10 禊祓準備神

身禊準備の五神

ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。

かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。

0。(写し出す鏡としての前提)

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、

衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。

1。

次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、

道の長乳歯(みちのながちは)の神。

2。

次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、

時量師(ときおかし)の神。

3。

次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、

煩累の大人(わずらひのうし)の神。

4。

次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、

道俣(ちまた)の神。

5。

次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、

飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

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身禊ぎ祓え・投げ棄(う)つると投入する。

道で転んで膝を付いた時、ズボンが汚れたと叩きます。

汚れの身を削ぎ払い打ち捨てます。しかしこれは行為として現われた後天現象です。

現象が現れるに到った経過を見てみます。

ごみ埃がズボンに付きましたが、これはズボンにとっては物理上の作用反作用で布地にごみが付いた物理量の変化というだけのことです。そこの布地には綺麗汚いの判断はありません。出てくるのは全て主体側から起きてくる、主体側自身にとっての判断規範です。

0。(写し出す鏡としての前提)

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。

汚れが汚いと思いその身を削ぐ心が起きなければそのままです。汚れが付いても視聴覚的に感知できなければそのままになり、気にも掛けなければ放って置かれます。

まず起きてしまったことは、汚いという判断することで、その判断を保障し汚れ対象の様態を判断する全体的な規範が出てきたことです。

気が付けば汚れていたとか、汚れはないかと探して見つけたりします。判断規範が投入されそれに従って行為が出てきます。

1。

次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。

一。これは汚れがあるという主客の全体構造図となります。汚れがあるという現象(み・身)を過去から来たもの(を・緒・尾)の内容が現われた(び・事の霊)とします。汚れが今もあるという確認となります。

帯は長いものですが結ばれ固定されることでその役割を果たします。過去から来たものとここにあるものとの関連の帯が結ばれることで、このものの関連が現われてきます。

ここでは過去から今現在に至る判断規範の精神構造図を基準としなければ行為が遂行されません。

汚れを身禊しようと身(汚れ)を捨てるために、精神規範を投入します。

すると、汚れの過去からの経過関連が現われます。

しかし、その判断はまず全体の実在へ向います。汚れが有るか無いか汚れているかです。ここで確認されれば、次に進みます。

有る無しと有る無しの持続の確認で、言霊ウ次元の出来事です。

2。

次に投げ棄つる御裳(みも・ひだスカート)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。

二。次に、汚れのあることが確認されれば、その全体判断が更に進みます。その汚れの位置づけ三態、時処位、が気になります。過去より来た汚れの何時出来たものかの判断が投入されます。

汚れが有ること(あるいは無いこと)に対して、その時処位を得ようとします。

ヒダスカートで象徴された投入された全体判断規範図のヒダのどの部分に相当しているかを見ます。判断規範図は五十音図のことですが、そんなものは意識されず主体内で進行しています。

五十音図の父韻の現象発生のリズムに比較されることで代表され、過去からキタ今汚れているという判断の時処位を判定します。

汚れが何時から、どの場所で、どの位あるかと思惟の分散、剖判が最初に得たの判断規範の範囲内で起きます。

ここで規範が要素として現われることになります。チキシヒイミリニの現象発生の変化の律動と(三十二子音)現象とイエウオアの実体次元で現わされるようになります。

有ったもの(無かったもの)の持続の確認で、言霊オ次元の出来事です。

3。

次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。

三。次に、三態それぞれの御裳を全体とした衣裳を投入し、時処位の判断規範に曖昧模糊としたものを排除しようとします。

ここは自分が取るべき行為をする時に必要となる自己を駆り立てる意識の御旗を掲げるところです。自分を動かす納得了解承認の自他への復誦が起きます。汚れが自他ともに確認されます。そこで自己への判断が確認され、自らに受け入れ受け取れるものかの煩わしさが除去され、自らの判断を確認します。

時処位での不明瞭さが整理され、自分の行動の指針が掲げられます。

掲げられた指針の確認で、言霊ア次元の出来事です。

4。

次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。

四。次に、自らの主張表明へ向けての諸見解から、一定の方向へ向う決定意志の方向性を選択しようとします。

曖昧さが整理されてもまだそれは表明されていません。そこで褌・袴・ハカマを投入すると街道にあるような道俣が出てきました。二者択一の選択を投入すると二者択一の状況が出てきたということです。

これは象徴的な二者という表現ですので、必ず二者である必要はなく、自己の選択と選択外との二者択一という形で現われますが、それぞれが前記一二三の経過を通過しているので、当初の全体判断からの経過によります。ここで滞りますとジレンマとなります。

ここでは選択を投入すると選択が出てくることになりますが、前記2の場合には、過去の時処位の概念を投入しても見方が変化しますので、そのものが出てくるとは限りません。

選択する行為が表明され、選択に向います。言霊エ次元の出来事です。

5。

次に投げ棄つる御冠(みかがふり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

五。次に、かくして選択されたものが確認されればそれが自分に確認された自分のものですから、自分の頭に目一杯拡がり占有されます。こうして自分の意図が明かに(あき)自分に組み込まれ(く)、自分の主張(ひ・霊)となります。

大人は家を成り立たせる責任者で、自身が自己判断の働きをした責任者になるということです。

冠は意志意識による領導因采配の象徴で、冠の下に頭があり、頭の中に心があり、その心の現れ反映ということです。

・能動因が行為として現わされることの確認で、言霊イ次元の出来事です。

かへりごと

私自身の胸中からすると今の時事を書け書けと言われているようで。あまり詳細に書いても意味がありませんしね。これからどういう時に「かへりごと」を言うようになるのか、ならないのかも分りませんが、たぶんなると思います。

今までなんの狂いもなくなってきましたから私がそう思いますとなると思います。「かへりごと」というのは報告ということですから。一番大きな報告は建御雷の男の神さまが出雲に来て十拳剣を海に突きたてて剣の上に胡座をかいて大国主命に「これからどうするんだ」って。逆さに立てたということは物事を整理して「おまえは言う事をきくのか」ということですから。

建御雷の男の神さまが言えば絶対で、これを直毘(ナオビ)というのです。きかないわけにはいかない。息子の言代主の命は言う事をきいたけれど、弟のタケミナカタの神が反逆を起こす。それじゃ相撲をとってみよ、ということになって押さえつけられてしまって敵わない。出雲から佐渡の方まで逃げる。新潟から川沿いに長野の諏訪湖に出るところで捕まえられ、「時が来るまで私は一歩足りとも出ないから殺さないでくれ」と頼む。「そうしてくれるなら邇々芸命に便宜を図ることを約束する。」って言うんです。

タケミナカタの神は科学の神様です。タケのミナは言霊のことですが、片(カタ)っ方ですから科学のことですね。天の岩戸を開いている現世の人たちの因縁は、第一精神文明時代にこれからの世は物質文明であると先っぽ担いでワイワイやってた人達です。その人たちが外国へ出て行って急先鋒になったら再び日本に帰ってきて時が来るのを待っていた人達です。

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禊祓

文明創造の綜合体を創っていく目、伊豆能目。神直毘(ウ)と大直毘(オ)は伊豆能目に付帯するもの。このあたりが二月頃に分かると思っていた。二千年の歴史がひっくりかえるのですから、そんなに順当には解けない。

すぐ分かるだろうと思っていたのが六ヶ月かかりましたから。ようするに五十音を整理して最後に建御雷の男の神というのに纏められ時に既に出てきているのですが、主体的な観想なので誰にでも通用するかどうかは分からない。

それで黄泉国へ行ってその経験を基に、逃げて帰ってくるときにその動作をしている。十拳剣を尻手に振って。それから禊祓で理論的に心の葛藤の経過として、尻手に振ったことの内容なんです。

衝立つ船戸の神では何を立てたかの正体を明かせないでいる。経験によってその正体を明らかにすることが出来る。建御雷の男の神というのは伊耶那岐の神の心中の自覚なのであって一般の誰にも通用するものではないかもしれないから、そこで実験を伴う。

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禊祓?¬

それで黄泉国へ行って伊耶那美の神の実情を知った上で逃げて帰ってくる時に整理しながら千引の石で離婚します。整理する立場と整理される立場では永遠に一緒にはなれないんだと。永遠になれないものを自分のものとして人類文明というひとつのものを創っていくには、どういう言霊の活用法になるのだろうかと。

その検討が始まるわけです。その時にこうなるであろうという自覚された最後の心の構造、建御雷の男の神というものを自分が禊祓をする時に目標に行くガイドブックとして立てるわけです。それが衝立船戸の神。

大筋は出ても結論が先に分かってしまったら面白くないですから。あくまでもこれは覆面であって八十禍津日ではダメということになって「この禍を直さんとして」と言って、覆面を表面化する。だけでもまだ十分に出し切らない。

出て来る前の底中筒と綿津見、これら六神が出てきて初めてその正体が明らかになるような話方をして三貴子が登場する。「この禍を直さんとして」というのはあくまでも今までの流れの中であるものなんですよということで、直毘として伊豆能目として出してくる。

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禊祓?

ここまでは心の葛藤として出て来るけれどもこれを完全にするためには衝立つ船戸の神を持ってこなくてはならないのですよということを言葉の裏で示すんです。話法の順序として分かろうとしているところを途中で分からしてしまったら分からなくなる。

建御雷の男の神として構造が分かってしまっているもの。これを伏せてしまって、ただこれを目標として掲げたんですよということだけを言っておいて、その掲げたものが何時、どのように姿を現すかの劇的な瞬間を八十禍津日においた。そこでパッと見せる。

それで今までは主観的のみに完成されていたものを客観的にも完成することが可能ですよという結論を持っていくわけです。ここまでしか出来ない人間が他のやり方ではどうにもならないことを自分の胸に秘めていた「この禍を直さんとして」でオープンする。

その内容は底・中・筒男の神、綿津見の神、ですよというこです。それが子音の並びで示すことになる。誰もぐーの音も出ない。従うより他なしということです。それが天津太祝詞の子音の並び方の同じ。あーでもこーでも、といっていたことが実にうまく最後にビシッと決まる。

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尻手

岐の命は高天原を知って黄泉国を知りましたが、我々は高天原を知りませんでしょ。自分はこの世の中が嫌だ嫌だと、自分の心の中に天国を求めたいと言っても、知識の誘惑がものすごく追いかけてくるんです。

自分自身が知識に対しての信頼度とそれが勝っているのが偉いと思っている執着が。その執着から逃れたいと思いながらも、その執着から離れたらフワフワしてしまって自分が何処へ行ってしまうのだろうっかっていう不安。それを支えるのがアという信仰ですね。

岐の命は建御雷の男の神という主体の本義を知ってしまっていますから、逃げ帰りながら十拳剣を尻手に振る。今まで観て来た黄泉国の文化構造はどうなってるんだということを、高天原の原理に照らし合わせて知らせながらに逃げてくる。

今度、言向けやわしの時には尻手ではなくて、建御雷の男の神が大国主の命を言向けやわす時には、海の中に立てたとある。原理を正当に説くことによって、その原理を運用して相手を説得する時には立てる。

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