06章-3 <ものの在り方とは何か>

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<ものの在り方とは何か>

6章の己の心の成立の章で、心の成立、心のイマ、時間の流れをウオエアの各次元で見てきました。ここではそれらが心で感じられる構造の原理にせまってみたいと思います。ものがあることそのもの、ウオエアの次元があることそのものについてです。

感情感覚によって相手対象があることが意識されましたが、アの感情次元に限らずウオエ次元を相手とすること、意識すること、それらがあることはどう了解されているのかを見てみます。たとえて言えばあることをあるとするその原理はどうなっているかということになります。言霊学ではそれはイ次元(意志・生命意志の創造次元)であらわされます。○にチョンを入れるといいますが、そのチョンが何処からきているのか、チョンを前提とするのではなくそれを産み出そうというものです。

私達は自分の意識があるものとして当然の前提の元に自分の意識として使用していきますが、今まで見てきたのはそれらのあるものをあるとすることでした。ここではあるということを産み出してみようとするものです。産み出す力動因の言霊世界はイで現しています。と同時に創造の原理となっている韻になります。それ自身は姿も形も持ちません。その配当されている神名は、能動主体側が 伊耶那岐(いざなぎ)の神で受動客体側が 妹伊耶那美(み)の神です。宗教のように表現したければ、世界の諸々の宗教のいう根源創造神となります。

ギ・ミの神の働く配列は自由創造で、固定した決まった配列に従っているのではなく、人の各次元の創造の配列に采配を振るうものです。ウ次元の物事にはこうしろ、オ次元はああしろという風に、自由な強制命令を発しているために、事の進行があります。そして創造の元締めとなる配列としてイ次元は自分の配列を持っています。

創造意志は勝手に出てくる時や、決意を伴っている時や、やらされてやる気になったりする時や、沈思黙考の形になる時や色々ですが、意志の発現は、イ・チイキミシリヒニ・㐄のイ段で現されています。冒頭の八父韻の配列と同じです。

では展開してみましょう。譬えや比喩、具体例が入りますが理解の手助けですので挙げられたものを分析していくわけではなく、あくまで心の中での進行です。

ものがあるとは。

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ものがある、のモノを現象で見て行くと、とてつもなく大きな世界のように見えますが、要するにそれは現象となったモノというだけのものです。ここで扱うのは現象となったモノではなく現象となるモノです。名誉も概念も感情もテレビもリンゴも国家も現象となったものの扱いですから、それらに捕らわれることはしません。既に前段でウオエアの次元として説明しました。

ここでは前段で説明された人間性能のモノとなる各次元、それらの存在を創造する意志を扱います。

欲望も知識も選択も感情もそれぞれの次元として出てきて、モノという形で存在していきます。その現れは勝手に出てくるとか努力して捕まえたものとか色々ですが、とにかくそのような(先天の)存在があるのでモノという存在となります。

始まりはいつでも吾の眼(アメ・天)です。相手対象は心というモノの世界です。

情緒感情が言葉となり、概念知識が言葉となり、その他の心の性能が言葉となって現れる、それぞれの根拠となる原理がギミの神にあります。前段で見たウアオエでの各八父韻への展開はここでは、イ・㐄の神そのものです。

前段と同じ説明形式です。

伊耶那岐(いざなぎ)の神-言霊チ-言霊イ-言霊キ-言霊ミ-言霊シ-言霊リ-言霊ヒ-言霊ニ- 伊耶那美(み)の神 の流れで渡ります。

伊耶那岐(いざなぎ)の神。 ここから始まります。イザナギはここでのイ次元世界の始まりでは、「天の御中主(みなかぬし)の神(ウ)、高御産巣日(たかみむすび)の神(ア)、天の常立(とこたち)の神(オ)、国の常立(とこたち)の神(エ)を束ねた全体ですが、未だ出現以前の未剖判の先天状態です。(細胞分裂以前の卵)

イ次元の流れの始めにはこれらの神全体が控えています。

と同時に客体側にも言霊ウワヲヱを司る神々(天の御中主(みなかぬし)の神、神産巣日(かみむすび)の神、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神、豊雲野(とよくも)の神)が控えています。

予め控えているのは主客の母音世界だけではありません。その世界内で働く働きそのものが控えています。もちろんその働きとは八父韻のことです。

イザナギの主体側にはそれ自身に主体として働きかける実体(働きを持った実体)が、そして、

イザナミの客体側にはそれ自身に客体として働きかけられる実体(受容できる実体)が、備わっています。

イザナギ・イザナミの次元ではそれぞれに働きと実体(チイキミシリヒニとウアオエウワヲヱ)が未剖判の形で先天原理となっています。

--- 以下イ次元に関する引用 ------------

完全自由な宇宙意識が成り立っている。

天津菅麻音図(天から授かった清々しい心の音図)の母音の上からの並び方は‘アオウエイ’、一番下は‘イ’の段階に言霊五十音は展開し存在しています。イ次元(人間とはそも何者ぞ)で人間の心を観ますと五十音の言霊しかございません。

人間の心は言霊五十音で総て集約されます。言霊の学問と申しますのは、人間の心の五階層の母音‘イ’に展開している五十音の言霊の眼で観た人間の精神内容です。

言霊の原理から作られた日本語を日常で使っていて国であり民族ですから、この国のことを「霊の本」、霊というのは原理を指します。こればかりはどうしようもない。他の言語では雲を掴むような分からない道なのです。

次のイ次元はオギャアと生まれた生命が人類の歴史を創り出して行く、万人が明日を創造していく。その創造意志の法則が言霊の原理、それ以外は存在しない次元。五十音は真邇(マニ)と申します。真実であることに一番近いから真邇です。

人間の営みには千差万別色んなことが起こります。それこそ数え切れない、それは人間の性能の内のウとオとアとエで起こりますから千差万別。言霊の存在するイという段階では千差万別ではなく、たった32の子音だけです。先天を入れまして49です。

イ次元で観ますと人間の営みは簡単に法則化されます。32の子音で法則化された学問が言霊の学問です。どんなに複雑なことが起ころうと真理がサッーと分かる。

イの次元に上がりますと49の言霊を組み合わせることによって、日本語はあらゆる物事の実相を表わすことができます。その言葉が実相を表わしておりますからどういう意味かを考える必要がございません。言った言葉通りに行われる。言った言葉通りに実現する。そういうことから日本のことを「神ながら言挙げせぬ国」と申しました。

こういう順序で32の言霊が子音の全部です。循環を終えた子音は何処にいくのか。また先天に還って同じ順序を繰返します。これを「言霊の幸倍へ」と申します。このことは言霊が人間の心の最小単位であり、イ次元で世の中を見ますと49の言霊で全てを表現できるということになります。

であるから、先に指摘した五官感覚の宇宙は言霊ウ、経験知の言霊オ、感情の宇宙は言霊ア、実践智の宇宙は言霊エという名前も、言霊イの生命創造意志の次元に立って初めて命名されるものなのである。言霊のイ次元以外に言霊五十音は存在していない事からから来る当然の結論ということが出来る。

さて以上お話した事で言霊学という学問上で言霊が何処に存在しているかは分かった。言霊第五次元の言霊イの界層に存在する。そうしたら人間はどう対処し、勉強したら良いのか。今までの話がただこれだけで終わってしまえば、言霊は何処に存在するか、という知識で終わってしまう。

背負うことは背負わないことです、何だか分からないでしょうけど、ここに重い荷物があって「ヨイショッ」って持ち上げると重たい、ね、でもリュックサックに入れて一番高い位置(イ次元)で持ち上げれば軽くなる。

人類を背負うことも同じ、自分が背負うのは人類だったと気がついた人は一番軽く背負う方法で背負う、人類を背負うことすら気が付かない人は本当に重い。個人的には二人の介護をして背負いましたけど、本当に重たかった。

イ次元の話は「生命」のことですけど、でも、一言で説明できないでしょ。誰も分からないのですよ、世界中の人が。それで心と体に分けた、ところが心と体を一つにしたものが生命かって言えばそうじゃない。

分けたのは頭の中だけの話ですから、それをまた一つにすることは出来ない。あくまでも心は心、それは精神文明の時に言霊として解明し、体は体で研究してきてDNAまで解明した。

それじゃ、生命はぜんぜん分からないものなのかって、そうじゃない、言霊の学問の最終章、「禊祓」では、子音の働きで証明された。この子音は光です、日本語の最たるところ。

例えば、コップと言っても物質のコップ、コップの心の実相は何か、それが光、コップという知識の光を当てたじゃないですか。生命が唯一分かる方法はこれしかない。

人生は捨てたもんじゃない、生命の実相を生きている人間が見ることができる、人間が神であるということを証明する。人類全体がそれに近づいている。そこまで究めたら、後ろ向きに喋れということが分かった。

ただ光があるだけ、ということは言霊の学問からすれば当たり前の話になる。イ次元には光しかない。五十音しか存在しない光の世界なのですから。ですが努力したらそこに行けると思い込んだのが見当違いだった。

人間の尊厳はアから出て来ない。美しいという表現は出て来ますが、平等も出て来ますけれど。根幹に関わる事は生命そのもののイ次元にかかわってきます。

感動というのは何かに触発されて心を動かされるものがある、その何かを外に見るのでなくって自分の中に観なくては。本当に観てしまうと感動どころじゃない恐れおののきます。信仰の立場なら感動しますが、言霊の学問は信仰ではありませんから。

自分はこのままで良しとしようとする人が言霊の学問を学んでいる人に少なくないのは、自分に対する冒涜になります。信仰なら自分を卑下するのは少しは許されることかもしれませんが、生れた時からウオアエイと授かっているのですから。

父韻を説明するに結局は伊豆野目に落ち着く、理論的な父韻は嘘っぱちの父韻、父韻が全てを創造するのですから、イ次元に存在してイの働きそのもの、伊弉諾尊の一切の働きが父韻、ということは創造そのもの、創造が分からなければ父韻は説けないということになります。

創造の光ですからイ次元に足を置かないと父韻は説けないということに気が付きましたから、だから何を言ったところで嘘っぱち。理論的には間違いはないでしょうが。何にもない所から一切を創造する原動力は無一物から万物を創造する、その最初の力動が父韻、最初の最初ですから伊豆能目というのです。

引用ここまで。

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イ次元のモノの在り方の流れ。

(以下は私の感想文的なものです。理論的であろうと論理的に正しかろうと世界中の人間の知らないことが分かったであろうと、「何を言ったところで嘘っぱち」です。ただ「イ次元に足を置く」形の作り方だけでも残しておこうというものです。

一 言霊チ。 完全自由な宇宙意識が成り立っているイ次元の始めの意識の働きは、宇比地邇(うひぢに)と呼ばれています。主体の宇は地と比べて近い、私の意識は相手対象に比べて近いということで、相手対象(地)の意識を直接に自身のものとしている、となります。

例えば私はこれこれを知っているという時には、私の知っている範囲のことを知っているというだけのものですが、イ次元全体ならば知的概念の記憶全体となります。どこの誰かが知っているということは宇宙の中の砂粒の一つを知っているというだけのもので、どの立ち位置にいてもその人の全体となり、無限の宇宙からすればどこでもが宇宙の中心となりますから、その人の知っていること意見が宇宙の中心です。

こうして誰でもが自分の意見を表白することが宇宙の中心を成すことになります。自分の人生の全体で自分の人格を賭けて得てきたものです。自分が持っているものをあるものはあるとします。自分によってあるものそのものがあり、今-今そのものがここにあるとされます。

言霊ウの欲望、言霊オの概念探求、言霊アの感情、言霊エの選択等のどれを自分が選んでも、それが自分の選んだことでそのことで、自分の行為の現象、社会現象の起きることを示していきます。

二 言霊イ。妹須比智邇(いもすひぢに)がウヒヂニの示すものを受けます。あるものはあると示されたものは、言霊チの段階では主体側のチの立ち上げでは、相手対象(地)に比べて近く客体を身近なモノとしましたが、ここでは、須らく智に比べて近いで、客体側意識の運用が行動として智より近い、ということになります。

般若心経式に書けば、言霊チ・イの二者は、宇(意識)は地(相手対象)に比べて近く、行為(言葉)は智に比べて近く、宇は地に異ならず、地(言葉)は宇に異ならず、となります。

チにより示されたものを今-今の持続の中で受けていくので、知識概念という固定された過去へ置き去りにされていく意識になるのではなく、すべからく持続して動き運用されているので、常に示され続ける言霊チの世界に寄り添っているということです。知識となって概念世界に脱落して行かないということです。

この言霊チ・イの両者の動きの直接の適用される世界は欲望界です。あるものがある間だけあるばかりでなく、それだけで全世界を形成することができています。

チのあるものがあるという意識を支えるのはイザナギで、あり続けることが必要で無くなれば解消されます。

次に、あるものに対してこれは何だという疑問が湧きます。

三 言霊キ。言霊チ・イの欲望次元では、あるものをあるとしその持続存在が必要でなくなれば、あるものは消えて無くなるのですが、そこであるというものが対象化されると、記憶概念としていつまでもあり続けることができます。これは欲望の有る無しに係わらず独自の世界を形成しています。

ここではあるものではなく、あったものに対する知識となります。それに対する完全自由な宇宙意識が成り立っている知識とはなんでしょうか。

まず、それらの成立を保障する完全自由な思惟規範が成り立っていることです。

次に、あったものの存在が意識と関連付けられていること、

次に、それの時処位の位置づけが明瞭なこと、

次に、最初の関連づけと反故が無いこと、

次に、選択する方向性が明らかなこと、

そして、感情的にも受け入れられていること、

等が、知識の成立に求められています。

単に知識がある気付いたことがあるでは上記の条件はクリアできません。そういった気付くことを固定したところから出発しますと他者も同じことをしますので、埒が明きません。

そこで列記したことにさらに下記を追加してイ次元としての面目を付けなければなりません。全人格をかけて知っていることしか知らないのですから、その扱いもその通りにしていきます。

まず、上記を全部受け入れているにしても、意識と相手対象との主客(あ行とわ行)の対立関係があります。それを私は相手であり相手は私であるという関係を止揚し一本の心の御柱としていきます。

次に、主体側の出発地点が明かされます。

次に、主体側が到達できる経路が明かされます。

次に、主体側の出発地点と到達地点の間隙を明かします。

次に、客体側の到着地点が整理されます。

次に、客体側が受け入れることのできる経路が明かされます。

そして、客体側の到着地点と出発地点との間隙を明かします。

こうして意識と対象との間隙を無くし意識とモノの実相を一つの言葉で表現できるようにしていきます。

そこで、言霊キは、上記の要件を満たしつつ、あった「モノ」を自分の方へ掻き寄せるときの動きをし、過去-今の引き寄せの動きとなります。

四 言霊ミ。上記の要件を満たしつつ、あった「モノ」に自分を結びつけようとする動きをし、過去-今の結実の動きとなります。

五 言霊シ。言霊キ・ミによってあったものの知識が明かされました。すると次にはそれをどうしようかということになります。選択按配祀りごとの世界となり、実践の智恵があらわれてきます。

選択の世界はあるものを選択する形をとっていますが、キ・ミによってあったものをあるとして、目前に置いたものです。それを置くことで今あるものが未来にできる格好がつきます。

ところであるもの(あったものを今あるものとして未来へおくもの)は存在の形をしていますから、存在を規定する実在規範のあらわれとなっています。存在の実相は言霊イエウオアの五層をもっていますから、心のあり場によってどれかの形を取ります。腹減った眼で見ればリンゴを喰いたい、知識疑問の目で見れば品種と産地が気になり、感情思いを寄せて見れば絵に描いて残しておきたくなり、選択の眼で見れば明日までしまっておこうか冷蔵庫に入れておこうかとなり、それぞれの心の次元を現すこととなります。

そこで選択というものはあるものからの選択ですから、言い換えれば現象しているものからの選択です。各存在は五層の柱を内蔵していますので、キ・ミによってここにあるものとなったものの選択に、どのような層を選択すればモノの実相を間違えなく伝えることができるかの相違ができてきます。

自分にとってはっきりしている実相を伝えるにはどうするのでしょうか。自分の経験に固執するのでは独りよがりです。自分一人には感情的にはすぐ納得できます。しかし納得の速度が速すぎて他者には伝わりません(上つ瀬)。また自分の意志は自分に対しては現れてきますが、それが他者に現れ伝わるわけではありません(下つ瀬)。

そこで他者への伝達理解を試みたときには意識の上下の領域では速過ぎるし(感情)弱すぎる(意志)ことになります。ここで母音行が下からイエウオアと並ぶ五十音図を見てください。上下(ア・イ)の領域を活用しては充分な創造選択ができませんでした。そこで中の領域に移動し、そこにエウオ(欲望、経験知識、実践智恵)の中つ瀬を見出します。

この中つ瀬のエウオの領域に創造意志のイが加わり働きが開始されると、あるものをあったものとして選択する世界が出現してきますが、それは所詮その人の経験知の選択となります。その人にはっきり分かっていることは上つ瀬のアの領域ですが、経験知からするだけのアの領域はその人にとってだけのもので、伝える他者へは速過ぎて過ぎ去るものでした。

ここに誰でもが持つ自己撞着があります。ア段を使用すると速過ぎて伝わらず、エウオ段を使用すると具体的経験的選択取捨が用意されますが、その人の個別の経験知の上に載ったもので、他の経験知とは相容れ無かったり補強したり衝突をするだろうというものとなります。

このあったものをあるとする個別的な経験知から起きてくるものは、自分だけにははっきりしているア段を浮かびあがらせるには有用です。つまり個別個性的な経験知の範囲を超えて、一挙にことの真相へ向かうには役立ち、無用なやり取りを解消できます。

しかしそのためには、個別的な自分の創造活動としての現象を全て削ぎ取ることになります。削ぎ取る以前の姿こそ自分の得た経験知の世界であるにも係わらずです。

この自分にはっきりして真相を見て取るア段の実在は、現象として現れた個別的な経験知の世界を削ぐこと(禊ぎ)で現れます。つまり五十音図からア段(十個)を除いたイエウオ段(四十個)の現象を削ぎ取ることで現れてきます。

また四十個の現象の存在に対応した働きの世界が同様に四十個ありますから、これらを上下に足すと八十となり、この八十の存在・働きを(八十)禍とみます。

人はあるものを造り過去として捕らわれ、それをあったものとして、そこからどうするかの形と働きをあらわしますが、それの示し現せるものが八十となるということです。人はこの四十の現象を造り四十の働きをもって自分の領域を形成していきますが、それを了解している実相はア段にしかありせん。人の意図考えの働きは無限にありますが、物質の原子のように元をただせば五十音図の中にしかありません。五十音図以外の言葉を発明発見してもらっても、何も通じません。

こうして、自分を出すことは自分の実相を隠すことになり、自分の実相を現すことは自分の個別性を消すという矛盾を負うことになります。それをフトマニ言霊学では八十禍津日(やそまがつひ)の神として現しています。四十四十の禍はア段によって明らかになりますが、ア段の十の禍も四十の実体と働きによって明らかになり、お互いに両者の明らかなところを往きつ渡りつしていかねばなりません。

ですので、言霊エの世界の選択というものは、二つの方面を秘めています。自明なア段、個別現象のウオエ段での表明選択です。

心の動きを示す言霊シに配当された神名は、意富斗能地(おほとのぢ)で、大いなる量りの働きの地です。チイキミを受けてその後どうしようかとなり、自分には明らかなア段を持つと同時に、その実体表明にはウオエの世界が示されなければならず、両者を内包する大いなる量りの働きの自分の心が秘められているということです。

そして秘められたものはその展開相手に述べられねばなりません。次の言霊リ大斗乃弁(おほとのべ)の神に渡すことになります。

自分の中にある一般基準と個別を基準にして「もの」をあらしめようとする動き、今-未来に静める動きの結果を目指します。

六 言霊リ。 どうしようか何しようかという選択された姿を受け取る時に、自分の基準に満たした「もの」が発展伸長させられた結果があらわれます。今-未来に拡げられる動きがモノの形を取ります。

七 言霊ヒ。こうして、あるものをあったものとして置き、それをどうするかで選択し、今度はそれらの行動の結果が出て来る番です。チイキミシリと来てヒニへ渡る番です。

あるものがあり(チイ)、あったものを今にあるものし(キミ)、あるものをどうしようかと選択して(シリ)、その結果が結ばれます(ヒニ)。一般性と個別性を二律背反のように秘めているものを背負っていますから、そのけっかにあらわれます。結果はモノの形で意識に面足る(於母陀流、おもだる、の神)として、納得了解しますが、常に二律背反のように一般性と個別性を抱えていますので、怪しい思いを持ったままです(アヤカシコネ)。モノを自己所有しながら、いつもどこかしら不安や不安性さが潜んでいることを感じることなどはその現れでしょう。

こうして、「モノ」を心の表面に完成し所有し、過去今未来を全体を開く自分の意識をモノとして所有します。

八 言霊ニ。 所有したものが納得されますとそれが心に鎮まりますので、「モノ」が心の内面に煮詰まる動きによって、過去今未来の全体を煮詰められ心の実体を得ることとなります。

こうして、チイキミシリヒニと渡り終え、先天の心に煮詰まった実体を得ます。

この実体が用意されることで、心が始まります。