『言霊世界 言葉の繋がりと間(アイダ、吾霊田)』

言葉と言葉の間にあるものについての考察です。言葉を喋っている以上時間の流れがあります。言葉は単音と単音が繋がっていきますが、そこには必ず間(あいだ)があります。

それは言葉ではありませんが、それが無ければ言葉を繋げる事はできません。

間には何かあるのでしょうか、それとも何も無いのでしょうか。

--------

言葉の始まる以前に何があるのでしょうか。

長い長い人生の間があります。その長い間を経た後、ある日突然に最初の一句が産まれます。

間から言語が産まれますが、間は言語ではありません。

また、言語は間を生まないと、自身にけじめ(気絞め)が付きません。

古事記冒頭の高天原の天はアマと読めと原文に指定があり、原理論の最終段階で出てくるのは、アマテラスです。アマは吾間で、私の意識の間で、私の占有している吾の間が取りも直さず私のことで、私の世界、私の天になります。

それにしても、吾の間とは何なのでしょうか。

--------

昔、言霊学はフトマニと言われていました。フトマニは現在では占いと言われていますが、心の裏合い合わせから来たもので、フト(二十)の心の居間に似せるという、本来の意味の変化したものです。何故心の居間が二十で、それに似せるフトマニ・言霊学とはどういうものなのかを、「間」を介して探ってみましょう。

--------

間はアイダであって、アヒタからきて、振り漢字をすれば吾霊田になるでしょう。アメツチもタカアマハラもアマテラスもアイダも、全部皆アが含まれ、吾(わたし)に関することになるでしょう。

ここで扱う間は、現象した間ではなく、それをもたらす先天の間についてです。

古池や蛙飛び込む水の音において、石の上にたたずんでいた蛙には間に突き動かされて飛んだ時の間があります。その始めの間についてです。現象した間については様々な分析や意見が既にあります。

--------

辞典の解説。

あいだ 「あひだ」 間

物と物とのあいだ、空間、時間。一続きの時間。あいま。物事、現象などの相対するものの関係。

ゆえに、から、ので。原因理由を表す。

折、機会、あいだがら。

間の成り立ち。

両開きの扉から月の光が漏れるすきまの様子からでき、「閒」の略字が「間」になった。「閒」は間の旧字。

--------

--------

漢字の成り立ちをみると、鳥居や二見浦が浦から昇る陽をみるようです。

また、国語辞典の解説をみていると、間(アヒダ)はまるで言葉が産まれる以前の全体を表しているようで、言葉が先か間が先かという問題も成り立つようです。

さて、間とは中今で、空で、先天十七神で、鳥居が造る空間で、天津神たちで、わたしの意識の植わっている田である吾霊田(アヒタ)です。

手っとり早く言えば、古事記の冒頭の原理です。

両方の門柱はイザナギとイザナミで、天津神の働きで吾の意識が造られ出てきます。その時の時空の全体が間です。

それを言霊で表現すれば、言霊ンです。「ン」が私(吾・ア)の霊(イ)の田(タ)を運びます。