か 父韻の働き・考えると思う

『 父韻資料。実体側が変化する 』

各精神宇宙の言霊父韻の配列。

先天の精神宇宙

(ア)アオウエイ・天の御柱・自己と宇宙全体は統合されてあり、

チ・自己本来はアオウエイの全宇宙を網羅した精神宇宙にあります。

イ・それは宇宙次元全体として動いていきます。

キ・そこに吾の眼が宇宙に向かって付き関心を得る時、

ミ・宇宙にある自己意識がアオウエイのどれかの次元層に向かい、

シ・関心に応じた選択をして自己意識を決めて静め、

リ・その決めたものが発展し自己の意識となり

ヒ・それを言葉として自己に突き立て、

ニ・それを煮詰めて名目とします。

(ワ)ワヲウヱ・国の御柱・かくして自己の次元宇宙の選択と自己表出がなされる。

ウの精神宇宙・あいうえお

○・自分の本性が実は広い宇宙そのものだという自覚がない。それゆえその心の手順の初頭に立つべき母音の自覚を欠く。

キ・最初に母音の自覚があると、その行為は宇宙全体の具体化活動として父韻チから始まるはずだが、自己本来の面目の自覚がないのでその心の手順は、自分の心の中の欲望の一つを掻き寄せること、すなわちキで始まります。

シ・掻き寄せられた欲望の目的が心の中心に静まり不動のものとなる。自我欲望が決まれば、

チ・自己本来の面目の自覚があれば、この父韻の示す現象は宇宙全体または全身全霊などに関係したものとなるはずですが、いまの場合はこの自覚がありませんので、ここではチはその人間の経験知識信条といったのの総体をしめします。

ニ・その達成のために経験知識信条等の全部の中から選ばれた名分が、煮詰められ、

ヒ・その名分に都合のよい言葉が生み出され、

ミ・その言葉が他の人または社会に向かって、

イ・動く。

リ・しかしこの動きは止めども無い欲望の世界へ進展して、極まることがない。

○・父韻の配列がリで終わることは、欲望の目的と思われ追求されてきたものは次の欲望の端緒なのであって、この世界が際限のない流転の相であることを示しています。心中のこれで完結という終わりはあり得ません。そのために最初の母音イと共に最後の半母音㐄をも欠如することになります。

オの精神宇宙・あいおうえ

○・自己の本性即宇宙のなる自覚はない。

キ・何かの現象を見て疑問を感じる時、それを心の中心に掻き寄せ、

チ・その疑問を今まで蓄積された経験・知識全体に照合して、

ミ・今までの知識と疑問とが統合され止揚されるであろう理論を志向して、

ヒ・言葉として組み立て、

シ・検討されて正しいと心に決まれば、

ニ・その理論より行動の名目を立て、

イ・行動し、

リ・次の事態へと発展していきます。

○・この心構えもイマココの一瞬の中にそれ自体で完結した体系でなく、結論が次の疑問の始まりとなり際限なくつづくものです。

アの精神宇宙・いえあおう

イ・人は自己の本性即宇宙であることを自覚します。

チ・それゆえ、宇宙そのものが現象となる韻。ア次元である故、その行動の最初は感情の宇宙がそのまま発露される。

キ・次に、その時、そのところの一つの関心事あるいはテーマが、心の中から掻き寄せられ、

リ・心の中一杯に発展拡大されて

ヒ・一つの表現を得、

シ・その表現が心の中に行動の目的となって固定され、

ニ・そこから行動の名目が定まり、

イ・それが行動となって動き、

ミ・その方向の彼方に目標の実現があるであろうことを指し示し、訴えます。

○・最後がミで終わることは、その指示するものが基本要求であり未来の目標であるに留まり、イマココの一瞬において完結した思考体系でなく、結論は時の経過に委ねられます。

えの精神宇宙・あいえおう

イ・この段階はイチキミヒリニイシヰ の十個の配列で示されます。第一列の母音イの存在は完全自由な宇宙意識が成り立っていることを示しています。

チ・第二列よりの父韻はチで始まります。父韻チは精神宇宙全体が直接現象として姿を表す韻です。

キ・次に父韻キミが続きます。キミは宇宙の中にあるものを掻き寄せ(キ)、

ミ・結び付く(ミ)韻です。ところが今は言霊エ次元にある人について考えているのですから「いま、ここでいかにすべき」の選択の心の構造のことです。とすると掻き寄せ結び付く心の動きとは主体の状態と客体の状況を見定めることを意味します。宇宙意識の前にあって、言い換えますと、何ものにも捕らわれない精神全体の光りに照らされて、主体と客体の実相がはっきり把握されるということです。

ヒ・次に父韻ヒがきます。ヒは表面に開く韻です。把握された主客の双方を満足させ創造に向かわせる言葉が産み出されることです。

リ・その言葉は心いっぱいに推し拡がって(リ)いくと、

ニ・心の底に行動の確固たる名目が定まり(ニ)、

イ・それが心を推進し(イ)、

シ・結論に向って集約していきます(シ)。

㐄・そしていまここにおける心の完成された結論結果が確定されます。半母音ヰで終結します。

父韻

言霊チ。宇比地邇(うひぢに)の神。

宇(いえ、宇宙、心の家、心の全体、人格全部)は地(眼に見えるもの、現実的なもの)と比べて以て近いものだ、天が地と比べて近い。。心全体が地に近いとは、心全体人格全体がそのまま現象となって現れ出てくること。

言霊チとは宇宙全体がそのまま現象となって現れ出ようとする力動韻ということ。ウンジニが宇宙全体がそのまま現象界に姿を現す韻。一瞬に現象化する力動。地に区比べて近い。決心して飛び出すとき。

精神宇宙全体がそのまま現象発現に向かって動き出す端緒の力動韻。

心の宇宙全体がその時その場で全体を現象化する瞬間の意志の韻。

言霊イ。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。

「チ」と陰陽・作用反作用の関係。言霊イは現れ出てきた動きの持続する働きの韻。パッと現れたものが弥栄に延び続く姿。須らく智に比ぶるに近かるべし。智に比べで近い。飛び出した後は言霊イ。それは否応なく自分の智恵に頼らざるを得ません。

太刀を振り下ろす瞬間が言霊チなら、振り下ろされた太刀を持つ手がどこまでも相手に向かって延びていく様が言霊イ。

動き出した力動が持続する韻。

持続性の意志の働きの韻。

言霊キ。角杙(つのぐひ)の神。

判断力で人が生きるために必要な知識、信条、習慣等々を、角を出すように掻きくって自分の方に引き寄せてくる働きの力が父韻キ。

体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻。

掻き操ろうとする意志の働き。

言霊ミ。妹活杙(いくぐひ)の神。

自らの判断力によって(杭)、生活をさらに発展させようと世の中の種々の物に結び付こうとする力動。

精神宇宙の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻。

心の宇宙の中にあるものに真っ直ぐに結びつく働きの韻。

言霊シ。意富斗能地(おほとのぢ)の神。

大いなる量りの働きの地。大きな識別(斗)の働き(能)が土台となるように静まること、。言霊シとは人の心の動きが心の中心に向かって静まり収まる働きの韻。

精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻。

螺旋状に求心的に中心に向かって静まる意志の動きの韻。

言霊リ。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。

大いなる量りのわきまえ。人間の識別の力(斗)が心の宇宙の拡がりに向かって何処までも活用されるよう発展伸長して行く力動韻。

ある精神内容が宇宙の拡がりに向かって螺旋状に発展拡大していく力動韻。

心の中をグルグル駆け回りまさに螺旋状に心全体に発展していく動きの原動力になる意志の韻。

言霊ヒ。於母陀流(おもだる)の神。

表面に完成する韻。物事の事態をしっかり把握してその言葉としての表現が心の表面に完成する働きの韻。

精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻。

言葉として意識表面に完成する原動力となる意志の韻。

言霊ニ。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

あやにかしこき音。心の底の部分に物事の原因となる音が煮詰まり成る韻。

物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻。

事態か心の中心に煮詰まる根本意志の韻。

アオウエ・イ 天の御柱

ワヲウヱ・㐄 国の御柱

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父韻

八つの父韻、チイキミシリヒニの原理解説。

島田正路 「古事記と言霊」講座 その七- <第百六十五、六号>

次に成りませる神の名は、

宇比地邇(うひぢに)の神。次に

妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に

角杙(つのぐひ)の神。次に

妹活杙(いくぐひ)の神。次に

意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に

於母陀流(おもだる)の神。次に

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

右の文章に出て来ます八神の名はすべて言霊父韻を指し示す神名であります。古事記の初めから今までに現われ出ました神、天の御中主の神(言霊ウ)より豊雲野の神(言霊ヱ)までは言霊母音、半母音を示す神名でありました。母音・半母音の宇宙は共に大自然実在であり、それが人間社会の営みの原動力となるものではありません。高御産巣日の神(ア)と神産巣日の神(ワ)が噛み結ぶと言いましても、またアが主体、ワが客体と言いましても、そのアである主体そのものが客体に向かって働きかけを起こすことはありません。実際に主体と客体とを結び、人間社会の中に現象を生じさせるものは大自然宇宙そのものではなく、飽くまで人間でなくてはなりません。そうでなければ、人間自体の創造行為というものはなくなり、創造の自由もない事になり、人間は宇宙の中の単なる自然物となってしまいます。人間という種が万物の霊長といわれ、神の子といわれる所以は、人間が自らの意志によって社会の中の文明創造の営みを行う事によります。

言霊母音・半母音を結び、感応同交を起こさせる原動力となる人間の根本智性とも言うべき性能、それが此処に説明を始める言霊八父韻であります。この言霊の学の父韻に関して昔、中国の易経で乾兌離震巽坎艮坤〈けんだりしんそんかんごんこん〉(八卦)と謂い、仏教で石橋と呼び、旧約聖書に「神と人との間の契約の虹」とあり、また新約聖書に「天に在ます父なる神の名」と信仰形式で述べておりますが、これ等すべての表現は比喩・表徴・概念であって実際のものではありませんでした。言霊学が完全に復活しました現在、初めて人間の文明創造の根源性能の智性が姿を明らかに現した事になるのであります。

これより説明いたします言霊八父韻は、言霊母音の主体と、言霊半母音の客体とを結び、現象の一切を創造する原動力となる人間の根本智性であり、人の心の最奥で閃めく智性の火花であり、生命自体のリズムと言ったものであります。その父韻を示す八つの神名の中で、一つ置きに「妹」の字が附せられています。それで分りますように八つの父韻は妹背、陰陽、作用・反作用の二つ一組計四組の智性から成っています。当会発行の言霊学の書「古事記と言霊」で八つの父韻について個々に詳細な説明があります。そこでこの会報では個々の父韻の説明の要点のみをお話申上げることといたします。

宇比地邇(うひぢに)の神。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。

言霊チ、イ。

上の言霊イは母音のイではなく、ヤイユエヨの行のイであります。言霊チを示す神名、宇比地邇の神は「宇は地に比べて邇(ちか)し」と読めます。宇とは宇宙、いえ等の意味があります。人間の心の家は宇宙です。言霊アの自覚によって見る時、人の心の本体は宇宙であると明らかに分ります。するとこの神名は人の心の本体である宇宙は地と比べて近い、と読めます。即ち心の本体である宇宙と地と同じ、の意となります。宇宙は先天の構造、地とは現象として現われた姿と受取ることが出来ます。そこで宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。

太刀を上段に振りかぶり、敵に向かって「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と、まっしぐらに突進する時の気持と言えばお分り頂けるでありましょうか。結果は運を天にまかせ、全身全霊で事に当る瞬間の気持、この心の原動力を言霊チの父韻と言います。それに対し言霊イの父韻は、瞬間的に身を捨て全身全霊で事に当ろうと飛び込んだ後は、その無我の気持の持続となり、その無我の中に自らの日頃培った智恵・力量が自然に発揮されます。須比智邇とは「須(すべからく)智に比べて邇かるべし」と読まれ、一度決意して身を捨てて飛び込んだ後は、その身を捨てた無我の境地が持続し、その人の人格とは日頃の練習の智恵そのものとなって働く、と言った意味を持つでありましょう。

以上の事から言霊父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」であり、父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。ここに力動韻と書きましたのは、心の奥の奥、先天構造の中で、現象を生む人間生命の根本智性の火花がピカっと光る閃光の如き動きの意であります。

角杙(つのぐひ)の神。妹活杙(いくぐひ)の神。

言霊キ、ミ。

昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。

人は何かを見た時、それが何であるかを確かめようとして過去に経験した同じように見える物に瞬間的に思いを馳せます。この動きの力動韻が父韻ミです。またその見たものが他人の行為であり、その行為を批判しようとする場合、自分が先に経験し、しかもそういう行為は為すべきではないと思った事が瞬間的に自分の心を占領して、相手を非難してしまう事が往々にして起ります。心に留めてあったものが自分の冷静な判断を飛び越して非難の言葉を口走ってしまう事もあります。これは無意識にその経験知を掻き繰って心の中心に入り込まれた例であります。

人は世の中で生きて行く時、この父韻キミの働きを最もしばしば経験します。そしてこの働きは最も容易に認識する事が出来るのではないでしょうか。

意富斗能地(おほとのぢ)の神。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。

言霊シ、リ。

父韻を示す神名の中でこの父韻シ・リの神名からその父韻の内容を理解することはほとんど不可能に近いと思われます。意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。

大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。

於母陀流(おもたる)の神。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

言霊ヒ、ニ。

於母陀流の流の字に琉(る)を当てた本がありますが、言霊的意味に変わりはありません。於母陀流の神を日本書紀には面足尊(おもたるのみこと)と書いており、その意味・内容は更に明らかとなります。ハヒフヘホの音は主として人の言葉に関する音であります。面足とは心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻という事が出来ます。私も時に経験することですが、何かの集会で突然一人の人から「久しぶりにお会いしました。御無沙汰していて申訳御座いません。あの節はお世話になりました」などと親しげに挨拶されます。余りに親しげであり、突然の事とて、戸惑い、いい加減な挨拶を返してそのまま別れてしまう事があります。別れた後で「確かに何処かでお会いした事があるように思えるが、さて何方(どなた)だったかな」と仲々名前を思い出せません。二、三日経って、散歩な心に懸っている間に、次第に心の奥で思い出そうとする努力が煮つまって行き、以前に会った時が何処か、何時か、どんな時か等の事が焦点を結び始め、終に心の一点に過去の経験がはっきり一つの姿に沈黙の内に煮つめられた時、その瞬間、意識上に「あゝ、あの時の木下さん……」と言葉の表現となって花咲いた訳であります。かくの如く心の表面にはっきり表現として現われる時には、心の奥で過去のイメージが実を結んでいる、という事になります。この心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻、これが父韻ニであります。

以上、妹背四組、八つの父韻チイ、キミ、シリ、ヒニについて簡単に説明をいたしました。お分かり頂けたでありましょうか。古事記の神名はすべて言霊の学問に関して禅で謂う所の指月の指だと申しました。「あれがお月様だよ」と指差す指という事です。ですから指差している指をいくら凝視しても、それだけでは何も出て来ません。指が指差すその先を見ることが肝腎です。今までお話して来ました父韻についての説明も矢張り「指月の指」であることに違いはありません。読者におかれましても、この説明にあります力動韻を自分御自身の心の奥に直観されますようお願い申上げます。

父韻のお話に添えてもう一つ御注意を申上げておきます。「父韻の説明を読んで自分の心を探ってみるのだが、八つの父韻がどんなものなのか、実際に心の中に起る何が父韻なのか、どうも分かりません」と言われる方が時々いらっしゃいます。どうしたら父韻の働きが分かるのか、一つのヒントを申し上げようと思います。チイキミシリヒニの八つの父韻がアオウエの四母音に働きかけて、言い換えますと、八つの父韻が母音と半母音四対を結ぶ天の浮橋となって三十二の子音言霊を生みます。この子音言霊のことを実相の単位を表わす音と言います。父韻は母音(半母音)に働きかけて物事の実相の単位である子音言霊を生みます。その子音が生れる瞬間に於いて、その子音誕生の原動力となる父韻の動きを誕生の奥に直観することが出来ます。でありますから物事の実相を見ることが出来るよう自分自身の心の判断力を整理しておく事が必要なのです。心の整理とは心の中に集められた経験知識を整理して、少しでも生れたばかりの幼児の如き心に立ち返って物事の空相と実相を知る事が出来る立場に立つ事であります。その時、実相を見る瞬間に、その実相誕生の縁の下の力持ちの役目を果たす八つの父韻の力動韻を直観することはそんなに難しい事ではありません。

ここまでの説明で心の先天構造を構成する十七言霊の中の十五の言霊が登場しました。言霊母音と半母音ウアワオヲエヱ七音、言霊父韻チイキミシリヒニ八音、合計十五音となります。そこで最後に残りました言霊イ・ヰ即ち伊耶那岐・伊耶那美二神の登場となります。その説明に入ることとしましょう。

伊耶那岐(いざなぎ)の神。伊耶那美(み)の神。

言霊イ、ヰ。

先天構造を構成する十七の言霊の中の十五言霊が現われ、最後に伊耶那岐(言霊イ)と伊耶那美(言霊ヰ)の二神・二言霊が「いざ」と立上り、子音創生という創造活動が始まります。言霊イ・ヰが活動して初めて先天十七言霊の活動が開始されます。この様に言霊イ(ヰ)は一切の創造活動の元となる言霊であります。

「大風が吹くと桶屋が儲かる」という話があります。一つの原因があると結果が現われる。その結果が原因となって次の結果が出て来る。……かくして因果は廻って果てしなく話は続くという事になります。言霊ウの宇宙から社会の産業経済活動が現われます。言霊オの宇宙から学問という分野の活動が起ります。……では何故ウ言霊から産業経済活動が起るのか。……それは人間の根本智性である八つの父韻が母音言霊ウに働きかける事によって現象を生むからです。……では何故八つの父韻は言霊母音に働きかける事が出来るのか。話は何処まで行っても尽きないように見えます。この次々に考えられる原因・結果の話に「止(とどめ)」を刺すのが伊耶那岐・伊耶那美二神の言霊イ・ヰであります。言霊イ・ヰは大自然宇宙を含めた人間生命の創造意志と呼ばれる一切の原動力であり、伊耶那岐・美の二神は宗教で創造主神または造物主と呼ばれているものに当ります。

現代では使われなくなりましたが、昔「去来」と書いて「こころ」と読み、また「いざ」とも読みました。伊耶那岐は心の名の気の意であり、伊耶那美は心の名の身という意味となります。心の名とは言霊の事です。そこで生命創造意志である言霊イ、ヰの意義・内容を次の三ヶ条にまとめて書いてみましょう。詳しい説明は次号に譲ります。(図参照)

一、四言霊アエオウの縁の下の力持ちとなって、これ等言霊を支え統轄します。

二、人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音に働きかけ、人間の精神現象の一切を創造します。

三、生み出された現象に言霊原理に則った相応しい名前を付ける根本原理となります。

言霊イ・ヰは母音・半母音であり、同時に父韻となるものでありますので、特に親音と呼びます。

一、言霊イは他の四母音言霊エアオウの縁の下の力持ちの如くこれ等言霊を支え、統轄します。

母音エアオウの精神宇宙からはそれぞれに特有の精神現象が生れます。次元ウの宇宙からは五官感覚に基づく欲望性能が、次元オからは経験知識という所謂学問性能が、次元アの宇宙からは感情性能が、そして次元エの宇宙からは実践智という人間性能が生まれます。これら現われ出た人間性能の現象は言霊ウの欲望現象より社会的に産業・経済活動、言霊オより一般に学問・物質科学が、言霊アより感情、引いては宗教・芸術活動が、言霊エより実践智、またこれより政治・道徳活動が現われます。しかし言霊イの創造意志の宇宙からは現実世界に現われる何らの現象もありません。

けれど今、此処で活動する人間の心をよくよく観察しますと、言霊ウオアエよりの現象の底に、それらの現象を縁の下の力持ちという言葉の如く下支えしている生命創造意志言霊イの力があることに気付きます。言霊ウの五官感覚に基づく欲望性能が現われるのも、その底に言霊イの生命創造意志が働くからです。言霊オの記憶を想起してその現象の法則探究即ち好奇心が起るのも、その底に生命の創造意志が動くからであり、言霊アの感情性能が現われるのも創造意志あっての事であり、更に言霊エの実践智性能も創造意志が動いて初めて発現して来ます。このように言霊ウオアエから起る諸現象はすべてそれぞれの母音宇宙の底に言霊イの生命創造意志の力が働く事によって発現して来る事が分ります。言霊イは右に示しますように言霊ウオアエを縁の下の力持ちの如く下支えし、統轄します。

第二ヶ条の説明に入ります。それは「言霊イは人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音宇宙ウオアエに働きかけ、これ等四次元からそれぞれ八つの現象の単位を、即ち全部で計三十二の実相の単位を創生する」ということです。この第二ヶ条は第一条の「言霊イが他の四母音ウオアエを下支えし、統轄する」という事を更に詳細に説明し、その上で母音と半母音であるウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱの宇宙の間に入ってその両者を結び、それぞれの次元の現象の単位を誕生させる(言霊イの働きである)八つの父韻チイキミシリヒニなる人間天与の根本の智恵をクローズ・アップさせる説明となります。言葉がやゝ難しくなりましたが、平たく述べますと、「人間はどの様にして外界の出来事を、それが現象として認識することが出来るのか」という人類の認識論という学問が始まって以来数千年間、いまだかって完全な解明がなされていない大問題に最終的な解答を与える素晴らしい事柄を提示したものなのです。こう申上げても何の事だかお分かり頂けないかも知れません。順次説明して参ります。

向うのお寺の鐘の音が「ゴーン」と鳴りました。何故人の耳に「ゴーン」と聞こえたのでしょうか。「そんな当り前の事を言って何になる。お寺の鐘を坊さんが撞いて音が出た。その音を人が耳の聴力で聞いたのだ」と言って納得してしまう事でしょう。けれどそう簡単に片付けてしまえない事があるのです。棒で撞かれた鐘は果たして初めから「ゴーン」という音を鳴らしているのでしょうか。撞かれた鐘は振動して、その振動による音波を出します。鐘はただ無音の音波を出しているだけなのです。そしてその音波が人の耳元に達したとき、人は「ゴーン」という音を聞く事となります。この経緯を合理的に説明するにはどうしたらよいのでしょうか。そこに言霊学独特の八父韻が登場します。

人がいます。向うに鐘があります。鐘が鳴ったとしても、人がいなければ鐘がなったかどうか分りません。逆に人がいたとします。けれど鐘が鳴らなかったら、人はその音を聞く事はありません。どちらの場合も主体と客体の関係となることはない訳です。鐘が鳴り、その音を人が聞いた時、聞いた人が主体(言霊ア)、聞かれた鐘が客体(言霊ワ)の関係が成立します。けれど主体であるアと客体であるワは母音と半母音であり、「身を隠したまひき」であり、その双方共に相手に働きかける事はあり得ません。双方だけではその間に現象は起らない事になります。

「人が鐘の音を聞いた」という現象が生じるのは、主体アと客体ワの他に、根源的な宇宙生命の創造意志である言霊イ(ヰ)の実際の働きをする人間の根本智性である八つの父韻の為す業なのです。八つの父韻が主体と客体を結んで現象を起こす事となります。

では八つの父韻はどんな形式で主体と客体を結びつけるのでしょうか。主体と客体が結び付く時、能動的なのは主体であり、先ず主体側から客体に向かって問いかけをし、客体側は主体の呼びかけにのみ答えます。この事を父韻の働きではどういう事になるのでしょうか。八つの父韻チイキミシリヒニは作用・反作用の関係にあるチイ・キミ・シリ・ヒニの四組から成ります。この四組の中で、濁音が附けられる音チキシヒが主体側の父韻であり、濁点が附けられないイミリニの父韻が主体側よりの呼びかけに答えるものです。主体と客体だけでは決して現象は起りませんが、その間に八父韻が入り、両者を仲介し結びますと、主体と客体の間に現象が生れます。その時、主体と客体の間に入る八父韻の中で、主体側の客体側への問いかけの働きとなるのはチキシヒの四父韻であり、その問いかけに答えるのが客体側のイミリニの四父韻という事になります。主体側の問いかけである父韻チには客体側のイが、父韻キにはミが、父韻シにはリが、そして父韻ヒにはニが答える事となり、その答える時現象が生れます。このチに対してイ、キに対してミ、シに対してリ、ヒに対してニが反応し、答えること、それを主体と客体のリズムの感応同交というのであります。

先に言霊父韻の説明の所で、八つの父韻が四つの母音に働きかけて計三十二の子音言霊を生むと申しました。また主体と客体のみでは現象は起らないが、主体と客体との間に八つの父韻が入り、主体と客体とを結ぶ時、三十二の現象の単位である子音を生むと申しました。その子音を生むメカニズムを、八つの父韻の陰陽の二つの働きに分けて更に詳細に正確に説明した事になります。お分かりいただけたでありましょうか。

上の説明を更に整理してみましょう。人間の心にはそのそれぞれより現象が生れるウオアエの四母音の次元があります。言霊イの次元は、それ自体からは現象を生むことのない縁の下の力持ちの次元です。ウオアエの四次元はそれぞれウヲワヱの四つの半母音宇宙と主体と客体の関係にあります。このウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの四対の主客対立の間にチイキミシリヒニの八父韻が、言い換えますと、主体側のウオアエにチキシヒの四父韻が働きかけ、客体側のウヲワヱにイミリニの四父韻が寄って行き、そこにチイ、キミ、シリ、ヒニの陰陽のリズムが作用・反作用の感応同交を起す時、初めて次元ウオアエの四界層に現象が起る事となるのであります(図参照)。この事を言霊イ・ヰを観点として簡単にまとめて見ますと、図の如き構造が完成します。人間の生活一切の営みは、次元ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの主客の感応同交による四次元界層の現象でありますが、同時にそれは創造主神と呼ばれ、造物主と宗教界で崇められる人間生命意志(言霊イ・ヰ)の根本活動である言霊父韻の働きに依るのである、という事であります。人間の一挙手・一投足の動きはその奥にこの様な大きな内容を秘めているという事を忘れてはなりません。

人が鐘の音を聞く、という現象に加えて、もう一つ例を挙げてみましょう。人がいます。向うに青い葉の茂った高い木があります。普通の常識から言えば、木があり、それを人間の眼の視覚が捉えたという事になります。この簡単な事も心の根本構造である言霊学の見地からすれば、人それ自身は純粋な主体であり、樹それ自体は純粋な客体であり、この両方だけでは両者の間に現象は起り得ません。そこに人間の精神生命の根本の創造意志(言霊イ・ヰ)が働き、両者間を取り持つ時、初めて現象が起ります。ここまでは前例の人と鐘との場合と同じです。この現象を更に細かく説明しましょう。人と木との間に起る現象には四次元、四種類の可能性があります。

先ずウ次元の現象が考えられます。人間と木との間に考えられる現象としては、この木の高さは、また人と木との間の距離は、幹の直径は、……等々の問題です。即ち人間の五官感覚意識に基づく問題です。次にオ次元の現象と言えば、この木は学問的には何科に属する植物か、常緑樹か、落葉樹か、木材として利用の可能性の有無等々が考えられます。アの次元では、この木の写真の芸術的価値を出すのは朝焼け、昼間、夕暮のどれが効果的か、風にそよぐ枝の葉擦れの音の音楽的効果如何……等々でありましょう。そしてエ次元の問題としては、車の往来が激しくなり渋滞が起っている。この木を切り倒してでも道路を拡張すべきか、どうか、等が考えられます。

以上、人と木との間に起り得る現象は四種類が考えられるのですが、それ等四種類の現象は人間が生来授かっている性能がそれぞれ違っておりますから、人と木との間に入る人間の根本智性である八つの父韻の並びの順序も当然違って来る事が考えられます。言い換えますと、人間天与の四性能を示す四母音(ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱ)に対して、生命意志の働きである八父韻はそれぞれ相違する配列を以って対応、感応することとなります。これも言霊イ(創造意志)の霊妙な働きであります。

これまで伊耶那岐の神(言霊イ)の内容の第二について長く説明をして参りました。そろそろ言霊イの働きの第三点の話に入ることにしましょう。この第三点は「第二点の働きによって生み出された現象に、言霊原理に則り相応しい名前をつける」事であります。この第三点は誰も気付かない事で、しかも言われてみればいとも当然の事とも思われ、それでいて人間の生命の営みひいては人間の文明創造の仕事に大変重要な意義を持つもの、と言う事が出来ます。説明して参りましょう。

言霊イ(ヰ)は人間の生命創造意志の次元であります。創造と言いますと、現代人は普通言霊ウ次元の産業・経済活動に於けるビルや道路、飛行場、船舶などの建設、建造を、または言霊オ次元の学問社会に於ける新学説の発見・発表などを思い出すのではないかと思います。更にまた言霊ア次元に於ける諸種の芸術活動、音楽・絵画・彫刻・小説等々の創造、その他各種スポーツの振興等も同様でありましょう。また言霊エ次元に於ける新しい道徳理念の発表、政治倫理の発見等も創造行為と言う事が出来ます。

上に羅列いたしました各次元の活動・行為がすべて社会の中の創造である事に間違いはありません。この誰も疑いを差し挟むことがない事実であることが、若し「○○がなかったとしたら」という前提を許すとすると、それ等すべての創造行為が一辺に「無」に帰してしまうという、その様な前提がある事にお気づきになる方は極めて少ないのではないでしょうか。

「そんな魔術のようなものがこの世の中にある筈がない」と思われるでしょう。けれど極めて真面目な話、それは厳然と存在するのです。それは何か、「名前」です。貧しい家庭の中でも、今ではエアコン、テレビ、携帯、パソコンなどの科学製品は当り前のように見られる世の中となりました。その内部の機械構造は分らなくても、大方の人は操作が出来ます。けれどこれ等の電化製品が発明された時、若しそれに名前が付かなかったらどうなったでしょうか。「テレビジョン」という名前が付けられなかったら、ただ人は「アー、アー」というだけで、テレビの普及どころか、それは世の中に存在しないのと同じで終ってしまうのではないでしょうか。

「何を言い出すかと思ったら、そんな途方もない事を。名が付かないなんて事はある筈がない」と言われるかも知れません。発明されれば、その物品に名前は付けられるでしょう。でも若し付けられないとしたら。……SF小説のような恐ろしい世界が予想されもするのではないでしょうか。

物品に対してではなく、この世に生を受けた人間に名が付けられなかったら、どうなるでしょうか。その人には戸籍がありません。国籍もありません。小学校にも入れません。就職も出来ません。正式な結婚も絶望です。その人の一生は奇想天外なものになるでしょう。「そんな有りもしない事を何故言うのだ」とお叱りを受けるかも知れません。けれど私はそういう自分の名前を持っていない人を一人知っています。先の大戦に出征し、軍隊の仲間は全部戦死し、自分だけ一人日本に帰って来た時は、自分を知っている人はすべて死んでおり、自分の名前も戦死という事で抹殺されて、法務省へ再三の戸籍復活の請求にも「事実を証明する人なし」という理由で却下され、苦悩の中から余生の五十年間を今も尚生きている人を一人知っています。その人がどのような人生を歩まれて来たか、聞く人がいたら多分開いた口が塞がらない事でしょう。

名前がなかったら、という仮定の事について長々とお話しました。人でも物でも、その名前というものは、私達が普段思っているより遥かに重大な事を含んでいるのです。二十世紀のヨーロッパの有名な哲学者、ハイデッガー、ヤスパース等の人達は「物事の実体とは何か、それは名前だ」と言っています。新約聖書、ヨハネ伝の冒頭には「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神と共に在り、万のものこれに由りて成り、成りたるものに一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。……」と説かれています。

上のように物や人の実体であり、生命であり、光でもある名前を命名する根元的な役割、力、生命は何処から出るのでしょうか。それが言霊イ(ヰ)であり、言霊イの第三番目の重要な働きという事が出来ます。八つの父韻が四つの母音に働きかけて生れて来る種々の現象に、それに相応しい名前を与え、この人間社会の生々発展の基礎的役割を果たす事、それが言霊イの第三の内容であり、役目なのです。

言霊母音ウオアエの四次元から生れて来る種々なる建設、発見、発明、主張、学理、理念、これ等は勿論社会の創造物であります。そしてその様な社会の創造物相互の関連ある進展が文明社会の創造発展と言うべきでありましょう。と同時に、それら生み出された現象上の進歩・発展の創造物に名前をつけること、そしてその名前と名前の関連する精神的発展、これも人類文明の限りない発展の実体ということが出来るのであります。

人類社会に創造される物事につけられる名前自体の限りなき発展、それが人類文明の創造という事が出来ます。

以上で言霊イ(ヰ)の三つの言霊学的内容についての説明を終えることといたします。この三つの内容について復習をしますと、――

●第一に言霊イは母音ウオアエ四宇宙の最終・最奥の次元に位して、これら四つの母音宇宙の縁の下の力持ちとなって統轄します。

●第二に八つの父韻に展開して、母音ウオアエに働きかけ、三十二の現象子音を生みます。

●第三にその生まれ出た三十二の最小の現象の実相単位のそれぞれを一個乃至数個結び合わす事によって生まれ出る現象に名前を付けます。

広い広い心の宇宙の中に何かが始まろうとする兆し、言霊ウから次第に宇宙が剖判し、更に宇宙生命の創造意志という言霊イの実際の働きである八つの父韻が他の四母音宇宙に対する働きかけの話となり、心の先天構造を構成する十五の言霊が揃い、最後に母音であり、同時に父韻ともなる親音と呼ばれる言霊イ(ヰ)が「いざ」と立ち上がる事によって先天十七言霊が活動を開始することとなる人間精神の先天構造の説明が此処に完了した事になります。この十七言霊で構成される人間精神の先天構造を図示しますと次のようになります。この先天構造を古神道言霊学は天津磐境と呼びます。

天津磐境

この名前を説明しましょう。天津は「心の先天宇宙の」意です。磐境とは五葉坂の意、図を御覧になると分りますように先天図は一段目に言霊ウ、二段目にア・ワ、三段目にオエ・ヲヱ、四段目にチキシヒイミリニ、五段目にイ・ヰが並び、合計五段階になります。五葉坂とは五段階の言葉の界層の構造という意であります。

人はこの心の先天構造十七言霊の働きによって欲望を起こし、学問をし、感情を表わし、物事に対処して生活を営みます。人間何人といえども天与のこの先天構造に変わりはありません。国籍、民族、住居地、気候の如何に関らず、世界人類のこの心の先天構造に変わりはありません。この意味で世界人類一人々々の自由平等性に何らの差別はつけられません。人間は一人の例外もなく平等なのです。またこの意味に於いて人類を構成する国家・民族の間に基本的優劣は有り得ません。また人類がその「種」を保つ限り、この先天構造は永久に変わることはありません。この先天構造に基本的変化が起ることとなったら、その時は人間という「種」が人間とは違った異種に変わってしまう事となります。

ここまでの説明で心の先天構造を構成する十七言霊の中の十五の言霊が登場しました。言霊母音と半母音ウアワオヲエヱ七音、言霊父韻チイキミシリヒニ八音、合計十五音となります。そこで最後に残りました言霊イ・ヰ即ち伊耶那岐・伊耶那美二神の登場となります。その説明に入ることとしましょう。

この天津磐境と呼ばれる心の先天構造は人間の心の一切の現象を百パーセント合理的に説明する事が出来る唯一の原理であります。人類社会の後にも先にもこの原理に匹敵する、もしくはこれを凌駕する原理は出現し得ない究極の原理であります。古来伝わる宗教・哲学の書物の中にはこの天津磐境の原理を象徴・呪示するものがいくつか認められます。その一つ、二つについてお話をすることにします。

中国に古くから伝わる「易経」という哲学書があります。易の成立については「古来相伝えて、伏羲が始めて八卦を画し、文王が彖辞を作り、周公が爻辞を作り、孔子が十翼という解説書を作った」と言われています。その易経の中に太極図というのがあります(図参照)。太極図について注釈書に「易に太極あり、是、両儀を生ず。両儀、四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず」と説明しています。この太極図を天津磐境と比べてみて下さい。構造は全く同じように見えます。けれど磐境は物事の実在と現象の最小単位である言霊を内容とするのに対し、太極図は哲学的概念と数理(―は陽、--は陰)を以て示しているという明瞭な相違があります。この事から天津磐境が先に存在し、易経は磐境の概念的写しであり、易経は磐境の呪示・表徴であり、指月の指に当ることがお分かり頂けることと思います。

【大極図】

次に印度の釈迦に始まる仏教に於いて人間の精神の先天構造をどの様に説明しているかを見ましょう。

古くからあるお寺へ行き、普通二重(二階)の建築で、上の階の外壁が白色で円形、または六角形のお堂を御覧になられた方があると思います。これを仏教は多宝塔と呼びます。この多宝塔と、この塔と共に出現する多宝仏(如来)については、仏教のお経の中のお経と称えられる法華経の「妙法蓮華経見宝塔品第十一」という章の中で詳しく述べられています。その説く所を簡単にお話すると次の様になります。

法華経というお経は仏教がお経の王様と称える最も大事なお経でありまして、その説く内容は「仏所護念」と言って仏であれば如何なる仏も心にしっかり護持している大真理である摩尼宝珠の学を説くお経とされています。摩尼宝珠の摩尼とは古神道言霊学の麻邇即ち言霊の事であります。見宝塔品第十一の章ではお釈迦様がこの法華経(即ち摩尼)を説教なさる時には、お釈迦様の後方に多宝塔が姿を現わし、その多宝塔の中にいらっしゃる多宝如来が、多宝塔の構造原理に則ってお釈迦様の説教をお聞きになり、お釈迦様の説く所が正しい場合、多宝如来は「善哉、々々」と祝福の言葉を述べ、その説法の正しい事を証明するという事が書かれているのであります。

先にお話しましたように、天津磐境の精神の先天構造によって人間の心の営みの一切は実行・実現され、しかもその実現した一切の現象の成功・不成功、真偽、美醜、善悪等々はこの磐境の原理によって判定されます。同様に仏教の最奥の真理を説く釈迦仏の説法は、その後方に位置する多宝塔の多宝仏により、多宝塔の原理によってその真偽が判定され、その真は多宝仏の「善哉」なる讃辞によって証明されます。この様に多宝塔とは言霊学の天津磐境を仏説的に表現し、説述したものと言う事が出来るのであります。これに依って見ましても、言霊学に説かれる先天十七言霊にて構成される人間の心の先天構造、天津磐境は人類普遍の心の先天構造に関する究極の原理であることが理解されるでありましょう。

仏教の多宝塔の外壁が何故円形または六角形であるか、それは人間の心の先天構造は生れながらに与えられた大自然の法則だからであり、人為ならざる大自然の形状は普通円形で表示され、その数霊は「六」であるからであります。以上で「古事記と言霊」講座の精神の先天構造の章を終ります。

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島田正路 「言霊学について」 <第百八十八号>

人間の心の先天構造は五つの母音、四つの半母音、八つの父韻計十七の言霊で構成されています。今回は母音オとエ、半母音ヲとヱ、父韻チイキミシリヒニ、更に母音イと半母音ヰについて解説をします。

初め宇宙の一点、即ち今、此処に何かが起ろうという気配が起りました。気配ですから、それが何であるかは勿論分りません。その人間の五官感覚の動きの気配に言霊学は言霊ウと名付けました。これを説明する漢字を捜しますと、有(う)、生(う)まれる、動(うご)く、浮(う)く、蠢(うごめ)く……等があります。この言霊ウはやがて人間の自我意識に生長して行くものでもありますが、今説明した兆しの処では全くそれが何であるかは分りません。

この意識の始まりの兆(きざし)に別の何かの思考、例えば「これは何か」等の疑問等が加わりますと、この言霊ウの宇宙は瞬時に言霊アとワに分れます。アは主体であり、我であります。それに対してワは客体であり、汝であり、または何かの物でもあります。人間の何らかの思考が加わると、言霊ウは瞬時に主体アと客体ワに分れます。この様に人間の心の中で人間精神の根源宇宙が他の二つの宇宙に分れる事を宇宙剖判と言います。意識のウが主体であるアと客体であるワの宇宙に剖判することによって人間はその客体が何であるか、の認識が可能となります。剖れるから分る、のです。これが人間の認識の絶対条件であり、人間生命の宿命と言う事が出来ましょう。

仏教の禅では、この言霊ウが主と客であるアとワに分れる以前、主客未剖の時を一枚と言い、主体と客体に分かれた時を二枚と呼んで区別しています。また中国の古書「老子」では「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」と数理で示しています。人間の心の先天構造(五官感覚では捉えることが出来ない根源領域)の中のこの言霊ウアワの三つの宇宙の消息は、言われただけでは当り前ともとれる動きでありますが、実は人間の心の営みはこの三つの言霊の自覚の如何によって重大な問題が浮かび上がって来るのでありますが、これに関しての解説は後の機会に譲ることといたします。

心の先天領域内で言霊ウの宇宙が言霊アとワに分かれました。さて次に何が起るのでしょうか。宇宙剖判は更に続きます。言霊アから言霊オとエが、言霊ワから言霊ヲとヱが剖判します。これを図に示すと次の様になります。言霊オは経験知識を求める主体、言霊ヲはその客体であり、またその内容知識そのものです。言霊エは選択する英智の主体であり、言霊ヱはその客体、またはその内容の道徳という事であります。古事記では言霊エを国常立神(くにのとこたちのかみ)、言霊ヱを豊雲野神(とよくもののかみ)、言霊オを天常立神(あめのとこたちのかみ)、そして言霊ヲを宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)神という神名を当て、その実体である言霊の指月の指としているのであります。

以上で母音ウアオエ、半母音ワヲヱの言霊が出揃いました。母音言霊はそれぞれ五官感覚に基づく欲望性能(ウ)、経験知性能(オ)、感情性能(ア)、選択英智性能(エ)がそこより現出して来る根源宇宙であります。また半母音言霊はそれぞれ経験知識性能の働きの対象となる客体の宇宙であり、言霊ワは感情性能の、言霊ヱは選択英智性能に対しての客体となる宇宙であります。それらの宇宙はそれぞれの性能エネルギーが充満してはいますが、それ自体では活動を起すこともなく、またそれ自体が現象となって現われることもありません。

母音宇宙と半母音宇宙を結んで現象を起こす原動力となるものは、以前にお話しましたように、言霊イに属する八つの父韻チイキミシリヒニの言霊であります。これら八つの父韻が母音アと半母音ワの両宇宙を、同様にオとヲ、エとヱ、それにウとウの宇宙をそれぞれ結び、母音と半母音宇宙に感応同交を起し、現象の最小単位である子音言霊を生むこととなります。八つの父韻はそれぞれ特異の結び方をいたしますから、八通りの結び方でウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの四次元の感応同交を起しますので、8×4=32で三十二個の現象子音を生む事となります。この結びを図に示しますと次のようになります。

八つの父韻が母音と半母音、主体と客体を結び付けるという事は、八父韻のそれぞれが母音宇宙を刺激して半母音宇宙との間に現象の橋を懸け渡すこと、とも言えます。そこで例をエ段にとって見ると、チ×エ=チェ=テ、キ×エ=ケ、……の如く母音エと半母音ヱの間に現象子音テエケメセレヘネの八音が生まれ、エとヱの間の懸け橋が出来たという事になります。そこに生れる全部で三十二音の子音は心の現象の最小単位を表わしているという事が出来ます。

上の如くウオアエの四母音宇宙を刺激して最小現象単位である子音を生む原動力である八つの父韻は人間生命の最奥に於て一切の精神現象を生む原動力であり、根本智性という事が出来ます。古代ドイツ哲学はこの根本智性の事をFUNKEと呼びました。智性の火花という意味でありましよう。儒教では乾兌離震巽坎艮坤(けんだつりしんせんかんこんこん)の八卦で表わし、仏教では八正道の行為として説明し、キリスト教では「我(神)わが虹を雲の内に起さん。是我と世(人間)との間の契約の徴なるべし」(創世記九章)という神の言葉で黙示しています。すべては八つの父韻の指月の指に当ります。

ではすべての心の現象の原動力である八つの父韻はそれぞれどんな動きをするのでしょうか。心の最も奥にあって、ドイツ古代神秘哲学で「火花」と呼ばれた人間の根本智性の閃(ひらめ)きでありますから、これを表現するのは至難のことであります。またそれをうまく表現出来たとしても、矢張り「指月の指」の域を出るものではありません。最終的には自分自身の心で体得するより他はないのですが、此処では文章でお伝え出来る事を書くに留めます。

父韻は八つあります。チイキミシリヒニの八韻です。しかしこの八つはチイ、キミ、シリ、ヒニの一組二個の四組に数えることが出来る動きなのです。どういう事かと言いますと、チとイ、キとミ、シとリ、ヒとニはどれも同じ動作の作用と反作用、陰と陽、妹背(いもせ)の関係にあります。例をあげますと、何かに結び付こうとする働きとは、逆に言えば何かに引っ張られている動きでもあります。この様にして八つの父韻は二つが一組となる四組の働きとして捉えることが出来ます。

古事記の神話ではこの八父韻をどの様に黙示しているのでしょうか。次にそれを掲げます。

チ・宇比地邇(うひぢに)神

イ・須比智邇(すひぢに)神

キ・角杙(つのぐひ)神

ミ・生杙(いくぐひ)神

シ・大斗能地(おほとのぢ)神

リ・大戸乃弁(おほとのべ)神

ヒ・淤母陀琉(おもだる)神

ニ・阿夜訶志古泥(あやかしこね)神

上の父韻を指示する古事記の神名から実体である父韻を把握することは殆(ほと)んど不可能に近いと言う事が出来ます。けれど不可能で済まされる問題ではありません。そこが先輩各位の苦心の存する処であります。次に私の言霊学の師、小笠原孝次氏と、そのまた師であった山腰明将氏との二先輩の八父韻についての指摘を紹介する事とします。

ではこれらの先輩達は八父韻を示す古事記の神名から如何にして図に示されたような内容に到達することが出来たのでしょうか。それは八父韻を示す指月の指としての古事記神名から想像、推察して行ったのではなく、人間の精神現象の奥にその現象の原動力となる八つの父韻が働く事を知り、その上で言霊学を樹立して行く過程の中で自分自身の心の動きを見詰めて行き、そこに直観される心の火花と思えるものを假説として設定し、更に現実の心の現象として現われる行為がその假定に対応しているか、否か、という作業を続けて行った結果として得られたものを発表したに相違ありません。そしてその結論に達した時、改めて出発点となすべき古事記の神名を見ると、その神名が如何に父韻の実態とピッタリであるか、が分るのであります。かくして父韻についての検討結果の妥当性が証明される事となります。

私も上の手法に従って、言霊学実践の立場から八つの父韻の実態の究明を試みました。二十数年前の事であります。その結果、人間の心の本体である宇宙そのものの中から起って来る「自我の日常の行動」という立場に立って八父韻の閃(ひらめ)きを見つめて行った結果、父韻のそれぞれの動きを図形に表現する事が出来たのでした。その表現を基として人間の各次元の行動、また言霊原理によって作られた日本語が示す実相と符号する事が分かりました。その為、この方法によって確かめられました父韻の図形とその説明を書籍「古事記と言霊」の父韻の章(33~40頁)に載せたのであります。此処では余りに長くなりますのでご紹介はまたの機会に譲ることとします。興味をお持ちの方は「古事記と言霊」をお読み下さい。

言霊の学問が歴史創造の方便のためにこの世の中の表面から隠されてしまってから約二千年間、日本皇室の奥深く、また伊勢神宮の正殿に秘中の秘として言霊の原理は隠匿、保存されて来たのであります。この原理の中でも特に今説明しています八父韻と、その原動力によって生まれて来ます現象の最小単位である子音言霊につきましては、その実態についての記述は古事記・日本書紀の神話の黙示以外何一つないのであります。今その実態がこの文章によって説明が行われ、それを人の自覚という形で世に出る事になれば、ここ数千年にわたる人類の弱肉強食の生存競争の暗黒は跡形なく払拭され、人類の光明世界が実現する事は間違いない所であります。八父韻と三十二の子音言霊は人の世の光であり、光が点れば暗は瞬時に消え去るでありましょう。言霊の学問に興味を持たれた方の一日も早くその自覚に立たれる日の到来が望まれるのであります。

言霊父韻の話はこれ位にして、古事記の神話では、人間の心の先天構造の中で最後に登場して来る母音イ言霊、半母音ヰ言霊の話に進むこととしましょう。

古事記の神話は言霊イの指月の指として伊耶那岐(いざなぎ)の神を、言霊ヰに対して伊耶那美(いざなみ)の神の名を当てております。言霊イは言霊エアオウを縁の下の力持ちの如く下支えし、統轄し、同時に八つの父韻となって言霊エアオウの宇宙を刺激して現象子音を生みます。右の如く言霊イ(ヰ)は母音(半母音)であると同時に父韻ともなりますので、五母音(半母音)の中でも特に親音と呼ぶ事があります。

心の先天構造は十七の言霊で構成されています。その十七言霊の中で、八つの父韻が出揃ったことで四つの母音ウオアエと三つの半母音ヲワヱ、それに八つの父韻合計十五個の先天言霊が現われました。そこで残るは二つの言霊イ、ヰ(伊耶那岐の神、伊耶那美の神)です。この二言霊(二神)の登場で先天言霊はすべて出揃い、そこで「いざ」と先天構造の活動が始まり、後天の現象子音が創生されます。古事記はこの間の消息を巧妙に捉えて、言霊イ、ヰを示す神名に伊耶那岐・美の神の名を採用しました。

昔、「去来」と書いて「いざ」と読みました。また「去来」と書いて「こころ」とも読んだのです。先天構造を構成する十七言霊が出揃う十六番目と十七番目の言霊イとヰが現われて、「いざ」と後天子音の創造に取りかかる神名に心(いざ)の名の気、心(いざ)の名の身という尤もらしい名をつけた神を当てたのです。勿論心の名とは言霊の事であります。

先に言霊イとヰは母音(半母音)であると同時に父韻の働きを持ち、その為に親音とも呼ぶとお話しました。母音であること、次に父韻の働きを展開させること、の二つの働きがあると申しました。更に言霊イとヰはもう一つ重要な働きをする事をお話しましょう。それは言霊イとヰは、その活動によって生まれて来る現象に対して「名を付ける」という働きがあるという事です。

いろいろな現象が起っても、それに名がなければ、それが何であるか分りません。実に名とはその現象の実態であり、内容でもあります。その名を与えることは言霊イとヰの第三の重要な働きであるのです。伊耶那岐・伊耶那美が心の名の気、心の名の身と言いましたのも、その事をよく表現しているではありませんか。

人の心は五次元の性能宇宙を住家としていますが、そのウオアエイ五次元宇宙の中の言霊イの宇宙に五十音言霊は存在しているのです。全宇宙の中には種々雑多な無数の現象が起りますが、ひと度眼を言霊イの次元に移して見るならば、そこにはたった五十個の言霊しか存在していない事を知ることになります。私達日本人が日常使っている日本語とは、これ等五十個の言霊を結び合わせる事によって、一切の現象の実態、実相を表現した言葉なのです。

ひと度言霊を組合せた言葉で出来事を表現するならば、その名は出来事の実相を百パーセント表現していて、その他に注釈や解釈を必要としない世界で唯一つの言語であります。古代の日本は「言霊の幸倍(さちは)う国」と呼ばれました。また「惟神言挙(かむながらことあ)げせぬ国」とも言いました。「言挙げ」とは概念的な解釈という意味であります。真実・実相を表現する言葉であるから、それに関する解釈の必要はない、という意味なのであります。

以上、先天構造を形成する十七の言霊(四母音、三半母音、八父韻、二親音)を説明上の段階でまとめますと、次の如くになります。この先天構造図を天津磐境(あまついはさか)と呼びます。天津は先天、磐境は五葉坂(いはさか)の意で、五段階の言霊の階層という意味であります。昔の日本人はこの磐境の働きを雷鳴に譬えました。磐境はその稲光(いなびかり)であり、稲光が光れば、神鳴り(言語)が響(ひび)く、という訳です。また稲光りとはイの名(言霊)の光の意であります。

以上で言霊学に於ける人間の心の先天構造の解説を終ります。また言霊の学び(コトタマノマナビ)の原理的な解説も一応これで終了し、次回からは言霊学から見た社会の種々層を列挙して、皆様に興味深い話題を提供して参りたいと思います。乞う、御期待であります。

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島田正路 布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座 その四

前回までの講座で人間の精神の先天構造を構成する四つの母音宇宙、ウアオエと三つの半母音宇宙ワヲヱが出揃いました。次に何が現出するでしょうか。古事記の文章を先に進めます。

次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすいちぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹生杙(いもいくぐひ)の神。次に意富斗能地(おほとのべぢ)の神。次に妹大斗乃弁(いもおほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)の神。

以上、八神が次々に現われ出て来ます。そして更に同様な形で「次に伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に伊耶那美(いざなみ)の神。」と続きます。続いて書かれていますから、前の八神と後の二神は同じ系列の神と思われ勝ちでありますが、実は関係は深いけれど、同じに取り扱うことの出来ない神々でありますので、後の二神は八神の解釈が終わった後に説明を申上げることといたします。

さて、新しく現出しました八神の名前を改めて御覧下さい。どれもこれもこんな名前の神様なんて本当にいるのかな、と思わざるを得ない奇妙な名前ばかりです。こんな名前を指月の指として持つ言霊とは一体どんな言霊なのであろうか、全く見当もつかないように思われます。今までの講座で解説された母音言霊の神名は、説明をよく聞けば、「成程」と納得することが出来ました。けれど新しく現われた神名は、読んだだけでその想像を超えたもののように思われます。読者が本当にその様な感触をお持ちになったとしたら、その感触は正しいと申し上げねばなりません。この八つの神名を指月の指とする八言霊――これを父韻言霊と呼ぶのですが――人類の歴史のこの二千年間、誰一人として口にすることなく、人類社会の底に秘蔵されていたものなのです。ですから、今、この謎を解いて「実はこういうものなのだよ」と申上げても、即座には頷き難いのも当然と言えましょう。

とは申しましても、言霊布斗麻邇の講座でありますから、奇妙だとか、難しいといっても、避けて通るわけにはいきません。これから言霊父韻というものの内容と働きについて、また父韻それぞれの働きについて出来る限り御理解し易いよう説明を申上げます。「何故そうなるのだ」ではなく、「人間の心の働きの深奥はそのような構造になっているのか」と一応の合点をして頂くつもりでお聞き頂き度いと思います。勉学が進みます毎に言霊学の素晴らしさに驚嘆なさることになりましょう。

先ず父韻とは何か、を明らかにしましょう。それには一歩後に退いて、母音について少々お話しなければなりません。今まで出て来ました母音宇宙を指し示す神名の後には「独り神に成りまして身を隠したまひき」という文章が続きました。「その宇宙はそれのみで存在していて、他に依存することなく、現象として姿を現わすことがない」と解釈しました。その意味はまた、「自立独歩していて、それが他に働きかけることもない」とも受け取れます。母音宇宙自体が何かの活動をすることはないということです。他に働きかけることをしない母音宇宙から現象は何故現れるのでしょうか。その現象発現の原動力となるものが父韻というものなのであります。

宇宙の剖判によってウの宇宙からア・ワ、オ・ヲ、エ・ヱのそれぞれの宇宙が現われます。その剖判して来た母音宇宙と半母音宇宙とを結んで、そこから現象(子音)を生む原動力となるのが言霊父韻、チイ・キミ・シリ・ヒニの四組八個の父韻というわけであります。父韻は働きでありますから陰陽があり、作用・反作用があります。そこで父韻は二つで一組、計四組で八父韻となります。

父韻とはどんなものなのでしょうか。譬えば頭脳中枢で閃く火花のようなものです。この火花が閃く時、母音と半母音宇宙を結び、現象を起こします。昔のドイツ哲学がFunke(火花)と呼んだのは多分この父韻の働きの事であろうと思われます。中国の易経で八卦と呼びます。仏教で八正道と呼ぶものはこの父韻を指したものと考えられます。但し、ドイツ哲学も、八卦も、八正道もすべて概念的名前であり、正しく八父韻を指したものではありません。呪示であります。

では八つの父韻は心の中の何処に位置しているのでしょうか。それはまだこの講座では説明していない言霊イとヰの次元宇宙に在って活動しています。但し、言霊イとヰの宇宙についての説明がされておりませんので、父韻がそこに在ると申しましても、どのようにして在るのか、の説明の仕様がありません。それ故、父韻の占める心の位置の解説は後に譲ることといたします。

八つの父韻のそれぞれの働きについて解説しましょう。勿論、父韻は先天構造内の動きであり、五官感覚で触れることは出来ません。ではどうするか、と申しますと、先ず父韻を示す神名を解釈すること、そして解明された神名の内容を指月の指として、筆者の研究体験をお話することとなります。読者の皆さまはこの話の中から活路を見出して頂きたいと思います。

宇比地邇(うひぢに)の神・父韻チ

宇比地邇の神とは一つ一つの漢字をたどりますと宇は地に比べて邇(ちか)し、と読めます。けれどそれだけではまだ何のことだか分かりません。宇を辞書で調べると「宇(う)はのき、やねのこと。転じていえ」とあります。いえは五重(いえ)で人の心は五重構造の宇宙を住家としていますから、宇は心の宇宙とも取れます。天が先天とすると、地は現実とみることが出来ます。すると宇比地邇で「人の心の本体である宇宙が現実と比べて同様となる」と解釈されます。以上が神名の解釈です。とすると、その指示する言霊チとは如何なる動きなのでしょうか。

ここで一つの物語をしましょう。ある製造会社に務める若い社員が新製品を売り込むために御得意先の会社に課長のお供をして出張するよう命じられました。自分はお供なんだから気が楽だと思っていました。ところが、出張する日の前夜、課長から電話があり、「今日、会社から帰って来たら急に高熱が出て明日はとても行けなくなった。君、済まないが一人で手筈通りに行って来てくれ。急なことでこれしか方法がない。頑張ってくれ」というのです。さあ、大変です。お供だから気が楽だ、と思っていたのが、大役を負わされることとなりました。一人で売り込みに行った経験がありません。さあ、どうしよう。向うの会社に行って、しどろもどろに大勢の人の前で製品の説明をする光景が頭の中を去来します。夜は更けて行きます。妙案が浮かぶ筈もありません。寝床に入っても頭の中を心配が駆けずり廻っています。疲れ切ったのでしょうか、その内に眠ってしまいました。……朝、目を覚ますとよい天気です。顔を洗った時、初めて決心がつきました。「当たって砕けろ。ただただ全身をぶっつけて、後は運を天に任せよう。」あれ、これの心配の心が消え、すがすがしい気持で出掛けることが出来たのでした。

向うの会社に着いてからは、想像した以上に事がうまく運びました。大勢の前で、自分でも驚く程大きな声で製品の説明が出来、相手の質問に答えることが出来たのでした。未熟者でも、誠心誠意事に当たれば何とか出来るものだ、という自信を得たのでした。

話が少々長くなりました。この若者のように、自分の未熟を心配し、何とかよい手段はないか、と考えても見つからず、絶望したあげく、未熟者なら未熟者らしく、ただ誠意で事に当たろうとする決心がついた時、人は何の先入観も消えて、広い、明るい心で事に当たる事が出来ます。生まれて今までの自分の経験を超えて、この世に生を受けた生命全体を傾けた誠意で事に臨もうとする心、この心を起こす原動力となる心の深奥の“火花”、これが父韻チであります。神名宇比地邇の宇(う)はすべての先入観を取り払った心の宇宙そのもの、そしてその働きが発現されて、現象界、即ち地(ち)に天と同様の動きを捲き起こすような結果を発生させる働き、それが父韻チだ、と太安万呂氏は教えているのです。当会発行の本では、父韻チとは「宇宙がそのまま姿をこの地上現象に現わす韻(ひびき)」と書いてあります。ご了解を頂けたでありましょうか。

この父韻を型(かた)の上で表現した剣術の流儀があります。昔から薩摩に伝わる示源流または自源流という流派の剣で、如何なる剣に対しても、体の右側に剣を立てて構え(八双の構え)、「チェストー」と叫んで敵に突進し、近づいたら剣を真直ぐ上にあげ、敵に向って斬りおろす剣法です。この剣の気合の掛声は「チェストー」タチツテトのタ行を使います。その極意は「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということだそうです。

以上、父韻チを説明して来ました。父韻チは心の宇宙全体を動かす力動韻でありますので、人間の生活の中で際立(きわだ)った現象を例に引きました。けれど父韻チは全部この様な特殊な場面でのみ働く韻なのではありません。私達は日常茶飯にこの力動韻のお蔭を蒙っています。仕事をして疲れたので少々腰掛けて休み、「さて、また始めようか」と腰を浮かす時、この父韻が動くでしょう。また長い人生に一日として同じ日はありません。サラリーマンが朝起きて、顔を洗い、朝飯を済ませ、「行って来ます」と言って我が家を出る時、この父韻は働いています。気分転換に「お茶にしようか」と思う時、駅に入ってきた電車の扉が開き、足を一歩踏み入れようとした時、同様にこの父韻は働きます。日常は限りなく平凡でありますが、同時に見方を変えて見るなら、日常こそ限りなく非凡なのだ、ということが出来ます。ただ、その人がそう思わないだけで、心の深奥では殆ど間断なくこの父韻は活動しているのです。この父韻チを一生かかって把握しようと修行するのが、禅坊主の坐禅ということが出来ましょう。禅のお坊さんにとっては生活の一瞬々々が「一期一会」と言われる所以であります。と同時にこの言霊父韻チを日常の中に把握することは、禅坊主ばかりでなく、私たち言霊布斗麻邇を学ぶ者にとっても、大切な宿題でありましょう。

妹須比智邇(すひぢに)の神・父韻イ

須比智邇の神の頭に妹(いも)が付きますので、この父韻は宇比地邇の神と陰陽、作用・反作用の関係にあります。この父韻イのイはアイウエオのイではなく、ヤイユエヨのイであります。神名須比智邇は須(すべから)らく智に比べ邇(ちか)し、と読めます。宇比地邇同様漢字を読んだだけでは意味は分かりません。そこで宇比地邇の神の物語を例にとりましょう。若い社員は、あれこれと考え、心配するのを止め、先入観をなくし、全霊をぶつけて行く事で活路をみつけようとしました。そして御得意の会社に白紙となって出て行きました。「自分はこれだけの人間なんですよ」と観念し、運良く相手の会社の社員の中に溶け込んで行く事が出来たのです。一度溶け込んでしまえば、後は何が必要となるでしょう。それは売り込むための物についての知識、またその知識をどの様に相手に伝えるかの智恵です。こう考えますと、神名の漢字の意味が理解に近づいて来ます。須比智邇とは「すべからく智に比べて近(ち)かるべし」と読めます。体当たりで飛び込んで中に溶け込むことが出来たら、次は「その製品についての知識を相手の需要にとってどの様に必要なものであるか、を伝える智恵が当然云々されるでしょ。それしかありませんね。」と言っているのです。「飛び込んだら、後は日頃のテクニックだよ」ということです。父韻イとは飛び込んだら(父韻チ)、後は何かすること(父韻イ)だ、となります。重大な事に当たったなら先ず心を「空」にすること、それは仏教の諸法空相です。空となって飛び込んだら、次は何か形に表わせ、即ち「諸法実相」となります。仕事をする時、如何にテクニックが上手でも、心構えが出来ていなければ、世の中には通用しません。けれど心構えだけでは話になりません。テクニックも必要です。両方が備わっていて、初めて社会の仕事は成立します。父韻チ・イは色即是空・空即是色とも表現される関係にあります。御理解頂けたでありましょうか。

角杙(つのぐひ)の神・父韻キ

宇比地邇の神・妹須比智邇の神(父韻チ・イ)に続く角杙の神・妹生杙の神(父韻キ・ミ)の一組・二神は八父韻の中で文字の上では最も理解し易い父韻ではないか、と思われます。角杙の神から解説しましょう。角杙の角とは昆虫の触覚の働きに似た動きを持つ韻と言ったらよいでしょうか。「古事記と言霊」の父韻の項で、この父韻の働きを「心の宇宙の中の過去の経験、または経験知を掻き寄せようとする韻」と説明してあります。目の前に出されたもの、それを「時計だ」と認識します。いとも簡単な認識のように思えます。若し、この人が時計を見たことが一度もない人だとしたらどうなるでしょうか。その人は目の前で如何にその物を動かされたとしても、唯黙って見ているより他ないでしょう。「時計だ」と認識するためには、それを見た人が自分が以前に見た物の中から眼前に出された物に最も似ている物を心の宇宙の中から思い出し、それが時計と呼ばれていた記憶に照らして、「あゝ、これは時計だ」と認識する事となります。人間の頭脳はこの働きを非常な速さでこなす能力が備わっているから出来ることなのです。この様に、心の宇宙の中から必要な記憶を掻き繰って来る原動力、これが父韻キの働きであります。

以上のように説明しますと、「あゝ、父韻キとはそういう働きなんだ」と理解することは出来ます。けれどその父韻が実際に働いた瞬間、自分の心がどんなニュアンスを感じるか(これを直感というのですが)、を心に留めることは出来ません。そこには“自覚”というものが生れません。そこで一つの話を持ち出すことにしましょう。

ある日、会社の中で同じ会社の社員と言葉を交わす機会がありました。日頃から人の良さそうな人だな、と遠くから見ての感じでしたが、言葉を交わしてみると、何となく無作法で、高慢な人だな、という印象を受けました。それ以来、会社の中で会うと、向うから頭を下げて来るのですが、自分からは「嫌な奴」という気持から抜け出られません。顔を合わせた瞬間、「嫌な奴」の感じが頭脳を横切ります。自分には利害関係が全く無い人なのに、どうしてこうも第一印象に執らわれてしまうのだろうか、と反省するのですが、「嫌な奴」という感情を克服することが出来ません。或る日、ふと「そういえば、自分も同じように相手に無作法なのではないか」と思われる言葉を言うことのあるのに気付きました。「なーんだ、自分も同じ穴の狢だったんだ」と思うとおかしくなって笑ってしまいました。「あの人に嫌な奴と思うことがなかったら、今、私に同じ癖があるのに気づかなかったろう。嫌な奴、ではなく、むしろ感謝すべき人なんだ」と気付いたのでした。そんなことに気付いてから、会社でその人にあっても笑顔で挨拶が出来るようになりました。

この日常茶飯に起こる物語は、父韻キについて主として二つの事を教えてくれます。その一つは、人がある経験をし、それが感情性能と結びついてしまいますと、それ以後その人は同様の条件下では条件反射的に同じ心理状態に陥ってしまい、その癖から脱却することが中々難しくなる、ということです。同じ条件下に於ては、反射的に何時も同じ状況にはまってしまうこと、そして反省によってその体験と自分の心理との因果に気付く時、自分の心の深奥に働く父韻キの火花の発動を身に沁みて自覚することが出来ます。因果の柵(しがらみ)のとりことなり、反省も出来ず、一生をその因果のとりことなって暮らすこと、これを輪廻(りんね)と言います。そこに精神的自由はありません。第二の教えが登場します。物語の人は、嫌な奴と思った人と同様の欠点を自分も持っていたことを知って、「嫌な奴」の心がむしろ感謝の心に変わります。因果のとりこであった心が感謝の心を持つことによって、容易に因果から脱却出来ました。この心理の変化を敷衍して考えますと、八父韻全般を理解しようとするには、言霊ウ・オの柵にガンジガラメになっている身から言霊アの自由な境地に進むことが大切だ、という事に気付くこととなります。言霊父韻とは正しく心の宇宙の深奥の生命の活動なのですから。

妹生杙(いくぐひ)の神・父韻ミ

角杙の神の父韻キと陰陽、作用・反作用の関係にある父韻ミを指示する神名です。この生杙の神という神名ぐらい実際の父韻ミにピッタリの謎となる神名は他にはないでしょう。角杙の神の時、杙というものを昆虫の触覚に譬えました。人が生きるための触覚と譬えられる働き、とはどんな働きでありましょうか。変な例を引く事をお許し下さい。日本の種々の議会の議員さんが選挙で当選するのに必要な三つのもの、といえば地バン、看バン、カバンです。言い換えると、地バンとは選挙区の人々とのつながりのこと、看バンとは知名度、そしてカバンとは勿論豊富な選挙費用を持つことです。議員さんにとって選挙で当選したから一息、という訳にはいきません。当選したその日から、自らの三つのバンを更に大きく強く育てて行き、次の選挙への準備をすることです。地バンである選挙区の人々、今までに顔見知りになった人々へ、議員自身の影響力を更に売り込んで行かねばなりません。どんな人にどの様に自分を売り込んだら良いか、その働きの最重要なものが言霊ミであります。言霊父韻ミとは、自分の心の中にある幾多の人々と、如何なる関係を結んで関心を高めて行くか、相手の心と結び付こうとする原動韻即ち父韻ミが重要となります。どんな小さい縁も見逃してはなりません。縁をたよって自分の関心を売り込む力です。これは正(まさ)しく生きるための触覚であります。政治家にあってはこの生きるための触覚を手蔓(てづる)と言います。その他物蔓・金蔓・人蔓、手当たり次第に関係の網(あみ)を広げて行きます。

政治家ばかりではありません。この生杙という父韻ミは、人が社会の中で生き、活躍して行くためにはなくてはならぬ必要な働きであります。社会に於てではなく、人間の心の中との関係についてもこの触覚は重要な働きを示すでありましょう。自分の心の中の種々の体験とその時々のニュアンスに結び付き(生杙)、またそれを掻き取って来て(角杙)、小説を書き、印象画や抽象画を描き、また既知の物質の種々の法則の中から微妙な矛盾を発見して、新しい物質の法則に結びつけて行く才能の原動力もこの言霊キ・ミの働きに拠っています。

前回の講座で八つ、四組の父韻の中のチイ・キミの四つ、二組の父韻について説明を終えました。今回はシリ・ヒニの四父韻について説明してまいります。

意富斗能地(おほとのぢ)の神・父韻シ、妹大斗乃弁(いも・おほとのべ)の神・父韻リ

意富斗能地・大斗乃弁の両神名を指月の指として本体である父韻シ・リにたどり着くことは至難の業と言えるかもしれません。けれどそうも言ってはいられませんから、想像を逞しくして考えてみましょう。意富(おほ)は大と解けます。斗は昔はお米の量を計る単位でした。十八リットルで一斗でした。斗とは量のことであります。北斗七星という星は皆さんご存知のことでしょう。北斗、即ち北を計る七つの星ということです。大熊座のことです。意富はまた多いとも取れます。沢山の量り、即ち大勢の人の考え方、意見が入り乱れて議論が沸騰する時とも考えられます。そんな議論がやがて真実の一点に近づいて行って、その働き(能)が議論の対象である地面(地)にたどり着いたとします。沸騰していた議論が静まります。多くの議論の内容は消え去ったのではなく、出来事の真実を構成する内容として一つにまとまった事になります。まとまった状態は言霊スですが、まとまって静まることは父韻シということが出来ましょう。

理屈ポクって理解し難いと言う方もいらっしゃると思います。そこで平易な例を引きましょう。毎週月曜夜八時、6チャンネルと言えば、直ぐに「水戸黄門」と気付く方は多いことでしょう。このドラマの前半は悪家老、代官が悪商人と組んだ悪事の描写です。後半はそろそろ黄門様一行がその悪事の真相に近づいて行きます。ここまでは毎回新しい脚色が工夫されています。けれど最後の数分間は何時も、数十年にわたって変わらぬ結末が待っています。

最後に悪人一味の悪事が暴露されると、悪人達は老公一行に暴力を行使しようとします。すると御老公は「助さん、格さん、懲(こら)らしめてやりなさい」と命じます。善悪入り乱れてのチャンバラとなり、老公の「もうこの位でいいでしょう」の言葉と共に、助さん(または格さん)が懐の三つ葉葵の印籠(いんろう)を取り出し「静まれ、静まれ、この印籠が目に入らぬか」と悪人達の前にかざす。そこで一件落着となります。

この印籠の出現の前に、事件に関わったすべての人々の意志、動向が静まり、御老公の鶴の一声によって結末を迎えます。この一点に騒動がスーッと静まり返る韻、これが意富斗能地の父韻シであります。この大きな入り乱れてのチャンバラが、御老公の三つ葉葵の印籠の一点にスーッと吸込まれて行くように収拾されて行く働き、それが父韻シであります。水の入った壜(びん)を栓を抜いて逆(さか)さにすると水は壜の中で渦を巻いて壜の口から流れ出ます。父韻シの働きに似ています。この渦の出来るのは地球の引力のためと聞きました。水は螺旋状に一つの出口に向って殺到しているように見えます。父韻シの働きを説明する好材料と思えます。

次に妹大斗乃弁の神・父韻リの説明に入ります。大斗乃弁とは、漢字の解釈から見ますと大いなる量(はかり)のわきまえ(弁)と見ることが出来ます。また神名に妹の一字が冠されていますから、意富斗能地(おほとのぢ)とは陰陽、作用・反作用の関係にあることが分かります。この事から推察しますと、父韻シリは図の如き関係にあることが分かって来ます。五十音図のラ行の音には螺理縷癘炉(よりるれろ)等、心や物質空間を螺旋状に広がって行く様の字が多いことです。そこでこの図の示す内容を理解することが出来ましょう。

「風が吹くと桶屋が儲かる」の譬えがあります。風が吹くという一事から話が四方八方に広がって行き、最後に桶屋が儲かるということに落ち着くのですが、ここで落ち着かないで、更に諸(もろもろ)が発展して行き、永遠に続くことも可能です。人の考える理屈が野放図に広がって行く譬えに使われています。これも父韻リの説明には不可欠の理屈の働きと言えましょう。また噂(うわさ)に尾鰭(おひれ)がつく、という言葉があります。一つの噂に他人の好奇心による単なる根も葉もない推察が次々と加えられ、当事者や、または全然関係のない大勢の人々に間違った情報が伝わって行くことがあります。時にはそれが社会不安を惹き起こしたり、大きな国家間の戦争の原因になることがあります。これ等の現象は人間の心の中の父韻リが原動力となったものであります。原油価格の高騰が伝えられた数日後、スーパーマーケットの店頭からトイレットペーパーが姿を消してしまったという話をまだ記憶に留めていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

父韻リの働きを説明するために悪い影響の話ばかりして来ましたが、父韻リには善悪の別は全くありません。人間誰しもが平等に授かっている根本能力の一つであります。発明家といわれる人は、一つの発想、思い付きから次から次へと新しい発明品を発表して行きます。これも父韻リの原動力によるものであります。この根本力動の韻律によって人類は現在ある如き物質文明を建設して来たのでもあります。

於母陀流(おもだる)の神・父韻ヒ、妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニ

これより八つの父韻の中の最後の一組、二つの父韻ヒ・ニの説明に入ります。この父韻ヒ・ニを指し示す神様の名前は、先の角杙(つのぐひ)の神・父韻キ、妹生杙(いも・いくぐひ)の神・父韻ミに次いで比較的分かり易い名前のように思われます。まず神名の解釈から入りましょう。於母陀流は面足ずばりです。面(おも)とは心の表面にパッと言葉が完成する韻と受け取れます。昔、滝のことを「たる」といました。水が表面に一ぱいに漲り、そして流れ落ちる。これが滝です。足る、とはその表面に漲(みなぎ)った姿です。太安万侶氏は何故に面足と書かずに於母陀流などと複雑な名にしたのでしょうか。それは勿論面足では直ぐに分かってしまって、古事記神話編纂の真意に悖(もと)るからでありましょう。

では「心の表面に言葉が完成する韻(ひびき)」とはどういうことなのでしょうか。言い換えますと、心の表面に言葉を完成させる原動力の火花とはどういう事を言っているのでしょうか。例を挙げることにしましょう。或る会社の創立三十周年の祝賀会に招待されて出席しました。盛会でありましたが、その席上、突然ある人から声をかけられました。「M会社の中村さんですな。あの折には種々お世話になり有難う御座いました。その後ご無沙汰申上げて申訳御座いません。改めて御挨拶にお伺いさせて頂こうと思います。その折はよろしく御願い申上げます。」そこまで話が来た時、その人は同席の同じ会社の人と思われる人に促(うなが)されて、「では失礼いたします」と去って行ってしまいました。自分だけしゃべって、名前も言わずに行ってしまって、無作法な人だなと思ったのですが、その人の名前を思い出せません。何処で会ったかも分かりません。けれど一度会った人であることは間違いないようです。さあ、こうなると、その人のことが気になって仕方がありません。「何処で会った人なのかな」「何という名前だったかな」考えてみても喉(のど)に引っ掛かったように答えが出て来ません。家に帰ってきてからも同じような気持で、何となく今にも思い出せそうでいて、出て来ません。翌朝、会社に出ようと靴を履こうとした時、ハッと思い出しました。「あっ、そうだった。二年程前の会社の後輩の結婚式の披露宴の席上、テーブルの隣の席にいたN販売の木村さんだ。披露宴の酒が進み、座が少々乱れ出した時、あの人と仕事のことでいろいろ話した事があった。あの人はそのことを言っているのだ。」喉につっかえていたものが一遍に吐き出された気持でした。「仕事でない所で会ったので、記憶が薄れてしまったのだ」と思ったのです。

例の話が少々長くなりました。父韻ヒの韻律をお分かりいただけたでしょうか。言葉が胸元まで出て来ているようで、喉元に引っ掛かって出て来ないもどかしい気持がフッと吹っ切れて、口というか、頭の表面というか、心の表面とも言える所で、記憶がハッキリした言葉となって完成する、否、完成させる言動韻、これが父韻ヒであります。

次に妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニの説明に入ります。

先ずは神名の漢字の解釈から始めましょう。阿夜訶志古泥の阿夜は「あゝ、本当に」の古代の感嘆詞。訶志古泥(かしこね)は賢(かしこ)い音(ね)の意です。神名をこのように解釈した上で、先の於母陀流(おもだる)が面足と言葉が心の表面にパッと完成する原動韻であり、それと阿夜訶志古泥が陰陽、作用・反作用の関係にあることから考慮しますと、阿夜訶志古泥は「心の中心に物事の発想や記憶の内容が煮詰(につ)まってくる原動韻」と推定することが出来ます。心の中心に於ける現象なので阿夜と夜という字が用いられ、暗い所という意味を強調しています。この原動韻が父韻ニであります。 この状況を、前の於母陀流の神の説明の例をもう一度振り返ってお話してみましょう。自分の名も告げずに「M会社の中村さんですな。ご無沙汰しております。」と話しかけて、そのまま去って行った人を、「誰だったか、何処であった人か、……」と直ぐにも思い出しそうで思い出せない。そのままその日は終り、翌朝になってやっと「N販売の木村さんと言ったな」と気付いた時、念頭に相手の名前が浮かんだ時、その時には既に「二年程前に披露宴で隣の席にいた人、どんな話をしたか」の記憶が蘇えっていた筈です。心の表面に相手の名前が「木村さんと言ったな」と言葉が完成した時(父韻ヒ)、心の中では披露宴の状況も煮詰まっていたのです。これが父韻ニということになります。父韻ヒと父韻ニは確かに陰陽、作用・反作用の関係にあることが確認されます。

以上で八つの父韻のそれぞれについての説明を終ります。八つの父韻は四つの母音宇宙を刺激することによって、一切の現象即ち森羅万象を生みます。人類に与えられた最高の機能ということが出来ましょう。神倭王朝第十代崇神天皇以後二千年間、今日に到るまで、誰一人として口にすることなく時は過ぎて来ました。ただその存在は儒教に於て「八卦」、仏教に於て八正道、あるいは「石橋」という言葉で、またキリスト教では神と人との間に交(か)わされた契約の虹(にじ)として語られて来たにすぎません。今、此処に八つの父韻が名実共に明らかになった事は、この父韻だけを取上げただけでも、人類の第一、第二文明を過ぎて、第三の輝かしい時代の到来を告げる狼煙(のろし)とも言うことが出来るでありましょう。人類に授けられた森羅万象創生の機能は父韻チイ、キミ、シリ、ヒニの八つです。たった八つであり、八つより多くも少なくもありません。この八つの父韻を心中に活動させて、人類は一切の文明を永遠に創造して行くのであります。