05 意識の自覚体。三貴子。
⑭-5
ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、
天照す大御神。次に
右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、
月読(つくよみ)の命。次に
御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、
建速須佐の男の命。
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「ここに」、というのは冒頭天地(あめつち)から始まった全体を指します。
また同時に、アワギ原に降り立った自覚を伴った意識規範でもあります。
そして、ここまで来て最後の手順となったことです。
では最後まで残って「洗う」ものは何でしょうか。
身につけた気田無き外国文化の着物を脱ぎ捨て、我良しの主体意識規範の運用も訂正され、他者を取り残すことなく掬い上げ、一般的にでなく抽象的にでなく、個々の事象に応じてそれらがあったようになるように導きました。それらの不正な身は全て注がれ払われ、再生され張られました。
ここに来て残るものは後三者、自己の存在と、自己の言葉による表明、自己の働きの意識です。
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ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、
天照す大御神。
自分が存在していること自体を、霊的に足らそうとする存在意識を洗います。
「左の御目」、「左」はヒタリ、霊を足らそうとする存在意識それ自体です。
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右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、
月読(つくよみ)の命。
自分の存在を現わす極みにあるのが言葉で、言葉による表出意識自体を洗います。
「右の御目」、「右」はミキ、身(ミ)の物質性の極(キワミ)に位置するのが言葉です。
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御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、
建速須佐の男の命。
自分の意識活動の帰納演繹に分析してしまう知性の働き自体を洗います。
「御鼻」、ハナは刃(ハ)成(ナ)で、刃を用いて端(ハ)に分け又まとめる意識です。
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こうして最後に自分の存在自体とその働きとその表現における、恣意性を洗い流し、ここに「何々すべし」が自他ともに宣布されます。
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天照す大御神。吾の間を照らす。吾の眼を付けて智となすあめつち(天地)の自覚体。
月読(つくよみ)の命。吾の間を付けて(ツク)四世界(ウオエア)を表現する自覚体。
建速須佐の男の命。須らく速やかに田気の佐(助ける)を用いて運用する自覚体。