マミムメモ いま(イの間)論の準備

マ◎ いま(イの間)論の準備

サイト『神の数学』にある、≪9=0≫とする

・・・0123456780123456780123456780・・・『宇宙次元原理表』(九九算表)http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/old.html

と、ひふみ神示の

「12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、」

は、

元々の思想は古事記の父韻の運用のそれで、それぞれの分野での表現となったものです。

ひふみ神示はわざと父韻とは表示しません(一厘の秘密)が、神の数学の方はまだ気付いていません。

これらを繋げて、これからやろうとしている「今とは何か」と関連させるとどうなるかと、思い付きました。勝手な思い付きです。

神の数学の例示した数列を超簡単にすると-0-0-0-となり、それに、-過去-今今-未来-が配当できます。

1-8の各数列が「-0-」で左右に繋がっていますが、この-0-には二つの意味合いがあって、一つは1~8の次に成った9=0、一つには連続するうえでは、0を前次元の成ったものとして、そのまま次次元の始めの0になっています。

ですので、1~8で成ったものを9とすれば終わりで、連続させれば、次次元の始めの0として、以下同様に繰り返されます。

その意味を言葉の創造に当てはめれば、一連の言葉例えば、「こんにちは」という五文字の発音了解にもあてはめることもできます。

発音以前に、イメージ(0)の「<こんにちは>」があって、1~8の八父韻の働きをを通過して、「こんにちは」の「こ」が発音され(9)、「こ」として了解されます。それが発音として正しく聞かれていることが確かめられれば、今度はその「こ」をベース(0)として(9=0)、次の「ん」が同様の過程を通り、五回繰り返されて、当初の頭脳内の「0=<こんにちは>」が1~8を通過して9となり、完成了解されます。(ここのたり、九で充分足りました。)

さらに、そこで会話が続けば、「こんにちは」が次の会話の「0」の位置にきますが、会話が中断されそれで終わりとなれば、これで足りたということで、発音された言葉は宇宙空間に放出されるなり、相手の記憶に印画されるなりして、自分は挨拶したのに相手は聞いていなかったとかの<0>となります。

この関係を「今」に当てはめるとこうなります。

今(イマ、イの間)、という発音から見た場合は前記と同様で、コンチチハがイマになっただけですから別の方面からみます。

「今」が瞬間であって瞬間でなく、前から継承すると同時に次に伝承する構造を見てみましょう。

それには「神の数学」には無い(注。)「0」の能動因を導入しなくてはなりません。

「-0-」が前後にダブって「0」であらわせる理由が必要です。数列にしてしまえば要りませんが、現実ではそうはいきません。

(注。)ここで「無い」というのは、「神の数学」のサイトの続きを読むには大金を払わなくては読めない仕組みになっているので、わたしは読んで「無い」ということで、その後の「神の数学」にはあることかもしれません。

さて、と続けたいのですが、、、、関連はしていますが、古事記に記載されていることだし、脇道へ入りそうなので、止めておきます。

「0」というのは古事記では「こ」のことです。

ひふみよいむなやこと、ここでも、9=0です。蛭子です。

というところで、気が削がれました。今回はここまで。

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ミ◎ いま(イの間)論の準備

「 霊界には、時間がない。故に、霊人は時間ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、時間はないが状態の変化はある。(ひふみ神示)」

というのがあります。「霊界には、時間がない。、、時間はないが状態の変化はある。」というのがみそです。

読み替え遊びをすると。

1)霊界には、とき(時)がある。故に、霊人はとき(時)ということを知っている。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、とき(時)はあるが状態の変化はない。

2)現界には、時間がある。故に、現界人は時間ということを知っている。其処には、霊的事物の連続とその弥栄がなく、歓喜によって生命していない。即ち、時間はあるが状態の変化はない。

3)現界には、とき(時)がない。故に、現界人はとき(時)ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄がなく、歓喜によって生命していない。即ち、とき(時)はないが状態の変化はある。

4、5、6)とまだまだできそうですが、もう遊びは止め。

どこの誰が霊界には時間がないと納得させてくれるのかわかりませんが、この「時間」という言い方、「霊界」という言い方が、日本語ではなく外来語であることに気付くべきです。

時間という言葉に従ってしまいその心の運びに盲従してしまうことと、時間を創造していく心の運びの違いがあります。(ひふみ神示は人を引っ掛けるのが大好きなようです。)

ひふみ神示自身も言っています。

「霊界には時間、空間は無いと申してゐるが、無いのでないぞ。

違って現はれるから無いのと同様であるぞ。あるのであるぞ。」

「時間、空間もあるのであるが、ないのであるぞ。」

「判るやうに申すならば、時間も空間も映像であって、情態(註:内面的な状態)が変るのみのことであるぞ。」

ということで、引用も気に入ったからといって恣意的にすると問題ですが、言い換え遊びにしてしまうのも真面目さを欠くようです。

「一切の未来も一切の過去も、総てが現在ぞ。中今ぞ。現在は永遠ぞ。」

要するに過去も未来も「中今ぞ」ということが分かればけりの着くことです。

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ム◎ いま(イの間)論の準備

「中論」鳩摩羅什の訳、Zapoの現代語訳

「何ものも消滅することがなく(不滅)、

何ものも新たに生ずることもない(不生)。

何ものも断滅することがなく(不断)、

何ものも恒常であることもない(不常)。

何ものも同一ではなく(不一義)、

何ものも異なることがない(不異義)。

何ものも来ることがなく(不来)、

何ものも去ることもない(不出)。」

「質問して言う。

諸々の法(ものごと)は、はかることができないぐらい沢山(無量)あるが、どうして、この八つの事柄(八事)だけをもって、邪見を破れるというのか?

答えて言う。

諸法は、無量というが、略して八事を説けば、それがそのまま、総じて一切法(全ての物事)の邪見を破ることになる。」

とにかく仏教書は分析がお好きと見える。幾らでも切りきざんで行く。読み追いかけるのが大変だ。

ところがこれも見方を変えると、こうなる。

きっとどこかに公表されていないネタ元があって、それに沿って述べているだけかもしれない。隠されている口伝の原理があって、その口伝さえ知れば誰でもがほぼ同じようにどの問題についても、同じような分析の過程を経ていくことができる、のかもしれない。

時代を越えて書き手が変わっても、常に使える隠された原理があって、それを応用しているのかもしれない。

仏教の教えにもよく「八」に関するものが出てきます。昔、釈迦が古代大和の地にきてスメラミコトから教えを受けたこととつながっているからでしょう。

「八」というのは古代のスメラミコトガ世界の宗教指導者に与えた原理の一部です。

スメラミコトは「原理」を教えたのですが、教えを受けた世界の聖人たちは自らの教義、教え、教訓としてしまいましたので、原理としては伝わらず、釈迦の「教え」とか、モーゼの「教え」、キリストの「教え」、孔子の「教え」とかになってしまいました。

各聖人たちがスメラミコトの「原理」を「原理」として広めたなら、現代の世界の混沌混乱は無かったでしょう。

大元の開始者達が受けた「原理」を、自分の「教え」としている以上、お互いに了解し合えることが制限されてしまいました。世界の歴史はそれぞれの「教え」の上に載って未だに暗黒史が続いてます。

しかし世界の各大宗教間での了解がとれないようになりましたが、世界中に各宗教の教えが伝搬した御蔭で、世界の人々の未来に希望と光があることが分かるようになりました。

それと同時に、どの宗教においても教義に囚われていては、世界の和は得られないことが全世界一斉同時に知られるように成ったのです。

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メ◎ いま(イの間)論の準備

まだ表題が定まらず、<いま>論、今( いま・イの間)論、今-今論その他とかいろいろ思っていますが、どうしても「イマ」を探りたいので「イマ」と付けたい思っています。

ところが、イマというのをイの間としても、どこから見ても理解はできないのが現状です。その元ネタを古事記にして、古事記が心の原理論教科書ですといっても、宣伝文句程度に聞かれる状況です。

逆に現在は、インスピレーションを受けて考えれば、想いが膨らみ思考が豊かに成ったように思われ、そうすると現実との乖離が気になり、そこで行動に係わるとこの世が変わるように感じられ、現実を変える思想を持っているように思い込んでいきます。

未来の目標が自分の中にできていますから、その基本要求を自分が実現していくと、そのまま社会も動くように勘違いをしています。それらが古代からの偉大な宗教道徳思想と結びつくと、その権威の元にそれが保証されているように感じます。

釈迦もキリストもモハマッドも未来への希望を与えてしまいました。それを基礎に未だに新しい宗教などが継ぎ足されています。二千年の間何もできていないことを思い出すどころか、忘れてしまい、非道と抑圧と殺戮の歴史を許してきました。

現代はそろそろ全体を自己反省する時代です。一つのことがすぐ全体に繋がっていることが普遍的に認識されています。

しかしそれを保証するための思惟規範が、原理と成る思想がありません。そのため過去代の偉大な思想、宗教を基礎として真似ていく事から始めようとますが、それを土台として前提にしていますから改築改修新発見の付け足しに留まります。でんぐりかえしに至りません。

ということで、ここから先は真の古事記の宣伝になります。

ですので書くことはありません。

自分で突っ込んで勉強してみる意外に分かることは無いでしょう。

表題候補

「今(いま・イの間)論」

「オノコロ島の今現在論」

「論考・今現在論をつまとして古事記はいかに成れるかと問い自答する」

「今門関」

「今(いま)学入門」

「中今学」-心の宇宙の中に活動が始まる一点

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モ◎ いま(イの間)論の準備

二十一世紀の世になっていまどき「今とは何か」などと問おうとしています。

古くて新しい問いなどといって、気に入っているわけではありません。

ましてや新発見があったからといったところで、せいぜい思い付きでしかないのは分かりきったことです。精神意識分野では心の原理が古代スメラミコトの時代に確定してしまっていますから、付け加えることはありません。八千年前に既に終了しています。私たちは知らないだけのことで、原理としては何時の時代にも貫徹しています。

丁度、鳥が卵を抱くように、母が乳をふくませるように、既に決まっていることです。

その原理とは古事記の神代の巻としてあらわされた思想のことですが、理解できるできないとか、理解するしないとか、誤解されるとか曲解しているとかは、個人レベルのことで、原理の実在に関係しません。

現代の世界は経済、知識、科学技術、情報、交通、生産流通、スポーツ等々は単一でそれ自体で完結してしまう規制された枠の中にありません。もちろん大昔から人間には渡り鳥みたいな習性が伝わっていて、いかだに乗って大洋に漕ぎだしていましたが、現代は多くの分野で、地球単位での行動になっています。

科学や知識分野が地球単位になっているのに、思考の分野はお気に入りの思い付きのおらが春しか目指していない。駆けっこだって世界を相手にしているのに、、、、

ところで、世界を目指すとどうなるのか。

日本語しか知らないのに世界を目指せるのか。

日本でさえ古事記を知らないのに、それを解説するというのか。

古事記の守護者である天皇も神話に拠らないと宣言してしまった。

疑問ばかりでどうする。

心の原理である古事記は何と言っているか。

あめつち

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す

かくなすべし

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