言霊ンはどこから来たか、どこへ往くか。7-

言霊ンはどこから来たか、どこへ往くか 7ー。

次に和久産巣日(わくむすび)の神。この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。

和久産巣日(わくむすび)の神。

弥都波能売(みつはのめ)の神、三つ葉で人間性能の次元、原理原則を制定して、今度はその及ぶ範囲(枠)を定めようとする。五つの次元があるのでその枠も五つとなる。枠にはその限界、終わるところがあるのでそれが定められる。言霊ア次元には言霊ワ、言霊オ次元には言霊ヲ、同様にう--ウ、え--江、イ--井の主体が働きかけ客体がそれに答えるこちら側の始まり枠とあちら側の終わる枠が定められる。

始めと終わりが定まれば中間は湧く湧く埋め結ばれていく。

和久産巣日とは枠結(わくむす)びの謎。五十の埴土(はに)を集め、一つ一つ点検し、次に五つの母音を並べてみると網の目になっていることが分りました。その網目に他の四十五個の埴土が符号するように並べて整理してみると、五十音全部が一つの枠の中に納まるようにきちんと並ぶことが分って来ました。一見五十音が整理されたようには見えますが、まだこの段階ではこの整理がどんな内容に整理されて来たのかは分っていません。「和久」とは「湧く」ともとれるように、この段階での整理には全体として何か混沌さがある事を示しているということが出来ます。

わくにはそれ自身の枠の限界を示す枠と、湧く、沸くのように自身の限界を連続して作っていくわくとがある。また収縮するものもあり、言語活動の枠はどうなるのだろうか。ここからは言霊五十音図が作られていくが固定したものだろうか。

ここまではいざなみ側の受け入れる姿勢を形作ることで、固定した言霊五十音図でばいざなぎの主体的的な動きに対応出来ないだろう。わくは枠が組まれることでもあり、主体の活動に応じて客体との輪を結ぶことでもある。いざなぎの五次元の活動に対応するにはそれなりの準備が必要となる。

この神の子は豊宇気毘売の神といふ。

豊宇気毘売の神の豊とは十四(とよ)の意で心の先天構造十七言霊の中のアオウエイ・ワ・チイキミシリヒニの十四言霊のことで、豊とは先天構造を指します。

宇気(うけ)とは盃(うけ)で入れ物のことです。豊宇気毘売全部で心の先天構造から成る入物(いれもの)を秘めているの意となります。

「この神の子」と言う言葉が古事記に出て来る時は「この神の内容、働き、活用法、活用から現われる結論」等を意味します。豊宇気毘売とは豊受姫とも書き、伊勢神宮の外宮の主宰神であります。

「心の先天構造で出来ている入れ物を秘めている神」では意味が明らかではありませんが、この神が伊勢外宮の神である、となりますと、内容が明らかとなります。

和久産巣日の神の内容が「五十音言霊を整理し、それを活用するに当り、先ず「五埋(いうま)り」によって母音アオウエイの順序に従って五十音を並べて枠の中に囲んで整理した働き」が分りました。しかしその整理は五十音図として初歩的に並べたものであって、どうしてその様に並んだのかの内容はまだ不明という事でありました。しかし「この神の子(活用法)である豊宇気毘売の神」が伊勢内宮の天照大神と並んで外宮の神として祭られている事実を考えますと、次の様な事が明らかになって来ます。

金山毘古の神に始まる五十音言霊の整理・活用を検討する作業が進み、最終結論として三貴子(みはしらのうづみこ)が生まれます。その中の一神、天照大神は言霊学の最高神であり、言霊五十音の理想の配列構造を持った人類文明創造の鏡であり、その鏡を祀る宮が伊勢の内宮であります。

その内宮の鏡の原理に基づいて外宮の豊宇気毘売の神は世界の心物の生産のすべてを人類の歴史を創造するための材料として所を得しめる役目の神であるという事になります。

和久産巣日の神とは言霊五十音の初歩的な整理ではありますが、その活用の役目である豊宇気毘売の神が、言霊整理活用の総結論である天照大神を鏡として戴く事によって世界中の文化一切に歴史創造という枠を結ばせる事となる消息を御理解頂けるものと思います。

この後、かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき、となり、伊耶那美の神が病を負いながら関係する最後の神様が豊宇気毘売の神です。その後は伊耶那岐の命の

主体意志の宣言と伊耶那岐の命独自の行為が始まります。

与えられた枠の形をはっきりすることと、いざなぎが枠内で働き安くなるように五十の言霊の配置をさらに具体化していきます。アオウエイの主体側五次元とそれを受け入れる客体側とその中間の位置取りになます。和久産巣日の子となっていますが、イザナギを枠内に受け入れるのを強調したものです。

なぜ豊宇気毘売の神がここにでてくるのでしょうか。イザナギ主体は客体枠と輪を組むことと、と同時にそこに持ち込まれた内容とも輪を組むことの二面性を持つからです。

おそらくここから個別性が発生します。イザナギが枠とだけ付き合うならばそこら出てくる子供たちは皆おなじです。イザナギは様々なものを持ち込むはずですが枠があるとその規格内でのものしか産めません。その持ち込まれたものを全部生かすのが、あるいは生かす働きを秘めてるのが豊宇気毘売(豊かにイザナギを受ける気を秘めている)の神というわけです。

こうして客体側の準備が整い、主体側の準備になります。

ここまでのまとめを引用します。

吉備(きび)の児島(こじま)

五十音言霊の全部が出揃い、次にその五十音言霊の整理・活用法の検討が始まります。以上金山毘古の神より和久産巣日の神までの六神が精神宇宙内に占める区分を吉備の児島と呼びます。「吉(よ)く備(そな)わった小さい締(しま)り」の意です。児島と児の字が附きますのは、弥都波能売(みつはのめ)という上にア、下にイ、その間にオウエの三音が入った事の確認を基準として五十音言霊を整理し、枠で結びました。吉(よ)く備(そな)わっている事は確認されましたが、その様に並んだ事の内容についてはまだ何も分っていません。極めて初歩的な整理である事の意を「児」という字によって表わしたのであります。

言霊五十音図天津菅曽(あまつすがそ)(音図)

古神道言霊学はこの初歩的ではありますが、最初にまとめられた言霊五十音図を天津菅曽(あまつすがそ)(音図)と呼びます。菅曽を菅麻(すがそ)と書くこともあります。菅麻とは「すがすがしい心の衣」の意で、人間が生まれながらに授かっている大自然そのままの心の構造の意であります。これから以後の言霊五十音の整理・活用法の検討はこの音図によって行なわれる事となります。

かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに因りて、遂に神避りたまひき。

伊耶那美の神は火の夜芸速男(やぎはやお)の神(言霊ン)という火の神を生んだので御陰(みほと)が火傷(やけど)し、病気となり、終になくなられた、という事です。これを言霊学の教科書という精神上の事から物語るとどういう事になるでしょうか。伊耶那岐・美二神の共同作業で三十二の子音言霊が生まれ、それを神代表音文字に表わしました。ここで伊耶那美の神の仕事は一応終ったことになります。そこで美の神は高天原という精神界のドラマの役をやり終えて一先ず幕の影へ姿を隠してしまう事になった、という訳であります。

「神避(かむさ)る」と言いますと、現代では単に「死ぬ」と言う事に受け取ります。古神道言霊学では決して「死」を説きません。「霊魂不滅」などと言って人の生命は永遠だ、と説く宗教もありますが、言霊学は霊魂などという極めて曖昧な意味で不死を説くわけではありません。この事は他の機会に譲りまして、では伊耶那美の神が神避ったという事は実際にどういう事であるのか、について一言申し上げます。

三十二子音の創生と神代表音文字の作製によって伊耶那美の神の分担の仕事は終りました。五十音言霊で構成された高天原精神界から退場することとなります。そして伊耶那美の神は本来の自身の責任領域である客観世界(予母都国(よもつくに))の主宰神となり、物事を自分の外(そと)に見る客観的な物質科学文明の創造の世界へ帰って行ったのであります。この時より後は、五十音言霊の整理と活用の方法の検討の仕事は伊耶那岐の神のみによって行なわれることとなります。

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言霊ンはどこへ往くか8。

全部引用です。

かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、

伊耶那岐の命はその時まで高天原での創造の協同者であった伊耶那美の命を失ってしまいましたので、「わが愛する妻の伊耶那美の命を子の一木に易えてしまった」と嘆(なげ)きました。

岐美二神は共同で三十二の子音を生みました。その三十二の子音を表音神代文字火の夜芸速男の神・言霊ンに表わしました。妻神を失い、その代りに一連の神代文字(一木)に変えたという事であります。

御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、

五十個の言霊とその表音文字が出揃い、今はその言霊の整理・検討が行なわれているところです。その整理に当る伊耶那岐の命の行動を、妻神を失った伊耶那岐の命の悲しむ姿の謎で表わしています。

御枕方と御足方とは美の命の身体をもって五十音図(菅曽音図)に譬えた表現です。人が横になった姿を五十音図に譬えたのですから、御枕方とは音図に向って一番右(頭の方)はアオウエイの五母音となります。反対に御足方とは音図の向って最左でワヲウヱヰ五半母音のことです。

そこで「御枕方に葡匐ひ御足方に葡匐ひ」とは五十音図の母音の列と半母音の列との間を行ったり、来たりすることとなります。「哭きたまふ」とは、声を出して泣くという事から「鳴く」即ち発声してみるの意となります。

御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。

香山(かぐやま)とは

言霊を一つ一つ粘土板に刻み、素焼にした埴(はに)を集めたもの、即ち香山とは「火の迦具土」と「金山」を一つにした名称。

畝尾とは

一段高い畝(うね)が続いている処。母音から半母音に連なる表音文字の繋がりの事。

その畝尾は五十音図では五本あります。

「その木のもと」とありますから、

五母音の一番下イからヰに至る文字の連なりの事となります。

涙はその一番下の畝尾に下って来ます。

一番下のイからヰに至る文字の連なりは父韻チイキミシリヒニの八韻です。

この父韻が鳴りますと、その韻は母音に作用して現象子音を生みます。

父韻は泣き(鳴き)騒ぐ神です。そこで名を泣沢女(なきさわめ)の神と呼びます。泣くのは男より女に多い事から神名に泣沢女の神と女の文字がついたのでありましょう。

小豆島(あづきじま)またの名は大野手比売(おおのでひめ)

泣沢女の神の座。また五十音言霊の音図上の整理・確認の作業の中で、八つの父韻の締めくくりの区分を小豆島(あづきじま)と言います。明らかに(あ)続いている(づ)言霊(き)の区分の意です。

大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。八父韻は横に一列に展開しています。

菅曽音図の一番下の列、言霊イとヰとの間に展開している八つの父韻に泣沢女の神と名付けた事について今一つ説明を加えましょう。

法華経の第二十五章の「観音普門品」に「梵音海潮音勝彼世間音」(ぼんおんかいちょうおんしょうひせけんおん)という言葉があります。梵音と海潮音とは彼(か)の世間で一般に使われている言葉に優(まさ)る言葉である、の意です。

その梵音とは宇宙の音、即ちアオウエイの五母音の事です。また

海潮音とは寄せては返す海の波の音の事で、即ちこれが言霊学で謂う八つの父韻の事です。

宇宙には何の音もありません。無音です。もっと的確に言えば宇宙には無音の音が満ちているという事です。何故ならそこに人間の根本智性である八父韻の刺激が加わると、無限に現象の音を出すからです。

八つの父韻は無音の母音宇宙を刺激する音ですから、泣き(鳴)騒ぐ音という事となります。父韻が先ず鳴き騒ぐ事によって、その刺激で宇宙の母音から現象音(世間音)が鳴り響き出します。

梵音(母音)と海潮音(父韻)は人間の心の先天構造の音であり、その働きによって後天の現象音が現出して来ます。「勝彼世間音」と言われる所以であります。

お寺の鐘がゴーンと鳴ります。人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。正確に言えばそうではありません。

実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。

では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。

音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。

ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。

鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。

八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

出雲とは

出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。

伯伎の国と言えば

母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。

比婆(ひば)とは

霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます。

伊耶那岐の命と伊耶那美の命は協力して三十二の子音言霊を生み、子種がなくなり、高天原での仕事をやり終えた伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、

父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、

という意味であります。

子音言霊が高天原から去って行った伊耶那美の神の忘れ形見または名残のもの、という事です。

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言霊ンはどこへ往くか9。

かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、

伊耶那岐の命はその時まで高天原での創造の協同者であった伊耶那美の命を失ってしまいましたので、「わが愛する妻の伊耶那美の命を子の一木に易えてしまった」と嘆(なげ)きました。

岐美二神は共同で三十二の子音を生みました。

その三十二の子音を表音神代文字火の夜芸速男の神・言霊ンに表わしました。

妻神を失い、その代りに一連の神代文字(一木)に変えたという事であります。

子(こ)の、---コは先在性の現象化したもので、事実となったイメージ内容です。言霊の神名では大宜都毘売の神、現象として全体を表象している言霊ンの火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神、これから働くイザナギの相手となる枠の一マスとして豊宇気毘売の神が、相当するでしょう。

一つ(ひと) つ-、---一、霊、一連

木(き)、---木、気、柱(心の御柱の原型)

一つ木(ひとつづき)、---一続き

一つ木(ひとつき、霊(ひ)と着き(つき)---実体が霊と付いて、結ばれて実相となるために準備された豊宇気毘売の神

重要なことは客体の全体が一つ木になっていることです。資料の山が分類整理され、それぞれの位置や置かれる場所が決まり必要場所でとこれとこれというようになるには、働きかけた意図に原則と個別を現す客観性が用意できているからで、ここでいう客観性が一つ木です。手短にいえば主体側の全体の意図に答える客体側の全体です。

ここでイザナギはいわば全客体をつまり全世界を相手にすると宣言をしたことになります。これから向かうところは、欲求欲望の対象であるだけでなく、記憶と知識、智恵と実践行為、感情と情感を含む全世界が相手だということになります。

この全体をまえにしてイザナギの行為が開始されます。まずは、

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御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、

五十個の言霊とその表音文字が出揃い、今はその言霊の整理・検討が行なわれているところです。

御枕方と御足方とは美の命の身体をもって五十音図(菅曽音図)に譬えた表現です。人が横になった姿を五十音図に譬えたのですから、御枕方とは音図に向って一番右(頭の方)はアオウエイの五母音となります。

反対に御足方とは音図の向って最左でワヲウヱヰ五半母音のことです。

そこで「御枕方に葡匐ひ御足方に葡匐ひ」とは五十音図の母音の列と半母音の列との間を行ったり、来たりすることとなります。「哭きたまふ」とは、声を出して泣くという事から「鳴く」即ち発声してみるの意となります。

上から下、頭から足、最高から最低、表から裏、入り口から出口へ、そしてその逆へと、相手であることの始まりからその限界に至るまでを対象とします。

その行為ははらばうというやり方で、表を見せない、イザナギ主体側の腹の内をもって決していくような勝手なことはせず、相手側に一つ一つ当たって鳴り響くところを探していきます。

手持ち資料材料の恣意的な使用をしない、腹を見せない、腹積もりで相手を決めないということです。

そうするめには主体側も原則を立てなければなりません。

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御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。

御涙(みなみだ)は、

みな--みだ、皆(みな)見た(みた)、の暗示表現で、客体(ここでは音図の枠)を蔑ろにしないで自分の全対象とすること、御枕方(みまくらへ)から御足方(みあとへ)まで一つ残さず検討すること、

香山(かぐやま)とは

言霊を一つ一つ粘土板に刻み、素焼にした埴(はに)を集めたもの、即ち香山とは「火の迦具土」と「金山」を一つにした名称。

畝尾とは

一段高い畝(うね)が続いている処。母音から半母音に連なる表音文字の繋がりの事。その畝尾は五十音図では五本あります。

「その木のもと」とありますから、

五母音の一番下イからヰに至る文字の連なりの事となります。

涙はその一番下の畝尾に下って来ます。

一番下のイからヰに至る文字の連なりは父韻チイキミシリヒニの八韻です。

この父韻が鳴りますと、その韻は母音に作用して現象子音を生みます。

父韻は泣き(鳴き)騒ぐ神です。

そこで名を泣沢女(なきさわめ)の神と呼びます。泣くのは男より女に多い事から神名に泣沢女の神と女の文字がついたのでありましょう。

ここは客体側に準備されている原理原則に主体側も対応することを示しています。

イからヰは生命の創造意志

エから江は生命の実践智

ウからウは生命の欲望

オからヲは生命の選択知識

アからワは生命の情感

この五段の心の御柱(伊勢神宮では御鏡-言葉の運用原理、を下から支えている)、行為の原則を立てるということを示しています。

お母さんたちが山と積まれたみかんを選ぶ時、光沢を見たり、皮の硬さ柔らかさ、押し具合、へたの乾燥度、大きさ、見た目等それぞれ選択の基準は異なっていますが、一人一人のお母さんを見ていけばそれなりの原則に従って選んでいるわけです。

各次元にそれなりの原則がありますが、まずは生命意志の生きること、創造意志の判断力の問題となります。それが言霊イです。

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かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

出雲とは

出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。

伯伎の国

と言えば母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。

比婆(ひば)とは

霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます。

伊耶那岐の命と伊耶那美の命は協力して三十二の子音言霊を生み、子種がなくなり、高天原での仕事をやり終えた伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、という意味であります。子音言霊が高天原から去って行った伊耶那美の神の忘れ形見または名残のもの、という事です。

伊耶那美の命は死んでしまったのではなく、主体側の働きかけによる創造意志の現象と受け手側の枠で作られた原則との境目に待機しているということです。いつでも言葉となって現象する用意があるということです。

葬(をさ)めというのは精神機能でいえば記憶が収納されていることで、手にしている言霊、みかん、資料の山が何であるかを見定めるために記憶がそこに控えているということです。

ただし伊耶那美の命の甦りは、この創造意志の原則による発現が無い限りありません。

古事記はここから主体側の創造意志を作る方法に入っていきます。

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次に火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき。

またの名は火(ほ)の輝毘古(かがやびこ)の神といひ、

またの名は火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神といふ。

言霊ン

火の夜芸速男の神の火(ほ)は言霊、夜芸(やぎ)とは夜の芸術の意、速男(はやお)とは速やかな働きという事。神とは実体という程の意です。これではまだその内容は明らかには分りません。そこで「またの名」を取り上げて見ましょう。火のかがや毘古の神の火(ほ)は言霊、かがや毘古とは輝(かがや)いている働きの意。またの名火の迦具土の神の火(ほ)は言霊、迦具土(かぐつち)とは「書く土(つち)」の意です。昔は言霊一音一音を神代文字として粘土板に刻み、素焼きにしてclay tabletにしました。これを甕(みか)と呼びました。甕の神は御鏡(みかがみ)に通じます。

ここまで来ますと、火の夜芸速男の神とは昔の神代文字の事であることが分ります。文字は言葉が眠っている状態です。夜芸速男とは夜芸即ち読みの芸術である文字として言霊を速やかに示している働きの意であります。またの名、火のかがや毘古とは文字を見ると其処に言霊が輝いているのが分ります。以上の事から五十番目の神、火の夜芸速男の神、言霊ンとは神代文字の事であると言う事が出来ます。太古の神代文字は言霊の原理に則って考案されたものでありました。言霊ンのンは「運ぶ」の意だそうであります。確かに文字は言葉を運びます。それを読めば言葉が蘇ってきます。

「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神(言霊ウ)」より始まり、先天十七神、それに火の夜芸速男の神(言霊ン)までの後天三十三神を加え、合計五十神、五十音言霊が全部出揃いました。古来、日本の神社では御神前に上下二段の鏡餅を供える風習があります。その意味は言霊学が「神とは五十個の言霊とその整理・操作法五十、計百の原理(道)即ち百の道で百道(もち)(餅)」と教えてくれます。先天・後天の五十の言霊が出揃ったという事は鏡餅の上段が明らかになったという事です。そこで古事記の話はこれより鏡餅の下の段である五十音言霊の整理・操作法に移ることになります。人間の心と言葉についての究極の学問であります言霊学の教科書としての古事記の文章が此処で折返し点を迎えたことになります。

【註】火の夜芸速男の神という日本の神代文字は現代知られているだけでも数十種あるといわれています。その詳細については後章にて説明されます。

前回の講座で、人間の心の先天構造の活動による言霊三十二の子音の創生が一段落を遂げました。先天十七、後天三十二計四十九言霊が古事記の文章の中で説明されたことになります。言霊の総数は五十個ということでありますから、残るは言霊ン唯一つとなりました。今回の講座はこの言霊ンの話より始めさせて頂きます。古事記の文章を掲げます。

次に火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火の輝毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火の迦具土(かくつち)の神といふ。

火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神とは言霊ン、神代文字のことであります。火の夜芸速男の神の火は言霊のこと。夜芸とは言霊が夜になって眠ってしまった芸術のことです。速男とは文字を見ると直ぐに言霊の心(男が霊、女が言)が分ります。またの名火のかがや毘古(かがやびこ)の神とは、神代文字はすべて言霊原理に則って造られていますので、文字を見ると言霊の内容(霊)がその中で輝いて見えることをいいます。

またの名火の迦具土の神の火は言霊のこと。迦具土とは書く土の謎。昔、言霊一つ一つを粘土板に書き刻んで素焼きにし、文字板を作りました。甕といいます。その文字板を心の持ち方に従って並べ、心の典型を表わしました。甕神といいます。御鏡の原形であります。火の夜芸速男の神と呼ばれる神代文字は昔、多くの種類のものが造られました。その多くの種類の神代文字の区別は後章で解説されます。

以上で五十番目の最後の言霊ンの解説を終わり、人間の心を構成する五十個全部の言霊が出揃いました。古事記は今後どのような話の展開が待ち構えているのでしょうか。興味津々たるものがあります。先ず古事記の文章を先に進めることにしましょう。

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50。火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神。言霊ン。

50。火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火(ほ)の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神といふ。

言霊ン 火の夜芸速男の神の火(ほ)は言霊、夜芸(やぎ)とは夜の芸術の意、速男(はやお)とは速やかな働きという事。神とは実体という程の意です。これではまだその内容は明らかには分りません。そこで「またの名」を取り上げて見ましょう。火の炫毘古の神の火(ほ)は言霊、炫(かがや)毘古とは輝(かがや)いている働きの意。またの名火の迦具土の神の火(ほ)は言霊、迦具土(かぐつち)とは「書く土(つち)」の意です。昔は言霊一音一音を神代文字として粘土板に刻み、素焼きにしてclay tabletにしました。これを甕(みか)と呼びました。甕の神は御鏡(みかがみ)に通じます。

ここまで来ますと、火の夜芸速男の神とは昔の神代文字の事であることが分ります。文字は言葉が眠っている状態です。夜芸速男とは夜芸即ち読みの芸術である文字として言霊を速やかに示している働きの意であります。またの名、火の炫毘古とは文字を見ると其処に言霊が輝いているのが分ります。以上の事から五十番目の神、火の夜芸速男の神、言霊ンとは神代文字の事であると言う事が出来ます。太古の神代文字は言霊の原理に則って考案されたものでありました。言霊ンのンは「運ぶ」の意だそうであります。確かに文字は言葉を運びます。それを読めば言葉が蘇ってきます。

「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神(言霊ウ)」より始まり、先天十七神、それに火の夜芸速男の神(言霊ン)までの後天三十三神を加え、合計五十神、五十音言霊が全部出揃いました。古来、日本の神社では御神前に上下二段の鏡餅を供える風習があります。その意味は言霊学が「神とは五十個の言霊とその整理・操作法五十、計百の原理(道)即ち百の道で百道(もち)(餅)」と教えてくれます。先天・後天の五十の言霊が出揃ったという事は鏡餅の上段が明らかになったという事です。そこで古事記の話はこれより鏡餅の下の段である五十音言霊の整理・操作法に移ることになります。人間の心と言葉についての究極の学問であります言霊学の教科書としての古事記の文章が此処で折返し点を迎えたことになります。

【註】火の夜芸速男の神という日本の神代文字は現代知られているだけでも数十種あるといわれています。その詳細については後章にて説明されます。

次に火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火の迦具土(かくつち)の神といふ。

火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神とは言霊ン、神代文字のことであります。火の夜芸速男の神の火は言霊のこと。夜芸とは言霊が夜になって眠ってしまった芸術のことです。速男とは文字を見ると直ぐに言霊の心(男が霊、女が言)が分ります。またの名火の炫毘古(かがやびこ)の神とは、神代文字はすべて言霊原理に則って造られていますので、文字を見ると言霊の内容(霊)がその中で輝いて見えることをいいます。

またの名火の迦具土の神の火は言霊のこと。迦具土とは書く土の謎。昔、言霊一つ一つを粘土板に書き刻んで素焼きにし、文字板を作りました。甕といいます。その文字板を心の持ち方に従って並べ、心の典型を表わしました。甕神といいます。御鏡の原形であります。火の夜芸速男の神と呼ばれる神代文字は昔、多くの種類のものが造られました。その多くの種類の神代文字の区別は後章で解説されます。

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