言霊腹母音 3

13-3-1。腹母音。五次元世界の成立。666。

ここで無謀なことに五次元世界を生んでみたい。

人は五次元世界で息をして生きています。ということを言われるとウソなのか本当なのか、何故五次元なのかの説明されない限り分かりません。次元という言葉を使ってあらわす世界は様々で、どの世界のことを言われてもウソか本当かが分かりません。

次元という言葉そのものが概念の説明には便利です。が、何を示すのかがはっきりしていないし、ことに次元間はどうなっているのかの、聞いても分かりません。古事記では「累積(つも)りて」というように、層を作るもので示されています。現代では次元というのが一般的なのでそのまま使用します。

次元の示すものは、古事記で言う「累積(つも)りて」からすれば、重なりとか層とかの意味に近くなります。生きる=五(い)きる、息=五気のように、五層の積もり重なった世界に息して生きるということになるでしょう。

五層が次元のことだというのなら、その五層しかないところを作って見せる必要があります。霊界は十次元だ十二次元だと幾らでも勝手なことが言えますが、誰も十の次元を見せてくれた人はいません。

心は五次元だというのなら、古代で五を使用した思想のように、何でもかんでも五に押し込め当てはめてみることが全く正しく当然にならなくてはなりません。

そんなことができるでしょうか。

吾の目が付いて地に成ることが人間の全てです。フトマニ学では、言霊ウとされた五感感覚からする欲望実現世界、言霊オとされた記憶からする記憶知識の過去概念を扱う理性実現世界、言霊アとされた感情情感からする情緒感情の世界、言霊エとされた選択按配の智慧からする実行按配の実践智慧の世界、言霊イとされた意思の発現からする意志意図の創造世界、の五つの総体とその動きを人としています。

人間には五次元世界しかないというと、人間世界の材料を集めてを整理分析して五次元を探すことになりますが、五次元と言われて五を探すのでは元ある五を五だというだけのことです。そのように精神を運用してもあったものをあったというだけ、パズルのように出来上がっていた絵をばらして元通りにしただけのことですので、精神によって創造的な仕事をしたわけではありません。この思想を666と黙示録やひふみ神示では述べています。

666は人の思考行為の形を象徴的に言ってます。スフィンクスが朝に四本足で歩き、昼には二本足、夕方には三本足で歩くのは何んだと謎々をしかけましたが、足も朝昼晩も象徴表現であるようなものです。スフィンクスは人間の肉体の形を言いましたが、666は人間の精神の形を言っています。その形を見たときには6と言えますが、象徴内容を知らずに6を探しても何もありません。

666の出所は『新約聖書』の『ヨハネの黙示録(13章18節)』に記述されています。以下に引用すると、「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である」。

人間を指したものですから、人間の精神の運用が「獣」となることを解けば良いのです。ひふみ神示でばこれを肉(にく、似せて組む)を食べるといったり、汚い(きたない、気の田が無い)北から攻められるといっています。また別の箇所(白銀の巻き-1)には八つの世界前半の三角で示された図形文字として載っています。これらは全く同じことを言っていて、モーゼから伝承されたものか、キリストが古代大和で教わったものでしょう。

五次元世界を成立させ、そのまま流通させる思考法が666ですから、それを取り入れつつ止揚できるかやってみましょう。

これも実は古事記の記述に沿って書いていけばそのまま666になっていき、でんぐり返しして自覚的に続ければ666の不備を止揚するということになります。ということで冒頭に無謀なことになどと書きましたが、実を言うと上手に真似できるかどうかというだけです。

666の実体は各人の思考の運用法です。6の使用は象徴比喩ですから、5の次、7の前という意味も6個の何かの固体ということでもありません。

まず帰納演繹法を見てみます。

演繹法は一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法です。

代表的な手法に、大前提・小前提・結論による三段論法があります。

(例)

大前提(一般的原理)「人間は死ぬ」

小前提(事実など)「Aは人間である」

結論(個々の事象)「Aは死ぬ」

帰納法は個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一般的原理を導く方法です。

(例)

事例収集(個々の事象)「人間Aは死んだ。人間Bも死んだ。人間Cも死んだ」

因果関係(本質的結合関係):「人間だから死んだ」

結論(一般的原理):「人間は死ぬ」

ここに各々三段論法と言われるものができています。3と3で6です。また、帰納演繹ともそれそれに形而上、形而下を扱いますから、それぞれが3×2で6、行って帰って6です。3は象徴的に△▽になり、人の思考法となると両方を合わせて、カゴメマーク(ユダヤマーク)の6になります。弁証法の言葉を使えばそれぞれに正反合を持った意識の仕方になります。

カゴメの頂点は6ありますが、自らを反省して自らを導き出すには、自らの帰納演繹を使用しますから、形而上形而下の正反合の各頂点に対して6つ、全体で6×6の36です。これが一番目と二番目の6の意味で、6を使用して6で結果を出すと36個の6になるということです。

別の言い方では、帰納演繹ともあった現象の世界を捕らえて構成されていますので、あった現象の捕らえたが正反合の帰納演繹で最初の6、その運用が6に対して6個づつあるのが二番目の6で、36個の運用法がでてきます。

そして運用後に出てくる形而上形而下の成果となるものが6の結果で、三番目の6のことになります。こうして三つの6の成果ということで、みっつの(三)ろく、ミロク、666、弥勒となりました。

黙示録では弥勒ではなく、獣の数字、それは人間だといっていますから、人間が人間である所以は知性を持つことですが、実はそれが動物的な運用法だということになります。自覚的な理想的な思惟活動ではないが、当然のものということです。

帰納演繹法には欠点がありと、どの解説にもありますが、要するに、あったものを、あってしまった現象をそのままに取り上げることが、欠点といっています。

これは欠点というより思考法の本姓に根ざしているもので、生物的に物を見れば物を見たとするメカニズム、目を開ければ物が見えるというような、そこにあるものをあったとする思いから来ています。簡単に言えば始めの選択が恣意的であり、終わりの結論が時空の流れに基づかないというものです。

この生物的な本性をもった思考法を、人間的な意識的な思考法に変換するのが古事記の神代の巻きの記述です。いわはカゴメ思想、666(弥勒)思想から、人間思想へ禊ぎを経て転換脱皮 するわけです。それにはあったものを扱う世界から、成るもの生きて成る物の世界にいくことなります。

そこで今回のテーマはまず、ここにある-あった世界をつくることです。それが五つの層となっていて心は五次元で成り立っていることを追体験することです。その後成る-生きて成る世界へ向かいます。

666法でいきますと、あったものの世界から始まります。あったものを意識する人間主体側もあったもので対応していきます。欲望であるか知識であるか感情であるか、何にしろその人が持っているものが、応対に出てきます。当然そうでなければ相手を認識できません。

そうするとここに既にあったもので応対している心があることになります。色眼鏡を通しているのがわかります。色眼鏡は悪い意味で用いられていますが、日常茶飯事のことです。この無意識的に出てきてしまう応対する心に待ったをかける手法が古事記です。

しかし、待ったをかけて応対するにしろ、無意識的に反応、作用反作用して応対するにしろ、いずれにしても事は成就していきます。そしてここにまずできるのが五次元世界というわけです。

666か、かごめ法なら材料を集め資料をため判断素材の量が物をいいます。コンピュータのようにどんどん物を詰め込める方が勝ちに早く近づいていきます。ところが古事記法では素材を直接前にして事が始まりません。どうするかというと、オンかオフにするだけです。ですのでオフにされたコンピュータなんてゴミにもできないものになりますが、オンにする使い方を知ればいいのです。

あったものの世界では成るものの世界は扱えません。

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13-3-2。腹母音。今と五次元世界の成立。母音の並び。

成る世界、成って行く世界を辿るため続けます。

論考が細かすぎるので所々に整理を入れておきます。

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、

・ 感情を現す時には感情の腹、

・ 困ったことどうするかの選択を使用としている時には選択の腹、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、

この五つの腹の違いがありました。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、(後にア)

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、(後にエ)、の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。(後にイ)

現実に流れている今のスナップショットはやはりこの五つに分かれました。

このそれぞれ次元の違う五つの主体側から見られた今に成っている、今に成っていく今があるのです。それに対して、受動側の客体側から見られた今があります。今そこにある世界で、今そこにあったことが了解される世界です。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが(今あった)今ある、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、今あるあったいわば、今-全体となった関係、(後にア)

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、今ある今あるだろういわば、 今-未来となった関係、(後にエ)

の四態があり、

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)

問題はこれらの一つ一つを成立させていくことで、心とは五次元世界のことであることを示したいのですが、ここでは今とか世界とかの実在世界しか示すことができません。心は創造的に動いていくのに、その動く心の方面は、実在世界として示すことはできず、また別の項目になります。それは後に父韻と呼ばれる項で説明されます。

ですのでここでは心があるという実在世界を扱いますが、心が動いていく世界の話ではありません。つまり動く心の実在できる世界のことになります。心が動ける実体となっているせかいです。

心の五次元世界が五つ(欲望、知識、感情、選択、意志)あるということは、それぞれが個別の次元層でありながら、各次元はそれぞれ五次元を内包というか重層構造を持っています。そうでないと欲望次元は欲望しかないことになってしまい、欲望に付随する他の次元世界が行方不明となります。

欲望の世界ならその次元内で他の次元の関心の程度度合いが違った形で現れます。欲望を中心とすれば、経験知識判断内容よりも、直接に欲望に応じた選択の方が重要になるようなものです。子供が欲しい欲しいというときなど、欲している物の知識など関係無く、自分の選択を主張するようなものです。また、欲望が中心となるときには、自分の意思の発露が重大な関心事になって、感情的なこと芸術的な価値とか宗教的な畏怖感とかは考慮されません。これはどれを中心とした次元を構成するかで、他の次元の位置が変化していくことを示しています。

これを各次元での母音の並びとして記しておきましょう。

欲望の次元はウを中心として、アイウエオ、(これが学校で教わる順位)

知識の次元はオを中心として、アイオウエ、

感情の次元はアを中心として、ウオアエイ、

選択の次元はエを中心として、ウオエイア、

意思の次元は自由自在に現れるので固定できない。

次に、例として、カゴメ(666の正反合)の世界ではあったものから出発しますが、あったものをあらしめる主体の自覚した関わりと、客体の受けいれの統合された、ある-あった世界の五次元を見てみましょう。これは言霊で言えばエの選択按配の智慧次元で見られたものです。

ここでは、エを中心としたウオエイアの次元を重層的に内包しています。従ってここでは、選択のエを中心とするのでその為のよりよい選択には、欲望の有る無しよりも、経験知識がより近く選択のそばに置かれ、より確実な選択を実行するには、感情情緒よりも意思の有る無しが選択により近い位置を与えられることになります。

次に、今ある意識をエの選択を中心とした場合を見てみます。

エ(選択)を中心とした今-あるの各次元層とのかかわり方ですが、母音の記載はエを中心に冒頭の順位を入れ換え、アイエオウになります。

解説中心のエから始めます。

エ。 今あるものがこれから動こうとして産まれる、今ある-今あるだろう、いわば、 今-未来となった関係、後にエの世界ですが、主体側の自覚のあり方によって同じ今の様相が違います。

自覚のある場合には、自分の今あることがどちらに転がるか分かってますので、今ある-今あるだろうの関係は明るく肯定的です。

自覚の無い場合には、不明不安定となります。というのも出てくる結論が肯定的に見通せないからです。

選択はあっても、自覚がないときには経験の応援を求めます。またあるいは経験知識に関わらず突進する意志を求めることもあります。意思の肯定によって選択が肯定されたように思えるようになることあります。

ところが、選択に対する感情の世界はあまり重要視されません。肯定的否定的に感慨をもようされても選択に変化はでにくいのです。同様に選択したい欲望は、未来に向かう選択からすると後を追っているように見えて、いちいち構ってもいられなくなります。

今を成そうとして、例えばパソコンのスイッチを入れるときでも同じです。電源を入れるにはなにも考えないで入れていますが、新品に初めてオンするときなど、うまくいくか不安で不明なときがあります。

オについて。その他は省略します。

今あるものが産まれようとしてあった。今あった-今ある、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)で、自覚のある場合には、過去と結ばれた概念知識であることが分かっています。そこに自覚が無いと、頭の中にある事を何でもかんでも喋りだすということが起きます。そんな場合でも思いついたことや時間的な経過がありますから、自分で考えたことを喋っているつもりになっていきます。

アイオウエのオが中心で、オの発現は上に書いた通りですが、今あったことを出す世界ですから、まずそれを出したくてしょうがない、欲望や意志がすぐ隣に控えています。自覚が無いと覚えていると知っていることがどんどん出っぱなしになります。感情も選択もひったくりもありません。自覚があれば直ちにストップがかかるので、選択、感情方面へも気遣いができます。

このように自覚の有る無しでは様相が違っていますが、ここまででの話は母音世界と呼ばれるものが出てくるというだけです。実際の時の流れに沿った、どのように出てくるかは、後の父韻の項目になります。

ここで重要なことは、どのような出方をしようと、パチリとスイッチを押してスナップ写真の世界ができてしまうことです。それはそのまま記憶され概念化されてリサイクルさていきますから、その次にまた出てきたときには新しい今のような顔が出きるというわけです。

さてそろそろ腹と母音を結びつけなくては成りません。

五つの腹の違いがありました。上記の各母音世界でのスナップ写真を発声にまで導こうというものです。

母音世界はそれぞれが違った次元にいることがおぼろげに分かると思います。それの腹との対応を探そうとするものです。

それぞれの心の持ちかたで、腹に来る腹圧、反圧が違ってきますが、深刻な疑問と軽い疑問を持つときとは疑問ということでは同じです。非常に深刻な表情をして考え込んでも、軽い冗談のような疑問でも知的な疑問を発するときには、同じだけの腹圧反圧しか見いだせません。同様に、強く決意するときと、軽くホイホイ決めたというときも、その重要さにかかわらず同じ腹圧反圧を感じます。ココ見ていきます。

圧は強弱の概念で、言葉の発声の上では強い弱いが出てきますが、そこでの強弱に捕らわれますと、意識の反映している腹圧反圧での強弱にとって変わられてしまいます。現象上の強弱の中にある、基調音基底音(母音世界の音)と意識の関係ですので、充分注意して腹の反応を見てください。

そして後に、これらの腹の反圧の呼気を介しての声帯での開き方も、八百万の事象があるにもかかわらず、原理要素は八つしかないのが発見されました。母音だけでは子音ができず、子音によって現象が起きます。父韻の項で後述。

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13-4。腹母音。呼気とこころ。母音の成立。

言霊をチャクラに結びつけたり、松果体や太陽神経叢、丹田、経絡に響かしたり、音霊と称して姓名判断に利用したりしているようです。それらを援護擁護する為に科学的な理論や機器なども利用されています。感じる人が感じるだけでなく事実としてもあると言いたいのでしょう。

母音は子音と違って塞がれる気道がないので、腹への反圧が直接現れます。脳腹丹田に響くと言うのは声帯の響きから来るのでしょう。気道を伝って肺や内臓が震え、大小の違いを感じる感じないはあっても身体全体が発音された世界に同調していると言えるでしょう。その母音の響きを腹部へ誘導して腹から声を出しているようにすることはできますが、腹から声を出していると言えるでしょうか。子音の場合には気道が一旦閉塞状態になりますから、閉塞閉塞子音頭(KaSaNa等の頭KSN)の腹への反圧がかかり、腹から子音の心持ちが産まれるように見えるかもしれません。

母音の特徴は鳴りっぱなし有りっぱなしです。出しっぱなし出っぱなしの母音を心に結びつけるのは難しいことです。チャクラや気を鳴りっぱなしで有りっぱなしの状態を説明しなければなりません。ところが多くの書きものには経験的な気や響きの現象事が主になっていて、母音のようなあればあったで続いていく世界とは違います。

母音の発声は生理物理現象で、小さな声にしろ大きな声にしろ、あーー、と言うとその声は弱まり極微弱になるとはいえ、地球の裏まで宇宙の果てまで際限なく何億年も鳴り続いていきます。ですのでその逆もあります。宇宙から来る生命体からの何億何十億年前の微弱なサインを捕えようというのもあります。

このよう思えば、 数千年前に生きていた人を照らした太陽光線は今も宇宙を旅して今日明日にもあなたの視覚を叩くかもしれません。そこで共感同調し波長が合えば釈迦の顔やマリアの顔を見ることができます。あるいは現代では神と呼ばれている人の声を聴いたりすることもできるでしょう。動物には感覚として人間以上の受容力があります。人間には動物以上の感応同交力があり、精神現象として現れます。

(霊界に行くとか、神を見たり対話するとか、死者とまじわるというのは、そのようなあの世、あっち側の実在する構造世界があるのではなく、精神による感応同交による受容現象でしょう。端から見れば超能力超常現象ですが、人間の世界に元々備わっているもので、同交現象の結果をあちら側に作ってしまった結果、あちら側から来たようにしてしまったのでしょう。人間側に理解できるものとしてしか降りてこないようだし、常に人間に理解できるようなもののようですから、きっと元々人間にあったものなのでしょう。)(括弧内の発言です。)

ただしこれらのことは普通の経験談にあるような現象とするには人の五感は弱々し過ぎます。そこで言えることは母音世界の母韻(音ではない)との共感同交があるのではないかということになります。韻(響き)の共感同交があったことを元にして、後は経験者が勝手に頭の中で造り上げた話が多くなっているようです。

それにしてもそこからすれば、どのような人の廻りにも数千年数億年の地球、宇宙の歴史がまといついているということになります。そして不思議なことに人にはそのような韻(ひびき)と同調する性能があります。またその性能が発揮できないと人としての形を成しません。古事記は共感同交する性能を伊耶那岐の命といっています。イザナギ、誘う気いうことです。

みこと(命)というのは人の働き、性能、それらを表現した言葉ということで、その実践行為をしていく人のことです。命をもって行なうです。

神というのは人の行う行為の原理原則やそうしたものとしての実在、ひいてはそれらを奉り揚げたものです。ですので神は簡単に持ち上げられ拝む対象になり、拝む(おろがむ、愚か者がおろがむ)ものとなります。

命にしろ神にしろ、人間性能の外界への投影とその実在交流の実体験が元となってできたものでしょう。

奉り揚げられるものがまずあったとする設定にすると、あーーの世界は神の世界となり、地上の経験感情と結ばれれば立派な〇〇神の誕生ですが、話しが飛びすぎですので戻ります。

話が宇宙とか千億年とかで始まっていますが、もちろん日常の何の変哲もない今ここのできごとに生きていることと同じ意味合いです。

鳴りっ放しの母音はいつかどこかでそして今ここで、主体側の韻と協調できる出会いの状態にあります。アーーという声をここで聞くか、電話さきで聞くか、録音して明日聞くか、旅行先で聞くかいずれにしろアーーは宇宙に充満しているのです。

これが母音世界の特徴で、もしここに主体側の共感同交がなければ、宇宙に充満している母音アーーはいつまでも宇宙の迷子でいます。これから先も何十億年と彷徨していきます。出会いが無ければ設定された神さんも一人ぽっちです。

ですので母音世界とはこういったことが充満している宇宙全体と同じことになりますから、そこから母音の心を導き出すのは大変なことです。チャクラだとか丹田に結びつける人は宇宙世界と結ばれていることも説明しなければならないのです。今まで見聞きしてきた説明は単なる関心興味からでたもので恣意的なものばかりです。そこにある種の意図を繋げ、経験の因縁を全面に押し出して作られているようです。

そういったことは個人の意見主張ならお話として聞くことはできますが、わたしにはそれはちょっと無理にみえ、単なるちょっとした経験事実を拡大し過ぎた逸脱のように感じます。

わたしはもう少しつつましく行こうと思います。

母音世界が宇宙に充満していて宇宙と同じだけの大きさを持っていることが分かりました。今までは、発音された母音を見ていましたがこういうこともいえます。

一億年前に恐竜の歯をキラリと照らした太陽光線は微弱ではあるが、いまでも宇宙をさまよっています。この光に交感同調すれば、歯でもキリストの顔でもみられるのです。恒星だけが何億年かけて地球を訪れるのではありません。宇宙世界の全てが同じです。言い替えれば客観とは母音世界と同様であるということです。

耳で聞く母音は聴覚にかかわるものですが、母音の客観世界は人の性能の全部に対応しています。聴覚がなければ空気の濃淡しか存在せず、人の各種の性能がなければ宇宙世界も物質の作用反作用でしかありません。それを知る主体側の受容体制が整っていなければ何もないのと変わりません。

わたしの人生は宇宙地球の歴史何十億年に対して、日本の歴史の一万年に対して、たったの数十年で、地球の人々数十億人、日本の人口一億人に対してたったの一人です。それでも自分がいなければ何もないのです。わたしのいない相手は相手ではありません。

母音世界、客観世界はただ有る、有りっ放しの世界です。きりの無い大世界宇宙です。このことをそのまま受け取りますとこういうことになります。

母音世界、客観世界宇宙はそのものとしては決して現象にならないということで、そのままいつまでも続く先天性の普遍の実在ということです。わたしがいなければ世界宇宙はそのまま迷子となってさまよいます。

恐竜の朝日に輝いたキラリとした獰猛な恐ろしい歯は、わたしがここで見なければ存在せずさらに次の宇宙ヘと向かうでしょう。しかし通常は経験事実としても起こりません。三日前のことでも忘れてしまえば何も無いのです。それらがあるように思え、事実として有ると言わせるのは記憶概念です。

記憶は手に掴むことも匂いを嗅ぐこともできません。それなのに有る在ったと頑固に主張することができます。記憶違いにしろ本当であるにしろそれを保証するのが五感感覚と知識となったものを了解している自分の感情です。自己感情の了解が喜怒哀楽として表現されますがその大本は自分と相手対象が全体として了解納得し合っているということにあります。その為にいろいろな自分の中にも主張の違いからお気に入りを選択して頑固な主張と成るわけです。

前述の総体が宇宙であり、この世であることになります。人の世界には先天的にこうしたことがあります。そのことを人の誕生自分の誕生に該当させると、世界宇宙から新しい世界宇宙ができるということで、そのまま先天の普遍な実在となります。赤ちゃんであるわたしは最初から宇宙として産まれてくるのです。

各人が先天的に宇宙であることなしには、あるいは、各人がそれぞれ世界宇宙そのものであるので、この世とかかわることができるのです。わたしの生と宇宙の生とは同じ土俵に産まれたものなのです。

こうして私自身の生も本来ただ有る有りっ放しです。いろいろと偉い人たちが人生のあり方生きる目的とかを講釈していますが、まずはわたしたちは、全部の世界を持っているところから、全部の世界を持ったまま産まれてきたということに注意を向けるべきでしょう。

個人があるから世界があるといっているのはありません。世界は個人的な世界である言っているのではありません。誰もガンジス川の砂の一粒も生んだことはありません。全ては先天的にあります。その先天性とはわたしでありあなたであるのです。もしあなたに差し支えなければ、あなたを神といい、わたしを神もいいます。各人が世界創造の主なのですから。

アーーだとか母音だとか客観世界だとか先天だとか分けの分からないことを言っています。この分けの分からないことが人の活動基盤となります。最初から分けの分かったことから始めると、それはその人の恣意的な意図的な興味関心からでただけの、要するにそれだけの、あーそうかというだけのものとなってしまいます。論争に依って高みへ昇るのだというのもありますが、二つ三つの観点が増えるだけのものです。

そうではなく、わたしにあなたに、誰にでもあってしまった世界があって、人はそこからしか出てこないのです。

さて、わけの分からないわたしと相手の世界をどうしようというのでしょうか。わたしのこころはどこにあるのでしょうか。

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13-5-1。腹母音。呼気とこころ。先天の半母音。腹と心。言語発生の根拠。

先天の半母音。

心を表す言葉づかいに腹や胸を用いたものが多くみられます。現代科学によって腹や胸じゃなく頭だよといわれても訂正される気配はありません。 何故でしょう。

参照。生理学的にも注目されている。

「記憶転移(きおくてんい)とは、臓器移植に伴って提供者(ドナー)の記憶の一部が受給者(レシピエント)に移る現象である(ウィキペディア)」

「食道から胃、腸まで一本につながっている消化管は独自の神経系を有し、脳とは独立して機能している。

この腸神経系は研究者の間で「腸の脳(gut brain)」として知られている。

腸の脳は神経の接続を通じてすい臓や胆のうなどの臓器をコントロールしている。消化管で分泌されるホルモンと神経伝達物質は肺や心臓といった臓器と相互作用する。

脳や脊髄(せきずい)と同じように、消化管にも無数の神経細胞がある。

コロンビア大学のマイケル・ガーション教授によると、小腸内だけでも100万個の神経細胞が存在しており、この数字は脊髄内とほぼ同数であるという。

脳と消化管をつなぐ主な導管の役割を果たしているのは、脳幹から下に伸びる迷走神経。

しかし、消化管は脳から指令を受けるだけではない。

ガーション教授は「脳はマイクロマネージメントを好まないCEO(最高経営責任者)のようなものだ」と語る。

脳が消化管に送り込む情報より、消化管が脳に伝達する情報のほうがはるかに多い。(病は胃腸から)、ウォール・ストリート・ジャーナル日本版(2012.01.18)」

言葉はどこから出てくるでしょうか。もちろん口からです。気道を通って呼気がでてきます。では呼気はどこからくるのでしょう。胸、肺からです。解剖の知識が無ければお腹からと答えることもできます。何故なら実際にお腹が動くからです。

腹や胸が動けばそれに沿って物理生理的な動きや肉体的な感じであらわされることができます。形になるもの、形になったものは、物理、生理的な作用反作用の世界からきてその世界で確認できます。

ではその時の言葉の内容はどこから来るのでしょうか。 言葉の意味は、言葉が示すものはどこからくるのでしょうか。 視覚等の五感感覚や概念記憶、精神感情の等の頭脳の働きからきます。

一方の呼気音声は胸、腹なのに片方の意味内容は頭脳の中からでは話が通じていないのではないかと思われます。もちろん、胸、腹、声帯に心の内容があるわげではありませんから、どこかで両者の接点があるはずです。

片や頭の中の働きで、片や生理肉体のはたらきで、どちらも片方だけでは何も現れません。

はたしてこの両者の関係はどのように結ばれているのかが問題です。

言葉が心を表すとしても、言葉は現象になれば空気振動の呼気であり、その内容は脳髄の中です。生理学によって脳髄が呼気を統制しているのが分かっていても、心の中にあるもの心の内容が呼気とどう関連しているのかは分かっていません。

ここは脳科学でも大脳生理学でもないことたま学の話です。ここまでのことをそのまま延長しますと、ことたま学にならず生理的な言語学、肉体の言語学みたいなものになっていきます。言葉の生理的な作用を見ていく科学的な見解が出てくるでしょう。

ここから先は心と言霊のことになりますから科学的な思考も納得させるように経験に逆らわずに行かなくてはなりません。しかし頭の中にある言葉の内容だけを独立させて頭脳の働きを示してしまうと、脳は物質だから意識も物理法則に従うとか、逆に、霊魂霊界神界を前提としてしまうようになります。ここではそのような、霊魂だとか言葉の魂だとかの、人の思いや考えでそれぞれに変わってしまう概念だけのものは出さないようにしていきます。

世界には多くの言葉があります。いずれも心の内容を現すものです。心を表す言葉がその呼気は胸と腹から、言葉の意図は頭脳からと二方面から出てきます。通常もっぱら頭の方面しか考えていないようですが、頭だけあっても言葉は出てきませんので、この両者がお互いに納得し合っている構造を通して働きあっていることを探さなくてはなりません。

もちろん沈思黙考で概念の運用だけということも可能ですが、そうなるとお話が出来なくなります。たとえ一言も喋らず頭の中だけで考えている積もりでも、頭の中では物凄い勢いで言葉という形を使って、頭の回転の中から自分に正当さを与えるものを選びだす動きをしています。この言葉という形をとることが既にもともとは腹胸から作られた現象を経たものとなっています。

その動きは純粋に頭の中だけでの抽象的な思惟行為のように見えますが、常に自分を満足させる、自分の感情に一致する喜びを生むものしか頭の中で生みません。抽象的な思惟行為といっても、自覚が有る無しに関わらず感情の喜びを得る性質の元にあります。この感情がきっと腹と繋がっていることでしょう。

沈思黙考独り言をしているのだから、腹胸等は関係ないという方もいますが、その頭の中で動き働いているのは言葉です。発音されてはいなくても自分を相手にした言葉の形をやりとりしています。それは既に出来上がった言語体系を借りています。頭の中を言葉が動けば心も動きそれに応じて腹も動いていきます。腹の方は、それを自分のものとしたい欲求があるはずです。

言葉の使い方をみても分かる通り腹、胸を借りた言葉使いと心に関する表現から、何かそこに重大なことが隠されています。そして実際に昔からいわれている通り心は胸と腹の中にあるのかもしれません。腸が煮えくり返るなんて言うことになれば心は腸にもあることになるかもしれません。

そこで大昔のように大脳生理学など知らず実際に感じられ確認できる心から出発してみましょう。腹に含み、胸に蓄えられる心があるとして、それを腹の心とします。

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何もしていない時何も感じない時考えていない時、こころは静かです。何も感じていないのですから静かで当然です。そこでは腹も動かず腹があるのかさえ気付きません。

心の活動が開始されました。その途端に多くのものが動き始めます。じっくり探ってみてください。

腹の腹圧が高まります。下腹部が硬くなり緊張しています。

気管支が緊張します。 声帯も閉じたような動きを見せます。つばを飲み込むような動作が産まれます。

五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰めます。耳目やきっと鼻もでしょう。

歯を噛みしめます。舌、口の動きが止まります。

感覚的に得ることは難しいですが、全身の肌、皮膚が緊張して一時収縮します。

これらを意識的な言葉で言えば、注意が集中されていきます。

するとここに、大脳がうごめくというか準備の為に待機しているのを知らせるのというか、大脳のある空間が意識されてきます。注意を向けるとそこに脳髄の中というか、脳髄を中心としてと言うか、あるいは脳の上方空間にある種の意識場が形成されていくように感じます。

これが脳空間における現実の高天原でしょう。

感覚的に頭の上方に意識している空間が感じられます。「 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)」が成ることです。

ここにできてくる「神々」は腹、胸を相手にして、言葉(声)を出すことになるでしょう。頭上の現実の意識空間(父)と腹、胸(母)がまぐあいをして言葉(子現象)を生ずるのです。

どのような流れか見てみましょう。注意、意を注ぐ、気を注ぐです。時の流れがあります。

そして注意の時が動き、流れるのを待つような気がしています。注意を向けたその始めの時です。

これらはどれがどうだと分離して分けられるものではなく一つの全体性を形作っています。始めの始めは何だか分かりません。全体の一塊のようです。薄ぼんやりと、自己の存在があると感じるだけのようです。

これらは生理的感覚的に確認できる事で、それぞれが後に現象となって明瞭化していきます。それら自体は心の世界ではなく生理的なものですが、形として分かるようになる以前の先天の現象世界にあります。先天生理とでも言いましょうか。この先天的な生理生物的な対応分野が無いと、発音発声にまでこぎ着けつけません。

そこで先天的な生理世界を発声された母音世界に対応させて先天の半母音世界とします。そして後にこの世界から半母音が出てきます。

それは心の力動因が動いて活動を始め自らを明らかにしようと、自己表現の為にうごめいているのです。そこで一たびこころの力動因が作用し始めますと、頭は頭で内容を受け持ち、腹は腹で発声に係わって形式を受け持つように分かれていきます。産まれる子供は言葉です。

何かを考え感じようとする意識は頭に向かい、何かを語り感じたものを知らせようとする意識は腹にむかいます。

この腹側の半母音の世界は、腹の腹圧が高まったり、気管支が緊張したり、声帯も閉じたような動きを見せたり、五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰めたりして、何処がどうなり何が区別されるのか分からないけれど、そこから何か浮力のようなもので押し出されてくる感じを受けます。

何かを発声発語しようとする時、薄らぼんやりある自己存在感のようなもの出来ていきます。そこでは、 腹は頭を招き、頭は腹を招いています。しかしこの両者の招き合いを実現する動因がいります。

そこで頭への方向が強調されると独り言をしているといわれ、腹への方向を強調されると喋りたいものがあるといわれることになります。腹に言うことを蓄えていると言うことになります。

実際はこの両者は結ばれてでてきます。

これが招き合いの形をとり、腹の緊張、腹圧と、脳髄の統制の元に呼気の肺活量から来る声帯の振動が一緒になり、発声の形になります。

声帯の振動は口腔を通して脳に伝えられ、あるいは耳で聞いて、こうして脳と腹を声帯の振動が往復します。

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13-5-2。腹母音。呼気とこころ。先天の半母音。腹と心。言語発生の根拠。

では脳にあるこころ、脳の心の動きはどこに伝えられどのように分かるのでしょうか。

それは不思議なことに腹に伝えられます。父が母を求めるというわけです。

声帯の振動は腹と脳を往復しますが、その振動に乗って脳内のこころが腹に降りてきます。沈思黙考、脳内で思い考えているだから脳内で言葉を作用させ脳に心があるように見えます。しかしそれは脳内での形となって現れた言葉を使用しての、いわば脳内現象ですから、それが現れる以前の言葉を使用しない過程があります。

それがどんなものかは科学的にもはっきりしていませんが、物質的な介在がありますから、ここに声帯、呼気、臓器器官の物理的な運動作用反作用を感じ取る何ものかがあるはずです。

そこで脳内の心と腹の心が共感反応して交わりが成立して行けば、新しい現象として声が発声します。この声は脳側の父の遺伝子と腹側の母の遺伝子を併せ持ちますが、第三者の現象となります。

人は動物のように脳の心に関わりなく声だけを出すことができますから、その出された声だけを収集して体系化し、約束された意味内容をくっつけて言語の体系も作ることができます。これらが外国語の言語体系ですが、大和の言葉は脳の心と腹の心の一致を目指しています。

さて、そして脳内に起きた心の在り方は、腹との共感同交を起こし腹の緊張となるのです。ということは腹においてもそれを受けいれる下地があるというわけです。これが先天の半母音の世界です。

この場合は単なる動物的な発声のための緊張ではなく、言葉を発する為の緊張となります。頭脳内の情報伝達速度は腹内での情報伝達速度と釣りあっていることでしょう。(まだ証明されていません。)

生物科学的な情報伝達速度は例えばAをAと生理的に知覚するのが100m/秒とかいうものですが、

意識の上では、AはAと最初から分かっているわけではありませんから、Aの整理分類、分別を通して確認、自己了解し、相手側に投げ返して自他ともに共認する過程を経なければなりません。ですのでそれまでには上昇螺旋状の経過を通過していきますので、生理的な反応するだけの知覚速度をさらに超えた速度で回転していることでしょう。

生理的な知覚と違って、話される言葉はゴマンとありますから、その脳の動きは未だ謎ですが、古事記の神代の巻きによれば、心の在り方の次元段階を示すものとして腹に伝えられます。それは五つの腹の緊張によって表現されます。つまり脳内の全部のできごとは腹では五つの単純化した次元層で現されることになるでしょう。

腹の心は次の五つとして受け取ることでしょう。

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、

・ 感情を現す時には感情の腹、

・ 困ったことどうするかの選択を使用としている時には選択の腹、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、

この五つの腹の違いがありました。

共感同交を求める相手が腹にあることになりますが、そのことは、頭脳内の言葉内容を司る部分が自らを現すのに、頭脳内に留まっていては何も示せないということです。そこで、言葉内容を示すための形、外在しているものを通して表現しようとします。

頭脳内の意識の流れは形を持たないため、それに似せた形を腹に探していきます。腹の反応は非常に様々な所から来ますから、頭脳内の心は容易に物象化することができます。ここでは意識を表明するための言葉の形成を助ける全領域が用いられますが、殊に発声に係わるものが重要視されることになります。

その時の頭脳内の立ち位置を示すことは、同様に「過去-今・現在-未来」を、物的な表徴として介在させることになります。

それが前に「今」の五次元を紹介したものになります。それをまた繰り返しましょう。

それぞれ頭脳内の心の内容は下記の五つに対応しています。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、→これが欲望の腹に結ばれる。

二、産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、→これが知識の腹に結ばれる。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、→これが感情の腹に結ばれる。

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、の四態があります。→これが選択の腹に結ばれる。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。→これが意思の腹に結ばれる。

このそれぞれ次元の違う五つの今の御蔭で、頭脳内の言葉内容は「今」の表徴と結ばれ、概念から表徴・イメージを通して、腹胸の物象に結ばれていきます。

腹胸は物理生理的な現象を伴いますから、その結果が発声という形ででてきます。

ここに言語の発声の根拠が見つかることでしょう。

ただし、これはまだ発語される以前の頭の中に緊張が走った時の腹へ向かう関係です。ついで今度は、ここに意を受けた腹胸が、発声へ向かう気道の準備をしていきます。

腹の腹圧が高まり下腹部が硬くなったり、気管支が緊張し声帯も閉じたような動きを見せます。五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰め注意が集中されていきます。口腔内部や全身の皮膚も緊張して、注意の中に加わっていきます。

するとここに、大脳がうごめくというか準備の為に待機しているのを知らせるのというか、大脳のある空間が意識されてき、各人の高天原と呼ばれる現実の精神空間が産まれます。

腹胸、気管支声帯等、発声に伴う全身全体が共に準備されてきます。

ついでそこに、発音器官の介在によって言葉が出来て、脳内のできごとは全て言葉で表現されることができるようになるのです。ですので、言葉の創造に達しないところや失敗した部分は、腹胸を通して身体そのものによって身振り手振り等の形になることでしょう。

ここで脳内の出来事内容をうけた腹と発音器官が一致していかないと、脳内の心と発音とがバラバラになってしまいます。

古代大和の聖人たちはこれを繋ぎ止める世界最深奥の秘密を発見したのでした。それがみとのまぐあいというものです。何ということはないセックスすることと同じ構造であることを発見したのです。

印刷紙幣の零の数を変えれば価値が変わりますが、それは単なる物証との約束事で内容の実体はなく、零の数を内容としているだけのことです。大和の言葉以外の外国語ではそれと同じようなことが起きていて、新発見の科学の数値によってそれを新しい内容としたり、権威教育によって強制的に内容はこうであるとされていきます。

大和の言葉は世界唯一の例外で、内容と表徴表現が一致した作りになっていました。少しづつ絡んだ紐を解いていきます。

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脳が働き心が活動をするとは要するに日常生活をすることですが、大和の聖人たちはごちゃごちゃ無限に分類できる人の感情と実在行為を腹の緊張に対応させて整理しました。( 全く考えもつかない必殺技です。)

そうすると、人とはどのようなことをしていても、全てが五つの腹の緊張に還元できる生き物であることを見つけました。

その五つとは、脳内の心が送ってくる信号をまとめると、

五感感覚の次元、これは、今-今の関係へ。そして後に言霊う。

知識記憶概念の次元、これは、 過去-今の関係へ。そして後に言霊お。

感情情緒の次元、これは、今-全体の関係へ。そして後に言霊あ。

按配選択の智恵の次元、これは、今-未来の関係へ。そして後に言霊え。

意思創造力発現の次元、これは、今の持続の関係へ。そして後に言霊い。

の五つになりました。

見たい、食べたい、聞きたい、知りたい等欲望の充足を求める心は、何時でも頭の中のこころの動因が、同じ腹の緊張位置にあり、同じ声帯の緊張を伴っていました。カレーを食べたいラーメンを食べたいとお金が欲しいということの、外見上の相違はあっても、したい欲しいやりたいという欲望の心を持ったときの腹の緊張が同じであることを発見しました。

知識記憶に関すること、情緒喜怒哀楽に関すること、選択按配に関すること等、同じ緊張内におさまっていったのです。単語の意味は何か、空即是色とは何か、存在とは何か等の概念に対する疑問も、その概念の多様さにもかかわらず腹の緊張位置は同じであるが、欲望とはまた違う緊張にあることを発見しました。

こうして整理分類した結果、世界を反映した腹の世界は五つしかないこと、人間の世界とは五つであることを発見したのでした。

もちろんこの整理研究当時はまだ大和の言葉はできていません。雑多な混じり合った状態だったでしょう。しかし、長年の自分の腹と意識をを見つめる結果を突き合わすと一定の枠内に収まってきました。

と同時に雑多な発音も安定した五つの枠内に落着かすことができたのです。そこで見つけた、発音も五つしかありませんでした。そしてその対応も完成させて行きました。それが母音で、腹によって受け取られる側が半母音となりました。

古代大和の聖人たちの研究が進み、とうとう実在世界とその反映、頭脳内の世界が現れるには、身体・腹の物象世界の反映が必然であることから、

五感感覚の次元、それに対応する発音は、ウ、であることを見つけ、

知識記憶概念の次元、それに対応する発音は、オ、であることを見つけ、

感情情緒の次元、それに対応する発音は、ア、であることを見つけ、

按配選択の智恵の次元、それに対応する発音は、エ、であることを見つけ、

意思創造力発現の次元、それに対応する発音は、イ、であることを見つけ、

ここに人間の世界は五次元であることを確定したのでした。

こうして、心の全事象世界が五つであることが分かりました。生きていく世界とはこの五つの世界であることが分かりました。ですが、これは内的外的な人間の全世界をいうもので、言霊イの意思の世界は人間自身が受け持っていてそれ自体は外在化しません。意思の世界は人間の頭脳内に常に留まっています。

そこで意思の世界を除いて、外在化した世界を見ると四つあることになり、これが四、世となり、現実娑婆世界を指すこととなりました。

ここに人間が生きる=五きる世界が成立し、この五つの上に全ての人の心が乗っていくようになりました。この五つの世界に誰でもが乗っていれば全員が通じあえるわけですが、ここに心の個別化がまだできていません。

つまりここまでなら、心の次元層の分類ができて、どの次元の話になるのかはわかるようになりましたが、まだ現実の個別的な事象に対応して声にはなっていません。自分が生きる次元世界が分類されただけです。

こころのうごめきが腹の心に伝えられ、心の腹圧が高まります。こうして、心にあるものは心の腹圧となって腹や胸に蓄えられ、感じられていきますが、心が動いているというだけで、どのようなものかははっきりしません。

そこで、心は心の腹圧が気道を通して上がって動因となり、一方舌口蓋を変化させて声、言葉となって現れる道筋を見いだしました。ところが心は物質でなく目に見えませんし、自分の心を確かめ相互に確認了解するには物質の形になり、現象となった形をとらねばなりません

それを確認し合うのが言葉です。言葉の出所が物質と結びついていることはその表現は物質の条件運動に従うということです。

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13-6-1。腹母音。母音と半母音。「ウ」の発生。

母音は呼気の流れが邪魔されずそのまま出てきて鳴りっ放しですが、その母音が実在世界の何に対応しているかです。あるいは実在世界のどこから母音が出てきたのかです。

母音は沢山ありますが、沢山の母音を実際に一音で現すことができませんが象徴的に現すことはできます。それが象徴として現された天の御中主の神(言霊ウ)です。布斗麻邇御璽(ふとまにのみたま) という図に示されている〇に・(ちょん)が入っている図です。同じ天の御中主でも言霊ウの働きをしてる時は四重まる(ウオアエのこと)に・(ちょん)が入っています。

しかしそれは表徴として語られた場合のことですので、まずは実在との関連をさがしてみます。そこで前回は腹と腹の緊張や声帯とか皮膚とかの生理的な結びつきがあるということを示しました。一つ一つの事例は各人の追体験で実証してもらうわけですが、例えば、わぁー楽しい、というときの、わぁーと、わぁー哀しいわぁー寂しいというときのわぁーは、全く別の感情を現しているようですが、わぁーアアという感情表現があり、ここにある共通な一般性である「アー」を体験するということです。

母音世界は客観世界と同様に鳴りっ放し在りっ放しの時空共に無限の世界です。しかしここに人が出てきますと人の肉体上の制約制限から有限界が生じてきます。あーーの発生が無限に続くといっても身体の受容限界を越えればそこまでどまりです。その後は機器のお世話、科学技術のお世話にならなくてはなりません。

ここに人間の機器を使ってでも無限に到達しようとする意志と常なる制限を受けいれる精神世界があります。結局母音世界の心にも片や無限、片や有限のこころもちがこもってきます。言い替えれば人も自分も外の世界も無限であることに気が付いたということは、無限という限界を納得したということです。

無限という有限に行き着くことは日常生活上でも普通のことです。感じ考え思い付くだけのことをして無限のことをした、もっと上手にいえばあらゆることあらゆる手だてを尽くしたといいますが、その人の有限をしめすものです。

おそらく、ここに母音が発生します。

実在客観世界は無限の物理的な力の作用反作用の世界でそれ自体独自なものですが、ここに人がかかわり始めるやいなや、物質世界の無限の自然な世界が人の性能によってそれぞれ有限のかかわりとなります。

しかしこれは有限な人がかかわり合うからというだけではありません。無限持続の時空にかかわる人間側に、相手と同じ無限の時空が実在していなければ何のかかわりもできないのです。人が無限でなければ客観無限世界にかかわれない、同じ土俵に立てないと言うことです。

この土俵が母音なのです。では実際に母音のなにがどのようにかを見てみたい。

最初は母音世界全体です。何々の母音という判別できる以前の総体としての一塊です。まだアとかイとかウとかに分別できていません。朝目覚めた時の、目を開けるその一瞬の前にある世界といったらいいでしょうか。その一瞬前の世界には宇宙世界の全時空と本人が詰まっています。

古事記ではその全体を象徴して全母音世界である天の御中主の神、言霊ウと名付けました。(続日本紀では「中今」)

これはウオアエイと分離された母音の一つのウではありません。全世界の象徴である言霊ウです。人のように成長する上昇循環重層構造体なので、ウで始まり五母音になりウで統合されていくように、五母音の内の一つとなったウの発生はまだ後々のことになります。世界の無限を象徴する言霊ウのことで、

ひふみ神示では、チョンであったり○であったり、○チョンであったりとその時その場でいろいろ変化しています。

その無限を有限とする言霊ウの天の御中主の神で、後を振り向いて自分を見る、立っている所から前を見る、上方から鳥瞰して見る、今の立っているところを見る、等の取り方の相違からどの母音もそれぞれの位置づけが始まります。

世界の無限を象徴する言霊ウが産まれました。とはいってもそさだけでは、象徴を話しているだけで勝手ないい加減なことを言っていることとなんら変わりません。問題は人間側に実在する無限の実在を示すことです。

象徴がウだからといってもこれは「う」という発音をまだ示していません。言霊ウはこの世の世界宇宙に意識の兆しというか、人がかかわることを始めるや否や人の精神宇宙に目覚める無限への感情です。実際の場面に注意していくと、まず物事の意識の始めの兆しに現れるものです。

例えば実験してみれば、一秒の何十分の一秒以下の時間に視覚ならば視覚に現れ固定される以前の世界のことです。視覚を移動して次のものを見る時の見たという以前のできごとになります。そのときにはそこに有るものは何であるのか判断を下し与える以前の世界があります。ぞれを引き延ばすと、そこに何々がどういう状態で何故あってそのあるものの性質はこういうものでという後からつけ加わる固定され規定される全ての時空が含まれている状態です。

朝日の昇るのを見てその感動の瞬間に発声される声の直前に、確かにある母音世界のことです。この状態は後に人の性能の五つの次元に対応していきすが、当面の今は一塊の全体世界です。古代大和ではそれを言霊ウと名付けたのでした。

今までの始まりは、アメツチの「ア」だったのに突然「ウ」になったりして話が違うと思われるかもしれませんが、「ア」は意識の始めで、「ウ」は始まる意識の前提です。ところが「ウ」にはまだその始めがあります。

それが「ス」です。いずれも象徴表現ですが実体を現した象徴表現です。

例えばを示しておきます。

充電された電池があります。繋がれていなければ何もありませんが、エネルギーは充満しています。静かに済んだ動かない「ス」の状態です。それが繋がれれば動くか動かないかそのうごめきがある「ウ」を経て、そこで動きか不動か、こっちとあっちの違いが明かされる「ア」となります。

この一連の過程は常に何ものかの動因の下地による支えがなければ、どの時点においても不可能となるものです。その動因を始めから全過程を通していざなっているのが「イ」です。

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13-6-2。腹母音。無限。

さて、何故これが母音のウになっているのか。実際に発音される「う」になるのかが証明されなければなりません。

在りっぱなしの世界が心の在りっぱなしの世界と同調共感した様子を、兆しとか兆しの始めとか言いましたが、実際の流れは兆しの連続持続です。兆しだけがあるのならその後に出るものはありません。それだけのものです。

兆しだけでそれだけのものというのは、単に概念で言われているだけです。何故ならそのものとして現象になって現れていないのですから、五感の対象でも無く経験知識の対象でもなく記憶としてあったものでもなく、ただの観念です。

しかしそのような兆しをもたらしその後に意識の対象となって、現象して五感、感覚の対象となるものです。現象としては無いけれどその元となってあるあるもの、観念だけど観念を生み成した元の上に出来たもの、記憶ではないけれど記憶となってでてくるもの、そういった心の前世界の姿があります。

これを先天の実在といいます。

意識の対象となったものではないけれどその始めの兆しを示しているもの、生まれ出てくるうごめきの動く動因として実在しているものです。

母音の響きをチャクラや丹田に伝えるのは発音された音声の現象したものの世界ですから、ここではその逆に母音を発生させる方向を取らねばなりません。あるいは最初から発声があってそれに自己表出とか指示表出とかをくっつけるのがありますが、母音の発生の根拠を示していませんので、実在の根拠を探す必要があります。

探すものは、この実在の根拠となるものが鳴りっ放し在りっ放しの無限、きりがないこと、いくらでもあることの人間性能への反映です。実在とは言っても実体現象となる以前のもので、自己表出され指示表出されるもの以前のことです。表出されるものが有るということになるとそれは既に現象となったものです。現象から始めると混乱しか起こりません。

自分の感じる心、思う心を両端に開いた松葉の根元に戻さねばなりません。このなになにしっ放しの無限となっている根元が母音です。全ての産まれる元となるものです。

しかしこれを発声に取ると声帯や胸や横隔膜からは母音はでてきません。確かに出てくるのは声で母音となって発声されますが声は肺活量によって途切れます。

ではどこに鳴りっ放しがあるのかというと、腹に在ります。

声は声帯と横隔膜だけで発声させるのではなく腹が働いています。この腹を注意して見てください。肺の呼気は直ぐに終りがきて、発声ができなくなります。そのときの腹を見てください。

声が終わっても腹の緊張は続き腹圧に変化がありません。声はと切れ肺ははあはあ言って大きく胸が動いているのに腹は静かなものです。同じ緊張が持続しています。それどころかこの腹の緊張の持続によって同じ母音の継続が可能となっています。あるいは声を出さずとも腹の緊張腹圧は緊張させっ放しにすることができます。

もしかすると全身の皮膚とか毛穴の開閉だとかも関与しているかもしれませんが、確認できません。

この腹から母音が産まれます。

腹の重要性は全ての分野で言われていますが、結果現象を産むことは経験的に分かってはいても、先天のこころの動因がここにあることを明確に示すことが必要です。胸横隔膜を使って発声となる以前の人間側の実在世界がここにあります。ぜひ腹の緊張持続する無限世界を味わってみてください。

呼吸に応じて腹は上下し、声を出そうが出すまいが、腹に緊張が産まれない時には人は何もしていません。そしてひとたびこころの緊張が腹に生じたならば、腹は世界を相手に世界に向かい世界を受けいれる腹となっていきます。

こころの先天の領域は腹に在り、この腹のうごめきが揺すり揺すられその動きがいざなわれると心の兆しが産まれます。

古事記をみてみます。

【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。】

この段落は直接には現象子音が発生した後のことですがここでは母音の発生に該当させます。ここで【葡匐(はらば)ひて】といっています。腹-這いで謎解きをすれば、腹-映えのことで、腹の緊張が心に映えてくるということです。哭(な)きたまふは勿論鳴く、発音することで、腹の内部の緊張に合った心の同調を求めて心と腹の映えてくる音との関係を研究検討をしたということです。

そこで見いだしたのは腹の緊張を起こし心の同調映えを起こすものが有るということで、それを泣沢女(なきさわめ)といいますが、不通に言われている悲しみを現す女ではありません。腹と心の同調反映具合を起こす為に鳴き発声して音と心の一致を求めている父韻のことです。(男か女か気にしたければ男ですよ。女の方に泣くことが多いので泣く-鳴くにかこつけて「女」という字で現しただけです。)

さて母音の発声を求めて実際の発声器官を越えて腹にまできました。腹の緊張にみられる無限性が母音の無限性に対応しているのです。

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無限。

母音が無限だとか腹の緊張が無限に対応しているとか、おかしなことを言っていると感じているかもしれません。人の寿命が有限で有限の世界しか認識できないのに、どこに無限があるのでしょうか。観念だけの遊びのようです。

無限とは今現在のそれぞれの方向への可動性のことで、過去に目を向ければ知識記憶の範囲内で幾らでも遡行できる範囲の可動性をいい、未来に目を向ければ今の立場を可能にする範囲内で前進できることをいいます。

またそれには今に留まったままの無限といういい方もあり、その時は水面に波うつ輪の広がりのようにその中心には波の広がり全体があるという感じになります。

「神を絶対無限の存在者」のようにすれば、過去現在未来全部をカバーしてしまうことになるでしょう。

過去方向へ無限を見ると、幾ら頑張ってもその人の知識の範囲内に留まり、そこから飛び出たものは意識の向こう側に概念として形成されます。神とか霊とか宇宙の次元だとか、意識の外に行ってしまった言葉は幾らでもあります。そういった言葉も記憶として返ってきますから、何の経験の裏付けもなく何々は無限であると主張できるようになります。

そこで言われる外のことは、無限の向こうにいるあるいは在ると、何ものかが分かったようなことをいいますが、単なる過去概念の記憶をこすっただけのものです。各人の確認できる範囲を超えた向こう側の無限の世界のことですから、正直にわからないと言えばいいのですが、そこには、拝むとか信仰とか安心とか感じるとかの心の要素がまた重なってくるのでそう簡単に断定できなくなっていきます。

未来の方向に向いた無限も同じことで、過去の繰り返しの該当延長できる範囲までは分かるけれど、そこから先は、何かの存在がいるとかいないとか、あるとかないとかについては、全然わからないくせに、繰り返しの該当する範囲を超えて一般概念化していきます。在るか無いか分からないところなのに、感知できないところは過去経験で補ってしまっていきます。

これらは経験の裏付けの在る無しから言っていることですが、実はこの接点を超越して過去方向にも未来方向にも無限が実在しているのを知ることがあります。今までは知識記憶を元として時間軸を設定して過去未来の無限をみてきました。そこではワイワイ騒ぎながら自分の考え主張を言う世界でした。

論理の緻密さとか知識量とかがものを言い相手を喰う世界でしたが、全てが過去の記憶の借り物を密輸して成り立たしてたものだけです。構成された文章を読んでいくと何か個性的な主張のようなものがありそうに感じますが、どこにもその人が独自に打ち立てたものはありません。このブログも同じこと。

さてところが、それらのドングリを超える立場が、誰にでも普通にあります。その始めが感情です。情緒感動情感等々です。前もって言っておけば、それらはその最高段階になれば宗教の愛となりますが、宗教人になってしまうとそこで終わりです。愛の心持ちが単なる始めの一歩にしか過ぎないことを忘れてしまい、慈愛をかざすという逆立ちが起きます。後に言及されるでしょうから元に戻ります。

感情は普通の人間性能ですが、一度それを掴もうとすると、とてつもなく次元のひっくり返った様相を見せます。例えば今この文章を読んで何らかの感情が起きていると思います。何も感じないよ、また法螺か、確かにそうだ、感情は大切にしましょうとかの思いにそれぞれの何がしかの感情がこびりついています。その時の感情を一度知ろうとしてみてください。つまり借り物ではなく自分の感情であることを確かめようとしてください。

と、こんな事を書き読んでいる内に、先程の感情はもう消えているでしょう。ぼやけているか、新しいものに取って代わられたか、思い出せもしないかもしれません。感情というものは今現在から先には生きられないからです。

自分の感情を捕らえてみてください。いつでも先程の感情はと、過去のことを言い出すはずです。感情は今現在に生きたとたんに過去となります。そこでどうしてもつかまえようとすると過去へ過去へと幾らでも後退していくことになります。知識概念が過去を扱っているにも係わらず常に今を今を捕らえようと努力しているのは真反対です。

感情を捕らえようとすれば過去に赴くだけでなく、その感情の起承転結を捕らえようとすればさらに過去以前へと後退していかねばなりません。もちろんたまには新鮮なまま感情を保つこともあります。深く大きな情動などがそうで、愛や見神もそうなるでしょう。

しかしそうよくよくあるものではないし、また続けるにはある種のテクニックがいるようです。つまり常に自分が起きている、起こされていることを自覚しなくてはならないので、過去へ後退することと今起きていることが同時に在る世界になりますか。

この過去と今が同時にある世界に注意を促すのを宗教は得意としています。超越者が今ここにいるかのように扱います。そのために使用されるに適した言葉が「あ」で、「アーメン」とか「アミダ」とか「アッラー」とかの、「ア」を使用していきます。「あ」は今現在の全体を示し、あるあった、ありがたい、あっ空を見ろ、あっ痛い等々の現実在に常に連れ戻してくれます。

そこで「あ」を自覚していきますと、その「あ」には過去の全体も含まれ、未来に向かう全体をも含んでいることを感じられます。つまり「あ」という母音には、その「あ」が示す現象とその現象以前以降の全体、つまり無限を示すことが出来ているようです。

「あ」で示された現象はいずれ消え消滅し、何も無いと言える状態を想定しざるを得なくなります。現象は見失っても、不思議なことにそこには「あ」の何ものかが残っています。捜し物を見付け「あった」と叫んだり、神を見て頭を垂れたが二度と神とは会えなかったり、あっ車が来る危ない、というようなとき、現象としては全て過ぎ去ってしまいますが、記憶として残るものの他に、あの時の「あ」であったが今でも「あ」であるものが、実在していきます。

「あ」の無限性の一端を示しましたが、まだ他にも母音はあるのでそれも示さなければならないのですが、別の機会があることでしょう。母音「う」から始まっているのに、何時の間にか「あ」になってしまいました。

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13-7。腹母音。「片手の音」。半母音。

今回は受動側から見たものです。半母音。

白隠が修行者たちを前にしてこう言った。

「隻手声 (せきしゅのこえ)あり、その声を聞け」 (大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか。その片手だけ の音声を聞け。)

実際にやってみれば出来ませんが、音にこだわるならば指を鳴らせば音は簡単にでます。両手でなく片手を床なり腿なり適当な対象と合わせれば音がでます。また両手を叩いて音を出した後に記憶に残して片手で音を出しているつもりにもなれます。

数十年前におぎゃーといった自分の泣き声は非常に微弱になっているとはいえ未だに宇宙をさまよっています。人の足を踏んでしまい痛いと言われて顔を見つめあったときの運命の初恋の声はいまでも聞こえます。

頓智や物理学や記憶などで答えればそれぞれなるほどとなります。それらに知識の釉薬や仏教の専門用語を塗れば結構な文章になるでしょう。

感性とか心で聴けとか、片手では音はでないから無音だとか、色眼鏡の言葉での判断を捨て分別を捨てこだわりを捨てて聞け、なんていうところが坊さんたちの解答らしい。勿論分別を捨てた判断解答をするということ自体はどうなる、とつつかれますからそこは以心伝心無音を聞くという風に逃れていきます。まあ、頭の中ではその積りになれますからそれで安心もできますが。

白隠さんがどんな積りでどういったかは知りませんが、半母音からの解答です。

この問題は両手というのはわたしとあなた、主体と客体、見る側とみられる側、分別する方とされる方、等々対になっているものならなんでもいいのです。対、陰陽、表裏になっているけれどこだわりがあろうと囚われ偏りがあろうとあるまいと、現象としてそれらを見てしまわないということです。

主客の陰陽となっているものは別にこだわりや分別があって両面があるのではありません。

わたしとあなたが抱き合っています。あなたは座を外していなくなりました。わたしは一人であなたを抱いています。握手する練習をしているでもテレビを見ているでもどんな日常行為でも同じです。こっちとあっちで一つの円環 = 和・輪ができていることなら、その状態の如何にかかわらず成立する問題です。

その片方だけの声を聞けというのですから、こだわり分別を捨てる心で聞く感性で聞くなんて言い出したら駄目ピシャリと叩かれます。思慮分別を交へず見聞覚知を離れて聞く、というのが一つの自分と対象との行って帰る環状の上に乗っているものを既に分離しているものだからです。

行為してしまえば簡単に音は出ます。片手で師匠の頬を打てばいいのです。

問いではわざと主客の和・輪を成立させていないのです。輪が成立していないのに聞いてみろというのです。聞くに関しても本当は聞く側と聞かれる側があるのですが、聞く側の主体行為のことはこのシリーズの始めから述べてきていますので、まだ残っている聞かれる側 = 半母音を取り上げます。

両手があっても手が勝手に打ち合うわけではありません。意志の介在があります。この意志の介在があれば膝を打つ頬を叩いて音を出すでも構わないのですが、その時は質問が手を使わないで頬を叩けみたいになるので、白隠さんはそうしなかっただけです。同じ構造の問題です。

今までは主体側の母音も客体側の半母音も、その両者を介在する父韻もごちゃごちゃにした形で書いていました。これからはそうもいきません。(本当は分かっちゃいないのでうまくかけないだけですが。)

もう一度手を打って音を出すことの形を見てみましょう。一般的な形では、手が勝手に合わさるのではなく、叩くという意思の介入があります。そこで音が出る出ないは結果現象に関するものです。この過程だけでも細かく見ていけば様々な途中経過が在るのでそれを全部書くことは出来ないくらいです。

手を打って音を出すという意志行為を主にすれば、片手で音を出すのは簡単で、指を鳴らすでも、膝でも頬でも床でも机でも師匠でも叩けばいいだけです。音が出る手を主体側とすれば、意志行為が手の動きに乗るあるいは意志に従って手を打つことになります。問題は音を聞けということですから、手の受動側の相手は音になります。音の受容器官は耳です。客体側の耳は音を聞いても主体的に音を出す方ではないので、永遠にただ待つだけです。

通常は意志と両手と音(耳)の三者が揃って円環が整うわけです。片手で打つ音を聞けと白隠さんがいいました。ここで円環を主体的に誘う両手を片手に変更しています。それでも音を聞けというのですから、前に言ったようにすれば、音は幾らでも聞けるわけです。

音という現象、出来上がった現象、分別を捨てろという現象、感性で、心で聞くという現象に囚われれば全部アウトです。というのも、受動側で現象を創造するのは意思の働きかけとそれを受け持つ主体側がなければ何も成立しません。ですので現象の形態を幾らあれこれ述べ立てようともともと成り立つものではありません。

現象は主客、自他、わたしとあなただけでは成り立たず、その両者間を行き交うものがいります。この三者を神道では造化三神と言っています。

わたしとあなたがいるから目と目があって握手をしたのです。あなたがいなくて手が無ければ差し出した手を掴んでくれる人がいません。しかしあなたさえいれば、握手だけが意思の疎通を促すものではありません。

何故手を差し出す行為ができるのでしょうか。何故リモコンのスイッチを入れればオンになることを知っているのでしょうか。盛り合わせの寿司を御馳走しましょうといわれ、何故とっさに大好物のイカがあるか気になるのでしょうか。両手を叩けば何故音がすると知っているのでしょうか。

これらは公案風に言えば、手を出さず握手をしろ、電池を抜いたままオンにしろ、イカ抜きのイカの寿司を喰え、片手の音を聞け、という風になりますが、人の五感が働く時、記憶が出てくる時、按配選択をしようとするときその相手対象が無いのに主体側は自らの行為を遂行せよということです。

実際の行為で答えるなら上記の頓智みたいな答えになるし、心持ちで答えたければ、その時の相手対象が無い自分のこころもちが答です。白隠の問題は聴覚ですから、そのときの心持ちで聞いた音が答になります。しかし実際には自他、主客との往来はありませんから、心持ちで聞いたと言うことも無く、あるのは先天的に自分が得ることのできる相手対象のことになります。

この得ることのできる相手対象(客観、客体、あなた等相手対象をさす言葉)はその人自身、つまり自分自身にあるものだけしか自分の相手対象としません。自分の中に無いものは自分の相手にならないのです。握手を知らない人は相手がいても握手ができないのです。でも握手を教えれば誰とでも可能になります。つまり主客の円環を作ることは最初から無限の可能性の在る世界が作られています。

何にしろ、そのときの先天的な自分全体の受け取ることのできる統体が片手の音を聞くことの解答です。先天の半母音といいます。これは自分の中に先天的に客観的に成り立っているものです。主体的な母音側が見つけることができるのはそれに応じた自分の中にある客体側の半母音ということです。

ですのでその人だけに限っても答えはその人の主体側の能動意志に応じて、幾らでもあります。禅の方からは分別意識の囚われを主題にしたいようなので、分別妄想を打ち破る方向へ持っていこうとします。思い込み妄想を捨てろといいます。無い音だから無のことだといいます。

分別は別けて分かる、分けるから判ることを言います。でも分かったときは現象の現れが分かるということで、両手で叩けば音がするという現象を指しています。それを白隠さんは現象とその前提となるものをごった混ぜにするという公案の手口を利用しました。

ですので本来ならば禅の公案は解くものではなくて、設問の不備を指摘して正しい問い方に変えればいいものです。現象を生ずる両手の片方をもぎ取ったわけですから、現象方面のこと、音を聞くとか音が出るとかのことは放っておけばいいのです。それを坊主たちは真に受けて現象のことを考えるからとんちんかんになります。

では禅仏教において現象を生ずる以前の世界について教えているかといえば、悟れば分かるというだけです。そんなことに一生かけたり腕を切り落としたりするのですから、呪縛されるというのは余程のことなのでしょう。普通の日常では、現象を生じたければ簡単に解決しています。片手で師匠を叩けばいいだけのことで、坊主だけがそんなことは出来ないという分別の妄想を持っているわけです。

現象を生むには意思の介在がいりますが、意志のことを話さなくても存在する世界があります。それが母音世界と半母音世界です。母音世界は主体側の心と結ばれればすぐに現れてきますが、半母音の相手対象世界は主体側の働きかけが無ければあらわれません。それでも片手の音を聞けという無理な注文をしています。要するに注文の結果を持ち出すと埒が明かないので、注文できる根拠を示した方が早いことになります。

間違った設定をして質問しながら真面目な質問としてしまうわけですが、このトリックを明かせば、主体側の能動と客体側の受動とを取り違えることから起きます。手を動かし打つというのは、その結果どうなるのかという客体側の現象結果については、受動側が存在しなければ結果を出せません。そこで結果を示せと言われるわけですが、人間には結果側の世界が独自にあります。

この公案では音になっていて、音に関しては幾らでも喋れるわけです。この幾らでも喋れる音を主体側の能動行為と切り離して、音を出すとか聞くとかしてしまうとそこに主客の乖離した世界があらわれます。つまり受動側だけの世界を主張しろということになります。

古事記ではこれを受動側の「女人先立ちて言える」と表現していて、主体側の内容(霊・ひ)の流れ去った(流・る)現象創造(子・こ)で、蛭子を生むといっています。

ところが人間世界にこの蛭子の一般的な現象世界が在るために、簡単に通話が通じていくのです。(蛭子の世界で後述)

このように主体側、客体側それぞれの世界があり、能動主体側から客体側を見て在るけど結ばれない世界を空即是色といい、客体受動側から主体側を見て在るけれど結ばれない世界を色即是空といいます。フトマニ言霊学から見て不完全な世界ですからこれらは統合され、和を結ばねばなりません。仏教では般若心経に概念的な経文を載せていますが、フトマニでは古事記の冒頭十七神によって実質内容構造を示しています。

それには主客の間を取り持つ父韻というものを考えなくてはなりませんが、もう少し母音の話が続きます。

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13-8-1。腹母音。不似と似。事実と内容。

こころを尋ね母音を尋ねてわけの分からないことを書いていくうちに悟り、空の話になってしまい、さらに混沌としていることと思います。その上さらにそれを混ぜ返すようなことが続きます。

本来なら簡単明瞭に図式にしてこうこうだと言ってしまい、後は読者に任せればいいのですが、お節介な余計な説明したい欲求が出てしまいそれに従っています。

数千年来、心とは何かと問われ追求され答えられてきましたが、終わりがありません。空とか悟りとかを知ることも心のほんの一部の働きでしかないけれど、前宣伝が大きすぎるためか一生をかけたり、そのことだけが獲得目標になったりして、そのために生涯を費やすことが起きています。

ネットで心の図式を探してみました。広辞苑は以下のようなものを挙げている。

・人間の精神作用のもとになるもの。

・人間の精神の作用そのもの。

・知識・感情・意思の総体。

・おもわく。・気持ち。・思いやり、情け。

・他に 趣き、趣向、意味、物の中心、等。

またあるブログでは「心は最広義では価値世界と概念世界の全てであり、広義では概念世界を指し、最も狭義では赤字(・)の部分を意味すると考える。」となっています。

価値世界 概念世界 事実世界

客観(間主観) ⇔ 心 ⇔ 実在

・信念 ・意志 思考(理性) 経験(知覚現象)

・規範 認識(意味の他者と言語による社会的認識:悟性)

・知覚(五感)

・感情 ・感覚(体性感覚。例えば痛み)

・記憶

(「心の哲学(4)円環運動」から引用)

こころにはこういうこともあります。物に心を託したけれど、ぞんざいに扱われるようなとき、その物に託された心はなんでしょうか。

それぞれ十人十色で引用すればきりがありませんし、それに手を貸せばわたしも溺れていくでしょう。どれをとってもそれぞれあることですし、それなりに正解ですから、後はお気に入りの選択だけになってしまう感じです。

このブログでは古事記の冒頭を心の原理としていて、神の系列だとか古事記の神だとかの話は出てきません。神という名の心の話です。

そこで心の原理を見取り図風に図式風にしたいのですが、図式の作り方が分かりませんので、

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/chart/chart.htm

を借りて心の構造の見取り図とします。

この図は人間の心の原理中の原理みたいなもので、大和日本だけでなく人間であることの原理を現した秘宝です。ただこの図式には、図式という制約上平面になってしまうのでこの原理が動いた立体的な姿は現れていません。また、原理というのは現代語ですが、わたしが勝手に言っているのではなく、古事記では「天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき」といい、その心の支柱と御殿をいったものです。

カタカナは古事記の冒頭の神に順番通り対応しています。対応の根拠は古代大和の聖人たちが何世代をもかけて研究したものですが、書き物として皇室の賢処に秘されています。これが公開されれば実質的な岩戸開きとなるでしょう。しかし民間では既に研究対象となっていて、このブログもアイウエオ五十音と神との対応を解説しようとするもです。

この図で原理というのは、例えば「あ」を発音しようとするとき、「あ」の準備をして「あ」と発音して「あ」と聞いて「あ」と了解して「あ」と記憶され「あ」の宇宙となるそのたったの一サイクル、「あ」だけの一サイクルを示したものです。ですのでこの古事記の原理に動き広がり流通する内容を加え理解しなければなりません。

ところがこの原理(支柱と御殿)の凄いところは、動き広がり流通する内容が原理の中に内包されていることです。回転こまの軸をこの原理とすれば、人の心は広がり大きくなるこま全体です。この回転は図で言えば、図の最後に在る上下のアイウエオ百枡全体が、先頭にある一つの「ウ」になる循環上昇関係(ウ=百)となります。

上記に引用した心の二例は何処をとってもこのフトマニ言霊図のどこかに該当し、また恣意的に図として抽出し描かれたものとみることができます。今進行している腹母音の章はこの図では先頭の「ウ」の始まりを、この原理全体の流れに従って書こうとしているものです。

簡単に流れを追うと、こころの先天から始まり、それぞれのこころの領域を通過しつつ、心の要素を用いて表明しまた先天世界に帰るとなります。

この元に戻ったときにあらわれる姿を、日月神示の冒頭では「二二ははれたりにほんはれ」といっています。翻訳では富士は晴れたり日本晴れ、となっていますが、これは日月神示が心の内容を現したものであることを知らずに言葉を配当したためで、「二二」というのは富士ではなく、「不似・ふじ(似ていない)」のことです。

富士という訳ではせいぜい不二を連想して見事な山があるというだけで、心の内容はありません。それを「不似は晴れたり」にすると、心とその表現行為、思っていることと言っていることの「不似」という似ていないことが晴れて、全うな心持ちになるということになります。こころとそのあらわれの両者に如何に和をもたらすかというのが日月神示全体のテーマです。

古事記にはよく「国」と出てきますが、これも「クニ・組んで似せる」ことの象徴表現で、冒頭ではアの目が付いて地になる、あめつちのアの意識の目が、国若くふらふら浮かんだ油のようなものを、組み似せて固めていく過程を示すぞとなっています。

続いてすぐ、イザナギとイザナミのつまり自分の心のまず行う仕事として命令されたものが、「このただよえる国を修めつくり固め成せ」で、天津神に似たものを自分の心に構築せよとなっています。

似ていないものを似せる、それを似せて組んでいくことが心の動きになります。フトマニ言霊図では始めのわけの分からない「ウ」が心の過程を得て全様相が明らかになったとき、それは「う」となることを示していて、古事記の百番目の神である建速須佐之男が「海原」を治めるとなっています。海原というのは「う」の原ということです。御中主から建速須佐之男で、ウからウの一循環が完成するとなります。

さてもう少し「不似は晴れたり日本晴れ」について書きます。

ここでは日本晴れとなっていますが、これも本来は二本晴れが正しく「不似は晴れたり二本晴れ」がよりヒフミ神示の意に沿った訳です。しかし「不似は」なんていう訳はヒフミ神示の内容分かっていなければ、余計に混乱をもたらすものですから象徴的に「富士は」としておけば、聞き応えはいいものとなります。

不似というのは感じ考え思ったことでもそれを言いあらわすと、自分でも違ったニュアンスを得たり相手に対してはまるで反対の解釈をされることがある、ことからもわかると思います。この思っていることと言ったこととの間が両者にとって明瞭であれば不似は晴れたり、わたしとあなた、こっちとあっち、の二本もすっきり爽やかということですが、言葉を用いた表現は常にそうはならないというところがあります。

この表現の内容と示された事実との間に乖離があって十人十色ができてしまう構造を解決しようというのが古事記やヒフミ神示です。人はそれぞれというのが当たり前の前提としてあると思っていますから、そんなことを言えばとんでもないと思われるでしょうけれど、それができてしまったからこそ古代大和の五千年以上前からの、心人間の秘宝として伝承されているものです。

肝心なことは言葉の、頭の中の、心の、思いの、考えの、感じの、内容は事実ではないということです。禅問答で小僧に頬を打たれ師匠は「痛い」と言いました。丁度部屋の閉まった襖の向こうを歩いていた茶坊主がその師匠の「痛い」という声を聞いて、お師匠さんまた腰を痛めたかなと思いました。これで分かるように「痛い」の言葉の内容は事実を現していないのです。

言葉の内容をそのまま事実としてしまうと、茶坊主が聞いた「痛い」の内容は腰痛になってしまいます。人は普通自分の喋っている内容は事実として喋っているつもりです。しかし全然そんなことはないのは聞いている人の感想を聞けば、全部自分と違うと気づきます。

裁判などはわざと事実と内容を切り離したり、都合よくくっつけたりします。両者共に事実として認めても、私の内容としては認められない、なんていうことはざらです。これが「不似」で、似ていないことがそのままでは晴れない、今までの考え方認識の仕方では明らかにならないということです。

わたしでも誰でも一生懸命書いたりしていますが、書き上がったことが内容を現した事実と感じています。ところがそんなことは全然お門違いだというのは読み手の立場になれば分かります。良くも悪くも勝手に解釈され、理解もされず事実として通じてもいないということが起きます。

心を扱うのは直接その人の経験が扱えますから、喋っている内容をそのまま事実とし易い。事実と内容は似ていながら似ていないと言うより、内容は事実ではないのです。事実となる以前に内容があります。

これに対して馬鹿言うのじゃない、事実があって内容があるじゃないか、まず富士山があって、その内容を話すじゃないか、御来光があって、神がいて、自分の子供がいるからそれらのことを話すではないかと言うことでしょう。しかし落ち着いてください。

名は体を現す富士山があるから富士山といい、名は体を現す子供がいるから子供についてのおしゃべりができるというでしょう。では一言うちの子供はこうなのよと言ってみてください。それは事実ですか。先生の評価は、遊び仲間勉強友達の評価は、隣のおばさんはなんと言うか。

それに対して全部の事実とか一部の事実とか個人的とか言うこともあります。あくまで事実があって、部分的な事実ながら内容を指したものだと言うつもりです。これでは内容とはいつでも部分的で個人的なものになってしまいます。それでも事実としてあるのがまず先だと言う意見は変えません。それは部分的で個人的でないかのようです。

ここで主張されているのは事実とは実は事実ではなく、人間の向こう側にある何だか分からない客体側世界というだけです。人間の意識とは関係しないあっち側のことですので、喋りようがありません。富士山を知らない人に富士山と言えば、それを聞いた人は自分の知っているだけの記憶概念を総動員して答えるでしょう。「ああそれは蝶々のことだね」

それを聞いた地質学者は富士山と言うのは休火山なのだよといい、それを聞いた富士信仰者は神の住む山だと言い、それを聞いた画家は単純すぎるフォルムで絵にならないものだよといい、素人写真家は幾ら撮ってもまだこれぞというものは無い山といいます。

こうなってくると何処に事実があるのか分からなくなりそうですが、これらの発言の共通点が事実となります。こういうことです。

事実として山があるとか無いとかではなく、そう言った内容を持ったものが事実です。まず内容ができて出来上がった内容を表現するのです。ですのでその内容が事実とされるのです。

まず客観実在として富士山があるという主張に当てはめれば、客観実在としてある、というだけがじじつとなります。雄大だ、神々しいというときはそのそれぞれが事実となります。こうして事実となる前にまず内容ができて、その内容が事実となるのです。ないようは変化生成消滅していきますから、事実もそれに従っていきます。

人間の向こう側にある物に内容が与えられたときに事実となることができます。新しい現象の発見のときなどはまず、ある、ということだけが事実となっています。それから先のことはまだ事実不明なのです。内容がどんどん明かされるに応じて、どんどん事実に似てくるというわけです。

内容が事実となっていくことを次に探ってみましょう。

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13-8-2。腹母音。心道。先天の半母音世界。ぅ(w)+母音。国=クニ=組んで似せる。

言葉の運用では喋っている内容が即事実ではなく、内容を持ったものを事実としていくのです。今わたしは上記の一文を書き上げましたが、書き上げた文章が事実ですが、事実が文章の内容ではではなく、内容を持ったものあるいは内容を持たした事実としたものです。火星に水があるというは、火星が水ではなく、水が火星でもなく、火星に水があるというのが事実で、水が火星の内容ではありません。意見主張というのは勝手なもので、喋った内容をそのまま事実としがちです。

意見交換論争討論などをみていれば分かる通り、それぞれ内容は出てきますがさっぱり事実となりません。政策提言などは最初から事実としないことを内容としている始末です。ではせっかくの内容があるのに事実と何故ならないのでしょうか。ここにも最後の一厘を超えるということが出てきます。第三者となって当事者間に了解されることです。このような当事者間から独立したかつ両者に了解される、第三者としての事実を作る存在が事実となるので、内容がそのまま事実となるのではありません。

では腹母音に戻って先天の半母音世界をみていきます。

わたしの相手のあなた、陽の相手の陰、主体の相手の客体、等々自分の片半分が半母音となりますが、どのようにして片割れを自分の相手と了解するのでしょうか。

現象を追うと、路傍の石を拾う、画面のスイッチを入れる、字を書く、明日の予定を考える、カレーを食べる、等々何でも全て自分のする行為の相手は物体物質と掛かり合うこと、概念知識と掛かり合うこと、感情情緒と掛かり合うこと、どうしようか迷い選択すること、意思決定にかかわり合う等のどれかに関係しています。

現象は自分ではありません。スイッチを入れても画面の絵や文字は自分ではなく、路傍の石を蹴飛ばしても、カレーを食べても、また書いた文字も自分ではありません。考えた思想概念もそれは言葉という借り物に乗っているものです。現象は概念も含め自分以外の客観物です。

喜怒哀楽の感情が自分のものと言えるものかもしれませんが、それを説明してしまうと、言葉概念が使用されますから自分から離れしまい、それかといって黙って感じているだけなら、誰も知ることがありません。自分の感情を説明できないもどかしさ、理解されないもどかしさはよくあることです。そんなことなら誰にも説明しないで黙って自分に仕舞い込んでいれば、常に自分を保つことができそうにも思えてきます。

ところがそれにも係わらず、この概念記憶の客観物がまるで自分のもの、あるいは自分自身であるとして扱われます。自分が創造した物に限らず拾った石も、食べたカレーも、感動も何ものかも自分自身の五感感覚で得たもので自分のものになり、自分の考え思いで得たもので自分の考え自分の思いになり、その他等々となります。

全くそんなことは普通な当然な日常的なことです。いったい何を考えることがあるのかというくらいにあたりまえのことだけです。自分が触って感じて考えればもう自分のものです。当たり前のことを書いて読まさせられると、またこんがらがってきます。

こんがらがったついでにさらに図を加えます。アイウエオ五十音図です。

能動主体の母音側--取り持つ律動とその現象---受動客体の半母音側

能動主体側 ア---カサタナハマヤラという律動---客体側ぅ(w)ア= アワの主体-客体。

能動主体側 イ---キシチニヒミイリという律動---客体ぅ(w)イ = イヰの主体-客体。

能動主体側 ウ---クスツヌフムユルという律動---客体ぅ(w)ウ = ウウの主体-客体。

能動主体側 エ---ケセテネヘメエレという律動---客体ぅ(w)エ = エヱの主体-客体。

能動主体側 オ---コソトノホモヨロという律動---客体ぅ(w)オ =オヲの主体-客体。

五十音図は両側に心の能動主体、受動客体の柱を置き、その両者を取り持つ律動と現象結果が中にあります。母音側の能動主体が中間の律動を通して相手側の半母音側に渡ると、その中に主客から作られながら、主客からそれぞれ独立した第三者の現象が生じる図です。それを人の行為として象徴したのが鳥居をくぐるという行為になり、わたしが相手対象に渡って真っ当な現象を生むということになりました。

カレーを食べることなら、わたしという主体側が、カレーという相手に向かって、食欲という律動を通して食べる現象を生むことになります。カレーを食べたというのが事実で、食べるというのはカレーの内容ではありません。主体が客体に渡って現象を生んで事実となるので、主体が客体に渡る相手はカレーに限らず無数無限に口を拡げて待っていて、正しくカレーに行き着いたときにカレーを食べた事実が産まれます。

またカレーを食べる前にも、食べる食べるあれだこれだと主体側は主張するでしょう。その主張を持ってこうすればこうなる、ああすればああなると主体側の律動によって結果さえ出したつもりになれます。しかし、相手対象となるカレーを射止めなければカレーを食べたという事実は得られないのです。

参照。惑わしたついでに。 まず鳥居の原型を見てください。『大神神社(三輪神社)』

( http://small-life.com/archives/10/04/1120.php )

わたしがあなたに渡って中をくぐると、私という現象を生む(神道徒になる)という図です。

現象したものを中心にして話すと以上のようになりました。さらに半母音側の世界に入りましょう。

主体アと客体ワの両柱を渡る能動の律動がしめ縄です。この中をくぐるとアワの主体客体によってできた現象です。今までの説明は平面上でした。

鳥居は立ってるじゃないかということでしょう。鳥居も象徴物象表現ですから心の主客を立てて表現できましたが、主客を分けるのは概念的に理解しやすいからです。ところが神道にはもう一つ最深奥の秘儀となっている象徴があります。アイウエオ五十音図と同じ、鳥居と同じ意味内容を持ったもので、伊勢神宮の忌柱(いみばしら)で、天ノ御柱・天ノ御量柱、心御柱 しんのみはしらです。心柱、こころの柱です。

五で割り切れる五尺の長さで、五分の二が埋もれていて、柱といっても床下にあって屋根を支えているわけでもなく、真上に舟形にヤアタの鏡を戴いています。

神霊の宿る柱ではなく自分の心が宿る柱です。主体と客体が一つの心のように一本になっています。

神道の最深奥も分かってしまえばなんと言うことも無いのですが、何ということも無い分かり方というのは単なる知識概念での分かり方です。つまり分かったいう事実の内容は概念でしかありません。心柱はアイウエオの五つに分かれていて分かったというのは単なる概念知識で了解した、フトマニで言えばオの次元のことでしかありません。全部の内容を解き明かすのはまだ先です。

古事記(心道、神道)は心を平面図上で、主客の分かれた形で、一本の柱の形でと心のあり方をそれぞれの場面に応じて説明しています。心は重なり合って成長肥大化していきますから、さらに立体的にも説明されなければなりません。平面上の説明にはよく原が使用されますが、立体となった心は山が使用されています。こころはころころ動き変化成長していきますから、活用運用する心の説明も必要になります。奇振嶽(くしふるだけ)奇しき心を振る振る運用する山です。

どれをとっても原理は同じで、心の主体側客体側とそれの仲介役が出てきますが、一言で言えば古事記冒頭の十七神が心の原理となっています。十七はひふみ神示によく出てきますし、主客を一本の柱にすると十四神になるので、十四もよく出てきます。さらにそれをよりコンパクトにすると三神になったりで、その時々の取り方で変幻自在です。全て冒頭の十七神の変身した姿です。

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13-8-3。腹母音。先天の半母音世界。ぅ(w)+母音。国=クニ=組んで似せる。

以上が先天の半母音を説明する前提です。こんなにごちゃごちゃと書くということは、どうせこの後の説明もうまく出来ないだろうということですから、期待などしないで、各自それぞれ追体験し、自証した方が早いですよ。

何かをしていく時には自分の心が主体となって相手対象に向かうのですが、そこで相手対象を得た時のことについてです。

スイッチを入れて画面の文字を見た時、たった一つの主体の行為と見えても、これだけでも実に多くの連続した主体的な行動経過の流れがあります。一つ一つ区切って書き出せば百年経っても書き出せないくらいのものです。

この一つ一つ区切って存在していくことを古事記では国=クニ=組んで似せる、区切って似せる、といいます。組んで似せるのは、まず主体の意図に似せるのです。それには相手対象がいります。そして両者間を行き交う行動因が必要です。これが三位一体となっていくのがクニになります。クニの似は二二は晴れたりニホン晴れの不似(二二)のニ、アメツチのアの目が付いて地に成るのア、主体の意識が対象に付いて自分を似せて了解すること等と同じことになります。

主体に似せるのか相手に似せるのか、今のところは曖昧な書き方です。自分の考えが相手対象となるのか、相手対象から自分の考えが産まれるのか、こういったあっちかこっちかという知識了解の次元では埒の明かないものです。この両者を超えていくことを、ひふみ神示では○にチョンを入れるとか言っています。あっちとこっちの分裂を○にして、なおかつ主体のチョンを入れるということになります。

不似(二二)を晴らすことで、あっちとこっち、わたしとあなたの二本が晴れることでもあり、両者を組んで似せたクニを治めることでもあります。これはどちらかかの立ち位置にいる限りは解決できず、ひとまず意識の次元を上げて全体を見なければなりません。しかし能動的であるのは主体側ですから、主体から出発します。

主体から出発するといっても、朝、行ってきますと学校へ向かう主体行為がまずあるようですが、今日の一時限目は先生が風邪で休んで二時限目から始まるというように、主体意志からだけ始めると間違えるのです。主体側の意志行為は直接に自分のことですから、片手で音を出せとかいわれて、そうだと思ったこと考えたことを主体側だけでやろうとしてもうまくいきません。

主体側の意思意図が無ければ何も起きませんが、主体側が意図を持つということ自体は、主体が自分と自分の対象を分別したことです。この分別は直ちに起きます。しかし分別以前の○の統体があるからそこから始まるのに、自分を起動する以前の姿を忘れては上手い具合に行きません。

似る似せる似せられるは人の精神行為では創造に係わる本質的なことです。古事記ではアメツチから始めアのメが付いて地に成るというアの芽を地において似せて成ることをテーマにしていて、ヒフミ神示ではやはり冒頭を不似は晴れたりといって、似ていないことを似せることをテーマにしています。そもそもフトマニというのも二十間(真)似で二十の間(真)を似せる学問ということです。

古事記では、国(クニ、組んで似せる)という言葉の使用頻度は多いですけど、そのどれもが主体の心の領域を組んで似せて実現すると読み替えられます。国の古事記の本意は日本の国とか何々地方とかの国土のことではありません。そのように読まさせられているので、それはそれで今暫くは仕方のないことですが、古事記を心の現理論として了解していけば徐々に分かることです。

もちろん後段では話が進んで言って国土の意味にもなりますが、それでも原則となっている主体の心を組んで似せるという意味が貫徹しています。ですので地名とか場所とか探すのも捜し当てた歓びがあるでしょうが、二次的なことで、心と切り離された場所探しならもう意味はないことでしょう。心の現理論とは別の、精々名前の由来としてぐらいは考察されてもいいものになるでしょう。

組んで似せる相手側を半母音と言います。ここで半母音側を現象実在したものとして扱ってしまいますと、主体客体、主観と客勧、思考と存在、わたしとあなた等々の存在論の勇み足、はみ出しの見本となっていきますので注意してください。

というよりも面白いことに、必然のように人ははみ出していく、間違えていくというのが伊耶那岐やスサノオの動きで示されますので、意気消沈することもありませんが。

人とはまず間違うということが古事記では立派に保証されているのです。

妹伊耶那美が先に話しかけ、蛭子を産んで世界に広めたことからこの世を始めています。これは国を造ろうと言って最初の結果です。つまり社会集団の国の共通基盤の創造を指しています。どの立場の主体であろうと、主体達の交流を可能にする言葉の流通の基礎基盤の話をしているのです。主体が彼の意思に沿って組んで似せるには社会性を一般性を無視できず、この一般的な社会性の上に乗らないと個性社会性共に創造できない、その社会性基盤の創造のことです。

このように人の世界はまず個々の主体にとっての「生みし子良からず」を基盤として形成されていきます。つまりこれが自他ともに共通となる一般共通性となり、それをとおして話が通用するものとなっていきます。共通の国、組んで似せられたクニの中にいることになり、不似は晴れたりになります。そして個々の主体が活躍する場所にもなります。

古事記は完璧な心の原論ですからその共通の国を、先天の根拠として示しています。 主客の別の分別が出来た後に、造化三神の後、まず出てきた神が、

「次に、国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。【 言霊 ヲ】」

と説明されています。

古事記で「次に」というのは、前の全体を受けて、前全体を自身の内容として第三者として現れることです。

主体が自他との分別を知った後には、国=組んで似せることがアヤフヤな時に意識の中で用意されているのは半母音側の言霊ヲと言っています。人はまずこの範囲内で自らのこころの構築が始まります。

高御産巣日(たかみむすび)の神の主体側が登場し、次にそれを受けて神産巣日(かみむすび)の神の受動側が登場します。そこで一つの全体ができて、その全体という受動的なものが宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神となって、次に、それに向かう主体的な天の常立(とこたち)の神がでてきます。

このように能動受動がペアとなって、主側客体側が入れ代わりつつ次々に自分を創造していきます。

ですので、客体と主体とは一体ですが、一の統一体がある時と、二の主体が客体に向かう時と、三の客体が主体を待ち受ける時の三次元世界をもともと内包しています。

今までスイッチを入れて画面の字を見るとか言ってきましたが、ひふみ神示でいう○の世界も実はこの三次元世界をまとめて言ったものなのです。その世界は実在に先天的にあるというだけで、この後いわゆるチョンをいれる行為があります。しかもそれは八つに分類されますが後述します。

そこで半母音側の世界も元々三段階(三次元)ありますからそのように話さなければなりません。

前回はなした伊勢の最奥義となっている心の御柱とは人の心のことで、人類の心のことです。いつまでも日本の神道に留めておく理由はもう無いのですが、まだ暫くはこのままでしょう。伊勢の心の御柱は地球人類の心ですからいつまでも日本だ日本だといっている時代ではないのです。これはまだちょっと速すぎる言い方ですが、大和の日本からその方向へ言い出さないことには、世界は動きません。

宇宙の動きはオノゴロ(おのれのこころの)島の領域で人の心となれる天の御柱と八尋殿を打ち立てました。このうち、御柱はこころの世界の実在性の一般化を模したもので、八尋殿はこころの世界の動きを模したものとなり、これらが心の動きとなって現象創造行為、言葉の創造となっていくものです。

鳥居とか五十音図とか古事記の神代の巻きとかを全部ひとまとめにすると一本の柱、伊勢の御柱になります。何でもない、ただ心の事を話しているだけなのですが、比喩があれこれ入っていて平面とか立体とか、内容とか形式とか、主体能動とか客体受動で説明しているから、ごちゃごちゃした感じになります。

伊勢の御柱のように動かずここにあるこれだと、それを見つめて感得してしまえば全てです。全てですなんて言ういいかたはおかしいけれど、私たちそれぞれがおかしいので、心柱はそれだけのものです。少なくとも禅のように感得してしまえばそれを最低条件として、世界が動き出します。それまではいろいろとあれこれごちゃごちゃが続きます。

一本の柱なのに主体側と客体側があって、立体と平面があって、能動と受動があって螺旋上昇循環しているなど、いくら説明したってきりがありません。ハッと悟ってもらった方がいいのです。私も悟ってしまえばこんな分かってもいない説明をしなくても済みます。

この伊勢の柱の真実はこれまでの二千年間の人類の哲学の根本を象徴したものですから、もし分かったという暁には、人類史の曙となるものです。既に大和のスメラミコト達によって解明されていたものを再度追体験するだけですけれど、その後の二千年間誰一人として、宗教家も思想家も哲学者も解けなかった問題です。

今世紀になって初めて全貌が故島田正路氏によって明かされましたが、続く人がいません。主客の存在に関するどんな分野からの根本命題に答えることができる唯一の原理ですが、未だにこの心の原理を解せる次の人が出ません。

本来なら島田正路氏によってスメラミコトが復言(かえりごと)を受けて、古事記の原理を受け継ぐのですが、皇室においても全く用意ができていません。最近よく言霊学ということで個人的な記事を見ますが、世界朝廷まで見通している人はいないようです。

これは人間の心の構造を真似た言語を持っていないとできないことです。残念ながら大和言葉を受け継ぐ日本語にしかその構造が世界のどこにも残っていないので、必然的に日本語を知っている人の中からしか暁をおぼえ開ける人がでません。

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13-9-1。腹母音。意識にある自覚体を名づけた。腹にある半母音。ぅ(u)+母音。

フトマニ言霊学では母音とか半母音とかいうので、音声そのままのこととされて理解されていることもあるようですが、調音された音声は音韻音声学の分野のことで、フトマニ言霊学での母音半母音のことではありません。

フトマニ言霊学は心の原理を扱いますから、心の意識の実体を音声に見立ていて、調音によってアを発声したから言霊アで、その響き音声に言霊が宿るというようなことではなく、意識の実体、あるいは意識の自覚体に言霊を当てているのです。そして意識の能動側主体を母音といい、受動側客体を半母音といっています。

同じ要領で古事記も構成されていて、ずらずらと出てくる神名は、古事記のそういった神様たちがいるということではなく、人間の意識に神という名を当てているだけで、古事記の神様というのは実際にいるということはありません。

神の名を解析すると人の意識のそれぞれの領域と段階に相当することが分かるようになっていて、それぞれの意識である神の名とその実体がまた見事に言霊と対応しているのです。

アイウエオは五十音しかないので言霊も五十しかなく、それに対応する神も五十神しかいません。これは基本的な要素が五十の言霊の神としてあることで、意識のそれぞれの次元はこの五十の変化変態変身したものです。そこで意識は無限無数ですから神も八百万となります。神とは言霊のことをいいます。

神とは言霊と覚えたところで何でもありません。神とは言霊という意見に反対逆上するようなこともあるでしょう。それぞれ神体験があり、人を超えた超権威なり超意識の経験もあることでしょうが、此処ではそれらについては触れないようにします。

フトマニ言霊学の心の内容を見ていきます。

言霊学上の半母音のワ行についてです。

発音された現象によって言葉の分析をしているのではなく、発音にいたる創生過程を求めているので現象が終着で始発ではありません。また相手対象となっている客体物質世界の分析が問題なのではありません。あくまで主体的な心が「天の橋立」を渡って相手を得ていくことで半母音が顔を出してくる、主体内の自覚体つまりこころの問題です。

言霊学上で半母音が問題になるのは、母音と同様に半母音の普遍の実在性に関してです。こころの内にある受動側の意識です。例えば今、画面上で「意識」という文字を見たわけですが、受動側にあるのは物理光学的なドットの光点の集合で、それ自体を指すのなら単なる物理学上生理学上の問題です。

そうではなくてその光点、その他のもたらす意識上の問題です。

「この世界を分けて主観世界と客観世界に分けられる」という意見がありますが、これは現象世界を単なる外界物質世界と、頭脳内精神世界に分けたというだけです。フトマニ言霊学は外界物質世界は科学的な経験概念の世界として一切手出しをしませんが、頭脳内精神世界に入り込んでくる、頭脳内での主体と客体の関係として取り組みます。

つまり頭脳内には主体側世界と客体側世界があり、この頭脳内世界の外に物質の客体世界があり、いわば純粋客体物質世界になります。ここで扱っているのは頭脳内での客体側世界の実体を探るもので、物質を探ったりその投影されたものを探るのではありません。

半母音を分かりやすいように書き直すとこうなります。ただし発音の上からこうなるというだけのことです。繰り返しますが発音を分析しているのではありません。

母音。 拗音+母音=半母音。

ア → ぅ(u)+ア = ワ。(神産巣日の神・言霊ワ)

イ → ぅ(u)+イ = ヰ。(伊耶那美神・言霊ヰ)

ウ → ぅ(u)+ウ = ウ。(天の御中主の神・言霊ウ)

エ → ぅ(u)+エ = ヱ。(豊雲野の神・言霊ヱ)

オ → ぅ(u)+オ = ヲ。(宇摩志阿斯訶備比古遅の神・言霊ヲ)

頭脳内の半母音世界が何故ワヰウヱヲになるのかを追求しなくてはなりません。

まず、半母音の作りを見ると拗音で現せる部分が、ぅ(u)になっています。発音表記で行けばW+母音ですが、発音そのものを問題にしているわけではないので、意識に与えられた半母音の実体を探していますので、ぅ(u)の表記になります。

この拗音、ぅ(u)=う、もまた母音だということが重要なことです。半母音を構成するのに他の母音でなく他の子音頭でなく ぅ(u)=う を用いて五十音図の最終行が作られました。何故でしょう。こんな質問は提起されたことはなく、自分でも思っても見ない成り行きです。やってみましょう。

主体側の意識が自分の中で結びつくには自分の中に主体側に対応したものがあることが不可欠です。これを通常は客体側として頭脳の外にある外界客体世界にしてしまい、例えば私がみている画面というように外界物質世界、あるいはその頭脳内への投影として画面のイメージを主体側の相手対象としていきます。

しかしそのようなものがあると固定してしまうのは客体側物質的世界があるということですから、頭脳内に物質なり物象なりが入り込むのはもともと不可能です。可能というのは頭をたたき割って物質を押し込むことです。また、イメージ物象として入り込むというときも感情感覚世界で出来上がったものをねじり込むことで、そんなことは不可能です。

とはいっても結果的に可能なとなってると感じ、普通に行為創造しイメージを伝達し合っているのでおかしな処を感じないくらいです。そんなところに問題は見えず観念だという非難さえあることでしょう。

普通にも、行為するときには、頭脳内において直ちに意識の起動が立ち挙がらなければ行動の用意が出来ません。頭脳内の半母音世界の形成と行為との関係は即時的ですので、このブログのようにそこに時間経過を見ることなど思いもつかないということもあります。しかし、この主体側に対応して主体を現すものが客体、ワ行の半母音です。

自分の欲望の充足、考え思い着いた事、どうするかの選択等が自分のものとしてそのまま出てくる構図の大本が ぅ(u) の半母音にあります。

注意して上の二つの文章を読むと、はじめに主体側に対応する半母音とあり、次には半母音から主側が出てくると取れる書き方です。鶏と卵みたいなものとなっています。

さらに混乱させれば、ワヰウヱヲを半母音と呼んでいますが、ワヰウヱヲそのものが半母音であるのではありません。

最初にも言ったように発音上の問題ではなく心の在り方を取り上げています。アイウエオもワヰウヱヲも単独に実在はするけれど現象として扱うものではないということです。母音も半母音も現象を現象足らしめますがそれ自体が現象となるのではありません。子供現象が産まれても子供は両親のどちらでもないみたいなものです。ですが、子供には両親の半母音側(母親側)が実在しているし、だからといって、子供の半母音側を母親ということはできないようなものです。

子供現象に対しては、母音半母音側はそれぞれ純粋に独立していて主体-母音側、客体-半母音側で隠れたままです。古事記では、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき、となっています。

また主体-母音側、客体-半母音側の対応は古事記に、然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ、とあって主体側の働きかけにだけ応じるけれど、一本の柱内に両者がいる関係です。(伊勢の心柱です。)この柱を平面にしたのが五十音図になっていきます。

五十音図上で書き現した場合にはワの最終行になるためそれを半母音といっています。ですので音韻音声上でのワ行半母音とは違います。

半母音は心の言霊学上は神名で説明されていて、神産巣日(カミムスビ)の神と呼ばれ、かみ合い(カミ)結ばれる(ムス)霊(ヒ)で現されています。結ばれる側の主体客体の関係を言います。

自分の中にこの相手対象となるカミムスビが無ければ一切の創造現象が起きてきません。主体意識の相手である自分の中のカミムスビは、自分の直接の対象です。それは直接自分に得る対象である事が必要なため、全面的に自分の中にウ、ぅ(u)、であることになるのです。つまり半母音頭は ぅ(u)、になるのです。

既に言霊ウは天の御中主(みなかぬし)の神であることは話しました。動き出す始めの全体です。この始めの全体の意識上の取り方は宇宙世界に対するはじめや、朝出掛けの始めや、食事前の始めの全体等、それぞれの切り口があります。どこにもその切り口の始めがありますから、宇宙として思えばその天の御中主(みなかぬし)の神、食事前として思えばその天の御中主(みなかぬし)の神、半母音として思えば天の御中主(みなかぬし)の神、が当然どこにも顔を出します。

そうするとそれぞれの意識の始めに対応する、宇宙全世界に対応する始めの

客体側の神産巣日(かみむすび)の神、それぞれの意識の切り口に対応する神産巣日(かみむすび)の神がいることになります。どこかにデンと構えた神というのは、始めの原理として与えられた場面での登場人物(神)ということになります。以下同様で、全ての神に該当します。

これは当面は当惑する事を聞かされた感じになるでしょうが、意識の上昇螺旋循環の繰り返しからは当然のことでしょう。そうでないと神さん達は祭り上げられたどこか上空の一点にポツンと留まるか、土着、民俗、自然崇拝信仰、意識希望の反映とか、出来事の神格化みたいなものでしかなくなります。

自分自身の直接の目標、自分が発して発したものを得る相手が神産巣日(かみむすび)の神という客体側です。ところがそれ以前に感じられることがあります。何となく後を振り向いて何かを見ているのか、何かがあると感じているのか、向こうに動くものがあるようにボヤーと感じている、その目覚めの始めが言霊ウの状態で、心の相手の向こうに何かがあるということが、ぅ(u)の半母音となります。

ぅ(u)という何か分からないけれど、分からないものを感じることによって主体の自分の存在を感じさせるもの、そこで感じたと同時に何かあると主客の相対性が発生する、その時の主体内での相手意識が、客体側となっていきます。

ですのでそこで何かがある、あれは何かだ、という規定できるものによって了解してしまう以前に、自分の主体が向かう相手という全体があることになります。その全体のわけの分からないながらあるという規定されたものが、神産巣日の神の客体側ぅ(u)です。何々であると規定されたもので命名されてしまったものではありません。

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