「言霊」島田正路氏の著書の写し 3

3)言霊と仏教典

言霊と聖書

言霊を自覚確認する方法について

言霊子音の自覚について

言霊を自覚確認する方法について

言霊子音の自覚について

言霊と仏教典 欠

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言霊と聖書 欠

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言霊を自覚確認する方法について

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いままで言霊について母音・半母音・父韻・親韻・子音と説明をしてきました。言霊とはいかなるものかについて大方の御理解を頂けたものと思います。さてそこでこれから言霊を自覚し確認するにはどのような方法があるかについてお話を進めてみたいと思います。

人間が日常食べたり、議論したり、映画を観賞したり、道徳について考えたりする生活自体が、実は五十音言霊の働きそのものであります。自覚すると否とにかかわらず、人間は生きていかれることにかわりはありません。それなら言霊を自覚するとはどういうことなのでしょうか。

人はスイッチ一つでテレビの番組を楽しむことができます。けれど大部分の人がテレビの受像機はどんな構造でできているか、放送局から受像機までどんな仕組みで連なっているか知りません。知らなくてもテレビはスイッチを入れれば映ります。しかしテレビがどこか故障を起こしたらどうでしょう。また、何かの都合でチャンネルが混線することが起こったらどうするでしょう。

否応なくテレビの専門家のお世話にならざるを得ません。さもなければテレビの勉強を自身で始めねばなりません。その上で構造を知った時、その人はテレビに関して全てを知り、自由に操作できます。

言霊についても同様です。

人間が日常の生活から始まって、社会の情勢・国際間の問題・人類全体の将来等に何らかの危惧・疑問を持ち、既存の学問・宗教・道徳等を駆使して事態に対する意識を統一しようとしても、どうしても不可能となった時、人間生活の最も根本の要素である言霊の存在が初めて身近なものに感ぜられてくるのです。

事態を解決するにためには人間生命の構成要素である言霊の原理の立場から人生を再認識しなければならなくなるわけです。

言霊は生命の精神における究極単子です。人間をいま・ここで現に生かしている根本要素です。ですから言霊を確認する第一の道は、自分の働いている心に即して考えていくより他にはありません。言霊として説かれた要素を自分の心の働きの中に反省によって確認していくことです。

そしてその確認ができたら、その確認された言霊の原理によって自己と他・社会・世界の動きを再構築・再認識していくことです。これが言霊確認の第二の道となります。

この二つの道が完成されますと、その人は人生最奥の言霊の立場において人生を見、社会を観察し、世界を見透すこととなります。これ以上に人間世界を明らかに知る方法はありません。

前置きはこれくらいにして言霊自覚の方法についての話を進めることにしましょう。

この本の初頭に人間の精神の五つの宇宙を説明しました。欲望・知識・感情・道徳・意志の五つの世界です。人間はそれを自覚するとにかかわらず、この世に生まれてきた以上必ずこの五つの宇宙の中で生きてゆきます。

しかし人間は動物であると同時に神の子として自分の住んでいる宇宙実在を認識・自覚し・それに名を付け、他の人々に伝え文明を興し後世にまで遺し、人類として発展します。そして五つの宇宙ウオアエイと順を追って自覚確認してゆくことがとりも直さずその人の心の進化成長でもあるのです。

そして五つのうちの最後の認識である人間意志の実在言霊イを見極める時、言霊の原理を理解し確認して活用運用することができるようになります。

昆虫は幼虫-蛹-成虫の三段階を経て大空に飛び立ちます。人間の精神は五段階の進化が可能です。ただし昆虫と違って誰もがこの進化段階を全うするわけではありません。年数だけは長く生きても、第一段、または第二段の認識自覚で終わる人も多いのです。欲望・知識・感情・道徳・意志等の五つの世界をそれぞれ一つずつ他との混同無しに自覚するにはどうしたらよいのでしょうか。

いま、この人間の精神進化の段階を順を追って説明してゆくことにしましょう。

第一 言霊ウの段階。

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欲望の段階です。オギャーと赤ん坊が呱々の声をあげて何も教えられないときから乳房をすいます。食物をほしがる欲望の始まりです。次第に大きくなり食物の他に他におもちゃが欲しい、本が欲しいということからさらに長じて、旅行がしたい、金が欲しい、名誉が欲しい、地位が欲しいと欲望に限りがありません。現にこの欲望の世界のほかはほとんど知らずに一生を過ごす人がいかに多いことでしょう。この進化段階にある人を仏教では衆生と呼びます。

またこの世界にうずくまって他のことを知ることなしに大きな顔をしている人を禅坊主はウ字虫、すなわち蛆虫と呼びます。この段階を基礎とした社会といえば広く産業経済の社会があります。もちろんこの世界史か知らない人でも他の四つの次元オアエイの宇宙にも生命を生かして暮らしていることに間違いありません。

ただその四つの世界を自覚の対象として意識することが極めて少ないということなのです。

このウ言霊の人間性能は、人間における最も幼稚な初発段階の性能でありますが、同時にまた人間が生きてゆくための土台となる働きでもあります。他の、さらに高次元の性能を開発しようとして、このウ次元の、すなわち食べていくことの人間の営みを軽蔑する人をよく見かけますが、その態度が高次元の性能の自覚運用を不可能にさせることになりかねません。注意すべきことのように思われます。

第二 言霊オの段階。

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この次元においての人間性能は、言霊ウ次元で行われた諸現象相互の関連性を概念をもって知識として理解することです。現象の起こる原因・過程・結果・をあらためて再構成して、その意味・法則を概念的にまとめる段階です。一般に学問することとはこの段階の性能のことであります。

言霊の勉強におきましても、言霊についての話を聞き、本を読み、知識として理解していく段階です。言霊原理は人間生命の営む一切の現象を成立させている根底の実在法則でありますので、言霊を勉強する以前に人生一般に関する知識広く身に付けていればいるほど、言霊を理解する上で有利であると言うことかできます。

商業や産業人の心理、学問をする上での思考方法、芸術や宗教の体験、道徳的実践への勇気と挫折等の経験が多いほど言霊理解に役立つことでしょう。しかし、これらの体験が少ないからといって言霊原理が縁遠いというわけでもありません。

この世の中に横たわる矛盾の洞察と理想社会への渇望が言霊勉学の一番の糧であります。ここで言霊を理解し、自覚運用する上で知っておきたい知識を得るために役立つ書物の名前を列記しておきます。

まず第一に古事記、日本書紀です。特にその中の神代巻は言霊原理の詳細な手引き書でありますゆえ、すぐには理解し難いことと思われても必ず読まれることをお奨めします。古事記と日本書紀とではその記述に相当の違いがありますが、その相違の意義についてはこの本の後章において説明されます。記紀双方とも神話というものが言霊原理の表徴、呪示する典型であることを読者は理解されることでしょう。

万葉集と古今集の歌本も一読の価値があります。和歌が敷島の道・言の葉の誠の道として、三十一文字をもって心情を吐露すると同時に、歌によってはその中に言霊原理を巧みに折り込んだものが見出されます。

ギリシャ・北欧・ローマ・エジプト等の神話もお読みになっておけば言霊の理解に役立つことは間違いありません。

日本・中国・東洋・西欧・世界等の歴史を読まれて年代順に大雑把にでも頭に入れておけば、言霊原理を理解されたとき、その原理によって歴史を再構築するうえで役立ちます。特に日本の歴史に関しましては戦前と戦後の日本史の双方読まれることを是非お奨めしておきます。(その意味は後章で明らかになります)

宗教も必読書です。神道では神道五部書、黒住、金光・天理・大本等の宗教教祖の遺稿やお筆先も興味のあるものです。

キリスト教では旧・新約聖書があります。特に旧約ではモーゼの五書・ヨブ記・イザヤ記・ダニエル記、その他新約はマタイ伝・ヨハネ伝・黙示録等は必要です。

仏教では般若心経・金剛般若経・浄土三部経・華厳経・維摩経・法華経等が有益です。その他の仏典では禅宗無門関・碧眼録・正法眼ぞう・歎異抄等々、多数が挙げられましょう。

中国の書にも有益なもの多数です。老子・孟子・易経・論語等がさしあたって数えられます。

インドのヨガ教典も役立ちます。その他各国の哲学書も有用なものでしょう。

以上列挙しました書物の中で手近なものから始められ、不明な点はそれぞれの導師に尋ねられて一応の理解を得、卒業されることが、言霊を自覚するための準備段階の知識として必要なことであります。

第三 言霊アの段階。

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「自分のものにする」という言葉があります。物であれば金を出して買って自己の所有物とすることです。知識で言えば、それを暗記しているだけでなく、概念・理論・法則をよく理解して、論理的思考を駆使することかできるようになることです。

ところでこの第三段階の言霊アにおける言霊の勉強は、言霊を自己のものとすることではなく、言霊が自己の生命そのものであることを知る始めの段階、といったらよいでしょう。このことを知ることは自覚という言葉に最もふさわしい事実ということができましょう。「天上天下唯我独尊」と仏教で申します。

宇宙において我一人と尊しとはなんと高慢な態度と思われるかもしれません。けれども、 自分の心の中を深く見つめていって、ついに、自分の心の根元が宇宙そのものであり、その宇宙から現れた自分の構造内容を知ることによって、とりもなおさず、人間を、社会を、世界を、知ることができるのだと知ったならば、 天上天下唯我独尊とは真理なのであり、真実であり、決して高慢な自惚れではないこととなりましょう。

自覚とはこういう種類の確認を言うのです。

第一の言霊ウと第二の言霊オの段階の学習態度は進歩をめざすことです。欲望を遂げるには一にも二にも前進することが基調となります。学問する言霊オの心構えも広く本を読み、多数の人の話を聞き、質問するなど進取の態度が必要です。一つでも多くの経験を積みそれを少しでも広い理論体系に概念的に心の中で組み立てていくことであります。

この二つの世界においては他人より強く大きいよくぼうを持ち、その経験を少しでも他より広い確かな理論体系にまとめた人が勝ちとなるはずです。進歩が学習の基本です。

ところが第三段階の言霊アの勉強になるとその心構えが逆転します。その態度の基調は退歩なのです。「天地の初発の時高天原になり増せる・・・」(古事記)、「元始に神天地創造たまえり」(旧約)、「太初に言あり」(ヨハネ伝)。この『はじめ』すなわちいろいろな心の現象が起こっては消えていくその本源の宇宙の自覚の次元が言霊アです。

とすると言霊ウの次元の経験と、言霊オである概念的把握という二つの個人的見解では、 どうしても、その見解が出てくる元の世界は捉えることができません。経験と概念理解を無限に積み重ねれば起こってくる現象はそれだけ正確に捉える事はできるでしょう。

けれどもその現象が起こる以前の、または、その現象が消えてしまった後の、何も無い宇宙そのものをとらえる事は決してできない道理です。ここでは進歩の追求態度は通用しないのです。それでは言霊アの把握の方法には何があるというのでしょうか。

そこに退歩の学が登場します。

人間が初めてこの世に呱々の声をあげて生まれ出た時、その心は真白で汚れないものでありましょう。まさに神の赤子です。その後に身につける経験や・意見・希望・理想等々の個別的見解を持っていないためだということができます。

これら種々の見解の基礎成る知識・経験は人間精神の成長にとって欠く事ができず、またその知識・経験の獲得によって自我を形成していくのですけれど、同時に人間はその自分の持つ価値判断の基準となる経験・知識の体系を本来の自分自身だと思い込んでしまいます。そして各自の経験・知識が触れ合うところに競争・議論・反発等の騒動も起こってくるものです。

いま、人間がこのような精神成長の過程で、経験・知識によって形成された人格の有限さ・狭さ・不自由さに気づき、何もの・何事にも制約されない精神の自由の境地があることに気付く時、その探求の態度はそれまでの進歩をめざすことから百八十度の転回を余儀なくされるのです。

それまで自我を成長させようとせっせと集めてきた経験や知識が、実はすべて他人や社会からの借り物であり、本来この世に生まれ落ちた自分自身とは別のものであることを心の中に確かめていく作業を始めねばなりません。いままで一生懸命集めて自分の着物として重ねて着込んできた経験・知識・信条等を、一枚一枚脱ぎ去っていくのです。それ以外に精神的赤ん坊に帰る途はありません。

この精神ないのUターンすなわち反省に、おおむね二つの方法が考えられます。宗教でいうところの自力と他力です。簡単に紹介しましょう。

その一

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色々な心的現象を生起させる本源の宇宙が、すなわち本然の自己が、必ず現前することを確信し期待しながら、いままで自己自身だと思い込み生きるよすがとしてきており、判断の基準ともなっていた経験・知識・信条・理想等々を、反省の内に否定していく道であります。「庇・ひさしを貸して母屋を取られる」という諺があります。生まれ長じて知識・教養を身につけてきたはずであるのに、いつのまにかその知識・教養が自分という母屋を乗っ取ったのですから、それをことあるごとにひとつひとつ自分自身に言い聞かせて再び母屋から庇に出ていっもらう作業です。その知識・信条の内容がどんなに立派なもの、有益なものであろうとも、どんなに命をかけて信じているものであっても、借りているもの・本来の真白な自分でないことに違いはありません。それを庇にまで帰ってもらうのです。

人間が一度と経験したこと、手にした知識は、どんなに否定しても決して全く忘れ去り、関係のないものになることはできません。けれどもそれらの経験・知識に自分自身が翻弄されてきた今までのことを反省し、実は自分が時所に応じてそれらの経験・知識を反対に使いこなすのが自由の態度なのです。

反省し否定するといっても、その中心に本来本然の自己である宇宙の存在を確信しなければなりません。この確信のない単なる経験・知識・信条等の否定は、当然のことながらニヒリズムに陥って危険をはらんでいます。今は現前していない本然の自己である宇宙の自覚を確信するのですから、この態度・心構えは信仰ということができましょう。

仏教の一つの宗派である禅などはこの方法の典型的なものでありましょう。禅宗などはこの方法の典型的なものでありましょう。禅宗では借り物である知識・信条等を否定していく働きを無といい、最後に自覚する本然の宇宙を空と呼びます。心中にこの経験・知識を否定しても、その経験・知識はまるで生きもののように自己主張し反撃してきます。

それでも遂に否定し否定し尽くす時、忽然として、じこの本体が実は広い広い唯一つの宇宙そのものであることが自覚されます。それまで自分という個人が勝手に見ていると思っていたのが、実は宇宙そのものがこの目を通して、この手に依って、この耳を通じて、見、触れ、聞いていたのであることが、はっきりと自覚されるのです。

この、見られる光・宇宙に充満している光・また、感じられる無限の暖かさ、その世界が言霊アなのです。

この宇宙が、溢れ出る感情の世界であり、芸術・宗教のよって興る世界であることも明らかに看取されます。この光と熱の充満した宇宙が天地の初発なのであり、仏教で無凝光といわれ、キリスト教で「光に歩めよ」と称えられる宇宙のことであることがおのずと了解されます。

その二。

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第一の道が、自分の本然の姿の実在を信じて、その自覚を妨げている色眼鏡である自我の経験・知識等を心中に否定していくのに対し、第二の道は自己とはあくまで起こっては消え現れては去っていく心的現象の自己であることを心に反省し、そのささやかではかない自分、しかもそのはかなさゆえにかえって威張り散らして勝手に生きているあさはかな自分を、それにもかかわらず安穏に生かさしてくれる神または仏等の慈悲・愛に感謝しながら生きようとする努力の道であります。

この方法の顕著な例は仏教では「南無阿弥陀仏」の道があり、もう一つはキリスト教のイエスへの帰依の信仰であります。浄土真宗の悪人正機、すなわち「善人なほもて往生をとぐましてや悪人をや」(歎異抄)とか聖書にある「幸いなるかな心貧しきもの、天国はその人のものなり」(マタイ伝)等の信条はこの道の要諦であり、これを他力の道といいます。

これに反し先に挙げた禅宗は自力の道ということができます。ささやかで・さかしき心の自分を日々刻々生かし続けて下さる神仏に感謝し尽くす時、自分を生かして下さる大きな力すなわち愛と慈悲に抱擁されている自分を発見します。

キリスト教でいわゆる罪の子がこの瞬間から光の子あるいは神の子に変わります。この、全てを抱擁し生かしている愛と光の世界--これが言霊アの世界なのであります。

自己の本然の姿が宇宙そさ自体と信じてそれの自覚を求める自力の第一の道と、現象界の中にはかなく現れては消える罪と業の深い自己をみつめながら、それを生かして下さる愛と慈悲の神仏の大きな力の恩恵に感謝して神の子の自覚に導かれる他力の第二の道は、言霊アの自覚において同じ終着点に交わって一つ境地となります。

言霊アの自覚は人間の魂を束縛している原因が除かれた状態に立つことであって、自由の境地に遊ぶことができます。ピカソの抽象画をご覧下さい。その中の人間は眼が横に付いていたり後ろに付いていたり頭の上に小鳥がとまっていたりして、まさに子供が楽書きをしているようではありませんか、そうです。ピカソは実際に子供のごとく絵の中で遊んだのです。遊ぶことのできる数少ない画家の一人であったということができるでしょう。

逆にピカソの具象画を見ましょう。かれはその絵の中で鋭くきびしく美を追及しています。絵を通して魂の自由を追及したのです。追及の結果美本来の境地に到達することができました。

真善美といわれるその美の世界に没入することのできたピカソは、その世界の中で遊んだ(アそんだ)のでした。それが彼の抽象画です。楽書きに理屈をつけたら野暮というものです。

右のように魂の自由を得て、その広々とした境地に一生満足して遊んでいる人がいます。その人は、この世の出来事に巻き込まれて、朝から板まで齷齪あくせくと働いている人をみると馬鹿馬鹿しく思われるでしょう。しかし言霊の自覚の道はこの段階がまさに第一歩であるに過ぎません。言霊の道はこれからが正念場なのです。

伊勢神宮の本殿中央の真柱が五尺の内下二尺が地表下に隠されていることの真の意味は、これ以降の勉強によって解き明かされてくることになります。

第四 言霊エの段階

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庇を借りて母屋を乗っ取った後天的な知識・信念・習性等を心の中で否定、経理して、母屋である本来の自己自身を再び取り戻した人は、魂の自由を得て溌剌と生きることができます。自己本性が宇宙そのものであることを知り、自分のそれまでに身につけた知識・信条・習性等をその場、その場に応じて自由に駆使することができるからです。

具象の極を究めたピカソが抽象の絵の中で遊んでいるのと同様です。この次元の境地にいる人を仏教では縁覚あるいは阿羅漢といい、キリスト教ではアノインテッドAnointedと呼びます。芸術の表現し得る境地としてはこの次元が最高次元です。ですからこの境地を究めてしまったピカソはその後は時には遊んでもいられたのです。

けれども人間全体の魂の進化という立場からは、この次元に留まって遊んでいるわけには生きません。進化の第四段階が目が次に控えています。それが言霊エの次元です。

自己の本姓が宇宙そのものであることを知った人は自分の知識・信条・習性等をその時その場に応じて使い分け不自由はありません。その意味では「我が事足れり」です。しかし眼を他の社会に転じてみましょう。

そこにはそれぞれの罪業に翻弄されて苦悩の底に沈んでいる人々が多勢いるのです。自分が生かされている事の有り難さをつくづく知った人が、他人の苦しんでいるのを見て、いま自分が味わうことのできる自由をその人達にも手にしてもらいたいと思うのは人情でありましょう。否、自分の使命だといえます。

そう思い立った時からこの人の進化の第四段階の勉強が始まります。この世の現象界の出来事に悩んでいる人は、かつて自分もそうであった如く悩みながらその社会的欲望の終着を捨てきってはいません。相手を正当な手段で打ち負かすのがなぜ悪い? 信念を貫こうとして何故不都合なのだ主張しながら、泥沼の中でもがいている人に「どのような手段で」地獄から抜け出させることができるか、の勉強が始まるわけです。

進化の第三段階である言霊アを求める勉強が自利のためのであったのに比べて第四の勉強は利他の道です。

「どのような手段で」の勉強の道、仏教でいう方便と真理への道、それは選択を勉強する段階であり、言霊エは「選」らぶの言葉の基本の道という事ができます。この段階にある人を仏教では菩薩、キリスト教では使徒と呼びます。社会一般でいえば真の意味での政治・道徳のみちであります。

世の中には色々な経歴・習性・知識・信条等を持った人がいます。それらの人達にどのようにそれぞれ対応したらよいのかの勉強は無限ともいえる努力が必要です。そしてその努力を支えるものは人類の理想社会建設という使命観でありましょう。

ところでこの次元における言霊のべんきょうはどうなるでしょうか。言霊エの意義を端的に表す言葉は「選ぶ」です。何を選ぶのかといえば、言霊ウ、オ、アの中からその時々の場に必要な次元を選ぶことです。いまこの人を導く最適の方法は言霊ウオアの中の何であるかを選ぶことです。

この選択の勉強によって言霊ウオアエのそれぞれの次元的相違が次第にはっきり了解されてくるようになります。この次元がはっきり自覚されてきますと、それまではっきり自覚できなかった知識を求める言霊オの次元の心構えと知識を選択するこの次元の心構えとの相違が特に明瞭に自覚されます。

言霊オの次元の心の構造が正反合のの弁証法構造を持ち図形△で表徴されるのに対して、言霊エの次元の心の構造が・図四角に米・という形で表徴されることも明確となります。(△は帰納であり、図四角に米は演繹です)と同時に人間生命の一瞬一瞬の活動の実体が言霊なのだという自覚がひしひしと感じられるのもこの次元においてであります。

第五 言霊イの段階

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第五段階の言霊イの次元は第四の言霊エ次元の勉強修業の完成の次元ということができます。すなわちいかなる自体に対処しても誤ることなく完璧に行動し得る人格完成の次元です。そしてこの次元に到って初めて人間の思考行動がはっきりと五十音言霊図に則って表現され決定されるようになります。

第一段階から第二・三・四・五段階へ勉学が進むにつれて言霊母音ウオアエイの実在が明らかに区別され自覚されてきます。そして第五段階の言霊イの次元に一歩足を踏み入れる時、母音に続いて言霊イすなわち人間意志の展開としての言霊父韻が心に焼きつくごとく自覚されてくることになります。

第五の段階はまさに言霊の領域なのです。その領域は人間創造意志の究極的構造を言霊五十音をもって総体的に捉えた人間精神の全貌です。この次元を仏教では仏陀といい、キリスト教ではキリストすなわち救世主と呼んでいます。

まず言霊イの展相である八つの父韻の補足の方法からお話を進めることにしましょう。いままで何度もお話いましたように、言霊父韻というのは言霊イすなわち人間生命の創造意志の展開する相であります。親音であるイ・㐄の実際の働きです。そして母音ウオアエに働きかけて後天現象の最小単位である言霊子音三十二を産み出すきっかけとある韻です。

八父院はチイキミシリヒニですから、例えば父韻キが母音アに働きかけて生まれる子供はキアで、詰まってカとなります。この子音を生む行程から考えて母音ウオアエである欲望・知識・感情・道徳の現象の基底には必ず人間創造意志が働いていることがわかります。根底に創造意志が働かなければ現象は生まれてきません。この行程を心に留めておいて、人間精神の進化の第三段である言霊母音アを求める退歩の学の場合を簡単に顧みてみましょう。

本然の自己を求めんとして心の中に次々に生まれて来る現象の判断の基準となるいわゆる自我を形成している経験・知識・習性・信条等を一つ一つ否定していきます。言霊アの自覚として広い広い本来の自己なる宇宙を求めるにはただこの否定だけで用が足りました。否定に否定を重ね尽くした時、仏教でいう空なる本然の宇宙は心に自知することができました。

けれど人間創造意志そのもの(実はそれに五十音単音を結び付けますと言霊そのものとなる)の基礎である八つの父韻を自覚するためには、その否定行動そのものを更に見つめる必要があるのです。そしてその否定の行動の中に知性の原律である父韻の働きを捉えるチャンスがあるのです。

広い宇宙が実は自分の本姓であり自我であると信じ、その自覚を曇らせている従来の自我観念すなわちそれを構成している経験・信条・知識等を、それは「借り物であって自我ではない」と言い聞かせたところで従来価値あるものとして許容し、信頼して生きてきた知識や習慣はなかなか母屋から庇へ立ち退こうとはしません。

何かに感じるとそれらの知識や習慣はたちまち自分の心全体を占領してその判断の行動へおしやります。言霊アの自覚の修業は実はこの否定と失敗の連続であるわけです。それにもめげず否定の活動を心の中で続けていきついに否定し尽くした時、豁然かつぜんとして宇宙そのものが心の本姓として自覚されます。母屋が戻ったのです。と同時に、それまで自分の否定に反抗して、希望に反して現れてきたと思われていた一つ一つの現象が、そのまま現実の実相として、焼きつくような真実として、容認、是認されます。謎は即真実なのです。

仏教でいう諸法空想が理解されると、同時に諸法実相が是認されてきます。そのことを煩悩即菩薩などといいます。このときさらにこの実相発現の一瞬を凝視してみましょう。ある時は期待に反して、またある時は期待通りに現れ出てくる現象の奥に、その現象を押し出して来るごとき原動力が存在することに気付きます。

言霊ウ、オ、ア、エそれぞれの宇宙に働きかけ、刺激して、経験・知識・感情・道徳心等々の現象を惹起させる生命意志の根源存在を認識することができます。そしてその生命意志の動き方に八通りあることがわかってきます。八父韻の自覚です。言い換えて説明しますと、言霊アである自由な世界を得ようと努力した自利の行では全然意識することもできなかった人間生命意志の存在とその働きの様子が、言霊エ以後の利他の行の中でははっきりと八つの韻として自覚されて来るのです。この八つの父韻が人間生命の創造意志の現れであり宇宙自体の創造力であります。

父韻キ・ミ

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先に述べましたように自己の本姓を見ようとしてそれまで自我だと思い込んできたその構成要素の知識・習性・信条を否定し続けます。けれども小さい時から身につけた癖とか信念とかはなかなか強情で、「お前は後天的に仕入れた借り物なんだから呼ばない限り出てくるな」と幾度我が身に言い聞かせても、ある状況では必ず姿を現し否定の力を押し破ってしまいます。

否定しても否定してもその癖が出てくる状態をもう一歩踏み込んで反省する時、否定の力を押し退けて経験的に身につけた癖・信条等と結びつき、またはその知識・信条等を心の宇宙の中から自分の方へ掻き入れようとするいわばデモーニッシュな力の存在に気付くのです。これが創造意志の力です。

この掻き操ろうとする意志の働き、これが父韻キであります。

八つの父韻は実は互いに夫婦の性質を持つ二つの韻四組の合計であることは先の父韻の項でお話ししました。父韻キが心の中心からその中にあるものを掻き繰る韻であるのに対し、父韻ミは心の宇宙の中のあるものに真っ直ぐに結び着く働きの韻です。父韻キとミは互いに作用と反作用の関係の二つの韻です。

父韻チ・イ

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たびたび申し上げていることですが、父韻とは心の現象が起こる原動力である意志の働き方のことで、当然、心の現象の表面には現れることがありません。その現れないところのもののせつめいでありますので、いかに説明しようとも比喩であり、ヒントであることをご承知の上お考えください。人はある重大な岐路に当面しますと、こうしようかそれともああしようかとlいろいろ迷います。この迷うということは、いままでに経験し勉強してきて知っているAの方法をとろうかそれともBの道を行こうかの選択の迷いです。迷いに迷った末に「どう考えてもうまくいきそうとも思えない。下手な考え休むに似たり、こうなったらこざかしい考えは止めて、その場になったら全身全霊で当たって砕けよう」と決心します。

この、自分の過去の経験や知識に頼るだけでなく、自分の全身全霊を投入してことを起こす、すなわち心の宇宙全体がその時その場で全体を現象化する瞬間の意志の韻--これが父韻チであります。剣道で言えば、大上段の構えから全身を相手にぶっつけるように振り降ろす働きです。「とーっ」とか「たーっ」とかの掛け声が当然かかることでしょう。(タチツテト)

いまここに宇宙全体である全身全霊が現象化した次の瞬間、その働きは惰性的な持続的なものにかわります。この持続性の意志の働きの韻が父韻イであります。

父韻シ・リ

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本来の自己を求めて独り静かに座っていますと心の中は静まるどころか返って色々な雑念が湧いてきます。これではいけないと気を取り直して精神を集中させようと努力するのですが、 いつのまにか何かの記憶とか心配事が現れ、次から次へとそれが発展し心中に拡がり、ついには心全体を占領してしまう--といったことがよく起こります。この、心の中をぐるぐる駆け回りまさに螺旋状に心全体に発展していく動きの原動力になる意志の韻、これが父韻リであります。

螺旋状というと平面的に聞こえますので、むしろ段々に振幅を増していく螺旋階段状に心の立体宇宙全体に拡がっていく動きといった方が適当かも知れません。

作用あれば反作用あり、反対に螺旋状に求心的に中心に向かって静まる意志の動きの韻が父韻シであります。

父韻ヒ・ニ

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心の中に何かが起こり進展している。けれどもそれが何事なのであるか、もやもやしていて分からない。こういうことはよくあることです。このもやもやの気持ちが起こるのは秘匿の事態が心の中で充分に進展し煮詰まっていないためであります。

この事態が心の中心に煮詰まる根本意志の韻が父韻ニであります。

煮詰まってくると表面意識的にハッとその時起こってきた事態が何であるかに気付きます。気付くとは言葉で表現することができたということでもあります。

この言葉として意識表面に完成する原動力となる意志の動きが父韻ヒであります。

以上、チイキミシリヒニの八父韻を自己の心の中に確認する方法のヒントをお話しました。

もちろんこの八つの父韻は現象が生まれる以前の、その現象を生む原動力である先天的原律でありますのでそれ自体は決して姿を現すことはありません。それゆえどのように説明を尽くましても結局はそれぞれの人が自らの心の中で確認しようとせぬ限りお分かりいただけないものであります。

しかし自己の心の中で一度確認してしまえば全くの真理であって、 この父韻の活動こそ宇宙万物を創造させる生命の根源であることがおのずから知られるのであります。中国では古来易経がこの八つの原律を概念的に捉えて易の八卦で示し、それはキリスト教において「天にまします父なる神よ、御名をあがめさせたまえ」と二千年渇仰されてきたものであり、仏教で八正道の根本義として表現されてきたものでもあるのです。

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言霊子音の自覚について

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今まで母音ならびに父韻を自分の心で確認するにはどうしたらよいかを私の体験を例に説明してきました。母音と父韻が出揃いました以上、父母の生む子音はどうして確認するのかの話しに当然なるわけであります。

子音の自覚確認の方法を説明する前に、順序としてウ・オ・ア・エ各次元に住んでいる人がそれぞれどんな手順を踏んで目的達成に進むか、それが八つの父韻のはいさつによって表されることの説明を終えておきましょう。住んでいる次元が違いますと、考え方言葉から、発想・手段・目的まで相違してきます。左に一つの図表を掲げましょう。

エ次元--イ・チキミヒリニイシ・㐄

ア次元--イ・チキリヒシニイミ・○

オ次元--○・キチミヒシニイリ・○

ウ次元--○・キシチニヒミイリ・○

前の章で示しましたように、八つの父韻の頭脳内の動きを理解した上で言霊母音ウオアエの各次元に住む人の目的遂行の心の運び方すなわち八父韻の配列を見ますと、比較的容易に理解することができます。

上図は言霊ウオアエ各次元に住む人がそれぞれどのような創造意志の配列のパターンを持っているかを横に並べて示したものです。古事記ではこの八つの父韻の配列を「時置師」と呼んで、 それぞれの次元に住む人が、目的遂行のために時の経過に順って変化させる意志発動の変遷を説明しています。図表を見ましょう。

ウ次元 ○-キシチニヒミイリ-○

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○) 言霊ウの次元にうずくまって明け暮れ欲望のせかいに没入している人は、自己の本性が実は広い宇宙そのものだという自覚がありません。そのゆえその心の手順の初頭に立つべき母音の自覚を欠きます。母音の立つべき第一行を空白で示した所以です。

キ) 次に八父韻配列の第一番目は父韻キで始まります。

最初に母音の自覚がありますと、その行為は宇宙全体の具体化活動として父韻チから始まるはずですが、自己本来の面目(禅の言葉)の自覚がありませんのでその心の手順は自分の心の中の欲望の一つを掻き寄せること、すなわちキで始まります。

以下人間の行動の手順をその行為の底に働く純粋意志の力動の状態によって捉えてのお話でありますので、八つの父韻を確認して頂ければ自然に全体が理解することができるのであることを心にとめてお読み下さい。

シ) 掻き寄せられた欲望の目的が心の中心に静まり不動のものとなります。

その次にチが続きます。自己本来の面目の自覚があれば、この父韻が示す現象は宇宙全体または全身全霊などに関係したものとなるはずですが、今の場合はこの自覚がありませんので、ここではチはその人間の経験・知識・信条といったものの総体を示します。

自我欲望が決まれば、

チ) その達成のために経験・知識・信条の全部

ニ) の中から選ばれた名分が煮詰められ、

ヒ) その名分に都合のよい言葉が生み出され

ニ) その言葉が他の人または社会に向かって、

イ) 動く。

リ) しかしこの動きは止めども無い欲望の世界へ進展して、極まることがない。

○) 父韻の配列がリで終わることは、欲望の目的と思われ追求されてきたものは次の欲望の発端なのであって、この世界が際限の無い流転の相であることを示しています。

心中のこれで完結という終わりはあり得ません。そのために最初の母音イと共に最後の半母音㐄をも欠如することとなります。

欲の世界がややもすると目的のために手段を選ばず、否、目的のために他のいかなる次元の人間の性能も踏みつけにする傾向は、この父韻の配列の内の、キシチニがよく示しているところであります。

欲望の達成のためには知識も人の感情も道徳心もすべては手段にすぎないのです。

オ次元 ○-キチミヒシニイリ-○

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言霊オの段階に埋没している人も、その探求する学問の究極においてはいつの日か宇宙全般を解明することができるであろうという希望は持っているかもしれないけれど、自己の本性即宇宙なる自覚は無い。図表の第一列が母音の自覚を欠き空白となる所以です。

キ) 父韻の配列の始めはキです。

何かの現象を見て疑問を感じる時、それを心の中心に掻き寄せる韻です。

チ) その疑問をいままで蓄積された経験・知識全体に照合して、

ミ) いままでの知識と疑問とが統合され止揚されるであろう理論を志向して、

ヒ) 言葉として組み立て、

シ) 検討されて正しいと心に決まれば、

ニ) その理論より行動の名目を立て、

イ) 行動し、

リ) 次の事態へと発展していきます。

○) この心構えもいま・ここの一瞬の中にそれ自体で完結した体系でなく、結論が次の疑問の始まりとなり際限なく続くものです。

ウ段と同様最終列の半母音の自覚を欠如します。

正反合

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右のキチミヒシと続く心構え・心の手順のことを正反合の弁証法と呼んでいます。

概念的理論探求である限り必ずこの手順を踏むほかはありません。この弁証法を図示しますと、正反合の△三角形があてはまります。

△が形而上学的弁証法、▽が形而下的弁証法です。二つ組み合わされた形は大昔より「カゴメ」と呼ばれ、人間の考え方の一つのパターンを表してきました。

それは現象の分析を推進してそのかなたに完全な真理を発見しようとする帰納的方法です。このカゴメの形にちなんで大昔から歌われている童謡「カゴメカゴメ、カゴの中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩に、鶴と亀が出会った。後ろの正面だーれ」のひゆしている真の意味を紹介しておきましょう。

かごめ歌

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カゴメはいま説明しました弁証法的思考方法のことです。またそれは西欧的な考え方のことでもあります。鳥とは十理・トリで、ア・タカマハラナヤサ・ワと整った人間精神の理想的な心の鏡のこと。すなわち、同床共殿の廃止以来世界の科学的弁証法的思考一色の篭の中に閉じ込められている言霊の原理は、いつこの世の中に再び現れるのか。それは夜の闇すなわちこの末法の道徳的闇が一番濃くなる夜明け前の時に、鶴砂すなわち剣(天与の判断力の自覚体である天津イワサカ)と、亀すなわち鏡(人間精神の究極的理想構造を言霊の配列をもって示した五十音図言霊・天津ヒモロギ・ヤタの鏡)とが、一つの理論体系として人間の自覚の上に完成した(出会った)時である。あなたを実際にあなたたらしめているあなたの後ろの正面にいるのは誰ですか。・・・これが童謡の隠された意味であります。

大昔、五十音言霊図は粘土板に刻まれて焼き物にして保存されたため、これを瓶と呼びました。亀は瓶に通じます。

天津磐境・あまつイワサカ

天津ひもろぎ

(図表省略)

ア次元 イ-チキリヒシニイミ-○

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言霊アの次元とは宗教家や芸術家の心です。

そのア段の父韻の配列は、イ・チキリヒシニイミ・○です。

イ) アの次元に至って人は自己の本性即宇宙であることを自覚します。母音の自覚を得ます。

チ) それゆえ現象となる父韻の配列の第一には宇宙そのものが現象となる韻であるチとなります。ア次元でありますゆえ、その行動の最初は感情の宇宙がそのまま発露されることを示します。

キ) その次に、その時そのところの一つの関心事悪いはテーマが、心の中から掻き寄せられ、

リ) 心の中にいっぱい発展拡大されて、

ヒ) 一つの表現を得、

シ) その表現がここの中に行動の目的となって固定され、

ニ) そこから行動の名目が定まり、

イ) それが行動となって動き、

ミ) その方向のかなたに目標の実現があるであろうことを指し示し、訴えます。

○) 八父韻の配列の最後がミで終わることは、その指示するものが基本要求であり未来の目標であるに留まり、いま・ここの一瞬において完結した思考体系でなく、結論は時の経過に委ねられます。半母音の自覚を欠くことになります。

エ次元 イ-チキミヒリニイシ-㐄

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次に言霊エの次元にいる人の心の運び方について考えてみます。

この段階はイ・チキミヒリニイシ・㐄の十個の配列で示されます。

イ) 第一列の母音イの存在は完全自由な宇宙意識が成り立っていることを示しています。

チ) 第二列よりの父韻はチで始まります。父韻チは精神宇宙全体が直接現象として姿を現す韻です。次に父韻キミが続きます。

キ) キ・ミは宇宙の中にあるものを掻き寄せ、

ミ) 結び付く韻です。ところがいまは言霊エ次元にある人について考えているのですから「いま、ここでいかにすべき」の選択の心の構造のことです。とすると掻き寄せ結び付く心の動きとは主体の状態と客体の状況を見定めることを意味します。宇宙意識の前にあって、言いかえますと、何ものにもとらわれない精神全体の光に照らされて、主体と客体の実相がはっきり把握されるということです。次に父韻ヒがきます。

ヒ) ヒは表面に開く韻です。把握された主客の双方を満足させ創造に向かわせる言葉が生み出されることです。

リ) その言葉は心いっぱいに推し拡がっていくと、

ニ) 心の底に行動の確固たる名目が定まり、

イ) それが心を推進し、

シ) 結論に向かって集約して行きます。

㐄) そしていま・ここにおける心に完成された結論・結果が確定されます。半母音㐄で終結します。

以上言霊ウ・オ・ア・エ次元に住む人の心の運び方についてそれぞれ検討してきました。それぞれの精神運用の代表的な思想といいますと、言霊ウにおいては欲望に基いた産業人の心が挙げられ、言霊オでは広く学術科学に従事する人々の心が思い浮かびます。世の中の発展にとって双方とも欠かすことのできない重要な分野ではありますが、それに従事する人々は競争場裏に埋もれて日夜心の休まる暇とてありません。母音・半母音を欠くことがその精神的自由が完全には無いことを示しています。古事記ではこの思想のことをスサノオの命の八拳の剣と呼び、母音半母音を欠いた八父韻のみで表示される精神体系であり、日夜現象のみを追いかける次元であることを比喩で示しています。

ア・ 次に言霊ア次元の心構えですが、母音の自覚はあるが、半母音を欠き、その為、心の運びの最終結果は基本要求であるに留まり、結論は常に訴えられる先方に委ねられています。これは神道では九拳の剣と呼ばれその代表的な思想としては東洋の哲学、宗教理論が考えられています。

言霊エ次元に至って初めて母音、半母音の自覚が整い、神道で十拳の剣と呼ぶように十音が横に揃って完全な五十音図そのままの思想体系の自覚が成立します。

ここでみイマ・ココの一念の内に発端も結果も見通された自由で円満無礙な精神の完成がめざされています。この心の持ち方の代表的なものといえば、仏教でいわゆる菩薩行が挙げられます。先にも説明しましたように、魂の自由の自覚を得た人が、さらに一念発起して自分以外の人にもこの自由を自覚してもらうために、どのように他人に対処していけばよいかの修業のことです。そしてこの修業の進展の末に人間の最高の精神図表の完成された人を仏教で仏陀と呼びました。過去の世界の聖者・高僧といわれる人々が、この人間精神の完成をめざしてどれほど修業渇迎してきたことでしょうか。

我聞く天台山 山中にき樹有り 永言して之を攀じんと欲すれども 石橋ごとし 此に縁って悲歎を生じ 幸居して将に暮れんとす 今日鏡中を観れば 颯颯として鬢ぱ髪垂れて素の如し

(注) き樹とは宝の実る樹、仏教で宝とは摩尼宝珠のこと。 石橋とは此処岸より彼岸(仏の国)に渡る橋。素とは白糸。

右は中国の聖僧寒山の詩でありますが、彼が悟りの究極にある摩尼宝珠といわれるものの実体をいかに渇迎し、それに達し得ない自分を歎いていたかを示しています。「五十年一字不説」。釈尊は五十年間説教をしたのですが、実は仏の実体の真理の実体を説いたのであって、真理そのものは一言も説いたことがないといいました。皮肉にも仏教からは仏は現れることはありません。仏の護持する究極の真理それは五十音言霊の原理なのです。

エ・ そこで言霊エ次元にある仏教の菩薩位に二種類あることをお話しましょう。一つは因位の菩薩といい、もう一つは果位の菩薩と呼ばれます。

因位の菩薩とは法華経に出てくる浄行・上行等の菩薩がそれで、先に説明しましたように自らは本姓である宇宙意識の自覚をもち、さらに業苦に沈んでいる他の大勢の人を救わんと努力し、その努力の結果、 究極において人間精神の完成体である仏をめざす人であります。その救済の行の心の運び方についてはすでに父韻の配列でお話をしてきました。

エ・果位の菩薩 次に果位の菩薩とは観世音・普賢・勢至等の菩薩が有名で、因位の菩薩とは違ってすでに仏の位に住まわれたその仏が衆生済度のために下生してきた菩薩のことをいいます。この菩薩の救済の心の運び方であるイ・チキミヒリニイシ・㐄の配列の実際は因位の菩薩のそれとは全く違ってきます。

イ) 宇宙即我の自覚によって母音イが確立していることは因位の菩薩と違いはありません。

相違は次の第一の父韻チのところで起こります。

因位の菩薩においてチは単に宇宙自体が直接現象として現れる韻であり、全身全霊というほどの意味でありました。

チ) ところが果位の菩薩とは既に仏の位を得た人です。この菩薩は宇宙全体を既に五十音言霊として把握しています。

それゆえ父韻チは単に宇宙全体とか全身全霊とかいうだけでなく五十音言霊図特に菩薩の次元である言霊エの次元の規範である天津太祝詞音図として現れます。精神宇宙に起こるいかなる現象もこの精神の究極規範である五十音の鏡の前に偽りの無いじっそうとなって写し出されます。

キ・ミ) それゆえに、次に続く主体客体の実相であるキミは五十音の鏡に照らされてその時処位が決定的に見定められます。

ヒ) 主客の実相が明らかにされれば、この二つを統合して新しい創造はどんな形をとるかはおのずと言霊図に基いて決定されます。

リ) 言霊の上で決定された言葉は一般の世間の言葉の世界に拡大され、

ニ) 行動の名目が定まり、

イ) 行動が起こり、

シ) 結論として終結に向かい

㐄) 結果が事実として確認されます。半母音㐄が成立します。

人間精神進化の最終段階は言霊イ次元です。五十音言霊の世界です。その五十音言霊図を心の鏡として言霊エ次元の選択創造の心の運び方を会得しますと、人間社会・人間文明を運営してゆく最も確実な手段・方法をいつも明示することが可能となります。

イ) そして重要なことは、 この、仏教で比喩的にいうところの果位の菩薩の衆生救済の心の運び方の図式が、またとりも直さず、私達が言霊子音を自覚確認するための方法・手段でもあるのです。もちろん私達は仏陀ではなく、五十音図が心の中に確立成就しているわけではありません。けれども先に検討しました如く、父韻チキミヒリニイシのそれぞれの生命意志の活動のリズムについて知っています。

また父韻チキミヒリニイシと並ぶ心の運び方とは、いま・ここの一点における社会的創造に言霊ウである欲望と、言霊オである概念的探求と、言霊アである感情面とを、どのように選(エ)らんで運営していけば理想的社会を実現し得るかの運用法を示しているのだということを知っています。

チ) ですからいま社会的に創造活動を起こそうとする時、心に自分が学び覚え知った限りの五十音図を行動の鏡として掲げることです。このことを古事記では「衝立船戸の神」と神様の名前で呪示しています。

五十音図を神道では御船代といいます。五十音図を心の戸として斎立て(衝立)よとの意味です。

キ・ミ) その上で主体と客体の実相を明らかにし、

ヒ) 双方を総合する言葉を言霊のうえで検討し、

リ) その言霊での言葉を拡大させて、

ニ) 行動の眼目

イ) が、出来上がり行動として動き、

シ) 結論が確定する。

㐄) このような、一般にいう道徳・政治または個人的な選択行為の実行の中に、 言霊子音は一つ一つ内観自覚されていくのです。

すなわち言霊ウ次元にある欲望を主体とする人との対応行為の中に、ツクムフルヌユスの八音が、

次に言霊オ次元に住む概念的探求をこととする人に対する行為のなかに、トコモホロノヨソの八音が、

また言霊ア次元にある感情を主体とする人に対する創造行為のうちに、タカマハラナヤサの八音が、

それぞれ、言霊エ段にたって救済行為をする主体の側の心の中に心に焼き付けられるがごとく自覚されてくるのです。

と同時にこれら三種の対応行為の自己の内面の実相として、テケメヘレネエセのエ段の子音をも確認することができます。

この合計三十二子音の自覚の成就が人間精神の理想体系の実現であり、 仏教でいう仏陀、キリスト教の救世主、儒教の「心の欲する所にしたがって矩のりを超えず」の出現を意味しています。

天津太祝詞音図

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アタカマハラナヤサワ

イチキミヒリニイシ㐄

エテケメヘレネエセヱ

オトコモホロノヨソヲ

ウツクムフルヌユスウ

★ 113 まで了。