相手を説得する法。海佐知毘古と山佐知毘古。3

12。相手を説得する法。「 おぼち、すすぢ、まぢち、うるぢ。後手。 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

【 是を以ちて海神(わたのかみ)、悉に海の大小魚(おほきちひさきうを)ども召(よ)び集めて、問ひて曰ひけらく、「若し此の鉤を取れる魚有りや。」といひき。故、諸の魚ども白しけらく、「頃者(このごろ)、赤海魚(たひ)、喉(のみど)に(のぎ)ありて、物得(えく)食はずと愁ひ言へり。故、必ず是れ取りつらむ。」とまをしき。是に赤海魚の喉を探れば、鉤有りき。】

綿津見によって物としての鉤は見つかり、後は返せばいいだけです。

でもそこに自分の感情があります。嘆きによっておこされました。それはどうするのでしょうか。

【今夜(こよひ)大きなる一歎為(し)たまひつ。若(も)し何の由(ゆゑ)有りや。」とまをしき。】

感情は突如としてやって来ます。感情がやってきて自分に取りつき、心を取られますが、それがどこへ行くのかは知りません。

やってきた感情に「若(も)し何の由(ゆゑ)有りや。」と聞いたところで、由来や状況やを説明できても、感情そのものは本人のもので、本人で以て表現してしまっていますから、他の人相手には説明できないものです。

感情はもともと説明できるものではありません。

山彦が当初、鉤を交換してみたいと言い出して時には、山彦の自分の持つ方法で次元の違う感情も釣り上げられるだろうという無理やり頼むだけの自負と熱心さをもっていました。しかし、大いなる嘆きでもってそれが間違いであることを悟ります。

そこで姫は父に頼みましたが、父とて、外部状況を聞くだけの事です。

【 若し由有りや。亦此間(ここ)に到(き)ませる由は奈何(いか)に。」といひき。】

と経緯を聞き出します。

それによれば、嘆きの理由や経緯が分かれば、その物理的な処理の判断ができるだろうという事で、その通りになります。

しかし、山彦の嘆き感情は伏せられてしまいます。感情の処理は本人に任せられますが、感情において本人が自覚したことがあるはずと、綿津見は見抜きます。

うまい具合に鯛の喉にみつかりました。

【 即ち取り出でて、洗い清(す)まして、火遠理命に奉りし時に、】

ここから入れ知恵が始まります。

【 其の綿津見(わたつみの)大神誨(おし)へて曰ひけらく、「此の鉤を、其の兄に給はむ時に、言(の)りたまはむ状は、】

【 綿津見(わたつみの)大神】という事で「大」の意味を汲まなければなりません。

これは山彦は豊玉との間で全てを(三)創造しました。とはいっても、ウの欲望産業生活次元とオの知識概念学問次元での事です。それら全てを創造した象徴である「三」を通過した後で、突如として、感情感覚の世界が出現したのです。

感情次元は言霊ではアの次元となります。こうして、ウオアの各次元が揃い、それに対応した綿津見側にも次元の上昇が起きていたのです。

以前は、ウオの言霊次元に対応していただけですが、ここからは、アの全体を取り入れる感情次元の元で、話すようになります。

象徴的には、鉤を「赤海魚(たひ)、」の「ア」から見つけたと記述されています。「たひ」は「田霊」で言霊音図。

これによって、「ア」の全体性から出てくる「チ(鉤)」の全体性の話になります。

それが、

【『此の鉤は、淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)。』と云ひて、】 です。

【淤煩鉤(おぼち)】、全体的に見られた知識経験事象で言霊オの次元。オの霊(ほ)の鉤。

【須須鉤(すすぢ)】、全体的に見られた選択分配事象で言霊エの次元。揺るぎなく静まった音図(す)から、安定した組合せを(す)を選択する鉤。

【貧鉤(まぢち)】、全体的に見られた感情事象で言霊アの次元。各間(ま)を一望の元にみる鉤。

【宇流鉤(うるぢ)】、全体的に見られた欲望五感感覚事象で言霊ウの次元。欲望を得る(うる)鉤。

【 】イの次元は、鉤で釣るということそのもの。

山彦は自分の嘆きを納得してみると、自分に感情次元から見られた自己性能の四段階があることに気付き、また、綿津見はそれを明瞭に指摘します。

ことの起こりである海彦との生産用具の交換とは、山彦の研究探究心から来た現象客体領域は物事を創造できるかという問いからきていました。生産創造はできないが移動してくる物理的反射反作用はあるというところから、ヤマビ(霊)コ、(コダマ(霊))になりました。

山彦は実地に試して落胆し、無理無能な行為であることを知りましたが、自分のしてしまったことを元に戻すことができません。塩推(人間存在の全在り方、四霊しほ)、を采配する神との遭遇でチャンスを得て、龍宮での滞在中に豊玉(先天的な自分の片割れ)に合います。姫とのまぐあいで、自己領域内では再び豊富な創造現象結果がもたらされました。

事の始めを思いだし、兄の鉤を返還していないことから憂いの極に達した時、綿津見による行為から、彼の領域での大小全部の魚を検討することの中から、最後の目的に到達する方法を見いだすこと(演繹法)を獲得しました。

こうして言霊チの位置を見だしたことを反省して、綿津見言うことを全部受け入れます。

さらにこの上に綿津見は、鉤を返す時に、

【 後手(しりへで、うしろで)に賜へ。】ることを伝授しました。

「後手」はおまじないのろいになってしまっていますが、全然ちがいます。神代の巻きは意識行為の解説ですので、「意識操作の後手」です。

普通は一から始まって数が増えて十になりますが、後へ手を振るのですから、十から一に行く方法です。年季のいった人が子供に物事を教える時、子供がいうことは既に全部分かっていますから、教える内容と一致するように、全部の子供たちの意見を順次に集約して一に近づけていきます。子供の意見の取るべきところと、切るところを全部取り込み目的を達します。

優秀な学者や、知識次元を超えた悟った者たちも同様で、出てくる反論や批判や疑問は、その出所とその運用とその正否の方向とが全て分かっているので、どのような主張も元の鞘に納めることができます。

この後手を行なうことは同時に自己反省を自分で位置づけていくので、兄がどのようなことを言おうと、その言い出す位置が分かりますから、それに対応する自分の言葉も変化していきます。

これが後手(しりへで、うしろで)ですが、後手には決定的な欠陥があります。

未来将来今後の選択分配に対応できないのです。

というのも後手は、材料を集めて行って整理検討して目標に達したものを、経験知識の判断取捨という経験から得られた判断で既に取得しています。それら十の分かっているものを、相手を見通している見え透いた者として扱います。相手の言う事が分かっているのですからそれだけでも大したものですが、それらは全部過去の内容です。

占いだなどといっても過去の内容を判断するだけしかできないようなものです。それを導いている時には過去の事さえ不明な時点ですから、何か未来の事を調べているように思えます。がしかし、分からない過去を追体験していないというだけのものです。調べる行為は未来に係わっていますから、過去を調べていながら未来を調べているように勘違いをしてしまうのです。

ですので現在進行中のものに対しては対応できません。鉤を返した時兄の行為を過去から予測することまではできますが、その時点での対応のことにはなりません。

後手にはこのような欠点があるのです。

その対応策が次段です。現在進行しているものにはどう対応するかです。

【然して其の兄、高田(あげた)を作らば、汝命(いましみこと)は下田(くぼた)を営(つく)りたまへ。其の兄、下田を作らば、汝命は高田を営りたまへ。】

上の後手の解説で見たごとく、後手は十(全部)の分かっていることから、元にもどります。誰それはこんなことを何時言うかというのはまだ分かりませんが、言い出す事柄内容は、経験研究知識上分かっています。つまり、後手の今までの解説が、おまじないのろいに関連したものだという主張は既に、安万侶さんは分かっていて知らんふりをしていたということです。

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13。相手を説得する法。「 高田、下田 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

相手を説得する法に少しは入ったような気がします。

【 高田、下田】

安万侶さんの知らん振りというのは古事記上巻全体を通して言えることですから、ここでいう高田、下田も土地の高低を言っているのではありません。(ついでに余談を。ツケで飲食する時のツケを漢字で書くと「記」なのです。飲み屋の女将はツケ帳(記帳)というのを持っています。では古事記を読みなおすと、こじつけ、、、です。安万侶さんの考えた世界一の冗談です。ふることぶみ、なんて冗談でも言わないで下さい。)

さて四つのまじない言葉(ではありませんよ)、『淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)。』をどのように使用するかと言えば、四つを連続してぶつぶつ繰り返し繰り返し言ってのろうのではありません。

あなたの話している事の内容次元は人間性能野の四つの内のこれではない、これでもないですよ、とその最後の一つを示すだけです。

以前の山彦ならば、自分が代表する立場である物の生産創造世界は主体的立場になれるかで、用具を交換しました。

喋った言葉、獲得した研究成果である知識、思いだしたり閃いたりしたアイデア、調べて出てきた概念、そして記憶を再構成してできた思想とか論理とか其の他、客観的な成果がはたして主体的に創造活動をしていけるかで、やってみましたが、鉤を失ったのです。

原理と運用の仕方を無視したからです。

日常生活上、人との話し合いでは、議論が議論を、知識が知識を、アイデアがアイデアを産んでいくように見えます。結局空疎な概念化、地に足のつかない思想等が出来ていくように見えますが、主体側による斟酌回収があるからのことで、ヤマビコ側が主体、能動の立場になったのではありません。

今は手元に綿津見から教えられた事があります。相手を傷つけず、相手が了解して相手側から言ってくる秘策となるものです。

ネットで相手を説得する法でみるとびっくりするほど出てきます。分厚い本から小耳に挟むようなものまで、最新理論や心理学、行儀作法まで、実例や学者の意見や権威を借りたものまでより取り見取りです。

このブログは現実に当てはめることをあまりしていませんが、それぞれ思い当たることがあると思います。

それでも、わたしのもその砂粒の一つなのですね。このままでは古事記を汚して終わりそうです。情けない事です。古事記なんて言う言葉が入っていると敬遠されるのかもしれません。わたしのような書き方では古事記の真意が伝わっていないということです。これでも頑張っているのですが。

実は高田と下田で一つのものです。高田は言霊要素の古事記の冒頭五十の神のことで、下田はそれに続く言霊運用の神五十のことです。合わせて五十音図が二つ言霊百神になります。

兄が高田をつくるというのは、個々の個別要素に固執することで整理運用の全体をないがしろにし、下田を作るは個別的な要素を無視した運用をしていくことです。両者を一サイクルとして循環しないとうまくいかない事を示しています。

もう一つ、高田下田の解は、五十音図を主体側、客体側の半々に分けた場合のことです。高低のイメージではなく、左右のイメージで見れば、右半分の中央に「ス」の入った田と、左半分の中央に「ユ」が入った田ができます。

大嘗祭(だいじようさい)の時の悠紀(ゆき)・主基(すき)の由来です。

【 然為(しかし)たまはば、吾(あれ)水を掌(し)れる故に、三年の間、必ず其の兄貧窮(まづ)しくあらむ。】

○三年之間(みとせのあいだ)は、だんだんに貧しくなって行く過程が、三年続くことを言う。【これを間の下に「に」という「てにをは」を添えて「あいだに」とか、「ほどに」などと読むと、三年経った後には貧しくなっているというように聞こえ、意味が異なる。「に」を添えて読んではいけない。】中巻明の宮(應神天皇)の段に「その兄は八年の間、しぼみ病み枯れた」とあるのも同じである。(古事記伝)

三年を期間として読めば、では四年目五年目はどうなるとなります。これは前回に出た三年と同様期間を指したものではありません。。

「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」ということで、三が揃わないと何も生じないことです。上と下とでバラバラであるからです。

【 吾(あれ)水を掌(し)れる故に、】

〇「掌」「しる」は天下を知る、国を知るなどの意味で、水を保ち掌って、おもいのままに操るのである。(古事記伝)

しょっぱい塩水の海神が田畑の水を支配しているというのおかしなことです。八百万も神さんたちがいるのに、海水と農耕用水が同じ扱いです。

海水は農耕用の潅漑用水にならないのは大和時代でも分かっている事です。それを今の学者の解釈では同じように、高田下田もない扱いをしています。

「水を知れる」は水の流れに例えて、主体側から客体側へ行く綿津見の働きそのものを指しています。綿津見は兄の主体的な活動を弟に結ばれるようにする隠れた動因です。

【 三年の間、必ず其の兄貧窮(まづ)しくあらむ。】

ここも、兄がまずしくなって弟が豊かになるといった対立した構造はありません。兄弟は一心同体なので別別の成果を得る事ではなく、弟も兄同様何も得られないのです。弟も「三」の片割れなのですから。

兄が物を創造生産したいというのに弟が協力しない構図です。

兄が高田で物を生産したいという時、五十音図の右半分を取る事です。

あ行で言えば、「あかさたな」、

我(あ)が心清く明(あか)き故に、我が生みし子を悟り(さ)の手(た)弱女と成(な)せ、

と、創造行為に励む事ですが、受動側にいる弟の協力がない為実現しません。

また、下田を取る時は、「端(は)を(ま)とめて八(や)つに並なら(ら)べて和(わ)せ」で収穫の準備は万端ですが、収穫するものがありません。

しかし、兄の主体側の活動がうまくいかない時、弟の客体側に責任を転化することはよくおこる事です。

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14。相手を説得する法。「 タ・タ・交う、戦う。しおみつたま。しおふるたま。 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

擬人的に兄がこうした弟がああしたと語っていますが、隠れたそそのかす主は綿津見です。

綿津見の語ったところをもう一度繰り返します。

【 其の綿津見(わたつみの)大神誨(おし)へて曰ひけらく、

「此の鉤を、其の兄に給はむ時に、言(の)りたまはむ状は、『此の鉤は、淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)。』と云ひて、後手(しりへで)に賜へ。

然して其の兄、高田(あげた)を作らば、汝命(いましみこと)は下田(くぼた)を営(つく)りたまへ。其の兄、下田を作らば、汝命は高田を営りたまへ。

然為(しかし)たまはば、吾(あれ)水を掌(し)れる故に、三年の間、必ず其の兄貧窮(まづ)しくあらむ。

若し其れ然為たまふ事を恨怨(うら)みて攻め戦(たたか)はば、

塩盈珠(しほみつたま)を出して溺らし、若し其れ愁ひ請(まを)さば、塩乾珠(しほふるたま)を出して活(い)かし、如此(かく)惚(なや)まし苦しめたまへ。」

と云ひて、塩盈珠、塩乾珠并(あは)せて両個(ふたつ)を授けて、】

タ・タ・交う、戦う。

ここで物騒な「戦い」なんてことになりますが、もちろん戦闘する事ではありません。

【 恨怨(うら)みて攻め戦(たたか)はば、】は、裏見て、タとタを交えることです。

主体側の兄が自分の相手の(裏側である弟)を見て、両者の「タ」の交わりを作ろうというものです。兄の「タ」は主体の母音側「ち(T)+あ(A)=た(TA)で、弟の「タ」は客体の半凡側、「ち(T)+わ(WA)=た(TA)です。

自分側の「タ」と裏、弟側の「タ」を交じえようとする事です。あるいは、兄側が自分の「タ」はこうだこうだこうだとと、全部出してくることです。これは主体側の兄がすることですから、物語の始めのように弟の間違っている行為とは違います。

兄側の当然の行為で、兄の知っていること、感じていること、記憶にあること、欲していること、等々、自分のものと思っているものを滅多やたらと出すことです。知ったかぶりをするとか、何でも欲しがるとか、とういうようなものです。

しかし、これに対して、弟はこの時点では四つの人の性能次元を得て、綿津見の援助を得ていますから、全世界に対応できる態勢ができているのです。つまり、兄がどのような次元の「タ」を出そうが相手になれるということです。とはいっても兄の持つ手持ちの「タ」は欲望、知識次元の「タ」だけです。

そこで、山彦が対応して山彦のもっている全世界を包含している「タ」を出されたら、兄は「タ」に溺れるということです。兄の「タ」だけでは世界が広すぎて兄の手に負えなくなるということです。

塩を四穂で読み替えれば、

【 塩盈珠(しほみつたま)を出して溺らし、、塩乾珠(しほふるたま)を出して活(い)かし、】と、ここでも「塩=四穂、四つの人間性能」で説明しています。

そして、兄には処理しきれない次元世界がでてきた時には、兄の位置する場所はここだよと、後手に塩乾珠(しほふ・ひ・るたま)でしめすのです。

【 塩乾珠(しほふるたま)】は、四穂ふる言霊のことで、ウオアエの四つの次元の運用活用を「ふる」と言い、その実行処理を言霊が行なうということです。バットがよく振れているというようにときには、その運用活用がうまくいっているという意味になっています。

弟は兄の知らない四穂を知っていて、綿津見による運用の援助も得ているのです。

お兄さん、あなたがしたこと出来ることは、欲望と知識次元の田を耕すことだけです。わたしは宇宙世界の田を手にしていますから、難なくあなたのお相手はできます。お兄さんの手の届かないアの次元の、エの次元世界が出てきたら、いくらでもお手伝いができるので、お兄さんがいられる場所はしっかり確保してあげられます、というこです。

ここで注意することは、山彦は受動側ですから、彼がアの次元やエの次元をどうこうするということはできません。自分のふところに何時でも飛び込んでも大丈夫ですよ、ということです。

そして兄が三年努力しても何も生産できないという時の「三」は、年月ではなく、主体、客体、両者を結ぶ橋が出来ていないということを意味します。です野で兄はいくらやっても駄目なのです。

弟が三年目に嘆いたように、兄も三年目に(「三、全てを生じる」という象徴ですよ。)、自らの意識次元が、感情次元の上昇して、「恨怨(うら)み」を覚えるようになるのです。次の段落では、「荒き心を起して迫め来ぬ。」と、「アラ」となっています。「アラ」というのは、兄が、「あ・」かさたなはまや「・ら」、の五十音図を完成させたということになります。ここは後程。塩乾珠(しほふるたま)のふるふるも後程。

【塩盈珠、塩乾珠并(あは)せて両個(ふたつ)を授けて、】

送り返した。

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15。相手を説得する法。「 ふる。 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

【 塩乾珠(しほふるたま)】。ふる。

ホヲリの命は海神から海水を支配する呪力を与えられたという意見がありますが、一度考えられた事からそれの整合性を保持する為に、そういう方向を取らなくてはならいはめになっています。農耕用水の支配にまで横滑りさせるわけです。

では「フル」とはどういうことかと言えば、前回に書いた通り、意識の作用力能が働くということになります。手の平にフッと息を吹きかけてみてください。その時、息の風圧が手の平にかかりますが、その現象を確認する以前に戻ってください。

唇から送り出す風圧は、手を見つめ手があると納得して、そこに息を吹きかけてみようという意志なり意図が働いています。そのまま息を吹きかけていると、吹きかけている息が自分の意図の全体として感じられるはずです。。

これは「フ」を感じられる現象から見た場合ですので、今度は意識から見ていくと、何かの意志があり、イメージを持っている場合、そのイメージが出てくる端緒の全体になります。

朝仕事に出かける時間がきました。まず最初に成す事は、仕事に行かなくてはならないここにいる自分を、ここにいるがここを出る、という風に家にまだいる自分という全体を自己分裂に導く事です。

家にまだいるという意識の全体と、仕事に出るという意識の全体がそのまま動きだす当初の意識は、フッと踏み出すことからはじまります。この現象となる行為を導く、フッという端緒の全体が剖判しようとしている時の意識の全体が「フ」になります。

そこで「フ」は二つのフ(二)、現象結果から見れば二個、端緒の剖判、

踏み出すの「フ」は、現象結果から見れば、以前と以降の二つの姿、踏み出す姿が動いた全体、

深い、太い、増える、等の「フ」は、イメージがづっと現象に乗り続けていくこと、イメージが現象となって活動している姿、

等々で、古事記では、「風の神名は志那都比古(しなつひこ)の神」が言霊フを担当しています。

志那都比古とは先天活動の活動で発生した意図、そのイメージとなった姿(志)が、すべて(那)、言葉(都=つ・霊屋子=みやこ、言葉の家)となって活動している実体(神)と言った意味です。心は言葉に乗って、自らが現れた物象、現象となって何処までも活動します。

意図・イメージが物象の形を取る時の全体が物象と意図に剖判する端緒が「フ」で、自分を相手側に結び付ける意図が含まれています。

それには、

まず自分側と相手側を選択選別する意図が隠されています。経験知による了解がそれを可能にします。それは経験概念記憶等の自分の全部の組織体から導かれます。

そして、選ばれたものが表現物象化されそれを規定していく表現体系(言葉等)が選択されなければなりません。それは選別されたものとして他者とは違った扱いを受ける事になります。

これは「フ」の運用場面に出てくるもので、こうして、「フ」の言霊要素の意識と物象方面とその運用方面を示しました。

そしてそれを活用していけば、「ふ」る、となるわけです。人間の四つの次元世界を活用するのですから、しほ、四霊、ふる、になるわけです。

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次の引用を参考にしてください。

天津神籬による證明の話。

世界史略年表(三省堂編)を見ましょう。「紀元前二十七世紀、ピラミッド時代」とあります。今から四千七百年前頃、エジプトに於てピラミッドが盛んに建造されていた事を示しています。あの巨大な四角錐の建造物がエジプト王の墓として如何なる意味を持つのか、諸説がありますが未だに確定していません。中国の易経に「形而上を道と謂い、形而下を器と謂う」とあります。精神的法則を道と言い、それを形で示したものを器と言うという事です。エジプトのピラミッドは、日本古代の言霊学の総結論である人間の最高理想の精神構造(道)を物質的建造物(器)として表徴したものなのです。その精神構造を高千穂の奇振嶽(たかちほのくしふるたけ)と謂います。

次頁にピラミッドと高千穂の奇振嶽(たかちほのくしふるたけ)(天津神籬)を図示しました。高千穂の奇振嶽とは主体精神(高[たか])の道(千[ち])である言霊(穂[ほ])を霊妙に(奇[くし])活用する(振[ふる])五十音言霊図の構造(嶽[たけ])の意であります。国家・世界の統治者がその徳によって統治する政治の組織を五十音言霊で表わしますと図が示す如く母音がアイエオウと縦に並び、最上段のアの列がアタカマハラナヤサワと横に並びます。この五十音図を天津太祝詞(あまつふとのりと)(音図)と言います。この音図を上下・陰陽にとった百音図(図参照)は古代の政庁の組織を表わしたもので、百敷の大宮(ももしきのおおみや)と呼ばれます。この図形の中心にフルフルの四文字が入ります。フル(振る)とは力を振るう事、原理を活用するの意です。このフルフルの四文字の所を持って図面より直角の方向に引上げますと、四角錐の山形が出来上がります。これが高千穂の奇振嶽です。

幼児の折り紙遊びのように思われるかも知れませんが、ピラミッドの建造が盛んに行われた五千年前の世界に於ては、「人間の心とは何ぞや」の問題をすべて解明した言霊学の総結論であり、また国家・世界統治の基本原理でもある精神原理の表徴物である事は人類衆知の事実であったのです。それ故にこそ、エジプトの大王達は死して後、自らの生命がこの大原理の中に永遠に生きようとする願望の下に自らの墓として巨大なピラミッドを建造したに違いありません。

以上、言霊学の発見が今から八千年乃至一万年前である事の證明を言霊学のアルファーとオメガーの理論からお話いたしました。(天津磐境(あまついはさか)と天津神籬(あまつひもろぎ)の原理については当会発行の書籍を参照、または当会にお問合せ下さい。)

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama/lecture/no185/no185.htm

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16。相手を説得する法。「 鰭(はた)と鉤。葉田と葉理。 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

【 即ち悉に和邇魚(わに)どもを召び集めて、問ひて曰ひけらく、「今、天津日高(あまつひこ)の御子、虚空津日高(そらつひこ)、上(うは)つ国に出幸(い)でまさむと為(し)たまふ。誰は幾日ひ(いくか)に送り奉りて、覆奏(かへりごとまを)すぞ。」といひき。故、各己が身の尋長(ひろたけ)の隨(まにま)に、日を限りて白す中に、一尋和邇(ひとひろわに)白しけらく、「僕(あ)は一日(ひとひ)に送りて、即ち還り来む。」とまをしき。】

何故一日でないといけないのか、あるいはすぐさま直ちに帰らないといけないのか。

それぞれが身の丈におうじて返答したとは何か。

各人がそれぞれに考えた解決運搬法がある。

兄を貧しくする秘策を持って、これから対当しようとするわけです。

【 故爾に其の一尋和邇に、「然らば汝(なれ)送り奉れ。若し海中(わたなか)を渡る時、な惶畏(かしこ)ませまつりそ。」と告(の)りて、即ち其の和邇の頸に載せて、送り出しき。故、期(ちぎ)りしが如(ごと)、一日の内に送り奉りき。其の和邇返らむとせし時、佩(は)かせる紐小刀(ひもかたな)を解きて、其の頸に著けて返したまひき。故、其の一尋和邇は、今に佐比持(さひもちの)神と謂ふ。】

武力抗争が予想されながら、刀を頸につけて返しました。

経験知識概念を断ち切る刀の使用法(紐)はもう不要として、送り返しました。

【 是を以(も)ちて備(つぶさ)に海神の教へし言(こと)の如くして、其の鉤を与へたまひき。

故、爾(そ)れより以後(のち)は、稍兪(やや)に貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め来ぬ。

攻めむとする時は、塩盈珠を出して溺らし、其れ愁ひ請せば、塩乾珠を出して救ひ、如此惚(なや)まし苦しめたまひし時に、】

後は海神の言う通り鉤を返した。

海彦は使い慣れた元の最強の鉤を使用していくが、徐々に貧しくなっていく。何故か。

【 稽首(のみ)白(まを)しけらく、「僕は今より以後は、汝命の昼夜(ひるよる)の守護人(まもりびと)と為(な)りて仕へ奉らむ。」とまをしき。

故、今に至るまで、其の溺れし時の種種(くさぐさ)の態(わざ)、絶えず仕へ奉るなり。】

こうして兄は弟の守護人になりました。

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終りまずければ全て駄目で、全く駄目になりました。

出だしの文

【 故(かれ)、火照(ほでりの)命は海佐知毘古(うみさちびこ)と為(し)て、鰭(はた)の広物(ひろもの)、鰭の狭物(さもの)を取り、火遠理(ほをりの)命は山佐知毘古(やまさちびこ)と為て、毛の麁物(あらもの)、毛の柔物(にこもの)を取りたまひき。】

の、読み込みが違うようです。

火照(ほでりの)命 --海佐知毘古 -鰭(はた)の広物(ひろもの) -鰭の狭物(さもの)

火遠理(ほをりの)命 -山佐知毘古 -毛の麁物(あらもの) ----毛の柔物(にこもの)

「鰭(はた)」はヒレなので、表現されたもの、文字表現として受け取ってきました。そのつもりでやって来ましたけれど、うまくいきませんでした。

そこで、次回は、いつになるか分かりませんが、またやるかどうかも、全く新しい視点になるかもしれないし、決定打というものは持っていないので、どうなるかは未定ですが、「鰭(はた)」はそのまま「はた」と取り当て漢字を「葉田、葉の田、言葉の全部」にしようと思います。

大小の「はた」をとったということは、全部とったということですから、鉤を返せといわれて返しても、もう取るものはありません。全て手に入れたのに同じ鉤を使うのは馬鹿げています。世界最高峰の山に登った後、次の山に登ろうとするようなもので、もうそんなものはないのです。

地球全体を征服してキングになれば、同じ手法で宇宙に挑戦するという漫画宇宙戦争になるでしょう。それと同じ構造です。世界の征服者には、同じ鉤を与えても、以前の自分の行為は理解できますが、これからのことには全く手がでないのです。

世界支配者には未来を設計することはできないからです。鉤、ハリ、とは「葉の理」のことで、世界支配に至るまでの「葉の理」でしかありません。それなりの自尊心と優越感があっても、そこ止まりのものです。

未だに世界支配が終了していないので、いろいろ陰謀論などがでてきますが、早く世界支配を完了してもらいたいものです。支配者とは哀れなもので、それ以上の夢も目標も何も持っていないのです。自滅だけが明瞭な道となってしまいます。

もしそこに、世界支配者を指導することのできる人が出てきたらどうなるでしょうか。

まもなく、その時代がくるでしょう。

神道関係の予言はこのように読み替えられるでしょう。

何故なら、海彦山彦にそう書いてあり、人の行動の本性としてそうなっていると明かされているし、そのようなものとして歴史は予定されている(経綸)というからです。

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残念ながら第一回目の海彦山彦の解説は失敗でした。

次回はもっとうまくいくでしょう。

またいつか。。。。。。。、、、、、、、、。

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