して存在する外界の事物。客観。客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。

【主体(しゅたい)】とは、「私」だったり「自分」だったり 「何か物事をなしている中心」のことです。主体とは感覚を受け取るものであり、意識である。

【客体(きゃくたい)】とは「対象となるもの」であり 「意識から独立して存在する外界の事物」です。

例えば、「私が美しい風景をみている」とき、「私」は主体で「風景」は客体です。

このように一般的な客体理解は自分の頭の外の物なり風景なりを指します。

そこからすれば自分の頭の中には主体、主体意識があることになります。主客を頭の中と外に分けるならばそれでいいでしょう。物を見て、見ているものが樹であり、そういう客体を見ていることになります。見ている意識側と見られているもの側が同一であるからすぐ分かり、安心していられます。

ところがここに同じ窓から外を見ている幾つかの頭があると、事情が変わってきます。それぞれの頭が見ている物、風景が異なっているからです。同じ風景を見ているといいますがどれ一つとしてどの方も同じ風景をみているという意見を集約できません。これは窓の外を見ていろと強制されていても同じことです。つまり勝手気ままに思い思いな感想が述べられることからも分かります。

それでも頭の外の外物を見ているじゃないか、と今度は物という言葉風景という言葉に託して、頭の外にあるものを擁護していきます。ここから先は一般概念となっていますから、頭の中にある物と風景も、頭の外にある物と風景と同じだと言い張ることになります。

追い詰められても頭の中と外とは同じに見えていますから、正当な主張をしているつもりでいられます。

意識と意識から独立したものという区分ならば、そこまでで止めておけばいいのです。主体あるいは意識の対極に置かれているものという感覚はつかめます。

ところが客体とは外界の事物とか物であるとか言いだすと、物は意識の何の世話にならなくてもここにいられるのだから余計な世話をやくなとなります。物や風景はそれ自体で語る手段を持っているなら、意識の出る幕は無いと怒り出すかもしれません。さらに続けて言い出すかも知れないのは次のようなことでしょう。

あなたの頭の中の客体を外の事物だとするのは、自分の足元を見ていないのじゃないか、と。

意識の向こう側の世界があって、意識に対した世界を物の世界として、それを主体に対する客体とするならそこまでの話です。そこから先は別のことになります。

客体とは、物質から物化へ、という飛躍の連鎖において自他ともに喜びを得ようとし成るもの

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今度は言霊学でいう客体の定義を提出してみましょう。

客体とは、物質から物化へ、という飛躍の連鎖において自他ともに喜びを得ようとし成るもの

見たことも聞いたこともない変な定義です。しかもこの章の最後には、客体とは「カクツチ」であるとなっていきます。古事記の心の原理論がアメツチで始まりそれに対応してカクツチで終わっていることからきています。ツチという読みが共通しています。

カクツチというのは、

【 火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火(ほ)の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神といふ】

五十番目に出てくる神さんです。表記を変えれば書く土の神となり、火は言霊のことで、それを粘土板に書き刻み、表出表現されたものです。

心が表出される最初の循環のその最後は、物質界からえられた刺激信号を、頭脳内で変換転換して、頭脳において物象を作り出し物化したものになります。この最後がカグツチで、そこに出来たものが客体で、その客体を創る過程には心の色々がこびりつき付与されています。

心の最後が得ようとするのは心の歓喜ですから、上記のように表現しました。

しかし注意してください。螺旋循環を見落とさないでください。カクツチが最後にくるからその最後に出来るものが客体ということではありません。言霊の螺旋循環は五十の手順によって示されますが、循環の完成された最後の姿をいわゆる客体といいますが、その過程にある各螺旋循環の時点でも同様にそれぞれの客体が出来ていきます。

「アメツチ」から「カクツチ」へ

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アメツチは、吾(ア)の眼(メ)付(ツ)いて智(チ)に成るです。

カクツチは、火(カ・言霊)の組(ク)み合わせが付(ツ)いて地(チ)に成るです。

アメツチからカクツチにまで至って一循環になります。最初の意識の芽生えが表徴され、物象化されて頭脳ないの形となり、頭脳内の形が付いて物化されて対象を指すようになります。付いたり形になったり物象化されたりしていく一つ一つの手順はそのそれぞれにおいて言霊循環を繰り返していきますから、それらと一つ一つがそれぞれの時点で心に納得されて一連の連鎖を創っていなければなりません。

そこで顔に現れたり現れなかったりはしますが、最後の循環を終えるときには自己自身に了解し得る形をとって、自己創造の歓喜を伴う現象となってでてきます。

この時の最後の出てくる在り方は、自分が創ったものとして自分を三つのありかたで示します。今自分が所持していること、そのものは過去からうまく持ち来らせていること、そしてそのものは未来へと順調に渡されて行くということ。

またそうであるからこそ、たったの一言であっても自分の言葉として述べられていきます。

その現れがいわゆる客体いうことです。それは「あ」という発音だったり、「あ」という文字だったりします。あるいは窓の外の樹を見て「き」と言ったり机の上の鉛筆を見て「えんぴつ」といったりのことになります。

そこで見たり聞いたりしている対象と自分がそれを指して言ったり書いたりしていることが一致していると思われると、安心感を得ています。普段は気付かない何でもないことですが、じっくりゆっくりと自分を見直していきますと、自分の喋る一語の後に安堵感があり、その連続した安心感の喜びが在るために、自分が喋っていることに気付きます。

強制的に何かを読まさせられているときでも、読んでいることが自分で納得されていくときにはそれなりの喜びがあるものです。

つまり、吾の眼の私の意識が付いて、カ(言霊)の組(ク)み合わせが物象と付いて自分に了解される時には、それなりにじこそうぞうの喜びの内にいるわけです。

客体が喜びの作用をもたらすなら、その反対や負の方面も出てくることになります。しかし、それらが出てくるときは別の次元となって、幸福論なり不幸論なるになるでしょうから、客体論から離れていくでしょう。

客体論なのにとんでもないことを書いているようですが、いつか普通のこととなるかもしれません。普通のこととするにはアメツチからカクツチまでを、順を追って説明していかねばならないでしょう。

古事記では「カクツチ」で客体を代表しています。隠語で示されているようなものですが、他の方面からも見るように示されていますからそれも記しておきます。

50【言霊ン】 火之夜芸速男の神(ほのやぎはやをのかみ)またの名は火の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火の迦具土(かくつち)の神。

火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神とは言霊ン、神代文字のことであります。火の夜芸速男の神の火は言霊のこと。夜芸とは言霊が夜になって眠ってしまった芸術のことです。速男とは速やかな働き、文字を見ると直ぐに言霊の心(男が霊、女が言)が分ります。神とは実体という程の意です。

火の炫毘古(かがやびこ)の神とは、神代文字はすべて言霊原理に則って造られていますので、輝いている働きの意。文字を見ると言霊の内容(霊)がその中で輝いて見えることをいいます。

火の迦具土の神の火は言霊のこと。迦具土とは「書く土」の謎。昔、言霊一つ一つを粘土板に書き刻んで素焼きにし、文字板を作りました。甕といいます。その文字板を心の持ち方に従って並べ、心の典型を表わしました。甕神といいます。御鏡の原形であります。火の夜芸速男の神と呼ばれる神代文字は昔、多くの種類のものが造られました。

(参照。 ここまで来ますと、火の夜芸速男の神とは昔の神代文字の事であることが分ります。文字は言葉が眠っている状態です。夜芸速男とは夜芸即ち読みの芸術である文字として言霊を速やかに示している働きの意であります。またの名、火の炫毘古とは文字を見ると其処に言霊が輝いているのが分ります。以上の事から五十番目の神、火の夜芸速男の神、言霊ンとは神代文字の事であると言う事が出来ます。太古の神代文字は言霊の原理に則って考案されたものでありました。言霊ンのンは「運ぶ」の意だそうであります。確かに文字は言葉を運びます。それを読めば言葉が蘇ってきます。)

物質という客体世界 (物質に吾の眼が付いて地に成る・イエウオアの世界)

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路傍の石に躓いて痛いとなるその石に関して、石そのものに関心を寄せるのは科学の分野で、意識の分野になりません。意識から独立したいわゆる物の世界を客体というのは、意識に対していうだけのことです。

ここでは、石を見て、積まずいて、痛くて、なんだこれはと思って、良く見たら木の根っこで、これからは注意して歩こうと心に決める、こういった一連の流れにある石に向かった意識が頭脳内に宣(の)っていることが、客体です。

物質とは木偶の坊とも言われるのですが、彼は心にどのように写って欲しいのか、あるいは心に命令をしてどのように写し取れと言うのでしょうか。木偶の坊がこんなことを言うはずはないのですが、意識に宣(の)る物があり、それら同士で喧々諤々の騒動が日々起きています。意識主体側の問題であるとするだけなら物質側もこんな楽ちんなことはありません。相手が勝手に受け取っているだけということですが、それにしても物質側に怪人二十面相よろしくそれなりの原因となるものがあるからでしょうか。

物質側に喋らすようなことを言っていますが、喋るわけはないし、しかし喋るとしたら意識の何に対してどこに対して喋りかけてくるのでしょうか。わたしは美しいから綺麗といって頂戴とでも言うのでしょうか。ところが同じ物質を見たものがなんだこの醜さはということもあります。物質には主体性はありませんから、やはり綺麗とか醜いとかはいわないでしょう。

しかしそこの部分をより抽象しますと、綺麗なり醜いなりと言わせるものを持っているといえます。つまり、綺麗醜いを超克した人間側の意識に働きかけるものがあります。

痛いとか木の根っこだとか石ころだとかの意識の現れを言わせる世界があり、物質世界は物質世界として人間意識に同じ次元で対応していきます。

意識から独立して存在するものに対応しているのは、単に意識というだけのもので、綺麗とか石とか根っことかの具体性の世界ではありません。逆に言えば石ころとか木の根っことか具体性を持って言われたものは、意識から独立して存在している物の次元にはないということです。

それは、物というものではなく、石ころという物、木の根っこという物として名指しされているものに対応しています。意識から独立した物の世界のものではなく、意識から名指された物の世界のものです。名指す方と名指された方とは同じものを言いますが、構造が同じだからといって同じ次元にあるとはいえません。

人が物に名指す言葉を持つまでには、次元の違う同じ言葉を使うものです。この同じということが言霊循環になります。

飛躍の連鎖 = 変態の連続 = 言霊螺旋循環

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路傍の石ころを石といって確認するまでには、ほんの瞬間のことですが、この瞬間にはそれぞれのその人の全歴史世界があらわれています。石ころの方もそれがそこにあるに至った全宇宙の歴史があると言うことでしょう。こうした一見はったりの様なことを言うのは他でもありません、石ころを指して石と言うだけのことにも、全宇宙史の縮図があるからです。

客体論を簡単に意識のあっち方のものとしてそれで終わっていますが、石ころが宇宙の全歴史を背負っているように、石ころを意識して言葉に載せてそれを石と名指しするのも、それなりの宇宙史が瞬間に凝縮されています。

物である石ころがここにあるまでの変転がなるように、石ころを石と名指しする意識にもそれなりの変転があります。表面上は石ころがあって、見て、石、と言うだけのようですが、その石と言う歴史を五十の経過にして説明しているのが、古事記というわけです。

客体である石ころを感覚を通して知ると言いますが、石ころが頭を訪問してわたしを認識してくださいというわけではありません。だから五感を通してと言っているじゃないか、と文句が来そうですが、五感が語るのは五感でしかありません。五感は石とは言いません。

五感を介しているのは間違いのないことですが、どうやっても「石」と発音させることはできないのです。

そこから進んで石と発音させるために、大脳生理学や脳内科学や心理学やらが言語発生と関連づけられて語られるでしょう。言語学を主にしていけば発音と関連する脳内科学が引用されていくでしょう。

しかしいくら頑張っても、石ころから石という発音は出てきません。

つまり、意識から独立した外界の事物を客体といったところで、そこにある石ころを石という言葉は発生しないのです。

それなのに、石と言っているし、石といえばそこにある石ころのことと了解されます。

これは問題の取り方を転換しない限り解決できない問題なのです。

よく注意してみると、「石」と名付けられたものを発声しているのは、意識の産んだ産物現象なのです。意識の現象のあるものが「石」となっているのです。

その一方で、石ころは感覚さえ生むことはないのです。

石ころは自分で飛んできて頭に当ることもなし、当たっても痛みを感じることもありません。

それどころか、客体とは感覚を通して知ることができるものどころか、感覚は客体を通して知るものなのです。

これは言葉の順序を変えた遊びでしょうか。

実は順序を変え主語を変えても言っていることは同じなのです。例えばトンボの変態成長があります。人も受精卵から赤子の出産、幼児期、少年期、青年期、中年期、老年期と変化成長していきますが、何の誰ベェあるいは人という一般性の元に違いを現していきます。

同様なことが言葉にもあるのです。通常は物を指して物の名前をいうだけのようにとられていますが、実はぞれが了解されるには十四の異なった意識の領域を渡ることによって現れるというのが、古事記の主張です。つまり意識の世界は瞬時の内に十四の変態を経ていくということです。眼前の石ころだって宇宙の塵から溶岩を経てここまでくるのにどれほどの変化を経験したことか。

自分の頭の中の客体

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自分の見聞きし感じ感じたこと思い考えたことが、実は自分の頭脳内に対象化された客体を作っているということを知るのは、結構難儀なことです。意識の進行は主体意識の進行、私の考えたことの進行として現れていますので、自意識がそのまま出てくるものとして扱っています。

画面を見ているのも自分が電源を入れる主体性から始まっているというつもりです。

しかし、行動を起こして何かの現象を得たということは結果となったもので、その結果を導く現象以前から導かれたものです。

そこにあるのがイメージ観念の物象世界であり、それを導く頭脳内の世界であり、それを構成している先天言霊世界なのです。

この先天言霊世界はその現れは個別的ですが誰にでも共通の先天原理から出てきます。

先天原理として普遍的でありながら、主体的個別的に出てくるという謎を解けばいいのです。

とはいっても、その謎は先天原理自体に含まれていなければ意味のないことです。なぜなら、原理自体に転轍機の外れる原理が無ければ、後に問題となり間違えといわれ、平和と調和を破壊するものとなり、悪となるといわれているものに光を当てるには、外部からあれやこれやの主張や力を持ってするしかなくなるからです。

その場合には常に作用反作用の闘争が起きます。

原理内に元々含まれているものなれば、自分が気付けばいいだけです。

つまり、自分が主体的に運用している自分にある客体を見ることになります。こういいますとわざわざ客体化して客観視するように思われますが、そうではありません。元々ある客観側を定立することです。

比較対照によって基準を持って判断することではありません。自分自身の背中をみることです。

では石っころを意識に載せるにはどうするのでしょうか。

感覚を介してと言いますが幾ら見つめても幾ら抱きしめても、石っころは石ころです。けっして石と名付けられるものにはなりません。意識から独立して存在する外界の事物と言い、五感を通して知ることができると言いますが、感覚が知るのは自分の感覚だけで石を知ることはないのです。

つまり知った感覚は決して石とはなりません。石ころを見るのは可視光線と共感できる人間の視覚構造上の共感から得ることで、それを見ても、石とか物とかいうことはありません。石とか物とかいうものはどこからか持ってこられたものでしかないのです。可視光線が脳に載る構造は生理学や脳内科学で明かされるでしょうが、その成果を借りて石と言う意識が発生したとはいえません。

意識は意識の領域で最初から意識の構造内の過程を経過していかなくてはならないのです。

石ころを見て石という意識を得るときには、石と言う意識の全世界宇宙がまず打ち立てられなくてはなりません。

石ころという物質から始めるのではなく、石ころと言う意識から始まるのです。

こう言えば直ぐに問題が指摘されます。石ころという物質でなく石ころという意識などどこにも無いじゃないか、と。目前の石ころを見て、石があると名付け言うのに、石ころの意識がまずあるのなら、眼前の石はどうなっちゃうのかということです。

しかし、よくよく注意して見てください。眼前の石ころを見るときのことを。

石ころがあるのに気付くことをスローモーションで逆に見直してください。

わたしたち生きた人間の眼を持った者が石ころをみる始めのときのことを。

意識から独立して存在する外界の事物はありましたか。視覚なら可視光線が、触覚なら感触が、嗅覚なら匂いが、等々と感じられますが、そこにあるのは「石」や「物」ではなく五感の物理作用反作用等であって、五感そのものです。五感は「石」という表象「物」という表象は知らないのです。ですので、「ある」という表象さえ持っていないのです。

「ある・石・物」等は意識によって名付け与えられたものです。

意識によって名付けあたえられたものがあまりにもあるものに近く、物といえば「物」、石といえば「石」、あるといえば「ある」とくっついているので、まさに言えば「ある」と勘違いできるのです。

空を見ろ、スーパーマン(飛行機、石)といわれてそれらが「ある」わけではないのです。

問題は最初から、意識内のことを扱うことです。意識内の客体の成立が五感による感触とあまりにも近いこと、あるいは得られた概念知識があまりにも記憶に似ていること、あるいは感動感嘆があまりにもそのものを現しているように思えること、あるいはこれから選ぶことがあまりにもそこで得られるように感じられること、等が問題なのです。

そういった類似した心・意識の獲得がそのまま相手側の物の世界を背負っている表裏不離を構成している言葉の不思議を解明することが問題です。

意識の外にある石の世界はその石自体に語らせればいいのです。

そして意識の内にあるものは意識が成るがままに語るようにします。

客体論のはじまり

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ここからが客体論の始まりとなります。なんと締まりのない冗長な駄文を書き連ねてきたことでしょう。実質的な内容は何も無いものだから説明に説明が重なりました。丁重に説明しようとしまいとその本人が持っていること以上のものは出てきません。書く方の水準が現れるだけです。読者側に余計な負担をかけ無駄な時間を費やさせてしまったかもしれませんが、読む方とて読み方の水準内にいるだけです。

こうしたどっちもどっちな、両者に共通なものを提供しているのが、ここでいう客体と呼ばれるものです。客体は意識から独立したものというのではなく、意識そのものとして正解も誤解も、充分さも不十分さも秘めているのです。

意識から独立した客体は意識の語る対象とはなりません。

意識の語る客体とは意識内の客体です。書く方も読む方も、読んで感想を述べる方も皆この客体に秘められているのです。それぞれの火が輝きますが輝く範囲はそれだけのものです。問題は全体の輝きを得ることです。

そうするとこういうことになります。見るという簡単な意識活動を例にとります。

見て何かを認識しているということがすでに何か客体が出来ていることです。

ですので何か客体が出来てしまっていることから事を始めることが出来ません。

認識する主体にとっては、現象結果として客体を見出すのですから、意識の外にある物には手を出さないのです。

道端に石ころを見て、石という時、その石に付いた意識が石と共に現れます。人はその内の自分の意識のどれかを石に付着させ石として意識します。得体の知れない領域にある霊魂だとか心霊だとかを語らせれば、物的な客体化がハッキリしない分だけ、自分の意識を載せていることを主張せざるを得ません。とんでもない事も平気で言い張る事になるのは、物質化される客体としての存在が希薄なお蔭です。

ここに意識と意識ののる物象化されたものと現れた物質とが一致同一ならば、皆の同意が得られるものになります。しかし百花繚乱十人十色のこの世にそのような事を要求するのは無理な事と思えますが、唯一の取り柄である言語活動で社会は繫がってきました。いままでは十色の個人色を塗りたくる事だけで運用されてきましたが、スメラミコトによって完成させられていた意識の運用法が大和日本から甦る事になりました。何

石ころを見て、石への意識が様々である現象となった主張から出発するのではなく、それらの全部とこれからの全部をひっくるめて石ころに秘められている、そしてまといつくようになる人の意識の出所から始めればいいのです。

自分の意見はこうだと結果を喋るのではなく、こうなって出てきたものだと自覚すればいいのです。

自分の出所を知ることは百花繚乱の百花内の時処位を自覚しなければなりません。

物質世界の客体と意識世界の客体

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二つの客体世界があります。物質の客体世界と心の客体世界です。そこにある物質もそれぞれの成り立ちの歴史を持つように、心の客体もその成り立ちを持っています。

ところが客体とは出来上がった世界を指すことが多いので、あるものあってしまったものの世界を指してしまいます。そうしますと成り立つ過程にあるものでも同じ言葉で指しますから、時処位の違いにも係わらず同じ言葉から混乱が起きてきます。

客体とは意識から独立した物であるというのもその混乱の表現です。目前の石ころを見て石と感じ石と意識して石と言って石と聞いた場合、みんな石で共通していますが、これは石です、という発音による指摘は鼓膜を叩く空気の濃淡に過ぎません。

客体とは意識から独立した物であるも、画面上の光点であったり、音声であったり、乾いたインクであったりで形成された物の変形したものです。

それでも通じるのはインクの染みに概念が載っているからで、書物のように特別な形をしたインクを並べているだけの物の世界や、空気振動を生むスピーカーという物の世界などもあります。

物としての客体だけ見ていけば何ということはありません。意識の無い客体です。

何故なら概念やイメージ乾いたや表象が介在していないからです。

それなら 概念やイメージや表象 など、そして言葉はどこにあるのかといえば、物象化された頭脳内のどこかかにあります。しかしそれらの過程を刺激や化学物質によって再現しようとするのは、物質の客体世界を探すことです。

こうしてまた同じことへの逆戻りをしてしまいます。これは科学世界の解明発展になりますが、心の構造の解明とは別次元の話です。

脳髄と心の関係、対応する部位の解明、刺激や薬品での心の現れの制御等が出来るようになるでしょうが、心を解明したことになりません。あくまで脳髄の物理構造が明らかになっていくことで、心とは何かが知られるようになることではありません。

おおいに参考となる科学的な成果を得られることでしょうが、一万年前にスメラミコトによって解明された心とは何かに到達は出来ないのです。

科学のかの字も知らないのに偉そうな能書きを垂れています。スメラミコトの名を語るのも許されることじゃないという方もいることでしょう。

いずれにしても自分の心に照らし合わせることにしていけば、自分の心に思っていたことが出てくるでしょう。

タカアマノハラ・頭脳に客体が宣(の)る (淡路の穂の狭別の島)

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古事記の出だしはこうでした。

【 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

天の御中主(みなかぬし)の神。次に 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 神産巣日(かみむすび)の神。

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。 】

客体論にしろ何にしろ全て同じです。

古事記は心の原理論なのですから当然のことですが、その運用はどれほど知っているかにより、知っているところまでを誰もがでかい顔をして出してきます。原理を知っているスメラミコトにしてみれば、われわれのやることなど箸にも棒にも引っかからないことでしょう が。

われわれはそのお蔭で勝手なことが言えるし言い合っていけるのです。どこかに暗黙の保障があり公正な規範があるという規範を思う心があるからこそ、一人一人でいられるわけです。もし絶大な親心の元にいなければ、個の主張は不信の元に壮絶な戦いにさらされるでしょう。

いままでは宗教的な創造主がその立場にいましたが、一向に未来の安心を見せてくれません。努力目標を授けられていますが、その内実は全て抽象的なもので内実がありませんでした。

その替わりに物さえ身の回りに備えおけば安心さえも買えるようになりました。物質文明は精神の不足分を補っていますが、また物質の不足も宗教で補うようになっています。

ところが両者は相容れず合一される見通しはありません。両者共に心の生産現象の現れなのにそれぞれに相手側を見て受け入れる眼がありません。両者には相手を高めつつ自らを高めることが欠け、自らの身を削ぐことで相手の身を削ぐことへの同意を得られていません。しかしそれぞれの主張だけは展開していきます。

自分に都合のよい方向は見つけ、その心の中だけでの完成をめざし主体内だけの真理を打ち立てようとしています。それを客体世界にて確認し了解され自証し他証するものにしようとはしていません。

宗教も物質生産もスメラミコトの心の原理活動の一部ですが、他者がある事を全体的に見る眼がないということです。どんなことでも自証はしやすいものです。少なくとも自証を得られるように自分の心を運用しますから、都合のよいところを得られた途端に、自証を目指していたことも忘れ一般化し全体へ引き延ばしていきます。

フトマニ言霊学は何かを意識した時には、そこにはその人の意識の何かが宣(の)っていることを認め、客観的な石ころ自体が宣(の)るというようなことは、無いとします。無いというのは物質同士の相互作用羽蟻それら通しを解明するする世界はあり、そのために意識の不要な世界もあるということですが、いわゆる、科学世界は科学世界が語るということです。

人間にとって一度意識に昇ったものがあるということは、すでにその人の何ものかがそこに生まれていることです。客観的な物としての石ころとよく言われますが、物としてそこにあることを、石ころそのものとして意識は出来ません。そのごく近い形での意識の仕方は概念によるものですが、概念というのもその人の人となりを経て得た過去知識なので、科学的な知識量なり質なりの現れで石ころとしては、最終的には「石ころ」という言葉だけになります。

この「石ころ」というのが最も物としての石ころに近い形で表象されていきますが、同時に物としての石ころに最も遠い一般概念、言葉だけ、原理上の石ころ、になってしまっています。

ですので問題はこの最も近くて最も遠い同一性を同時に説明し、同時に個別的になる理由を説明してあげればいいわけです。

その場合に科学的な解明は科学に任せ、こちら側の意識上の客体のイマココでの生成確認了解を説明することになります。

そこで、石ころを見て石だという時にはその人の全世界全人生の表明としての石が現れてきます。その現れが個別的でありまた一般的であることを解きほぐし、一般性が物の分析に向かい科学的知識を豊富にしていく道筋と、意識による確認が人間として花開く道筋を示せればいいことになります。

意見の相違がありますから、それらが成り立つ根拠が相違する意見の外にあることを自覚的に見出していければ、それを規範とすることが出来ます。違いがあるというだけでは不十分で、それぞれの出所のその間違え方の道筋を明かし、また訂正して了解するようにしていけばいいことです。

要は、思惟の原理規範を得ることです。

何を持って始めとするか

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石ころを見る始めには、石ころがなければなりませんが、見るには光が要ります。また人間側には受容器官も要ります。それを突き詰めていけば長い系列ができ、その時代時代で変化しています。光が無くても石ころはあるという石ころも最初からあるのではありません。

物理側にこうした長い系列があるように意識側にも長い系列があります。その特徴はイマココという瞬間のできごとですが、書き下せば古事記冒頭の百神による解説になります。つまり意識にとっては瞬間とは百の瞬間をまとめて言うので、瞬間は百の要素から出来ているというのが古代スメラミコトの発見でした。

現代の哲学者が何人かかってこようと不動ですが、古代においてそうであったようにこれから始まる集団での再検討ができれば、今後の日本(世界)にも多くのスメラミコトがでてくるでしょう。

瞬間を百神で説明しますが、百通りの説明があるということではなく、百しかない説明が終わった時に瞬間が説明されるというものです。つまりどこかの誰かの説明は百の内のどれかでしかなく、スメラミコト以外では全体を説明できる方はいません。

では、始めは何かといえば百神全体です。百神全体を一言で言い表して始めとします。

「あめつち」、といいます。漢語表記では天地ですが、テンチと読んではテンとチの物理世界の有り様を得るだけのことで、意識の出番は無く、テンチに見合うように知識を整合させていきます。

既に数千年の漢字表記に慣れていますから、始めは何かと言うとき、天地・テンチの宇宙世界から、というほうが楽に感じてしまいます。それは実在の現象状況を現すのにとても都合がいいからです。それに表象を加え、象徴的な解釈を施して概念思想を創れば何でも言い表すように思えます。

ところが状況となったものや状態を現すのには漢語表記は便利ですが、活動していること、心が動いていること、相手と心を結ぶことには充分な言葉使いを持ちません。

天地・テンチでは有るもの成ったものの状態は説明しますが、有るに至る働き成りつつある動きを説明することは苦手です。

漢語表記では見たものをこうあったそうだったこういうものだったと言いますが、見た物が最初から固定していてその状態を説明するだけです。テンとチで理解されていた状態が現れます。

ところが漢語表記を借りただけで、その読みを「あめつち」にすると事情は変わります。

大和の日本語は単音にもともと実在状態と働き、在り方と生き方が含まれています。天はアメではなく、アとメの二要素の言葉です。

天はアメである前に、ア・メなのです。

アはあたしのこと、吾、現在では私、のことで、わたしの実在状態があって私がいることあること等すべての私に関することです。

メは眼、芽、で何かが現れる以前の集約されている姿です。それが現れれば芽となり、眼で見るとなります。

アメはこの二つが重なり、私がいることにおいて何かが集約されてくること、になります。

私がいることにおいて上を見上げれば空に合い、それが空という天(アメ・吾の眼)になり、私がいることにおいて相手の人を見るときにはそれが私のアメ(吾の眼)になります。私において思いを星に寄せたり愛人に寄せたりして、それを何にでも拡大拡張していけば、そこに現れるのは私(吾)の全体世界つまり天(アメ)になります。

それを状態方面から見れば漢語の天に近いものとなり、働き方面から見れば、私・吾(ア)の眼(メ)を付けて、眼にしたものが(意識したものが)私のアメ(天・世界)になります。大和のアメ(天)はこの両者を含んでいます。

客体の系列その一瞬

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意識に宣(の)る客体の一連の系列の最初は、客体はないということになります。

始めの客体は何なのか探してきたのに、またあちこちで客体を述べてきたのに、ない、とは何事かとなりますが、これは客体という事を指す言葉が次元位相は違うのに同じであるからです。ですのでここでは、ないという客体があると取ってもらえればいいとおもいます。禅の公案で使う異次元の事を同じ言葉で表現するトリックみたいなものです。

今まで客体の対になっている主体という言葉を抑えてきましたが、やはりどうしても相手方がいないとうまくいかなくなってきましたので、これから主体側も頻繁にでてきます。

まず大雑把に客体の系列を述べます。

アメツチの客体。---先天の領域。吾(あ)の眼(め)が付(つ)いて地(ち)になる。

淡路の穂の狭別の島の客体。---問題が提起される領域。

伊豫の二名島の客体。---生き様と有り様が現れる領域。

隠岐の三子島の客体。---経験知識と実践智恵の現れる領域。

竺紫の島の客体。---働きかけが現れる領域。

伊岐の島の客体。---以上先天領域。心の宣(の)る領域。

おのころ島の客体。---ここに自我領域。

津島の客体。---先天がイメージに渡される領域。表象客体。

佐渡の島の客体。---イメージが表象を得る領域。物象客体。

大倭豊秋津島の客体。---以上要素の調和された領域。物化客体。

客体要素としてのカクツチ。---意識が扱う客体。

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吉備の児島の客体。---以下運用領域。前期判断規範の領域。

小豆島の客体。---運用を可能とする領域。

大島の客体。---主観的な判断領域。

姫島の客体。---ここが表出された客体領域。

黄泉国の客体。---ここが客観領域。

知訶島の客体。---無自覚主体のみの真理領域。

両児島の客体。---自覚された他証領域。心からの了解取得。あめつち(吾眼付智)の完了。

これらを全部を一瞬の内に通過し終わった時に客体ができます。そして自他共に了解し合える物を得るときそこに客体が成立します。

客体論の展開は上記を解きほぐしていく事ですが、結局は「あめつちの言霊現象学」の内容と同一のものとなります。

各領域ごとに展開するつもりでしたが、繰り返しを避けるため、今後の概略という形だけにしておきます。

三章へ続く。( 隠岐の三子島の客体。---経験知識と実践智恵の現れる領域、に相当します。)

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