13- 子の一木(ひとつき)

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「古事記と言霊」講座 その十三 <第百七十二号>平成十四年十月号

古事記神話を先に進めます。

かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、

伊耶那岐の命はその時まで高天原での創造の協同者であった伊耶那美の命を失ってしまいましたので、「わが愛する妻の伊耶那美の命を子の一木に易えてしまった」と嘆(なげ)きました。岐美二神は共同で三十二の子音を生みました。その三十二の子音を表音神代文字火の夜芸速男の神・言霊ンに表わしました。妻神を失い、その代りに一連の神代文字(一木)に変えたという事であります。

御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、

五十個の言霊とその表音文字が出揃い、今はその言霊の整理・検討が行なわれているところです。その整理に当る伊耶那岐の命の行動を、妻神を失った伊耶那岐の命の悲しむ姿の謎で表わしています。御枕方と御足方とは美の命の身体をもって五十音図(菅曽音図)に譬えた表現です。人が横になった姿を五十音図に譬えたのですから、御枕方とは音図に向って一番右(頭の方)はアオウエイの五母音となります。反対に御足方とは音図の向って最左でワヲウヱヰ五半母音のことです。そこで「御枕方に葡匐ひ御足方に葡匐ひ」とは五十音図の母音の列と半母音の列との間を行ったり、来たりすることとなります。「哭きたまふ」とは、声を出して泣くという事から「鳴く」即ち発声してみるの意となります。

御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。

香山(かぐやま)とは言霊を一つ一つ粘土板に刻み、素焼にした埴(はに)を集めたもの、即ち香山とは「火の迦具土」と「金山」を一つにした名称。畝尾とは一段高い畝(うね)が続いている処。母音から半母音に連なる表音文字の繋がりの事。その畝尾は五十音図では五本あります。「その木のもと」とありますから、五母音の一番下イからヰに至る文字の連なりの事となります。涙はその一番下の畝尾に下って来ます。一番下のイからヰに至る文字の連なりは父韻チイキミシリヒニの八韻です。この父韻が鳴りますと、その韻は母音に作用して現象子音を生みます。父韻は泣き(鳴き)騒ぐ神です。そこで名を泣沢女(なきさわめ)の神と呼びます。泣くのは男より女に多い事から神名に泣沢女の神と女の文字がついたのでありましょう。

小豆島(あづきじま)またの名は大野手比売(おおのでひめ)

泣沢女の神の座。また五十音言霊の音図上の整理・確認の作業の中で、八つの父韻の締めくくりの区分を小豆島(あづきじま)と言います。明らかに(あ)続いている(づ)言霊(き)の区分の意です。大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。八父韻は横に一列に展開しています。

菅曽音図の一番下の列、言霊イとヰとの間に展開している八つの父韻に泣沢女の神と名付けた事について今一つ説明を加えましょう。法華経の第二十五章の「観音普門品」に「梵音海潮音勝彼世間音」(ぼんおんかいちょうおんしょうひせけんおん)という言葉があります。梵音と海潮音とは彼(か)の世間で一般に使われている言葉に優(まさ)る言葉である、の意です。その梵音とは宇宙の音、即ちアオウエイの五母音の事です。また海潮音とは寄せては返す海の波の音の事で、即ちこれが言霊学で謂う八つの父韻の事です。宇宙には何の音もありません。無音です。もっと的確に言えば宇宙には無音の音が満ちているという事です。何故ならそこに人間の根本智性である八父韻の刺激が加わると、無限に現象の音を出すからです。八つの父韻は無音の母音宇宙を刺激する音ですから、泣き(鳴)騒ぐ音という事となります。父韻が先ず鳴き騒ぐ事によって、その刺激で宇宙の母音から現象音(世間音)が鳴り響き出します。梵音(母音)と海潮音(父韻)は人間の心の先天構造の音であり、その働きによって後天の現象音が現出して来ます。「勝彼世間音」と言われる所以であります。

お寺の鐘がゴーンと鳴ります。人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。正確に言えばそうではありません。実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

出雲とは出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。伯伎の国と言えば母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。比婆(ひば)とは霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます。

伊耶那岐の命と伊耶那美の命は協力して三十二の子音言霊を生み、子種がなくなり、高天原での仕事をやり終えた伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、という意味であります。子音言霊が高天原から去って行った伊耶那美の神の忘れ形見または名残のもの、という事です。

古事記の文章を先に進めます。

ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。次に樋速日(ひはやひ)の神。次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。次に御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。

菅曽音図に基づいた五十音言霊の検討の作業は更に続きます。

ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。

ここに初めて古事記の文章に剣という言葉が出て来ました。古事記のみならず、各神話や宗教書の中に出る剣とは物を斬るための道具の事ではなく、頭の中で物事の道理・性質等を検討する人間天与の判断力の事を言います。形のある剣はその表徴物であります。この判断力に三種類があり、八拳、九拳、十拳(やつか、ここのつか、とつか)の剣です。

十拳の剣の判断とはどんな判断かと申しますと次の様であります。十拳の剣とは人の握り拳(こぶし)を十個並べた長さの剣という事ですが、これは勿論比喩であります。実は物事を十数を以て分割し、検討する判断力のことです。実際にはどういう判断かと言いますと、十数とは音図の横の列がア・タカマハラナヤサ・ワの十言霊が並ぶ天津太祝詞音図(後章登場)と呼ばれる五十音図の内容である人間の精神構造を鏡として行なわれる判断の事を言います。この判断力は主として伊耶那岐の神または天照大神が用いる判断力であります。後程詳しく説明されます。

迦具土の神とは前に出ました火(ほ)の夜芸速男(やぎきやを)の神・言霊ンの別名であります。古代表音神名(かな)文字のことです。頚(くび)を斬る、という頚とは組霊(くび)の意で、霊は言霊でありますから、組霊(くび)とは五十音図、ここでは菅曽音図の事となります。十拳の剣で迦具土の頚を斬ったという事は、表音神名文字を組んで作った菅曽音図を十拳の剣という人間天与の判断力で分析・検討を始めたという事になります。という事は、今までは言霊の個々について検討し、これからは菅曽音図という人間精神の全構造について、即ち人間の全人格の構造についての分析・検討が行なわれる事になるという訳であります。

ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。

御刀の前に著ける血、とは迦具土の頚(くび)である言霊五十音図を十拳の剣で分析・検討して人の心の構造がどの様になっているか、を調べて行き、御刀の前(さき)によって斬ったことにより判明した道理(血(ち))ということ。ここで御刀の「前」と殊更に言いましたのは、次の文章に御刀の「本(もと)」、御刀の「手上(たがみ)」と分析・検討の作業が進展して行く様子を示したものであります。

湯津石村の湯津(ゆず)とは五百個(いはつ)の謎です。五百個(いはつ)とはどういう事かと申しますと、五母音の配列である菅曽音図の意味を基調として五十音図を作り、この五十音図を上下にとった百音図の事を五百個と申します。石村(いはむら)とは五十葉叢(いはむら)の意。湯津石村の全部で五百個の上半分の五十音図の意となります。湯津石村に走(たばし)りつきての走りつきてとは「……と結ばれて」または「……と関連し、参照されて」の意となります。

成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神

五十音図を分析して先ず分ったのは石柝(いはさく)の神ということです。石柝とは五葉裂(いはさ)くの意。五十音図が縦にアオウエイの五段階の界層に分かれていることが分った、という事であります。即ち人間の心が住む精神宇宙は五つの次元が畳(たたな)わっている状態の構造であることを確認したのでした。人間の精神に関係する一切のものはこの五つの次元宇宙から表れ出て来ます。これ以外のものは存在しません。「五葉裂く」の道理は人類の宗教・哲学の基本です。

この五つの次元の道理を世間の人々の会話の中で観察すると、そこに顕著な相違があることに気付きます。先ず言霊ウの次元に住む人同士の会話は、その各々の人がある物事について語り合う場合、各自の経験した事柄をその起った時から終るまで順序通りに羅列するように、一つの省略もなく喋(しゃべ)ります。従って会話は長くなります。若い者同士の電話の会話はその典型です。言霊オの次元に住む人の会話には抽象的概念の用語がやたらと飛び出します。所謂「〇〇的」という言葉です。社会主義新聞の論説はその良い例であります。次に言霊アの次元に於ては詩や歌が、言霊エの次元では「何々すべし」の至上命令が典型となります。言霊イの次元に住む人の口からは、言霊が、または他の四次元ウオアエの次元に住む人々それぞれの心に合わせた自由自在の言葉が出て来ます。以上、人間の心の進化の順序に従ってそれぞれの次元の会話の特徴についてお話しました。その人の会話を聞いていると、その人の心が住む次元が良く分って来ます。但し自分の心が住む次元より高い次元の話の識別は出来ません。識別出来るのは自らの心の次元以下の人についてのみであることを知らねばなりません。

社会で使われる用語の中からいくつかを石柝(いはさく)の道理によって分類した表を左に図示します。(小笠原孝次氏著「言霊百神」より引用)

次に根柝(ねさく)の神

根柝(ねさく)は根裂(ねさ)くの事です。今検討している音図は菅曽音図のことで、母音がアオウエイと縦に並びます。その五母音の一番下は言霊イであり、五母音を一本の木と見れば根に当ります。その根の五十音の列は言霊イとヰの間に八つの父韻が横に並んでいます。その根を裂けば、八つの父韻の並び方の順序と、その順序に示されるように母音に始まり、半母音に終る現象の移り方がより確認されます。

次に石筒(いはつつ)の男の神

石筒は五葉筒(いはつつ)または五十葉筒の意です。五十音図は縦に五母音、五半母音または五つの子音が並び、これが順序よく人の心の変化・進展の相を示しています。また五十葉筒と解釈すれば、五十音図が縦に横に同様に変化・進展する相を知ることが出来ます。筒とはその変化・進展の相が一つのチャンネルの如く続いて連なっている様子を表わします。石筒の男の神の男(を)の字が附いているのは、その変化・進展の相が確認出来る働きを示すの意であります。

次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。

御刀の「前(さき)」から今度は「本(もと)」と五十音図表の整理・検討の段階が進展して来た事を示しています。始めに五十個の言霊を整理し、並べて和久産巣日の神なる音図、即ち菅曽音図を手にしました。次にその初歩的な菅曽音図を分析することによって五十音言霊自体で構成されている人間精神の構造を確認する作業が進んでいます。その人間の精神構造である道理(血)が「湯津石村に走り着きて」即ち五十音言霊図に参照されて、確認されましたのが甕速日の神という事であります。

甕速日の甕(みか)とは五十個の言霊を粘土板に刻んで素焼きにした五十音図の事です。速日の日は言霊、速とは一目で分るようにする事の意。甕速日全体で五十音言霊図全体の内容・意味が一目で分るようになっている事の確認という事です。音図の内容の確認には大きく別けて二通りがあります。一つは静的状態の観察です。五十音言霊がその音図全体で何を表現しているか、を知ることです。どういう事かと申しますと、この五十音言霊図は菅曽音図か、金木音図か、または……と、この五十個の言霊が音図に集められて、全体で何が分るか、ということの確認です。これを静的観察と言います。

次に樋速日(ひはやひ)の神

樋(ひ)速日の樋(ひ)とは水を流す道具です。この事から樋速日とは言霊(日)が一目で(速)どういう変化・進展の相を示しているか、が分ることの確認という意となります。五十音言霊図では母音五つからそれぞれの半母音に渡す子音の実相の動き・変化の流れが一目で確認出来る事を言います。甕速日の静に対して、樋速日は動的な変化の確認という事が出来ます。

ここで速日(はやひ)なる言葉が出て来ましたが、同様の意味の言葉に「早振り」があります。言霊の立場で物事を見ますと、その性状や内容が一目で分ることを言います。枕詞の「千早振る」も同様であります。

次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。

建御雷の建(たけ)とは田気(たけ)の意です。田とは五十音言霊図のことで、その気(け)ですから言霊を指します。雷(いかづち)とは五十神土(いかつち)の意で、五十音を粘土板に刻んだものです。自然現象としての雷は、天に稲妻(いなづま)が光るとゴロゴロと雷鳴が轟(とどろ)きます。同様に人間の言葉も精神の先天構造が活動を起すと、言葉という現象が起こります。言葉は神鳴りです。この神鳴りには五十個の要素と五十通りの基本的変化があります。この五十の要素の言霊と五十通りの変化の相とを整理・点検して最初に和久産巣日という五十音図(天津菅曽音図)にまとめました。次にその音図を十拳剣という主体の判断力で分析・検討して行き、石柝(いはさく)、根柝(ねさく)、石筒(いはつつ)の男と検討が進展し、甕速日(みかはやひ)という心の静的構造と樋速日という心の動的構造が明らかにされました。その結果として五十音言霊によって組織された人間の心の理想の構造が点検の主体である伊耶那岐の命の心の中に完成・自覚されたのであります。この精神構造を建御雷の男の神と言います。

人間精神の理想として建御雷の男の神という五十音図を自覚しました。これを建御雷の神と書かず、下に「男の神」と附したのは何故なのでしょうか。初め伊耶那岐の命は妻神伊耶那美の命と共同で三十二の子音を生みます。それを粘土板に書いて火の迦具土の神という神代表音文字に表わしました。そこで伊耶那美の命の客体としての高天原の仕事は終り、美の命は高天原から客観世界の予母津国に去って行き、残る五十音の整理・検討は主体である岐の命の仕事となります。そこで整理作業によって最初に得た菅曽音図を主体の判断力である十拳剣で分析・点検して人間精神の最高理想構造である建御雷の男の神という音図の自覚を得ました。しかし人間の心の理想構造の自覚と申しましても、それは飽くまで主体である伊耶那岐の命の側に自覚された真理であって、何時の時代、何処の場所、如何なる物事に適用しても通用するという客観的證明をまだ経たものではありません。主観内のみの真理であります。その事を明示するために、太安万侶はこの自覚構造に建御雷の男の神と男の字を附けたのであります。

またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。

建布都(たけふつ)の建は田(た)(言霊図)の気(け)で言霊の事。布都(ふつ)とは都(みやこ)を布(し)くの意。都とは言霊を以て組織した最高の精神構造、またはその精神によって文明創造の政治・教育を司る教庁の事でもあります。豊布都の豊(とよ)は十四(とよ)で、先天構造原理をいいます。そこで建布都とは言霊を以て、豊布都は言霊の先天構造原理を以て組織された最高の人間精神の事であり、建御雷の男の神と同意義であります。建布都・豊布都は奈良県天理市の石土(いそのかみ)神宮に伝わる十種(とくさ)の神宝(かむたから)の中の神剣の名でもあります。

(次号に続く)