1.たぐりからできるもの

1・たぐり。

この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほとや)かえて病(や)み臥(こや)せり。たぐりに生(な)りませる神の名は

金山毘古(かなやまひこ)の神。次に 金山毘売(ひめ)の神。

次に屎(くそ)に成りませる神の名は 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に 波邇夜須毘売(ひめ)の神。

次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は 弥都波能売(みつはのめ)の神。次に

和久産巣日(わくむすび)の神。この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。

かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。

父韻とは何か実際に知らないのに、父韻と聞いてそれなりの意識が起きます。大いなる誤解の元になったり自分だけの大正解になったりして、隠れている父韻はにこりともしていないのを知りません。

たぐりとは反吐のことで、意識の手元に手繰(たぐ)り寄せる操作を暗示しています。

この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほとや)かえて病(や)み臥(こや)せり。たぐりに生(な)りませる神の名は

【この子】 この子とは古事記の流れの中では火の夜芸速男の神のことです。またの名である火の炫(かがや)毘古の神・火の迦具土の神。ここでは父韻とは何かと言う疑問です。疑問は疑問として出来上がっていますから、これに付け加えるものはありません。よく五十音ではなく七十五音とか母音は八音いやそれ以上というのがありますが、言霊学では意識世界の反映を扱うので舌の位置の違いを探しているのではありません。五十音以上に意識の元素単位は存在しないのです。ですので疑問の形を変えようと短くしようと長くしようと、意識の元素単位に変化はありません。父韻とは何だにしても、どういうものでございましょうかにしても、出てきたたぐりの構成物に変化は無いのと同じです。それなのに表現が変わるのは何故かというのが父韻の秘密です。

たぐりが既に食べた食物に拠っているように、父韻とは何かという疑問も見聞きした記憶に拠っています。出した質問も返答を聞くときも既得の範囲内で処理します。それでは知識も増えず新しいことが入って来ないように見えますが、ここにも父韻による創造の秘密があります。

【たぐり】

意識活動の始めです。たぐりは反吐のことですが意識活動の始めが反吐することではおかしなことです。たぐりは自分の方へ引き寄せる手繰り寄せるのたぐりです。意識運用の始めが手繰り寄せることであるかどうか確認してみましょう。眼を開いて見えたものを認識するだけの簡単な例をとってみます。

眼を開けた時に何が見えるかと問えばパソコンの画面が見えると答えるでしょうが、そこに到達するまでには多くの手順を踏んでいます。実際には瞬時にパソコンの画面を見ていると分かるのですが、古事記ではその経過を長々と多くの神名を用いて説明してくれます。

というのも瞬時であろうと三秒後であろうと三年後であろうと、三千年後であろうと、意識の運用手順に変わりはないという意識の運用原理を古事記は説明したいからです。つまり瞬時の意識運用は三千年の歴史運用と変わらないということです。無限の変化と無数の変数があるのにそんなことが言えるはずはないように思えます。ところが瞬時という今には元々既に八つの方向が花開く準備段階にあるのです。 (参照。今とは何か。) それがあるために変化と多様性が準備されていたのです。

意識活動は眼で見えませんが言葉によってその形を現します。たぐりという動きも機能も活用も言葉(物象)が無ければ姿を現しません。言葉で現されるたぐりは辞書で示されますが、たぐりの活動そのものは見えません。そこでたぐりを更に探るにはたぐりそのものを説明し、たぐりそのものの由来を問わねばならないでしょう。しかしそのものを問うことは意識の働きを見せることですので、脳髄をうがっても見えません。それは現代科学でも未来の科学でも不可能なことです。せいぜい脳内のある種の物理現象を得ることになるでしょうけれど。

ではどうすればいいのかといえば古事記の記述に頼ることです。(何ということでしょうか。古事記を頼りにするなんて。また何時の日か全世界がそうすることになるだろうなんて。)

たぐりはタ(田)をククリ(括り)ツケルことです。タは先天が始めて心象として現象の姿をとるときの全体像です。髪をたぐりあげる、綱をたぐり寄せるを例にとると、髪、綱の形状質などが問題となる以前にそれらの全体のイメージが浮かび上がっています。この生まれたばかりの心象を自分に関心のある母音世界に組(ク)見み入れようとするのが、たぐりです。それが記憶に組み入れられれば思いでをたぐりとなり、乱れ髪を直したいと思えば髪をたぐり上げると成ります。

そこで次にたぐりの様子が色々な形であらわれます。髪をたぐるのは現にある物質世界に関心を寄せ、記憶や概念をたぐるのは過去世界に関心があるためで、物を選ぼうとたぐるのは未来に関心を示しているからです。また芸術宗教世界で確たる心象を維持したいとなると全体的な印象の了解をたぐろうとします。こうして心の各次元での異なった様子が出てきます。

たぐりに拠って次元世界を選んだならば、その次元世界の金山毘古の神、金山毘売の神が現われてきます。

たぐりに生(な)りませる神の名は 金山毘古(かなやまひこ)の神。次に 金山毘売(ひめ)の神。

世界のどの宗教においてもまず神がいてその他もろもろが生まれてきますが、神を扱うなかでは唯一古事記だけが例外です。というのは、神と名付けられるものは必ず後から成り出てきます。はじめからでんぐり返しが出来ているので神の存在が地に着いています。金山神も例外ではなくたぐる意識行為に成り出てきます。

そしていよいよ父韻です。

父韻とは何かを知らないのに父韻と口に出来ることは、父韻に関する概念知識がその分だけたぐられていて、その範囲内で父韻の概念を組み立てているからです。金山とは既得の概念の仮名の山ということです。ここでは既得の仮名の山を使用した父韻の活用となります。知り得るだけの知識を知ろうと頑張っても無理しなくても、いずれも過去概念知識の多少の差がでるだけでそれによって新発見できる偶然性を得て,大賞を獲るか獲ないのかの差で、いずれも無自覚盲目的なものです。

次に屎(くそ)に成りませる神の名は 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に 波邇夜須毘売(ひめ)の神

反吐した後は【(くそ)】で、その次は小便(ゆまり)が出てきます。ここまでして古事記の秘密を隠さなくては成らないとは大変なことだけれど、秘密が向かうところは出てきたところのヒントが多くなることですから、ひとたび出発と集約される元々の方向が見つけられたら後はしめたものです。後は安万呂さんの完成度の高さに驚嘆すればいいのです。古事記は心の原理論ですからウンチの話とかウンチを拝む神社とかの話にはならず、(くそ)を意識の組む素(くそ)に理解したならばどの時点にも顔を出す重要な概念と成ります。物理の元素みたいなものでしょう。

ここでは意識された元素のことですから、先天の完全な意識元素(言霊五十音)と知りえる限りの獲られた知識に乗ったものとの二種があります。

糞をすればすっきり落ち着くように、自分の手持ちの仮名山、知識概念、が上手に組まれていれば落ち着くしその範囲で組もうとして落ち着きを獲て主張しようとします。各自の主張に到る意識状態が決められていきます。

組素の構成とか質量とかは意識状態と関係なく分析計量ができ、意識の表出にはとらわれません。しかし言葉の組む素の扱い方で様々な意識が発出してきます。自他共に求めるのは安定した確信のある主張です。夜須(やす)で現され、意識の安らかな安定を得ようということです。

父韻とは何かを知らなくとも既得概念だけで構成される疑問だけでも疑問らしさを獲ようとします。既得のものでしか処理できないたぐりですが、組む素においても同様なことが起きています。たぐりのタも組む素もその人の得る全体と先天の全体との二重性にあります。この関係は後々続きますが、自覚に到る道は完全な全体を秘めている先天にはありません。先天は手に負えないからです。不完全な、いいかげんな、嘘つきほら吹きの不完全者がこの後の世を変革していきます。悟ったものとか役員とか菩薩とかの地位にあることは今後役立たずになります。つまり父韻を知らないと保持し続ける者が解決者となるでしょう。

しかし古事記としての解説は先天までも了解されている人智では考えられないほどの完璧なものです。古代のスメラ命達が残した至宝、これを利用しない手はないのです。

さて、【次に屎(くそ)に成りませる神の名は 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に 波邇夜須毘売(ひめ)の神】で組素と読み替えました。ハニは言霊を記した粘土板でそれを見れば意識の表示が安らかに安定していることが見てとれるとなります。必要最小限度の解説も無い古事記ですから難儀します。組んで素とするのか、漢文の返り点を用いて素を組むのか、するとそこに成り出るものがある。

言霊の単位元素としては既にハニは安らかです。五十の言霊が既に完成しています。しかし主張する意識としては単音の安らかさだけでは足りません。複数音が単位となる素もあります。トランプゲームでは連続した数の一群を一単位としてよく扱います。単語も素となりそのことで安定した使用に耐えるようになるでしょう。

父韻とは何かをたぐり寄せるとその疑問を構成する仮名、言葉が生成してきました。そこで手持ちの言葉を組みそれぞれの単位を作ると安定した使用に耐える集合ができてきました。いずれも霊と文字が仮名で組まれて安定しました。とは言っても父韻とは何かの明瞭な回答を得られたわけではありません。

次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は 弥都波能売(みつはのめ)の神

たぐり寄せると仮名の一群が現われ、組み整理してみると拾い集めたものだけれど十分安定して使えそうなものだった。そこで安心して尿(ゆまり)をします。その小便に弥都波能売(みつはのめ)の神が成るというのです。尿とは「いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です。例えばどこの国だか分からない小銭の一山があるとします。山を整理分類して形状材質等で分けます。分けた特質の組み合わせでそれぞれの山が山の中では共通なので、それが他と違うものだという他者に対する安定性を得ます。

すると次には各山群の独自性を得ようと各山の位置付けを得ようとします。大きさや厚さやゼロの数の比較などをし出します。同様なことを意識に当てはめようと、欲望感覚の言葉か、記憶概念の言葉か、選択分配の言葉か、感情情感の言葉か、意志行為の言葉か、どの次元で当てはまるのか整理分類等が出てきます。父韻とは何かの疑問も意識の次元が探されます。たぐりの時点で反吐が食べたものだけを全部だすように、今ある実体意識が全部揃っています。五次元の意識となっているものです。次いで組素でそれらを組み合わせてみます。ここで新しい組み合わせでの単位が使用に耐えることが確認されます。

弥都波能売(みつはのめ)

実津葉の眼(みつはのめ)。実質内容(み)に渡す(つ)言葉(は)に成る意識(め)。

ここでこれまでのことを父韻で記述できるか試みてみましょう。安万呂さん以降、島田正路氏が見せた父韻の展開を除いて世界初公開ではないのでしょうか。本当にそんなことが出来るのか心配です。手繰り、組素、五埋(いう)まりの三つの意識活動が出ています。活動のあるところに父韻ありです。

手繰り。。たぐりの始めはたぐりがあるかないかです。あればたぐりの実体内容がありそのあり方が現われています。この現われ方は以下のようです。

言霊チの力動韻の現有の働きによってたぐり。

言霊イの力動韻の持続の働きによってたぐり。

言霊キの力動韻の収集性の働きによってたぐり。

言霊ミの力動韻の執着性の働きによってたぐり。

言霊シの力動韻の保存収縮性の働きによってたぐり。

言霊リの力動韻の拡張性の働きによってたぐり。

言霊ヒの力動韻の表面結界性の働きによってたぐり。

言霊ニの力動韻の中心への収束性の働きによってたぐり。

これらの父韻の働きによってそれぞれの父韻がたぐりの母音世界に働きかけたぐりの現象が現われます。この論考の父韻とは何かについても同様です。もっぱら父韻とは何かの疑問の解明が目指すところなので、知識次元全体の意識の上に乗っています。使用される言霊の多くは言霊キミの収集性と執着性を軸として、その上下に他の次元世界がきます。

興味関心を引いたお気に入りに則ってあるいは学問知識にとって重要と思い込むことに沿って、材料となる金山は積まれていきます。しかし元々が過去概念とそれへの思い入れの執着でできたものです。たぐることで出来る金山が上記の父韻の働きで八つの結び付き方の、そして表現の違いとなって現われます。通常考えたり書いたりしていると思考が自然に進行発展しているように感じます。しかしそれは上記のいずれかが無意識に無自覚に選ばれていて、それが展開しているのです。その展開の中で修正改良が行われていくので最初から全てが見通しされていません。八つの結び付きが全て考慮されたわけではないということです。(古事記の記述に沿っていけば理想の形が出来ていくと期待しているところです。)

ということで、たぐりに成りませる金山神は八面相を持つことに成ります。普通に言われる意見の相違として自分の意見があるかのように主張される元となるものです。古事記によって種を明かせば八分の一だけでもって八分の七までも主張した積もりになっているというわけです。

言霊チの力動韻の現有の働きによって手繰り(たぐり)に成りませる金山は目前にあるものから得られた五感感覚そのものを表記した金山になります。

言霊イの力動韻の持続の働きによって手繰り(たぐり)に成りませる金山は目前にあるものから得られた五感感覚の持続したものを表記した金山になります。

言霊キの力動韻の収集性の働きによって手繰り(たぐり)に成りませる金山は在ったものを現在に収集収納しようとする働きを表記した金山になります。

言霊ミの力動韻の執着性の働きによって手繰り(たぐり)に成りませる金山は在ったものに自分を置き換えようと現在に執着しようとする働きを表記した金山になります。

言霊シの力動韻の保存収縮性の働きによって手繰り(たぐり)に成りませる金山は在るものをイマから静め落ち着かせ調和させようとする働きを表記した金山になります。

言霊リの力動韻の拡張性の働きによって手繰り(たぐり)に成りませる金山は在るものを未来に広め置き換えようとする働きを表記した金山になります。

言霊ヒの力動韻の表面結界性の働きによって手繰り(たぐり)に成りませる金山は現に在るものが現在という表面を開花・開発しようとする働きを表記した金山になります。

言霊ニの力動韻の中心への収束性の働きによって手繰り(たぐり)に成りませる金山は現に在るものが成熟において内部中核へ吸引されていく働きを表記した金山になります。

こうして八つの言霊の力動韻が五つの次元世界に働きかけるので、金山神と言う総称の元に金山神自身が四十の金山神の変化を遂げることになります。(以下の各言霊神についても同様)神名としては一つで統一されていますが、各神はそれぞれ四十面相を隠し持っています。

次の組素、五埋まり、以下各神とも同様ですので繰り返さず、適用するものを変えてみましょう。

父韻とは何かの適用で。

組素。。始めは組むか組まないかです。組まれていれば組まれているものの実体内容がありそのありかたが現われています。この現われ方は波邇夜須の神においては以下のようです。

言霊チの力動韻の現有の働きによって(くそ)に成りませる波邇夜須は目前にあるものから得られた五感感覚そのものを表記した波邇夜須になります。父韻とは何かなら、今あるものが今あるとする五感感覚で得られた整理材料(仮名山)をそのまま父韻として疑問にしてしまい、安定した疑問とする。

言霊イの力動韻の持続の働きによって(くそ)に成りませる波邇夜須は目前にあるものから得られた五感感覚の持続したものを表記した波邇夜須になります。父韻とは何かなら、今あるものが現にあり続けると確認された五感感覚で得られた整理材料(仮名山)をそのまま父韻として疑問にしてしまい、安定した疑問とする。

言霊キの力動韻の収集性の働きによって(くそ)に成りませる波邇夜須は在ったものを現在に収集収納しようとする働きを表記した波邇夜須になります。父韻とは何かなら、在ったものを今に収納しようとする過去の概念知識を引き寄せ、それを安定した疑問として提出しようとする。

言霊ミの力動韻の執着性の働きによって(くそ)に成りませる波邇夜須は在ったものに自分を置き換えようと現在に執着しようとする働きを表記した波邇夜須になります。父韻とは何かなら、在ったものに自分の今を置き換えようとし、あったものに今の自分が引き寄せられて得られた概念知識を安定した疑問として提起する。

言霊シの力動韻の保存収縮性の働きによって(くそ)に成りませる波邇夜須は在るものをイマから静め落ち着かせ調和させようとする働きを表記した波邇夜須になります。父韻とは何かなら、現にあるもの有ったものから得られた材料意識を今まさに地に設置したという安心を持った疑問として出されます。

言霊リの力動韻の拡張性の働きによって(くそ)に成りませる波邇夜須は在るものを未来に広め置き換えようとする働きを表記した波邇夜須になります。父韻とは何かなら、現にあるもの有ったものから得られた材料意識を以って、置き換え広めるのに安心を持った疑問として出されます。

言霊ヒの力動韻の表面結界性の働きによって(くそ)に成りませる波邇夜須は現に在るものが現在という表面を開花・開発しようとする働きを表記した波邇夜須になります。父韻とは何かなら、今得られているという表面全体を結び付けれるという安心感を得た疑問となります。

言霊ニの力動韻の中心への収束性の働きによって(くそ)に成りませる波邇夜須は現に在るものが成熟において内部中核へ吸引されていく働きを表記した波邇夜須になります。父韻とは何かなら、今得られているというものの内部中核へ吸引されていき、全体が結実されるという安心感を得た疑問となります。

こうして八父韻のお蔭で主体側の意識内容が現れます。

次の記述は次に尿(ゆまり)に成りませる神の名でゆまりを五埋(いう)まりとしました。心の五つの次元世界が余すところなく埋め尽くされるということで、意(五)志、意埋まり、イとウがつまってユまりということになります。弥都波能売(みつはのめ)が成り出てきます。

実津葉の眼(みつはのめ)と読み替えると、実質内容(み)に渡す(つ)言葉(は)に成る意識(め)となって前二(主客で四)神の内容が現われたものとなります。意の満たされた形が出来てきました。仮名山を集め、組み合わせて、意が満たされ、次いで大枠の内(和久産巣日の神)で持ち来たらせられる新たな材料(豊宇気毘売の神)にも対処できるようになります。

五埋(いう)まり。。

始めは組んだものが実体内容を現すか現さないかです。現されていれば現されたものの次元も他の物事の次元もその成り方が現われています。この現われ方は以下のように意が満たされるでしょう。意を満たし埋めることで実津葉の眼(弥都波能売)が成り出てきます。ミツハのミは意識の実質内容の実・身のことで父韻の働きによって出てきますが、この段階では父韻は自覚的に自由に使用できる段階にありません。先天の力動によって無自覚に出てくるものに従っています。到底自分の意見だといって主張できるようなものではありません。しかしそのこともまた無自覚ですから出てきたものが自然と自分のものに成っていき、そのまま自分の主張となってしまいます。

意識して頭を回転させてみると確かに言葉の連続や思惟の流れを創造していると感じられることもあります。しかしそれは現象の現われを見ているので現象が出てくる現場を見ている訳ではありません。わたし自身にしても文章が続いて出てきますが、自分で考えているかといえば、書き現したものは直ちに自分に回帰し反射され了解されたものとして、最初から自分が考えたように文章が出てくる積もりでいます。しかし心象、物象としての頭を過ぎる言葉を使用しているだけです。それらが何故どこからどこへいくものとして出てきたのか知りません。出てきた時には自分のものとなっているだけです。

つまり八父韻のどれがどのように働いて、今という時に出てくるかは知りません。人は自分の出所も知らないのに自分の意見だ考えだと騒いで闘争までします。

言霊チの力動韻の現有の働きによって父韻とは何かなら、次のように意が満たされ埋まるでしょう。父韻という意識や言葉と結び付く五感感覚で確認できるものを得ようとして、父韻とは何かという疑問が出てきました。

言霊イの力動韻の持続の働きによって父韻とは何かなら、次のように意が満たされ埋まるでしょう。父韻という意識や言葉と結び付く五感感覚で確認できているものの持続を得ようとして、父韻とは何かという疑問が出てきた。

言霊キの力動韻の収集性の働きによって父韻とは何かなら、次のように意が満たされ埋まるでしょう。過去に概念化されていた父韻という意識や言葉の記憶に結び付くように、父韻とは何かの疑問の矛先を向けて疑問の結び付きを得ようとする。

言霊ミの力動韻の執着性の働きによって父韻とは何かなら、次のように意が満たされ埋まるでしょう。過去に概念化されていた父韻という意識や言葉の記憶として在ったものに自分のイマを置き換えようとして、自分の意を結実化したものとして埋め満たそうとしていく。

言霊シの力動韻の保存収縮性の働きによって父韻とは何かなら、次のように意が満たされ埋まるでしょう。父韻という知識が有っても無くても自分の提起している疑問が疑問として正当であるという意を満たしそれが静まるように適合するものを選択していこうとする。

言霊リの力動韻の拡張性の働きによって父韻とは何かなら、次のように意が満たされる埋までしょう。疑問としてあるものそのものを今後の未来に広めると同時に、父韻とは何かをイマから他者の未来に広め置き換えようとする選択していく。

言霊ヒの力動韻の表面結界性の働きによって父韻とは何かなら、次のように意が満たされ埋まるでしょう。父韻とは何かという疑問がそれ自身の疑問の表面を覆い尽くす解決を探そうとするでしょう。

言霊ニの力動韻の中心への収束性の働きによって父韻とは何かなら、次のように意が満たされ埋まるでしょう。父韻とは何かという疑問がそれ自身の疑問の内部中核を形成するような解決を探そうとするでしょう。

こうして各自の安定した意識の元で満たされたものが自分の意識となってきますが、次にはあったものによって出来上がるものとして意識規範が働き始めます。そのまま規範となっていきますからそれを保持していれば他からどんなものが進入してきても、対応でき適応可能なものとしての自分の意見が出来上がります。

その関係を神名で示したものが、次に和久産巣日(わくむすび)の神。この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふになります。食事を受けて身体ができていくということになります。

しかしここではあったものによって出来上がったものが主です。肝心な重要な足りないものがあり、それが創造において父韻を働かすことです。黄泉国から帰ってきた後の本丸となります。

とりあえずは順序通りにいきましょう。

和久産巣日(わくむすび)の神。

五埋まりが五で表記されているのに八父韻が絡んでくる数字の違いが気になるかも知れません。絡み方活動の仕方は八つで、その相手方は五人しかいないのです。無数の実在世界の複雑さも意識の次元世界で見ると五次元、五つの位相でしかありません。五大、五元素、五重塔、家(イエ五重)、五十音図等皆同じことを指しています。

ここでの和久は枠のことで五段の枠を持った、意識に沸いてきた枠のことです。意識の整理材料が枠付けられたこと、逆に言えば(本人の希望には関係なく)その人の意識の限界が枠で示されることです。何故なら無自覚的にあった整理材料で枠が成り立っているためです。しかしここでも先天の枠の上に各自の枠が成り立っている二重性は常に保持されています。

無自覚な各人から出来てくる枠は各人の沸きあがる意識が元ですから、常に先天の完璧な枠、鏡とする枠になりません。古事記はそういった我々を左の眼(霊足りの意識)に成る天照す大御神にまで導く積もりです。

ということで各人が勝手に創る思惟規範ができました。閃きで作ったものから汗水流して苦労したものまで色々ですが大雑把であることに変わりはありません。それは出来上がったものもお気に入りを寄せ集めて創ったものですので、基本的に創った人の意識の範囲内でしか有効性がありません。しかし先天の規範の上でしか機能しませんから、その機能を有しているという普遍性の内にあります。そのことでどこからでも献上される思惟材料の豊宇気比売(とようけひめ)の神に対応が可能となっています。

言霊学の原理の話ならここでは天津菅麻(あまつすがそ)(音図)という伊耶那岐の神の音図の話になります。今は無自覚な思惟規範が出来てしまうことです。

この神の子は豊宇気比売(とようけひめ)の神といふ。

神話の中で神のという場合はその親族関係またはその神の性能・活用法等を表わします。豊宇気比売(とようけひめ)とは十四(とよ)である先天構造の機能を受け継いで、それを秘めている、の意であります。豊宇気比売の神といえば、伊勢神宮外宮の御祭神です。この神は親である和久産巣日の神の大雑把な内容ではあるけれど五十音言霊を枠に結んだ五十音図の法則を以って、この世の中の出来事から発想される一切の文化を整理し、それを伊勢神宮内宮の御祭神である天照大神が聞しめす世界人類の文明創造の材料として大神の御倉板挙の上に並べる役目の神であります。この神が天照大神の前に差し出す一切の文化はすべて、人間の先天機能(豊)を受継いで(宇気)秘め備えたもの(比売)である、の意でもあります。この項目は引用。

豊宇気ヒメは思惟材料であってイザナミが直接産んだ子ではありませんが、献上され材料となるには意識に反映される要素が秘められていることが必要です。豊宇気毘売の神の豊とは十四(とよ)の意で心の先天構造十七言霊の中のアオウエイ・ワ・チイキミシリヒニの十四言霊のことで、豊とは先天構造を指します。材料といっても物質相互の直接の関係は科学的な機械的な関係で計測でき、意識が口を出さなくともいいものです。そこで意識の働きである八父韻とそれを受ける母音の主体側アイウエオの五つと、出きてくる半母音側の全体を一つとして、計十四を読んでトヨとしました。

こうして各人なりの枠、和久産巣日の中で各自なりに思惟材料、豊宇気を受け入れることになります。つまり無限無数の材料には対応しますが、新たな順列による真理とか全く新規の命令秩序とかは存在できないということになります。ただし意識の次元は五つあるので次元の変化を経験することはできます。意識の枠の中で前に触れたように父韻が働きますので、父韻の最も関心のある次元を中心に枠の中味が出きていきます。枠の完成品は五十音図となって現われてきます。五十音図は母音の並びがアイウエオですが、ここでの中心次元はウと言うことになり、他の次元を中心とする五十音図も存在しなくてはなりません。豊受は枠産巣日に引き上げられるときにはそれぞれの中心を持つ異なった五十音図となります。学校で習うのはウを中心とした五十音図だけです。

かれ伊耶那美の命は、火(ほ)の神を生みたまひしに因りて、遂に神避(かむさ)りたまひき

こうして伊耶那美の神は火の神を生みましたことで、遂におなくなりになりました、ということであります。但し、伊耶那美の神がなくなられたということは、現代人が考えていますように、人が死んで、身体がなくなり、あの世に魂だけとなって行ってしまった、ということではありません。古神道言霊学は人間の生命を心の側から解明した究極の真理であります。この真理から美神がなくなられた、ということを解釈しますと、次のように言うことが出来ましょう。伊耶那美の神は死んで精神界の純真無垢な言霊のみによって構成されている高天原の世界から離れて、物事をすべて客観的、対象的に見る黄泉国(よもつくに)に去って行った、ということなのであります。

美の神が神避(かむさ)った、ということに関して、私達が注目しなければならぬことがもう一つ御座います。伊耶那岐・伊耶那美の二神は古事記神話の主役として共に力を合わせて子音の創生に当って来ました。そして生れ出るべきすべての子を生み終えて、もうこれ以上生むものがなくなり、伊耶那美の神は神話の舞台である主観世界の高天原から去って、客観世界である黄泉国(よもつくに)へ去りました。高天原には主役として伊耶那岐の命唯一神が残ったことになります。

さて、主観世界の高天原から伊耶那美の神が客観世界の黄泉国(よもつくに)へ去って行った、とお話しますと、概念的な主観世界とか客観世界とかの用語が続き、私達の頭脳がその煩雑さについて行けなくなり、思考に迷いを生じることがあります。そこで少々説明を加えることにしましょう。

人が暗い夜道を歩いているとします。遥か前方にピカッと何か光りました。その人は「光ったな」と思いました。暫くしてその人は「光ったのは青い光だったか、緑の光だったかな」と思いました。「さあ、どっちだったろう」と自分に問います。この時、主と客の世界の区別がはっきりします。ピカッと光ったその光は間違いなく自分から見て外界の光でした。客観世界の光を見たのです。次にしばらくして、「あの光の色は青だったか、緑だったか。」を考える時、その光は既に外の世界からは消えてしまっていますから、数分前に見たピカッと光ったその時のことを思い出さねばなりません。これは間違いなく記憶という主観内の世界のものです。主客の世界の区別はこれではっきりします。「そんなことなら、人は誰だって主観・客観世界の区別は特別の意識もなく見極めて、日常を暮らしているよ」と簡単にお思いになるでしょう。全くその通り、人は雑作もなくその区別を何の意識もなく使い分けて暮らしています。

けれど、日常の人間の心の営みを超えて、これを学問的に考える時、主観世界と客観世界との間には、その観察方法に於ても、その思考の法則に於ても、決して相容れない区別があるのです。特に物事の先天と後天双方にわたる関係を調べる、この講座の言霊学とか、物質科学の中の原子物理学等の場合、その思考方法と法則には厳密な相違があるということをお知り頂きたいと思います。主観世界と客観世界との相違について説明をさせて頂いて、それを前提として伊耶那美の神の「神避り」の言霊学勉学に於ける意義についてお話を申上げようと思います。日本民族の、また世界人類の秘宝であるアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の唯一の教科書である古事記(日本書紀)は現代の私達にその究極の真理と共に、その真理に到達する勉強法をも教えているのであります。

伊耶那岐・伊耶那美の二神は共同で三十二の子音言霊を生み、ここに先天・後天の四十九の言霊が整いました。そしてそれ等の言霊一つ一つを粘土板に書いて刻み、素焼きの神名文字板としました。火の夜芸速男の神・言霊ンであります。これで言霊五十音すべてが出揃ったことになります。そしてこの五十番目の神である火の神を生みましたので伊耶那美の神は病気となり遂に神避って高天原から黄泉国に去って行ってしまいました。(後に伊耶那美の神は客観世界の責任者黄泉津大神となります。)

伊耶那美の神は去り、後に残されたのは伊耶那岐の神と三十二の子音(と言霊ン・神代文字)だけとなります。美の神は「御蔭灸(みほとや)かえ」、子種が尽きたのですから、役目を果たして高天原を去りました。けれど伊耶那岐の神にはまだやらねばならぬ仕事が山ほど残っています。言霊五十音の整理・運用・活用の仕事です。これ等の仕事を伊耶那岐の神は自分一人でやることとなります。相棒である伊耶那美の神は神避っていなくなってしまったのですから。

さて、この状況にある伊耶那岐の命と、私達言霊学を学ぶ者の心境とを引き比べてみましょう。私達は言霊学と出合い、興味を持ち、その講義を聴くこととなります。講義は「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神。(あめつちのはじめのとき、たかまがはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ)……」と人間頭脳の心の先天構造から始まります。そしてその先天構造を構成する五つの母音、五つの半母音、母音と半母音との懸け橋となる八つの父韻、母音・半母音のそれぞれを統轄する言霊イ・ヰ(伊耶那岐・伊耶那美)のそれぞれの内容と働きを概念的にではありますが知識として身につけます。講義は更に進み、先天の活動による三十二の子音の創造の話となり、先天十七、後天三十二の言霊四十九が出揃い、最後にこれら全言霊を粘土板に刻んで素焼きにして神名(神代文字)を作る作業となり(言霊ン)、人間の心の構成要素のすべて、五十個の言霊が勢揃いしたことになります。

このように書いて来ますと、伊耶那美の神が神避った後の伊耶那岐の神の立場と、言霊学を学ぶ人が言霊五十音の全部を教えられた時の立場とは、当然の事ながらよく似ていることに気付きます。この時、神話の中の伊耶那岐の神は、誰にも頼ることなく、自分一人で五十音言霊の整理・活用・運用の仕事に進んで行きます。何の注意事項をそこに残すことなく、いとも当然の如く金山毘古・金山比売・波邇夜須毘古……と五十音言霊の整理の仕事に分け入っています。何故それが出来るか、といえば、伊耶那岐と伊耶那美の婚い(呼び合い)の時、「女人先だち言へるはふさはず」と言うように、伊耶那岐の命は初めから「男」という名で表現される話の「主体性」ということ、即ち主観と客観との区別をはっきりと認識しているからであります。

翻(ひるがえ)って私達勉学者の状況はどうでしょうか。言霊五十音の心の構造の話を聞き、母音・半母音、父韻、親音、三十二子音の創造の経緯を知って、心は多分「珍しい学問だ、心をこのように分析する学問は初めて聞いた。興味がある。今後共勉学を続けることにしよう。……」といった処でしょうか。この今後勉学を続けようとする時、忘れてはならない一事があるのです。

平易にお話するために科学の勉強を例に引きましょう。物質科学に興味を持ったとしましょう。初めは先生からその学問の内容についてのお話があります。その概要を理解したら、それ等の話を証明する実験に参加して、この科学の分野では物事をどのように考えて行くのか、実験に使う材料の酸素、窒素、炭素……はどんな物質か。実験に使用される器材はどんな扱い方をするのか、等々を知ることによって、自分が初めて聞いた講義が真実だということを確認することが大切です。この初歩の確認を疎(おろそ)かにすると、その後の高級な理論や実験には付いて行けず、頭は混乱してしまうでしょう。

この科学の基礎実験を言霊学の勉学に持ち込んでみましょう。言霊学に興味を持ち、心の先天構造の十七言霊(母音、半母音、父韻等)三十二の子音言霊の話を聞き、本で読みました。更に勉強を進めようとする時、基礎の実験が必要です。言霊学は心と言葉の学問ですから、実験ではなく、実証が必要となります。心の実証とはどういうものなのでしょうか。

言霊学の実証は、器材、器具を使った実験ではありません。また自分以外の他人の心を拝借するわけにもいきません。飽くまで自分自身の心の中の体験です。こう申上げると大層なことだとお考えになる方もいらっしゃるかも知れません。そこでまた例を引きましょう。五十年程前に読んだストレス学説の元祖、カナダのハンス・セリエ博士の話です。「世の中は猛烈な速さで動いている。その中に住む人間は当然影響を受ける。種々の心のストレスを持つことは避けられない。私はストレスに対処する最も適した言葉を捜して来て、東洋特にこの日本で見つけた。英語のthank youは神から、または人から何かを頂いたお礼としての言葉である。けれど日本語の“有難い”の言葉は、本来お礼の意味ではない。今、此処に生きている事がこの上なく有り難い、即ち“有り得ないことが起こっている”という表現です。無条件の有難さです。私はこの言葉に接して、ストレスの医の最高の言葉は日本語のこれだと確信したのです。」

このセリエ博士の言葉を言霊学の勉学の基礎自証の問題に引いて来ましょう。自己反省の作業の中で、一瞬であっても「今、此処に生きる事の無上の有難さ」を知ることの出来た人は幸福です。この人は他からでなく、まごうことなく自分自身の心の中に“有難い”という無上の感情を放射して、自分という傷つき易い人間、そして他人を傷つけ易い人間である自分を、いつも感謝の愛と慈悲で包み、護ってくれている偉大なものが存在していることを知ったのですから。そして言霊学で謂うところの、心の中に立っている天之御柱の中の言霊ウとオの次元の上に感情の世界である言霊アが柱の一部として厳然と立っていることを自証出来た事となります。そしてそれはまた見ることも、聞くことも、触れることも出来ない心の先天構造の内容の一部をはっきりと直観することが出来たことにもなります。この自証の直観は、その人自身の判断力によって古事記神話の更なる真理に向って奥深く入って行く事を可能とするでありましょう。

長いこと言霊学の初期自証の仕事について筆を割きましたが、ここから古事記の文章を先に進めます。文章を少し長く書くこととなりますが、そのすべては伊耶那岐の命が自ら独りで、自分の心の中で五十音言霊の整理・運用・活用の方法を追求し、解明して行く文章であります。

以上長い引用でもって、1たぐりの章を終ります。