19- 奥疎(おきさかる)の神、辺疎(へさかる)の神

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「古事記と言霊」講座 その十九 <第百七十八号>平成十五年四月号

先月号までにて古事記の所謂伊耶那岐の大神(伊耶那美の命を包含した伊耶那岐の命)と、御身(自らの主観世界を心とし、客観世界を自らの身体とする世界心、宇宙身、宇宙生命)の内容を詳しく説明して来ました。その意味での御身を禊祓するという事は、宇宙身自体の革新事業であり、人類文明の創造行為という事となります。

その禊祓の行為の規範として伊耶那岐の大神は、自らの主観内に樹立した建御雷の男の神という五十音言霊構造を衝立つ船戸の神と掲げました。次にわが身として摂取する黄泉国の文化の内容を天津菅麻音図上に於て調べる為の五項目として道の長乳歯の神以下の五神名を定めました。かくて言霊布斗麻邇の最終結論に導く行為の準備は整った事になります。そして禊祓が開始されたのであります。

奥疎(おきさかる)の神、辺疎(へさかる)の神

黄泉国の文化を身の内に摂取した伊耶那岐の大神は、その摂取した時点のわが身の実相を禊祓する出発点の状況として認定する事から始めます。これを奥疎の神と言います。次にその出発店から禊祓が始まり、その結果、黄泉国の文化が世界文明の内容の一部として取り入れられ、禊祓の行為が終了した時点に於てわが身は如何なる状況に変革されているか、のイメージが明らかに見定められます。この働きが辺疎の神であります。先月号はここまでお話しました。

奥津那芸佐毘古(おきなぎさひこ)の神、辺津那芸佐毘古(へつなぎさひこ)の神

奥疎の神の働きで御身(おほみま)の禊祓の出発点の実相が明らかになりました。その出発点で明らかにされた黄泉国の文化の内容をすべて生かして人類文明へ渡して行く働きが必要となります。その働きを奥津那芸佐毘古の神と言います。出発点に於ける黄泉国の文化の内容(奥津那芸)を生かして人類文明に渡す芸(わざ)を推進する(佐)働き(毘古)の力(神)という訳であります。それは過ぎたるを削り、足らざるを補う業(わざ)ではありません。内容のすべてを生かす事によって結論に導いて行く業であります。

辺津那芸佐毘古の神とは結論(辺)に渡して(津)行くすべての業(那芸)を助(佐)けて行く働き(毘古)の力(神)という事です。辺疎(へさかる)で黄泉国の文化がどういう姿で人類文明に摂取されるかが心中に確認されました。黄泉国の文化がその姿に収(おさ)まらせる事がどうしたら出来るか、の業が決定されねばならないでしょう。そういう業の働きの力を辺津那芸佐毘古の神と言います。禊祓の出発点に於ける黄泉国の文化の内容をすべて生かして行く業(方法)が奥津那芸佐毘古であり、その内容をどういう姿で人類文明に摂取するかの業が辺津那芸佐毘古と言う事が出来ます。

奥津甲斐弁羅(おきつかいべら)の神、辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神

奥津那芸佐毘古で禊祓の作業の出発点にある黄泉国の文化の内容を尽く生かす手段が分かりました。また辺津那芸佐毘古でその文化の内容を人類文明の中に同化・吸収する手段が分かりました。出発点の黄泉国の文化を生かす方法と終着点である人類文明に組込む手段とは、実は別々のものではなく、実際には一つの手段でなければなりません。人類文明に摂取する外国文化の内容の尽くを見極め、それを生かそうとする手段と、その内容を衝立つ船戸の神の音図に照らし合わせて、人類文明の中にその時処位を与える方法とは、実際には一つの行為・手段によって行われるものです。そこで出発点の手段と終着点の手段は一つにまとめられなければならないでしょう。ですからそのそれぞれの間の隔たりは狭められなければなりません。その間の距離を狭める働きが出発点の奥津那芸佐毘古に働く事を奥津甲斐弁羅と言い、終着点の辺津那芸佐毘古に働く事を辺津甲斐弁羅と名付けるのであります。この様にして摂取する外国文化の内容のすべてを生かし、更にそれを人類文明に組み入れる動作とがただ一つの言葉によって遂行される事となります。この禊祓の行為を仏教では佛の「一切衆生摂取不捨」の救済と形容しております。

以上、伊耶那岐の大神が自らの御身の中に於て外国文化を人類文明に組み込んで行く手法を示す奥疎の神以下辺津甲斐弁羅の神までの六神について解説いたしました。お分かり頂けたでありましょうか。

知訶(ちか)島またの名は天の忍男(あまのおしを)

以上お話申上げました衝立つ船戸の神より辺津甲斐弁羅の神までの十二神が人類精神宇宙に占める区分を知訶島または天の忍男と言います。知訶島の知(ち)とは言霊オ次元の知識のこと、訶(か)とは叱り、たしなめるという事。黄泉国で発想・提起された経験知識である学問や諸文化を、人間の文明創造の最高の鏡に照合して、人類文明の中に処を得しめ、時処位を決定し、新しい生命を吹き込める働きの宇宙区分という意味であります。またの名、天の忍男とは、人間精神の中(天)の最も大きな(忍[おし])働き(男)という事です。世界各地で製産される諸種の文化を摂取して、世界人類の文明を創造して行くこの精神能力は人間精神の最も偉大な働きであります。

古事記禊祓の文章を先に進めます。

ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神。この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

前段の文章で伊耶那岐の大神が黄泉国の文化を摂取した自らの御身(おほみま)の禊祓を実行する際の心理とその過程が明らかとなりました。次にその外国の文化を人類文明に取り入れる禊祓の実施はアオウエイ五次元の中のどの段階に於て行うのが適当なのかが検討されます。説明を続けます。

「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、

禊祓をする竺紫の日向の橘の小門(つくしのひむかのたちばなのおど)の阿波岐原(あはぎはら)、即ち天津菅麻音図では母音の並びがアオウエイとなります。その瀬と言いますと、菅麻音図の母音アより半母音ワ、オよりヲ、ウよりウ、エよりヱ、イよりヰに流れる川の瀬という事です。(図参照)

その上つ瀬と言えばアよりワ、下つ瀬とはイよりヰに流れる川の瀬の事です。言霊アは感情の次元です。世界人類の文明を創造して行くのに感情を以てしては、物事を取り扱う点で直情的になり、自由奔放ではありますが、人間の五段階の性能によって製産されるそれぞれの文化を総合して世界文明を創造して行くには適当ではありません。宗教観や芸術観で諸文化を総合し、世界文明を創造することは単純すぎてア次元以外の文化を取扱う為の説得力に欠けます。そこで「上つ瀬は瀬速し」となります。

下つ瀬の言霊イの段は人間意志の次元、言霊原理の存する次元です。言霊イの次元は他の四次元を縁の下の力持ちの如く支えて、その働きである八つの父韻は他の四母音に働きかけて現象を生む原動力ではありますが、諸文化を摂取・総合するには、この言霊原理に基づき言霊エの実践智が働かなければ総合活動は生まれません。言霊原理だけ、意志だけでは絵に画いた餅の如く、原則論だけで何らの動きも起りません。「下つ瀬は弱し」となる訳であります。

禊祓を実践するのに上つ瀬のア段では不適当、下つ瀬のイ段でも適当でない事を確認した伊耶那岐の大神は、菅麻音図の中つ背に下って行ったのであります。

初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、

上つ瀬のア段も、下つ瀬のイ段も禊祓の実践の次元としては不適当だという事を確かめた伊耶那岐の大神は、初めて中つ瀬の中に入って行って禊祓をしました。中つ瀬とはオウエから流れるオ―ヲ、ウ―ウ、エ―ヱのそれぞれの川の瀬の事であります。次元オは経験知、その社会的な活動は学問であり、次元ウは五官感覚に基づく欲望であり、その社会に於ける活動は産業・経済となります。次元エからは実践智性能が発現し、その社会的活動は政治・道徳となって現われます。共に文明の創造を担うに適した性能という事が出来ます。

成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神。

中つ瀬に入って禊祓をしますと、八十禍津日の神、次に大禍津日の神が生まれました。伊耶那岐の大神は禊祓を五次元性能のどの次元に於てすれば文明創造に適当か、を調べ、先ずア段とイ段で行う事が不適当と知りました。そこで上つ瀬と下つ瀬の間の中つ瀬に入って禊祓を行う事にしました。すると最初に不適当だと思った言霊アとイの次元が禊祓を実行するために如何なる意義・内容を持つ次元なのであるか、がはっきり分かって来たのでした。八十禍津日の神と大禍津日の神とは、それぞれ禊祓実行に於てア次元とイ次元が持つ意義内容を明らかにした神名なのであります。

八十禍津日の神

人は言霊アの次元に視点を置きますと、物事の実相が最もよく見えるものです。そこで信仰的愛の感情や芸術的美的感情が迸出して来ます。その感情は個人的な豊かな生活には欠かせないものです。けれどこの感情を以て諸文化を統合して人類全体の文明創造をするには自由奔放すぎて役に立ちません。危険ですらあります。禊祓の実践には不適当(禍[まが])という事となります。けれどこの性能により物事の実相を明らかにすることは禊祓の下準備としては欠く事は出来ません。八十禍津日の神の禍津日とはこの間の事情を明らかにした言葉なのです。禍ではあるが、それによって黄泉国の文化を聖なる世界文明(日)に渡して行く(津)働きがあるという意味であります。以上の意味によって禊祓に於ける上つ瀬言霊アの役割が決定されたのです。

では八十禍津日の八十(やそ)は何を示すのでしょうか。図をご覧下さい。菅麻(すがそ)音図を上下にとった百音図です。上の五十音図は言霊五十音によって人間の精神構造を表わしました。言霊によって自覚された心の構造を表わす高天原人間の構造です。下の五十音図は何を示すのでしょう。これは現代の人間の心の構造を示しています。元来人間はこの世に生まれて来た時から既に救われている神の子、仏の子である人間です。けれどその自覚がありません。旧約聖書創世記の「アダムとイヴが禁断の実を食べた事によりエデンの園から追い出された」とある如く、人本来の天与の判断力の智恵を忘れ、自らの経験知によって物事を考えるようになりました。経験知は人ごとに違います。その為、物事を見る眼も人ごとに違います。実相とは違う虚相が生じます。黄泉国の文化を摂取し、人類文明を創造する為には実相と同時に虚相をも知らなければなりません。そこで上下二段の五十音図が出来上がるのです。

合計百音図が出来ますが、その音図に向かい最右の母音十音と最左の半母音の十音は現象とはならない音でありますので、これを除きますと、残り八十音を得ます。この八十音が現象である実相、虚相を示す八十音であります。これが八十禍津日の八十の意味です。言霊母音アの視点からはこの八十音の実相と虚相をはっきりと見極める事が出来ます。

この八十相を見極めることは禊祓にとって必要欠く可からざる準備活動です。けれどそれを見極めたからと言って、禊祓が叶う訳ではありません。そこで八十禍と禍の字が神名に附される事になります。

古事記が八十禍津日の神に於て人間の境遇をアオウエイ五段階を上下にとった十段階で説く所を、仏教では六道輪廻の教えとして説明しています。それを敷衍して図の如く書く事が出来ます。

大禍津日の神

八十禍津日の神が、伊耶那岐の大神の禊祓の行法に於ける菅麻音図のア段(感情性能)の意義・内容の確認でありましたが、大禍津日の神は禊祓におけるイ段(意志性能)の意義・内容の確認であります。言霊イから人間の意志が発生しますが、意志は現象とはなりません。意志だけで禊祓はできません。また言霊イの次元には言霊原理が存在します。この原理は禊祓実践の基礎原理でありますが、禊祓を実行するに当り「基礎原理はこういうものだよ」といくら詳しく説明したとて、それで禊祓が遂行されるものではありません。言霊原理は偉大な法則です。けれどそれだけでは禊祓をするのに適当ではありません。そこで大禍(おほまが)となります。しかしその原理があるからこそ、伊耶那岐の大神は阿波岐原の中つ瀬に入って禊祓が実行可能となるのです。中つ瀬に於て光の言葉(日)に渡され、禊祓は完成される事になります。大禍に続く「津日」が行われます。言霊イの次元の意志の法則である言霊原理は、それだけでは禊祓の実践には不適当であるが、その原理を中つ瀬のオウエの三次元に於て活用する事で立派な役を果すこととなる、という確認が行われました。この確認の働きを大禍津日の神と呼びます。

この二神は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

八十禍津日の神と大禍津日の神とは、伊耶那岐の大神がかの黄泉国という穢い限りの国に行ったときの汚垢(けがれ)から生まれた神である、と文庫本「古事記」の訳注に見えます。この解釈では禊祓の意味が見えて来ません。そこで少々見方を変えて検討することとしましょう。

伊耶那岐の命が妻神のいる黄泉国へ出て行き、そこで体験した黄泉国の文化はどんなものだったでしょうか。その文化は物事を自分の外に見て、そこに起る現象を観察し、現象相互の関係を調べて行く研究・学問の文化でありました。その学問では、今までに世間で真理だと思われて来た一つの学問の論理を取り上げ、それに新たに発見した新事実を披露し、今までの学問では新事実を包含した説明は成立しない事を指摘して、次に今までの学問の主張と新しい事実との双方を同時に成立させる事が出来る論理を発表して新しい真理だと主張します。この様に正反合の三角形型△の思考の積み重ねによって学問の発達を計るやり方であります。

客観的現象世界探究のこの学問では、他人の説の不足を指摘し、その上に自説を打ち立てる競争原理が成立ち、自我主張、弱肉強食そのものの生存競争世界が現出します。伊耶那岐の命は黄泉国のこの様相を見て、伊耶那美の命の身体に「蛆(うじ)たかれころろきて」居る様に驚いて高天原に逃げ帰って来ました。この事によって伊耶那岐の命は、黄泉国で発見・主張されている文化は不調和で穢いものではあるが、世界人類文明を創造する為には、これらの黄泉国の諸文化を摂取し、言霊原理の光に照らして、新しい生命を与える手段を完成しなければならないと考え、禊祓を始めたのであります。

その結果として種々雑多な黄泉国の文化を摂取して行くのにアオウエイ五次元の性能の中で、アとイの次元の性能は禊祓の基礎とし(イ・言霊原理)、また下準備とする(ア・実相を明らかにする)のが適当である事が分かり、八十禍津日、大禍津日の二神の働きを確認する事が出来たのであります。「この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成りませる神なり」の意味は以上の様なことであります。

古事記の文章を先に進めます。

次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘(かむなほひ)の神。次に大直毘(おほなほひ)の神。次に伊豆能売(いずのめ)。

禊祓をアオウエイ五次元性能の中のどれでしたらよいか、を検討した伊耶那岐の大神はア次元とイ次元を調べて、この双方は禊祓の下準備(八十禍津日)や、基礎原理(大禍津日)としては必要であるが、そのもので禊祓をするのは不適当である事を確認して、上つ瀬でも下つ瀬でもない中つ瀬に入って禊祓をすることとなりました。その時に生まれましたのが神直毘の神、大直毘の神、伊豆能売の三神であります。中つ瀬にはウオエの三次元性能があります。神直毘は言霊オ、大直毘は言霊ウ、そして伊豆能売は言霊エの性能を担当する神であります。

神直毘の神

言霊オの宇宙から現われる人間の精神性能は経験知です。伊耶那岐の大神が禊祓を実行する為に心の中に斎き立てた衝立つ船戸の神(建御雷の男の神)の鏡に照らし合わせて、人間の経験知という性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。その確認された働きを神直毘の神といいます。神直毘の神の働きによって黄泉国で産出される諸学問を人類の知的財産として、世界人類の文明創造に役立たせる事が可能だと確認されたのであります。

大直毘の神

言霊ウの宇宙より現出する人間の精神性能は五官感覚に基づく欲望性能です。この性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。この確認された性能を大直毘の神と呼びます。この大直毘の神の働きによって、世界各地に於て営まれる産業・経済活動を統合して世界人類全体に役立たせる事が可能である事が分かったのであります。

伊豆能売

阿波岐原の川の中つ瀬の最後の言霊エの宇宙より現出する人間性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。この確認された働きを伊豆能売といいます。言霊エの宇宙から発現する人間精神性能は実践智と呼ばれます。人間のこの実践智の働きによって世界の国々の人々が営む生活活動の一切、言霊ウオアエの性能が産み出すすべてのものを摂取、統合して、世界人類の生命の合目的性に添わせ、全体の福祉の増進に役立たせる事の可能性が確認されたのであります。伊豆能売とは御稜威の眼という意です。御稜威とは大いなる人間生命原理活用の威力、と言った意味であります。眼とは芽でもあります。眼または芽とは何を指す言葉なのでしょうか。

禊祓をするに当り、人間の根本性能である五母音アオウエイ性能のそれぞれの適否が検討され、その中のオウエ三つの次元が適している事が確認されました。この後、更に適当だと確認されたオウエの三性能について、可能とする道筋の経過が音図上で詳しく検討されます。その経過は明らかに言霊そのもので明示され、確乎とした事実としてその可能が証明されて来ます。その時、オウエの中の言霊エの性能が人間精神上最高・理想の精神構造として示され、主体的・客体的に絶対の真理であるという言霊学の総結論が完成されて来ます。その絶対的真理となる一歩手前の姿、という意味で伊豆能売、即ち御稜威の眼(芽)と謂われるのであります。

(以下次号)