i 子様のための古事記の言霊百神 07

i 子様のための古事記の言霊百神 7

赤ちゃんが最初に発する言葉は何かと、『こども語辞書』 ( http://baby.goo.ne.jp/kodomogo/index.php )を見たら思っていた以上に多数の語が上がっている。どちらかというと母親の教え込む言葉の順位みたいでもあるし、親の希望の現れかもしれない。一番関心を引いた項目は「話した順番で傾向をしらべる」で、全体という欄にある平均発話順序が、言葉の意味不明ながら、一番「うー」、二番「あわわわ」、三番「ばばば」になっていることでした。

母音についてです。古事記の「まぐあい」の段落を利用します。

「 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、

「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。

ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、

「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。」

1-母音以前。

古事記にある通り、伊耶那岐の命の主体的な問いかけ行為がまずあって、美の命が応答します。美はそこにありますが自分が何であるかは、知らずにいて、知ることのできる範囲は伊耶那岐の命の問いかけの範囲内で答えるのです。

そこで、問いかけがあっても問いかけられる相手対象が無いときと、問いかけられても答えるものが無いときがあります。

それを問いかけがある以前の姿として見ているのが母音です。発声音韻学で声となったものを整理分析するのではなく、心の持ち方の分析が問題です。この段階では比喩のように聞こえますが、吾(あ)の目という先天的な全体の始まりがあるわけです。

問いかける主体側の母音側と受け取る客体側の半母音があることになります。

母音は子音頭によるTYKMSRHNその他による遮るものがありませんので、息の続く限り同じ音がでてきます。

古事記に、『 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。』とあります。成りは鳴りのことで、鳴り発音することですが、

伊耶那岐の場合は、意思主体意識が成り、発動して鳴り鳴りて終わり無く発音し続けることで、

伊耶那美の場合は、受け入れ受動態勢が成り、待ちっ放しの終わり無い状態が成り成りです。

岐はどこかで主体側の鳴り続けを止めなければならず、美はどこかで開けっ放しを閉めなければなりません。

それまでは両者とも、成り鳴り止まないのです。これがまぐあいの前提です。

2-客体側の母音の世界。

鳴り止まない母音の世界は、出たものは出てくる、有るものは有りつづける、選んだもの、禁止されたものはそのままの状態が続くというものです。それらは力が弱まり、無くなり、外力、作用を受けたりして形が変わったりするまで同じことが続きます。

客体側の母音の世界は主体の活動がつづく限り同じ世界がつづきます。

最近では毎年毎月新発見があるような星空宇宙世界も、一つ一つの発見が続いて、その発見によって宇宙が進化しているわけではありません。

対象相手となっている純粋な客体宇宙は、それ自身の運動をしていきますが、人の目の関心事に応じて一つ一つ姿を現していくのです。関心事が閉じられた範囲内でその時の宇宙の姿となっていきます。同じことは好きな人にも好きな食べ物にも、主体側のかかわり伊耶那岐のかかわり全体に当てはまります。

主体の関わりが与えられるために相手対象が出てくるのです。主体側は能動の側に立っていますが、客体側は能動側の手が加わるまでは、未知未定の世界です。それでも客観世界があるじゃないかといわれますが、誰かが手をいれてくれるのを待っているだけの世界で、古事記の言葉で言えば「子の一木(このひとつけ)」で、一連の現象となっている世界です。吾(あ)の目が付いて地に成る以前のことで、心を扱う以前のことです。

しかし、主体側の能動的な動きは、意図的意志の現れとなって発動しますが、実は主体側自身には何も手持ちが無いのです。各人は誰もが自分で自分の意志のもと、行動をして考えていると思っていますが、その元を正すと自我も無く自分のものというものも無いのです。有るように思われているのは記憶概念、経験概念で、それらの過去知識をあれこれしているのです。

つまり主体というのはそういったことを無限に受けいれることができる宇宙と同等な客体なのです。これが私という元の姿で、その宇宙全体性を持っているのが人間なのです。別の言葉で言えば人間とはまず母音なのです。

3-母音の発語。

宇宙が客観母音であり、人間が母音であるなら、人間はそれを真似て発語しようとします。

世界中で母音の種類は多くありますが、赤ちゃんの最初に発する言葉以前の発音は動物の唸りみたいで分けの分からないものです。その始めは単音のうーとかあーですが、発語と一緒に手足や表情をみていると何らかの意志と伝達と創造と自己了解とかがあるようにみえます。そのにこやかな顔を見ていたりすると、つまりここに心があるようにみえます。わたしたちは確かにここに心の世界が動いていることを感じますが、分けが分かりません。

手足の運動を発語の用に見ることもあるようですが、言葉以前の位置づけでしょう。赤ちゃんの行為は全く自分勝手で自発的です。赤ちゃん自身で心身共に丸く収まっていて自分自身で完結しています。そこが可愛い赤ちゃんの全世界に対する強みです。しかしそこには宇宙と同等な客体という性格は無く、その自己完結性を躾けや教育で、過去概念を植えつけつつ宇宙の全体性を持つ人に変化させてゆきます。

そのためには赤ちゃんは共通の母音性を持つ人として、自己完結性を全分野で否定されていきます。つまり発声発語、手足の動き身体の動きに名前が与えられ、まるまる自分を現すものからの脱皮を迫られます。当初の手足のバタバタとウアアーババは赤ちゃんの自己表現でしたが、大人はそれらを一つ一つ否定していきます。

それによって赤ちゃん側も単なる自己表現だけだったものから、相手に通用する自己他者、自他表現にでんぐり返しをしていきます。大人は赤ちゃんを笑わしているつもりですが、赤ちゃん内では自己完結した手足の生理運動だったものから、でんぐり返しをして、大人の反応を引き出し自分を満足させるように仕向けているのです。こうして赤ちゃんも主体性を持って、大人をもてあそぶことを覚え、自他との社会的な運動へと変換脱皮していることになります。

4-母音世界の心での反映。

ですので母音の世界が心に反映するときには、こういった母音世界がそのまま映ります。赤ん坊をあやす母親は子の話すわけの分からない言葉を受け取りくりかえしています。当初は赤ん坊が母親に言葉を教えています。

それらを反映した言葉も、母音世界、母音世界の心への反映、心の母音世界の言葉での表現というように元の母音世界を反映、表現したものとなります。大人はまるまる自分である赤んぼうにはかないません。

例えばここで言うことは赤ちゃんの笑いの、その様子を分析して、少し笑っているとか声を出しているとか何が嬉しいのかといって概念を探すことではありません。喜怒哀楽様々ありますけれど、それらの相違を挙げるのではなく、そこから受け取る持続を自分が持つことに関することです。

しかし、音楽で言われる基底音、トーン、主題を赤ちゃんに任すことはできません。社会生活の個別分野がそこに乗ってきます。子音分野の強制です。

子音の場合は気道が塞がれますので塞がれた分だけの反圧が腹にきます。そこから子音特有の反圧の意識が発生しますが、母音は出っぱなし出しっぱなしです。腹に蓄えるものが無く子音が産まれることがありません。あるだけあるありっぱなしの世界になり母音とはそのような心持ちになります。

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14-2。腹母音。今とは。母音と宇宙世界。

5-母音世界の産まれる様子。主体側。今とは。

一言で母音世界といっても観点の移動によって様々ですのでここでは発生時を取り上げます。言語学は発生してしまった発音現象となった発音とか発語を整理分析していきますが、ここではそれらになる以前の母音世界です。単音の発生の段階にまで戻ります。変化変形を分析することではありません。

この世に産まれる母音世界をよく見て、自分の意識がかかわっている「今ここ」、という時点を設定しその観点からすると、次のようなことが見えます。

「今」というのは、持続の一点を切り取っただけですのでスナップ写真としては止まっていますが、現実は流れの中にいます。そこで、流れと今との関係があり、それぞれが母音と対応していきます。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、(後にア)

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、(後にエ)、の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。(後にイ)

このそれぞれ次元の違う五つの主体側から見られた今があるのです。それに応じた客体側から見られた今があり、それは次項で。

「今」というのはこの五つの主体側の実相の変化をいいます。

単に今という時にはこの五つの全体を指しますが、時場所好みによってどれかの次元をむしりとって、他のことを忘れ観念となった今としているのです。

そこで前述の腹を付き合わせてみます。

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、 今-今の腹、(後にウ)

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、過去-今の腹、(後にオ)

・ 感情を現す時には感情の腹、今-全体の腹、(後にア)

・ これからどうするかの選択をしようとしている時には選択の腹、今-未来の腹、(後にエ)、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、今の持続。(後にイ)

この五つの腹の違いがありました。それぞれの心の持ちかたで、腹に来る腹圧、反圧が違ってきますが、同一次元にあるときは、深刻な疑問と軽い疑問を持つときとは同じ反圧で、強く決意するときと軽く決めたというときもその重要さにかかわらず同じ腹圧です。

そして後に、これらの腹の反圧が作用しての声帯の開き方も、八百万の事象があるにもかかわらず、原理要素は八つしかないのが発見されました。母音だけでは子音ができず、子音によって現象が起きます。父韻の項で後述。

例えば今と言った途端に今でなくなるとか、時間などなく今があるだけとか、言われますが、今というものがあってその観念のことをいっています。それぞれ全部正解ですが、言うことが観念ですから現実の心の動きからすると大いに忘れ物があります。

今と言った途端に今でなくなるというのは、子供のわがままを忘れています。欲望の実現は、今頂戴、すぐ頂戴ですが、それをいっている間を通して常に今です。腹減った腹減ったと言い続けている間中今です。欲望に対して今と今言ったからもう今じゃないなどとは通じないのです。

時間など無く永遠の今がある、などというのは、自分の使う記憶概念の言葉が過去から出てきた未来のない不毛な言葉ということを見れば、時間はあることも分かると思います。

またこういうのもありました。「今を、個人の意志とは無関係に変化する事態と定義」したひとがいます。これはそこに書いてある通り創造意志が無いというのですから、それでは今も無いことになります。

さて、以上は主体側から見たものですが、ここに母音世界は産む側の世界の主体側、見る側、動く側の世界ができてきます。つまり、鳴るという行為、動き、動詞の働きに対して、その現れができます。

古事記では「神」という言葉の後に「命」が出てきますがその関係と同じです。別に言えば、働きとその現れということになります。「神」という時には、必ずその前に命の働きがきます。「男の命」も同じ表現です。

ですので、神だ神だと言っても、その実体を捕らえただけでは何の働きも無い絵空事になり、何も示せないのです。これは神を主語として神が何何したと言い直さなけばならないはめになります。言い替えれば神はなんだこうだと勝手に神の属性を当てはめてもよいことになり、解釈も勝手気ままになってもよいことになります。なぜなら実体内容を捕らえても、働きかける動因がないからです。

古事記はこういった人間精神の構造からくる間違いを最初から指摘していますが、気付く人が少ないです。「天地の初発の時高天原に・成りませる・」といって、どの文章も同じ構造です。主体側の意識の働きかけによる成るなのです。

そして、その後で、成る側、鳴りを受ける側が現われます。

6-母音世界が産まれたことが収まる様子。客体側。

前項の産まれる様子はそのまま産まれたことが収まる様態となります。

前項の母音世界の産む側の世界、主体側、見る側、動く側の世界はそのまま産まれる側、客体側、見られる側、の世界となって現れます。

客体側の「今」の様相は今の固定された関係として現れ、関係を受けるものとして待ち受け、待ちぼうけの中断を客体側の「今」といいます。「成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)」がれることが客体側の今となっていきます。

ですので、「今がある」というのは上記の五態に応じて、「今があった」五態がでてきます。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが(今ある)今あった、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 (今あるあった)今-全体となった関係、(後にア)

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 (今ある今あるだろう)今-未来となった関係、(後にエ)

の四態があり、

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)

まぐあい。

このように5と6の今の主体側客体側の一二三四五はそれぞれ対応しています。この両者が合わないと主体側の意図の実現はありません。鳴り鳴り鳴り・・・で、何がどのようになっているのかが、客体側の形として現われないと成り余れるというわけです。

7-前記の対応した母音世界は心に昇ってきます。

前記の対応した世界がまぐあい(和すること)に成功すればそこに成果、子、が産まれます。出来ごととして内容が確定します。やはり同様に上記の対応に沿います。

一、産まれようとしているものが今産まれる、この世界は後に言霊ウ、五感感覚による欲望充足、となって後に産業経済の世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。

二、産まれようとしてあったものが今ある、この世界は後に言霊オ、経験記憶概念知識、となって科学技術の経験の蓄積の世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態とがあります。この世界は後に言霊ア、感情の世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。芸術宗教となり、前記を超えた悟りなどになります。

四、そしてそれらの上にさらに今あるものがこれから動こうとしている、この世界は後に言霊エ、按配選択となり、道徳、政治、実践行為へと向かう世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。

五、ここは後に言霊イとなる意思の世界、そしてその事象を反映する心の世界になりますが、意思は前記四項とは違って自らの形を作りません。前記四項を借りてそれのベースとなって縁の下の力持ちになります。

ここの項目が後から出てくる蛭子、淡島の実体です。人の意識と意識の対象を前もって一般に流布しておくわけです。

8-対応する半母音。

以上のそれぞれ収まる四つの世界が言霊ウ-ウ、言霊オ-ヲ、言霊ア-ワ、言霊エ-ヱとなって対応象徴されます。ウオアエイに対応した半母音ウオアヱヰの世界となります。

ここでは言霊ウは共通です。産まれようとしているものが今産まれるのですから、産まれようとしている欲望は産まれるものと同じです。五感感覚からする欲望、今欲している欲望をそのまま実現し生むのですから母音も半母音もウとなります。

言霊オ-ヲの場合は知識概念記憶の世界ですから、産まれようとしてあったものが今産まれますが過去の経験概念記憶に今という形が載っかかっていますので、一応、別の、新しい、自分のという形をとった、今の知識という形で産まれます。

全体を見渡す言霊アは感情情緒の世界で一挙に事情を識別でき、ウオの次元を率いることはできても、エの次元での選択を知らないので未来までは決定できません。ア-ワは一般的抽象的、全体的、心眼、という形になります。

言霊エ-ヱの場合はもっぱら今が按配され選択されて未来へ向かう形になります。エはウオアの次元を全て超えて了解可能で、指針となります。エの選択次元では、その決定にはウオアの次元の程度段階が反映しますので、知識があればあるだけ、無ければないなりの判断しか出てきません。また逆に言えば、各人の判断選択はそれぞれが最上最高を主張しますが、もともと持っていた知識次元の表明に過ぎませんから、当然のことです。

そこで、最後に登場するのが言霊イ-ヰの意思、霊の世界です。後の伊耶那岐の神の段で述べられます。

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14-3。腹母音。母音が現われる為に。

9-母音世界と心の架け橋。

さて母音世界が心に昇ってくるといいましても、その実在の根拠がいります。

それが呼気を感じる心、意、気です。呼気は肺、口から息となって出ていくだけのものではありません。呼気の流通のコントロールはそれぞれの民族のそれぞれの言葉の違いとなっているものです。

多くの場合は単に生理的な吸気と排気が声帯を震わすというだけの理解です。

ここに古代大和の聖人は驚異的な全世界的な全人類的な大発見をしたのです。五千年前以上のことでした。

呼気の流れを心に合わし、心の内容を呼気を発声し発音するという形で表現することを見つけました。それが呼気と心の一致になり、そしてこの心と呼気による発音の一致を実現したのです。

つまり発音することがそのまま心の内容を現すことになったのです。

前項で「今」の五次元を紹介しました。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)=五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、 今-今の腹、

二、産まれようとしてあったものが(今ある)今あった、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)=知識を経験を問題としている時には知識の腹、過去-今の腹、

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 (今あるあった)今-全体となった関係、(後にア)=感情を現す時には感情の腹、今-全体の腹、

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 (今ある今あるだろう)今-未来となった関係、(後にエ)=これからどうするかの選択をしようとしている時には選択の腹、今-未来の腹、

の四態があり、

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)=意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、今の持続。

ここで五十音図を思い浮かべてもらいますが、母音の並び方は、上に書いた五次元の欲望-知識-感情-選択-意思に沿って下からウオアエイになります。これは人の性能の自覚的な向上を現しています。

しかしこれは人間性能の時間的な成長を自然な流れとして見たものではありません。時間の流れにコミットする主体的な意識の過程ですので、欲望と知識次元の世界は普遍的に持つことができていますが、欲望と知識を統括して経験感情を持って人と対応するのは余程の悟りの心が要ります(ア)。

さらには全体を見通す感情の目を持ってしても、未来の選択按配はできません。悟ったという者たちはいつでもたった一人での経験感情の中から出られません。ここから先は言霊エの次元世界になります。わたしも教科書を丸写しするくらいしかできません。

さて、この五次元の今が、主体側(うおあえい)あ行、客体側(ウヲワヱヰ)わ行の母音行に対応していきます。

そして主客の間のあ行わ行(あわ路)の両者を結ぶこころの架け橋があります。主体側が客体側を訪ねて橋を渡っていくのです。

例えば、われわれは画面を見ていますが、見る主体と、見られる客体画面と、その両者を結ぶ視覚とか空間距離とか眼鏡とか頭脳内了解とかが仲介しています。この三者が揃うと見る見たという現象結果がでてきます。

ただしこの説明は物象となっている物の形で説明しています。主体側とは私の心で、客体側は心の相手対象で、橋を渡るは心の動きです。心の態度です。

それらの心の現れが物象となり、物理的な作用反作用の科学現象になっていくというだけで、このような客観世界を扱おうとするものではありません。

この橋を渡り訪ね見る心の態度の仕方に古代大和は八種類の違いを発見したのです。あ(主)-わ(客)の両端の中間に八種があり、あ行わ行の意識の実在世界と実在世界の対象が5+5で10、中間の渡る橋板が8×5で40、の全部で五十音、アイウエオ五十音図ということになります。

こころの動きは無数にあるように見えますが、突き詰めると八つ、心のあり方は五つしかありません。古事記の神代の巻きにはしょっちゅう「八」がでてきますが、全てこころの動きの八種を指します。ひふみ神示、その他の古文献にも八の象徴がよく出てきます。

この八種は母音の実在世界に対応するものではなく、こころの、動き、かかわりに関するものですが、大雑把にどういうものか示しておきます。詳細は父韻の項です。

例えば、テレビ画面を見るときならば、画面を見る見方、考え方、了解等の仕方の八種ということになります。普通、テレビを見ると一言で言いますが実は以下の八種をごちゃごちゃにしていっているだけです。

テレビを見るといっても見ている現象でなく、見ている現象を生む、見るに至らせる自分の心の宇宙が主語です。つまり自分が見るというのは、心の宇宙が自分に課した現象ですので、その元となるものを見るとして探していきます。

1(チ)。スイッチを入れたり画面を変えたりする時の初動を見る時みたいに、全体を見ているだけで個別的なものの判別以前の時。トォーッと全体を見る。自分の心の宇宙が自分をしてテレビの画面全体をみさせている。

2(イ)。全体的な画面が持続して眺められているだけで、個別的な判別をしていない時。シィーッと見る。自分の心の宇宙が持続する全体を見させている。

3(キ)。画面の存在を認識するが、その内容のなんたるかを自分に引き寄せる時。コココココレコレと見る。自分の心の宇宙の関心事に従わさせられて、画面の関心のある部分を見ている。画面の大小に関係なく画面の全体は視覚内にあっても焦点の合ってるのは関心のある部分だけ。

4(ミ)。自分の心の宇宙に引き寄せるように、心の宇宙に実が結ばれるように見る。モリモリメキメキのその端緒の自己充実していく感じを得る韻(響き)。

5(シ)。自分心の宇宙世界の中に静め込もうとする時。サッサセッセと見る。静かな状態を作りだそうして心の宇宙に取り入れるようにして見る。

6(リ)。自分の内部が拡がっていくように見る時。リャリャリャリャッーと見る。5(シ)が内部に静まる方向を取るのに対して、6(リ)は渦や水面の同心円や竜巻の中心が全体に拡がる力動因となるように見る。

7(ヒ)。自分の外部輪郭が輝くように見る。ホッホーと見る。自分の意識内容の周辺だけが明るくなり分かるときがあり、そのように見ます。

8(ニ)。自分が煮詰まり何かが抽出されるように見る。何々ヌヌッーと見る。自分の中心に閃くというような、自分の中核が形成されるような見る。

この八種が実在の五次元の今と結ばれると「見る」というそれぞれの現象になるのです。見たい見たいは見ることで実現しますが、どのように見るかどのように見ているが、この八種になります。寝ころんで見ていてもその内実は上記八種のどれかになっていきます。

面白いことに、「今」の五次元に関しては、次元をわざと混ぜ込んだ、質問集として禅問答がありますが、この八種を扱う問答集は仏教、宗教、の教えを超えているのでありません。(昔、仏陀が大和に勉強に来ましたが、教えを受けられませんでした。竹内文書。)

古代の世界の思想や中国の考え方に、五大、五行、五要素、五元素、五大天使等があります。これらは実在世界の表徴となっていて、どれを使っても上手い具合に実在世界を五つの内に分類して説明できるようになっています。

フトマニ言霊学の五次元は、古代の五つに分ける思想の原理となっていたものですが、個々の八百万の現象が起きる原理は大和に来た諸聖人たちにも教えませんでした。というのも後の世界歴史の運用を考えてのことで、例えば小学生に相対性理論の運用法を教えるようなものでしょう。

古代において歴史の成り行きを解明してしまっていたといっても、心の、人間の、歴史のヒミツを全部白状して書き残しておくことはないのです。しかし、せっかくの宝物を忘れてもらい無化してもらっても困ります。

((以下は、括弧内のこと。その大本は古代大和の聖人が世界にばらまいたものですが、いつか証明されるでしょう。

さらに凄いことにはこの原理を用いて大和の言語体系を創造して、そこから社会を創造していきました。心の動きと一致した社会は政治の動きとなって旧約にも言葉は一つであったとある通り大和言葉による世界語の地位を得、世界の統治もスメラミコトによって行われていました。

これらのことはどの人類も成し得ず未だに手付けられずにいます。

これが全世界に散らばる各種分野での日本文化、日本語との関連性共通性です。今までは日本が世界から学んだものとして扱われてきましたが、歴史的に時間的に疑問をもたれている関連共通事項があり解決できませんでした。実は歴史をさらに遡ることにより古代大和からの逆輸入であることがわかるようになりました。そして歴史の始めの動きに関しては大和日(霊)の本が発信地となっています。ことにユダヤとの関係も大和から発進したとする立場で全ては解決されていくでしょう。

そこでわれわれ大和の日本語を話す人たちは元々が、世界歴史のなかで特別な次元にいることになりますが、世界歴史の運用はスメラミコトの経綸の手元にあるとだけ言っておき、詳細はそれぞれの分野の方が実証されるでしょう。

さて世界との架け橋が発見されたことをわれわれは追体験しなければなりません。

全分野においてなされなければなりませんが、大和の日本語を知らないと理解できません。単なる学問知識なら翻訳で伝えられますが、こころの運用も含まれる全世界を運用理解するには言霊学が必要となります。

大和の日本語以外の構造では、母音-半母音を結んでの輪、環、和を創る構造がありません。そのため経験知識を利用することが得意と成りました。しかし現代では経験の整理では追いつかないことだらけです。

これを導くには三種の神器の使用法が公開されなければなりません。三種の神器はその精神機能を発揮すれば世界を運用していくものとなるのですが、理解者がまだ出現しません。その為の二千年間も寝かされた秘密が古事記の神代の巻きの内容です。))

古代ではたったの五要素でこの世界を説明してしまいました。易、占いの世界では今でも必死で固執し続けています。

古事記にもとりあえず一般世界の説明の仕方は五つにして世界に流布したとありますから、その当時までは古代世界の記憶は伝承されていたのでしょう。(蛭子の段落。)

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14-4。腹母音。母音が現われる為に。

10-呼気と心。

心と母音の世界に架け橋を見いだしました。それはこころの運用ともなり、言葉の発音ともなり、政治の運用ともなり、世界の運用ともなるものであります。

それは主体側の意思、自らをいざない、相手側をいざなわせる、実在の呼気とその圧力、ひびき(韻)となる律動です。

古代大和において目前の精神と物質の実在世界をみたときに、実在世界が心に反映されることを知りました。視覚が自動的に視覚像を眼に結ぶという生理現象次元を超えて、自覚的な意識現象の解明を目指したのです。

腹減った何か喰いたいと感じたときとか、日の出日の入りの場所が毎日どうしてずれていくのかと疑問を持つときとか、太陽の輝きの有り難さを感嘆するときとか、今日はどこに行こうかとか、様々な実在世界に関与しようとするときそれぞれの呼気があり、それぞれの発音があることに気づいたのです。

日の出の輝きの素晴らしさ、夕焼けの美しさを見る時どの民族も、ウーーーだとか、エーーーだとか言って見ません。ここが解明できれば世界は一つの言語で話し合える基礎があることになります。旧約聖書には単一言語であったと述べています。

そこで古代の聖人たちは寄り集まり研究を続けました。一代二代どころか数世紀に渡った追求だったでしょう。

その後のそれを数千年間言い伝えられた様子と思われるものが古事記に残っています。

天の岩屋戸の章です。ここでは八百万の事物と精神の収拾をして、聖人が集まり、その整理をまず、常世の長鳴鳥(常なる世界の鳴き止まない母音)を集めて鳴かしめてとあるように、まず母音を分析整理していきました。常世の四つの心の世界、長鳴は母音がいつまでも鳴り合わないこと、鳥は十の理で四つの母音世界を十の理(父韻のこと)で解することです。

事物と発音の関係を究理していくうちに、まずイシコリドメの命に鏡を造らせます。イシコリドメは意思を凝り留めるということで、意思精神意識がものに関わり合うときの形を見る為の規範(鏡)を造ったということです。(堅石と金山)

この規範(鏡)が心(意思)の発現と一致するまでに何べんも何べんも研究し直されたことでしょう。(鋳鉄の譬喩で)

そして少しずつ形を整えていきました。玉祖の命は物事経験記憶事物の連続連関(言霊オとなる)、天の児屋の命は感情情緒喜怒哀楽の心(言霊アとなる)、天の手力の男は実践行為の選択按配(言霊エとなる)、そして天の宇受売の命は五感感覚からする欲望(言霊ウとなる)の整理が成り、最後に完璧な創造原理となる鏡である天照ができました。

古事記の神代の巻は精神の原理を扱ったものですから、実を言うと、岩屋戸でこうこうこう言っているというのは、呼気と心の関係だけでなくすべてのことに当てはまるのです。このネタをばらす前に上を読んでいくと本当のように感じてしまったことと思われます。このように神代の巻の適用はすばらしいものなのです。

後は皆さん各自でどんな問題にでも神代の巻を開いて該当させればいいだけです。

人は今のかかわりによって世界と関係を持ちます。世界の有り様が五態あるということは、私の世界へのかかわりも五態あることになります。私はここの世界にいるという時、朝日を見ようとするときも、その五態において見ています。日の出の燭光を見ようとする意識の始めだけを取り上げているで、爆発があってコロナが発生して携帯が通じなくなるというような、連関する知識を考えようとするものではありません。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)=五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、 今-今の腹。

燭光が現れようとしています、この人の今は、陽の光を早くみたい、あるいは始めの一条の光線が見たいからゆっくり超ゆっくり光を放って欲しいというように、自分の欲望の実現を暗い山の端に向けて、じっとその場所を見ているでしょう。

二、産まれようとしてあったものが(今ある)今あった、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)=知識を経験を問題としている時には知識の腹、過去-今の腹。

昨日はあそこからだった、今の季節はあの辺から昇るはず、陽光が顔に射す時には何度くらいの変化があるだろうかとかの、過去概念から来る知的疑問の解消や知識の獲得が主要なことで、光を見たいという思いや欲望とはまた違う別の意識を持っている。これはしたいやりたいとは別の次元にある。

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 (今あるあった)今-全体となった関係、(後にア)=感情を現す時には感情の腹、今-全体の腹。

今この場にいて自分の存在を自分に納得させる現にいる意識を保持している。燭光の見える瞬間を待っているという自己存在を自分に保証しているもので、その内容になる見たい等の欲望や疑問の観念を持つこととも違う、存在感情次元を形成している。

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 (今ある今あるだろう)今-未来となった関係、(後にエ)=これからどうするかの選択をしようとしている時には選択の腹、今-未来の腹。

前記の自分の存在感情のあり方が納得できていると、見たいという欲望をどうするか、疑問の持ち方解決の方向はこれで良いのか、等が見えてきて、ここで燭光を見るという選択肢の中に自分がいることが了解できる。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)=意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、今の持続。

上記の意識を発動させ、それぞれの次元を形成するベースとなります。

このように心の実体は実は五つのうちのどれかから始まり、変化複雑化していきます。

ここでは心の五つの次元といっています。次元が違うと立場が違うので、同じ朝日を見ても次元の違う人同士では話が通じません。同じ土俵に立っているならば、こんどは量的な違いや、視角の違いが強調されていきますが、次元の違いの場合には根本的な相違が生じます。

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