こころの原論。天照大御神の誕生。4

016 こころの原論。天照大御神の誕生。麻羅、まことの織物。天の岩戸開き。 ◎

・・天の安河の河上(かわら)の堅石(かたしは)を取り、/確実な言葉

・・天の金山の鉄(かね)を取りて/材料となるかな(もじ)

・・鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(まぎ)て、/

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以下の構成は、

○言霊イ--・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、におおせて、・鏡を造らしめ、

○言霊エ--・玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、・八尺(やさか)のまがたまの五百津(いおつ)の御統の珠(みすまるのたま)を作らしめて、

○言霊ア--・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・

○言霊オ--・布刀玉の命(ふとたまのみこと)を召して、

-父---・天の香山(かぐやま)の真男鹿(まおしか)の肩を全抜(うつぬ)きに抜きて、

-母---・天の香山の天のははか(はわか)をとりて、

-イ---・占合(うらえ)まかなわしめて、・天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を・根こじにこじて、

-エ---・上枝(ほつえ)に八尺のまがたまの五百津の御すまるの玉を取り付け、

-ア---・中枝(なかつえ)に八尺鏡(やあたのかがみ)を取りかけ

-オ---・下枝(しづえ)に白和幣(しらにぎて)、青和幣(あおにぎて)を取り垂(し)でて、・この種々(くさぐさ)のものは

○言霊オ--・布刀玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取りもちて・

○言霊ア--・天の児屋の命太詔戸(ふとのりと)言ほきまおして、

-父韻--・天の手力の男の神、・戸の脇に隠り立ちて、

○言霊ウ--・天の宇受売の命、

-ウ---・天の香山の天の日影(ひかげ)を・・手次(たすき)にかけて、・天の真折(まさき)を鬘(かづら)として、・・天の香山の小竹葉を手草(たぐさ)に結いて、・

-ウ---・天の岩屋戸に/五十葉戸、・うけ伏せ・・踏みとどろこし神がかりして、

-ウ---・胸乳をかきいで・裳緒(もひも)をほとにおし垂れき

-主体側--・ここに高天原動(とよ)みて

-客体側--・八百万の神共に笑いき。

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・鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(まぎ)て、

・鍛人(かぬち)

=かぬち、かねうち、金打ちの略。かなをうつ。

「求(まぎ)て」どうするか書いてないと宣長は言っているようですが、下記の五神の仕事の配分を決めました。材料のかなは集まりましたが、分類されていません。雑然混沌としたものをまず実在母音にそって分類します(つまり人の意識の五つの次元段階に沿って)。鍛冶、鋳造の例で説明されているごとく、大和の意識に対応した五十音は単音として鉄のごとく硬く確実な意識の単位となっているということです。

次の五神は言霊母音行の各段の象徴です。

言霊イ。・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、

言霊ア・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・

言霊エ・玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、

言霊オ・布刀玉の命(ふとたまのみこと)を召して、

言霊ウ・天の宇受売の命、

・天津麻羅(あまつまら)

麻羅(マ、ラ)はまこと(真、実)のマで、羅は、辞書には、

[1] 薄く織った絹布の総称。うすぎぬ。うすもの。

[2] 搦(から)み織りの技法を用いて織った目の粗い絹織物。

[3] 陰茎。魔羅(まら)。

とあり、麻羅まら・実(まこと)の羅(おりもの)、真の織物。五十音図を全体としてみたときの厚手の織物ではなく、言霊五十音図の各段一枚一枚の薄手の織物のこと。次元の違い、各働きの違いを象徴しています。また一枚一枚でありながら全体を指す時にあたえられた神の名です。

堅石(かたしは)のカか、タのどちらかを選べば後の配列は全てきまるので、「求(まぎ)て、」に既に選択させ、天津麻羅に選択させるの意味があります。他の文献にある神名の、あまのまひとつのかみ 【天目一箇神】の「目一箇」(まひとつ)は、各次元は相互に入れ替えができなく、それぞれは真の内容を薄手ながら一つづつ持っているということ。ウの次元はオの次元に変化していくのではなく(欲求を幾ら増やしても知識が増えるわけでなく)、オの知識の次元が幾ら豊になっても感情のアの次元の一つも出て来ることはない。

集めた雑然としたかなを整理して、まことの位置に各言霊単音を配置して母音行から半母音行へ差し障りなく渡ることができるような音図に仕立て上げること。

その際、基準になるのがカで始めるかタで始めるかになる。

経験知識を整理運用する音図の赤珠音図ではその配列は、あ段、ア・カタマハサナヤラ・ワで、カタで始まり、マからラへ行く。

マラを男根とするのは時代考証で不可ということですが、文献上でのこととして、男根で有ることを利用できれば、マラを起立した軸と受け取り、アマツマラは現象子音の金山にタかカを打ち込む選択をして軸(まら)を決める役、鋳鉄鋳造、打つとか叩くとかでなく、「タ」と「カ」に続く未定形未分類のかなを整理する始めの確実な軸を築くこととなる。

こうして全体的な先天の中での基盤整備の準備が一つ一つ整う。建物がでかいほど基盤への配慮も大変なものとなっている。なにしろ相手は完全な思惟運用言語規範の天照大御神なのですから。

続いて、各次元での対応準備。まず言霊イの次元。

・・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、におおせて、・鏡を造らしめ、

・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、(『日本書紀』では石凝姥命)、におおせて、

=言霊イ。創造意思の次元。その神名が示すように意思をこり固め留める役目。

物事の始まりにはまず意思が無ければならない。意思とは無関係に突如出現したものに関しても、そのものにこころを動かされる時には一体なんだろうという疑問思いを解決したい知りたいという最小の意思が無ければ素通りされて、気付かないことになり、気付く限りそこに意思が発生する。しかし、意思が発生しても、それに注意を持続して引き留めることがなければ、やはりその後には何も起こらない。

伊斯許理度売命(いしこりどめ)には三つの意味が隠されています。

伊斯(いし)・許理(こり)・度売(とめ)の三つが、意志とは何かの秘密となっています。

◎017 こころの原論。天照大御神の誕生。意思。天の岩戸開き。 ◎

・・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、におおせて、・鏡を造らしめ、

=言霊イ。生命の創造意思の次元。その神名が示すように意思をこり固め留める役目。

伊斯許理度売命(いしこりどめ)には三つの意味が隠されています。

伊斯(いし)・許理(こり)・度売(とめ)の三つが、意思、とは何かの秘密となっています。

伊斯(いし)・・古事記で言う意思は人間の意思ですので、ウィキ等で言われている目標達成を促す自発的な思考というように、思惟の次元だけに関するものではありません。人の生きていくこと全体に関するものです。生命の創造意思と言ったらいいものでしょう。

人間とは何かという全体に関わるもので、古事記の古神道では人間とは言霊母音半母音行とその両者を取り持つ父韻行とそれによって産み出される現象とそれを指し示すことと、そしてこれら全体を誘う根源的な力動因を指します。

前もって示しておきましょう。

イシ・伊斯(いし)・・母音、実在精神宇宙、を支え統括する。言霊イの静まった先天エネルギーの精神宇宙。

コリ・許理(こり)・・父韻、根本智性の働きで母音へ働きかけ実相の単位を創生する。凝り固まる。

トメ・度売(とめ)・・子音、現象の実相単位の命名によって物象化して留め置く。

意志は大和言葉ではなく翻訳語らしいけれど、意志の意味を「意思」とした表記はある。戸隠神社中社の立札に祭神名が「天手力男命またの名を八意思金命」(ヤゴコロオモイカネノミコト)とある。埼玉県秩父市の秩父神社にもこの祭神名、八意思兼命を見ることが出来ます。知知夫彦命は父韻のこと。

意思について(伊斯いし)・

まず三つに分かれた部分の一つ目です。古事記では神の名を挙げて説明にかえていることが殆どで、その名の通り古事記を、ふることふみ、などと今頃読んでいるようじゃ安万侶さん安心していられないだろうから、正しくその気持ちを汲んで、古こ事じ記つけ、(飲み屋の女将にこの字(記)の読みを聞いてもらえばすぐ分かります)と読もう。

イシはもちろん伊耶那岐の大神の伊のことで私たちの意思(と先天の意思)のこと。こうした頓智みたいな言い方も慣れてきたと思いますから、そのまま通していくことが多くなると思います。悪しからず。

意思が弱い気が小さいから強くしたいと考えている人が結構いるようです。

それじゃその小さい意思を見せて欲しいといっても意思は見せられるものじゃない。何らかの身体的な、物質的な行動的な形で見せるしかない。意志というこころそのものは見せられないから、体的に表現しようとしていく。体は現象で現象には量があるから、その量を意思と思い込む。量の大小を意思と認識してしまうと、認識は自分を捕らえるので、量的な意思が自分の意思となる。風が吹くと桶屋が儲かる方式になっていく。

落ち着いて元に戻ってどんな場面でのことか反省してもらえれば自分なりに何か上手いこと行くかもしれないが、囚われの身の上に精神が甘んじているのでどうしようもない。俺は腹減った喰いたい喰いたい大いに喰うぞというには、うんと空腹になればいいが、勉強しないといけないよし勉強するぞという割りには、何もしていかないで何しようどれからしようあれはどうかなと迷う。

知識がないからもっと欲するという名目で、あそこにあるあっちにあるあれを選ぶと充分得られるという、仮想の満腹状態が頭を満たしていてそれに甘んじていく。

意思が弱いのじゃなくて、仮想の強い意思が頭の中に設定されていてこころの宇宙が、外界の実際の宇宙に取って代わっているだけ。こころの奥では自分の意思は充分強いという隠れた踏み絵がある。自分の隠れた踏み絵が誰にも踏まれない限りは弱い弱いと言いながら過ごすことができる。でも何時かは踏まれ傷つけられ実際そうだから強くしたいと願っているのに何てことをいうのか。

そうなるとわたしも答えるのに窮します。以上述べたことに効き目がないし、どうせ効き目は無いし特効薬など無いと強い意思で言い放つしかない。尾頭付きの鯛で一杯やったらいい、自分は意思の弱いか弱いそして、努力を嫌がる人間だと、自分に乾杯と、進めてみるが、、、古い言い方ですね。

ということで意思の現れだけが問題になると行き詰まり大変なことになる。しかしこれはどうしようもなく人の性で、意思を強くしたいというのも弱いままでいる方が良い雰囲気でいられ気持ちがいいことが多いし、強くしたいという努力があることぐらい知っていることを行為はしなくとも示していたい。自分の状況が自分の選択の範囲にある内は口先だけで強くしたなどともいえますが、明日誕生日を迎えたら殺されなくてならない、これを避けるにはどうするかなどという時には自分でも知らない強い意思が出て来るのじゃないでしょうか。

これを直そうとして古事記が書かれているとして読むなら、一つは、強い意思を作るためであり、一つは強い意思は外から作られて来ることを知ることであり、意思の無い状態を知ることと、歓びをもって意思することを知るためでしょう。

人の性の集まりでもって出来ているのが世の中です。世というのはよで、四のことで、四とはイを除いたウオエアの世界のことです。イはいのちのイで、イノチは五の道で、イエウオアの全母音の集合体のことですが、世の中とは所詮イの欠如したものということになりそうです。

イが意思のイで意思が欠如した世など有り得ないと言われるかもしれませんが、この世にある意思のイは、欲望、知識、感情、と少々の智慧の為のイです。それは古代にスメラミコトが統率していた平和な社会運営上のイではありません。また、意思が強いとか弱いとかに迷わせられない自覚した意識を持って、結果に対する不安、成果に対する結論が不明な安心感の無い、いのちのイではありません。

岩戸の暗中にいる天照を呼び出すのに、どんな誰がいるのか知らず分からないままなら、意思を持つこと自体に不安があるでしょう。呼び出す相手が自分より下であること自分の範囲内にあることを願い神頼みさえしていくでしょう。岩戸の中にいるのは世界最高の行動思想規範です。それに対応した準備が必要です。

そこで意思の次元では、いし、こり、とめ、の三態が考察されます。

以下、引用です。

一、言霊イは他の四母音言霊エアオウの縁の下の力持ちの如くこれ等言霊を支え、統轄します。

母音エアオウの精神宇宙からはそれぞれに特有の精神現象が生れます。次元ウの宇宙からは五官感覚に基づく欲望性能が、次元オからは経験知識という所謂学問性能が、次元アの宇宙からは感情性能が、そして次元エの宇宙からは実践智という人間性能が生まれます。これら現われ出た人間性能の現象は言霊ウの欲望現象より社会的に産業・経済活動、言霊オより一般に学問・物質科学が、言霊アより感情、引いては宗教・芸術活動が、言霊エより実践智、またこれより政治・道徳活動が現われます。しかし言霊イの創造意志の宇宙からは現実世界に現われる何らの現象もありません。

けれど今、此処で活動する人間の心をよくよく観察しますと、言霊ウオアエよりの現象の底に、それらの現象を縁の下の力持ちという言葉の如く下支えしている生命創造意志言霊イの力があることに気付きます。言霊ウの五官感覚に基づく欲望性能が現われるのも、その底に言霊イの生命創造意志が働くからです。言霊オの記憶を想起してその現象の法則探究即ち好奇心が起るのも、その底に生命の創造意志が動くからであり、言霊アの感情性能が現われるのも創造意志あっての事であり、更に言霊エの実践智性能も創造意志が動いて初めて発現して来ます。このように言霊ウオアエから起る諸現象はすべてそれぞれの母音宇宙の底に言霊イの生命創造意志の力が働く事によって発現して来る事が分ります。言霊イは右に示しますように言霊ウオアエを縁の下の力持ちの如く下支えし、統轄します。

◎018 こころの原論。天照大御神の誕生。許理(こり)。天の岩戸開き。 ◎

・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、におおせて、

・鏡を造らしめ、

イシ・伊斯(いし)・・母音、実在精神宇宙、を支え統括する。言霊イの静まった先天エネルギーの精神宇宙。

コリ・許理(こり)・・父韻、根本智性の働きで母音へ働きかけ実相の単位を創生する。凝り固まる。

トメ・度売(とめ)・・子音、現象の実相単位の命名によって物象化して留め置く。

意思が人の生命創造活動の全面にかかわり、その意思としての発現が母音宇宙と父韻宇宙と子音宇宙の三要素になることを示そうとしています。

鏡のイメージから三面鏡のように三つの鏡をならべたものではなく、また容姿を写すガラス製金属製の鏡などイメージしてもらっては困ります。精神の活用法を写し取る規範ですので、鉄製だとか銅製だとかの話ではありません。

古事記は最初から終りまでこの鏡のことしか書いていないといってもいいくらいです。

母音・半母音----父韻-----------子音

天地の初発------高天原に--------成りませる神の名は

伊耶那岐・美-----天の浮き橋-------落ちる塩、オノゴロ島

天の御柱--------八尋殿----------国生み・神生み

黄泉の国は半母音世界の話し

禊祓いは母音世界の話し

契約生みは主体による子音生みの準備の話し

天の岩戸開きは父韻による子音発生の話し

八マタのオロチはウ次元世界を完了変身させる話し

二つ目は、コリ・許理(こり)・・父韻、根本智性の働きで母音へ働きかけ実相の単位を創生する、凝り固まる、コは子、現象で、リは流れる出て来るで、現象が起きることです。

意思の精神宇宙母音世界はありますが、母音世界は自ら行為して来ることはありません。日月神示には「イワトがひらけると更に九、十となるぞ。【かくしてある一厘の仕組、九十の経綸、成就した暁には何も彼も判る】」と申してあらうが。」とあります。

この一厘の仕組みとは、ここでいう伊斯許理度売命(いしこりどめ)の許理(こり)のことで、その実体は八つの父韻のことです。神の名で言えばここでは天の手力の男の神のことで、天照が隠れているそのさらに「戸の脇に隠り立ちて、」という秘中の秘のことです。ついでに九、十というのは九拳の剣、十拳の剣の判断のことをいいます。天照の隠れている九拳の剣の判断規範が出て来ることをいっています。一二三というのは冒頭三神とその繰り返される言霊の幸わいのことで、各場面ごとに出て来る基礎規範のことです。

知的な外見的な判断ならこれだけでいいのですが、情けないことに内容に対する実際経験が伴いません。悔しいところです。八を全うできていないため九、十へと知的にしか通じていません。ここは全く精神の次元上昇、精神の変態を経る以外に道は無さそうなところです。

ですのでこの後は実際にアの次元とそれ以上の次元を経験している方の説明に頼ることにします。

『 第二ヶ条の説明に入ります。それは「言霊イは人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音宇宙ウオアエに働きかけ、これ等四次元からそれぞれ八つの現象の単位を、即ち全部で計三十二の実相の単位を創生する」ということです。この第二ヶ条は第一条の「言霊イが他の四母音ウオアエを下支えし、統轄する」という事を更に詳細に説明し、その上で母音と半母音であるウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱの宇宙の間に入ってその両者を結び、それぞれの次元の現象の単位を誕生させる(言霊イの働きである)八つの父韻チイキミシリヒニなる人間天与の根本の智恵をクローズ・アップさせる説明となります。言葉がやゝ難しくなりましたが、平たく述べますと、「人間はどの様にして外界の出来事を、それが現象として認識することが出来るのか」という人類の認識論という学問が始まって以来数千年間、いまだかって完全な解明がなされていない大問題に最終的な解答を与える素晴らしい事柄を提示したものなのです。こう申上げても何の事だかお分かり頂けないかも知れません。順次説明して参ります。

向うのお寺の鐘の音が「ゴーン」と鳴りました。何故人の耳に「ゴーン」と聞こえたのでしょうか。「そんな当り前の事を言って何になる。お寺の鐘を坊さんが撞いて音が出た。その音を人が耳の聴力で聞いたのだ」と言って納得してしまう事でしょう。けれどそう簡単に片付けてしまえない事があるのです。棒で撞かれた鐘は果たして初めから「ゴーン」という音を鳴らしているのでしょうか。撞かれた鐘は振動して、その振動による音波を出します。鐘はただ無音の音波を出しているだけなのです。そしてその音波が人の耳元に達したとき、人は「ゴーン」という音を聞く事となります。この経緯を合理的に説明するにはどうしたらよいのでしょうか。そこに言霊学独特の八父韻が登場します。

人がいます。向うに鐘があります。鐘が鳴ったとしても、人がいなければ鐘がなったかどうか分りません。逆に人がいたとします。けれど鐘が鳴らなかったら、人はその音を聞く事はありません。どちらの場合も主体と客体の関係となることはない訳です。鐘が鳴り、その音を人が聞いた時、聞いた人が主体(言霊ア)、聞かれた鐘が客体(言霊ワ)の関係が成立します。けれど主体であるアと客体であるワは母音と半母音であり、「身を隠したまひき」であり、その双方共に相手に働きかける事はあり得ません。双方だけではその間に現象は起らない事になります。

「人が鐘の音を聞いた」という現象が生じるのは、主体アと客体ワの他に、根源的な宇宙生命の創造意志である言霊イ(ヰ)の実際の働きをする人間の根本智性である八つの父韻の為す業なのです。八つの父韻が主体と客体を結んで現象を起こす事となります。

では八つの父韻はどんな形式で主体と客体を結びつけるのでしょうか。主体と客体が結び付く時、能動的なのは主体であり、先ず主体側から客体に向かって問いかけをし、客体側は主体の呼びかけにのみ答えます。この事を父韻の働きではどういう事になるのでしょうか。八つの父韻チイキミシリヒニは作用・反作用の関係にあるチイ・キミ・シリ・ヒニの四組から成ります。この四組の中で、濁音が附けられる音チキシヒが主体側の父韻であり、濁点が附けられないイミリニの父韻が主体側よりの呼びかけに答えるものです。主体と客体だけでは決して現象は起りませんが、その間に八父韻が入り、両者を仲介し結びますと、主体と客体の間に現象が生れます。その時、主体と客体の間に入る八父韻の中で、主体側の客体側への問いかけの働きとなるのはチキシヒの四父韻であり、その問いかけに答えるのが客体側のイミリニの四父韻という事になります。主体側の問いかけである父韻チには客体側のイが、父韻キにはミが、父韻シにはリが、そして父韻ヒにはニが答える事となり、その答える時現象が生れます。このチに対してイ、キに対してミ、シに対してリ、ヒに対してニが反応し、答えること、それを主体と客体のリズムの感応同交というのであります。

先に言霊父韻の説明の所で、八つの父韻が四つの母音に働きかけて計三十二の子音言霊を生むと申しました。また主体と客体のみでは現象は起らないが、主体と客体との間に八つの父韻が入り、主体と客体とを結ぶ時、三十二の現象の単位である子音を生むと申しました。その子音を生むメカニズムを、八つの父韻の陰陽の二つの働きに分けて更に詳細に正確に説明した事になります。お分かりいただけたでありましょうか。

上の説明を更に整理してみましょう。人間の心にはそのそれぞれより現象が生れるウオアエの四母音の次元があります。言霊イの次元は、それ自体からは現象を生むことのない縁の下の力持ちの次元です。ウオアエの四次元はそれぞれウヲワヱの四つの半母音宇宙と主体と客体の関係にあります。このウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの四対の主客対立の間にチイキミシリヒニの八父韻が、言い換えますと、主体側のウオアエにチキシヒの四父韻が働きかけ、客体側のウヲワヱにイミリニの四父韻が寄って行き、そこにチイ、キミ、シリ、ヒニの陰陽のリズムが作用・反作用の感応同交を起す時、初めて次元ウオアエの四界層に現象が起る事となるのであります(図参照)。この事を言霊イ・ヰを観点として簡単にまとめて見ますと、図の如き構造が完成します。人間の生活一切の営みは、次元ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの主客の感応同交による四次元界層の現象でありますが、同時にそれは創造主神と呼ばれ、造物主と宗教界で崇められる人間生命意志(言霊イ・ヰ)の根本活動である言霊父韻の働きに依るのである、という事であります。人間の一挙手・一投足の動きはその奥にこの様な大きな内容を秘めているという事を忘れてはなりません。

人が鐘の音を聞く、という現象に加えて、もう一つ例を挙げてみましょう。人がいます。向うに青い葉の茂った高い木があります。普通の常識から言えば、木があり、それを人間の眼の視覚が捉えたという事になります。この簡単な事も心の根本構造である言霊学の見地からすれば、人それ自身は純粋な主体であり、樹それ自体は純粋な客体であり、この両方だけでは両者の間に現象は起り得ません。そこに人間の精神生命の根本の創造意志(言霊イ・ヰ)が働き、両者間を取り持つ時、初めて現象が起ります。ここまでは前例の人と鐘との場合と同じです。この現象を更に細かく説明しましょう。人と木との間に起る現象には四次元、四種類の可能性があります。

先ずウ次元の現象が考えられます。人間と木との間に考えられる現象としては、この木の高さは、また人と木との間の距離は、幹の直径は、……等々の問題です。即ち人間の五官感覚意識に基づく問題です。次にオ次元の現象と言えば、この木は学問的には何科に属する植物か、常緑樹か、落葉樹か、木材として利用の可能性の有無等々が考えられます。アの次元では、この木の写真の芸術的価値を出すのは朝焼け、昼間、夕暮のどれが効果的か、風にそよぐ枝の葉擦れの音の音楽的効果如何……等々でありましょう。そしてエ次元の問題としては、車の往来が激しくなり渋滞が起っている。この木を切り倒してでも道路を拡張すべきか、どうか、等が考えられます。

以上、人と木との間に起り得る現象は四種類が考えられるのですが、それ等四種類の現象は人間が生来授かっている性能がそれぞれ違っておりますから、人と木との間に入る人間の根本智性である八つの父韻の並びの順序も当然違って来る事が考えられます。言い換えますと、人間天与の四性能を示す四母音(ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱ)に対して、生命意志の働きである八父韻はそれぞれ相違する配列を以って対応、感応することとなります。これも言霊イ(創造意志)の霊妙な働きであります。』

◎019 こころの原論。天照大御神の誕生。度売どめ。天の岩戸開き。 ◎

・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、におおせて、・鏡を造らしめ、

トメ・度売(とめ)・・子音、現象の実相単位の命名によって物象化して留め置く。

命名について(度売とめ)・

『 これまで伊耶那岐の神(言霊イ)の内容の第二について長く説明をして参りました。そろそろ言霊イの働きの第三点の話に入ることにしましょう。この第三点は「第二点の働きによって生み出された現象に、言霊原理に則り相応しい名前をつける」事であります。この第三点は誰も気付かない事で、しかも言われてみればいとも当然の事とも思われ、それでいて人間の生命の営みひいては人間の文明創造の仕事に大変重要な意義を持つもの、と言う事が出来ます。説明して参りましょう。

言霊イ(ヰ)は人間の生命創造意志の次元であります。創造と言いますと、現代人は普通言霊ウ次元の産業・経済活動に於けるビルや道路、飛行場、船舶などの建設、建造を、または言霊オ次元の学問社会に於ける新学説の発見・発表などを思い出すのではないかと思います。更にまた言霊ア次元に於ける諸種の芸術活動、音楽・絵画・彫刻・小説等々の創造、その他各種スポーツの振興等も同様でありましょう。また言霊エ次元に於ける新しい道徳理念の発表、政治倫理の発見等も創造行為と言う事が出来ます。

上に羅列いたしました各次元の活動・行為がすべて社会の中の創造である事に間違いはありません。この誰も疑いを差し挟むことがない事実であることが、若し「○○がなかったとしたら」という前提を許すとすると、それ等すべての創造行為が一辺に「無」に帰してしまうという、その様な前提がある事にお気づきになる方は極めて少ないのではないでしょうか。

「そんな魔術のようなものがこの世の中にある筈がない」と思われるでしょう。

けれど極めて真面目な話、それは厳然と存在するのです。

それは何か、「名前」です。

貧しい家庭の中でも、今ではエアコン、テレビ、携帯、パソコンなどの科学製品は当り前のように見られる世の中となりました。その内部の機械構造は分らなくても、大方の人は操作が出来ます。けれどこれ等の電化製品が発明された時、若しそれに名前が付かなかったらどうなったでしょうか。「テレビジョン」という名前が付けられなかったら、ただ人は「アー、アー」というだけで、テレビの普及どころか、それは世の中に存在しないのと同じで終ってしまうのではないでしょうか。

「何を言い出すかと思ったら、そんな途方もない事を。名が付かないなんて事はある筈がない」と言われるかも知れません。発明されれば、その物品に名前は付けられるでしょう。でも若し付けられないとしたら。……SF小説のような恐ろしい世界が予想されもするのではないでしょうか。

物品に対してではなく、この世に生を受けた人間に名が付けられなかったら、どうなるでしょうか。その人には戸籍がありません。国籍もありません。小学校にも入れません。就職も出来ません。正式な結婚も絶望です。その人の一生は奇想天外なものになるでしょう。「そんな有りもしない事を何故言うのだ」とお叱りを受けるかも知れません。

けれど私はそういう自分の名前を持っていない人を一人知っています。先の大戦に出征し、軍隊の仲間は全部戦死し、自分だけ一人日本に帰って来た時は、自分を知っている人はすべて死んでおり、自分の名前も戦死という事で抹殺されて、法務省へ再三の戸籍復活の請求にも「事実を証明する人なし」という理由で却下され、苦悩の中から余生の五十年間を今も尚生きている人を一人知っています。その人がどのような人生を歩まれて来たか、聞く人がいたら多分開いた口が塞がらない事でしょう。

名前がなかったら、という仮定の事について長々とお話しました。

人でも物でも、その名前というものは、私達が普段思っているより遥かに重大な事を含んでいるのです。二十世紀のヨーロッパの有名な哲学者、ハイデッガー、ヤスパース等の人達は「物事の実体とは何か、それは名前だ」と言っています。新約聖書、ヨハネ伝の冒頭には「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神と共に在り、万のものこれに由りて成り、成りたるものに一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。……」と説かれています。

上のように物や人の実体であり、生命であり、光でもある名前を命名する根元的な役割、力、生命は何処から出るのでしょうか。

それが言霊イ(ヰ)であり、言霊イの第三番目の重要な働きという事が出来ます。

八つの父韻が四つの母音に働きかけて生れて来る種々の現象に、それに相応しい名前を与え、この人間社会の生々発展の基礎的役割を果たす事、それが言霊イの第三の内容であり、役目なのです。

言霊母音ウオアエの四次元から生れて来る種々なる建設、発見、発明、主張、学理、理念、これ等は勿論社会の創造物であります。そしてその様な社会の創造物相互の関連ある進展が文明社会の創造発展と言うべきでありましょう。と同時に、それら生み出された現象上の進歩・発展の創造物に名前をつけること、そしてその名前と名前の関連する精神的発展、これも人類文明の限りない発展の実体ということが出来るのであります。

人類社会に創造される物事につけられる名前自体の限りなき発展、それが人類文明の創造という事が出来ます。

以上で言霊イ(ヰ)の三つの言霊学的内容についての説明を終えることといたします。この三つの内容について復習をしますと、――

第一に言霊イは母音ウオアエ四宇宙の最終・最奥の次元に位して、これら四つの母音宇宙の縁の下の力持ちとなって統轄します。

第二に八つの父韻に展開して、母音ウオアエに働きかけ、三十二の現象子音を生みます。

第三にその生まれ出た三十二の最小の現象の実相単位のそれぞれを一個乃至数個結び合わす事によって生まれ出る現象に名前を付けます。

広い広い心の宇宙の中に何かが始まろうとする兆し、言霊ウから次第に宇宙が剖判し、更に宇宙生命の創造意志という言霊イの実際の働きである八つの父韻が他の四母音宇宙に対する働きかけの話となり、心の先天構造を構成する十五の言霊が揃い、最後に母音であり、同時に父韻ともなる親音と呼ばれる言霊イ(ヰ)が「いざ」と立ち上がる事によって先天十七言霊が活動を開始することとなる人間精神の先天構造の説明が此処に完了した事になります。この十七言霊で構成される人間精神の先天構造を図示しますと次のようになります。この先天構造を古神道言霊学は天津磐境と呼びます。

この名前を説明しましょう。天津は「心の先天宇宙の」意です。磐境とは五葉坂の意、図を御覧になると分りますように先天図は一段目に言霊ウ、二段目にア・ワ、三段目にオエ・ヲヱ、四段目にチキシヒイミリニ、五段目にイ・ヰが並び、合計五段階になります。五葉坂とは五段階の言葉の界層の構造という意であります。

人はこの心の先天構造十七言霊の働きによって欲望を起こし、学問をし、感情を表わし、物事に対処して生活を営みます。人間何人といえども天与のこの先天構造に変わりはありません。国籍、民族、住居地、気候の如何に関らず、世界人類のこの心の先天構造に変わりはありません。

この意味で世界人類一人々々の自由平等性に何らの差別はつけられません。人間は一人の例外もなく平等なのです。またこの意味に於いて人類を構成する国家・民族の間に基本的優劣は有り得ません。また人類がその「種」を保つ限り、この先天構造は永久に変わることはありません。この先天構造に基本的変化が起ることとなったら、その時は人間という「種」が人間とは違った異種に変わってしまう事となります。

ここまでの説明で心の先天構造を構成する十七言霊の中の十五の言霊が登場しました。言霊母音と半母音ウアワオヲエヱ七音、言霊父韻チイキミシリヒニ八音、合計十五音となります。そこで最後に残りました言霊イ・ヰ即ち伊耶那岐・伊耶那美二神の登場となります。その説明に入ることとしましょう。

この天津磐境と呼ばれる心の先天構造は人間の心の一切の現象を百パーセント合理的に説明する事が出来る唯一の原理であります。人類社会の後にも先にもこの原理に匹敵する、もしくはこれを凌駕する原理は出現し得ない究極の原理であります。古来伝わる宗教・哲学の書物の中にはこの天津磐境の原理を象徴・呪示するものがいくつか認められます。その一つ、二つについてお話をすることにします。

◎020 こころの原論。天照大御神の誕生。度売とめ、つづき。天の岩戸開き。 ◎

『 中国に古くから伝わる「易経」という哲学書があります。易の成立については「古来相伝えて、伏羲が始めて八卦を画し、文王が彖辞を作り、周公が爻辞を作り、孔子が十翼という解説書を作った」と言われています。その易経の中に太極図というのがあります(図参照)。太極図について注釈書に「易に太極あり、是、両儀を生ず。両儀、四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず」と説明しています。

この太極図を天津磐境と比べてみて下さい。構造は全く同じように見えます。けれど磐境は物事の実在と現象の最小単位である言霊を内容とするのに対し、太極図は哲学的概念と数理(―は陽、--は陰)を以て示しているという明瞭な相違があります。この事から天津磐境が先に存在し、易経は磐境の概念的写しであり、易経は磐境の呪示・表徴であり、指月の指に当ることがお分かり頂けることと思います。

次に印度の釈迦に始まる仏教に於いて人間の精神の先天構造をどの様に説明しているかを見ましょう。

古くからあるお寺へ行き、普通二重(二階)の建築で、上の階の外壁が白色で円形、または六角形のお堂を御覧になられた方があると思います。これを仏教は多宝塔と呼びます。この多宝塔と、この塔と共に出現する多宝仏(如来)については、仏教のお経の中のお経と称えられる法華経の「妙法蓮華経見宝塔品第十一」という章の中で詳しく述べられています。その説く所を簡単にお話すると次の様になります。

法華経というお経は仏教がお経の王様と称える最も大事なお経でありまして、その説く内容は「仏所護念」と言って仏であれば如何なる仏も心にしっかり護持している大真理である摩尼宝珠の学を説くお経とされています。摩尼宝珠の摩尼とは古神道言霊学の麻邇即ち言霊の事であります。見宝塔品第十一の章ではお釈迦様がこの法華経(即ち摩尼)を説教なさる時には、お釈迦様の後方に多宝塔が姿を現わし、その多宝塔の中にいらっしゃる多宝如来が、多宝塔の構造原理に則ってお釈迦様の説教をお聞きになり、お釈迦様の説く所が正しい場合、多宝如来は「善哉、々々」と祝福の言葉を述べ、その説法の正しい事を証明するという事が書かれているのであります。

先にお話しましたように、天津磐境の精神の先天構造によって人間の心の営みの一切は実行・実現され、しかもその実現した一切の現象の成功・不成功、真偽、美醜、善悪等々はこの磐境の原理によって判定されます。同様に仏教の最奥の真理を説く釈迦仏の説法は、その後方に位置する多宝塔の多宝仏により、多宝塔の原理によってその真偽が判定され、その真は多宝仏の「善哉」なる讃辞によって証明されます。この様に多宝塔とは言霊学の天津磐境を仏説的に表現し、説述したものと言う事が出来るのであります。これに依って見ましても、言霊学に説かれる先天十七言霊にて構成される人間の心の先天構造、天津磐境は人類普遍の心の先天構造に関する究極の原理であることが理解されるでありましょう。

仏教の多宝塔の外壁が何故円形または六角形であるか、それは人間の心の先天構造は生れながらに与えられた大自然の法則だからであり、人為ならざる大自然の形状は普通円形で表示され、その数霊は「六」であるからであります。以上で「古事記と言霊」講座の精神の先天構造の章を終ります。 』

----以上引用-----------------------------------

わたしの場合は相変わらず知識で何とかしようと、理解を増やせば実が成るのではないかと期待してやっているわけですが、そろそろそういった馬鹿な理解は止めろという声が聞こえそうです。幾らやっても腹に応える、頭を突き上げる感情のカの字もでてきません。

天照を引き出すのは超知性といったらいいかも知れないような天の手力の男の神の父韻の力動でしたが、天照にその気にさせたのはウズノメでした。ウズノメの欲望世界のわけの分からない五感感覚が源動因となっています。何故どんどこ馬鹿騒ぎが必要なのか、これが分からなければ岩戸は開けないのです。そしてわたしも分かりません。

サッカーの馬鹿騒ぎやキチガイ騒動などに岩戸開きのヒントがありそうだけど、うまく見つかりません。もちろんその時は深く静かに何の音もなく訪れるように思えていますが、まだまだ先になりそうです。

要するにせっせと書き、せっせと読んでくれる方がいるかもしれませんが、全くの無駄に近いことをしています。アの次元で取り上げられる知識はこの世で得られた所有物ですが、その時は無となるはずです。

何故なら知識の有効性が昇華された感情の世界が出来るからです。

と、また、分かったような分からないようないい加減なことを書き散らす。

・・鏡を造らしめ、

鏡とは、

イシ・伊斯(いし)・・母音、実在精神宇宙、

コリ・許理(こり)・・父韻、根本智性の働きで母音へ働きかけ実相の単位を創生する、

トメ・度売(どめ)・・子音、現象の実相単位の命名によって物象化して留め置く、

の三つの要素を一つにまとめたもの。

ですが完全な形では天照として岩戸開きの後に出現するものなので、ここでいわれているのは、準備、前規範としての鏡です。日本書紀では複数作った話がありますが、その話を取るならば始めに作ったほうをいうのでしょうが、もちろん鉄製だとか銅製だとか形が美しくないとかの問題ではありません。

天照が自分を承認写すものですから天照のとおなじで、幾つかの同心円の中心に伊耶那岐の大神の言霊イヰがきて、それを取り巻いて父韻、母音、子音の順序で配列されています。(ヒ、フ、ミ)。

長方形にすれば五十音図になります。三つの器物にすれば三種の神器二なり、二本の柱で現せば鳥居となり、建物にすれば伊勢神宮になり、自然物にすれば二見浦となり、書物にすれば古事記となり、社会歴史と取ればちょうど現状が当てはまるでしょう。

敗戦後天皇は古事記の神話とは関係ないといって、スメラミコトノ地位を放棄しました。つまり現代は古事記に依る天皇は不在で空位となっています。天皇はいないのではなく、天照が隠れている状態です。話にもあるとおり天照は自主的に出てきません。暗黒中でさらに隠れている手力男の命が手を引っ張ります。この手力男というのが非常に強力な隠れた勢力で、誰に相当するかは不明です。政治家とか経営者とか大統領とかそんな連中でないことは確かです。このように見ていくと現在の天皇の地位がよく分かると思います。

隠れている方、天照は人のこころの鏡となり、世界を運用する力のある方ですから、世襲で何千年家系が続いているというだけでは誰もが納得しません。しかし、その場しのぎの技術や地位をあたえられただけの国連総長とか法王とか教祖とかG20議長とかとは違って、フトマニ言霊の運用に於ける世襲の血潮と歴史は流れていると思われます。さらに様々な暗示呪示された象徴物も保持されてきているようです。

鏡=気づきや気持ちを写して判断する規範となるもの。自分のこころに判断基準がなければ、あああー、ウウウーで終り現象表現とならないので、前もって規範を作っておくこと。日常的には記憶のお蔭で既に出来上がっているものとの比較ができる。それでも始めての経験だとか対応だとか、突如のできごとでは鏡を持ち合わせないこともある。

これは実経験世界だけでなく、精神世界でも同じで、禅問答のように始めて聞くチンプンカンプンの言葉に対応できないこともある。

しかし必ず記憶が控えていて後からでてくるが、岩戸開きの段ではその端緒での話です。

例えばこのブログ読んで出て来る同感反感賛否の各自が持っている出所です。

こうして、先天の母音、父韻、子音が出て来る用意が鏡として整いました。創造意思の次元での活動の準備がなければ、何も生じません。意思はあっても規範がなければ夢見たいな順序の目茶苦茶なものとなります。

何かが出て来る時、出てきたものは何なのかその全体的な判断規範の準備が終わりました。゜

次は、そこにある各要素の運用がうまく行くかのテスト試運転です。

・・玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、

・八尺(やさか)のまがたまの五百津(いおつ)の御統の珠(みすまるのたま)を作らしめて、・/集合した元素となっている言霊を使用可能になるように並び変える。エ段の検討。

・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・/初歩的な家屋、枠結び。菅麻。ア段の検討。

・布刀玉の命(ふとたまのみこと)を召して、/布、縦横の組織。刀、判断。玉、言霊要素。オ段の検討。

以下言霊オの経験知識の検討。

言霊アの発動の準備。

手(た、田)力の隠れた働きの確認。

言霊ウのウズメのア、エ、オを従えたどんちゃん騒ぎ、へと続く。