⑦-1 心の三十二面相

はじめに

後天の言霊要素が三十二の心の現れとなることについて。

古事記は先天の構造から始まり、

次に先天を運用する主体自我が形成され、

主体の活動場を得てから、

次に後天の現象が形成される構成です。

物質世界では力の作用反作用で物の変形として現われますが、意識が現象するとはどういうことになるでしょうか。意識の世界では頭脳内の意識が個々の言葉として現わされます。先天の世界が言葉の世界、広くは表現の世界となって意識されます。

まず、先天が意識されなくてはなりません。(意識されないものを先天と言うので矛盾した言い方ですが、先天の構造が宣(の)るということです。)

そこでは物質世界でのように直接的な形の変化としてではなく、生物の変態よろしく意識の変態を経過します。

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言霊イヰの御柱から出る

ややこしい言い方になりますが。

先天のイザナギ・イザナミが、自身を表出させます。これは先天十七神を率いて行なわれます。

そこで自身の高天原という先天の活動場に、自身となるイザナギ・ミの柱を立てます。ここで始めて自我の芽となるもの(柱)が芽生えます。

先天のイザナギが自我のイザナギに宣(の)ります。

自我の芽が芽生えました。しかしこれはまだ自我ではないし、自我ではない先天十七の力動に従っています。

先天の内容である力動が意識を捉えます。

各人の頭脳の中枢にあるおのれの心の島(オノコロ島)に立っている、言霊イヰの御柱から発す力動が自らを現わしてきます。力動はそれ自体では見えず、自らに起きたことを確認するのには物質的な形をとろうとしますが、頭脳内で力動を伝えるのは意識です。脳内科学では働いている部位を特定できますが、力動の内容が解明されるのではありません。

ここも物的な現象という形となる一つの経過をとります。

自我という言葉を使用しますと自分独りという意味合いが強くなりますが、実は自我などありません。そもそも自我の依って立つ各自の心の御柱は、循環のための一般性の上に立てられています。全てが心の御柱へと回帰されることとなり、一般性へと回帰します。

自分が発した言葉という現象は、どのような形にしろ質問が消えるにしろ生まれるにしろ、全く同じ三十二の経過をたどります。古事記では大事忍男の神から大宜都比売(おほげつひめ)の神まで。

ここに古事記という偉大な精神のあんちょこがありますから、意識の運用手順は真似るだけでいいので、自分の思っていること考えていることなど余計なものは持ち込む必要はありません。

それじゃ訓練もやる必要がないのか、いい加減なことを書くな、と文句が出そうですが、手順は決まっていてもその内容の扱い方は各人各様です。

私も始めてのことでどうなるか分かりません。出来るところまで、です。

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(0) 始めの時。

現象(子)の、産まれる時の、始めがあり産まれた姿があります。

その時の現象は三十二のどれかの時点のものですが、ここではどのような現象になるのか、それがどのようなものになるにせよ、それを準備させたものがあります。先天の全体の可能性があったということになります。ですので現象の始まりの前の状態(0)から始まります。

古事記では現象の始めは大事忍男(1)ですが、それ以前の十七神、天地(あめつち)の初発の時(0)からが事の始めです。

問題は何故どのように(0)が(1)に、全可能性のどれかが現象に、なるかです。そして(1)が(2)、現象が次の現象に連続することになるかです。(1)は(0)でなく(2)でなく、連続していながら独立しています。通常は単なる連続と見えますが、古事記はここに飛躍変態脱皮創造の連続を見せてくれます。

どのように始めての現象が産まれるのかです。

その秘密の謎々がマグワイ(間の喰い合い)です。

要点は蛭子と淡島を生むことで、この両者がいないと、次に進めません。(蛭子は不具の子ではなく、意識活動の絶対的な前提となる一般性と共有の地盤の発生の話です。)

そしてそれは、いつもギ・ミ(気(霊)・身(実体))の命から始まります。

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(1) 大事忍男(オオゴトオシヲ)

先天のお膳立てが整い最初に出てくる現象神です。頭脳内の先天が頭脳内の物となる始めです。古事記の説明ではたった一言「大事忍男の神、次に」というだけです。全編を通じてこんな調子ですから、根幹のところで要所を押さえられていないと全て外れとなります。

頭脳内の先天活動は自分でも見えず有る無しも分かりません。それが考えにまとまり相手に伝わり了解されるまでの経過を通過する最初の形である大事忍男の形をとります。印象の全体像、心象イメージの始めの全体がギミの命の力動によって(0)から出てきます。

先天が心象イメージの形を取り、次に物象になり、次に物質となって相手に伝わり、次に相手内で物象に戻され、次に相手内での心象に還元され、次いで一般性として巷へ放たれます。

心象イメージといいましても、その創出された始めのことで、固まった特定の印象ではありません。現象となる場合には特定の姿になりますが、それも流動的であり変化変質します。ですので始めの印象はそれらの全てを含んだものを、現象させる印象です。つまり大いなる事が忍んでいる意識です。

何故これが現象といえるのか。手にとって触れてこね回せる物質ではないけど、精神意識に取り上げられ触れ回し変形創造できる最初の形となっているからです。

大事忍男は先天の全部がイメージの全体となって現われます。ですのでその取り扱われ方も全体として扱われます。この段階ではそれしかありませんから。つまり心象が有るか無いか、それだけで詳細はありません。

逆に言えば、先天に含まれていないものは現われようがないことになり、同じテーマを扱っているのに話が噛み合わないということも起きます。

よく言われる直観閃きのイメージのはじめに相当する部分に近いでしょう。

これが最初の印象イメージとなるには頭脳内で印象を創出したという了解を受け取ってからです。頭脳の働きは素早いので分離が難しいですが、ここには、最初の心象イメージと印象となったイメージの両者が同時にできているように思われます。

古事記はここに意識の成長変化変態の過程を見て、最初の心象と印象となった心象とを見分け、その形成を追うという形になっています。

始めてのものを得るのに五十(三十二)の状態を通過して、始めて一になるという循環をします。

言霊タ(T/A)です。タの発音は気道の息を舌を使って口蓋を全面的に塞ぐところから始めます。呼気全体が塞がれ出口がありません。腹と胸に溜まる心の内容が出てこようにも出られないので、息が出るときには呼気の全体が一度に出てきます。こうして意識の始まりが全体を示す言霊タ(T/A)ではじまります。

一遍に出てきた呼気ですから詳細は他の言霊に割り振られます。ですので、全体イメージとして出てきながら、イメージがあると言われるようになるまでにはまだまだこの後があります。

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(2) 石土毘古(イハツチヒコ)

意識は超スピードで活動します。立ち上げられた心象イメージまずは全体印象としてあります。次いでただちにその内容は何だかんだと規定し合い、頭脳内のイメージに向い、その形を現そうとします。最初は全体というだけのものでした。こうして、おおごとが押し出されて(オオゴトオシヲ)きました。

オオゴトが押し出されてくると自分の頭の中で誰がそんなことを成したのかと探し出されます。つまりイメージを先天から引き出した主体を確定していきます。

実際、誰が先天からイメージを引きずり出したのでしょうか。突然カレーが食べたくなったり、五六年前に訪ねた町の景色が出てきたり、幾ら考えても思い出せなかったのがひょっと解決したり、どう見ても自我の成せる技ではありません。しかし現象としては自分のものです。

普通は何事もなく「私が、私が」といいますが、実は先天十七神の活動に依って現われた、イヰの御柱のことです。先天のイヰがオオゴトオシヲになり、オオゴトオシヲのイヰがイハツチヒコになっていきます。以下同様に続きます。

イハツチヒコは、主体(ヒコ)の活動は相手対象に向い落ち着き(ツチ)ます。その向う(ツチ・付く)相手が五つの意識の実在次元です(イハ・五葉)。イハに付く主体です。

これは言霊トです。

向う相手は五つの次元世界ですが、向う行動主体は八つの父韻とその動因となるイヰの計十(ト)です。行為の立ち上がる全体に向う時のその自分の選択、どの戸を開けて前進するかの違いなります。

全体のイメージが出ると、直ちに意識の五つの実在世界と、十の働き世界に分かれます。

言霊タとして発現した全体が、その実意識の実在世界と意識の働き世界の結合(マグワイ)行為で現われたということです。

そして次に示されるのは、イハツチヒコで出てくるものはイメージの次元世界であり、そのことでこの世の全てがイメージで推し量られることです。こうして父韻と母音との掛け合わせの全てが秘められていることになります。

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(3) 石巣比売(イハスヒメ)

ここまでで既に(1)(2)の神を通過しましたので、現象の産まれる形や消える形の二つも出たことになります。

(1)は全体として産まれていますから、消えるときもそのまま全体として消えます。言霊タ。

(2)は主体働きが選択行動として現われたり消える印象になります。次いで、言霊ト。

(3)は言霊ヨで、客体側の実在が現われたり消える印象になります。

というように意識の個々の次元を経過することが具体化することになるように、三十二まで続きます。

各神は各言霊単音に該当しています。単音というと一つというイメージですが、個々となった一つの事象を指すのではありません。イハスヒメの言霊ヨは、ヨという一つの音を示すのではなく、精神意識の心持ちが≪ヨ≫に該当するもの全部を現わします。心の次元世界とか宇宙次元とかの意味になります。

これは他の言霊でも同じことで、タトヨツテヤ・・・と言ってもそれぞれの単音を指しているわけではありません。そのような現象発音と成る意識の現れの総体を指します。ですので、トの説明が八になったり十になったり、ヨが四になったりしますが、十とか四を指しているのではありません。(日月神示の数字を直接受け取った解釈はそのほとんどが感心しません。)

ということでイハスヒメはある次元の全体に係わりますと同時に、父母因の組み合わせによる個別化も秘められています。四つの次元の内、関心の示された次元だけが出たり消えるようになりますが、他の次元にもまだ何かあるように思われていることもあります。

ここでは何かの心象イメージが個別化される方向へ向うことが隠されていて、後段で明瞭化し自己主張となるでしょう。

それには言霊父韻と言霊母音が結ばれことが必要です。

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(4) 大戸日別(オホトヒワケ) 言霊ツ

言霊タの世界が主体の働き(ト、10の戸)と客体の実在(ヨ、4つの世)に分かれました。

これを現象として追体験しなくてはなりません。現象であるとはいっても意識内のことですので物をつかむようには行きません。瞑想でイメージします。

オオゴトが意識内のイメージに立ち上げられました。始めの全体の印象のようなもので、こうこうこういったものという具体性はありません。しかし心象イメージという形の実在に気付かされています。イメージの芽ばえです。(1)

次に、心象印象がそこにあるということに気付くとは、印象を持っている自分がそこにあり、その相手となっている対象がそこにあるということです。(2・3)

次に(4)、そこで印象を得ていることは自分と相手との間に関係が結ばれていることになり、ツーッと相手に向う動因が確認されます。(4)

そして相手に向う動因が確認されるとそこでの働きも確認されます。相手のどれに向い、主体のどのような向い方をするのかの具体性個別性へと向います。

古事記は個別性を解説していながら同時に個別性の生成をも示しています。ここでは、頭脳内の見えない先天が、心象イメージとなる経過も示されています。

イメージと言ってしまうと出来上がったイメージがそこにあることになりますが、古事記の説明は全て何々に・成り・立つという経過の成立を含んでいますから、成り立ってしまったものを指すだけではありません。

オホトヒワケ・言霊ツは付く・着く等の意識の心持ちの全体です。その内容は言霊タトヨの全体がタの中でトがヨに着くことになります。付くことは元の場所を離れて相手対象に現われ出ることで、そのような意識の心持ちが言霊ツとなります。

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(5) 天の吹男(アメノフキオ)

向う相手が分かり、自身の向い方が分かるようになると、活動の具体性が出てきます。

吹くは吹き付けることですが、吹くという選択、付けるという選択、吹き付けるという選択等が具体化してきます。ここの次元では頭脳内のイメージの生成次元で、(その完成まで後五段階あります)、具体化されるといっても最初の芽に含まれていなければ成長しません。しかし成長するといっても、風船が膨らむようにではなく、一段一段独自の現象を産んで形にするという経過を取ります。

吹男の言霊はテですが、吹く行為とテではイメージが一致しないように感じられると思います。しかしここでは男という主体を現わす言葉が付いていて、男が、吹き・付ける・主体側の行為を示しています。

最初のオホゴトオシオの内容はここでは、相手に吹き・付けるという選択がされて実行されているところです。この選択の働きが手が働くときと同じというわけです。

吹き付ける内容は、常に前段です。つまり1から4の全体です。意識の働きは超スピードなので、吹き付けるといえばこうこうこういう風にこうして吹き付けるというように具体性があるようにみえますが、それは完成された後の形です。

同様にここで注意するところは、選択は自分でするので自分が選択しているように思われますが、天の・吹男と言われる通り自らの選択を吹き付けるのではありません。ここまでの経過では選択を構築中なので選択が現象となっているのではありません。それでもその選択の内容がでてきます。

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(6) 大屋毘古(オホヤヒコ) 言霊ヤ。

大屋は大きな家屋で、この時点で一応のイメージとなります。1~5までの全部の要素が結ばれ出てきました。ここで出来た形が先天から産まれたものとしてありますが、未だ頭脳内のイメージですから他者に通じる形とはなっていません。

主体側が相手対象に向って吹き付けました。そこでは相手対象側の反作用が起き、主体側がそれを感じ取ります。つまりこれがイメージが湧くということです。それを古事記では大屋と呼び、イメージの全体であり、今後の発祥源であり、動き廻る源であり、それ自体が動き迫ってくるものとしています。大屋の屋は家屋であると同時に放たれる矢でもあるのです。

頭脳内に≪イメージ≫を持つことと、それを『イメージ』と言うこととは全く別のことです。ここの大屋は頭脳内のイメージで、他の人に「イメージ」と伝えるだけの物象となった形はまだ持っていません。先天の各要素が押し出されて心象としての形が作り出されてきました。先天の実在と先天の働きと先天の結び付きによって、心の表出となる元のイメージが形成されていきます。そして構造物としての心象像が飛ばされ出てくるイメージです。

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(7) 風木津別の忍男(カザモツワケノオシヲ)

こうして頭脳内でのイメージは出来ました。しかし物的な形を取っていないので、相手に知らせようにも知らせようがありません。そこでイメージ(心象)を自他ともに共有できる物象としなくてはなりません。その物象と結ばれる過程が次にきます。自他共に共有できる物象の形成にかかります。それが表現表徴、言語等の創造物へとなっていきます。

将来的には主体と客体とになりますが、ここでは頭脳内での主客が明瞭化していきます。

ここで面白いのは、イメージが家屋となって矢のように飛び出してくるのですが、それが連続してくるということです。温泉湯が途切れなく湧くようにです。

心象が構造物として矢のように出てきては形成されます。ここでは自身の意志の力で出てくるものではなく、地中から湧き出る湯水のようにイメージがでてきます。物の形を伴っていないので、定形はなく自由奔放であって手に負えないけれど、それなりの主体側の要素の現れと客体側の要素の現れが分別できます。分別できるとは言っても一つまとまりを持っている奇妙なものです。

言霊はユが配当されていて、夢のユを構成し、夢の中で自分が主体であったり客体であったり同体であったりする状態とよく似ています。

神名は風木津別の忍男です。霊・内容・主観(風)、体・客体・客観(木)、それぞれの各方向へ(津)、同体でありながら分かれる(別)、という意味で、それを押し出す(忍)主体の言霊となります。

古事記を出発点でアニミズムとか自然崇拝とか八百万の神霊とかにしてしいますと、表記された漢語の意味に捕らわれてしまいます。言霊学は最初から意識の学のことです。

( ところで湯水のごとく湧き出る原動力は何でしょう。多くの場合後には創造力想像力となって個人のものとされてしまいがちです。)

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(8) 海の神名は大綿津御の神(ワタノカミナハオホワタツミ)

イメージが物象を求める過程となります。イメージがイメージを出て変態脱皮します。イメージを受け継ぐ表現・言葉を探します。 (6)でイメージが構造体となり、その構造体には霊側と体側が区別されつつ区別を失うことなく統合体として湧き出して物象の形に付いていきます。(7)

渡す相手は最終的には物質で、物質の形をとります。そして創造された物質のやりとりになります。先天世界には物質世界は含まれていません。そこで先天の意味内容、霊、意志等を組んで似せ固めることが必要です。そのために累積していく国を造ることですが、先天から物質へは一足飛びには行けません。そこでまずイメージを半分霊半分体として物象を創造していきます。

ここはイメージの変身を扱うところです。頭脳内の狭いところに成ったイメージから、広い世間一般へと船出をするイメージが取られているので海を用いました。

その為には世間一般に通じて共有し合える姿(言葉に成る)を取らねば成りません。その変態脱皮を説明しているので、海の神様の話ではありません。

神名の解釈は次のようです。海の神名は大綿津御の神で始めの「海の神名」とあるのは「わたのかみな」で、渡(ワタ)して噛み(カミ)結ばれ現われる(ナ)のはと読み直します。

イメージを言葉に渡(海)す噛み(神)名は、大いなるイメージを海(綿)に渡(津)して明かになる(見)神、ということで、海の守護神主宰神のことではなく、イメージが世間一般相手対象客体側、あるいは自分の頭脳内で納得確認できるものとすることです。

ここではや行エが配当されていて、選択前に現われる存在への一瞬の躊躇が現われます。イメージを言葉に渡してしまっていいものかどうか立ち止まる場、突然広い視界が開けたときの戸惑い、全てを新規の状況に任せてもいいものかどうかの優柔不断さができます。ですのでここで大いなる決断がくだされることになります。

さて、出て行く先は広い広い世間・海です。言葉の一般概念に載るところです。

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(9) 水戸の神名は速秋津日子(ミナトのカミナはハヤアキツヒコ)の神。

(10) 妹(いも)速秋津比売の神。

妹背の二神が来ます。

イメージが物象に渡されて噛み結ばれ言葉に組まれて行く前の、先天の最終段階です。

次いで、水戸はミナトで港、出港です。また、ミ・ナ・トは御名の十、実名の十でもあります。渡されるイメージは十の内実を持っているとなります。こうだという自己主張は往々まだ十分の九の他の主張が隠されているということになるでしょうか。

いずれにしろそれらが、速やかに明か(秋)に渡される(津)、ということです。

渡される霊側主体がヒコ、体側客体がヒメです。

ここで面白いのは、配当されている言霊はそれぞれケ、メで、ケは髪の毛一本、メは出始めのちっちゃな芽ですが、大屋ヒコの大構造体の上に載っていて、更に世間一般、海世界全体を相手に出てくるということです。どの人のどの意見も仰々しく大げさに成り易いものです。出てきたイメージに捕らわれこだわり居つくとそうなります。

こうしてイメージが完成し、こんどはイメージを表現する段階へ移ります。表現は言葉をもってします。

他者に到達できないイメージはイメージではなく、頭脳内の思いに過ぎません。イメージの形成中は時間経過としては先天内・頭脳内のその人だけの考えで、イメージといえるものではありません。しかし実際には相手に伝えようとイメージを自己主張することもありますが、この時点ではまだ言葉に組まれていないので、伝える言葉はありません。

水戸の神名は速秋津日子(ミナトのカミナはハヤアキツヒコ)の神と妹(いも)速秋津比売の神の二神が次段の佐渡の島の領域を采配します。

つまり、ウアワヲオエヱチイキミシリヒニイヰ・タトヨツテヤユエケメの全体を内容として、先天からイメージへ、イメージから言葉という物象へ、宣(の)り移ろうとするところです。言葉は五感に訴える物象という形で表現されますから、それの創造へ向います。

先天の霊と体を受け継ぎ、イメージの霊と体を受け継いで、言葉に於ける霊と体を創造していくところとなります。イメージ内のミナ(実名)という体と、トという十の働きがマグワイをするということです。

(『夢』 目覚めてしまってから語る夢は記憶に残った夢で、本来の夢を見ているときの夢とは別の次元の夢です。これが混同されがちです。)

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※ ここから意識領域の次元が変わります。

(11) 沫那芸の神(アワナギ)

(12) 沫那美の神(アワナミ)

(1)から(10)までが頭脳内でのイメージ形成ですが、主観内のことですので他者へ伝達することができません。頭脳内のイメージは完成しましたので、ここから次元が変わります。イメージ心象が言葉という物象になります。

そこでは、ご飯を食べるでも絵を書くでも自転車に乗るでも構いません。今ある自分の存在を動かして何かしようとするときの経過を通過するには、元となる主体に左右されます。そして相手対象が人の生物生理状態の基準内になければ、作用を与えられません。

これから造られていく言葉も同様です。イメージが載ることのできない物象ではイメージを表現できません。心象イメージそのものが捉えどころの無い無限に拡がってしまうものなのに、そんなものを載せることのできる物象があるのでしょうか。

それが言葉です。言葉はどのような極小微細なイメージも、あるいは極大や大法螺や嘘や、ただ喋るだけのものであろうと、どのようなイメージでも載せることができます。また、載せただけのものがイメージの内容です。通常はイメージを語る喋るということで、イメージと語ることが同じ事として扱われますが、別のことです。しかし、そこではどんなイメージでも載せることができるというのがミソで、言葉という形に現われます。

そのためには、言葉によるイメージへの対応がなければなりませんので、その対応を産んでいくことになります。

次の様な経過を辿ります。速秋津日子と速秋津比売によって頭脳内にはイメージが完成されていますので、それが言葉に結ばれ伝わっていく段階でそれが言葉の生成となります。

ではその言葉の産まれる元はどこにあるのかというと、先天にあるという形で、と同時に現に成りつつあるというこのアワナギ(11)から形成されます。

頭脳内のイメージはまず自身が現われる地盤を造ります。

イメージ内の各要素と言葉の各要素が対応しているか確認します。イメージに言霊アの世界があるように言葉にもアの世界を現わすことがなければなりません。

(11) 沫那芸の神(アワナギ) ・ イメージの主体側が言葉に始めから終わりまで全部宣(の)る領域があることを確認します。イメージの主体側が言葉の主体側に組まれ、それによって言葉内の主体側が言葉の客体側と結ばれます。

(12) 沫那美の神(アワナミ) ・ イメージの客体側が言葉に始めから終わりまで全部宣(の)る領域があることを確認します。イメージの客体側が言葉の客体側に組まれ、それによって言葉内の客体側が言葉の主体側と結ばれます。

両者によってアレ(吾)とワレ(我)、結ぶ自我と結ばれる自我、が成立します。

ここで成立した実体を働きによって組み合わし結ぶのが次にきます。

イメージが言葉に組まれると同時に、言葉内に実体が立ち、立たせられる、始めと終りができました。

(13) 頬那芸(ツラナギ)の神

(14) 頬那美の神

頬ツラは頬骨で噛み砕き噛み結ぶ働き、その働きを持って、自と他、ア(吾)とワ(我、汝)、霊と体、心と身体、言葉の内容と言葉の形を貫きます。両者間を貫く行為が働くのを、主体側をツラナギといい、客体側をツラナミと言いました。

ここに実体があって働く行為があります。次に来るのは持続のエネルギーが配分されていることです。それによって実体と働きと行為の持続連続(時の流れ)が起きていきます。

(15) 天の水分(ミクマリ)の神。 霊的エネルギーを現わします。

(16) 国の水分の神。 体的エネルギーを現わします。

ここでは、物質の作用反作用が表立ってきます。イメージから物象・言葉になり、より物質の外観を取るようになりますから、それに応じて物理エネルギーの客観性が顕著になっています。

イメージの内容を伝えるために言葉となってきましたが、ことばの発生には身体特性や生理条件や環境との協調や邪魔だてを排除する物理条件が発生してきます。

こうして主体客体環境の条件等をクリアしていきますますが、その途中で、元々の意図が変化変形消滅してしまってはイメージの伝達に失敗します。そこで次です。

物理世界となっていく先天次いでイメージ、そして言葉はその物質性を高めるに応じて、『祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらわすおごれる人も久しからずただ春の夜の夢のごとしたけき者もついには滅びぬ偏に風の前の塵に同じ』ことになります。

(17) 天の久比奢母智(クヒザモチ)の神。 持続のエネルギーを受けて、久しく主体側の内容が豊にモチ続けられているように、という意味。

(18) 国の久比奢母智の神。 持続のエネルギーを受けて、久しく客体側の形式が豊にモチ続けられているように、という意味。

こうして、言葉という物象に囲まれ霊体両面が伝達に出て行く準備ができました。

次は物象(言葉)の移動の次元に入ります。また、新しい次元となります。

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前段の意識領域は言霊で言うと、クムスルソセホヘで、それは、

クム ・ イメージを言葉に組(ク)んで結(ム)び、

スル ・ スは組み結ばれて動く前の澄んで在る状態、一方ルは組み結ばれて動き流浪する状態、

ソセ ・ そこで動くにしろ在るにしろその状態を持続させるエネルギーを注(ソ)ぎ、エネルギーを供給して消費するために堰(セ)止め溜め込みます、

ホヘ ・ するとそこにエネルギーを吸収して穂(ホ)が出て、その廻り当たり周辺へ向う(辺・ヘ)力動を得て発展させ持続させる、

となります。

次いで、舳(へ)先に向う穂(ホ)の動きです。フモハヌラサロレノネカマナコと続きます。

イメージは物象化され、物として固定化されないと自他との現実の物として現実化されず、作用反作用の交流を得られないので、それが現実化され認知される段階の領域に入ります。しかし前領域まででは、主体の意識に言葉となった物象の穂(芽)ができただけで、こちら側から相手対象にまでは伝達されていません。(同一人物内でも意識構造は変わりません。)

ここから先の意識領域が日本国古名となっている、大倭豊秋津の島 (天津御虚空豊秋津根別)です。

ここから先を解明するのが日本人の証となります。つまり、ここまでの経過ならばどこの国、民族の人達も同じことで主体の意識を表出するだけです。日本人である場合にはその先にまだ完成すべきことがあります。

(引用。 大倭は大和とも書きます すべてが共存調和するという意、 三十二個の言霊がこの区分の言霊の誕生によって全部で揃い、それが豊かに明らかに現われる(津)区分(島)という意味となります 。

音声が空中を飛ぶ言霊フモハヌは「神名」ともいいます 電波、光波でも同じです 。

声は耳により入って聞いた人の頭脳内で「ああこういうことか」と了解され行動になります その後、言葉は先天宇宙に帰り、記憶として印画されて言葉の循環はここで終ります 耳から入って了解されるまでの言霊は真名です 。

別名 天津御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)といい先天の活動(天津御虚空)が豊かに明らかな音(根-ね)となって現われる(津)区分。)

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飛翔四神。

次の四神は風に乗って木霊が野山を飛び交う様子に譬えられています。他者に伝えたり自問自答なりがありますが、中身は同じ構造をしています。口先から言葉が出るか、頭脳内の舳先から出るかの違いです。いずれにしても心と言葉が組み合わされ言葉となって出る場面です。

(19) 風の神名は志那都比古(しなつひこ)の神を生みたまひ、(息が風となってでます。発声)

(20) 木の神名は久久能智(くくのち)の神を生みたまひ、(空中を飛んでいる言葉は心を伝えます。伝達)

(21) 山の神名は大山津見(おおやまつみ)の神を生みたまひ、(言葉、意味内容の起伏が移動します。意味が伝わることでここで始めて言葉になります。表出側)

(22) 野の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神を生みたまひき。またの名は野槌(のづち)の神といふ。(言葉の受領側。飛んで行った言葉が相手側の受領する言葉の神の家の立つ野原・音図に降り立ちます。聞かれるということです。)

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こうして相手側が言葉を聞くところまで進みました。了解するかどうかはまだ先の話です。

主体側の先天、イメージ、物象、言葉と変態の系列を進んできて、とうとう主体の手を離れてしまいます。

今度は先天の意味内容を運んできた体側が物質の形をとっていますので、物質の作用反作用に載らねばなりません。

まずは、この大山津見の神、野槌(のづち)の神の二柱(ふたはしら)、表出側と受領側とが接触(マグアイ)して出てくるものがあります。

(23)天の狭土(さづち)の神。 (受け入れ側の耳(受容器官)で聞かれます。到着してうろつく様子。)

(24)国の狭土の神。 (次いで受領される一定の方向に向かわされます。)

(25)天の狭霧(さぎり)の神。 (次いで進み導かれますがまだ意味内容を分別していません。)

(26)国の狭霧の神。 (次いで組分け選別が行なわれます。)

(27)天の闇戸(くらど)の神。 (次いで暗黒の通路内で点呼復誦が行なわれるよううながします。)

(28)国の闇戸の神。 (次いで送られて来た言葉が了解可能かどうか審査されます。)

(29)大戸惑子(おおとまどひこ)の神。 (次いで受領側に掻き回され煮詰められます。)

(30)大戸惑女(め)の神。 (次いで了解されるものが選択され発出側のものとされます。)

以上を言霊で表現するように繰り返すと。フモハヌ・ラサロレノネカマナコ。

(19) 言霊フ。

表現者が発音して表出する言霊。言葉の場合は空気の濃淡による音波。言霊フだからといって発音のフを指すのではなく、意識の表出者の志(こころざし・シ)の内容である言葉がことごとく(那)言葉(都・つ・霊屋子・みやこ)として活動しているその心を指します。心を物質に託して飛び出させます。

(20) 言霊モ。

飛び出した心は物質として出ていますからそのままでは減衰します。そうならないようにまた久しく久しく霊と体が継続するように茂り繁茂する智恵が必要です。燃え続け盛られるもの。

(21) 言霊ハで言葉のハです。

発出し飛んでいく心の全体は萌え続けて行く中で、心の意図するものが突出して伝わる必要があります。心の意図は八父韻のどれかとなっていますから、フッと吐き出した発音の正確な突出先を相手に与えなくてはなりません。その山頂の頂きのように、多くの枝の葉先のように、物事の意図を示す端の端(は)、言葉の葉のように、です。こうして山の先端を受け入れてハとなります。

(22) 言霊ヌ。

次いで尖端との接触は他の尖端を呼び起こし、尖端自身が全体との協調位置関係を求めるようになり、自ら縫い繋がれ連関の拘束を受けるようになります。次々と来るハの連関が縫い繋がれていきます。

(23) 言霊ラ。

次々と来るハの尖端は縫い綴られて相手側の感覚受容器官を訪ねます。耳ならば耳道を求めあっちこっちウロウロくるくる探します廻ります。螺旋運動で譬えられます。

(24) 言霊サ。

外耳道が見つかればそれが目指すところです。声は音波ですからその特性に左右されます。主体側が音波を発しても客体側に受容性がなければ成立しません。音は空気圧の濃淡ですから本来音はありません。受領側の機能次第です。指す相手を目指すところまできました。

(25) 言霊ロ。

目指す相手が受容器官という物質ですから、必ず進入に対する反作用を受けますが、先ずは、目指された相手内に対峙します。口腔であるか耳道であるか眼球であるか鼻道であるか、どこのどの穴かははっきりしていないが、開かれる路、炉を探ります。ぐるぐる巡ったりいじったりする様子です。

(26) 言霊レ。

もっぱら話が生理器官のことになっていますが、直接に生理作用を語っているのではありません。もしそうであるなら生物学なり物理学に任せればいいのです。またお中元の品物に心を載せたり、賄賂にしたりすることとも違います。恣意的に意図を載せるのではありません。意識の形が現われるときの物質性、物象の形をとって現われた意識をいっています。

この言霊レの次元では目指された相手に進入していきますが、主体側の意図を始めとして創生された主体側全体が進入していきます。しかしそれでは大きすぎ余計なものもあり相手に不要で理解できないものもあります。そこで、意図の重要性の順列をなし必要なものだけを与えるように、目指された言霊サの尖端部分だけを切り取り進入させます。これが列の先を斬る、サキリ、で狭霧という謎々用語になっています。

こうして意識の列(レツ)が組まれ必要な尖端先頭が切り取られ先ず入ります。

(27) 言霊ノ。

闇戸(クラド)という神名ですが、現代で言えば鼓膜でしょうか。暗い外耳道を突き当たって戸があるという感じですが、数千年前に外科の知識はありません。暗室の眼球で網膜に触れ、暗い咽喉で声帯を振るわし、鼻腔の奥で嗅覚が働く等、全て同じ構造の闇戸・くらどです。

自分の生理がこういう状態であるなら当然意識もそれに従うでしょう。頭脳内の意識のまだ表現されていない暗い脳室の戸に突き当たったのです。

進んできて戸・戸板に突き当たりました。暗闇の中ですから一か八かそれに載るしかありません。意識も同様です。押しても引いても、祝詞の宣(の)るです。

(28) 言霊ネ。

眼を開ければ光が入るように、息を吸い込めば香がするように、耳を澄ませば音が聞こえます。こちらから話しかけた言葉は相手に伝わり、また、同時に自問自答のように頭を駆けめぐります。つまり各受容器官に宣(の)った上で進んでいくので、それの特性に応じて機能していきます。見る聞く嗅ぐ等々に成るわけです。古事記では受容器官に載った意図が目覚めて働くことを言霊ネとしました。それぞれ特有のネが起こり、ネが生え、耳ならば音(ネ)が鳴り、木々なら根(ネ)が張る、希望の起こりは願(ネ)がうであり、価値があれば値(ネ)が付き、意識が休息に付けば眠(ネ)むることとなり、疲れればネをあげます。

全て意識の宣(の)った状態を現わしています。

(29) 言霊カ。

いよいよ言霊カです。神・カミのカです。後残る言霊はマ、ナ、コの三つで、ということは言霊カにはマ・ナ・コが欠如しているということです。言い換えれば神にはマ・ナ・コの意識が欠如していて、全智全能ではありません。

感覚が受容する始めの一瞬にはいつも焦点のボケができます。閉じた眼を開けて見て確認するまでの一瞬間焦点が合いません。聞いて意識する場合もその瞬間にはまず一瞬戸惑った挙げ句、その後受け入れるという時間間隔があります。他の感覚も同様です。病的には受容までに瞬間にとは到底言えない時間のかかるときもあります。意識の尖端が宣(の)り、載ったというネが張りそれぞれの特徴あるネが現われます。言葉を扱うのなら聴覚を刺激する音です。

こうして宣(の)った意識のネを内容とする言霊カが出てきます。

ここでは主体側の意識の内容たる言霊ネが宣(の)りましたが、その内容通りに客体側が受け取るか保障されていません。受け取ったものは受け手においてどういうものであるのか発表され、受け手の確認においてそこに有るものとして現象させられるのです。

従って主体側の意図は用意されている客体側との照合を受けねばならず、そのために主体側は自らを撹拌して客体側との整合を求めます。

この客体側との間に生じる一瞬の疑惑と不安が、ことを成す直前によく顔を出すものです。古事記は言霊カの神名を何ということか大戸惑(おほとまどひ)と名付けました。

最後の確認を得る大きな戸を開ける戸惑いです。

それはまた同時に、大いなる(オホ)開けるべき戸(ト)の間取り(マ)を決断する問い(トイ・働き)、でもあります。

(30) 言霊マ。

言霊は前承する循環をしています。ここではマは、ウアワヲオエヱチイキミシリヒニイヰ・タトヨツテヤユエケメ・クムスルソセホ・フモハヌ・ラサロレノネカの全部を含んでマとなります。

ですので、マとはこれら言霊達の鎮座している各居間(五十音図と見立てて)のことです。その間を選んで名(ナ)を付ければ表現された子(コ)がここに産まれます。

さて、カとマは同じ神名で大戸惑子(おおとまどひこ)と大戸惑女(め)の神です。主体側が惑いつつ選択していくのに対して、客体側が五十音図の各居間を用意して受け入れを準備しています。両者のカとマで釜となり、両者の整合する時処位を見出すために掻き回し合っていき、調理調合されて煮詰まります。主体の意図内容が丁度良い物象の形をとり現われます。

惑うのはもっぱら主体側ですが、マトイ(惑)付くのは客体側で、この間の両者を晴らそうと掻き回します。

ところがここに、掻き回して居間を見出すのに(わずかな)時間差が出来ることに気付きます。ここに現象を産むための必然的に生じる時間差をマ(間)といいます。巻く、混ぜる、丸める、まとめる等の現象結果を産む直前の間合いです。間は渡り切らないと埋まりません。

何がマを渡り、マは何になるのでしょうか。

言葉で現わせば五十音図の各音達を指す直前ですが、その音達が言霊であるのではありません。煮詰まって現われてきた音の形をとった意識が言霊です。マを渡ったのはマに成った以前の一連のマに至る言霊達の全体で、その現れが五十音図のどれかの一単音を取ります。その一言霊には以前の全言霊が包含されています。

そしてこのマが言霊ナになります。

(31) 言霊ナ。

言霊マは「間」で実体的に見れば五十音図の一つ一つの間、五十の間、ですが、働きとしてみればどれかの間を選ぶことです。どれか一つを選んで指定すればそれが特定され、全体及び他とは区分され、それが浮きでてそれを示す名が与えられます。名前は以前の一連の言霊によって用意されていて、名が付くことで当初の意図の実相を現わし、それが同時に全体での位置付けを現わします。

名を付けることで体を現わし自己の実相と他者との相違を示し、自らの意図の時処位を示し、そこで名を発することで現象子音の子(こ)が産まれます。古事記は子事記で子の事を記したものです。とうとう自己の意図に名を付けるところまできました。

言霊ナの神名は鳥 (とり)の石楠船(いわくすふね)の神、またの名は天(あめ)の鳥船(とりふね)といふ、今までの経過全体を示す名前です。

鳥はトリ、十里、いままでの述べてきた全てのことわり(理)で、個別的にはア~ワへ渡る父韻の働き、それによって石(イハ・五十葉)、五十の言霊を、楠(ク・ス )、組(ク)んで旅立ちのエネルギーの巣(ス)とすることです。

こうしてここでエネルギーの組まれた形となり雛、ヒナ・霊名、となりました。自分にとっても相手にとっても確認了解できる(物的な)形が確定したのです。両者にとって確認が出来るということは、両者を離れた第三者(子)が成立したということです。

ここではまたの名に天(アメ)の、と付いていますが、先天のということではなく現象としての吾の眼、イマココに在る吾の眼である私の意識ということです。

ところが、私という主体の吾の眼として物的な形を取りましたが、次いで現象(子・コ)となって存在が確立して主体側の手を離れる(言霊ンとなる)や否や、またもや先天に戻ります。

(32) 言霊コ。

大宜都比売(オホゲツヒメ)の神 (大気津比売の神)

大いに宜しき(よろしき)言葉の都(ミヤコ・霊屋子)を秘めて(比売)いる、または、

大いなる言葉の心(気)に渡す(津)ことを秘めている、というい意味で先天に渡す準備。

とうとう内容を持った名が付きました。吾の眼が付いて智に成るで言霊子音の子現象が成ります。私が言っても貴方が言っても誰が言っても共有できる名です。しかしそれは出来上がった名前から見た場合ですので、総仕上げの意味で言霊ナからコへ渡ってみましょう。

常にイザナギ・イザナミの御柱が出発点です。

ギミの先天の力動が考えにまとまりましたが言葉には組まれていません。そこで先天が言葉に渡っていきます。そこでは霊と体の双方の働きを実際の言葉として創造されていきます。しかし、言葉として創造はされましたが、発音され他者に届き復誦検討され了解されてはいません。

さて、確認了解される意図を持った言葉がここにあります。それがフッと口から飛び出します。

前段の言霊の内容を持っています。

それは、

ク・意図と言葉を組む、

ム・意図と音を結ぶ、

ス・クムが整うとエネルギーの充満した巣になり、

ル・流れ動くことになり、

ソ・そこにエネルギーが注がれて、

セ・塞き止め溜め込まれて、

ホ・それを吸収した言葉の穂が出来て、

ヘ・目的相手に舳先を向けて、口から(音源等から)飛びだします。

主体の物質性から離れた物象、ここでは言葉、を創造しました。

フ・は息とも取れますが主体から離れた物象の働きです。フッと離れたり付いたりを示します。吹く、伏す、踏む等心の内容のことです。心の内容もことごとく同時に移動います。

モ・は移動する心の内容が盛られ続けることを示します。

ハ・そこで現われるのが、心の内容と目標相手である両者を繋ぐ両端(ハ)の出会いです。ここで起伏のある両者の端(ハ)が同調共感していれば、相手に主体の心を渡し伝えることができます。

ヌ・そこで両者が縫われ、聞かれ、相手に達し疎通が起こります。

達したのは他人の耳、または自分の耳にです。ここで相手の領域、自分の場合は自分が聞き手になります。

ラ・まずはころがり入り込み、指し示す探し求める相手に付こう近づき、

サ・相手を指し取り入れ、相手の受容に取り入り、

ロ・受容性の形態性質に迎合してその路に嵌まり込み、

レ・指し示された相手の受容形態と作用を個別化して切り(霧)離して、そこに、

ノ・主体側の意図内容を宣(の)せ、

ネ・客体側の意図内容の五十音図の言葉の倉の戸を叩いて音を出し(同調共感を求めということ)、

カ・主体側にははっきりしているが、客体側と感応を得るには不安や惑いのあるまま、

マ・そのまとい付く惑いを掻き回して、多くの間である選択先を煮詰め、

ナ・抽出された名前を呼びます。

コ・ここで主客の合一が確認されると現象子音が産まれます。

(33) 言霊ン。 先天回帰。

主客を離れた第三者として言霊コが誕生して瞬間にここに、言葉(実体)としての蛭子と淡島が成立します。現代的に言えば一般的にとか共有抽象的とかになり、世間に流布されていきます。その一般性のため子の数には入りませんが、子の全体を背負っています。

私たちの使う言葉は実質的にここから始まります。

私たちの創造したものには多くの名が与えられています。

火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神。 一般性となってしまっていますが、そこには全ての言霊の隠れた技能が直ちに現われるように準備されています。

火(ほ)の輝毘古(かがやびこ)の神。 表現されたものは火のように輝いて見えますが、輝いているのは脳裏に甦る主客のそれぞれの意味です。

火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神。 書かれたもの表現されたものはそれ独自の運動を始めます。

というようにこれらの全体が言霊ンで、ンが脳裏・先天間を運びます。