②-1 淡路の穂の狭別の島・未剖判

成りませる神の名(みな)は、

天の御中主(あめのみなかぬし)の神

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高天原(たかあまのはら)に鳴る(成る)。

高天原という頭脳中枢に言葉が鳴り響くことを指したものですが、現象をまだ扱っていませんから言葉の音が聞こえるのではありません。韻の鳴る響きが用意されるというだけです。

音(おと)の韻を踏んでこそそこでの同調が起こり音が発生する始めの出来事です。

成るはまた多くの名が流布されているなかで、同調された韻を持つものだけが鳴り響き、言葉の名となって、了解を得るものです。先天の韻が鳴り響かなければ了解できる音にはなりません。

天の御中主の神。

その始めであると同時に、始めを形成するのが、天の御中主です。始めの先天の韻の響きから出てきました。事の起きる始めの響きです。わたしの意識(吾の眼、あめ)の実相・霊(御)の中身の主です。注意が喚起され注意を集中しようと「んっ」と緊張するそのまた端緒の言霊です。単にわたしの中身ということではなく、中身の中身としてその韻と同調でき立ち上がり沸き上がってきた響きです。

言霊ウです。

産まれ出るものの予兆を感じてうずくまり、そこにうごめき浮き上がってくる意識が熟れてくると生まれる、わたしの実の中身となり、わたしにその主と成るように強制する韻を持つ響きの主です。

それは同時に客観的などっかにいる造物主のことではなく、韻の響きを受け取りその主人公となる人間各自、わたしのことです。吾の眼の実・霊の中身を所有している主です。

意識に何かが始まる時、また始まりを得た時、あるいは何かをもって始まる時、始まりに結び付く時、そして始まりの決意を得た時の音韻が言霊ウです。

始めの韻の響はそれを受け取る側と、受け渡す側が同じです。それ自身が韻の発動者であり受動者です。ウには陰陽がなく主客同一ですが、ここで剖判することが意識の始めとなります。

淡路の穂の狭別の島

ウは動かなければ主客の剖判は現われませんが、剖判した行き先が元々秘められています。これを示したのが天の御中主の神の宝座である淡路の穂の狭別の島という言い方です。淡路・アワ路・は主客となる五十音図のア行とワ行のことで、その両者を行き交う道の途上にある意識の行き先がほんの切っ先の違いで分かれ出てくる意識の領域ということです。

切っ先の出だしがアであるかワであるか、で変化する意識の現れの伏線、予兆がここに張られています。