エ 心の運び方 言霊エの時置師

エ 心の運び方 言霊エの時置師

次に言霊エの次元にいる人の心の運び方について考えてみます。

イ-チキミヒリニイシ-㐄

この段階はイ・チキミヒリニイシ・㐄の十個の配列で示されます。

イ) 第一列の母音イの存在は完全自由な宇宙意識が成り立っていることを示しています。

チ) 第二列よりの父韻はチで始まります。父韻チは精神宇宙全体が直接現象として姿を現す韻です。次に父韻キミが続きます。

キ) キ・ミは宇宙の中にあるものを掻き寄せ、

ミ) 結び付く韻です。ところがいまは言霊エ次元にある人について考えているのですから「いま、ここでいかにすべき」の選択の心の構造のことです。とすると掻き寄せ結び付く心の動きとは主体の状態と客体の状況を見定めることを意味します。宇宙意識の前にあって、言いかえますと、何ものにもとらわれない精神全体の光に照らされて、主体と客体の実相がはっきり把握されるということです。次に父韻ヒがきます。

ヒ) ヒは表面に開く韻です。把握された主客の双方を満足させ創造に向かわせる言葉が生み出されることです。

リ) その言葉は心いっぱいに推し拡がっていくと、

ニ) 心の底に行動の確固たる名目が定まり、

イ) それが心を推進し、

シ) 結論に向かって集約して行きます。

㐄) そしていま・ここにおける心に完成された結論・結果が確定されます。半母音㐄で終結します。

------------------------------------------

言霊エ次元に至って初めて母音、半母音の自覚が整い、神道で十拳の剣と呼ぶように十音が横に揃って完全な五十音図そのままの思想体系の自覚が成立します。

ここでみイマ・ココの一念の内に発端も結果も見通された自由で円満無礙な精神の完成がめざされています。この心の持ち方の代表的なものといえば、仏教でいわゆる菩薩行が挙げられます。先にも説明しましたように、魂の自由の自覚を得た人が、さらに一念発起して自分以外の人にもこの自由を自覚してもらうために、どのように他人に対処していけばよいかの修業のことです。そしてこの修業の進展の末に人間の最高の精神図表の完成された人を仏教で仏陀と呼びました。過去の世界の聖者・高僧といわれる人々が、この人間精神の完成をめざしてどれほど修業渇迎してきたことでしょうか。

我聞く天台山 山中にき樹有り 永言して之を攀じんと欲すれども 石橋ごとし 此に縁って悲歎を生じ 幸居して将に暮れんとす 今日鏡中を観れば 颯颯として鬢ぱ髪垂れて素の如し

(注) き樹とは宝の実る樹、仏教で宝とは摩尼宝珠のこと。 石橋とは此処岸より彼岸(仏の国)に渡る橋。素とは白糸。

右は中国の聖僧寒山の詩でありますが、彼が悟りの究極にある摩尼宝珠といわれるものの実体をいかに渇迎し、それに達し得ない自分を歎いていたかを示しています。「五十年一字不説」。釈尊は五十年間説教をしたのですが、実は仏の実体の真理の実体を説いたのであって、真理そのものは一言も説いたことがないといいました。皮肉にも仏教からは仏は現れることはありません。仏の護持する究極の真理それは五十音言霊の原理なのです。

エ・ そこで言霊エ次元にある仏教の菩薩位に二種類あることをお話しましょう。一つは因位の菩薩といい、もう一つは果位の菩薩と呼ばれます。

因位の菩薩とは法華経に出てくる浄行・上行等の菩薩がそれで、先に説明しましたように自らは本姓である宇宙意識の自覚をもち、さらに業苦に沈んでいる他の大勢の人を救わんと努力し、その努力の結果、 究極において人間精神の完成体である仏をめざす人であります。その救済の行の心の運び方についてはすでに父韻の配列でお話をしてきました。

エ・果位の菩薩 次に果位の菩薩とは観世音・普賢・勢至等の菩薩が有名で、因位の菩薩とは違ってすでに仏の位に住まわれたその仏が衆生済度のために下生してきた菩薩のことをいいます。この菩薩の救済の心の運び方であるイ・チキミヒリニイシ・㐄の配列の実際は因位の菩薩のそれとは全く違ってきます。

イ) 宇宙即我の自覚によって母音イが確立していることは因位の菩薩と違いはありません。

相違は次の第一の父韻チのところで起こります。

因位の菩薩においてチは単に宇宙自体が直接現象として現れる韻であり、全身全霊というほどの意味でありました。

チ) ところが果位の菩薩とは既に仏の位を得た人です。この菩薩は宇宙全体を既に五十音言霊として把握しています。

それゆえ父韻チは単に宇宙全体とか全身全霊とかいうだけでなく五十音言霊図特に菩薩の次元である言霊エの次元の規範である天津太祝詞音図として現れます。精神宇宙に起こるいかなる現象もこの精神の究極規範である五十音の鏡の前に偽りの無いじっそうとなって写し出されます。

キ・ミ) それゆえに、次に続く主体客体の実相であるキミは五十音の鏡に照らされてその時処位が決定的に見定められます。

ヒ) 主客の実相が明らかにされれば、この二つを統合して新しい創造はどんな形をとるかはおのずと言霊図に基いて決定されます。

リ) 言霊の上で決定された言葉は一般の世間の言葉の世界に拡大され、

ニ) 行動の名目が定まり、

イ) 行動が起こり、

シ) 結論として終結に向かい

㐄) 結果が事実として確認されます。半母音㐄が成立します。

人間精神進化の最終段階は言霊イ次元です。五十音言霊の世界です。その五十音言霊図を心の鏡として言霊エ次元の選択創造の心の運び方を会得しますと、人間社会・人間文明を運営してゆく最も確実な手段・方法をいつも明示することが可能となります。

イ) そして重要なことは、 この、仏教で比喩的にいうところの果位の菩薩の衆生救済の心の運び方の図式が、またとりも直さず、私達が言霊子音を自覚確認するための方法・手段でもあるのです。もちろん私達は仏陀ではなく、五十音図が心の中に確立成就しているわけではありません。けれども先に検討しました如く、父韻チキミヒリニイシのそれぞれの生命意志の活動のリズムについて知っています。

また父韻チキミヒリニイシと並ぶ心の運び方とは、いま・ここの一点における社会的創造に言霊ウである欲望と、言霊オである概念的探求と、言霊アである感情面とを、どのように選(エ)らんで運営していけば理想的社会を実現し得るかの運用法を示しているのだということを知っています。

チ) ですからいま社会的に創造活動を起こそうとする時、心に自分が学び覚え知った限りの五十音図を行動の鏡として掲げることです。このことを古事記では「衝立船戸の神」と神様の名前で呪示しています。

五十音図を神道では御船代といいます。五十音図を心の戸として斎立て(衝立)よとの意味です。

キ・ミ) その上で主体と客体の実相を明らかにし、

ヒ) 双方を総合する言葉を言霊のうえで検討し、

リ) その言霊での言葉を拡大させて、

ニ) 行動の眼目

イ) が、出来上がり行動として動き、

シ) 結論が確定する。

㐄) このような、一般にいう道徳・政治または個人的な選択行為の実行の中に、 言霊子音は一つ一つ内観自覚されていくのです。

すなわち言霊ウ次元にある欲望を主体とする人との対応行為の中に、ツクムフルヌユスの八音が、

次に言霊オ次元に住む概念的探求をこととする人に対する行為のなかに、トコモホロノヨソの八音が、

また言霊ア次元にある感情を主体とする人に対する創造行為のうちに、タカマハラナヤサの八音が、

それぞれ、言霊エ段にたって救済行為をする主体の側の心の中に心に焼き付けられるがごとく自覚されてくるのです。

と同時にこれら三種の対応行為の自己の内面の実相として、テケメヘレネエセのエ段の子音をも確認することができます。

この合計三十二子音の自覚の成就が人間精神の理想体系の実現であり、 仏教でいう仏陀、キリスト教の救世主、儒教の「心の欲する所にしたがって矩のりを超えず」の出現を意味しています。

天津太祝詞音図

----------

アタカマハラナヤサワ

イチキミヒリニイシ㐄

エテケメヘレネエセヱ

オトコモホロノヨソヲ

ウツクムフルヌユスウ

---------------------------------------

言霊エの段階

------------

庇を借りて母屋を乗っ取った後天的な知識・信念・習性等を心の中で否定、経理して、母屋である本来の自己自身を再び取り戻した人は、魂の自由を得て溌剌と生きることができます。自己本性が宇宙そのものであることを知り、自分のそれまでに身につけた知識・信条・習性等をその場、その場に応じて自由に駆使することができるからです。

具象の極を究めたピカソが抽象の絵の中で遊んでいるのと同様です。この次元の境地にいる人を仏教では縁覚あるいは阿羅漢といい、キリスト教ではアノインテッドAnointedと呼びます。芸術の表現し得る境地としてはこの次元が最高次元です。ですからこの境地を究めてしまったピカソはその後は時には遊んでもいられたのです。

けれども人間全体の魂の進化という立場からは、この次元に留まって遊んでいるわけには生きません。進化の第四段階が目が次に控えています。それが言霊エの次元です。

自己の本姓が宇宙そのものであることを知った人は自分の知識・信条・習性等をその時その場に応じて使い分け不自由はありません。その意味では「我が事足れり」です。しかし眼を他の社会に転じてみましょう。

そこにはそれぞれの罪業に翻弄されて苦悩の底に沈んでいる人々が多勢いるのです。自分が生かされている事の有り難さをつくづく知った人が、他人の苦しんでいるのを見て、いま自分が味わうことのできる自由をその人達にも手にしてもらいたいと思うのは人情でありましょう。否、自分の使命だといえます。

そう思い立った時からこの人の進化の第四段階の勉強が始まります。この世の現象界の出来事に悩んでいる人は、かつて自分もそうであった如く悩みながらその社会的欲望の終着を捨てきってはいません。相手を正当な手段で打ち負かすのがなぜ悪い? 信念を貫こうとして何故不都合なのだ主張しながら、泥沼の中でもがいている人に「どのような手段で」地獄から抜け出させることができるか、の勉強が始まるわけです。

進化の第三段階である言霊アを求める勉強が自利のためのであったのに比べて第四の勉強は利他の道です。

「どのような手段で」の勉強の道、仏教でいう方便と真理への道、それは選択を勉強する段階であり、言霊エは「選」らぶの言葉の基本の道という事ができます。この段階にある人を仏教では菩薩、キリスト教では使徒と呼びます。社会一般でいえば真の意味での政治・道徳のみちであります。

世の中には色々な経歴・習性・知識・信条等を持った人がいます。それらの人達にどのようにそれぞれ対応したらよいのかの勉強は無限ともいえる努力が必要です。そしてその努力を支えるものは人類の理想社会建設という使命観でありましょう。

ところでこの次元における言霊のべんきょうはどうなるでしょうか。言霊エの意義を端的に表す言葉は「選ぶ」です。何を選ぶのかといえば、言霊ウ、オ、アの中からその時々の場に必要な次元を選ぶことです。いまこの人を導く最適の方法は言霊ウオアの中の何であるかを選ぶことです。

この選択の勉強によって言霊ウオアエのそれぞれの次元的相違が次第にはっきり了解されてくるようになります。この次元がはっきり自覚されてきますと、それまではっきり自覚できなかった知識を求める言霊オの次元の心構えと知識を選択するこの次元の心構えとの相違が特に明瞭に自覚されます。

言霊オの次元の心の構造が正反合のの弁証法構造を持ち図形△で表徴されるのに対して、言霊エの次元の心の構造が・図四角に米・という形で表徴されることも明確となります。(△は帰納であり、図四角に米は演繹です)と同時に人間生命の一瞬一瞬の活動の実体が言霊なのだという自覚がひしひしと感じられるのもこの次元においてであります。

-----------------------------------------