相手を説得する法。海佐知毘古と山佐知毘古。2

7。相手を説得する法。「 まなしかつま 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

【是(ここ)に其の弟、泣き患(うれ)ひて、

海辺に居ましし時に、塩椎(しほつちの)神来て、問いて曰(い)ひけらく、「何(いか)にぞ虚空津日高(そらつひこ)の泣き患ひたまふ所由(ゆゑ)は。」といへば】

逆転のチャンスがきました。

逆転のチャンスは、まずは、向こうから来るものです。自覚的主体的に得ることは出来ず、気付き感じ思い考えて、取り込むものです。残念ながら自我とかいう便利な主体性はありません。

チャンスは自分で掴むというの、それに気付いた後の自分のことです。

そのチャンスとは「塩椎(しほつちの)神」爺さんです。

爺さんかどうか分かりませんが、とにかく年齢不詳、新生児かもしれないし一億歳かもしれません。わたしの以外のあちら側から来た者です。

この場面はオノゴロ島の出だしと同じです。そもそも古事記は同じことが言葉を替え神名を替え繰り返されていますから、冒頭の百神さえ分かれば、後は応用問題と言われる所以です。(それでも相変わらず超難しいですが。)

【 塩椎(しほつちの)神】とは、四穂津地(推、つち)、四つの霊(次元)を地に着ける、親のよくいう現実を直視しなさいよ、のことです。

ただし山彦は客体側にいますから、自分を落ち着ける場所次元のことになるでしょうか。

海彦山彦はウ次元の生産活動五感活動次元にいるのに、なぜ、人間性能の四つ(しお、しほ、四穂、四霊、四つの次元)も出てくるのでしょうか。

これは四つが別別に出てくる事ではなく、塩推という一つの全体に四つが秘められているのです。物事はまず始めにこのような全体が出てこない事には、個別的なものの位置が定められません。

塩推の神は事情を聞いて、山彦がところ知った山へ向かえと教えるのではなく、海に出よといいます。

塩推の神は山彦を虚空津日高(そらつひこ)と呼び、出生時の天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほてみの)命、山佐知毘古、と呼びません。

さらに山彦は後に「此の人は、天津日高(あまつひこ)の御子、虚空津日高ぞ。」と呼ばれます。

これはどういう事かと言いますと、人の生存する位置次元によって名前が変り、塩推に対応した時の名前が、虚空津日高(そらつひこ)なのです。社会的にもよくあるでしょう。

塩=四穂=四霊は、人の生存の生存次元での分類で、ウオアエ、欲望知識感情選択、次元を指しますが、今の状況では、山彦は泣き愁いている知識も智恵も欲望も出てこない感情次元の全体としています。それが塩推の全体に対応している事です。そのために両者には成り立つ会話があるのです。日常社会でも相手を見て話しなさいと言う事です。

ソラツヒコ、というのはまだ限定されていない(虚空)次元性能にいる(津)、霊的な(日)現象体(高、こ)ということで、何もかも無くした無垢の感情しかない状態と言うことです。次元の違う大人の智恵など赤ん坊の前に無力ということです。

理由を聞かれ説明をした後、塩推の入れ知恵が始まります。

もちろんここでは、兄のためでなく弟の為にです。弟は現象実在側のことです。

そこには主体性能動性はありませんから、受け取り方受け方が主なことになるでしょう。あるいは誰かに拾われることになるのでしょうか。

蛭子の話と通じています。

【无間勝間(まなしかつま)の小船(をぶね)】は、

まなしはめなしで、目無し穴の空いていない、

かつまは、かたまからで、隙間の無い籠、ここから船がわりにしたということになるらしい。

かた・まは、い・かだ(筏)の略で、横に並べた木材で、五十音図アイウエオの五段の組合せのこと。

全部で、無垢の存在を欠損無く五十音図の船に乗せて流した、の意味、船に乗っているのは無垢な実在の全体です。現存在にもどった山彦。

それに授けた善き議(ことはかり)は、速い話あっちまかせのようです。

美まし御路有らむ、その道に乗ってけ乗ってけ、 で

【魚鱗(いろこ)の如(ごと)造れる宮室(みや)、其れ綿津見(わたつみの)神の宮ぞ。】

を見付るまで寝て待てのようです。

こんな態度でも後で兄をやっつけられるなんて信じられません。そこまでうまく説明できるか心配です。

それでも自分を拾ってくれる相手は綿津見限定で、他のものはお断りです。うまい具合にいけば今度は、

【其の神の御門(みかど)に到りましなば、傍(かたへ)の井の上に湯津香木(ゆつかつら)有らむ。故、其の木の上に坐さば、其の海(わたの)神の女(むすめ)見て相議(あひはか)らむぞ。」といひき。】

木登りして待っていろです。

なぜ綿津見でないといけないのか。

それは山彦の現状を確認してもらうためです。 山彦は泣き愁いて、全てを失い破れて単なる現存在、現存する存在対象という、内容実相を規定できない全体性です。現存はしているが実質はどうなるのか分かっていないものです。

これはちょうど何かのイメージや感じるものは持っていても、それが表せない状態にある時に似ています。自分が何であるか、何を持っているのか、思っているのか、相手方に渡して知る人ぞ知る、感じる人ぞ感じる自分として救い出してもらわないといけない状態です。

それを実行してくれる神さんが、綿津見、渡して(綿)明らかに(津)見る(見)、です。海のことを言うのではなく、不明イメージ内にいる自分を明らかに見てくれるものをいいます。そこから河を渡り海を渡って対岸を明らかに見ることの拡張から海に結ばれていきました。

ここから全体性不明部分始めの出来事といった初発部分の明瞭化が始まります。木に(気)の引っかかって待てば良いと言うだけです。

【井の上に】、自分は何者であるかまだ明らかにされていません。自分はここにいてあるというだけですが、そのような意志(井、イの言霊)の上にあるということをしめす。ただし山彦は客体側ですから、受動の言霊ヰ。

【湯津香木(ゆつかつら)有らむ。】、湯津は湯津石村のことで、五十音図。自分は五十音図に乗せられて流されたけれど、自分自身が五十音図であることを示している。

香木は、香は香りをかぐ、から、かく=書く、書かれたもの客体表現となっているもの、すなわち山彦自身を指す。五十音図の霊、気の主体制側ではなく、表現されたもの、体側を現す。現された五十音図。

【故、其の木の上に坐さば、其の海(わたの)神の女(むすめ)見て相議(あひはか)らむぞ。」といひき。】、家宝は寝て待て。

寝て待つとはいっても山彦側には蓄積された実体意志を基盤にした生きた生命を示している必要があります。

物質、客体側にはこの命がありません。では山彦はどうするのでしょうか。山彦自体は主体側でないので能動的な働きかけができません。しかし説明する上でそのような表現が必要になるでしょうから、一応記しておきます。

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8。相手を説得する法。「 記憶概念 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

【 故、教の隨(まにま)に少し行きまししに、備(つぶ)さに其の言(こと)の如くなりしかば、即ち其の】

山彦は生産された側、物質側ですから、香木(かつら)に登りて坐(ま)しき。一旦出来てしまえば座って動く事はなりません。

物質側のできる事は何でしょう。光に反射してその作用を与える事です。光としてあるいは影として。しかし光を反射したからと言って相手が知るかどうかは相手次第です。

【 爾に海神の女、豊玉毘売(とよたまびめ)の従婢(まかだち)、玉器(たまもひ)を持ちて水を酌(く)まむとする時に、井に光(かげ)有りき。】

ここに従僕が登場します。なぜ、直接に綿津見の神の娘が出てこないのでしょうか。塩推は娘がうまくやってくれるよと言ったではないですか。これも人の意識の原理上の必然なのです。詳しくはワクムスビの神の子豊受気毘売の神の解説に譲ります。

従者は山彦の影を見てその存在に気がつきました。

この場合は飲み水に写った影、反射した光、でした。つまり五感感覚上に作用したのでした。

玉「もい」は汲んで飲む水のことで、玉は人の五感感覚が正常に働いている事をしることです。綿津見家族も、水に写った山彦も、同じ玉の連続(主体行為の力動因)の上で働いていることを示しています。つまりここでは話し合いのできる相手である事を確認したのです。

ここに影の実在を与えましたが、まだその印象が伝わっているかどうかは分かりません。

幸いに、【 仰ぎ見れば、麗しき壮夫(をとこ)有りき。甚異奇(いとあや)しと以為(おも)ひき。】という印象を与えたようです。

物質は自らの印象を何がしかの形で与えなければ、影の存在は薄いものです。

【 爾に火遠理命、其の婢(まかだち)を見て、水を得まく欲(ほ)しと乞ひたまひき。】

山彦側の確認合図です。

【 婢乃ち水を酌みて、玉器に入れて貢進(たてまつ)りき。】

【 爾に水を飲まさずて、御頸(みくび)の(たま)を解きて口に含(ふふ)みて、其の玉器に唾(つば)き入れたまひき。】

水を飲みたいと言って呑んでしまうのは主体側の行為です。山彦はそれができません。

印象を造り成し、固定し、記憶させます。オノゴロ島の段落に通じます。

ただし、山彦は能動主体ではないので喋りません。象徴的なことをします。

つまり相手側の受け取りに対応している事を示します。

御頸(みくび)の(たま)を解きて口に含(ふふ)みて、とは、「みくび」も「玉」も同じものです。「くび」は組まれた霊で、その現れが玉の連なりになります。

山彦は能動的な言葉を持たないので、自分の存在も出来方も、その表現も、他人に与える印象影響も、それによって自分が記憶される事も、相手が受け取れるものを持っている事をしめします。綿津見家族の玉と同じ原理、同じ組まれた霊(くび)であるが、自分は影である事を示します。

其の玉器に唾(つば)き入れたまひき。前段では海彦山彦との関係でさちさちでしたが、ここでは、綿津見家族との関係での、「山佐知も、己(おの)が佐知佐知、海佐知も、己が佐知佐知。」を示します。

【 是に其の、器(もひ)に著(つ)きて、婢を得離(えはな)たず。】

玉もいの底に着いているものは記憶です。

そこで従者は記憶概念を実在と思って取り出そうとしますが、もちろんできません。

記憶とは幻想であるからです。

仕方ないので、従者は記憶に焼かれこびりついた、その記憶概念を姫に伝えます。器に入っている水は生命に必要なものです。そこに離れずくっついている記憶も同様に生命に必須のものとなっています。

【 故、著ける任(まにま)に豊玉毘売命に進(たてまつ)りき。】

よく人は言います。これは自分が考えたもの、自分が感じたもの、自我の成したものと、しかしそういったものとしてではなく、頭の器にこびりついたものを、拾い集める事から始まっています。

【 爾に水を飲まさずて、御頸(みくび)の(たま)を解きて口に含(ふふ)みて、其の玉器に唾(つば)き入れたまひき。】

水は生命の主体側が飲むものですので、客体側の山彦にはできない事です。しかし水の反射を利用して自らの存在を分かってもらえる事はできます。

その際、お化けでもなく見えない気体でもなく、相手に通用する相手と同じ土俵にいて相手の生命性能に反応できる状態である事が必要になります。

そのような自分の何かが相手によって受け入れられることを待つ状態を、「唾き入れたまいき」といいました。「つ(津)」の「は(言葉)」のことで、自分の存在の端々が記憶器のなかで待機している事です。

こうして、豊玉毘売に知らせられますが、ここのようすが、人々が記憶を受け取り自分のものとしていく過程を示したものとなっているのです。

自分がやりたいからやる、見たいからみる、のではなく、その前段のお膳立てがあります。これは全精神意識次元でのことでして、この話にある、あの話にあるというようなことではありません。

これが豊玉毘売が直接出てこない理由です。もちろん日常に従者などいませんから、われわれなら、なんのご用ですかとでていきますが、その精神構造は全く同じなのです。

そこで今度は自分の(従者の)記憶概念を受け取った本人がでていきます。

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9。相手を説得する法。「 目合い。」。海佐知毘古と山佐知毘古。

そこで今度は自分の(従者の)記憶概念を受け取った本人がでていきます。

記憶が見つかった概念が見つかったといっても、すぐさま自分のものになるのではありません。意識流れの中では思いだした記憶はそのまま自分の記憶としてこうだこうだといいますが、それにしても、頭の中にはそれなりの過程があるのです。

記憶がでてきて、確認して、居つくまでの話が続きます。これらは全て山彦の分析という事ができます。登場人物(神の名を持った)がいろいろいますが、客観である山彦とは何かを追求しているものです。各場面各過程での名前を替えた山彦のことです。

もしそれを納得された時には、次の事も当然納得されなければなりません。神道には八百万の神がいてと言われますが、古代の大和においては、あるいは本来の神道の理解では、御中主の神が一神しかいません。全ての神道解釈は間違いにまで導かれた行き過ぎた解釈です。

天地の初発の時に成りませる御中主の神の剖判した姿なのです。

天と地という精子と卵子からできているもともと一つの御中主なのです。

産まれた子から現象から見ていくと独立しているように見えるのです。

と同時にその部分は独立したものとして扱います。この全体と個、一と多の統一されたものが古事記の神々です。

【 爾に其の玉を見て、婢に問ひて曰ひけらく、「若(も)し人、門(かど)の外(と)に有りや。」といへば、】

五感の始めの始め、朝起きた直後、思いだした記憶のその出だし、等始めの部分は不明な全体的なものがあります。時間にすれば0.1秒にも満たない非常に短い流れが普通です。しかしそういった出だしは実在していて、そこからしか物事は始まりません。通常は第一印象として、こんなものとだいう説明が与えられてしまいますが、それ以前のことです。

門(かど)の外、とは、戸の外、自分のものの外、で、記憶概念として受け取る以前の状態です。何か何ものかがあるのか無いのかといった状態です。それに関心を寄せることによって人間性能の動きが始まるのです。

そこで、人がいるのかいどうなんだいという疑問が発生し、いるなら見たいという欲望の始めが起きます。

【答へて曰ひけらく、「人有りて、我が井の上の香木の上に坐(ま)す。甚(いと)麗しき壮夫ぞ。我が王(きみ)に益(ま)して甚貴し。】

さらにもたらせられた情報概念によれば、最高にいい男だよ、ということです。こうなればどうしても見に行きたくなります。

これは自分の意識にとってどいうことになるのか。

前回に、其の玉器に唾(つば)き入れたまひき、のところで、前段では海彦山彦との関係でさちさちでしたが、ここでは、綿津見家族との関係での、「山佐知も、己(おの)が佐知佐知、海佐知も、己が佐知佐知。」を示しますと、書きました。

この「さちさち」をまた使用すると、今度は自分自身と自分の相手にする自分の記憶に対する「さちさち」になります。今はまだあちら側に有る記憶概念を自分の物として手に入れ自分の手元に落着かす「幸」を得るということです。

自分の記憶自分に都合のいいようにでてくるものですが、本来は数十億年の宇宙の地球のぜん歴史のことです。そんな超超大な情報の中から、自分の手元にヒョイと降りてくるのですから、こんなラッキー幸せなことはありません。

自分が自分にもたらす記憶はこうして超超ラッキーなものであることを「我が王(きみ)に益(ま)して甚貴し。」というのです。これは情報がもたらせられること自体をいいます。あるかないかのことですので、内容に関することではありません。というのも内容に関してはまだ判断していないからです。

【 故、其の人水を乞はす故に、水を奉れば、水を飲まさずて、此のを唾き入れたまひき。是れ得離たず。故、入れし任に将(も)ち来て献りぬ。」といひき。】

記憶概念は、水を求めて飲む行為をするのではなく、そのような記憶の固定化したものです。

詳細が姫にもたらせられます。

【 爾に豊玉毘売命、奇しと思ひて、出で見て、乃ち見感(みめ)でて、目合(まぐはひ)して、其の父に白しけらく、「吾が門に麗しき人有り」とまをしき。】

ここで姫は直ちにナイスオッケーグッドと、ウィンクをします。

書き下し文にはまぐはひとなっていますが、結婚を意味するのではなく、こちら側にわたしがいてあちら側にあなたがいるということを確認することです。何故かというと豊玉と山彦の両者を結ぶのは、結びを担当する神さんがいるからです。この後「八」に関するものがでてくることになっています。

ここで注意することは、豊玉も山彦も客体側にいます。両者とも受動側できあがった物の側にいることです。ですのでここでの目合いの意味は、物はそこに有るものだけど一つには豊玉として、他としては山彦としてあるということを示す為です。そこに有るものの二者はそれぞれに発展していくという含みです。

では物の二面とは何かというと、物の霊的側面と、物の体的側面です。客体側の物にはこの霊と体の二面が備わっています。

この二面が結ばれるには彼ら自身で行なわれることはありません。好き合った男女がいても、結ばれる動因は二人を誘うまた別の何かによるのです。この段落は古事記冒頭の十七神が全てを答えてくれます。

ということは豊玉が一人ででていってもことは始まらないということです。二人を誘うように仕向け結び付ける動因の働きを持つもの(これが綿津見です)の登場が待たれるところです。ですので、次の文章が続きます。

【 爾に海神、自ら出で見て、「此の人は、天津日高(あまつひこ)の御子、虚空津日高ぞ。」と云ひて、】

ここではソラツヒコ、というのはまだ限定されていない(虚空)次元性能にいる(津)、霊的な(日)現象体(高、こ)ということで、後から読むと、霊的な現象体でありながら、いまだ相手に結ばれない虚空状態ということになります。客体側の物であるが、霊的な実体はあるということです。

【 即ち内に率(ゐ)て入りて、美智(みち)の皮の畳八重(やへ)を敷き、亦畳(きぬだたみ)八重を其の上に敷き、其の上に坐せて、百取(ももとり)の机代(つくゑしろ)の物を具(そな)へ、御饗(みあへ)為て、即ち其の女豊玉毘売命を婚(まぐはひ)せしめき。】

二人を実質に導き、二人の間に現象をおこさせることが、綿津見の采配によって、やっとはじまります。(やっと、というのは解説上の言葉で実際には長短自在です。)

綿津見のお膳立ては人に存在する限り何億年と変りがありません。場面によって言葉づかいが違うだけで、その内容は古事記の冒頭十七神を「八」を中心にしてのべることです。

この「八」の理解が人類の秘密です。古代大和においては解明されてしまっていたものです。今更解説し直してもというところですが、人類がいる限り存在する「八」の秘密を解くことは用意ではありません。

ノーベル賞の価値を下げるわけではありませんが、今、解説し直せばノーベル賞の百や二百をまとめて与えられるようなものです。要するに賞の選定者側に理解する人がいないということです。こんなことを読む皆さんはちょっとばかり産まれ方が速かったのです。

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10。相手を説得する法。「 八と三 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

【 即ち内に率(ゐ)て入りて、美智(みち)の皮の畳八重(やへ)を敷き、亦畳(きぬだたみ)八重を其の上に敷き、其の上に坐せて、百取(ももとり)の机代(つくゑしろ)の物を具(そな)へ、御饗(みあへ)為て、即ち其の女豊玉毘売命を婚(まぐはひ)せしめき。】

【 即ち内に率(ゐ)て入りて、】

内、というのは宮殿ですが、意識の宮殿です。オノゴロ島のことで、もちろん何々県にある島という意味は全くありません。古事記にでてくる島はどれも実在の島ではなく、意識のシマリ、領域ということです。

ここでは山彦の客体領域のしまりに組み込まれたということです。

方や山彦、方や豊玉、この両者を取り込む準備です。

次は非常に難しいところです。

綿津見が働く基盤が、山彦、豊玉の三者に共通でないと物事は動きません。ですのでこの三者に共通の基盤をまず示しています。

【美智(みち)の皮の畳八重(やへ)を敷き、】

古事記伝によますと。

○美智皮(ミチのかわ)。書紀には「海驢」と書いて、「これを『みち』と読む」とある。海馬は、とど、あしか、あざらしのどれかは不明です。

これは意識上の宮殿にまず敷き詰めるものです。どの動物に相当するかではありません。動物の名を与えられていますからそれを利用します。名前は既に古代から知られています。八重敷く、ですから、言霊学上の父韻を現しています。

そうすると、アシカ、しか該当するものがありません。アシカのあしは、蛭子を乗せて流したアシ船と同じアシです。アシは天津太祝詞音図の始めと終りを取ってくっつけて、アシとしたもので、祝詞音図は自覚的な言霊運用上の正当な音図です。

要するに三者とも先天的に正当な音図の上に乗って先天的なことを営むということになります。

しかし、豊玉も山彦もウ次元の現象実在ですから、実際の運用音図は、

【亦きぬ畳(きぬだたみ)八重を其の上に敷き、】

になります。きぬはもちろん絹のことではありません。これを「き」で縫う、とすると、「き」ではじまる音図は金木音図といわれる、学校で教わるアイウエオ音図(欲望経済産業)と、赤玉音図(知識学問)しかありません。

山彦の物語は行き過ぎた山彦の欲望充足の物語ですから、ちょうどこの音図が相当します。

誰もが所持している正しい行為ができる音図の上に、今まで行為してきた実際の音図を重ねてということになります。

【其の上に坐せて、百取(ももとり)の机代(つくゑしろ)の物を具(そな)へ、】

百取りは、沢山の品物ではなく、ちょっきり百しかないもの、百の心、百の意識、百の言霊のことです。百以上でもなく百以下でもなく、ちょっきり百でないとだめです。

どういうことかというと、古事記の上巻は始めから数えて五十番目の神さんで、言霊要素、つまりアイウエオ音図五十神が終わります。ついでやはりちょうど五十番目の神に来た時言霊の運用が終わるように述べられています。この百神が心の原理です。

そしてこの後は百神の運用応用となっているのです。これは古事記にそう書いてあるからそんなことを信じてどうするのだということではなく、世界のどんな思想もどんな行いもこの百の神でかたが付くものなのです。つまり、五千年以上も前に発見された人類が人類足る原理となっているものなのです。

ですので単に上記の山彦がとる百ということでなく、全人間に対するものです。人はこの上に乗ることによって互いを知り合い交渉できるようになるのです。

ただしここでは百の品物は、山彦用つまり、山彦に対応した者にだけ有効です。

例えば、宗教家芸術家の狂気のような熱意は、他の人たちには理解できません。また、学識ある人は知識のない人たちとは合いません。欲望の満足には知識も美観も宗教感情も無縁です。

というように人間性能に応じて「百取りの机」は百のの内容が違います。そして人間性能とは五次元ありますから、それぞれ百の五つの机となります。

前に釣り針を失ってあと、剣から「五百鉤(いほはり)」つくって弁償したとありました。

ここでは、獲物を得たい欲しい次元でのことなので、五の人間性能に基づいた百の鉤と説明してあります。

もし人間の統体としてなら五百になりますが、統体ということは完璧な人ということです。どこにもいません。

【御饗(みあへ)為て、即ち其の女豊玉毘売命を婚(まぐはひ)せしめき。】

ここでまぐあいをしてしまいましたが、綿津見は何をしたのでしょうか。

物の世界に二面があるといいました。綿津見と豊玉と山彦に分かれいたものを結び付けたのです。

そこで産まれたのが、現象領域が現象として落ち着ける場所、であると同時に物質文明が育ち発展する領域の設定です。現象が現象を産む領域、いわば現象のおのごろ島です。【名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(なぎさたけうがやふきあへずの)命と謂ふ。】勢いの良いウ次元の活動が閉塞することのない働きの神。

そして、現実に活動する人間側として

【 是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(なぎさたけうがやふきあへずの)命、其の姨(おば)玉依毘売(たまよりびめの)命を娶して、生みませる御子の名は、五瀬(いつせの)命。次に稲氷(いなひの)命。次に御毛沼(みけぬの)命。次に若御毛沼(わかみけぬの)命、亦の名は豊御毛沼(とよみけぬの)命、亦の名は神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこの)命。故、御毛沼命は、波の穂を踏みて常世(とこよの)国に渡り坐(ま)し、稲氷命は、妣(はは)の国と為(し)て海原に入り坐しき。】

こうして現実活動をする人類が成すべき準備が整いました。

【 故、三年(みとせ)に至るまで其の国に住みたまひき。】

三年(みとせ)、数で現された三に、年がついているので三年間という解釈になりがちですが、三には実質的に指摘されているものがありません。要するにどうにでも三を解釈できる数霊です。

「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」は、老子道徳経にあるらしい。経では陰陽陰陽の変遷の中にあることを言っているようです。その他には要素が増えて行って三以上は省略してあるという扱いが多い。なので三は多数を現すなどと書いてある。数で現されたものを解釈するとそうなってしまうのは仕方ない事です。太極図の説明などもその口です。

内容で説明すれば全く別の事です。

----先生のことばです。--------

「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず。」があり、何にもない心の宇宙から、先ずひとつが生まれるんだ、ひとつはふたつを生むんだ。ひとつがふたつを生んだのですから、合計三になりますな、その「三」が揃えば、そこから万物が生まれる。

何故なら「三子島」の三は第三段という単なる数字であるが、「三、万物を生ず」の三は数霊の三だからである。

空漠たる広い宇宙の一点に意識の芽である言霊ウが生まれ、それに人間の思考が加わる瞬間、言霊ウの宇宙は言霊アとワに分れ、その三つの宇宙の自覚が、宇宙生命の一切の創造を生み、その創造されたものに名を附すという「万物創造」の原動力であり、土台なのだ、という言霊学上の大命題なのである。

この最初の宇宙剖判の内容を自覚しない限り、人間の最高の精神学である言霊の原理の運用・活用は出来得ない事となる。ウ―ア・ワの自覚を通して人は初めて言霊学の殿堂に入る事が出来る。

----引用ここまで。-------------------

全ては造化三神の構造をもって始まるということです。

△。

豊玉に何か分からない情報が持ち込まれました。いい男が外にいるよということで、△。

二人いれば次々に色々な事が産まれていく、ということで、▽。二人は三年過ごしてきたというその心の内容・霊と過ごされた三年間という現れ・体、ということで、△。

一、二、三、、、、と要素が増えていくことではなく、常に三が繰り返されることが万物を生ずるということです。

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11。相手を説得する法。「 歎(なげき)。赤海魚(たひ) 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

相手を説得する法と銘打っているのに全然関係ないことばかりのようです。本当にそんなことになるのか心配です。

なんとか繕って、終り善ければ全て善しで済まそうと思ってしまいます。

ところが次段を読んでいくとまるきり分からないところがあって前進できません。

sos が発信されているのに、誰も来ない。

難破船に乗ったようです。潮のまにまに流されていきます。

【 是(ここ)に火遠理命、其の初めの事を思ほして、大きなる一歎(なげき)したまひき。】

ことの始めを思い返して嘆いたのですが、ここは鉤を失くしたことから始まるのではなく、嘆き自体から、始まると見た方が良さそうです。「初めの事」と「嘆き」とは別の事です。

【 故、豊玉毘売命、其の歎を聞かして、其の父に白言(まを)しけらく、「三年(みとせ)住みたまへども、恒(つね)は歎かすことも無かりしに、今夜(こよひ)大きなる一歎為(し)たまひつ。若(も)し何の由(ゆゑ)有りや。」とまをしき。】

姫が心配する嘆きが大きかろうと小さかろうと、山彦に嘆き(感情感覚による意識の始め)が到来しました。鉤を失くしたことは嘆きの前提ですが、鉤がどういうものかについては等閑にされています。嘆きは嘆きとして、魚の骨の鉤か、刀を潰してつくった鉤か、兄の鉤か、拾った鉤かに係わりなく、あります。

【 故、其の父の大神、其の聟夫(むこ)に問ひて曰(い)ひけらく、「今旦(けさ)我が女の語るを聞けば、『三年坐(ま)せども、恒は歎かすことも無かりしに、今夜大きなる歎為たまひつ。』と云ひき。若し由有りや。亦此間(ここ)に到(き)ませる由は奈何(いか)に。」といひき。】

綿津見は嘆きとここに来た理由を分別しました。

綿津見の問いに事情を話して、兄の鉤を探し出す事になります。

話の中心は、元に戻せと責められたことです。

ここに二つの流れができてきます。

【爾に其の大神に、備(つぶさ)に其の兄の失せにし鉤を罸(はた)りし状(さま)の如く語りたまひき。】

原因となっている鉤の物理的な側面と、嘆きに始まる全状況です。

「爾に火遠理命、其の兄火照命に、「各(おのおの)佐知を相(あひ)易(か)へて用ゐむ。」と謂ひて、三度(みたび)乞ひたまへども、許さざりき。」

もともと兄には何の非もないのです。無理難題を持ちかけたのは山彦でした。

つぶさに、というからには、自分から仕掛けたことからこうなったと話したのでしょうか。

そこで解決に乗り出します。

「嘆き」

山彦のもたらした嘆きは、姫にどうしてなのかという疑問を産ませます。姫は今では山彦の片割れですから、山彦自身がどうして嘆いているのかと自問していることと同じです。

姫-山彦だけでは回答は見つかりません。そこで二人を取り次いだ綿津見がでてきて、元々の理由とその後の経過を聞き出します。

宣長は、「実際、これは初めに聞いておくことだ。それをこの記では、ここに至って初めて質問している。それは、歎きの理由は何だろうと思っているので、初めここに来た理由も質問したのである。」といっています。

しかしこれは問題解決の基本を綿津見が示したものです。元々の出だしの始めに戻れば埒があくというものです。

嘆き(感情)は個人的であり、多様な感情の中の一つとしてでてきました。それにとらわれていたのでは自他との関係まで嘆き(感情)に浸されてしまい嘆きにおいてことを図り嘆きで事を遂行使用とし、嘆きで二人の関係を続けようとなってしまいます。このような宗教まがいにのめり込んでも、個人の感情の満足意外に得るものはありません。

感情においては個人は救済できます。姫もわたしの嘆きに共感してくれ、心を悩ましている有り難い、とはいうことができますが、その姫や、山彦の周辺へ山彦が有り難いとは感じても彼らに問題を与えているのは山彦自身です。悲嘆を与えて勝手に有り難がっているようなもので、宗教行為と何の変化もない、他者に対してはまるで無力な行為です。

そこで綿津見はそんなところ、宗教的な次元、に留まっていてはだめであることを、次に示します。

大小の魚を全部集めます。そこで山彦だったら、嘆きを全部に与えて、皆わたしに共感してくれている、有り難いことだとなりますが、与えた嘆きを解決することができなくなります。そこで神さんの出番を誘うしか手がないのです。

古事記は神さんの話ではありませんから、神という言葉を拝借しただけのことですから、神の行為はありません。人の意識行為の教科書として、こういときにはこうしろという教えです。

ここでは大小の全部の魚から物事を教えてもらうことです。山彦一人では、自分も他人も安心を与え解決を与えられず、一人で有り難がり、他人に、いもしない神を説教しているだけとなっています。そういったことから、綿津見は魚から教われと教えます。

しかし魚は沢山いますが、それらの学問知識を集めたところで、知る知らないというだけのものです。知る知らない、沢山知ったお前はちょっとしかない、だからこちらは強い、というように弱肉強食の土人の酋長を決めるようなものです。

魚は魚でも、古事記にはちゃんと赤海魚(たひ)とあります。アの次元の田霊(たひ、言霊)から教えてもらえといっています。アというのは山に登って下界を一望の元に眺めることです。

【 是を以ちて海神(わたのかみ)、悉に海の大小魚(おほきちひさきうを)ども召(よ)び集めて、問ひて曰ひけらく、「若し此の鉤を取れる魚有りや。」といひき。故、諸の魚ども白しけらく、「頃者(このごろ)、赤海魚(たひ)、喉(のみど)に(のぎ)ありて、物得(えく)食はずと愁ひ言へり。故、必ず是れ取りつらむ。」とまをしき。是に赤海魚の喉を探れば、鉤有りき。】

下界を見て、あーーー、という共感を得て教えてもらった、ことから、説得がはじまります。

相手の意見を聞くことから始まると、新たな反撥を招くだけです。

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