5 言霊循環とは何か

言霊循環とは何か。

古事記は子・事記で子現象の事を記したものです。ずらずら出てくる神名を追っていきながら、古事記が「神」の事を描いたものではなく、「子」の事を記したものであると見て取るのは難しいことです。しかし、既に古事記の秘密は解読されていますので、その解読の記された言霊学を頼って意識の循環を「子」現象を創造する人間の意識行為して見てみます。

循環はその各時点で生成消滅があり、全体が無から無へのあるいは有から有への創造としてあります。それぞれの経過が特徴的に出てきてそこに留まりますと、循環や事の始まりが無いようにさえみえることもあります。

そのような現象を取り上げ抜き出してみることも出来るという過程の意識の状態を示してみましょう。

人間の意識に関することは全て古事記の冒頭に原理として現されています。うまく見つけ出して適応する訓練が必要となっています。

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あ・め・つ・ち・の循環。

十七神の循環。

五十神の循環。

無意識の循環。

意識的な循環。

百神の循環。

循環は、あめつち、十七、五十、無意識、意識的、な循環が百の循環の中を循環しています。

分かりきっていた言霊原理(フトマニのこと)をさらに秘密の呪文にした古事記が書かれた当時とは違って、現代では百神をずらずらと書き出せばそれで通じるということがなくなりました。千三百年前には太安麻侶のような役所の人間も、提出された文章を受け取った天皇も、冒頭に書かれていることの内容が分かっていました。

今では現代風の解釈でなければ認められませんが、認められたところでそれが真理であるという保障などないのです。また近代科学的な思考と考証が幅をきかし物証の提出がないと確証が得られないという精神状態にあります。

どれもこれもいずれも、古事記の心の原理が解明できていないので仕方のないところです。時の来るまでは理解されることのないように古事記は書かれたものですから、文句のいいようも、訂正したくて張り切っても事は起きません。

明治期に入って開陳の時は至りましたが、理解と適応はこれからのことです。

言霊循環とは何かをできる限りやっておきましょう。やるというのは古事記の記述に合わして真似てみることです。人間には意識の真理確証の基準となるものは古事記にしかありません。(物質世界には科学がありますが。)古事記にしかないなどというと、頭を疑われるのが今日の状況ですが、そのように思わされていたことが後々には明らかにされるし、その時には学校教育でも言霊学の修得は通常のこととなるでしょう。と同時にこれまでの思想のそれぞれの位置づけが与えられ貢献の仕方が明かされるでしょう。

今回の問題は循環とは何かを取り上げ、言霊循環の要素が出来上がっているところから始めてみます。

できあがったものがありそれを受け入れることは無意識的な始まりですので、無意識の循環から始めますが、一度意識に乗ってしまうと、意識的に事が運んでいる積りになれます。それが出来ると思えるのは誰にもあめつちの原理が備わり運用されているからですが、この運用が無意識なので、無意識というわけです。自分の様々な分析や整理の努力が有るように感じられますが、無意識を祓い去ったものではありません。

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以下は古事記の冒頭五十一神目から始めたものです。五十神までで解説されなければならない用語などは既得のものとしていきますので、引っ掛かりのある場合には冒頭五十神までの説明を参考にしてください。

現代は真の古事記理解の過渡期ですから、古事記による「神」の記述を引きづっていますが、将来は消滅するものです。消滅後の新しい用語なども必要となります。あるいは古事記の「神」名の用語があまりにも見事なので、そのまま使われるかもしれませんが。

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言霊循環とは何か

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始まりには始まりを意識する構造様相があります。「言霊循環とは何か」というのなら、循環という言葉を知っていて、循環とは何だろうかと思い至る時から始まります。

古事記において始まりの秘密の言葉は、「アメツチ(天地)」です。吾(ア)の眼(メ)を付(ツ)けて智(チ)と成すのことで、それによって神さんたちが成りでてきます。

言霊循環とはと問う各人の意識(吾の眼・アメ)があって、それが向かう対象に付いて智恵(ツ・チ、土)と成り、それがとりも直さず各人の天地世界のことです。

では勉強して吾の眼を様々な方向へ向け、知識を増やせばよいのかとなれば、そういうことにはなりません。古事記において五十一神目から始まる意識の運用編の直前に一文が挿入されている通りなのです。

この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。

この子というのは言霊子現象(アイウエオの五十音)で、既に創造してしまったので、これ以上は子を産めないということです。

つまり意識による創造表現には五十音以外には必要がないということです。どれほど科学技術が発展しようと言葉の要素が万単位億単位で増えることはないのです。億万とあるのは組み合わされた五十の要素です。

各人の吾の眼が全く新しいものを見つけ創造したとしてもその表明は五十音から出ることはありません。どんな斬新なアイデアも大昔に創られた五十音を超えられないのです。

そこでどういうことになるかといえば、千も二千も新しい言霊要素を創ることは出来ませんが、あるものを全部吐き出して整理検討見直し組み直して規範にしていくことはできます。

ですのでまず最初に、「言霊循環とは何か」という吾の眼たる各自の意識を吐き出し、持ち駒の確認をすることになります。

持ち駒によって受け入れも今後の方向も変わります。同じ事を読み聞き見ても持ち駒の容量に左右されます。古事記では次のように続きます。

たぐりに生(な)りませる神の名は

たぐりというのは反吐のことで、胃袋に納まっているものを吐いたものです。つまり意識に納まっているものを確認検討してみるということです。

始めて言霊循環なる言葉を聞く人は意味も内容も分かりませんが、言霊なり循環なりからイメージができます。またその用語を知っている人は知っている過去知識の概念を用いて判断します。いずれの状態にしても当初の吾の眼である私の意識の上にのっかかって来るもので、受けるも捨てるもその人によります。その意味では始まりも今後のことも十人十色ですが、いずれの人も五十音図から一歩たりとも出られないのは万人共通です。

つまり、色々な反吐を吐きますがたぐり寄せられるものは五十の要素以外ではないわけです。当初に意識にあったものも複雑化するものも、五十までの要素の追加か得ている要素間の連結となります。

約百の物質元素が既に知られているように、意識元素も五十しかありません。

意識の表現、表象、現象は無数無限のように見えますが、意識元素の五十を取り去ったら、自然の音や動物の叫びしかありません。外国語には日本語にない発音があるようですが、母音要素を取り除いたら発音さえできません。例外的に発音されるものがあると指摘されることもあるでしょうし、例外でなくとも日々創造されていく言語表現にはそのような発音を創造して流布して社会化していくものはいくらでもあります。またそのように社会規範や規則が創られていきます。ところがそれらの構成要素には新しい元素は無いということです。

では、例えば英語のth等は日本語のどこにも無いというかもしれません。しかしそれは表現され現象だけを見ているので、表現だけを見ていけば幾らでも奇抜なものも思いも寄らないものもあるでしょう。どこにも魂も意識も入っていないあるいは特定の方向にしか解釈されないようにされているのが普通です。あるいは後から追っかけて意味を追加したりしています。

ですので約束事の解釈の共有がまず求められます。ではそこで求められる意識の内容はどういうものかとなれば、五十の意識元素であるものの適用でしかありません。

世界のどのような言語も五十の意識元素を超えることはありません。日本語はよく翻訳に対応しますが、日本語を訳するには外国語では不十分な意識の持ち合わせしかないようです。

そんなことはないと、翻訳できない日本人に理解できない外国の習慣文化をあげることもあるでしょう。この場合も前記同様となります。伊勢神宮で千年以上も同じことが、毎日毎月毎年繰り返されているものがあるなんてことは外国人には理解できません。これは言霊五十音のワ行を持っている、言霊循環が自然に身についている民族だけが可能なことです。よく宗教上の行事として長い歴史を持ったものが行なわれることはありますが、それは特定集団の共有された価値の持ち主たちの社会的行為となったもので、言葉の魂の次元でのことではありません。

たぐり(へど)の話がとんでもない方向へ行ったようですが、たぐりの内容には上記のものが含まれているということです。

たぐりというのは漢語訳すれば手繰りと表記され、タをククる(田を繰る)となります。何故、田なのかといえば、反吐として出てくるのは個別のものたちですが、その個別のものたちの一つ一つが一枚田の全体を現しているからです。

そこで言霊循環をたぐり寄せることになります。注意してもらいたいのは手繰り寄せる意識の時間です。手繰るを本を読むなり勉強するなりして知識を得るのはこれから経過するだろう時間内でのことで、今現在のこではありません。

スメラミコトの残した古事記の凄いところは、今現在の一瞬に過去現在未来が含まれていることを百の神名を語って説明してくれたことです。

勉強して後から付け加わる循環という言葉の知識のことではなく、その瞬間に持っているその時の人格全体の過去現在未来の全体とその行き先を示してくれることです。

言霊循環ということを知らないならば、つまり、言霊循環という言葉を聞くことが出来るだけであってもそれなりの、過去現在未来の理解がそこにあるというものです。知っているならばその時点で知っているだけのことが吾の眼ですから、それを付けて智となすというわけです。

ですから、循環の在り方は、人が動物が植物が子を産むことだったり、水や炭素酸素の循環であったり、伝えられる言葉だったり文化伝統だったりしますというような説明はもともとそれだけのもので、その上にこれから継ぎ足されるものとなります。出発地点が既得の知識であるので、継ぎ足しもその上に咲く事になり、全体を網羅するものとはなりません。

逆に知識もなく知らなくても、その貧弱な知識の位置づけを守っていけば、広い広い全体という宇宙世界の中での任意の一点にいる事を知っていますから、同時に自分が宇宙の中心であることも納得できる事となります。何故なら無限に宇宙全体が広ければ何処をとってもそこを中心とする事ができます。つまりこうして各個人はそれぞれが宇宙の中心にいることになります。

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