布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座

布斗麻邇(ふとまに・言霊学)講座

昨年の始めから十数回にわたり「言霊学より見た日本と世界の歴史とその将来について」の講座が三月にて完結しましたので、今月からは初心に帰り、言霊学(昔の言葉で布斗麻邇(ふとまに)と呼びます)講座を開くことといたしました。初めて講座に参加される方のために、言霊学とはどんな学問なのか、それをお聞き下さることによってどんな効能を手にされるのか、…について少々説明させて頂き度いと思います。

言霊学とは人間の心と言葉に関する学問であります。今から推定八千年乃至一万年前に私達日本人の遠い祖先によって発見・完成されました。その内容を簡潔に申しますと、人の心は五十個の言霊(ことたま)によって構成されており、それより多くも少なくもない、ということであります。人はこの五十個の言霊を操作運用して生活を営んでおり、その操作法も丁度五十通りあります。五十個の言霊を五十通りに動かすことによって人は生きております。そして五十個の言霊を理想的に五十通りに運用することによって、人間が持ち得る最高の精神構造に到達することが出来ます。この究極・最高の精神構造を信仰上の神と崇(あが)めますと、その神名を天照大神と申します。その最高の五十音の言霊の配列による構図の表徴的器物を八咫鏡(やたのかがみ)といいます。この八咫鏡の言霊構造を生きた人間の心の内容として説明するのが言霊学であります。

この言霊学の教科書は古今・東西、唯二つしかありません。古事記と日本書紀であります。言霊学(布斗麻邇)は訳有って今から二千年前、神倭(かんやまと)朝十代崇神天皇によって社会の表面から隠されました。そして後世、この学問がどうしても必要となる時の用意のために、今より約千三百年前、古事記が太安万呂により、日本書紀が舎人(とねり)親王達によって編纂されました。時の天皇の勅命によってであります。

では言霊学の教科書としての古事記・日本書紀はどのような書物なのでしょうか。古事記は全文が漢字で、日本書紀は全文が漢文で書かれています。日本書紀は全文が漢文で書かれていますから、漢文(中国文)が読める人なら書紀は誰でも読めます。けれど漢文を読める人でも古事記は読むことが出来ません。漢文が読めてどうして……?と思うでしょうが、事実なのです。その理由をお話するのは骨が折れますから、例を引きましょう。

古事記本文の初めに近く「次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、……」という文章があります。この文章を古事記原文は「次国稚如ニ浮脂一而、久羅下那洲多陀用幣琉之時、……」と書かれています。初めから原文を読んだのでは、何のことだか全く見当もつかなくなりましょう。以上、短文ですが例を御覧になれば御理解頂けると思いますが、日本語の文章に、私達が難しい漢文の字に假名または平假名でルビを付けるように、安万呂は日本文の一字々々に、その意味、または発音が同じ漢字を選んでルビを振ったのです。これでは中々完全に読む人は出ては来ないでしょう。一七九八年(寛政一〇年)本居宣長が原文を日本の文章に翻訳し、「古事記伝」を完成し、初めて人々が読めるようになりました。

二つの教科書の中で、日本書紀は講座の後半に取上げることにして、古事記を先にお話しましょう。古事記は上・中・下の三巻に分れています。上つ巻は神々の神話です。中つ・下つの両巻は神倭朝初代神武天皇より三十三代推古天皇までの実際の歴史を載せてあります。

古事記神話の中で、「天地の初発の時(あめつちのはじめのとき)、……」に始まる一章から「身禊」の章の天照大神・月読命・須佐男命の三貴子(みはしらのうずみこ)に至るまでが言霊学の教科書であり、次の「天照大神と須佐男命」より最終章「鵜草葺不合命」までが言霊学原理の応用問題ということになります。そしてこれら古事記の上つ巻の神話が示す精神内容を解明し、言霊学という人類の最高精神秘宝の中に読者をお導きさせて頂くのが本講座の目的であります。

さて講座の本論に入る前に、言霊学の唯一の教科書といわれる古事記(日本書紀)の神話について、現代人には夢にも考えないであろうと思われる神秘と言うか、不可思議というべきか、途方もない文章の構成についてお伝えすることにしましょう。

先にお話しいたしました如く、ユダヤが世界統一を完成・完遂するまでに、天皇、皇室または外戚の何方(どなた)かに、言霊布斗麻邇の学問を復命(かえりごと)申上げること、これが当言霊の会の責務であります。この事業が皇祖皇宗の新文明創造上の最も重要な仕事ということが出来るでありましょう。この名もほとんど知られていない小さな会が、人類の文明創造の歴史の転換・推進の鍵を握っているなどということは、全く夢の如き絵空事と思われるかもしれません。けれど歴史を転換し、更なる創造を続けて行くための主体性(鍵)をしっかりと握り、歴史創造のゴーサインのベルを押す任務は世界で唯一つ、この言霊の会が握っていることを忘れてはならないでしょう。出来得べくば、そのベルを自らの責任に於いて押し得る人が三人集まれば最上です。天の御中主の神(ウ)、高御産巣日の神(ア)、神産巣日の神(ワ)三柱を造化三神と呼ぶように、ウ<ア・ワは物事の始めであり、老子はこの事を一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず、と数霊を以って説明しています。

言霊学の教科書の本論となる部分は、神話の初めの「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神。……」から「三貴子」まで、即ち天照大神・月読命・須佐男命の誕生まで、と前にお話しました。この言霊学の教科書となる神話の中に全部で百余りの神名が出て来ます。正に神様オンパレードです。この事がキリスト教などの一神教に対して日本の神道が多神教といわれる所以であります。この様に神様の名前が羅列されますと、古事記の神話は何を言おうとしているのか、さっぱり分からなくなります。

更に古事記の神話は「天地の初発の時、……」と文章が始まります。こう言われれば、「天地の初発」とは「この太陽や地球を含んだ宇宙が大昔の昔に何もないところから活動が始まった時、……」と解釈するより他に受け取りようがなくなります。即ち広い意味で地球物理学、宇宙物理学や天文学等々の問題と解釈せざるを得なくなります。書店に並ぶ古事記の神話についての註釈欄を見てもその事がはっきり窺えます。例を引いてみましょう。

宇魔志阿斯訶備比古遅の神=葦の芽の神格化。神名は男性である。 天の常立の神=天の確立を意味する神名。 国の常立の神=国土の定位を意味する神名。 豊雲野の神=名義不詳。以下神名によって土地の成立、動植物の出現、整備等を表現するらしい。 妹阿夜訶志古泥の神=驚きを表現する神名。等々。

以上少々神名についての国語学者の註釈欄から引用しましたが、読んでみて、お分かりになる方は少ないのではないでしょうか。そしてこの訳が分からぬことから、ともすると私達日本人の祖先の人々が学問的には幼稚で、幼稚なるが故に「おおらか」な心の持主だと思い勝ちになるのではないでしょうか。かくて古事記が太安万呂から撰上されてから現代まで約千三百年の間、古事記の神話は古代日本人の知識の幼稚さとおおらかさを示す、単なる神話として文学的にのみ受け留められて来たのが実状であります。

一般の常識の観点から古事記神話を読むならば、どう考えても絵空事のような神様の物語としか思えない文章が、観点を一転してこの神話を読む時、この何の変哲もない神話が、日本人だけでなく、世界人類全体が、少なくとも今後の人類の営みの中で各分野の指導的役割を担う人ならば必ず知らなければならない人間精神に関係する心と言葉の究極、最高の真理である言霊学原理の世界唯一の教科書であることが分かって来ることとなります。本講座はこれより神話の初めから終りまで、一字一句も忽せにすることなく、解釈を進めて行きます。お読み下さる方は、この神話を通して人間の心と言葉のすべてを掌に執る如く御理解頂けることと存知ます。

私は先に「観点を一転すれば」と申しました。絵空事のような神様の物語が、一転して精細・厳密な、そして一貫した合理性ある心と言葉の原理である言霊学の教科書となるには、観点を変えるのも合理的でなければなりません。そこで観点を変える重要な二つの点を明らかにしておこうと思います。

一、第一の観点の転換は神話冒頭の一句「天地の初発の時」の解釈であります。現代常識で「天地のはじめ」と聞けば、何の疑いもなく、現代宇宙物理学や天文学がいう所の何十億年か、何百億年か以前の、この眼前の宇宙が生成活動を開始した時と解釈します。けれど古事記の「天地のはじめ」はそうではありません。目を外に向けて、広い戸外や天空を見上げて下さい。そこには地上のいろいろな生活の営みや、太陽や多くの星が輝いています。銀河や、光年の尺度で計る無数の星がまたたいているでしょう。今度は眼を閉じて心の中を思って下さい。そこにある心の宇宙の中には過去、現在、未来のいろいろな事が思い浮かぶでしょう。古事記神話のいう「天地のはじめ」の天地とは、この心の宇宙のことを言っているのです。「なーんだ、そんなことか」と思うかも知れません。けれど古事記のいう「天地」とは心の宇宙のことだ、と気付かなければ、言霊学は永遠に認識の外に止(とど)まってしまうこととなります。何故なら、その次に来る古事記の言葉「天地のはじめの時」の「はじめ」の持つ真実の意味に到達することが不可能となるからです。

私達が思う「広々とした心の宇宙(その中で心の幾多の現象が現れたり、消えたりする訳ですが)の初発(はじめ)とは何でしょうか。それは心の中から何かの出来事(現象)が始まろうとすることでありましょう。何か始まろうとする一瞬、それは「今」でなければならないでしょう。同時にその処は「此処」でなければなりません。広い広い心の宇宙の中に、何かが始まろうとする一瞬、それは時は「今」、場所は「此処」であります。この認識が、古事記神話が言霊学の教科書だ、とする必要・不可欠の条件の第一であります。

二、古事記の神話を言霊学の教科書だと断定する第二の重要な条件は、言霊学の根本原理の記録が長い間、宮中賢所に秘蔵・保存され、明治時代に入り、明治天皇御夫妻がその存在にお気付きになった時から、隠没・秘蔵されて来た学問の復活が始まったのであります。

先にお話申上げたことですが、言霊学は私達日本人の祖先の数百年乃至数千年に及ぶ長年月の研究努力の結果、発見・完成された人間の心と言葉に関する学問であります。日本を宗師国として世界は数千年に及ぶ長い間、この言霊原理の下に平和で心豊かな社会を謳歌して来たのです。詳しいことは「古事記と言霊」の歴史編を参考にして頂くこととして、今から約二千年の昔、崇神天皇の時、故有ってこの原理は政治への活用を封じられ、社会の表面から隠没されたのでした。隠されたと言っても、永久にその存在を無にしたのではありません。必要な時が来れば、この学問は国家・社会の指導原理として世に復活されなければなりません。その復活のため種々の施策の一つとして、隠没後七百年、今より千三百年前に、勅命によって編纂されたのが古事記・日本書紀でありました。しかし、その時はまだ原理そのものを有りの侭に復活させる時期ではありませんでしたので、撰者として勅命を受けた太安万呂は、苦心の結果、言霊布斗麻邇の学問を神々の物語の形式による言霊原理の呪示(謎)の形で「知らしてはならず、知らさいでもならず、神はつらいぞよ」(大本教祖お筆先)の如く、今直ちに真実に気付く人は出ないが、言霊布斗麻邇という言葉が将来頭脳内に閃いた人にはその真意が分かるように、古事記神話をまとめたのであります。

更に特筆すべき事として次のことが挙げられます。古事記神話の最初に登場する天の御中主の神より五十番目の火の夜芸速男(やぎはやを)の神までがアイウエオ言霊五十個のそれぞれと一神一個づつ対応するのですが、その組合せだけは古事記神話には載せず、言霊と神名とのタイ・アップの記録は宮中賢所に秘蔵したのであります。

この様にして古事記が書かれて約千二百年、明治の世となり、明治天皇と御結婚された昭憲皇太后は一条家よりお輿入れ遊ばされたのですが、そのお嫁入り道具の中に古代の三十一文字の和歌を作る要諦が書かれた本があり、その本に和歌と五十音言霊との関係の記事が載っていたそうであります。その事から明治天皇が賢所に保存されていた古事記神話の中の神と五十音言霊との結び付きの記録の存在に気付かれ、それ以後明治天皇御夫妻と、皇后の書道の先生でありました国学者、山腰弘道氏との三人によって日本民族伝統の五十音言霊学の復活の研究作業が始まったと聞いております。

以上の事実が言霊学を勉学する上で何故重要な一事となるか、と申しますと、たとえ古事記神話の神々の名前が五十音言霊の一つ、一つに当てはまるのだ、ということに気付きましても、日本語を造る基本となる五十音の言霊と、古事記の五十神との合理的な結び付きを、一人または数人乃至数十人の労作を数年…数十年と重ねて完成させようと努力しましても、到底出来得ることではないことだからであります。

言霊学を学ぶに当たり、勉学者が常に心得ておくべき重要な二点についてお話を申し上げました。お分かり頂けたでありましょうか。「人には心がある。心とは何であろうか。心と言葉とはどんな関係があるのか」の疑問を起こし、高天原と呼ばれた地球上の高原地帯に集まった賢者達が、幾万の人数と、幾百、千年の歳月をかけて完成した言霊学であります。それは五千年程昔「物がある。物とは何であるか。物共通の法則とは何か。」の疑問を起こし、子々孫々にわたって研究・努力を重ねて今、ここに一応の完成を遂げようとしている人類の物質科学文明と同様のものであったに相違ありません。それは心と言葉のすべてであります。講座が進むに従って、現代人の持つ心の知識が如何に小さく、貧弱なものであるか、を自覚されることと思います。と同時に人間という生物に生まれた時から授与されている人間性能というものが、現代人が意識しているものとは比べ物にならない、想像もつかない程偉大で荘厳な力強いものであることに気が付かれるに違いありません。そして人類が、言い換えますと、将来の人々が、自らに授与されている心とその性能の可能性に気付き、それを自覚するならば、人類の将来は素晴らしいものがある事に勇躍することとなりましょう。以上を講座に入る前段のお話として、希望にあふれた言霊学講座を開始することとしましょう。

その二

今月より言霊の学問である布斗麻邇の講座の本論に入ろうと思いますが、先にお話申しましたように、言霊の学問の教科書となるものは古事記(と日本書紀)より他にはありません。古事記の上つ巻の神話が唯一の頼りであります。先師小笠原孝次氏が、この世に生きる人間の「心の構造とその動き」として初めて古事記神話の解釈によって言霊学の本を世に送りました時、その本の名前を「古事記解義言霊百神」と名付けました。言霊の学問は古事記を説く以外に方法はありません。

そこで私も今、「言霊学とは何ぞや」をお話申上げるについても、古事記の文章を一字一句、一行、二行とその内容を説明させて頂くこととなります。古事記の本文を読んでいただくと分かることですが、初めから神様の名前が次から次へと数限りなく出て来ます。まるで掴み所のない、途方もない文章なのです。けれど、画竜点睛(がりゅうてんせい)という言葉があります。竜を画いて、その睛(ひとみ)を画き加えると急に活動する趣きが出て来る、の意です。または一言・一句(一部の行為)で、全編(全部)が引き立つ事の意です。少々意味は違いますが、古事記神話という途方もない文章が、一たび、その古事記神話は有りきたりの神様の物語ではなく、私達人間が今・此処で何かをしようとする時の心の構造と、その動きを呪示(じゅじ)したものなのであり、その構造と動きの単位・要素が、私達日本人が日頃使っている日本語を構成しているアイウエオ五十音の言霊なのだ、と気付く時、この古事記の文章は、今度は途轍もなく正確な人間の心と言葉に関係した究極の学問なのだ、ということが、読む人の心にビンビンと伝わって来るように理解されて来る書物なのです。余程の偏見を持った人でない限り、心の底に素直に入って来る真実の教えなのであります。

そこで言霊布斗麻邇のお話も当然神様の名前の意味・内容、それを表現するアイウエオ五十音の言葉の単位との関係、そしてそれ等の言霊が心の中でどのように活動して人間の生活が営まれて行くか、の働きの問題が説明されて行くことになります。その結果、現代人が夢想にも出来ない人間の最高至上の精神構造に読者を導く「禊祓」の章で完結します。その初めより終わりまでが、神名で言いますと、伊耶那岐・伊耶那美の二神の愛と葛藤の物語として述べられています。その間、学問で言えば厳密な人間の心と言葉の法則が、また物語小説で言えば全編が二神の心の宇宙を舞台とする壮大な愛と絆の物語が流れるように語られることとなります。以上の物語と原理法則の流れを御理解頂くために、お話の前に各章の順を追って簡単な説明を予め述べておくことといたします。それによって、読者の皆様が物語りの流れと原理法則同士の関連についての予備知識となれば幸いであります。

第一章 天地のはじめ

この章は古事記の書き出しの言葉「天地の初発の時、(あめつちのはじめのとき)…」に始まり、「……次に伊耶那岐(いざなき)の神。次に伊耶那美(いざなみ)の神。」に終わる章です。十七の神が現われます。言霊で言うと十七個の言霊です。現代の物理学は物質の先験構造を明らかにしてその中の要素を電子、陽子、中性子……等、究極の要素(クォーク)として十六個の核子の存在を予想しているようでありますが、日本伝統の言霊学では人間が意識で捉えることが出来ない心の因子として十七個の言霊を発見し、それに母音五、半母音四、父韻八、計十七個の言葉の単位を当てはめ、この十七の言霊が人の心の先天構造を構成すると教えています。その先天言霊の一つ一つを指示するのが、古事記の十七の神名であります。即ちアイウエオ(五母音)、ワヰヱヲ(四半母音)、チイキミシリヒニ(八父韻)計十七言霊です。

第二章 島々の生成

心の先天構造が明らかにされましたので、その活動で人間が自分(おのれ)を自覚することとは如何なることか、が明らかとなります。淤能碁呂島(おのごろしま)です。「おのれの心の島」の意であります。そしてその「おのれ」が物事を「判断する」とはどういうことなのか、が明らかとなります。次に、先天構造内の父韻と母音とが結合して、意識で捉えることが出来る後天現象の要素である子音を生む工夫が計られ、失敗もあるのですが(この失敗によって人間の心理の重要事項が知らされます)、遂に子を生む正しい仕方を知り、「子生み」の作業に入ることとなりますが、その作業の前に、生まれる子音三十二個が人間の心の中の如何なる位置に収まるか、またそれ等の子音が結合して言葉となって活動する時、どの様な状態を現出するか、があらかじめ検討されます。この作業を「島生み」と申します。島とは心の締まりの意です。

父韻、母音、半母音計十七音言霊の心中に占める位置を示す島の名はそれぞれ「淡路の穂の狭別の島(あわじのほのさわけのしま)」、「伊豫の二名の島(いよのふたなのしま)」、「隠岐の三子の島(おきのみつごのしま)」、「竺紫の島(つくしのしま)」、「伊岐の島(いきのしま)」の五島であります。いずれの島の名も地図上の島名とは何の関係もありません。心の位置を示す呪示です。

次に生まれて来る現象子音三十二個の心の中に占める位置を示す島名が三つあり、「津島(つしま)」、「佐渡の島(さどのしま)」、「大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)」であります。これ等も地図上の島とは関係がなく、ただ島の名前の指示する内容に意味があります。

心を構成する五十音言霊(五十神名)が占むべき心の位置が定まりましたので、次にその五十音言霊を整理し、活用する働きの順序、意義、内容が定められます。古事記はこれもまた島の名で表現します。吉備(きび)の児島、小豆(あづき)島、大(おほ)島、女(ひめ)島、知訶(ちか)島、両児(ふたご)島の六島と続きます。このような島の名前がどういう意味を持つかは本文の説明の時明らかとなります。

第三章 神々(子音)の生成

伊耶那岐、伊耶那美二神の現象子音の創生の準備として言霊百神の占むべき心の位置が決定されましたので、次に現象子音の生成の作業に入ります。生まれる子音はタトヨツテヤユエケメ・クムスルソセホヘ・フモハヌ・ラサロレノネカマナコの三十二子音であります。これで先天音十七、後天音三十二、計四十九音となり、これ等四十九音を神代神名(かな)文字で示す作業火の夜芸速男(ほのやぎはやを)の神、またの名火の迦具土(ほのかぐつち)の神(言霊ン)を加えて、言霊合計五十となります。

第四章 言霊の整理、活用の検討

この第四章は古事記神話の神代文字言霊ンが生まれ、五十神、言霊五十個が全部出揃った事を受けて、伊耶那岐の命がその言霊全体を自ら整理、活用の作業を始める所、即ち神話の文章「この子を生みたまひしによりて、御陰灸(みほとや)かえて病(や)み臥(こや)せり」と伊耶那美の命が病気になる所から始まり、……「殺されたまひし迦具土の神の頭に成りませる神の名は、正鹿山津見(まさかやまつみ)の神、……かれ斬りたまへる刀の名は、天の尾羽張(をはばり)といひ、またの名は伊都(いつ)の尾羽張といふ」所までをいいます。

第三章に於て伊耶那岐・美二神の「子生み」という協同作業は終わり、伊耶那美の命は子種が尽きて用がなくなり、神避りました。「神避(かむさ)る」と言っても、死んで魂の国に行った、というのではありません。伊耶那岐の命の主観世界から、伊耶那美の命の本来の客観世界へ帰って行った、というわけであります。そして伊耶那岐の命は主観世界の責任者の立場から、自分一人で言霊五十音の整理・活用の検討作業に入ります。その努力の結果、五十音言霊の初歩的な整理の完成図として和久産巣日(わくむすび)の神(天津菅麻[すがそ]音図)を確認し、更に検討を進めて行って、主観的にではありますが、人間最高の心の構造である建御雷の男の神(たけみかづちのをのかみ)の自覚に到達するのであります。これは未だ證明を伴わない究極真理(天津太祝詞音図)の原図です。

更にこの章において言霊五十音を八種の神名(かな)文字に表わす手法が明らかにされます。

第五章 黄泉国(よもつくに)

この章の始まりは「ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国の追い往でましき。……」であり、終わりは「かれそのいはゆる黄泉比良坂は、今、出雲(いずも)の国(くに)の伊賦夜坂(いぶやさか)といふ」であります。

五十音の言霊を自らの責任で整理・操作して心中に建御雷の男の神という主観内ではありますが最高の真実に到達した伊耶那岐の命は、自分の妻である伊耶那美の命のいる、客観世界の黄泉国に行き、そこの文化を経験することで、自らの心の中の真理が通用するかどうか、を試そうと高天原から出掛けて行きました。そしてそこには、高天原にはない、矛盾に満ち、その矛盾の中から種々雑多な実験と工夫が間断なく湧き上がって来る自己主張の世界の実状に恐れ戦(おのの)いて、高天原に逃げ帰って来ます。逃げ帰りながらも、追いかけて来る黄泉国の文化、主張を自らの判断力である十拳剣(とつかのつるぎ)を後手(しりで)に振りながらそれ等の真相を見極め、最後に追いかけて来た妻神、伊耶那美の命と、高天原と黄泉国との境にある千引石(ちびきのいは)を挟んで相対し、高天原の主観的真理と、黄泉国の客観的真理とは決して同一にならないことを知って、岐美二神は永遠の離婚を宣言することとなります。これを「言戸(ことど)の度(わた)し」と申します。以上が第五章の内容です。

第六章 禊祓

第六章、これが言霊学の教科書としての古事記神話の最終章となります。この章以後の神話は上つ巻の終わりの「鵜草葺不合(うがやふきあえず)の命」まで言霊学の応用問題と申せましょう。

黄泉国より高天原に帰還した伊耶那岐の命は、黄泉国の文化が高天原のそれとは全く異種の文化と知り、それを知りながら、全人類の文明を創造して行くためには、その異種の文化をも自らの責任として、世界文明創造の糧として取り込む為にはどうしたらよいか、の検討に入ります。この創造の手法を「禊祓」と申します。

伊耶那岐の命は自らの領域である主観世界の基盤に立ち、更に伊耶那美の命の領域の客観世界をも併合した御身(おほみま)の立場に立ち、伊耶那岐の大神となって、禊祓の大業の検討に入ります。主観世界であると同時に客観世界を取り込む立場、それは人間生命そのものの立場と申せましょう。その立場から、如何なる地球上の文化をも取捨選択することなく受け取り、それに新しい息吹を与えて世界文明創造の糧として生かして行く、所謂禊祓の大業の検討に取り掛かります。その結果、人間の最高・究極の精神構造を示す天照(あまてらす)大神、月読(つくよみ)命、須佐男(すさのをの)命の三貴子(みはしらのうずみこ)の誕生という心の内外両證明を兼ね揃えた人間生命の絶対真理の自覚の完成となります。

以上が言霊布斗麻邇の学のあらましの内容であります。読者の御勉学の参考になればと、古事記本論の解説に入る前に申し述べました。言霊学の教科書としての神話は、文庫本にしてたった十二頁の神々の物語であります。この短い文章の中で、伊耶那岐・美二神の愛と創造と葛藤の流麗な物語が展開されます。その物語の裏に秘められた神々の名前の指し示す所を、「言霊五十音の教科書なり」の観念の下に繙いて行く時、人間の心と言葉に関する一切の法則が眼前に姿を現わすこととなります。その学問的真理の立場から見ても、その流麗さは他の追随を許さない驚嘆すべき書であります。編者の太安万侶の才能の豊かさに頭を垂れること幾度でありましょうか。

前置きはこの位にして、古事記の文章の解説に入ることにしましょう。御手許に古事記の本を参照しながらお読み下さると便利かと思います。

第一章 天地の初発の時

古事記の神話は「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかまはら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。……」と始まります。この「天地のはじめ」を前文でお伝えしましたように「眼前に展開している大宇宙が大昔、何かの活動を始めた時」と、天体物理学や天文学が考える「宇宙の始め」と解釈しますと、「コトタマ学」の「コ」の字も現われては来ません。ここでは眼の鱗(うろこ)を剥(は)がして、「心の内面の広い広い宇宙」なのだ、とお分かり下さい。この心の宇宙の「はじめ」となりますと、何もない心の中に「何かが起ころうとする時、」ということになります。「何かが起ころうとする時」とは何時だ、と考えると、それは「今」だ、という答えが出て来ます。よくよく考えてみますと、人間は常に「今、今、今……」に生きているということになります。そうすると、そこは何処だ、と言えば、「此処」だ、ということになりましょう。人間は常に「今、此処」に生きています。西洋の哲学者スピノザはこの「今」のことを「永遠の今」と呼びました。

「若者は明日に希望を馳(は)せ、老人は昔に生きる」と言うじゃないか、と反論するかも知れません。けれど若者が明日の希望を夢見るのは矢張り今であり、老人が昔を懐かしむのも今なのです。そうと理屈としては分かるけれど、心中にしっくり行かない方も多いことと思います。何故なのでしょうか。

仏教の禅に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉があります。過去の心は既に過ぎ去ったもので、「これだ」と掴むことは出来ない。現在の心といっても、次から次へと移り変わってしまうから、これも掴むことは出来ない。未来心とはまだ来ない日の心なぞ尚更掴むことは出来ない。どれもこれも空々漠々、確かにこれだ、ということが出来ない、ということです。その常に移り動いている心からは、止まっていて、動かないものも、動いているように見えて、動かないものを、これだ、と指定することは出来ません。要は自分が動いているから、すべてのものが動いて見えるのです。

若し何らかの工夫の上で、永遠に動かぬ今に立つことが出来るならば、その今・此処の中に、自分に関係する過去の一切のことが今・此処にぎっしりと詰まっており、その過去一切のものを活用して、今の一点に於て自分の責任で、自分の思うままに、将来への創造の第一歩を自由に踏み出す事が出来るでしょう。矢張り禅の言葉に「一念普(あまね)く観ず無量劫(むりょうごう)、無量劫の事即(すなわち)今の如し」とあります。簡単なようでいて、「今・此処」を掴むことは宗教修行の一生をかけた目的となっています。

常に前に前に進むことが善だと信じ、その結果「まだ、まだ」と現状に半分不足・不満の念を残す現代人が、比較的容易に今・此処の心を確保する方法をお伝えいたしましょう。それは何時、如何なる時にあっても、「今、自分が置かれている状況は、自分にとってすべて必要だから起こっていることなのだ。だから私は希望はどうあれ、これ等の状況一切を有り難く受け入れ、感謝の心で迎えよう」と心を空っぽにしてこれに対します。すると案外、素直に自分の置かれた状況を冷静に受け止めることが出来るのを感じます。そうしたら、自分を取り巻く状況の真実がはっきり見えて来るものです。それによって対応する手段が心の中に次々に浮かんで来ましょう。この方法はどんなに大きな事件についても活用可能です。何故なら人々の心の本体は広い広い宇宙そのものなのであり、その宇宙の内蔵精神は愛であり、慈悲であり、人々は誰もがこの宇宙の心を心として生きていますから、感謝の念で物事を見ますと、物事の状況(実相)をよく把握することが可能となるからです。ある先輩から聞いた話ですが、愛という字は「受ける」の字の中に「必ず」という字が入って出来ています。愛とは人それぞれの本体である宇宙(これを言霊アと呼ぶのですが)が持つ基本の心なのでありますから。

大きな鏡の前に立ってみて下さい。貴方はその鏡に映ずる容姿と、人としての経験、社会的財産、等々が御自分のすべてだ、と思っていらっしゃるのではないでしょうか。若しそうだとしたら、それは大変な間違いです。人の心は、眼前に見る客観宇宙と同じ広さの、内観される心の宇宙を本体とし、鏡で見る自我は、その宇宙本体から一瞬々々現出する現象の自我に過ぎません。私達が今まで「自分」と思っていたのは、自我の本体ではなく、現われ出た現象の自我に過ぎないものなのです。人がこの世に生きているということは、言霊の学問を学んで行く間に、素晴らしく大規模で現代人が夢にも思えない程精妙な生命が人類という大きな使命を持ったものの一員として、限りない生命を生き貫いて行くのだということを認識なさることとなるでありましょう。

神話の初めの「天地のはじめ」を解説するのに、風呂敷を広げすぎたかも知れません。でもお話する私自身としては、人という生物がこの地球という素晴らしい天体の中で、今後人類が辿(たど)るであろう栄光の歴史をお伝えしようとして、これでも慎重に筆を動かしているつもりなのです。言霊学とは、現代の原子物理学や、人間の遺伝子の学問と同様の厳密な法則を備えており、これを正しく操作・活用するならば、この地球上を環境的に、政治的、経済的に、また芸術的に真実の楽園たらしめることなど朝飯前の如く考えられ、心中ワクワクとしながら筆を執っているのであります。

古事記の文章を先に進めます。

「高天原に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。」

神話の中で高天原という言葉は種々の意味に使われています。しかし此処に出る高天原は、神話が始まって間もない時で、まだ何も分かっていないことでありますので、「広い広い心の宇宙の何も起こっていない処」の意と解釈するのが妥当と思われます。「成りませる神の名は、」の「成る」を文章通り神様の名前と解釈しますと、「成る」の字が妥当となり、言霊の教科書だから、と考えますと、「鳴る」の字が当てはまると思います。次に「天の御中主の神」の意味を考えてみましょう。「天の」は「心の宇宙の」の意であることは容易に分かります。次が問題です。「御中主」とは、文字通りにとりますと、「まん中にいる主人公」の意となります。何もない宇宙の中に何かの意識とまでは行かない、かすかな何か分からないものが出現しようとしました。そして宇宙は広い広いものですから、その何処に位置しましても、初めて生れ出た処が宇宙の中心と言って間違いではありません。としますと、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」の全部を、意識で捉えることが出来ない先天の心の動きとして表現しますと「何もない広い広い心の宇宙のまん中に、初めて何かが起ころうとする、目には見えない心の芽が生まれる宇宙」ということになります。やがてはこれが人間の自我意識に育つこととなる芽であります。そしてこの「天の御中主の神」という神名に、宮中賢所秘蔵の言霊原理の記録は「言霊ウ」と名付けたのであります。言霊ウに漢字を附しますと「有(う)」、「生(う)」、「産(う)」、疼(うずく)、蠢(うごめく)等となります。

古事記神話の冒頭の文章をもう一度書いてみます。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」です。これが直ちに「広い、何もない宇宙の真中に、初めて何かが起ころうとする、そしてそれはやがて自我という意識に育って行く、その元の宇宙」となる、とどうして言うことが出来るのか。まるでこじつけではないか、と思われる方もいらっしゃるかも知れません。そのことについて少々申上げることにしましょう。仏教の禅に「指月の指」という言葉があります。「あれがお月様だよ」と指差す指のことです。いくら指を凝視しても何も分かりません。指の指し示す方向をずっと見て、その方角の彼方にある真理に気が付くことです。その指し示している方向にある自らの心の真相を見つけることが肝要なのです。古事記の神名はその案内役なのです。昔、呑み屋の客が酒を呑んで、「マダム、今日のはつけにしておいてくれ」と言います。貸しておいてくれ、という事です。マダムは帳面に酒代と名前と日付を書き込みました。月末までには精算するのが普通でした。そしてその帳面の表に「記」と書いてありました。記で「つけ」と読んだのです。古事記という字を改めて読んでみて下さい。「こじつけ」となるではありませんか。但し、ただの「こじつけ」ではありません。古事記の編者太安万侶が、言霊学の真理を遥か後世の日本人に伝えるために仕組んだ、一世一代の後世の子孫に仕掛けた真剣勝負の賭(かけ)であったのです。人類の生命を賭けて、子孫に向って切った大見得であったのです。その意味で、古事記神話の神名はすべて指月の指であり、更に古事記神話全体が指月の指である、と申すことが出来ます。

もう一つ気が付いたことを申し添えることとしましょう。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、……」とありますように、撰者太安万侶は神話を読む人に「天地の初発」とは「人間の心の、何も起こっていない宇宙から、今・此処に何かが始まろうとする時なのだ」ということを知っている、という前提で文章を説き起こしています。でありますから筆者自身もこれからは、安万侶氏の意に添って解説を進めて行こうと思います。「人の心の真実の本体は精神宇宙そのものなのだ」ということの自覚・自証を伴いませんと、今後の解説は単なる情報「あっ、そういうものなのか」に終わってしまうことでしょう。然しそれを越えて、自らの自覚・自証を伴った理解を確立なさる時、その学問は、それ自体が社会を、日本を、そして世界を動かす精神的原動力となって人類の第三文明時代の創造の行動の鏡となることでしょう。耳学問から実践のエネルギーの発動へ、関心のある方は御質問をお寄せ下さい。一問一答の中に光を見出して頂き度く存じます。

その三

前号の布斗麻邇講座で「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神(あめつちのはじめのとき、たかまはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ)」の文章を、「何も起こらない心の広い広い宇宙の中に、何か分からないけれど、人の意識の芽とも言った現象の兆しが起ころうとした時」と解説しました。そしてそれは広い宇宙の中のことでありますから何処をとっても、それは宇宙の中心であり、何かが起ろうとするのは、まぎれもなく「今」であり、「此処」である、と説明しました。天の御中主の神(言霊ウ)は何か分からぬが、人間の意識の芽のようなものであり、やがては「我」という意識の始まりでもあります。

心の先天構造である、人間の意識では捕捉することが出来ない宇宙に、初めて何かが起ころうとする天の御中主の神(言霊ウ)を踏まえて、古事記の文章の次に進むことにしましょう。

「次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。」

「次に」

次に、とありますのは、何も起こっていない心の宇宙の中に、何か知らないが、意識の芽とも言える何かが起ころうとしている(その宇宙を言霊ウと名付けるのですが)、「その意識で捕捉できない心の動きが、更に進展して行くならば次に」ということであります。心の中で何かが起ころうとしている気配がある。けれどそれが気配を感じるだけで、何も起こらず、そのうちにその気配も消えてしまうということはまゝあることです。それはそれで言霊ウまでで終わってしまいます。けれど、更に先天の活動が進展して行けば、「次に」ということになります。こんな話は言わずもがなの話のようでありますが、この後に出て参ります、先天宇宙の「宇宙剖判」という出来事を説明するために必要なことでありますので、前もってお話申上げました。

「高御産巣日の神・言霊ア。神産巣日の神・言霊ワ」

広い心の宇宙の中に天の御中主の神と神名で呼ばれる言霊ウの宇宙が活動を開始し、更にその活動が進展しますと、言霊ウの宇宙から高御産巣日の神と呼ばれる言霊アの宇宙と、神産巣日の神と呼ばれる言霊ワの宇宙が現出します。

事は心の先天構造という五官感覚では把握できない領域の話でありますから、手に取って見るような説明は難しいのですが、出来るだけ平易に説明してみましょう。高御産巣日・神産巣日とう二つの神名の指月の指から、その神名が心の何を指し示してくれているのか、を考えてみましょう。高御産巣日(たかみむすび)、神産巣日(かみむすび)という漢字を仮名に置き換えて書いてみます。すると「タカミムスビ」「カミムスビ」となって、高御産巣日の方が頭にタの一字が多いだけの事が分かります。後程お分かりになることですが、日本語の中に使われるタの一音は物事・人格の全体または主体として使われることが多い音です。そのタの一音以外では二神名は「カミムスビ」と同音に読めます。「カミムスビ」は「噛み結び」となります。噛み結ぶ、即ち緊密に結び合って何かを生み出すもの、更に一方は主体で、他方は客体であるもの、と言えば、それが何であるか、は想像がつきます。そうです。高御産巣日・言霊アは主体宇宙、神産巣日・言霊ワは客体宇宙であることを示しています。言霊アは心の先天構造内の主体宇宙のことであり、言霊ワは客体宇宙のことであります。

初発(はじめ)の心の働きの芽であり、兆(きざし)である言霊ウが始まろうとして、そこで止まってしまえば、次の段階のアとワ(主体と客体)への変化は起こりません。それが頭脳内に起こるということは、先天構造を構成している心の宇宙の内部で次の活動が起こったことになります。高御産巣日と神産巣日の二神が生まれ出たということ、即ち言霊アとワが現れ出たということは、言霊ウの宇宙が言霊アとワの二つの宇宙に分かれた、ということになります。この宇宙の活動はこの後も次々と他の宇宙を現出させることとなるのですが、この様な心の宇宙の中で次々とその宇宙が分かれて他の宇宙を生むことを言霊学は宇宙剖判(ぼうはん)と呼んでいます。剖判の剖は「分ける」です。そして判は「分かる」であります。

この宇宙剖判を図で示してみましょう。

五官感覚(眼耳鼻舌身=げんにびぜつしん)でとらえられることが出来ない先天構造の中の内容の説明ですから、何とも心もとない、難しいことを言うようになりますが、ない能のあらましは御理解頂けることと思います。この宇宙のまだ分かれない未剖の言霊ウから言霊アとワの主体と客体に分かれること、この剖判が欠く事の出来ないに人間頭脳の働きの特徴であることに御留意下さい。この不可欠の特徴が人間の認識の作用上、重要な意義をもたらすこととなります。そのことについてお話することにしましょう。

先に「剖判」の剖は「分ける」、判は「分かる」と説明しました。人は何物か、または何事かに遭遇した時、これは何かと思うと同時に、その事物を頭の中で分析します。そして分けた部分々々を調べ、内容が「分かった」と納得します。分けなければ分かりません。分けるから分かるのです。この当り前と思える法則が人間に与えられた認識法則の最重要法則の一つなのであります。広い何もない宇宙の中に何か分からない意識の芽が芽生え始めました。言霊ウであります。意識が更に進展すると、言霊ウから言霊アとワ(主体と客体、私と貴方、僕と君、心と物、…)に分かれます。宇宙剖判です。ウからアとワに分かれました。初めのウとア・ワと数えて三つの言霊、神名でいう天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神を神道で造化三神と呼びます。物事の始まり、未剖のウからアとワの二言霊に分かれた事、この事は人間の心の営みのすべての始まりであります。

言霊の内容や働きを数(かず)で表わすと、これを数霊(かずたま)と呼びます。二千年以上昔に書かれました中国の「老子」という書物にはこの造化三神の法則のことを「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」と言っております。造化三神の法則をお分かり頂けたでありましょうか。

造化三神の法則について、もう一つの重要な事をお話しておきましょう。近代の人々、特に現代人はこの造化三神の法則について、アとワ、すなわち主体と客体に分かれる以前に、主体未剖の言霊ウがあることを知らないで生きています。ですから、「私が彼に会った時」、「僕があの物を見た時」その時が物事の初めだと思い込んでいます。既に主体と客体に剖判した「私」と「貴方」から思考が始まります。言霊学的に見れば、ウ∧ワアの三者から始まる思考が、現代人はアとワ、主体と客体、の偶然の出会いからの思考と変わります。どちらでも同じなのでは、と思われるかも知れませんが、実際には天と地程の思考の差が生じて来るのです。この認識の違いが結果として人間の心の持ち方の上でどの様な事になるか、今の所では、読者の皆様の研究課題とさせて頂くことにしましょう。心の宇宙剖判が更に進んだ所で詳細な解説を予定しております。

言霊ウの宇宙が剖判して言霊アとワの宇宙か現われます。主体と客体です。主体アである私のことを昔は「あれ」(吾)といい、客体ワである貴方のことを「われ」と呼んだ時代がありました。今でも地方によって年寄りが「お前」のことを「われ」と呼ぶのを聞くことがありましょう。言霊アの内容として、漢字で書きますと、吾(あ)、明(あ)、灯(あ)等々が考えられます。また言霊ワには我(わ)、和(わ)、輪(わ)、枠(わ)等々が考えられます。

「この三柱(みはしら)の神は、みな独神(ひとりがみ)に成(な)りまして、身(み)を隠(かく)したまひき」

天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神は独神で、身体を現わすことのない神だ、ということです。独神とはうまい表現であります。意味を説明すると難しくなります。哲学用語を使いますと、「それ自体で存在していて、ほかに依存しないこと」の意となります。言霊ウ、ア、ワの宇宙はそれぞれ一個で厳然と実在していて、他に何々があるから、これもある、という依存なく、それ自体が実在体である、の意であります。また「身を隠したまひき」とは、それ等の宇宙はすべて先天構造を構成しているものであり、人間の五官感覚で捕捉することが出来ない領域のもので、現象として姿を現わすことがない、の意であります。

これも中国の「老子」の中の文章ですが、「谷神(こくしん)は死なず」とあります。アイウエオの母音は声に出してみると、どれも息の続く限り「アーーー…」と声が続いて変わることがありません。山の深い谷は木々に覆われて上から見ることが出来ないので、「身を隠したまひき」の母音宇宙の喩えに使われ、発音して変化のなく永遠に続くことから「死なず」と表現されました。山中の深い谷に水が流れ、宇宙空間の無音の音の如く響く母音は、宇宙であるから消え絶えることがない、と母音を説明した文章であります。二千年以上昔に、わが国の言霊学の影響を受けた老子がかくの如き言葉を遺した事から考えて、精神的に古代に於ける言霊学の他国に及ぼした影響の大きかった事が偲ばれます。

先天構造内の宇宙剖判が更に進展しますと、次に何が起こるでしょうか。古事記の文章を先に進めて行きましょう。

「次に国稚(くにわか)くして、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)える時に、葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天(あめ)の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠(かく)したまひき。」

「国稚(くにわか)くして」

「心の先天構造の内部がどの様な状態になっているか、まだその内部の実状を明らかにする作業がそれ程進展していないので、」の意であります。「国」とは組(く)んで似(に)せるの意。言葉を組んで、実際の状態に似るよう整えることです。その作業が成熟していないということです。

「浮かべる脂(あぶら)の如くして」

水の上に浮かんでいる脂(あぶら)のように形も定まらない、の意。前に述べましたように先天構造の内容がまだはっきりしていないで、浮遊する脂の如く不安定で、ということです。

「水母(くらげ)なす漂(ただよ)える時に」

水母なす、とは暗気の喩えです。一面がまだ暗くて安定せず、漂っている時、の意であります。

「葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。」

「葦牙のごと萌え謄る物に因りて」といいますと、読者の皆様は先ず何を連想なさいますか。人の心の中で、こういう状態になることを経験した方は多いのではないでしょうか。それは間近に処理しなければならない重大な事で、どうしてよいか分からない問題を抱えた前夜のことなど、床に入っても寝付けず、頭の中は過去のいろいろな出来事が走馬灯の如く駆け廻っている時の状態こそピッタリではないでしょうか。葦の芽も茎の四方八方、上下何処からでも新しい芽が出て来て、何処が始めで何処が終わりだか分からない程入り乱れます。その様な状態で現出して来るもの、それは宇麻志阿斯訶備比古遅の神というわけです。宇麻志は霊妙な、の意。阿斯訶備は葦の芽のこと。比古遅は男の子の美称、と辞書にあります。全部で霊妙な葦の芽の様な複雑な関連を持った原理の実態、といった意となります。これは一体何なのでしょうか。一言でいえば人間の心の中にその様に現出して来る経験知識であります。この経験知識が畜させされている心の宇宙、即ち言霊ヲであります。人間の経験知識は他の経験知識と複雑・密接に関連しながら、言霊ヲの宇宙に収納されているのです。この言霊ヲに漢字を当てはめて、その内容を説明すると、緒(を)や尾(を)などが考えられます。生命(いのち)の玉(たま)の緒(を)と言えば、それは記憶のことであり、尾では「尾を引く」の言葉もあります。また言霊ヲを端的に表現する文章が仏教禅宗無門関に見ることが出来ます。

【牛窓前を過ぐ】 五祖(法演和尚)が言った。「譬(たと)えば牛が窓前(そうぜん)を過(よぎ)って行った。頭角や四蹄が皆過ったのに、どうして尻毛は過ぎ去ることが出来ないのか」(無門関第三十八)

「天(あめ)の常立(とこたち)の神」

天の常立の神とは、大自然(天)が恒常に(常=とこ)成立する(立=たち)実体であり、主体であるもの(神)と説明することが出来ます。それは言霊オのことです。宇麻志阿斯訶備比古遅の神(言霊ヲ)が経験知識そのものの宇宙とすると、天の常立の神(言霊オ)はその経験知識を記憶し、それを活用する主体の宇宙ということが出来ます。言霊オに振漢字をすると、男(お)、雄(お)、牡(お)等が考えられます。

「この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。」

この説明は造化三神のところでしてありますので、此処では省きます。古事記の文章を先に進めます。

「次に成りませる神の名は、国(くに)の常立(とこたち)の神。次に豊雲野(とよくもの)の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。」

国の常立の神、言霊エであります。国家・社会が恒常に(常)成立する根源宇宙(神)という事です。天の常立の神が「大自然を恒常に成立させる根源宇宙」であるならば、国の常立の神は国家・社会を恒常に成立させる宇宙ということが出来ましょう。次の豊雲野の神は言霊ヱであります。言霊エは選ぶ、で道徳・政治行動の主体を意味します。それに対して言霊ヱの豊雲野の神は道徳や政治活動で打ち立てられた法律とか、道徳律に当たるものであります。豊雲野の神という言霊ヱを指示する指月の指の意味は何なのでしょうか。それは後程明らかにされますが、ここでは簡単に触れておきましょう。豊雲野の豊(とよ)は十四(とよ)の意です。人の心の先天構造を表わす基本数は十四で表します。雲は組の呪示です。野とは分野・領域のこと。豊雲野の全部で先天構造の基本数、十四個の言霊を組むことによって打立てられた道徳律の領域である宇宙、ということになります。道徳律とは道徳の基本原理に則って、「こうしてはいけない、こうせよ」という教えのこと。

言霊エのエの音に漢字を当てはめると、選(え)らぶ、が最も適当でしょう。言霊ヱのヱには絵(え)、慧(え)が最適でありましょうか。

何もない広い宇宙の一点に意識の芽とも言うべきものが芽を出します。言霊ウであり、また今・此処であります。次の瞬間、これは何かの心が加わると、言霊ウの宇宙は言霊アとワの主体と客体の宇宙に剖判します。私と貴方の立場に分かれます。更に意識が進展しますと、言霊アの宇宙は言霊オとエに、言霊ワの宇宙は言霊ヲとヱの宇宙へと剖判します。主体(ア)と客体(ワ)に分かれて、更に「これは何か」の心が加わると、アの主体からは今眼前にあるものと同じ経験をした事があるか、の言霊オ、さらには眼前のものをどう処理したらよいか、の将来への選択の言霊エに剖判します。次に客体の言霊ワから、経験知の蓄積である言霊ヲの宇宙と、それをどうまとめて将来に資するか、の参考となる道徳の教えの領域の宇宙言霊ヱとが剖判して来ます。上図に示します。

図に示されますように、これまでで四つ角母音宇宙が出現しました。そこでこの四個の宇宙からそれぞれ如何なる人間の性能が発現されて来るか、を確めておきましょう。

言霊ウの宇宙(先に発現時では何か分からないが、人間の意識の芽ともいわれるもの、と説明されましたが)、宇宙剖判が進展して行きますと、人間の五官感覚に基づく欲望性能が発現して来ます。そしてこの欲望性能は社会的には産業・経済活動となって行きます。

言霊アの宇宙からは、人間の感情性能が発現します。この性能は社会的に芸術・宗教活動に発展します。

言霊オの宇宙からは人間の経験知が発現します。経験知とは体験したものを、後で振り返り、記憶を思い起こして、想起した複数の経験の間の関係を調べる性能です。この性能が発展して社会的に所謂科学研究となります。

言霊エの宇宙から発現して来る現象は個人的には物事を円満に処理する実践智であり、これが発展して社会的になったものが一般に政治活動であり、道徳活動であります。ここで言霊オの経験知と言霊エの実践智とは全く違ったものである事にご注目下さい。

ここで、先に読者の皆様に研究課題として残しておきましたウ→アとワの宇宙剖判について説明申し上げることにしましょう。何もない宇宙の中に何か知れないけれど、意識の芽とでも言ったものが発現します。宇宙剖判が更に進みますと、言い換えますと、その芽に何かの意識が動きますと、その芽である言霊ウから瞬時に言霊ア・ワ、すなわち主体と客体となる宇宙が剖判し、現われます。主客の二つに分かれなければ、そのものが何であるか、は永遠に分かることはありません。そこで分かろうとすると、宇宙は更に剖判して、言霊オ・ヲが発現します。言霊オ・ヲは記憶であります。眼前にあるものが何であるか、は想起した記憶と照合されて、これは何々だと断定されます。

この時、人間の思惟は二つの方向に分かれます。この物事が何々だ、と断定された時、その断定された事物と主体である自分との対立という事態から思考が開始されますと、言霊オの領域に属する思考となります。この思考形体を図示しますと、 の哲学でいう弁証的思考です。物事をすべて自分の外に見て考える思考です。これに対し、もう一つは、ウ→アとワさらにエとオ・ヱとヲと宇宙剖判を承知した上で、その進展の先に物事を解決しようとする思考です。この思考は言霊エの領域の思考です。その形式を図示しますと、 となります。言霊オの思考の数霊(かずたま)は三または六であり、言霊エの思考の数霊は四または八であると申せましょう。この事は講座が進むに従って更に詳しく解説申上げます。

その四

前回までの講座で人間の精神の先天構造を構成する四つの母音宇宙、ウアオエと三つの半母音宇宙ワヲヱが出揃いました。次に何が現出するでしょうか。古事記の文章を先に進めます。

次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすいちぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹生杙(いもいくぐひ)の神。次に意富斗能地(おほとのべぢ)の神。次に妹大斗乃弁(いもおほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)の神。

以上、八神が次々に現われ出て来ます。そして更に同様な形で「次に伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に伊耶那美(いざなみ)の神。」と続きます。続いて書かれていますから、前の八神と後の二神は同じ系列の神と思われ勝ちでありますが、実は関係は深いけれど、同じに取り扱うことの出来ない神々でありますので、後の二神は八神の解釈が終わった後に説明を申上げることといたします。

さて、新しく現出しました八神の名前を改めて御覧下さい。どれもこれもこんな名前の神様なんて本当にいるのかな、と思わざるを得ない奇妙な名前ばかりです。こんな名前を指月の指として持つ言霊とは一体どんな言霊なのであろうか、全く見当もつかないように思われます。今までの講座で解説された母音言霊の神名は、説明をよく聞けば、「成程」と納得することが出来ました。けれど新しく現われた神名は、読んだだけでその想像を超えたもののように思われます。読者が本当にその様な感触をお持ちになったとしたら、その感触は正しいと申し上げねばなりません。この八つの神名を指月の指とする八言霊――これを父韻言霊と呼ぶのですが――人類の歴史のこの二千年間、誰一人として口にすることなく、人類社会の底に秘蔵されていたものなのです。ですから、今、この謎を解いて「実はこういうものなのだよ」と申上げても、即座には頷き難いのも当然と言えましょう。

とは申しましても、言霊布斗麻邇の講座でありますから、奇妙だとか、難しいといっても、避けて通るわけにはいきません。これから言霊父韻というものの内容と働きについて、また父韻それぞれの働きについて出来る限り御理解し易いよう説明を申上げます。「何故そうなるのだ」ではなく、「人間の心の働きの深奥はそのような構造になっているのか」と一応の合点をして頂くつもりでお聞き頂き度いと思います。勉学が進みます毎に言霊学の素晴らしさに驚嘆なさることになりましょう。

先ず父韻とは何か、を明らかにしましょう。それには一歩後に退いて、母音について少々お話しなければなりません。今まで出て来ました母音宇宙を指し示す神名の後には「独り神に成りまして身を隠したまひき」という文章が続きました。「その宇宙はそれのみで存在していて、他に依存することなく、現象として姿を現わすことがない」と解釈しました。その意味はまた、「自立独歩していて、それが他に働きかけることもない」とも受け取れます。母音宇宙自体が何かの活動をすることはないということです。他に働きかけることをしない母音宇宙から現象は何故現れるのでしょうか。その現象発現の原動力となるものが父韻というものなのであります。

宇宙の剖判によってウの宇宙からア・ワ、オ・ヲ、エ・ヱのそれぞれの宇宙が現われます。その剖判して来た母音宇宙と半母音宇宙とを結んで、そこから現象(子音)を生む原動力となるのが言霊父韻、チイ・キミ・シリ・ヒニの四組八個の父韻というわけであります。父韻は働きでありますから陰陽があり、作用・反作用があります。そこで父韻は二つで一組、計四組で八父韻となります。

父韻とはどんなものなのでしょうか。譬えば頭脳中枢で閃く火花のようなものです。この火花が閃く時、母音と半母音宇宙を結び、現象を起こします。昔のドイツ哲学がFunke(火花)と呼んだのは多分この父韻の働きの事であろうと思われます。中国の易経で八卦と呼びます。仏教で八正道と呼ぶものはこの父韻を指したものと考えられます。但し、ドイツ哲学も、八卦も、八正道もすべて概念的名前であり、正しく八父韻を指したものではありません。呪示であります。

では八つの父韻は心の中の何処に位置しているのでしょうか。それはまだこの講座では説明していない言霊イとヰの次元宇宙に在って活動しています。但し、言霊イとヰの宇宙についての説明がされておりませんので、父韻がそこに在ると申しましても、どのようにして在るのか、の説明の仕様がありません。それ故、父韻の占める心の位置の解説は後に譲ることといたします。

八つの父韻のそれぞれの働きについて解説しましょう。勿論、父韻は先天構造内の動きであり、五官感覚で触れることは出来ません。ではどうするか、と申しますと、先ず父韻を示す神名を解釈すること、そして解明された神名の内容を指月の指として、筆者の研究体験をお話することとなります。読者の皆さまはこの話の中から活路を見出して頂きたいと思います。

宇比地邇(うひぢに)の神・父韻チ

宇比地邇の神とは一つ一つの漢字をたどりますと宇は地に比べて邇(ちか)し、と読めます。けれどそれだけではまだ何のことだか分かりません。宇を辞書で調べると「宇(う)はのき、やねのこと。転じていえ」とあります。いえは五重(いえ)で人の心は五重構造の宇宙を住家としていますから、宇は心の宇宙とも取れます。天が先天とすると、地は現実とみることが出来ます。すると宇比地邇で「人の心の本体である宇宙が現実と比べて同様となる」と解釈されます。以上が神名の解釈です。とすると、その指示する言霊チとは如何なる動きなのでしょうか。

ここで一つの物語をしましょう。ある製造会社に務める若い社員が新製品を売り込むために御得意先の会社に課長のお供をして出張するよう命じられました。自分はお供なんだから気が楽だと思っていました。ところが、出張する日の前夜、課長から電話があり、「今日、会社から帰って来たら急に高熱が出て明日はとても行けなくなった。君、済まないが一人で手筈通りに行って来てくれ。急なことでこれしか方法がない。頑張ってくれ」というのです。さあ、大変です。お供だから気が楽だ、と思っていたのが、大役を負わされることとなりました。一人で売り込みに行った経験がありません。さあ、どうしよう。向うの会社に行って、しどろもどろに大勢の人の前で製品の説明をする光景が頭の中を去来します。夜は更けて行きます。妙案が浮かぶ筈もありません。寝床に入っても頭の中を心配が駆けずり廻っています。疲れ切ったのでしょうか、その内に眠ってしまいました。……朝、目を覚ますとよい天気です。顔を洗った時、初めて決心がつきました。「当たって砕けろ。ただただ全身をぶっつけて、後は運を天に任せよう。」あれ、これの心配の心が消え、すがすがしい気持で出掛けることが出来たのでした。

向うの会社に着いてからは、想像した以上に事がうまく運びました。大勢の前で、自分でも驚く程大きな声で製品の説明が出来、相手の質問に答えることが出来たのでした。未熟者でも、誠心誠意事に当たれば何とか出来るものだ、という自信を得たのでした。

話が少々長くなりました。この若者のように、自分の未熟を心配し、何とかよい手段はないか、と考えても見つからず、絶望したあげく、未熟者なら未熟者らしく、ただ誠意で事に当たろうとする決心がついた時、人は何の先入観も消えて、広い、明るい心で事に当たる事が出来ます。生まれて今までの自分の経験を超えて、この世に生を受けた生命全体を傾けた誠意で事に臨もうとする心、この心を起こす原動力となる心の深奥の“火花”、これが父韻チであります。神名宇比地邇の宇(う)はすべての先入観を取り払った心の宇宙そのもの、そしてその働きが発現されて、現象界、即ち地(ち)に天と同様の動きを捲き起こすような結果を発生させる働き、それが父韻チだ、と太安万呂氏は教えているのです。当会発行の本では、父韻チとは「宇宙がそのまま姿をこの地上現象に現わす韻(ひびき)」と書いてあります。ご了解を頂けたでありましょうか。

この父韻を型(かた)の上で表現した剣術の流儀があります。昔から薩摩に伝わる示源流または自源流という流派の剣で、如何なる剣に対しても、体の右側に剣を立てて構え(八双の構え)、「チェストー」と叫んで敵に突進し、近づいたら剣を真直ぐ上にあげ、敵に向って斬りおろす剣法です。この剣の気合の掛声は「チェストー」タチツテトのタ行を使います。その極意は「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということだそうです。

以上、父韻チを説明して来ました。父韻チは心の宇宙全体を動かす力動韻でありますので、人間の生活の中で際立(きわだ)った現象を例に引きました。けれど父韻チは全部この様な特殊な場面でのみ働く韻なのではありません。私達は日常茶飯にこの力動韻のお蔭を蒙っています。仕事をして疲れたので少々腰掛けて休み、「さて、また始めようか」と腰を浮かす時、この父韻が動くでしょう。また長い人生に一日として同じ日はありません。サラリーマンが朝起きて、顔を洗い、朝飯を済ませ、「行って来ます」と言って我が家を出る時、この父韻は働いています。気分転換に「お茶にしようか」と思う時、駅に入ってきた電車の扉が開き、足を一歩踏み入れようとした時、同様にこの父韻は働きます。日常は限りなく平凡でありますが、同時に見方を変えて見るなら、日常こそ限りなく非凡なのだ、ということが出来ます。ただ、その人がそう思わないだけで、心の深奥では殆ど間断なくこの父韻は活動しているのです。この父韻チを一生かかって把握しようと修行するのが、禅坊主の坐禅ということが出来ましょう。禅のお坊さんにとっては生活の一瞬々々が「一期一会」と言われる所以であります。と同時にこの言霊父韻チを日常の中に把握することは、禅坊主ばかりでなく、私たち言霊布斗麻邇を学ぶ者にとっても、大切な宿題でありましょう。

妹須比智邇(すひぢに)の神・父韻イ

須比智邇の神の頭に妹(いも)が付きますので、この父韻は宇比地邇の神と陰陽、作用・反作用の関係にあります。この父韻イのイはアイウエオのイではなく、ヤイユエヨのイであります。神名須比智邇は須(すべから)らく智に比べ邇(ちか)し、と読めます。宇比地邇同様漢字を読んだだけでは意味は分かりません。そこで宇比地邇の神の物語を例にとりましょう。若い社員は、あれこれと考え、心配するのを止め、先入観をなくし、全霊をぶつけて行く事で活路をみつけようとしました。そして御得意の会社に白紙となって出て行きました。「自分はこれだけの人間なんですよ」と観念し、運良く相手の会社の社員の中に溶け込んで行く事が出来たのです。一度溶け込んでしまえば、後は何が必要となるでしょう。それは売り込むための物についての知識、またその知識をどの様に相手に伝えるかの智恵です。こう考えますと、神名の漢字の意味が理解に近づいて来ます。須比智邇とは「すべからく智に比べて近(ち)かるべし」と読めます。体当たりで飛び込んで中に溶け込むことが出来たら、次は「その製品についての知識を相手の需要にとってどの様に必要なものであるか、を伝える智恵が当然云々されるでしょ。それしかありませんね。」と言っているのです。「飛び込んだら、後は日頃のテクニックだよ」ということです。父韻イとは飛び込んだら(父韻チ)、後は何かすること(父韻イ)だ、となります。重大な事に当たったなら先ず心を「空」にすること、それは仏教の諸法空相です。空となって飛び込んだら、次は何か形に表わせ、即ち「諸法実相」となります。仕事をする時、如何にテクニックが上手でも、心構えが出来ていなければ、世の中には通用しません。けれど心構えだけでは話になりません。テクニックも必要です。両方が備わっていて、初めて社会の仕事は成立します。父韻チ・イは色即是空・空即是色とも表現される関係にあります。御理解頂けたでありましょうか。

角杙(つのぐひ)の神・父韻キ

宇比地邇の神・妹須比智邇の神(父韻チ・イ)に続く角杙の神・妹生杙の神(父韻キ・ミ)の一組・二神は八父韻の中で文字の上では最も理解し易い父韻ではないか、と思われます。角杙の神から解説しましょう。角杙の角とは昆虫の触覚の働きに似た動きを持つ韻と言ったらよいでしょうか。「古事記と言霊」の父韻の項で、この父韻の働きを「心の宇宙の中の過去の経験、または経験知を掻き寄せようとする韻」と説明してあります。目の前に出されたもの、それを「時計だ」と認識します。いとも簡単な認識のように思えます。若し、この人が時計を見たことが一度もない人だとしたらどうなるでしょうか。その人は目の前で如何にその物を動かされたとしても、唯黙って見ているより他ないでしょう。「時計だ」と認識するためには、それを見た人が自分が以前に見た物の中から眼前に出された物に最も似ている物を心の宇宙の中から思い出し、それが時計と呼ばれていた記憶に照らして、「あゝ、これは時計だ」と認識する事となります。人間の頭脳はこの働きを非常な速さでこなす能力が備わっているから出来ることなのです。この様に、心の宇宙の中から必要な記憶を掻き繰って来る原動力、これが父韻キの働きであります。

以上のように説明しますと、「あゝ、父韻キとはそういう働きなんだ」と理解することは出来ます。けれどその父韻が実際に働いた瞬間、自分の心がどんなニュアンスを感じるか(これを直感というのですが)、を心に留めることは出来ません。そこには“自覚”というものが生れません。そこで一つの話を持ち出すことにしましょう。

ある日、会社の中で同じ会社の社員と言葉を交わす機会がありました。日頃から人の良さそうな人だな、と遠くから見ての感じでしたが、言葉を交わしてみると、何となく無作法で、高慢な人だな、という印象を受けました。それ以来、会社の中で会うと、向うから頭を下げて来るのですが、自分からは「嫌な奴」という気持から抜け出られません。顔を合わせた瞬間、「嫌な奴」の感じが頭脳を横切ります。自分には利害関係が全く無い人なのに、どうしてこうも第一印象に執らわれてしまうのだろうか、と反省するのですが、「嫌な奴」という感情を克服することが出来ません。或る日、ふと「そういえば、自分も同じように相手に無作法なのではないか」と思われる言葉を言うことのあるのに気付きました。「なーんだ、自分も同じ穴の狢だったんだ」と思うとおかしくなって笑ってしまいました。「あの人に嫌な奴と思うことがなかったら、今、私に同じ癖があるのに気づかなかったろう。嫌な奴、ではなく、むしろ感謝すべき人なんだ」と気付いたのでした。そんなことに気付いてから、会社でその人にあっても笑顔で挨拶が出来るようになりました。

この日常茶飯に起こる物語は、父韻キについて主として二つの事を教えてくれます。その一つは、人がある経験をし、それが感情性能と結びついてしまいますと、それ以後その人は同様の条件下では条件反射的に同じ心理状態に陥ってしまい、その癖から脱却することが中々難しくなる、ということです。同じ条件下に於ては、反射的に何時も同じ状況にはまってしまうこと、そして反省によってその体験と自分の心理との因果に気付く時、自分の心の深奥に働く父韻キの火花の発動を身に沁みて自覚することが出来ます。因果の柵(しがらみ)のとりことなり、反省も出来ず、一生をその因果のとりことなって暮らすこと、これを輪廻(りんね)と言います。そこに精神的自由はありません。第二の教えが登場します。物語の人は、嫌な奴と思った人と同様の欠点を自分も持っていたことを知って、「嫌な奴」の心がむしろ感謝の心に変わります。因果のとりこであった心が感謝の心を持つことによって、容易に因果から脱却出来ました。この心理の変化を敷衍して考えますと、八父韻全般を理解しようとするには、言霊ウ・オの柵にガンジガラメになっている身から言霊アの自由な境地に進むことが大切だ、という事に気付くこととなります。言霊父韻とは正しく心の宇宙の深奥の生命の活動なのですから。

妹生杙(いくぐひ)の神・父韻ミ

角杙の神の父韻キと陰陽、作用・反作用の関係にある父韻ミを指示する神名です。この生杙の神という神名ぐらい実際の父韻ミにピッタリの謎となる神名は他にはないでしょう。角杙の神の時、杙というものを昆虫の触覚に譬えました。人が生きるための触覚と譬えられる働き、とはどんな働きでありましょうか。変な例を引く事をお許し下さい。日本の種々の議会の議員さんが選挙で当選するのに必要な三つのもの、といえば地バン、看バン、カバンです。言い換えると、地バンとは選挙区の人々とのつながりのこと、看バンとは知名度、そしてカバンとは勿論豊富な選挙費用を持つことです。議員さんにとって選挙で当選したから一息、という訳にはいきません。当選したその日から、自らの三つのバンを更に大きく強く育てて行き、次の選挙への準備をすることです。地バンである選挙区の人々、今までに顔見知りになった人々へ、議員自身の影響力を更に売り込んで行かねばなりません。どんな人にどの様に自分を売り込んだら良いか、その働きの最重要なものが言霊ミであります。言霊父韻ミとは、自分の心の中にある幾多の人々と、如何なる関係を結んで関心を高めて行くか、相手の心と結び付こうとする原動韻即ち父韻ミが重要となります。どんな小さい縁も見逃してはなりません。縁をたよって自分の関心を売り込む力です。これは正(まさ)しく生きるための触覚であります。政治家にあってはこの生きるための触覚を手蔓(てづる)と言います。その他物蔓・金蔓・人蔓、手当たり次第に関係の網(あみ)を広げて行きます。

政治家ばかりではありません。この生杙という父韻ミは、人が社会の中で生き、活躍して行くためにはなくてはならぬ必要な働きであります。社会に於てではなく、人間の心の中との関係についてもこの触覚は重要な働きを示すでありましょう。自分の心の中の種々の体験とその時々のニュアンスに結び付き(生杙)、またそれを掻き取って来て(角杙)、小説を書き、印象画や抽象画を描き、また既知の物質の種々の法則の中から微妙な矛盾を発見して、新しい物質の法則に結びつけて行く才能の原動力もこの言霊キ・ミの働きに拠っています。

その五

前回の講座で八つ、四組の父韻の中のチイ・キミの四つ、二組の父韻について説明を終えました。今回はシリ・ヒニの四父韻について説明してまいります。

意富斗能地(おほとのぢ)の神・父韻シ、妹大斗乃弁(いも・おほとのべ)の神・父韻リ

意富斗能地・大斗乃弁の両神名を指月の指として本体である父韻シ・リにたどり着くことは至難の業と言えるかもしれません。けれどそうも言ってはいられませんから、想像を逞しくして考えてみましょう。意富(おほ)は大と解けます。斗は昔はお米の量を計る単位でした。十八リットルで一斗でした。斗とは量のことであります。北斗七星という星は皆さんご存知のことでしょう。北斗、即ち北を計る七つの星ということです。大熊座のことです。意富はまた多いとも取れます。沢山の量り、即ち大勢の人の考え方、意見が入り乱れて議論が沸騰する時とも考えられます。そんな議論がやがて真実の一点に近づいて行って、その働き(能)が議論の対象である地面(地)にたどり着いたとします。沸騰していた議論が静まります。多くの議論の内容は消え去ったのではなく、出来事の真実を構成する内容として一つにまとまった事になります。まとまった状態は言霊スですが、まとまって静まることは父韻シということが出来ましょう。

理屈ポクって理解し難いと言う方もいらっしゃると思います。そこで平易な例を引きましょう。毎週月曜夜八時、6チャンネルと言えば、直ぐに「水戸黄門」と気付く方は多いことでしょう。このドラマの前半は悪家老、代官が悪商人と組んだ悪事の描写です。後半はそろそろ黄門様一行がその悪事の真相に近づいて行きます。ここまでは毎回新しい脚色が工夫されています。けれど最後の数分間は何時も、数十年にわたって変わらぬ結末が待っています。

最後に悪人一味の悪事が暴露されると、悪人達は老公一行に暴力を行使しようとします。すると御老公は「助さん、格さん、懲(こら)らしめてやりなさい」と命じます。善悪入り乱れてのチャンバラとなり、老公の「もうこの位でいいでしょう」の言葉と共に、助さん(または格さん)が懐の三つ葉葵の印籠(いんろう)を取り出し「静まれ、静まれ、この印籠が目に入らぬか」と悪人達の前にかざす。そこで一件落着となります。

この印籠の出現の前に、事件に関わったすべての人々の意志、動向が静まり、御老公の鶴の一声によって結末を迎えます。この一点に騒動がスーッと静まり返る韻、これが意富斗能地の父韻シであります。この大きな入り乱れてのチャンバラが、御老公の三つ葉葵の印籠の一点にスーッと吸込まれて行くように収拾されて行く働き、それが父韻シであります。水の入った壜(びん)を栓を抜いて逆(さか)さにすると水は壜の中で渦を巻いて壜の口から流れ出ます。父韻シの働きに似ています。この渦の出来るのは地球の引力のためと聞きました。水は螺旋状に一つの出口に向って殺到しているように見えます。父韻シの働きを説明する好材料と思えます。

次に妹大斗乃弁の神・父韻リの説明に入ります。大斗乃弁とは、漢字の解釈から見ますと大いなる量(はかり)のわきまえ(弁)と見ることが出来ます。また神名に妹の一字が冠されていますから、意富斗能地(おほとのぢ)とは陰陽、作用・反作用の関係にあることが分かります。この事から推察しますと、父韻シリは図の如き関係にあることが分かって来ます。五十音図のラ行の音には螺理縷癘炉(よりるれろ)等、心や物質空間を螺旋状に広がって行く様の字が多いことです。そこでこの図の示す内容を理解することが出来ましょう。

「風が吹くと桶屋が儲かる」の譬えがあります。風が吹くという一事から話が四方八方に広がって行き、最後に桶屋が儲かるということに落ち着くのですが、ここで落ち着かないで、更に諸(もろもろ)が発展して行き、永遠に続くことも可能です。人の考える理屈が野放図に広がって行く譬えに使われています。これも父韻リの説明には不可欠の理屈の働きと言えましょう。また噂(うわさ)に尾鰭(おひれ)がつく、という言葉があります。一つの噂に他人の好奇心による単なる根も葉もない推察が次々と加えられ、当事者や、または全然関係のない大勢の人々に間違った情報が伝わって行くことがあります。時にはそれが社会不安を惹き起こしたり、大きな国家間の戦争の原因になることがあります。これ等の現象は人間の心の中の父韻リが原動力となったものであります。原油価格の高騰が伝えられた数日後、スーパーマーケットの店頭からトイレットペーパーが姿を消してしまったという話をまだ記憶に留めていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

父韻リの働きを説明するために悪い影響の話ばかりして来ましたが、父韻リには善悪の別は全くありません。人間誰しもが平等に授かっている根本能力の一つであります。発明家といわれる人は、一つの発想、思い付きから次から次へと新しい発明品を発表して行きます。これも父韻リの原動力によるものであります。この根本力動の韻律によって人類は現在ある如き物質文明を建設して来たのでもあります。

於母陀流(おもだる)の神・父韻ヒ、妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニ

これより八つの父韻の中の最後の一組、二つの父韻ヒ・ニの説明に入ります。この父韻ヒ・ニを指し示す神様の名前は、先の角杙(つのぐひ)の神・父韻キ、妹生杙(いも・いくぐひ)の神・父韻ミに次いで比較的分かり易い名前のように思われます。まず神名の解釈から入りましょう。於母陀流は面足ずばりです。面(おも)とは心の表面にパッと言葉が完成する韻と受け取れます。昔、滝のことを「たる」といました。水が表面に一ぱいに漲り、そして流れ落ちる。これが滝です。足る、とはその表面に漲(みなぎ)った姿です。太安万侶氏は何故に面足と書かずに於母陀流などと複雑な名にしたのでしょうか。それは勿論面足では直ぐに分かってしまって、古事記神話編纂の真意に悖(もと)るからでありましょう。

では「心の表面に言葉が完成する韻(ひびき)」とはどういうことなのでしょうか。言い換えますと、心の表面に言葉を完成させる原動力の火花とはどういう事を言っているのでしょうか。例を挙げることにしましょう。或る会社の創立三十周年の祝賀会に招待されて出席しました。盛会でありましたが、その席上、突然ある人から声をかけられました。「M会社の中村さんですな。あの折には種々お世話になり有難う御座いました。その後ご無沙汰申上げて申訳御座いません。改めて御挨拶にお伺いさせて頂こうと思います。その折はよろしく御願い申上げます。」そこまで話が来た時、その人は同席の同じ会社の人と思われる人に促(うなが)されて、「では失礼いたします」と去って行ってしまいました。自分だけしゃべって、名前も言わずに行ってしまって、無作法な人だなと思ったのですが、その人の名前を思い出せません。何処で会ったかも分かりません。けれど一度会った人であることは間違いないようです。さあ、こうなると、その人のことが気になって仕方がありません。「何処で会った人なのかな」「何という名前だったかな」考えてみても喉(のど)に引っ掛かったように答えが出て来ません。家に帰ってきてからも同じような気持で、何となく今にも思い出せそうでいて、出て来ません。翌朝、会社に出ようと靴を履こうとした時、ハッと思い出しました。「あっ、そうだった。二年程前の会社の後輩の結婚式の披露宴の席上、テーブルの隣の席にいたN販売の木村さんだ。披露宴の酒が進み、座が少々乱れ出した時、あの人と仕事のことでいろいろ話した事があった。あの人はそのことを言っているのだ。」喉につっかえていたものが一遍に吐き出された気持でした。「仕事でない所で会ったので、記憶が薄れてしまったのだ」と思ったのです。

例の話が少々長くなりました。父韻ヒの韻律をお分かりいただけたでしょうか。言葉が胸元まで出て来ているようで、喉元に引っ掛かって出て来ないもどかしい気持がフッと吹っ切れて、口というか、頭の表面というか、心の表面とも言える所で、記憶がハッキリした言葉となって完成する、否、完成させる言動韻、これが父韻ヒであります。

次に妹阿夜訶志古泥(いも・あやかしこね)の神・父韻ニの説明に入ります。先ずは神名の漢字の解釈から始めましょう。阿夜訶志古泥の阿夜は「あゝ、本当に」の古代の感嘆詞。訶志古泥(かしこね)は賢(かしこ)い音(ね)の意です。神名をこのように解釈した上で、先の於母陀流(おもだる)が面足と言葉が心の表面にパッと完成する原動韻であり、それと阿夜訶志古泥が陰陽、作用・反作用の関係にあることから考慮しますと、阿夜訶志古泥は「心の中心に物事の発想や記憶の内容が煮詰(につ)まってくる原動韻」と推定することが出来ます。心の中心に於ける現象なので阿夜と夜という字が用いられ、暗い所という意味を強調しています。この原動韻が父韻ニであります。 この状況を、前の於母陀流の神の説明の例をもう一度振り返ってお話してみましょう。自分の名も告げずに「M会社の中村さんですな。ご無沙汰しております。」と話しかけて、そのまま去って行った人を、「誰だったか、何処であった人か、……」と直ぐにも思い出しそうで思い出せない。そのままその日は終り、翌朝になってやっと「N販売の木村さんと言ったな」と気付いた時、念頭に相手の名前が浮かんだ時、その時には既に「二年程前に披露宴で隣の席にいた人、どんな話をしたか」の記憶が蘇えっていた筈です。心の表面に相手の名前が「木村さんと言ったな」と言葉が完成した時(父韻ヒ)、心の中では披露宴の状況も煮詰まっていたのです。これが父韻ニということになります。父韻ヒと父韻ニは確かに陰陽、作用・反作用の関係にあることが確認されます。

以上で八つの父韻のそれぞれについての説明を終ります。八つの父韻は四つの母音宇宙を刺激することによって、一切の現象即ち森羅万象を生みます。人類に与えられた最高の機能ということが出来ましょう。神倭王朝第十代崇神天皇以後二千年間、今日に到るまで、誰一人として口にすることなく時は過ぎて来ました。ただその存在は儒教に於て「八卦」、仏教に於て八正道、あるいは「石橋」という言葉で、またキリスト教では神と人との間に交(か)わされた契約の虹(にじ)として語られて来たにすぎません。今、此処に八つの父韻が名実共に明らかになった事は、この父韻だけを取上げただけでも、人類の第一、第二文明を過ぎて、第三の輝かしい時代の到来を告げる狼煙(のろし)とも言うことが出来るでありましょう。人類に授けられた森羅万象創生の機能は父韻チイ、キミ、シリ、ヒニの八つです。たった八つであり、八つより多くも少なくもありません。この八つの父韻を心中に活動させて、人類は一切の文明を永遠に創造して行くのであります。

その六

前講座までで、人間精神の先天構造を構成する四つの母音、三つの半母音、八つの父韻の説明を終えました。そこで残る二つの母音と半母音、イとヰの解説を始めることといたします。

伊耶那岐(いざなぎ)の命・言霊イ、次に妹伊耶那美(いも・いざなぎ)の命・言霊ヰ。

古事記は精神の先天構造を説明するに当り、先ず意識の初めとなる天の御中主の神・言霊ウから始まり、それが主体と客体である高御産巣日の神・言霊アと神産巣日の神・言霊ワに剖判しました。剖判活動は更に続き、高御産巣日の神・言霊アは天の常立神・言霊オ、更に国の常立神・言霊エと剖判し、客体である神産巣日の神・言霊ワは宇麻志阿斯訶備比古遅の神・言霊ヲ、更に豊雲野の神・言霊ヱと剖判します。更に主体と客体とを結んで現象を発生させる八つの父韻が現われます。ここまでを図で示すと次の如くになります。

さて此処で考えてみましょう。言霊ウアオエと言霊ワヲヱは母音宇宙、半母音宇宙として厳然と実在するものでありますが、その宇宙の方から仕掛けて現象を現わすことはありません。このことは以前お話しました。とするならば、ウの宇宙からアとワの宇宙に剖判したり、父韻が主体と客体を結び付けて現象を起こすという活動の力は何処から出て来るのでしょうか。そこに先天構造の最後として現われるのが伊耶那岐(いざなぎ)・伊耶那美(いざなみ)の二神(ふたはしら)、言霊イ・ヰであります。先天構造十七神の十五神が出揃い、最後に「伊耶」として登場する神、それは言葉の如く「いざ」と創造する神であります。即ち母音・半母音宇宙を剖判させ、また主体と客体の宇宙を結んで現象を生ぜさせる八父韻の働き、そのすべての力はこの伊耶那岐、伊耶那美の言霊イ・ヰが原動力なのであります。

昔、「去来」と書いて「いざ」と読みました。また「こころ」ともいいました。伊耶那岐とは「心の名の気」であり、伊耶那美とは「心の名の身」のことです。そして心の名とは言霊そのもののことであります。この故で伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰは万物創造の原動力であり、宗教的には最高主神と呼ばれます。このことによって言霊イ・ヰは母音・半母音であると同時に特に万物の生みの親として親音とも呼ばれているのであります。

以上のことを踏まえて人間精神の先天構造図を完成させますと図の様になります。人間は一人の例外もなく図に示されます十七個の言霊の活動によって人間生活の一切の現象を生み出し、創造して行きます。

言霊イ・ヰだけが他の母音ウアオエと半母音ワオヱと異なり、親音と呼ばれることをお話しました。言霊イ・ヰは他の母音・半母音とどのように違うのでしょうか。この事を考える事によって、読者の皆様が多分、夢にも思わなかった真実に気付かれることでしょう。その事を含めて言霊イ・ヰ親音の働きについてお話を進めて行きましょう。

言霊イ・ヰが現われたことで、母音アオウエイ、半母音ワヲウヱヰのすべてが出揃いました。母音と半母音が結ばれて子音である現象が生まれます。ウ・ウの母音・半母音宇宙からは五官感覚に基づく欲望現象が出て来ます。言霊オ・ヲが結ばれると経験知現象が生まれます。ア・ワの結合からは感情現象が生まれます。エ・ヱが結ばれて実践智現象が生じます。では言霊イとヰが結ばれると何が生まれるのでしょうか。イ・ヰの次元に於いては目に映る現実の現象は何も生まれません。現実的には何も現われることはありませんが、実はイとヰが結ばれると、チイキミシリヒニの八つの父韻が活動を起こし、それがウオアエの四次元のそれぞれの母音・半母音を結び付け、欲望現象、経験知現象、感情現象、実践智現象を起こすこととなります。言い換えますと、イ・ヰ次元の活動はそれだけでは後天的な現象は起こりませんが、そのイ・ヰの働きである八つの父韻がイ・ヰ以外の四段階の母音・半母音を結んで、それ等四段階の現象を起こすのです。そこでイ・ヰの言霊を創造意志と呼ぶのであります。この創造意志の性能は飽くまで先天構造内の活動であって目に映ることがなく、“縁の下の力持ち”となって他のウオアエ(ウヲワヱ)次元の現象を生み、この四次元を統轄しているのであります。言霊イ・ヰは他の四次元の母音宇宙より起こる現象を創造します。そのことから申しますと、次のように言うことが出来ましょう。ウの宇宙から起こる欲望現象も、実はイ・ヰの創造意志性能が働くからであり、オの経験知現象も創造意志が縁の下の力持ちとして働くからであり、アの感情現象もイの生きようという創造意志あるが為であり、エの実践智が働くのも、イの創造意志活動のお蔭である、ということが出来ます。

言霊五十音図の中から十七の先天言霊だけを書いた図を想像してみて下さい。言霊イ・ヰの親音は縦にアオウエイ、ワヲウエヰの母音、半母音をそれぞれ統轄しています。また横に自らの働きである八つの父韻を以ってアオウエ、ワヲウヱのそれぞれの段を結び、アオウエ四つの段階のそれぞれの特有の現象を創生します。(創生した三十二の子音が森羅万象構成の単位となります)親音イ・ヰはこのように人間精神の全活動の原動力となる創造意志の本体でありますが、それ以外にもう一つ重要な役目を果たしているのです。普段人々が全く意を留めていない創造意志の性能について今より触れることといたします。

それは何か。自ら創生したものに名を付けるということです。どんなものを創造しても、それに名が付かなければ、ただ「あー、あー」と言うだけで、それがないのと同様です。そのものに適当な名前がついて初めてそのものは世の中の時処位が定まります。世の中から認知されます。大きく言えば人類文明の一つとして認められたことになります。この重要な役割を言霊イ・ヰが担っていることに気付く人はそれ程多くはないでしょう。この重要な役割を一手に引き受けているのが言霊イ・ヰの親音なのであります。親音イ・ヰの働きを箇条書きにまとめてみましょう。

一、親音イ・ヰは人間精神の天之御柱(アオウエイ)、国之御柱(ワヲウヱヰ)を音図の縦に統轄し、

二、言霊イ・ヰは親音として自らの働きであるチイキミシリヒニの八父韻を音図の横に展開してアワ、オヲ、ウウ、エヱの四段階の母音・半母音を結合させ、合計三十二の現象子音を創生し、森羅万象一切を生み出します。

三、創生した一切のものに、自らの所有である言霊五十音を駆使して、そのものに最も適した名前をつけ、社会に於ける時処位を定めます。

以上、宗教において最高主神と崇められ、言霊学においても一切の言霊活動の原動力である言霊イ・ヰの性能についてお話いたしました。精神の先天構造を構成する十七の言霊の最後の伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰが出揃いますと、「いざ」と創造意志が働き、先天構造が活動を開始します。それによって言霊イ・ヰの実際の働き手である八つの父韻が四組の母音・半母音に働きかけ、主体と客体を結んで8×4=32で、合計三十二個の後天現象の単位・要素を生みます。現象子音の創生です。言霊学でこの現象を「子生み」と申します。

先天構造の話が終りますと、次に「子生み」の話に移ることとなりますが、先天構造は言霊学すべてに対して「始め」の役割を担っています。先天構造の内容とその働きがよく分かりませんと、後天構造の内容を理解する事が難しくなることが多々起こって参ります。そこで「子生み」の話に入る前に先天構造の理解を深めるために、もう一度復習をしておくことにしましょう。宇宙剖判の順序に従って十七先天言霊を並べますと、上の図となります。このような先天構造の配列を天津磐境(あまついはさか)と呼びます。天津は先天の意。磐境(いはさか)は五葉坂(いはさか)の意です。図をご覧下さい。先天図は五段階の言葉の層になっています。これを五葉坂(いはさか)と書き、磐境(いはさか)とまとめました。全体で天津磐境(あまついはさか)です。

次に先天構造の母音、半母音、八父韻をそれぞれを主体、客体、底辺とした五十音図の枠を作ります(図参照)。向って右の縦の母音の並びを天之御柱(あめのみはしら)と呼びます。アオウエイの縦の並びは主体を表わします。向かって左の縦の半母音の並びを国之御柱(くにのみはしら)と呼びます。客体を表わします。次に天之御柱と国之御柱とを結ぶ横線のチイキミシリヒニの八父韻を天之浮橋と呼びます。

アオウエイの五母音が縦にスックと立った姿、五重、これが人間の心の住み家です。家(五重)の語源となります。五母音がかく並んだ人間の自覚態を、五尺の柱として伊勢神宮には本殿床上中央の床下に祀られています。心柱、忌柱(いみはしら)、天之御量柱(あめのみはかりばしら)などと呼ばれます。神道ではこれを「一心之霊台、諸神変通之本基」と呼んで尊んでいます。「一切の現象はこれより発し、終わればまたここに収まる」と謂われます。

言霊学における五つの母音を外国では如何に呼んでいるか、五母音との対照図は「古事記と言霊」に載せてありますが、念のため此処でも図にして載せることとしました。

島生み

ここに天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐(いざなぎ)の命伊耶那美(いざなみ)の命の二柱の神に詔(の)りたまひて、「この漂へる国を修理(をさ)め固め成せ」と、天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき。かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛(ぬぼこ)を指(さ)し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(な)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。その島に天降(あまも)りまして、天(あめ)の御柱(みはしら)を見立て八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。

人間精神の先天構造を構成する母音、半母音、父韻が出揃い、更に一切の原動力である言霊イ・ヰの創造意志が「いざ」と発動しましたので、いよいよ後天現象である言霊子音が生まれることとなります。いわゆる「子生み」の始まりとなるわけですが、古事記では直ちに後天現象子音を生むのではなく、生むための心の中の下準備ともいわれる事が進行するのであります。それが前に掲げました古事記の文章です。一度読んだ位では難解で何のことだか分からないかも知れません。一節ずつ解説していきましょう。

「ここに天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐(いざなぎ)の命伊耶那美(いざなみ)の命の二柱の神に詔(の)りたまひて、」

ここに先天構造を構成するすべての神々が出揃ったので、それ等の神々の命令を受けて伊耶那岐・伊耶那美の二神がいざと立ち上がり、と解釈できましょう。

「この漂へる国を修理(をさ)め固め成せ」と、」

先天構造世界の内容はすべて整った。けれど後天現象世界についてはまだ何も手をつけていない。その混沌とした後天の世界に創造の手を加えて、種々のものを創造し、うまくいったか、どうかを調べ、創造したものに適当な名前を付け、整備しなさい、との意味です。この場合、漂へる国の国とは国家のことではなく、創造して行く一つ一つの物や事のことを指します。混沌とした世界を一つ一つ区切って、言葉の言うように似せること、創造したものの内容・その存在がよく分かるように適当な名前を付け、他のものとはっきり区別出来るようにすることを言います。

「天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき。」

天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)とは先天の働きのある矛(ほこ)の意。矛とは剣(つるぎ)の柄(つか)の所を長くした武器のこと。古事記の神話が言霊学の教科書であることを念頭におくと、天の沼矛とは言葉を発する時の舌のことと考えられます。この舌を操作して言葉を創造し、その言葉によって後天の現象世界を整備、発展させなさいと命令し、委任した、ということです。

「かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、」

そこで伊耶那岐・美の二人の神は、岐の神は主体である天之御柱、美の神は客体である国之御柱の上に立って、双方を結んで懸け渡した天の浮橋の両端にいて向かい合い、主体と客体とを八つの父韻チイキミシリヒニで結ぶこととなります。

「その沼矛(ぬぼこ)を指(さ)し下(おろ)して画きたまひ、」

その天の沼矛を下におろして、チイキミシリヒニと舌を使って攪き廻して発音する、の意。画(か)きは攪(か)きの謎。沼矛(ぬぼこ)の沼は貫(ぬき)の意で横(よこ)。

「塩こをろこをろに画き鳴(な)して、引き上げたまひし時に、」

塩(しほ)とは四穂(しほ)で四つの母音アオウエのこと。四つの母音をチイキミシリヒニの八父韻で攪き廻して、引き上げた時、の意。

「その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。」

攪き廻した矛の先からしたたり落ちる塩が積もって出来た島は、己(おの)れの心の島である、の意。攪き廻して引き上げた矛の先には四つの母音アオウエにはチイキミシリヒニの八つの父韻が附着して、チ+ア=タ、キ+オ=コ、……と三十二個の子音が附いて来ます。人の心の現象は三十の子音で表されますから、己(おの)れの心の島であります。島(しま)とは「締(し)めてまとめる」の意。心である海の部分々々を締めてまとめたものは一音一音の現象子音ということが出来ます。これが自分というものの内容であり、表現であるということであります。

現代の社会では、存在する物や事を識別・区分する判断の土台として学問的な概念を使います。同一の現象についても判断の概念に相違があると、観察の結果に異論が生まれます。論争が起こります。その点、古代日本語の如く、物事を区別し、表現するのに、そのものズバリの実相である言霊を用いますので、言葉即実相で異論の起こりようがありません。古代日本語の他に類を見ない能力にご注目下さい。この「惟神言挙(かむながらことあ)げせぬ」と言われる世界で唯一つの実相の言葉を地球上に初めて創り出した時の喜びを日本書紀は「二神天霧(さぎり)の中に立たして曰はく吾れ国を得んとのたまひて、乃ち天瓊矛(あめのぬぼこ)を以て指し垂して探りしかば馭盧島(おのごろしま)を得たまひき。則(すなは)ち矛を抜きあげて喜びて曰はく、善きかな国のありけること」と記しています。人類が初めて言葉で自分の見・聞き・触れた事を実相そのままに表現することが出来た喜びということでありましょう。

「その島に天降(あまも)りまして、天(あめ)の御柱(みはしら)を見立て八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。」

伊耶那岐・伊耶那美の二神が先天構造である天の浮橋の両端に立って、チイキミシリヒニの八父韻を以ってアオウエ四母音を攪き廻し、三十二の現象の最小の単位である子音を生みます。心の現象世界をそれぞれ分担する自分の心の島を見ることが出来ましたので、その島に下り立って見ますと、その島々を生んだ母音の柱が島々の上にスックと立っているのが分かりました。御柱は二つあり、主体を表わす母音の柱を天之御柱といい、客体を表わす半母音の柱を国之御柱といいます。

この二本の御柱の立ち方に二様があります。天之御柱と国之御柱が一体となり、現象界の中心に立つのを絶対といい、二本の御柱が別々に現象界の左右に立つのを相対と呼びます。A図は神道で「一心の霊台、諸神変通の本基」と呼びます。伊勢神宮の本殿の床下に建つ「御量柱(みはかりばしら)」です。

八尋殿とは八つを尋ねる殿(図形)の意です。八尋殿の図形は四方にいくら延長させても同一原理を保ちますので彌広殿とも書きます(D図)。哲学ではB図を框(かまち)と呼び、キリスト教ではC図を「アダムの肋骨(あばらぼね)」と呼び、またキリストが生み落とされた「馬槽(うまふね)」といいます。

その七

先月の講座で淤能碁呂島(おのごろしま)の話をしました。それは「おのれの心の締まり」の意だと申しました。その淤能碁呂島についてもう少しお話してみようと思います。

「私って何でしょう。」極めて平凡な疑問のように見えて、さてその答えとなると中々難しいこととなります。今の世の中にこの疑問にはっきりと答えることが出来る人が幾人いるでしょうか。この難しい問題に対して一刀両断、ズバリと答えを出しているのが古事記の淤能碁呂島の話なのです。ふり返って考えてみましょう。

伊耶那岐の命と伊耶那美の命は天の浮橋の両端に立って、天の沼矛(ぬぼこ)を下(おろ)ろして、塩(しほ)を画きならしました。人間の主体と客体が向かい合って言葉を発声する器官である舌を使って、チイキミシリヒニの八父韻でもって、塩であるウオアエの母音を撹き廻して発声しました。すると舌から塩がしたたり落ちて島が出来ました。それがおのれの心の島だ、と言うわけです。アとワ、オとヲ、ウとウ、エとヱの四組の母音と半母音を八つの父韻で撹きまぜたのですから、ア段からは感情の現象が、オ段から経験知現象が、ウ段から欲望現象が、そしてエ段から実践智の現象がそれぞれ発現して来ます。そうしますと、それがおのれの心の締まりとなる、ことになります。人間の千変万化の出来事をそれぞれに発現した音が単位となって締め括(くく)ったことです。

このように見て来ますと、「私」とは「十七言霊で構成された心の先天構造と、その先天構造の活動によって発現して来る心の後天現象の一切」ということになりましょう。しかし、先天構造の活動によって現れ出てくる後天の現象は、現れては消え、消えては現れる出来事なのであって、実体がありません。これが私だよ、と言ってユニフォームで身を包んで、スマシ顔で立っている私も唯見るだけの現象なのです。「暑い、暑い」と言いながら、裸で団扇を使っている私も現象に過ぎません。となると、厳然として実在する私とは、言霊学が教える五次元のアオウエイの宇宙の畳(たたなわ)りが、半母音と一体となった、即ち天之御柱と国之御柱が一体となった心柱(忌柱、天之御量柱)こそが私の心の本体ということが出来ましよう。心の一切の現象、森羅万象がここより発し、終わればここに帰って来る、神道五部書にある「一心の霊台、諸神変通の本基」こそ「私」の本体なのであります。「私」というものの本体は宇宙そのものということになります。

古事記の文章を先に進めることにしましょう。

ここにその妹伊耶那美の命に問ひたましく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾(あ)が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善(よ)けむ」とまをしたまひき。……

先に矛(ほこ)という器物を人間の舌と見立てて、言葉の発声について話したかと思ったら、今度は男女の生殖作用のこととは何事か、と思う方もいらっしゃるかも知れません。人間の発声作用とか生殖活動等々は人間に与えられた生命直接の働きであります。そのため、それらの活動の内容は生命そのものの内容と同様であり、極めて類似しておりますので、一つの活動の説明として他の活動を用いる事が可能なのであります。

先に矛で塩を撹き廻して淤能碁呂島というおのれの心の区分の島を生みました。自分の心を言葉という島で区分したわけです。この言葉を生むことを再びむし返して、言葉の創生を今度は伊耶那岐と伊耶那美の間の生殖活動として説明しようとするのであります。

岐の命は美の命に尋ねます。「貴方の体はどうなっていますか。」美の命が答えます。「私の身体は一処成り合わぬ処があります。」岐の命が言います。「我が身には一処成り余れるところがあります。ですから私の身の成り余る処を、貴方の成り合わぬ処に刺しふさいで、国土(くに)を生みましょう。」美の命は「それは善いことですね」と答えました。岐と美の命は以上の身体の生殖器能になぞらえて、言葉の創造作業を説明するのです。今度は単純に岐の命は男性として父韻の、美の命は女性として母音の役目を演じるのであります。

美の命の「成り成りて成り合わぬところ」とは母音のことです。母音アを息の続く限り発声してみて下さい。ア……と何処まで行ってもアが続いて終わることがありません。成り合わぬ、と表現しました。それに対し岐の命の「成り成りて成り余れるところ」とは父韻のことです。チの音を長く引っ張ってみて下さい。チ―イ、と成り余ります。「成り余れる処を、成り合はぬ処に刺し塞ぎて」とは父韻を母音の上から蓋をするように刺して、ということで、チでアを塞ぐとチアで「タ」となります。キオで「コ」となります。国土生みなさむとは、国とは組(く)んで似(に)せる、で音を組むことによって一つの意味を持ったものに造り上げることであります。このようにして言葉を造ることを細かく説明したわけであります。そしてかかる作業が言霊学全体から見るとどういう事になるか、が次に説明されます。古事記を先に進めます。

ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾(あ)と汝(な)と、この天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。かく期(ちぎ)りて、すなはち詔(の)りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟えて廻りたまふ時に、……

この場合は天の御柱と国の御柱が一つになった立場で物申されておりますので、岐美の両命は一つの行為をすることになります。その場合二命は天の御柱を廻る一つの行為の八つの父韻を双方で受け持つこととなります(図参照)。そうなりますと、夫である岐の命は八父韻の陽韻であるチキヒシの四韻を、妻である美の命は陰韻であるイミニリの四韻を受け持つこととなります。美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)とは今で謂う結婚のことです。日本書紀には「遘合爲夫婦(みとのまぐはひ)」「交(とつぎ)の道」とあります。遘合は交合のこと、夫婦のまじわりのことです。交(とつぎ)とは十作(とつぎ)で、イ・チキシヒミリイニ・ヰの創造行為を表わします。「右(みぎ)」とは「身切(みき)り」で陰、「左(ひだり)」は霊足(ひた)りで陽を表わします。古事記の文章を先に進めます。

伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたなひき。おのもおのものりたまひ竟えて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(をみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。然れども隠処(くみど)に興して子(みこ)水蛭子(ひるこ)を生みたまひき。この子は葦船に入れて流し去(や)りつ。次に淡島(あはしま)を生みたまひき。こも子の数に入らず。

美の命が先ず「何といい男だこと」と言い、後に岐の命が「何といい娘子(をとめ)だなあ」と言いました。二命がおのおの言葉を言いおえて、岐の命はその妻美の命に「女人(をみな)の方が先に言ったのは適当ではない」と言いました。何故適当ではないのか。女人である母音を先に言い、後から男人(をとこ)である父韻を言い足しても言葉は生まれて来ません。父韻であるkに母音aが付くからkaカの音が生まれます。けれど母音aを先に、後に父韻kを付けてもakでは音になりません。また人間の社会に於ても、或る事に対処して解決を計らねばならぬ時に、その社会の実相を直視しようとせず、自らの心の安心のみを求めていたのでは、社会は改善されることはありません。人間の欲望ばかりはびこるこの二・三千年間、自らの心の安心を求める宗教は何一つ世界の歴史上の精神的改善を成し遂げ得なかったことは歴然たる事実でありましょう。「然れども」と古事記にはあります。事実そうではあるけれど、世の中の長い歴史の流れの中には、そのような矛盾も多々あることであるから(然れども)、このことも書き入れて置きましょう、ということであります。隠処(くみど)に興(おこ)して、の隠処とは組み処の意。頭脳内の言葉が組まれる処の意。心の先天構造内は五官感覚の及び得ない処なので、隠れる処と書いたわけであります。子水蛭子を生みたまひき。蛭には骨がありません。霊音である八つの父韻を欠くことから霊流子(ひるこ)とも書くことができます。共に事に対処するに当たって時の推移、空間の変化を計る八父韻が欠如しているので、物事の時所位を定めることが出来ず、文明の創造に当たって無力であります。

この子は葦船に入れて流し去りつ。この水蛭子(ひるこ)は葦船に入れて全世界に流してやった、とあります。どういう事なのでしょうか。岐の命と美の命が交合して子を生むに当り、美の命が岐の命より先立って声をかけました。即ち母音を先にし、父韻を後にしました。母音アを先にし父韻チを後にしますとatで音になりません。現象としての実相が現れません。そうと知り乍ら子を生み、水蛭子が出来ました。長い皇祖皇宗の御経綸の歴史の中でも、そういうことは起こり得ることである、ということで、岐美二命の本当の子ではないけれど、歴史の世界に流しやった、というわけであります。実相を生む八父韻を無視して、母音である人間の本体である空相のみを追及するもの、それは宗教であります。ここ三千年、物質科学文明時代に於て戦乱相次ぎ、人々は明日の生命も知れない時、宗教は人々の生きる希望を支えてきました。

そういう事もあろうという訳で、水蛭子を葦船に乗せて世界中に流布したのであります。葦船とは言霊学でいう天津太祝詞音図のことであります(図参照)。皇祖皇宗が人類文明を創造する基本原理を天津太祝詞五十音図といいます。その音図は母音が縦にアイエオウと並び、横のア段はア・タカマハラナヤサ・ワ、イ段はイ・チキミヒリニイシ・ヰと連なります。図をご覧下さい。葦船の葦は音図のアとシを結んだものです。ア段はスメラミコトの座であり、イ段は経綸の基本原理の父韻の並びを表わします。そこでアとシを結んで、アシは単的に経綸を指します。宗教も実際の子ではないが、役に立つ事もあると認めて、葦の船に乗せたということです。言葉は人の心を乗せて運びます。そこで人の心を運ぶものとして船を用いるのです。

宗教が水蛭子であることを弾劾(だんがい)した有名な事件があります。今から約八百年余以前、執権北条時宗の時代、元冠の時、法華経を奉ずる日蓮は時の仏教各派を「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と罵(ののし)り、「法華経のみ国難を救うと叫んで、その時までの仏教が内にのみ拘泥して、外を見ない態度を打破しようとしました。その傾向は仏教の中で今でも続いているようであります。

次に淡島をうみたまひき。こも子の数に入らず。淡島の淡はアワの意であります。この講座の先の方でお話しましたように、アとワ、主体と客体が対立することから始まる人の物の考え方のことです。人の認識作業は、先ず言霊ウから始まり、次にアとワ、主体と客体に分かれ(宇宙剖判)、更にオエ、ヲヱ……と剖判します。このような言霊学が示す道理を通った認識は実相を直視することが出来ますが、何時の時からか、人類は言霊ウの存在を無視して、物事をアとワに分かれた処から思考が始まると思い、自らの経験知識による判断を行うようになりました。かかる認識作業を淡島と呼びます。判断の土台として各自の認識の概念を設定しますので、その思考は論争を招くこととなります。言霊学の正式の子にはなり得ません。

その八

先号講座の終りに水蛭子(ひるこ)と淡島(あはしま)の話をしました。水蛭子につきましては詳しくお話申上げましたから御理解を頂けたことと思います。淡島についてはもう少し説明しておいた方がよいように思いますので、少々重複するかも知れませんが、説明を加えることといたします。人間本来の物事の認識作業はウ―ア・ワ―オエ・ヲヱという宇宙剖判の天津磐境の心の構造に則って行われて始めて真実の認識が可能となります。この事は心の先天構造のところで何回も説明して来ました。それに対して淡島と古事記が呼ぶ認識は、主体アと客体ワが対立して出合う所から始まります。アとワの対立から始まる物事の締まりですからアワ島即ち淡島と呼ばれます。人間が大自然から授かった宇宙剖判による判断力である天津磐境によれば、人が処理すべき物事に出合った時、その物事の今までに到る過去の出来事、並びに今・此処の現状(実相)が掌に取る如く見ることが出来ますから、その物事を将来に向ってどの様に処理したらよいか、も立ち所に分かります。誤ることはまずありません。

それに比べて淡島ではどんな内容の判断になるのでしょうか。対立する客体(処理すべき物事)は眼前にある事態です。その過去と現実の内容を見定めるのは、万人共通の天津磐境という天与の判断力ではなく、主体である人間がその時までに心の中に集めて来た経験知識です。となるとどういう動きとなるでしょうか。

主体である人は眼前の事態の内容を自分の経験知識を総動員して観察します。そして「これこれだ」と判断の結果を出します。と同時に、今の事態をどういう結果に導いたらよいかを考えます。今まで一般的に考えられて来た過去の立場を正と呼びます。それに対してその人が観察した現状を反と設定します。すると、その人は今までの考えられて来た立場(正)と自らが判断した状態(反)とを比べて、そのどちらも抱含し、更にどちらをも肯定することが出来る第三の立場を探究し、そこで設定された立場を論理の目的地と定めます。この目的地となる立場を正反に次ぐ合の立場と呼びます。この正と反から合に導く思考法を哲学では正反合の弁証法と呼びます。

右の考え方の内容を簡単に述べますと次のようになります。今まで物事は「これこれ」のように進んで来ました。そこに矛盾が起こり物事は停滞しました(正)。そこで新しい人が選ばれ、考え方を一新しようとしました。その人は自分の立場で物事を観察し、この矛盾を解決するには今までとは異なった立場に立つべきだ、と判断しました(反)。しかし今まで(正)からこれからの(反)に強引に移したら混乱が起こるでしょう。そこで(正)の方からも容認され、更に(反)の内容をも実現する立場を求めて(合)に辿り着きました。事態は新たな動きとなりました。これが正反合の内容です。

新聞・テレビは勿論、幾多のメディアが報道する社会の出来事、議会、官庁、学校、会社、学会等々の運営の方針はすべて右のような正反合弁証法の考え方によって公案され、実施に移されます。社会全体はこの様に運営されています。如何にも合理的で賢(かしこ)い方法と思われることでしょう。民主的社会も独裁的社会も多少の差はあっても似たり寄ったりの方法に変わりはありません。この様に万人が信じて疑わないこの考え方に大きな「落とし穴」があることに、そしてその落とし穴のために、人々は社会の中にあって競い合う論争の渦の中に巻き込まれ、四苦八苦していなければならない事に気付く人は寥々たるものであります。誰も疑っていないのです。今の世界、社会は文字通り“淡島”の独擅場(どくせんじょう)ということが出来ます。

どうしてこの様になってしまったのでしょう。余りに長くなりますので、結論を手短にお話しましょう。淡島には、物事の処理を決定し、推進する原動力となる人間に授けられた創造の意志のリズム、八父韻の自覚が欠如しているのです。八父韻とは物事を創造し、実践して行く根元能力であり、物事を推進する上での時と処と次元を決定する法則でもあります。この能力の欠如、自覚の忘却のために、淡島による会議は、その決定から結論の地点に行き着くまでの時間と処との変化の過程を、詳細に予定表として組むことが出来ず、結論の達成は時間の経過に委ねられることとなります。現代人が”淡島漬け“になっている実状はお分かりになったことと存じます。この社会の矛盾は言霊学(布斗麻邇)の講座が進むにつれて、いよいよ明らかに認識されることでしょう。

古事記の文章を先に進めましょう。

ここに二柱の神議(はか)りたまひて、「今、吾が生める子ふさはず。なおうべ天つ神の御所(みもと)に白(まを)さな」とのりたまひて、すなはち共に参い上りて、天つ神の命(みこと)を請(こ)ひたまひき。ここに天つ神の命以ちて、太卜(ふとまに)に卜(うら)へてのりたまひしく、「女(をみな)の先だち言ひしに因りてふさはず、また還り降(あも)りて改め言へ」とのりたまひき。

そこで伊耶那岐、伊耶那美の二神は相談をしまして「今、私達が生んだ水蛭子と淡島という子は正式の子供として数に入れるには適当ではありません。こうした事になったからには、高天原の天つ神の処へ行って出来事の全部を申上げて、如何にすべきか聞くことにしましょう」ということになり、高天原に上って行って再び天つ神の命令をお願いしました。報告を聞いた天つ神は布斗麻邇(ふとまに)の原理を参照して「貴方がたは女が先に言葉を発したのが適当でなかったのです。もう一度現象界に下りて行って、その事を改めて発音したらよいでしょう」と命令なさいました。

古事記の文章を現代語に直せば以上のようになります。話の内容については読者の皆様はお分かり頂けていることと思います。岐の命と美の命は言葉を掛け合って結婚に入る前から「女が先立ち言うのは如何なものであろうか」と既に知っていたからであります。けれど物事に失敗したからは何も起こらない0に返るのが一番よい事だ、と高天原・先天に帰ったのであります。そこで天つ神は参照する為に太卜を持ち出しました。太卜について古事記の訳註を見ると「古代の占法(せんぽう)は種々あるが、鹿の肩骨を焼いてヒビの入り方によって占(うらな)うのを重んじ、これは後に亀の甲を焼く事に変わった」と書いております。これは現代の国学者が古代の「太卜」(ふとまに)の意味を知らないがための誤解であります。「ふとまに」とは漢字で布斗麻邇と書かれ、言霊原理の法則全般の事を表わした言葉であります。「ふと」とは二十(ふと)の意。「まに」とは麻邇(まに)即ち真名(まな)で、言霊のことであります。「マニ」は世界語で、キリスト教でmanna(まな)、仏教で摩尼(まに)、ヒンズー教でマヌ、そして日本で麻邇(まに)と呼びます。言霊は全部で五十個ありますが、五十音図でチキシヒの四列の陽音(濁点を付けられる音)二十個の言霊の一音々々の意義を理解し、自覚し得ますと、その人は五十音言霊原理の法則の一切を理解することから、言霊原理全体を代表するものとして布斗麻邇と呼びました。即ち太卜(ふとまに)とはアイウエオ五十音言霊の原理・法則すべてを表わす言葉であります。岐美の二神は高天原の言霊原理に帰って、その原点に立って再び活動を開始することとなります。占うとは裏である心と、表である言葉を縒(よ)り、綯(な)って、行くの意であります。言霊原理隠没後、太卜は訳註にあるが如く、鹿の肩骨を焼いたり、亀の甲を焼いたりする所謂占法のことと思われるようになりました。

古事記の先の文章に移ります。

かれここに降(あも)りまして、更にその天の御柱を行き廻りたまふこと、先の如くなりき。ここに伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりしたまひき。かくのりたまひ竟(を)えて、御合(みあ)ひまして、子淡道(こあはぢ)の穂(ほ)の狭別(さわけ)の島を生みたまひき。

再び天つ神の命令を受けた伊耶那岐・伊耶那美の神は淤能碁呂島に降りて、以前の如く天の御柱を廻り合い、岐の命がまづ「何と美しいをとめだな」と発言し、その後で美の命が「何とまあ美しいをとこだこと」と言い、再び身を一つにして御子である淡道の穂の狭別の島を生みました。男である父韻を先に、女である母音を後に発音したのですから、間違いなく現象子音言霊が生まれるのか、と思いましたら、違って何と淡道の穂の狭別の島という島が生まれました。これはどういうことなのでしょうか。

それは先天構造の活動によって、後天である三十二の現象子音が生まれる前に、生まれて来る言霊が精神宇宙の中に占める位置を確定しておくこと、更にその言霊の位置の確認によって、逆に精神宇宙の言霊による構造をも明らかにしておこうとする意図が働いたからに他なりません。生まれる子より前に、生まれて来る子の居場所を決定したのであります。そこで初めて生まれた淡道の穂の狭別の島に続く古事記の文章を先に進めることにしましょう。

次に伊予(いよ)の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面(おも)四つあり。面ごとに名あり。かれ伊予(いよ)の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐(さぬき)の国を飯依比古(いひよりひこ)といひ、粟(あは)の国を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ。次に隠岐(おき)の三子(みつご)の島を生みたまひき。またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)。次に筑紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の国を白日別(しろひわけ)といひ、豊(とよ)の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥の国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ。次に伊岐(いき)の島を生みたまひき。またの名は天比登都柱(あめひとつはしら)といふ。

最初の淡道の穂の狭別の島を入れますと、伊予の二名の島、隠岐の三子の島、筑紫の島、伊岐の島と合計五つの島が生まれて来ます。さて、以上のことを頭に入れておいて、先にお話しました天津磐境(あまついはさか)と呼ばれる心の先天構造を思い出して下さい。この先天構造図は五階層から成立しています。磐境とは五葉坂(いはさか)の意と申上げました。最初から五番目までに生まれた島の名前は、この天津磐境の五階層の言霊の一階層それぞれの位置とマッチして、その位置を決定している島の名前なのであります。図はそのそれぞれを対称として示したものであります。島の名の意味を一つずつ説明して行くことにしましょう。

淡道の穂の狭別の島とは、アとワの言霊(穂)へ、狭い所を通って来て、別れて行く島(締めてまとめた区分)の意。「狭い所を通って来て」とは何もない宇宙の一点から現象の兆(きざし)として生れ出ようとするもの(言霊ウ)が次の瞬間、アとワの主体と客体に別れんとする位置にある言霊、と言った意味であります。これは正しく天の御中主の神(言霊ウ)のことです。

伊予の二名の島とはイ(ヰ)言霊が自覚・確認される 予 めとなる二つの名の締り、の意。二つの名とは主体と客体アとワに分かれた名であって、分かれたことで思考が可能になります。主と客に分かれなければ思考は出来ません。それ故、二名であるアとワはイ言霊に思考が達するための前提ということになります。「この島は身一つにして」とは言霊アとワは身一つの言霊ウから分かれた事を意味します。「面四つあり」とはアワは宇宙剖判して四つ言霊が現れることをいいます。「伊予(いよ)の国を愛比売(えひめ)といひ」とは、言霊エ(実践智)は経験知オの中から選ばれます。経験知オは実践智エを秘めていることです。即ち伊予の国は言霊オです。「讃岐(さぬき)の国を飯依比古(いひよりひこ)といひ」とは、飯(いひ)とはイの言霊(ひ)のこと。イ言霊を依る(選る)主体(比古)で言霊エです。「粟(あは)の国を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ」とは、大宜都比売とは大いによろしき都を秘めているの意。都とは宮(言霊図)の子で言霊、大宜都比売全部で大いに宜しき言霊によって組織されたもの、の意で言霊ヲであります。「土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ」とは、建(たけ)とは田(た)の気(け)で言霊のこと、それを依り分けた区分(別)の意で言霊ヱとなります。伊予、讃岐、粟、土左の四つの国は四国を表わし、四面に掛けて示したものでありましょう。

「次に隠岐(おき)の三子(みつご)の島を生みたまひき。」隠岐(おき)は隠れた所で先天構造、三子(みつご)は第三段目の島の意。即ち言霊オ、エ、ヲ、ヱ四言霊を指示しています。「またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)」とは「天の」は先天のこと、忍許呂別(おしころわけ)とは大いなる(忍)心の(許呂)の区分(別)の意であります。経験知と実践智は先天の働きの中でも傑出した働きであります。

「次に筑紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の国を白日別(しろひわけ)といひ、豊(とよ)の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥の国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ。」「筑紫の島」の筑紫とは尽(つく)くしの意で、人間に与えられた究極根本活動は八つの父韻で表わされ、それで尽くしていることから、八つ四組の父韻を指示します。その四組の父韻を四つの国に割り振って説いております。

「筑紫の国を白日別(しろひわけ)といひ」とは、白日別の白(しら)は父韻シとリの謎、「豊(とよ)の国を豊日別(とよひわけ)といひ」とは豊日別は父韻チとイの呪示、「肥の国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ」とは父韻ヒとニの呪示であり、「熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ」とは熊曽の国の熊が父韻キとミを指示していることであります。肥の国については父韻ヒニの説明の項に帰ってお読み下さい。「建日向(たけひむか)」は父韻ヒに、日豊久士比泥別(ひとよくじひねわけ)が父韻ニの神名、妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)の神と比べればお分かりになりましょう。以上、筑紫の島の面四つについて説明をいたしました。

「次に伊岐(いき)の島を生みたまひき。またの名は天比登都柱(あめひとつはしら)といふ。」

筑紫の島に続く第五番目の伊岐の島を生みました。伊岐の島とは言霊イ・ヰの島の意であります。天津磐境の第五段目は言霊イとヰ、神名では伊耶那岐の神・伊耶那美の神の精神宇宙に占める位置を示します。またの名、天比登都柱とは「天の一つの柱」の意です。「天」は先天を表わします。言霊イは言霊アオウエ四つを統轄しています。言霊ヰは言霊ワヲウヱを統轄します。この言霊イと言霊ヰとが一つとなる絶対の立場に於ては、主体である母音アオウエイと客体である半母音ワヲウヱヰは一体となり、天之御柱を形成して精神宇宙の中にスックと立ち上がっています。一切の現象、森羅万象はこれより発し、終わればすべてここに帰ります。即ち宇宙ただ一つの大黒柱の事で、これを象(かたど)ったのが伊勢神宮の正殿の床中央の真下に建てられた天の御量柱(みはかりばしら)、または心柱と呼ばれる白木の柱であります。

以上で心の先天構造である天津磐境の五段階のそれぞれの段が精神宇宙に占める位置・内容を表わす五つの島についての解説を終わります。さて、ここで改めて申上げておくことがあります。古事記を載せている本の訳註を見ますと、この島生みに登場する島の名前は、現在の日本の地図上にある島の名を取り上げていますが、古事記のそれとは何ら関係がないという事を覚えておいて頂きたいということであります。古事記の編者太安万侶は神々の位置、居所、宝座を示すのに島の名を用いましたが、それはその内容を示すに都合のよい島の名を、実在する島の名の中から便宜上、アトランダムに引用して記載しました。古事記神話の中の島の名は、実際に存在する島とは何ら関係がありません。飽くまで島の名前のみの方便上の引用であります。

その九

古事記「島生み」の章の文章を先へ進めます。

次に津島(つしま)を生みたまひき。またの名は天の狭手依比売(さでよりひめ)といふ。次に佐渡(さど)の島を生みたまひき。次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)を生みたまひき。またの名は天つ御虚空豊秋津根別(みそらとよあきつねわけ)といふ。かれこの八島のまづ生まれしに因りて、大八島國(おほやしまこく)といふ。

然ありて後還ります時に、吉備(きび)の児島(こじま)を生みたまひき。またの名は建日方別(かたひかたわけ)といふ。次に小豆島(あづきしま)を生みたまひき。またの名は大野手比売(おほぬでひめ)といふ。次に大島(おほしま)を生みたまひき。またの名は大多麻流別(おほたまるわけ)といふ。次に女島(ひめじま)を生みたまひき。またの名は天一根(あめのひとつね)といふ。次に知訶島(ちかしま)を生みたまひき。またの名は天の忍男(をしお)といふ。次に両児(ふたご)の島を生みたまひき。またの名は天の両屋(ふたや)といふ。

古事記の島生みの章の文章はここで終ります。さて、前号の解説は島生みの始めの淡路の穂の狭別の島に始まり、伊予(いよ)の二名(ふたな)の島、次に隠岐(おき)の三子(みつご)の島、筑紫(つくし)の島、そして次の伊岐(いき)の島と続きました。そして以上の五島が、既に解説を終えております人間精神の先天構造を構成する十七言霊の五段階の組織の、一番上から夫々の段階が精神宇宙の中に占める位置と内容を説明した島の名前であることが明らかにされました。即ち先天構造の天津磐境は以上の五つの島が示す五段階の構造であることが明示されたわけであります。

そこで今回の講座は、先天構造の内容と組織が明らかにされましたから、当然その先天構造の活動によって生まれて来る人間精神の後天構造のお話に入って行くことになるのですが、古事記の記述が「子生み」より「島生み」を先に取上げておりますので、順序が逆になっておりますから、これより続々と生まれて来る島々の解説をしましても、その島の位置する後天現象の子音が未だ生まれていない今では、文章が混乱すること必然であります。とは言え、今後の島の出現と生まれ出て来る子音の関係について何もお話しないでは更に何が何だか分らなくなることともなりますので、今後お話申上げます島と子音との関係を大雑把にお話して、子生みのお話に入ってから、島と子の関係を詳しく解説することで御了解を得たいと思います。

心の先天構造の五段階に関係する五つの島が明らかになりました。その次に古事記は次々と九つの島を生みます。そして島生みが終りますと、先天の活動によって三十三個の子音(神)が生まれて来ます。ここで本講座の初めに書きました島生みの文章を御参照願います。先天構造との関係の五島に次いで、三つの島の名が出て来ます。津島、佐渡の島、そして大倭豊秋津島の三島です。この三島が生まれ出て来る後天三十三言霊(神)の三つの区分の位置内容を指示する島名であります。

それでは残った六つの島の名は何を指示するのか、ということになります。古事記はこの後、生まれた先天十七言霊、後天三十三言霊計五十言霊を総合し、整理し、運用して、最後に人間精神が到達すべき最高の精神性能である「禊祓」の法を明らかにして行きます。その整理、運用の段階が六段あり、その夫々の段階を区切り、説明するために六つの島名を当てているのです。古事記の文章の「然ありて後還ります時に」に続く吉備の児島、小豆の島、大島、女島、知訶の島、両児の島(きびのしま、あづきのしま、おほしま、ひめしま、ちかのしま、ふたごのしま)の六島名がそれを明らかにします。

以上のような訳がありますので、古事記の島九つの名前の示す位置、区分、内容の解説は、生まれ出て来る後天子音の説明、並びにその整理、運用の区切々々に島名の説明を差し挟む形で解説して行くことにいたします。御了承下さい。

古事記の文章を「子生み」の章に進めることとします。

既に国を生み竟(を)えて、更に神を生みたまひき。かれ生みたまふ神の名(みな)は、大事忍男(おほことおしを)の神。次に石土毘古(いはつちひこ)の神を生みたまひ、次に石巣比売(いはすひめ)の神を生みたまひ、次に大戸日別(おほとひわけ)の神を生みたまひ、次に天の吹男(ふきを)の神を生みたまひ、次に大屋毘古(おほやびこ)の神を生みたまひ、次に風木津別(かざもつわけ)の忍男(おしを)の神を生みたまひ、次に海の神名は大綿津見(おほわたつみ)の神を生みたまひ、次に水戸(みなと)の神名は速秋津日子(はやあきつひこ)の神、次に妹速秋津比売(いもはやあきつひめ)の神を生みたまひき。

「既に国を生み竟(を)えて、更に神を生みたまひき。」生れて来る神即ち後天の子音の宇宙に於ける位置が定まりましたので、いよいよ先天活動が起こり、後天現象の要素である子音が生れる段階に入りました。右の古事記の文章で計十神が生れます。総合計三十三の子が生れますが、その中の十神であります。言霊子音で表示すれば「タトヨツテヤユエケメ」の十箇の言霊子音です。そしてこの十神、十言霊が精神宇宙の中に占める位置を「津島」と申します。津とはここより海へ船が出て行く処の意です。現在でも三重県に津、滋賀県に大津なる町があります。どちらも海や湖に接しています。津はまた渡す、の意を持ちます。渡すとはどういうことなのでしょうか。

十七言霊で構成された先天構造が活動を始め、何かの意図が発現しました。けれどこれは先天構造内のことでありますから、何であるかは分りません。それが何であるか、を明らかにするには後天の活動が必要です。その何だか分らない発想が実は何であるか、を一つのイメージとして捉える働き、それが津島に位置するタトヨツテヤユエケメの十箇の言霊現象の働きであります。先天現象の漠とした分らないものを、一つのイメージにまとめ上げる働きです。何だか分らぬものをイメージ化する働き、これが津島(つしま)です。この津島の働きを担う十言霊を一つ一つ解説して行くことにしましょう。

大事忍男(おほことおしを)の神・言霊タ

昔の人は人の言葉を雷鳴(かみなり)に喩えました。頭の中でピカピカと雷光が走ると、口からゴロゴロと雷鳴である言葉が鳴りわたる。その形容はキリスト教、新約聖書、ヨハネ伝の冒頭の言葉「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。(はじめにことばあり ことばはかみとともにあり ことばはかみなりき このことばははじめにかみとともにあり よろずのものこれによりてなり なりたるものにひとつとしてこれによらでなりたるはなし)……」を思い出させます。また古事記の神名、大事忍男の神とは「大いなる事を起こさせる(忍)主体(男)の実体(神)という意味で、仏教の「一大事因縁」という言葉に似ています。古事記の編者太安万侶は先天構造から一番初に出て来る言霊タの指月の指に大事忍男の神なる神名を当てました。言霊タとは宗教的に、芸術的に、全宇宙がそのまま現象となる音と説明しました。正しくその表現にふさわしい音であります。

言霊タとは宇宙の中で「タ」と名付けるべき一切のものを表現します。そのタに漢字を付すと田(た)、立(たつ)、竹(たけ)、滝(たき)、高(たか)い、平(たい)ら、種(たね)、戦(たたか)う、頼(たの)む……等々が浮かびます。

言霊タの説明によく田んぼの田を用いる事があります。それは何故か、を説明しておきましょう。詳しい事は今後の話に廻し、今は簡単にお話申上げます。言霊は何処に存在するか、と申しますと、人間本来授かった五つの次元性能の中の言霊イ(意志)の次元にあります。言霊イの次元には、人間の生命意志の担い手である五十個の言霊と、その言霊の操作・運用法である五十通りの法則計百の原理しか存在しません。言霊はイの次元にあって、現在の五十音表の如き構造で存在しますから、言霊のことを「イの音(ね)」で「イネ」と呼ばれます。これが稲を作る田の形に似ておりますので、稲の語源としても使われます。五十音表は言霊五十音の構造を表わしますので、五十音表は人間人格のすべてと考える事が出来ます。そこで宇宙全体がそのまま現象界に姿を表わしたもの、即ち人格全体を言霊タで表現するのです。

石土毘古(いはつきひこ)の神・言霊ト、石巣比売(いはすひめ)の神・言霊ヨ

始めに大事忍男の神以下の十神(十言霊)は先天構造内に起こったものが如何なる事を意図したのかを一つのイメージにまとめる一連の作業だと申しました。ですから大事忍男の神・言霊タに続いて生れて来る神・言霊の解説もその一連の意図に沿った立場からお話をして行くことになります。石土毘古の石(いは)は五十葉(いは)で五十音言霊のことです。土は土壌で育てる働きを表わします。毘古はその原動力である八つの父韻の働きで、チイキミシリヒニ。五十音図は八父韻の両端にイ、ヰが付いて十音となり十を形成します。十(と)の言霊は横に並び、物事を創造して行く時間的な経緯を表わします。先天構造内に起こったものが実際どの様なものなのか、を時の経過に従って調べられる事を示しています。それは先天の意図が言霊の十個の戸を通過するようにして調べられる、ということが出来ましょう。

言霊トの単音に漢字を付して言葉とすると、次のように書くことが出来ましょう。十(と)、戸(と)、時(とき)、止(とまる)、解(とく)、鳥(とり)、通(とおる)、床(とこ)、樋(とひ)、問(とふ)、遠(とお)、……

石巣比売の神・言霊ヨの石は五十音言霊。巣は五十音を以って作られた巣の如きもので五十音言霊図。比売は「秘め」で言霊図の中に秘められたもの、この場合は言霊ヨで、世の中を構成している四つの母音性能を指します。世の中は言霊ウ(五官感覚に基づく欲望性能、その根本性能が人間社会に築くものは物質的産業・経済機構)、言霊オ(人間の経験知、その性能が社会化したものが広くは学問、物質的精神的科学)、言霊ア(人間の感情性能、その社会化現象は宗教、芸術)、そして最後の四番目の性能、言霊エ(人間の実践智性、その社会に於ける活動は政治、道徳)。以上の四性能によって築かれた四種類の社会を総合して世(四)の中と言います。

先天構造の活動によって生れて来た現象の意図は何であるのか、は先ず第一に大事忍男の神・言霊タが全人格として現われ、その実像が次に石土毘古の神・言霊トの現象によるイ・チイキミシリヒニ・ヰの十の言霊によって時間的位置が定められ、次の石巣比売の神・言霊ヨによって現世の人間性能の中のどの性能の働きに属すものなのか、四つの社会の中のどれに入るべき事なのか、が確められます。人間の全人格は五十音言霊図によって表示されます。それ故に先天から姿を現わした現象は先ず言霊図の横の十音(父韻)の時間的変化の法則の網を通り、次に縦四個の次元の篩(母音)を通ってそのイメージ化が進んで行きます。

言霊ヨの音ヨに漢字を当てますと、四(よ)、世(よ)、代(よ)、節(よ)、夜(よ)、宵(よひ)、酔(よう)、過(よぎる)、欲(よく)、横(よこ)、汚(よごれ)、……等が思い出されます。

その十

先天構造を構成する十七言霊が活動を始め、子音が生れ出てきます。先号ではその中のタトヨの三子音言霊について説明をしました。大事忍男の神・言霊タとは、先天構造の活動によって人間の全人格である宇宙そのものとも言えるものがターとこの世の中に姿を現わす姿であります。次にその宇宙をどよめかせて現われた何かが、それが実際に何であるか、が全人格を表わす五十音言霊図の横の一列、イ・チイキミシリヒニ・ヰの十の父韻の戸を潜って調べられ、次いで言霊図の縦の四母音アオウエの節の中を通って、起こって来た発想が四つの母音に内臓される人間の社会を構成する四次元の構造の中のどの構造に属するか、が調べられます。先号の説明によって、此処までが明らかになってきました。そこで今月は言霊タトヨの次の言霊ツの説明から始めることにしましょう。

大戸日別の神・言霊ツ

大戸日別の神の大戸とは、生れ出て来る二番目の神、石土毘古(いはつちひこ)の神・言霊トの示す言霊五十音図の横のイ・チイキミシリヒニ・ヰの八父韻によって構成されている戸(と)のことです。そこから父韻である霊(日)が離れて出て来る(別)働き(神)ということ。何処に向って出て来るか、と言いますと、第三番目に生れて来る石巣比売の神・言霊ヨ、即ち五十音言霊図の縦の五母音の中のウオアエの四母音に向って、ということです。心の先天構造が活動して、父韻と母音が結び付いて現象子音を生みます。と申しましてもこれは先天構造内部のことで、人間の意識では認識出来ません。そこで現象界にバトン・タッチされて、先天の動きと同じような動きが繰り返されて起こり、その中から実際の意図が何であるか、の検討が行われます。未だ何だか分らない意図が石土毘古の神の十の戸を通り、石巣比売の神である四つの母音の中のどれと結び付くか、に向って大戸日別の神・言霊ツと進んで行く動きであります。

言霊ツに漢字を当てますと、津(つ)、着(つ)く、付(つ)き、唾(つば)、終(つい)、費(ついえ)、突(つき)、……等が考えられます。

天の吹男の神・言霊テ

天の吹男の神の天は先天のこと。吹男とは四である四つの母音の女性に向って男である父韻を吹き付けるように発射する様子です。言霊テは手に通じます。吹き出された父韻はどの母音に着くか、手さぐりするように進みます。

言霊テに漢字を当てますと、手(て)、照(て)る、寺(てら)、衒(てら)う、……等が挙げられます。

大屋毘古の神・言霊ヤ

大屋毘古の神の大屋は大きな建造物を意味します。吹き出された父韻が母音と結び付いて、一つのイメージを形成して行きます。心の中に出来上がってくるイメージを建造物に譬えました。

言霊ヤに漢字のルビを振りますと、八(や)、彌(や)、矢(や)、屋(や)、焼(や)く、族(やから)、櫓(やぐら)、養(やしな)う、安(やす)い、痩(や)せ、……等となります。

風木津別の忍男の神・言霊ユ

風木津別の風は霊を表わし、木は体または物質を表わします。忍男とは押し出して来る言霊の意。一つの建造物の如くイメージとなってまとまって来ましたが、霊と体(物質)との区別をチャンと持ちながら、それぞれの内容が次第に鮮明に押し出されて来ました、の意です。先天の意図が何であるか、が一つのイメージとしてまとまって来たのですが、それだけでなく、霊的にも物質的にもその内容がどうなっているか、まで鮮明にまとまって来た、の意です。そういう全体の姿が温泉の湯の如くに湧き出した、の意。

言霊ユに漢字を当てはめますと、湯(ゆ)、弓(ゆみ)、行(ゆ)く、斎(ゆ)、揺(ゆす)る、結(ゆ)う、夕(ゆう)、言(ゆ)う、……等があります。

海の神名は大綿津見の神・言霊エ

大綿津見の神とは大きな海(綿)に渡して(津)明らかとなる(見)もの(神)という意。大きなイメージが細い処を通って次第にまとまって来ます。それは細い川に譬えられます。そこでまとまったイメージは言葉が付けられて広い処へ出て行くことになります。広い処とは口の中です。そこが海です。川から海へ、その接点が「江」であります。

言霊エに漢字を当てますと、得(え)、兄(え)、枝(えだ)、胞(えな)、餌(え)、酔(え)い、絵(え)、抉(えで)る、縁(えん)、笑(え)み、……等が考えられます。

水戸の神名は速秋津日子の神・言霊ケ、妹速秋津比売の神・言霊メ

水戸とは港の意です。速秋津とは速やかに(速)明らかに(秋)渡す(津)という事。心の先天構造から発し、頭脳内の細い川と譬えられる処を通り、一つのイメージにまとまり、集約されて海に譬えられる口腔に辿り着きました。そこが港です。言霊ケとメは一つに集約される現象です。ここでも霊と体の区別は明らかで、言霊ケは気であり、主体であり、言霊メは芽であり、眼であり、客体であります。これまで言霊タから言霊メまでの十言霊の働きで、先天の意図がはっきりと一つのイメージにまとまり、次の段階でこのイメージに言葉が結び付けられます。

言霊ケに漢字を当てますと、気(け)、消(け)す、毛(け)、蹴(け)る、煙(けむり)、……等があります。

言霊メに漢字を当てますと、眼(め)、目(め)、女(め)、芽(め)、姪(めい)、廻(めぐ)る、捲(めく)る、盲(めくら)、恵(めぐみ)、召(め)す、……等があります。

津島 またの名は

天の狭手依比売(あめのさでよりひめ)

以上お話してきました大事忍男の神より妹速秋津比売の神までの十神、タトヨツテヤユエケメの十言霊の精神宇宙に占める宝座、位置とその内容を表わす島の名前を津島と申します。津島とは渡し場の意。先天の活動が現象となり、その内容が頭脳内の狭い通路(川に譬えられる)を通りあれこれと検討され、次第に一つの明確なイメージにまとまって行くけれど、まだそのイメージに言葉が付けられるに到ってない状態、これから改めてそのイメージにふさわしい言葉が付けられる前段階であります。この場合の十音を未鳴と呼びます。まだ名としての言葉が結ばれていませんので、またの名を天の狭手依比売といい、秘められたものとして比売の名が付きます。狭手依(さでより)とは狭い通路を手さぐりで検討するの意であります。

当会発行の言霊学の教科書「古事記と言霊」の中で現在お話申上げている「津島」の説明の終りに、私達がよく見る夢について簡単な解説を試みました。言霊学の講座の先天より後天の言霊が生れて来る消息をお聞き下さって、読者の皆様には夢と日本人の先祖が名付けたものの実相をよくお分かりくださった方も多いと思われます。夢とは先天が津島の段階に於てタトヨツテヤユエケメの十言霊の中の七番目の言霊ユと十番目の言霊メを結んで夢と名付けました。意識では捕捉出来ない先天の意図が津島の段階で次第に一つのイメージにまとめられて行きます。けれど津島の終る段階でもまだ言葉が結ばれません。その言葉を結び付ける作業(これを佐渡の島と言いますが)が津島の十音の作業の何処ら辺までを捉えているか、によって夢は正夢、逆夢、その他いろいろな夢の姿が変わって来ることになります。夢を考える上に於て参考になるや、と思い一筆文章にいたしました。

神々の誕生といわれ、言霊子音の創生と呼ばれる章の中の、先天の意図のイメージ化の仕事である津島の解説が済みましたので、次に佐渡の島と名付けられる八つの子音の創生の項に入ることといたします。古事記の文章に入ります。

この速秋津日子(はやあきつひこ)、速秋津比売(はやあきつひめ)の二神(ふたはしら)、河海によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、沫那芸(あわなぎ)の神。次に沫那美(あわなみ)の神。次に頬那芸(つらなぎ)の神。次に頬那美(つらなみ)の神。次に天の水分(あめのみくまり)の神。次に国の水分(みくまり)の神。次に天の久比奢母智(くひざもち)の神。次に国の久比奢母智(くひざもち)の神。

この速秋津日子(はやあきつひこ)、速秋津比売(はやあきつひめ)の二神(ふたはしら)、河海によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、……

先天の活動で生じた一つの意図が、津島と呼ばれる狭い川のような通路を通って次第にまとまって行き、速秋津日子(言霊ケ)、速秋津比売(言霊メ)の処に来て、その意図の霊体双方が確められたイメージとなりました。そこが川が海に臨む水戸です。この先は海に譬えられる口腔(海)にて言葉に組まれます。これより先の沫那芸の神以下が海です。

沫那芸の神・言霊ク、沫那美の神・言霊ム

先天構造のお話の所で伊耶那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)の婚(よば)い(呼び合い)で主体と客体が結ばれ、現象を生じる事を説明しました。この婚いの作業は先天内のことで、意識で捉える事は出来ません。この先天内の作業を現象界に於て再現するのが沫那芸、沫那美の働きです。津島内の作業で霊体共にハッキリとイメージ化された先天の意図を、今度はその意図を確実に言葉によって表現する作業であります。沫那芸の沫はアとワ、心と体、霊と体、主体と客体です。沫那芸の言霊クと沫那美の言霊ムで、イメージと言葉をクム(組む)働きであります。

言霊クに漢字を当てますと、来(く)、区(く)、杭(くい)、組(く)む、食(く)う、悔(く)う、臭(くさ)い、熊(くま)、茎(くき)、雲(くも)、……等となります。

言霊ムに漢字を当てますと、六(む)、向(むこ)う、剥(む)く、報(むく)い、麦(むぎ)、昔(むかし)、虫(むし)、婿(むこ)、惨(むご)い、迎(むか)える、……等があります。

頬那芸の神・言霊ス、頬那美の神・言霊ル

頬那芸、頬那美でイメージと言葉が結ばれ、この頬那芸、頬那美の所で実際に発音されます。発音に関係することを示すために「頬」(ほほ・つら)の字が用いられています。頬那芸の言霊スは巣、澄む、住むで動きのない状態、頬那美の言霊ルは流、坩堝で動く状態。双方が霊と体を受け持ち、具合よく行けば、物事はスルスルとうまく進行しますが、両方の中のどちらかが勝ちますと、理解し難くなります。言霊ルの方が勝つと、話に「立て板に水」の弁舌となりますが、早すぎて理解できなくなる場合もあります。言葉の廻しがスムーズで(ル)、しかも適当に間のある(ス)時、名演説となりましょう。

言霊スに漢字を振りますと、主(す)、澄(す)む、巣(す)、州(す)、住(す)む・素(す)・吸(す)う、好(す)き、末(すえ)、廃(すた)れる、……等があります。

言霊ルに漢字を当てますと、留守(るす)、坩堝(るつぼ)、……等があります。

天の水分の神・言霊ソ、国の水分の神・言霊セ

水分(みくまり)とは水配(みずくば)りの意であります。天の、とは霊的なものを意味し、国の、とは体的なものの意を表わします。一つにまとまったイメージに沫那芸・沫那美、頬那芸・頬那美で言葉と結ばれ、さて発音しようとする時、そこで今までに加えて一段のエネルギーが必要となります。それは、言葉が結ばれ、此処で発音することになるのだが、こんなことを発音して相手にどう受け取られるかな、もっと気のきいた言葉はないのかな、と逡巡の気が動きます。それを「まあよいさ、言うだけ言ってみよう」と気を取り直させるには一段の気持の高揚が必要です。霊的に見ると以上のようなものですが、体的に言うとどうなのでしょうか。発音の際の口腔を動かす力の増強か、または口腔内の潤(うるお)いを増す唾(つば)の水気でしょうか。そのどれにしろ、霊的、体的に一段のエネルギーの補給が必要です。天の、と国の双方の水分とはこの作用の事を言います。

言霊ソに漢字を当てますと、削(そ)ぐ、注(そそ)ぐ、添(そ)える、祖(そ)、麻(そ)、副(そ)う、衣(そ)、……等があります。

言霊セに漢字を当てますと、背(せ)、兄(せ)、畝(せ)、瀬(せ)、急(せ)かす、攻(せ)める、咳(せき)、堰(せき)、関(せき)……等があります。

天の久比奢母智の神・言霊ホ、国の久比奢母智の神・言霊ヘ

久比奢母智とは久しく(久)その内容(比・霊)を豊かに(奢)持ち続ける(母智)の意であります。イメージと言葉が結び付いた表現の内容は何処までも豊かに持続・発展して行きます。文化の発展とは言葉の発展であります。

言霊ホに漢字を当てますと、穂(ほ)、火(ほ)、秀(ほ)、星(ほし)、帆(ほ)、頬(ほほ)、干(ほす)、……等があります。

言霊ヘに漢字を当てますと、辺(へ)、屁(へ)、経(へ)る、減(へ)る、舳(へ)、凹(へこみ)、……等があります。

佐渡(さど)の島

以上の沫那芸の神(言霊ク)より国の久比奢母智の神(言霊ヘ)までの八神(八言霊)が宇宙に占める位置とその内容を佐渡の島といいます。佐渡とは佐(たす)けて渡(わた)すの意です。何を助けて渡すのか、と申しますと、先天の意図を一つのイメージにまとめたものに、その姿に見合った言葉(言霊を結んで実相を示す言葉)を結び、それによってそのイメージがそのまま正確に他の人に伝わるようにすることです。クムスルソセホヘの八言霊の働きによって、一つのイメージがその持つ霊と体の内容が正確に何処、何時までもそのまま伝わって行く体裁がととのい、口腔より発音され、口腔より空中に飛び出して行くこととなります。

仏教で一般の人が仏道のお坊さんになることを得度と言います。度(ど)とは救(すく)う、または地獄から極楽(此世[このよ]から彼世[あのよ])へ渡すということです。仏教では人は本来生まれた時から既に救われている者と説きます。けれどその自覚がありません。自覚のない状態から仏教の定める方法によって修行し、その自覚を実現した時、その単なる自覚にとどまることなく、その心内の自覚を詩、文章またはその他の動作、絵、彫刻によって表現出来た時、初めて「救われた」ということになります。自覚のイメージ内容に言葉を結んだ時、自覚は成就することとなります。この様にして表現された詩を仏教で偈(げ)または頌(しょう)と呼びます。

古事記の神々の創生の文章を先に進めることにしましょう。

次に風の神名は志那都比古(しなつひこ)の神を生みたまひ、次に木の神名は久久能智(くくのち)の神を生みたまひ、次に山の神大山津見(おおやまつみ)の神を生みたまひ、次に野の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神を生みたまひき。またの名は野椎(のつち)の神といふ。

この大山津見の神、野椎の神の二神、山野によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、天の狭土(さつち)の神、次に国の狭土(さつち)の神。次に天の狭霧(さぎり)の神。次に国の狭霧(さぎり)の神。次に天の闇戸(くらど)の神。次に国の闇戸(くらど)の神。次に大戸惑子(おほとまどひこ)の神。次に大戸惑女(おほとまどひめ)の神。

次に生みたまふ神の名は、鳥の石楠船(いはくすふね)の神、またの名は天の鳥船(とりぶね)といふ。次に大宜都比売(おほげつひめ)の神を生みたまひ、次に火の夜芸速男(ほのやぎはやを)の神を生みたまひき。またの名は火の炫毘古(ほのかがやびこ)の神といい、またの名は火の迦具土(ほのかぐつち)の神といふ。

大倭豊秋津(おほやまととよあきつ)島

右の文章の中の志那都比古の神より大宜都比売の神までの十四神が精神宇宙に占める位置とその内容を大倭豊秋津島といいます。これら十四神(十四言霊)は先天の意図がイメージ化し、そのイメージに言葉が結ばれ、発音され、口腔より空中へ飛び出します。空中を音波となり、または電磁波となり、あるいは光波となり飛んで行きますが、その形式は何らこの原則には関係ありません。空中を飛んだ言葉は人の耳(または人の五官感覚で捕捉され)で聞かれ、復誦・検討されて、「あゝ、こういう事なのか」と了解され、言葉としての役目が完了し、再び先天の宇宙に帰って行きます。この一連の活動が十四の言霊によって行われます。そして十四言霊の中の初めの四言霊フモハヌが空中を飛ぶ時の言霊の働きであります。十四の神名、十四の言霊について順を追って解説して参ります。尚、十五番目に生れて来ました火の夜芸速男の神については、大倭豊秋津島の十四神の解説後にお話申上げます。

風(かぜ)の神名は志那都比古(しなつひこ)の神・言霊フ

人は言葉を発してしまったら、それでその言葉と縁が切れる訳ではありません。志那都(しなつ)とは先天の活動で発生した意図(志)の内容である言霊のすべて(那)が言葉(都=つ・霊屋子=みやこ)となって活動しています。風の神とは人間の息のことでありましょう。言霊フはその心を表わしています。

言霊フに漢字を当てますと、経(ふ)る、吹(ふ)く、古(ふる)い、伏(ふ)す、踏(ふ)む、更(ふ)ける、……等があります。

木(き)の神名は久久能智(くくのち)の神・言霊モ

久久能智とは久しく久しくよく(能)智を保っていると解釈出来ます。木の神とは木は気で霊を表わします。空中を飛ぶ声は何処までも人の気持を乗せて飛びます。言霊モは森(もり)・杜(もり)・盛(も)る等に見られる如く木が繁茂する姿です。

言霊モに漢字を当てますと、藻(も)、裳(も)、燃(も)え、申(もう)す、潜(もぐ)る、……等があります。

山(やま)の神名は大山津見(おほやまつみ)の神・言霊ハ

以前にもお話したことがありますが、山の語源は八間(やま)です。八つの父韻の活動を図示しますととなります。この間(ま)の中に父韻のそれぞれが入ります。この正方形の四つの直線が交差する中心点を持って、図形の面より直角方向に引き上げて出来る立体図は山の形であります。宗教で謂う最高創造主神、伊耶那岐の神(言霊イ)の実際の働きである八つの父韻は一切の言葉の根源であります。そこで大山津見とは大いなる八つの父韻の働きが現われて、はっきり見えるようになった神、の意で、大山津見の神とは言霊ハであります。言霊ハを生む父韻ヒは父韻説明の章で「物事の表現の言葉が精神宇宙の表面に完成する韻」とお話しました。これと比べると納得行く事と存じます。

野(の)の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神またの名は野椎(のつち)の神・言霊ヌ

鹿屋野比売(かやのひめ)の鹿屋は神屋(かや)のことで、神の家、即ち言葉のことであります。この神は志那都比古、久久能智、大山津見、鹿屋野、と口腔で発音され、空中を飛んでいる状態の中の最後の神、フモハ言霊に続く最後のヌ言霊であります。フで風の如く吹き出され、モで木立の中を進み、山で上空に上がり、そして野の神として平地に下りて来ました。風、木、山、野と自然物の神が続きますのは、口腔から吹き出された言葉が外界という自然の中を飛ぶ事を示しています。そして最後の野の神として平地に下って来て、そこで言葉を聞く人の耳膜をたたきます。たたくので野椎と椎の字が使われます。フモハヌ以後の言霊は十個ありますが、すべて聞く人の耳の中の現象です。

言霊ヌに漢字を当てますと、貫(ぬ)く、抜(ぬ)く、縫(ぬ)う、温(ぬく)い、野(ぬ)、額(ぬか)、糠(ぬた)、脱(ぬ)ぐ、……等があります。

その十一

心の先天構造の活動によって生れて来る三十二の子音言霊の中で、初めて生れ出て来る津島と呼ばれる区分のタトヨツテヤユエケメの十音の言霊の働きで、先天活動の意図が一つのイメージに形造られます。次に佐渡の島と呼ばれる区分のクムスルソセホヘの八子音言霊の働きで、そのまとまったイメージに適した言葉が結びつけられ発音されます。発音された言葉は空中を飛んで行きますが、飛んで人の耳に達する迄に言霊フモハヌの四音の機能があることをお話しました。ここまでで先月号のお話を終えました。今月はフモハヌと空中を飛んだ音(言葉)が人の耳に入るところから始まります。

大山津見(おおやまつみ)の神、野椎(のづち)の神の二神(ふたはしら)、山野によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、

口腔で発声された言葉は空中を飛んで行きます。飛んで行ったからといって、発声した人の先天の意向から無関係になったわけではありません。飛んでいる言葉は発声した人の心(霊)も音(言)もしっかり宿したままです。そして大山津見で山を越え、野椎で野に下り、そこで人の耳に入ります。飛んでいる時の言霊四音、フモハヌ、更に人の耳に入った後の天の狭土の神(言霊ラ)より大宜都比売の神(言霊コ)までの十神、ラサロレノネカマナコの十神、十言霊を加えた十四神、十四言霊の区分を大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)と呼びます。

天(あめ)の狭土(さつち)の神・言霊ラ 国(くに)の狭土(さつち)の神・言霊サ

耳孔に言葉が入って行く時の働きを示す言霊です。ラは螺の字が示すように螺旋状に入って行く働き、それに対して国の狭土のサは直線的な働きを示します。また天の狭土は霊を、国の狭土は言を担当していると言えましょう。

言霊サに漢字を当てますと、坂(さか)、狭(さ)、差(さ)す、指(さ)す、咲(さ)く、性(さが)、酒(さけ)、裂(さ)く、先(さき)、柵(さく)……等があります。

天の狭霧(さぎり)の神・言霊ロ、国の狭霧の神・言霊レ

天の狭霧、国の狭霧の霧(きり)の字は声が天の狭霧の霊と、国の狭霧の言とを分担して、狭い耳孔の中を霧の様になり、その明暗、濃淡、深浅、急緩等のバイブレーション的波動状態で奥の方へ螺旋状に浸入して行く働きを示します。言霊ロ・レは共に螺旋状の動きを示します。

天の闇戸(くらど)の神・言霊ノ、国の闇戸の神・言霊ネ

狭い耳孔に入って行った言葉は波動の形で突き進み、その霊と言が闇(くら)がりの戸(と)即ち聴覚器官に突き当たります。そして復誦されます。天の闇戸・言霊ノと国の闇戸・言霊ネはノネで宣音に通じます。「耳に入って来た言葉は一体どんな意味・内容を伝えようとしているのか、先ずは復誦してみよう」ということになります。音が宣られます。

言霊ノに漢字を当てますと、野(の)、宣(の)る、退(の)く、軒(のき)、遺(のこ)す、除(のぞ)く、残(のこ)る、伸(の)びる、乗(の)る……等があります。

言霊ネに漢字を当てますと、音(ね)、値(ね)、根(ね)、子(ね)、寝(ね)、願(ねが)う……等があります。

大戸惑子(おほとまどひこ)の神・言霊カ、大戸惑女(おほとまどひめ)の神・言霊マ

耳孔に入ってきた有音の神音が言霊ノ・ネで復誦され、大戸惑子、大戸惑女の言霊カ・マで頭の中で掻き回され、「あゝだ、こうだ」と煮つめられます。カマは釜で煮つめます。かくて有音の神名が純粋の真名(言霊)に還元されて行き、内容が確定されます。

言霊カに漢字を当てますと、書(か)く、掻(か)く、貸(か)す、返(かえ)す、借(か)りる、掛(か)ける、囲(かこ)う、掠(かす)む、勝(か)つ、賭(かけ)……等があります。

言霊マに漢字を当てますと、丸(まる)い、幕(まく)、混(ま)ぜる、巻(ま)く、迷(まよ)う、真(ま)、魔(ま)、負(ま)ける、稀(まれ)に、間(ま)、曲(ま)げ……等があります。

鳥(とり)の石楠船(いはくすふね)の神・言霊ナ、またの名は天(あめ)の鳥船(とりふね)

神名を構成する言葉の一つ一つについて調べてみます。鳥とは十理(とり)の意です。主体である天之御柱と客体である国之御柱の間に、これを結ぶチイキミシリヒニの八つの父韻が入ります。この主客を結ぶ八つの父韻は主客がどのように結ばれるか、を判断する最も基本的なものです。父韻は主客を行き来して飛びますので、空飛ぶ鳥に譬えられます。次に石楠です。石は五十葉で、人の心の全体を構成する言霊五十音図のことを示します。楠(くす)は組(く)み澄(す)ます意。五十音を組んで言葉として澄ますの意です。船(ふね)とは人を乗せて此岸から彼岸に渡すもので、人から人へ心を渡す言葉の譬えに使われます。

上に解釈したものをまとめた鳥の石楠船の神とは実際にはどういう意味になるのでしょうか。主と客の間を八つの父韻が取り結ぶ十理(とり)の原理による判断によって(鳥[とり]の)、五十音言霊(石[いは])の中から適当な言霊を組み合わせ、言葉とし、その内容を確定した(楠[くす])言葉(船[ふね])の内容(神)といった意味となりましょう。こう申上げても何だかはっきりとはお分かりにはならないかも知れません。そこで鳥の石楠船の神以前の言霊の動きを続けてみましょう。

発声され空中を飛んだ言葉(神名[かな])は人の耳に入り、復誦され(ノネ)、掻き回され、煮詰められ(カマ)、「この言葉はこういう意味のものだったのか」と判断されます。それが鳥の石楠船の神です。八父韻の原則によって五十音の言霊の中から選ばれた言霊を組み合わせた言葉の内容ということです。神名(かな)として耳孔を叩いた言葉が種々に検討され、神名(かな)が真名(まな)となって確認された言葉の内容ということなのであります。神名(かな)とか真名(まな)とかという変化については後程お話申上げます。

鳥の石楠船の神のまたの名を天の鳥船といいます。先天の活動によって生み出された意図が十理の原理によって五十音図の上で内容が確定されたもの、の意であります。

言霊ナに漢字を当てますと、名(な)、菜(な)、魚(な)、成(な)る、鳴(な)る、泣(な)く、馴(な)れ、萎(な)え、治(なお)る、流(なが)る……等となります。

大宜都比売(おほげつひめ)の神・言霊コ

大いに宜しき言霊を秘めている言葉、という意であります。都(みやこ)とは宮の子、五十音図の子で言霊、特にその子音のことです。実相子音といい、現象の単位であります。発声された言葉が耳孔に入り、その中で復誦、検討されて「聞かれた言葉の内容はこのようなものだな」と確認され、鳥の石楠船の神として言葉の内容が確定されます。それが言葉の内容です。するとそこで事実として成立します。「こういう現象という事実が起こったな」という事実確認です。それが先天の働きから、イメージ化、言葉との結合、発声、空中を飛び、人の耳で聞かれ、検討されて、声の内容の確認を経て、現象が事実として成立します。この事実が言霊コ、即ち先天活動の「子」であります。伊耶那岐・伊耶那美の八父韻による結びが現象を起こし、現象が言霊子音として確定され、事実となり、そこで現象は終わり、神名(かな)は真名(まな)となって先天に帰ります。

言葉を換えて申しますと、父と母が呼び合って子が生まれます。現象が生れます。子は父と母とから生れましたから、父母そのままかと申しますと、そうではありません。子は父+α、母+βの要素を含んだ独立した第三者です。そしてその内容が鳥の石楠船の言霊ナです。大宜都比売の神の内容であります。

言霊コに漢字を当てますと、子(こ)、小(こ)、木(こ)、粉(こ)、濃(こい)、恋(こい)、乞(こ)う、声(こえ)、越(こ)え、肥(こ)え、凝(こ)る……等があります。

空中を飛んだ言葉が人の耳に入り、復誦、点検され、煮つめられ、「あゝ、こういう内容だったのだ」と確認され、事実として確定されます。その働きを言霊子音で表わしますと、ラサロレノネカマナコの十音となり、空中を飛んだフモハヌの四音を併せた十四音の宇宙区分を大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)、またの名を天つ御虚空豊秋津根別(あまつそらねとよあきつねわけ)と呼びます。大倭(おほやまと)を大和(やまと)とも書きます。豊(とよ)である先天構造の働きで生れ出た言霊子音が、この十四音の出現ですべて調和して出揃(でそろ)い、実相を明らかに示すこととなった区分、という程の意であります。またの名天つ御虚空豊秋津根別とは先天である天つ御虚空(みそら)を示す十四音(豊)の活動で三十二の言霊子音がすべて明らかに出揃った領域と解釈出来ます。

さて先天構造の活動によって言霊子音が次から次へと三十二個、津島、佐渡の島、大倭豊秋津島――先天へ帰って行く順序について綴って来ました。頭の混乱を防ぐために図を作って整理してみましょう。(図参照)。

言霊の循環図 小笠原孝次氏「言霊百神」より引用

言霊のことを真名(まな)ともいいます。その真名も心の宇宙の諸区分によって呼び名を変えることがあります。この区別を先ず定めることにしましょう。先天構造内の言霊真名(まな)を天名(あな)と呼ぶことがあります。次に先天から生れて、そのイメージの把握が問題となっている区分タトヨツテヤユエケメの十真名(津島)を未鳴(まな)と呼びます。まだ音を結びつけてない区分だからです。次の佐渡の島のクムスルソセホヘの八言霊は真名と呼ばれます。一般の言葉を構成して「言葉の言葉」の名分が文字通り立っている区分です。次に口腔で発声されて空中を飛んでいる区分、フモハヌの四真名を神名(かな)と呼びます。その神名が人の耳孔に入り、人の話す言葉から次第に復誦、検討、煮つめられて、再び真名として真実の了解を得るまでのラサロレノネカマナコの十言霊はまた真名であります。そして言霊ナコで話は了解され、事実として承認されますと、天名(あな)として先天構造へ帰って行きます。

以上の、天名(あな)―未鳴(まな)―真名(まな)―神名(かな)―真名(まな)―天名(あな)と変わる廻りを「言霊の循環(じゅんかん)」と呼びます。そして人間の社会の営みはすべてこの循環の法則に則って行われ、例外はありません。宇宙で何年もかかる惑星探査の仕事、何光年の遠くの星雲の観測も、または一瞬にして決まる柔道の技もこの言霊の循環の原理から外れるものではありません。

言霊の循環図についてちょっと奇妙に思われることをお伝えしておきましょう。先天構造の十七言霊が活動を起こし、次々と三十二の子音言霊が生まれます。そしてそれ等三十二の言霊の現象によって人はその先天の意図を事実として認定します。その認定する働きの三十二の子音が、起って来る事実のすべてである、という奇妙な事に逢着(ほうちゃく)します。このようなことも、言霊が心と言葉の究極の単位である、という根本原理なるが故に可能なことなのでありましょう。まるでパズルの奇妙な世界に引き込まれるような気持にさせられるものです。

上のように言霊(真名[まな]、麻邇[まに])が言葉の最小の単位であると同時に心の究極の要素でもあるということによって表わされる、一見奇妙とも思われる性能を「言霊(ことたま)の幸倍(さちは)へ」と呼びます。言霊で創られた日本語を日常語とする日本の国を「言霊の幸倍ふ国」と呼びましたのも同じ道理によってであります。今までに会報上で何回か発表したことでありますが、新会員の方も多数となりましたので、この「言霊の幸倍へ」について二つのことを取上げ説明することとします。

その第一は誰でも知っている「いろは歌」であります。「イロハニホヘト、チリヌルヲ、ワカヨタレソツネナラム、ウヰノオクヤマケフコエテ、アサキユメミシヱヒモセス」四十七の言霊を重複することなく並べて、人間の心が躍るきらびやかな現象世界を後にして、現象が生れ出て来る以前の心の宇宙に帰る心構えを説いた教えであります。四節に分けて説明しましょう。

「イロハニホヘトチリヌルヲ」この世のことはまことにきらびやかで心を惹く興味深い出来事に満ちているけれど、考えてみると、そのきらびやかに思える花もやがては散ってしまいます。仏教でそのことを諸行無常、まことに儚(はか)ないことである、と言うごとく、心の拠り所とすることは出来ません。

「ワカヨタレソツネナラム」私達が誰でも何時までもこのきらびやかな現象世界にいるわけにはいきません。やがては死んで行くのです。是生滅法(是れが生滅の法なり)、即ちこのことがこの世に生れては消えて行く儚き道理なのです。

「ウヰノオクヤマケフコエテ」きらびやかさを喜び、儚さを悲しむ一瞬々々の出来事の喜怒哀楽が頼りにならないものなのだ、と知って悩みの山を越えて行けば(生滅滅己[しょうめつめつき])、浮かんだり、沈んだりの連続の人生を卒業すれば。

「アサキユメミシヱヒモセス」はかない夢に一喜一憂して酔いしれることなく、寂滅為楽(じゃくめついらく)。即ち煩悩の苦しみを越え、極楽に住むことが出来る。

以上が言霊を土台とした「いろは歌」の解釈であります。人の心の構成要素である言霊五十音(四十七音)を重複することなく並べて、仏教で謂う「色即是空、空即是色」の法則の中の色(現象世界)より空(なる元の宇宙)に帰る心構えを余すことなく簡潔に説いた見事な歌であります。いろは歌の作られた年代は種々の説がありますが、諸説よりズゥーと年代の古い頃の、言霊原理活用時代の作と思われます。

「いろは歌」に次いで取上げますのは、所謂「ひふみ歌」です。実はこれは歌ではありません。奈良県天理市石上(いそのかみ)神宮に三千年間伝わるといわれる「布留の言本(ふるのこともと)」という文章で、四十七言霊を重複することなく並べて、心の宇宙の中にその内容として存在する「布斗麻邇」即ち言霊の原理を以って、現在の乱れに乱れている世の中を建替えし、建直して布斗麻邇の生命原理に立脚した人類の第三文明時代を建設して行く確乎たる手立てを書き記した大宣言なのであります。今講義が続いております「布斗麻邇」講座をもう少し先に進みませんと、「布留の言本」の詳細な意味をお伝えすることは少々難しいことですから、ここでは比較的簡易に解釈をすることとしましょう。まず言本の四十七文字を書きます。

「ヒフミヨイムナヤコトモチ、ロラネシキル、ユヰツワヌ、ソヲタハクメ、カ、ウオエニサリヘテノマス、アセヱホレケ」

理解し易くするために句点をつけました。原文にはありません。句点に従って解釈します。

「ヒフミヨイムナヤコトモチ」一二三四五六七八九十の十数の十拳剣(とつかのつるぎ)を以って、の意。一から十の十数を以って判断するのは言霊エの実践英智の判断です。

「ロラネシキル」ロラネとは言霊循環の図を御参照下さい。佐渡の島でイメージが言葉と結び付けられ、口腔で発声された音声がフモハヌと空中を飛び、人の耳にラサロレと波動として入って行きます。その「ロラの音(ね)」を十拳の剣の十数を以ってその内容、経過を仕切ってみよ、ということです。

「ユヰツワヌ」ユヰは結(ゆ)ふこと。ツワヌとは子音言霊発生の初め、タトヨツテヤ…のツとワであるその結論とを結びなさい、ということです。タトヨツと子音が生れて来て、タと全人格が宇宙から飛び出して来て、それが言霊五十音図の横の十音の変化と縦のアオウエの四音の次元の異なりの網の目を通って発想の意図が縦横の網の目によって濾されて、先天のイメージが明らかになり出したものと、その行き着く結論とを結びなさい、ということです。

「ソヲタハクメ」そこに現出してくる経過をタハで組んでみよ、といいます。タハとは言霊五十音の一音一音、即ち言霊で以って組め、ということです。

「カ」言霊を以ってイメージとその行き着く結論を結びますと、瞬時に心の中に「カ」と焼き付くように一つの光景が浮かび上がります。真実の実相が浮かび上がります。焼き付くような心中の実相変化、布留の言本は「カ」の一字で表わします。

「ウオエニサリヘテノマス」対処する出来事がウオエのどの次元であるか、その次元に沿うよう区別して述べなさい、という意味です。

「アセヱホレケ」アセヱの前の言葉ノマスは、述べよと訳しました。アセヱホレケは「どのような心構えで」と言います。アセとは天津太祝詞音図の上段の十音のことです。このア瀬は、古代日本の政庁に於けるスメラミコトの座であります。そのスメラミコトの心を大御心(おほみごころ)と申します。そのスメラミコトの下に集(つど)う国民を大御宝(おほみたから)と呼びました。今言本の取上げる「アセ」とはこのスメラミコトの国民に対する大慈大悲の心を言っているのです。どのようにして述べるか、を「ホレケ」と言っています。ホは言霊です。レは言霊の列、並びのことです。どのように並ぶか、一字で「ケ」と示しています。言霊循環図の津島の言霊の列をご覧下さい。タトヨツテヤユエケメと続き、先天で発想した意図が何であるか、が略ゞ(ほぼ)確定した音がケメでありました。としますと、「ホレケ」とは言霊の並びが明らかに示されるように宣言しなさい。と布留の言本ははっきり言い切っていることが分ります。

以上、言霊四十七を重複することなく並べて、文章の内容も明らかに、言霊原理を以ってこの世の中の建替え、建直しをする法則を述べた布留の言本の解釈であります。お分かり頂けたでありましょうか。

「いろは歌」「ひふみ歌」と呼ばれる二題について「言霊の幸倍へ」の話をして参りました。言霊は人為に関する人間のすべての出発点であります。道に迷ったら出発点に帰れと言われます。二・三千年前、この言霊という出発点を忘却した人類は、現在道に迷ってニッチもサッチもいかなくなりました。ちょっと見た所、やる事、為す事一切は失敗の連続です。物の道は成功です。心の道は失敗です。失敗の道をいくら考えても失敗の結果しか得られません。心の原点である心と言葉の究極の単位である言霊という単位に帰ること、これが一切の出発点です。比喩でもなく、概念でもない、心の実在と現象の単位である言霊の学を言霊の会は今後共世界に発信を続けて行きます。

(次号に続く)

【追記】「いろは歌」乃至「ひふみ歌」の総数四十七文字と五十音の数の違いについては後程ご説明いたします。

その十二

前回の講座で、人間の心の先天構造の活動による言霊三十二の子音の創生が一段落を遂げました。先天十七、後天三十二計四十九言霊が古事記の文章の中で説明されたことになります。言霊の総数は五十個ということでありますから、残るは言霊ン唯一つとなりました。今回の講座はこの言霊ンの話より始めさせて頂きます。古事記の文章を掲げます。

次に火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火の迦具土(かくつち)の神といふ。

火の夜芸速男(ほのやぎはやお)の神とは言霊ン、神代文字のことであります。火の夜芸速男の神の火は言霊のこと。夜芸とは言霊が夜になって眠ってしまった芸術のことです。速男とは文字を見ると直ぐに言霊の心(男が霊、女が言)が分ります。またの名火の炫毘古(かがやびこ)の神とは、神代文字はすべて言霊原理に則って造られていますので、文字を見ると言霊の内容(霊)がその中で輝いて見えることをいいます。

またの名火の迦具土の神の火は言霊のこと。迦具土とは書く土の謎。昔、言霊一つ一つを粘土板に書き刻んで素焼きにし、文字板を作りました。甕といいます。その文字板を心の持ち方に従って並べ、心の典型を表わしました。甕神といいます。御鏡の原形であります。火の夜芸速男の神と呼ばれる神代文字は昔、多くの種類のものが造られました。その多くの種類の神代文字の区別は後章で解説されます。

以上で五十番目の最後の言霊ンの解説を終わり、人間の心を構成する五十個全部の言霊が出揃いました。古事記は今後どのような話の展開が待ち構えているのでしょうか。興味津々たるものがあります。先ず古事記の文章を先に進めることにしましょう。

この子を生みたまひしによりて、御陰灸(みほと)かえて病み臥(こや)せり。たぐりに生りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山比売(かなやまひめ)の神。次に屎(くそ)に成りませる神の名は、波邇夜須毘古(はにやすびこ)の神。次に波邇夜須比売(はにやすひめ)の神。次に尿(いまり)に成りませる神の名は弥都波能売(やつはのめ)の神。次に和久産巣日(わくむすび)の神。この神の子は豊宇気比売(とようけひめ)の神といふ。かれ伊耶那美の命は、火(ほ)の神を生みたまひしに因りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。

五十音言霊布斗麻邇の原理のことをまた古事記百神の原理とか、鏡餅(かがみもち)の原理とも申します。それは古事記神話の最初の神、天の御中主の神より最終の神、須佐之男命までで丁度百神が数えられ、この百神によって言霊原理は構成されていることに因っているのであります。鏡餅は上下二段ありますが、その上段が言霊の数五十を表わし、下段がその操作・運用法を示しています。

今までのこの「布斗麻邇」講座に於て、伊耶那岐・美の二命の労作の結果、言霊五十個がすべて揃いました。鏡餅の上段は完全に出揃ったこととなります。言霊百神の中の前段の五十神、天の御中主の神より五十番目の火の夜芸速男の神までが姿を現わしました。古事記の神話の原理の前半はここに終了したことになります。古事記の神話はこれより後半に入ります。

後半に入って何が起こるのでしょうか。それが私達にとって全く奇想天外なことを古事記は伝えるのです。それは何か。神話の主人公である伊耶那岐・美二命の一人、伊耶那美の命の「死」であります。この事実を神話を教科書として布斗麻邇の学問を学ぶ私達はどのように受止めたらよいのか、重要な意味を持った事でありますので、この講座の中で明らかにして行こうと思います。先ずは古事記の神話の文章の解釈を進めることから始めることにしましょう。

この子を生みたまひしによりて、御陰灸(みほと)かえて病み臥(こや)せり。“この子”とは火の夜芸速男の神の事です。火は言霊のこと、一音「ヒ」とも言います。火(ほ)の字を当てました。御陰(みほと)の陰(ほと)は霊止で子の生れる処です。岐美の二命の婚(よば)い(呼び合い)で三十二の子音を生み、これで子種が尽き、もう子を生めなくなりました。それを最後に火の神である火の夜芸速男の神を生んだことで、子を生む処が焼けてこれ以上子を生むことが出来ず、病気になった、と洒落た表現をしました。夫神である伊耶那岐の命との「子生み」の共同作業はこれにて終わり、高天原に於ける伊耶那美の命の出番はなくなりました。美の命は病んで寝込んでしまいました。

たぐりに生りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山比売(かなやまひめ)の神。

たぐりとは吐瀉物(としゃぶつ)のこと、食物を食べて口から吐き出したもの、ここでは手繰(たぐり)の謎。金山毘古の神の金山(かなやま)とは神音(かね)の山の意。言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにしたものです。(伊耶那岐の命は過ぎし日の伊耶那美の命との子生みの仕事の楽しい思い出を病気で眠っている美の命の枕辺にいて、思い出しながらいるのでしょうか)共に力を合わせた五十音の神名の山を手繰り寄せて、その一つ一つを点検しました。金山毘古は言霊の霊(または音)を、金山比売(ひめ)は言霊の言(または文字)を確かに表わしているか、を調べました。

次に屎(くそ)に成りませる神の名は、波邇夜須毘古(はにやすびこ)の神。

屎(くそ)とは組(く)む素(そ)、即ち言と霊、または音と文字のこと。波邇(はに)とは粘土板に刻んで素焼にしたもの。その五十音の素焼板を一つ一つ点検して、そこに刻まれた文字の言と霊、音と文字が、それを見れば直ちに言霊としての用を果たす如く明らかに安定しているか、を確認したのでした。古神道言霊学から発する大祓祝詞や古事記神話には「くそへ」とか「屎まり」といった言葉が出て来ます。いずれも語義不詳とされておるようですが、言霊学から見ると容易にその意味が分ります。皇祖皇宗の人類史創造のご経綸の意味の深長さが偲ばれる処であります。

次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(やつはのめ)の神。

尿(ゆまり)とは五埋まりの謎です。五十個の言霊の一つ一つを点検して、次に整えるための目安となる母音をどのように並べるか、となりますと、大祓祝詞や、古事記神話にありますように、「下津磐根に宮柱太敷樹て、高天原に千木高知りて……」とありますように、五つの母音の中の天位のア音は最上段に、地位のイ音は最下段に位置することとなります。そうしますと、残りの母音オウエがその間に入る目処が立ちます。弥都波能売(みつはのめ)とは三つ葉の目の謎であり、オウエ三母音が位置する処の見当がついたことになります。弥都波能売を日本書紀では罔象目(みつはのめ)と書いています。罔(みつ)は網のことです。天のアと地のイの間に三つの母音オウエを入れますと、網の形(象)をした目の如くなる、と示しています。弥都波能売とは、五つの母音の中のオウエの三母音の位置の見当がついて、五つの母音の並びが網の目の如くなることが分ったという意味であります。

次に和久産巣日(わくむすび)の神。

五十音の神名(かな)(金)を手繰寄せ、一音々々を言と霊との両面から点検し、母音アとイと、その間に入るオウエの三音の位置の見当をつけました。すると五母音の並びが網の目の如くなりました。この網の目に従って残っている四十五の金神を並べて行きますと、大雑把(おおざっぱ)ではありますが、五十音が一つの枠の中に結ばれているようにまとめられることが分ります。このことを和久産巣日の神と申します。人間が言霊の存在に気付き、生命の担い手である言霊が五十個あること、そしてその五十個の言霊の極めて大雑把ではありますが、一つの枠の中に結ばれているように活動するということを知った「初め」であります。人間の自覚の始めであり、また人類が自らを知った始めでもあります。まだ五十個の言霊の結ばれ方、その内容等は不明でありますが、兎に角枠にはめることが認識されました。まだ完全でないことを示すよう「枠」のことを「和久」と書き、「湧く」が連想されるような言葉を用いてその初歩的整理であることを知らせています。この和久産巣日の神の整理の状態を天津菅麻(あまつすがそ)(音図)と呼びます。伊耶那岐の神の音図であります。

この神の子は豊宇気比売(とようけひめ)の神といふ。

神話の中で神の子という場合はその親族関係またはその神の性能・活用法等を表わします。豊宇気比売(とようけひめ)とは十四(とよ)である先天構造の機能を受け継いで、それを秘めている、の意であります。豊宇気比売の神といえば、伊勢神宮外宮の御祭神です。この神は親である和久産巣日の神の大雑把な内容ではあるけれど五十音言霊を枠に結んだ五十音図の法則を以って、この世の中の出来事から発想される一切の文化を整理し、それを伊勢神宮内宮の御祭神である天照大神が聞しめす世界人類の文明創造の材料として大神の御倉板挙の上に並べる役目の神であります。この神が天照大神の前に差し出す一切の文化はすべて、人間の先天機能(豊)を受継いで(宇気)秘め備えたもの(比売)である、の意でもあります。

かれ伊耶那美の命は、火(ほ)の神を生みたまひしに因りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。

こうして伊耶那美の神は火の神を生みましたことで、遂におなくなりになりました、ということであります。但し、伊耶那美の神がなくなられたということは、現代人が考えていますように、人が死んで、身体がなくなり、あの世に魂だけとなって行ってしまった、ということではありません。古神道言霊学は人間の生命を心の側から解明した究極の真理であります。この真理から美神がなくなられた、ということを解釈しますと、次のように言うことが出来ましょう。伊耶那美の神は死んで精神界の純真無垢な言霊のみによって構成されている高天原の世界から離れて、物事をすべて客観的、対象的に見る黄泉国(よもつくに)に去って行った、ということなのであります。

美の神が神避(かむさ)った、ということに関して、私達が注目しなければならぬことがもう一つ御座います。伊耶那岐・伊耶那美の二神は古事記神話の主役として共に力を合わせて子音の創生に当って来ました。そして生れ出るべきすべての子を生み終えて、もうこれ以上生むものがなくなり、伊耶那美の神は神話の舞台である主観世界の高天原から去って、客観世界である黄泉国(よもつくに)へ去りました。高天原には主役として伊耶那岐の命唯一神が残ったことになります。

さて、主観世界の高天原から伊耶那美の神が客観世界の黄泉国(よもつくに)へ去って行った、とお話しますと、概念的な主観世界とか客観世界とかの用語が続き、私達の頭脳がその煩雑さについて行けなくなり、思考に迷いを生じることがあります。そこで少々説明を加えることにしましょう。

人が暗い夜道を歩いているとします。遥か前方にピカッと何か光りました。その人は「光ったな」と思いました。暫くしてその人は「光ったのは青い光だったか、緑の光だったかな」と思いました。「さあ、どっちだったろう」と自分に問います。この時、主と客の世界の区別がはっきりします。ピカッと光ったその光は間違いなく自分から見て外界の光でした。客観世界の光を見たのです。次にしばらくして、「あの光の色は青だったか、緑だったか。」を考える時、その光は既に外の世界からは消えてしまっていますから、数分前に見たピカッと光ったその時のことを思い出さねばなりません。これは間違いなく記憶という主観内の世界のものです。主客の世界の区別はこれではっきりします。「そんなことなら、人は誰だって主観・客観世界の区別は特別の意識もなく見極めて、日常を暮らしているよ」と簡単にお思いになるでしょう。全くその通り、人は雑作もなくその区別を何の意識もなく使い分けて暮らしています。

けれど、日常の人間の心の営みを超えて、これを学問的に考える時、主観世界と客観世界との間には、その観察方法に於ても、その思考の法則に於ても、決して相容れない区別があるのです。特に物事の先天と後天双方にわたる関係を調べる、この講座の言霊学とか、物質科学の中の原子物理学等の場合、その思考方法と法則には厳密な相違があるということをお知り頂きたいと思います。主観世界と客観世界との相違について説明をさせて頂いて、それを前提として伊耶那美の神の「神避り」の言霊学勉学に於ける意義についてお話を申上げようと思います。日本民族の、また世界人類の秘宝であるアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の唯一の教科書である古事記(日本書紀)は現代の私達にその究極の真理と共に、その真理に到達する勉強法をも教えているのであります。

伊耶那岐・伊耶那美の二神は共同で三十二の子音言霊を生み、ここに先天・後天の四十九の言霊が整いました。そしてそれ等の言霊一つ一つを粘土板に書いて刻み、素焼きの神名文字板としました。火の夜芸速男の神・言霊ンであります。これで言霊五十音すべてが出揃ったことになります。そしてこの五十番目の神である火の神を生みましたので伊耶那美の神は病気となり遂に神避って高天原から黄泉国に去って行ってしまいました。(後に伊耶那美の神は客観世界の責任者黄泉津大神となります。)

伊耶那美の神は去り、後に残されたのは伊耶那岐の神と三十二の子音(と言霊ン・神代文字)だけとなります。美の神は「御蔭灸(みほとや)かえ」、子種が尽きたのですから、役目を果たして高天原を去りました。けれど伊耶那岐の神にはまだやらねばならぬ仕事が山ほど残っています。言霊五十音の整理・運用・活用の仕事です。これ等の仕事を伊耶那岐の神は自分一人でやることとなります。相棒である伊耶那美の神は神避っていなくなってしまったのですから。

さて、この状況にある伊耶那岐の命と、私達言霊学を学ぶ者の心境とを引き比べてみましょう。私達は言霊学と出合い、興味を持ち、その講義を聴くこととなります。講義は「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神。(あめつちのはじめのとき、たかまがはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ)……」と人間頭脳の心の先天構造から始まります。そしてその先天構造を構成する五つの母音、五つの半母音、母音と半母音との懸け橋となる八つの父韻、母音・半母音のそれぞれを統轄する言霊イ・ヰ(伊耶那岐・伊耶那美)のそれぞれの内容と働きを概念的にではありますが知識として身につけます。講義は更に進み、先天の活動による三十二の子音の創造の話となり、先天十七、後天三十二の言霊四十九が出揃い、最後にこれら全言霊を粘土板に刻んで素焼きにして神名(神代文字)を作る作業となり(言霊ン)、人間の心の構成要素のすべて、五十個の言霊が勢揃いしたことになります。

このように書いて来ますと、伊耶那美の神が神避った後の伊耶那岐の神の立場と、言霊学を学ぶ人が言霊五十音の全部を教えられた時の立場とは、当然の事ながらよく似ていることに気付きます。この時、神話の中の伊耶那岐の神は、誰にも頼ることなく、自分一人で五十音言霊の整理・活用・運用の仕事に進んで行きます。何の注意事項をそこに残すことなく、いとも当然の如く金山毘古・金山比売・波邇夜須毘古……と五十音言霊の整理の仕事に分け入っています。何故それが出来るか、といえば、伊耶那岐と伊耶那美の婚い(呼び合い)の時、「女人先だち言へるはふさはず」と言うように、伊耶那岐の命は初めから「男」という名で表現される話の「主体性」ということ、即ち主観と客観との区別をはっきりと認識しているからであります。

翻(ひるがえ)って私達勉学者の状況はどうでしょうか。言霊五十音の心の構造の話を聞き、母音・半母音、父韻、親音、三十二子音の創造の経緯を知って、心は多分「珍しい学問だ、心をこのように分析する学問は初めて聞いた。興味がある。今後共勉学を続けることにしよう。……」といった処でしょうか。この今後勉学を続けようとする時、忘れてはならない一事があるのです。

平易にお話するために科学の勉強を例に引きましょう。物質科学に興味を持ったとしましょう。初めは先生からその学問の内容についてのお話があります。その概要を理解したら、それ等の話を証明する実験に参加して、この科学の分野では物事をどのように考えて行くのか、実験に使う材料の酸素、窒素、炭素……はどんな物質か。実験に使用される器材はどんな扱い方をするのか、等々を知ることによって、自分が初めて聞いた講義が真実だということを確認することが大切です。この初歩の確認を疎(おろそ)かにすると、その後の高級な理論や実験には付いて行けず、頭は混乱してしまうでしょう。

この科学の基礎実験を言霊学の勉学に持ち込んでみましょう。言霊学に興味を持ち、心の先天構造の十七言霊(母音、半母音、父韻等)三十二の子音言霊の話を聞き、本で読みました。更に勉強を進めようとする時、基礎の実験が必要です。言霊学は心と言葉の学問ですから、実験ではなく、実証が必要となります。心の実証とはどういうものなのでしょうか。

言霊学の実証は、器材、器具を使った実験ではありません。また自分以外の他人の心を拝借するわけにもいきません。飽くまで自分自身の心の中の体験です。こう申上げると大層なことだとお考えになる方もいらっしゃるかも知れません。そこでまた例を引きましょう。五十年程前に読んだストレス学説の元祖、カナダのハンス・セリエ博士の話です。「世の中は猛烈な速さで動いている。その中に住む人間は当然影響を受ける。種々の心のストレスを持つことは避けられない。私はストレスに対処する最も適した言葉を捜して来て、東洋特にこの日本で見つけた。英語のthank youは神から、または人から何かを頂いたお礼としての言葉である。けれど日本語の“有難い”の言葉は、本来お礼の意味ではない。今、此処に生きている事がこの上なく有り難い、即ち“有り得ないことが起こっている”という表現です。無条件の有難さです。私はこの言葉に接して、ストレスの医の最高の言葉は日本語のこれだと確信したのです。」

このセリエ博士の言葉を言霊学の勉学の基礎自証の問題に引いて来ましょう。自己反省の作業の中で、一瞬であっても「今、此処に生きる事の無上の有難さ」を知ることの出来た人は幸福です。この人は他からでなく、まごうことなく自分自身の心の中に“有難い”という無上の感情を放射して、自分という傷つき易い人間、そして他人を傷つけ易い人間である自分を、いつも感謝の愛と慈悲で包み、護ってくれている偉大なものが存在していることを知ったのですから。そして言霊学で謂うところの、心の中に立っている天之御柱の中の言霊ウとオの次元の上に感情の世界である言霊アが柱の一部として厳然と立っていることを自証出来た事となります。そしてそれはまた見ることも、聞くことも、触れることも出来ない心の先天構造の内容の一部をはっきりと直観することが出来たことにもなります。この自証の直観は、その人自身の判断力によって古事記神話の更なる真理に向って奥深く入って行く事を可能とするでありましょう。

長いこと言霊学の初期自証の仕事について筆を割きましたが、ここから古事記の文章を先に進めます。文章を少し長く書くこととなりますが、そのすべては伊耶那岐の命が自ら独りで、自分の心の中で五十音言霊の整理・運用・活用の方法を追求し、解明して行く文章であります。

かれここに伊耶那岐の命の詔りたまはく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易へつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。ここに伊耶那岐の命、御佩(みは)せる十拳(とつか)の剣を抜きて、その子迦具土の神の頸(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前に着ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。次に御刀の本(もと)に着ける血も、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は甕速日(みかはやひ)の神。次に樋(ひ)速日の神。次に建御雷(たけみかづち)の男(を)の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。

(次号に続く)

「お知らせ」

「コトタマ学」会報の著者の体調不良のため、五月号よりの会報の発行を暫くの間お休みを頂くことに致します。予めお知らせ申上げます。読者の皆様にご迷惑をおかけし、誠に申訳御座いません。お詫び申上げます。お預かりいたしております会報の会費は休刊中の分、先延べにいたします。御了承下さい。

尚、毎月第三土曜日午後の講習会は続けて開催する予定で御座います。また電話での御質問にもお答え申上げる所存で御座います。

以上謹んでお知らせ申上げます。

言霊の会