1。身禊準備の五神

1。身禊準備の五神

ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。

かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。

0。(写し出す鏡としての前提)

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、

衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。

1。

次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、

道の長乳歯(みちのながちは)の神。

2。

次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、

時量師(ときおかし)の神。

3。

次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、

煩累の大人(わずらひのうし)の神。

4。

次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、

道俣(ちまた)の神。

5。

次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、

飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

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身禊ぎ祓え・投げ棄(う)つると投入する。

道で転んで膝を付いた時、ズボンが汚れたと叩きます。

汚れの身を削ぎ払い打ち捨てます。しかしこれは行為として現われた後天現象です。

現象が現れるに到った経過を見てみます。

ごみ埃がズボンに付きましたが、これはズボンにとっては物理上の作用反作用で布地にごみが付いた物理量の変化というだけのことです。そこの布地には綺麗汚いの判断はありません。出てくるのは全て主体側から起きてくる、主体側自身にとっての判断規範です。

0。(写し出す鏡としての前提)

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。

汚れが汚いと思いその身を削ぐ心が起きなければそのままです。汚れが付いても視聴覚的に感知できなければそのままになり、気にも掛けなければ放って置かれます。

まず起きてしまったことは、汚いという判断することで、その判断を保障し汚れ対象の様態を判断する全体的な規範が出てきたことです。

気が付けば汚れていたとか、汚れはないかと探して見つけたりします。判断規範が投入されそれに従って行為が出てきます。

1。

次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。

一。これは汚れがあるという主客の全体構造図となります。汚れがあるという現象(み・身)を過去から来たもの(を・緒・尾)の内容が現われた(び・事の霊)とします。汚れが今もあるという確認となります。

帯は長いものですが結ばれ固定されることでその役割を果たします。過去から来たものとここにあるものとの関連の帯が結ばれることで、このものの関連が現われてきます。

ここでは過去から今現在に至る判断規範の精神構造図を基準としなければ行為が遂行されません。

汚れを身禊しようと身(汚れ)を捨てるために、精神規範を投入します。

すると、汚れの過去からの経過関連が現われます。

しかし、その判断はまず全体の実在へ向います。汚れが有るか無いか汚れているかです。ここで確認されれば、次に進みます。

有る無しと有る無しの持続の確認で、言霊ウ次元の出来事です。

2。

次に投げ棄つる御裳(みも・ひだスカート)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。

二。次に、汚れのあることが確認されれば、その全体判断が更に進みます。その汚れの位置づけ三態、時処位、が気になります。過去より来た汚れの何時出来たものかの判断が投入されます。

汚れが有ること(あるいは無いこと)に対して、その時処位を得ようとします。

ヒダスカートで象徴された投入された全体判断規範図のヒダのどの部分に相当しているかを見ます。判断規範図は五十音図のことですが、そんなものは意識されず主体内で進行しています。

五十音図の父韻の現象発生のリズムに比較されることで代表され、過去からキタ今汚れているという判断の時処位を判定します。

汚れが何時から、どの場所で、どの位あるかと思惟の分散、剖判が最初に得たの判断規範の範囲内で起きます。

ここで規範が要素として現われることになります。チキシヒイミリニの現象発生の変化の律動と(三十二子音)現象とイエウオアの実体次元で現わされるようになります。

有ったもの(無かったもの)の持続の確認で、言霊オ次元の出来事です。

3。

次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。

三。次に、三態それぞれの御裳を全体とした衣裳を投入し、時処位の判断規範に曖昧模糊としたものを排除しようとします。

ここは自分が取るべき行為をする時に必要となる自己を駆り立てる意識の御旗を掲げるところです。自分を動かす納得了解承認の自他への復誦が起きます。汚れが自他ともに確認されます。そこで自己への判断が確認され、自らに受け入れ受け取れるものかの煩わしさが除去され、自らの判断を確認します。

時処位での不明瞭さが整理され、自分の行動の指針が掲げられます。

掲げられた指針の確認で、言霊ア次元の出来事です。

4。

次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。

四。次に、自らの主張表明へ向けての諸見解から、一定の方向へ向う決定意志の方向性を選択しようとします。

曖昧さが整理されてもまだそれは表明されていません。そこで褌・袴・ハカマを投入すると街道にあるような道俣が出てきました。二者択一の選択を投入すると二者択一の状況が出てきたということです。

これは象徴的な二者という表現ですので、必ず二者である必要はなく、自己の選択と選択外との二者択一という形で現われますが、それぞれが前記一二三の経過を通過しているので、当初の全体判断からの経過によります。ここで滞りますとジレンマとなります。

ここでは選択を投入すると選択が出てくることになりますが、前記2の場合には、過去の時処位の概念を投入しても見方が変化しますので、そのものが出てくるとは限りません。

選択する行為が表明され、選択に向います。言霊エ次元の出来事です。

5。

次に投げ棄つる御冠(みかがふり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

五。次に、かくして選択されたものが確認されればそれが自分に確認された自分のものですから、自分の頭に目一杯拡がり占有されます。こうして自分の意図が明かに(あき)自分に組み込まれ(く)、自分の主張(ひ・霊)となります。

大人は家を成り立たせる責任者で、自身が自己判断の働きをした責任者になるということです。

冠は意志意識による領導因采配の象徴で、冠の下に頭があり、頭の中に心があり、その心の現れ反映ということです。

・能動因が行為として現わされることの確認で、言霊イ次元の出来事です。

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