古事記の百神意訳 4 客観世界未完

古事記の百神意訳 4 客観世界

客観表現の規範(姫島)

客観世界・黄泉国(よもつくに)

----------------

客観表現の規範(姫島)

-----------------

【殺さえたまひし迦具土の神の】

--------------------------

『 先に伊耶那岐の命は五十音言霊によって構成された迦具土の神を十拳剣で分析・検討して、斬った主体側の真理として建御雷の男の神という人間精神の理想構造を自覚いたしました。今度は十拳剣で斬られて殺された客体である迦具土の神からは何が生まれ出て来るのでしょうか。

迦具土の神とは言霊五十音を粘土板に彫り刻んだ神代表音文字の事でありますから、斬られる客体である迦具土の神から表われるのは神代表音文字の原理・道理の事であります。言い換えますと、一つ一つの表音神代文字が言霊の原理の中のどの部分を強調し、どの様な表現を目的として作られたか、の分析・検討であります。

古事記の子音創生の所で説明されました大山津見の神は言霊ハ、即ち言葉の事でありました。大山津見の山とは八間のことで、図形で表わされる八つの父韻の活動する図式であり、この父韻の活動によって言葉が現われて来ました。山津見とは八間の原理から(山)出て来て(津)形となって現われたもの(見)の意でありました。

大山津見の神は言霊ハとして言葉を意味しますが、ここに登場する八つの山津見の神は、言葉を更に文字に表わしたものの謂であります。その神代表音文字の作り方に古事記は代表的なものとして八種の文字原理を挙げております。ここに登場します正鹿山津見、淤縢山津見、奥山津見、闇山津見、志芸山津見、羽山津見、原山津見、戸山津見の八神がそれであります。』

「古代大和には非常に多くの神代表音文字がありますが、使用に便利な文字が一つあるだけでも充分なのに何故でしょうか。思うに古代スメラミコトが言霊原理を用いて統治することができるかどうかの試験の結果のような気がします。神代文字は思いついた形や象形を用いた形からではなく、言霊原理に基づいてできている高度な文字ですから、スメラミコトになれるかどうかの試験には丁度良かったような気がします。」

【頭に成りませる神の名は、正鹿山津見(まさかやまつみ)の神。】

----------------------------

『頭は、神知(かし)ら。正鹿(まさか)は真性。言霊原理がそのまま表現される文字の作り方。龍形文字』

「五種の次元層を引き立たせるような文字の作り方。」

【次に胸に成りませる神の名は、淤縢(おど)山津見の神。】

--------------------------

『 淤縢(おど) は音。胸は息を出す所。言葉を発声する法則に基づく文字構成法』

「八種の働きの違いを際立たせるような文字の作り方。」

【次に腹に成りませる神の名は、奥(おく)山津見の神。】

---------------------------

『腹は原で音図上。奥はオを繰(お)る。音図上の文字が調和するような文字の作り方。』

「同じ次元内では良く繫がるような文字の作り方。」

【次に陰に成りませる神の名は、闇(くら)山津見の神。】

-------------------------

『陰(ほと)・子が生まれる所。 闇は繰る。言葉が文字となる原理がよく分る文字の作り方。』

「父韻母音の両方の象徴が合体しているような文字の作り方。」

【次に左の手に成りませる神の名は、志芸(しぎ)山津見の神。】

---------------------------

『左の手・霊足り(全体)主眼。志芸(しぎ)は五十音言霊。文字の書き方に書き方をおく文字構成法。』

「連続して書き続けられるような文字の作り方。」

【次に右の手に成りませる神の名は、羽(は)山津見の神。】

--------------------------

『右の手・身切り(部分)。羽は言葉。言霊の一つ一つの内容を強調する文字の作り方』

「一つと一つがそれぞれ独立しているような文字の作り方。」

【次に左の足に成りませる神の名は、原(はら)山津見の神。】

---------------------------

『左の足は運用法。 原は言霊図。言霊図全体の運用法が分るような文字構成法』

「ある全体を分割して部分を文字としていくような文字の作り方。」

【次に右の足に成りませる神の名は、戸山津見の神。】

---------------------------

『右の足 。言霊図の十列の区別がよく分るような文字構成法』

「ある一点から足していくことでそれぞれ違う文字となるような作り方。」

【かれ斬りたまへる刀の名は、 尾羽張(おはばり)といひ、またの名は伊都(いつ)の尾羽張 といふ。】

-------------------------------------------

『迦具土の神の頚(くび)を十拳剣で斬り、斬る主体である伊耶那岐の命の側に建御雷の男の神という人間精神理想の構造原理が自覚され、また斬られた客体側に神代表音文字の八種の構成原理が発見されました。尾羽張(おはばり)とは鳥の尾羽が末広がりになる姿で、この十拳剣を活用すれば人間社会の文明は彌栄(いやさか)に発展する事が可能となります。その為にこの十拳剣の判断力(分析・総合)に天の尾羽張り、またの名伊都の尾羽張の名が付けられのであります。天(あめ)とは先天または天与の意であり、伊都(いつ)とは御稜威(みいず)の意であります。御稜威とは力または権威という事です。 』

「泣沢女が鳴き騒いで自分にある主体の働きとして八つの機能を見つけました。それぞれは独立していると同時に連絡し合っています。それを統合した姿で表しますと天の尾羽張(おはばり)といひ、またの名は伊都(いつ)の尾羽張で、個別にその現れ、結果を見る方に行くと、表現・文字・作品となります。父韻の主体活動の表現結果となり、直接的には神代文字です。

主体側を活動を開始すると現象結果を生んでしまいます。その生み方は原理的には八つの山津見の現れとなり、思考が精巧であろうとアイデアが奇抜であろうと八つの原理から生まれるものです。

もちろん原理だけを取り上げても何の力もありません。文明創造の中では尾羽張りのように無限に末広がりしていきます。そこで末広がりっ放しの世界での主客の在り方を次段の黄泉国で扱い、その不和喧騒の解決を禊ぎで扱うようになります。」

----------------

黄泉国(よもつくに) ・ 客観世界

------------------

黄泉国とは客観的になった動かない世界のことです。人の創造活動は結果として動かない世界を目指しますから、その時点では黄泉国を創る活動です。

動かない世界に不動な判断規範を適応するのが科学思考で、客観を客観で見ることになります。ここの黄泉国の段落ではイザナギの主観判断の続きとしてその変化発展矯正法を経て、理想的な判断法である禊ぎへの橋渡しとなっています。

イザナギの主体内自身の成長発展ではなく、客観世界に対する扱いになります。

黄泉国・よもつくに

----------

イザナギは活動主体ではありますが、動かす相手がいないことには自分の動く場がありません(トヨウケ)。

そこで黄泉国をヨモツクニと読みヨモツの真意を表すような漢字を配当すると予母都・四方津・黄泉・ヨモツとなり、予めなる母の都、言霊原理から見て受け入れる四方全てに渡る国、創造文明の源泉のきざす(兆す)国等になります。

トヨウケヒメを受けてワクムスビが働き、元をただせばウマシアシカビヒコヂを受けて天のトコタチが出てくる関係と同じです。

黄泉国の次段は禊ぎになりますが、あったものに囚われる世界から精神の脱皮・変態を行なうのが禊ぎの行法(思惟方法の創造変態)です。

【ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。】

----------------------------------------

『 文章をそのまま解釈しますと「伊耶那岐の命は、先に高天原の仕事を終え、本来の自らの領域である客観世界の国である黄泉国(よもつくに)に去って行った伊耶那美の命に会いたいと思い、高天原から黄泉国に伊耶那美の命を追って出て行きました」という事になります。

けれど事の内容はそう簡単なものではありません。伊耶那岐・美の二神は共同で言霊子音を生み、生み終えた伊耶那美の命は客観的文明世界建設のため黄泉国に去って行きます。

伊耶那岐の命は唯一人で五十音言霊の整理・運用の方法を検討し、終に自らの主観内に於てではありますが、人類文明創造の最高原理である建御雷の男の神という精神構造を発見・自覚することが出来ました。

さてここで、伊耶那岐の命は自分の主観の中に自覚した創造原理を客観世界の文化に適用して、誤りなくその文化を人類文明に摂取し、創造の糧として生かす事が出来るか、を確認しなければなりません。その事によってのみ建御雷の男の神という主観内真理が、主観内真理であると同時に客観的真理でもある事が證明されます。以上の意図を以て岐の命は黄泉国に美の命を追って出て行く事となります。

この文章に黄泉国(よみのくに、よもつくに)の言葉が出て来ました。古事記の中にも上記の二つの読み方が出て来ます。特にその欄外の訳注に「地下にありとされる空想上の世界」(角川書店)とか、「地下にある死者の住む国で穢れた所とされている」(岩波書店)と書かれています。また「黄泉の文字は漢文からくる」ともあります。すべては古事記神話の真意を知らない人の誤った解釈であります。黄泉(こうせん)の言葉は仏教の死後の国の事で、古神道布斗麻邇が隠没した後に、仏教の影響でその様な解釈になったものと思われます。また「よもつくに」を予母都国、または四方津国と書くこともあります。予母都国と書けば予(あらかじ)めの母なる都の国と読めます。人類一切の諸文化は日本以外の国で起り、その諸文化を摂取して、言霊原理の鏡に照し合わせて人類全体の文明として取り入れ、所を得しめるのが昔の高天原日本の使命でありました。四方津国と書けば、その日本から四方に広がっている外国という事となります。また外国は人類文明に摂取される前の、予めなる文化の生れる母なる都、という訳であります。』

「自分とか、私とか言う場合、自分自身、私自身という言葉になるように、一人一つの自分、私がある・いる積りでいます。しかし、自分と言うや否や、自分と言った自分と自分と言われた自分の両者が立ち上がり、その両者間を確認する天之御柱と八尋殿が建っています。

イザナミはイザナギの片身で自分自身の客体側となった姿です。

黄泉国ではイザナギは自分の姿を見るのに、イザナミと同じ客観側になって不動の規範から判定する立場とギの命本来の立場との二者を経験します。そこで両者の乖離に驚き黄泉国を後にします。

そこでまず黄泉国の客観物質世界にどのように入るのかからこの段落は始まります。」

客観世界を見るとは。

----------

【ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。

ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。

かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。】

【ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、】

-----------------------

『 縢戸をくみど、とざしど、さしどなどとの読み方があります。また殿の騰戸とする写本もあります。この場合はあげど、あがりどと読むこととなります。縢戸と読めば閉った戸の意であり、高天原と黄泉国とを隔てる戸の意となります。騰戸と読めば、風呂に入り、終って上って来る時に浴びる湯を「上り湯」という事から、別の意味が出て来ます。

殿とは「との」または「あらか」とも読みます。御殿(みあらか)または神殿の事で、言霊学から言えば五十音図表を示します。五十音図では向って右の母音から事は始まり、八つの父韻を経て、最左側の半母音で結論となります。すると、事が「上る」というのは半母音に於てという事となり、騰戸(あがりど)とは五十音図の半母音よりという事と解釈されます。高天原より客体である黄泉に出て行くには、半母音ワ行より、という事が出来ます。騰戸(あがりど)と読むのが適当という事となりましょう。 』

「今までの話は全て頭脳内の意識の出来事です。ここではその意識からの出方を解説しています。

意識から出れば何になるかといえば、物質になります。人には物質の受容器官感覚がありますから、それらの作用反作用になっていきます。

これはトヨウケの姫の物象上の形象を意識に載せる逆の出来事です。 人はここでトヨウケを介して出たり入ったりしていきますが、トヨウケの持ち来らすものあるいはトヨウケに託し出すものは、五感感覚上のものに限らず御柱の内容全部に係わります。

この黄泉国の段落では読み方を変えれば、意識の落ち込む間違え方とその訂正の仕方が明かされるところです。」

ギの現在位置・・・高天原の精神界で主体的な主観規範の中

ギの現在の働き・・・高天原を去ったミの命の世界と二人で産んだ子(表音文字)の世界があることを知って、ミの命と子供の世界にも自分の精神規範が有効であるかを確かめたいところ。

ミの現在位置・・・高天原の精神世界を出た現象(子音)で作られている客観世界の中。

黄泉国の位置・・・現象子音となった表音文字で構成される表現された客観世界。

客観世界の位置・・・ミの命の世界と、黄泉国と客観物質世界とは同じことの三つの表現。主観意識の相手対象がミの命で、主観意識行為の対象となっているのが客観世界で、客観世界の集合体が黄泉国。要するに主観的な判断規範の対象となるのが客観世界であり黄泉の国。

(つまり、禊祓の後は単なる主観的な判断の対象ではなくなっている。)

【伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。】

-------------------------------

『伊耶那岐の命は伊耶那美の命に語りかけました。「愛する妻神よ、私と貴方が力を合わせて作って来た国がまだ作りおえたわけではありません。これからも一緒に仕事をするために帰って来てはくれませんか。」

岐美の二命は共同で言霊子音を生み、次に岐の命は一人で五十音言霊の整理・運用法を検討し、

建御雷の男の神という文明創造の主観原理を確認しました。

この主観内原理が客観的にも真理である事が確認された暁には、また岐美二神は力を合わせて人類文明を創造して行く事が出来る筈です。

ですから帰ってきて下さい、という訳であります。 』

「既に主観内原理を確立してそれを持って文字表現しています。つまり言いたい事を言って自己主張が出来ていることです。それにも係わらずまだ終わっていないというのは、イザナギが十拳の剣を使用しているからです。

先天的に促される完成への過程がやり残してあるという思いです。それは自分のしていることにタカマハラナヤサの規範で対応していないという思いです。」

【ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。【】然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、】【かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。】

【かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、】

【蛆(うじ)たかれころろぎて、】

【頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。 】

【ここに伊耶那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ時に、】

【その妹伊耶那美の命、「吾に辱(はじ)見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。】

【ここに伊耶那岐の命、黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき。】

【こを摭(ひり)ひ食(は)む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、またその右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄(う)てたまへば、すなはち笋(たかむな)生りき。【】こを抜き食(は)む間に、逃げ行でましき。】

【また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。】

【ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、】

【なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、】

【その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。】

【ここに伊耶那岐の命、桃の子に告(の)りたまはく、「汝(いまし)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、患惚(たしな)まむ時に助けてよ」とのりたまひて、意富加牟豆美(おほかむづみ)の命といふ名を賜ひき。】

【最後(いやはて)にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ来ましき。】

【ここに千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、その石を中に置きて、おのもおのも対(む)き立たして、】

【事戸(ことど)を度(わた)す時に】

【伊耶那美の命のりたまはく、「愛(うつく)しき我が汝兄(なせ)の命、かくしたまはば、汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむ」とのりたまひき。ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝(みまし)然したまはば、吾(あ)は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。ここを以(も)ちて一日にかならず千人(ちたり)死に、一日にかならず千五百人(ちいほたり)なも生まるる。】

【かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。】

【またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神といへり。】

【またその黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。】

【かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。】

------------------

5章に続く。

自覚された経験知を元とする判断規範(知訶島)

自覚的に主客を統合できる世界創造の判断規範(両児島)