と チイキミシリヒニ の秘密。
チイキミシリヒニ の秘密。
はじめに。
古事記の上巻三貴子までの百神が心の原論ですから、心に関することすなわち人間にかんすることは全てここに原理を求めることができます。
人間以外の神については、動物、物質界についてはどうするのだという考えもあることでしょう。人間が考えることなら古事記の上巻から原理をたどっていけます。
しかし良くみれば、豚が考えた神については聞いたことは無いし、同様に神が考えた神についても聞いたことも見たこともなく、金塊が考えた金色の神など見たことはありません。そこに誰かが、何物かが介在してしか示せず、豚はこう言った、神はこう言った、百円金貨はこう言ったとかいうのを見聞きするだけです。ですのでそれを言い出した本人以外に神の考えを直接聞くもの見るものはいません。
そこで世界中の神々を集めてみると、人間が感じ考えた、感じさせられた考えさせられた、人間が表明した神々しかいません。神は人間を介さず自分一人で記念のサインを残していったものがありません。残念ながらどのような宗教者も教祖も、彼らのそんな神をしか提示できず、神そのものを指すことができません。
古事記は聡明にも、最初から「みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。」と言っています。神はいたっていなくたって「ひとりがみ」でそれ自体だけで存在していて、「身を隠し」ていて、五感で得られるような現れる現象ではなく、心の先天構造の中だけの実在である、といっています。
最近は神を感じるとかコンタクトがあるとか、霊感を得るとか、啓示神示があるとかいうのが流行っていますが、真面目な狸や狐もいるようです。
どんな形をとろうと、後天現象となってくれば、人間のしたことで神さんとはいえません。なにしろもともと神さんという名前を付けたのは人間側です。
分からないものを感じ、その感じに囚われ、囚われた分からないものを感じて名前を付け、付けた名前に縛られ、拝むという一連の行為をしているのは、人間側です。そしてこの拝むものがあるというところから、逆立ちをして色々と拝むものへの行為をし出すという逆転がはじまりました。
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1) チイキミシリヒニの秘密。
今までの私の理解。
私たちは見たり聞いたり感じたり、疑問に思い考えたりした所に自意識の始まりをみています。
解説された言霊学にもウオアエの次元世界が出てきて各次元の話から始まります。ウ次元から始まって、剖判してア・ワの次元になって、オエ・・・とつづきます。それぞれに神名が配当されていますから、巻物を拡げるような読み方になり、始めはウ次元、次いでア次元、次いで・・・というように一つ一つ、延長されていくように見えます。
こうして始まりに、ウオアエの四つの次元世界があり、つまり四つのどれかをもって自分の意識が立ち上がったと見ています。
しかし、そうすると、ウアオエの出所が不問にされ、四つの内のどれかを選択しているだけになります。さらに解説には、それぞれの次元にそれぞれの五十音図を掲げていますから、それらを受け取ってウ次元ではこう、オ次元ではこうと覚えるようになります。
各次元の配列は、
「ウ」次元での父韻の配列。
○・キシチニヒミイリ・○
あ・カサタナハマヤラ・わ
「オ」次元での父韻の配列。
○・キチミヒシミイリ・○
あ・かたまはさなやら・わ
「ア」次元での父韻の配列。
イ・チキリヒシニイミ・○
あ・たからはさなやま・わ
「エ」次元での父韻の配列。
イ・チキミヒリニイシ・ヰ
あ・たかまはらなやさ・わ
です。ここから各種の五十音図がでてきます。各次元の父韻の配列は異なり、その御蔭で各次元相を形成していきますが、ところが古事記冒頭の八父韻の配列は、それらとはまた別のものです。
イ・チイキミシリヒニ・ヰ
となっており、どの次元とも違います。
四つの次元の五十音図をそのまま受け取るのはいいのですが、それではいつからどのようにあるのかということを意識主体内で確立できません。(文献考証の話ではありませんので念のため。)
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2) チイキミシリヒニの秘密。
古事記は最初からづーっと「八(や」を追った物語になっています。始まりはもちろん父韻と呼ばれる八神で、八尋殿(やひろどの)を見立てた後は「ヤ」と名前の付くものがとっかえひっかえ繰り返しでてきます。
徹底して、能動主体側の「や(父韻)」が追求されています。どの次元どの場面においても適応できるように、能動主体側の行動の仕方を手を取り足を取り教えてくれています。
そこで出来た国は「ヤ」マトで、出て来たスメラミコトは神「ヤ」マトイハレビコの命です。ヤマトは八間戸のことです。
と、書くだけは書きますが、「徹底して」と言えるだけ理解できているわけではなく、「秘密」といったところでそんな程度のものです。
しかし、自分のこころを見るだけのことで、役立たない高価な文献を買うこともなく、わざと難しいことをいう人や信じ込めという人に無駄な授業費を払う事も、組織教団に入って地位が上がれば分かる事でもありません。
フトマニ言霊学が分かる人は、潜在的にはスメラミコトを頂点としたわれわれ誰でもですが、現実にはまだ姿を現していません。基盤を提供した島田正路氏は他界されました。皆さんはこんないい加減な私のブログを読むことなく、
言霊百神
http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/
の戸を叩くべきです。
前回ウオアエから始まる心持ちをもってしまうが、そこから始めてしまうと原理のチイキミシリヒニとは似てこないことを示しました。
欲望のウだ、知識のオだ、と言いますが、それらは、それ自体が始まりなのではなく、実は感じ考えたりしているのは現象となった自分の在り方で、心の奥底の自分が感覚なり疑問なりとなったものです。
例えば「わたし」といいますが、言い出したときにはそれは、ウオアエ次元のどれかの「わたし」となっています。ですのでその次元層にふさわしい父韻の配列を取ります。
ということは各次元にふさわしい配列をとれるだけの大本があることになり、そこからウオアエの各次元の配列が出てくることに成ります。
その大本が、ウオアエのどれにも属さないチイキミシリヒニで、意思創造のイの次元ですが、意思は形ではないのでウオアエに乗って自分を示します。つまり、ウオアエの「わたし」の大本となり四つの配列であらわれます。
この四つの配列のア段の始めをみてもらうと、「た」または「か」です。人間精神はこの「た」と「か」の先「天」の五十音図という「原」を使用して、こころをあらわします。(高天原)
ウオアエ次元のどれかが選ばれて、自分の奥底の心と結びついたのです。
ここにウオアエの意識を立ち上げる最初の原理構造のチイキミシリヒニがあります。
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これは人の性能として誰でも普通にあるものです。この八つの間の発見が人類の歴史の始まりとなっているので、大昔の交通の便が無い時代でも、スサノオ集団が世界に拡散し、それなりの世界的な交流によってヤマトと世界に共通項が見つかるのです。主体的な人類の歴史の始めです。
ウオアエが立ち上がるにはそこに、ウアオエが見つかり有ることですが、これを創造したのがチイキミシリヒニで、その成り立ちの特長である「・・・ヒニ」で終わるということは、「ヒ」で現される言葉が、「ニ」で煮詰まり、その循環を終了することです。
つまりここで煮詰まっているのが、ウオアエの各次元です。
チイキミシリヒニで一循環が終えます。つまり言葉を与えられて煮詰まったところで、次の循環を待つわけです。煮ができた後はどうしますか。
「ニ」がどうなっているのか気になるでしょう。
古事記でも同じです。古事記の場合はこういいます。
【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、】(ここに「ニ」に問いたまひしく、「ニ」の中身はどうなっているの)
どうです。全く同じでしょう。
14~21。(ニ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。にいたる過程で述べてきた直ぐ後の文章で、一般には「まぐあい」の段落といわれています。(まぐあい・間の食い合い)
ここでウの次元で煮詰まっていればウ次元が、オ次元で煮詰まっていればオ次元がでてきます。
14~21・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法では自我の成立で書いてきました。
今回はウオアエとまとめてありますが同じです。
自我でもウオアエでも、カレーライスでも、今とはでも、全て同じ構造です。
つまりわたしが自分ということを現すのに、自分を直接立てるか、ウオアエのいずれかを立てるかで、その立ったことを現すのが「ヒニ」で言葉を与えられて煮詰まったもの、「名前」です。
「名前」は、なまえで「ナの前」で、言霊神の順列で「ナ」に至る前、ラサロレノネカマ・ナ・コの「マ」で現された「ナ」ということです。ここでいう「マ」とはチイキミシリヒニの間のことで、八つの間の戸(ヤマト)を一つづつ通ってできた「ナ」です。
こうして自我を立てることとは、名前を付けることになります。
ですので巷でいわれる、言葉に宿ると信じられた神秘的な力で、良い言葉を発する良いことが起こり、不吉な言葉を発すると悪いことが起こるとされているようなものではありません。
神秘的か霊的か良いとか悪いとかそんなものはなく、「こころとことばのそれぞれの究極の要素を事柄の真実の姿に則して組み合わせて付けた名前です。」
良いとか悪いとかは勝手に変化させることができる言葉で、それらは感じて信じている間だけは言霊であるようなもので、「名前はナの前のマで現されたナの煮詰まった」構造を持ったヤマトの日本語とは違います。
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3) チイキミシリヒニの秘密。
チイキミシリヒニ(父韻)の運用の形に二つの待ったく違った図形が提示されています。
一つは平面五十音図型で
他方は立体五重の塔型です。あるいは、
○にチョンという表徴を用いる方もいるかもしれません。天照すの八咫鏡(やたのかがみ)型。
どちらも「主体と客体を結び合わせて、現象を生んでいく」父韻の運用を物象化したものです。
昔から多くの言霊学がありますが、神と結びついたり霊と結びついたり閃き思い付きと結びついたりで、あることない事を難しい漢字、言い回しを並べて、分からない事は分からないが、信じられない事がこれによって信じられるのであるぞよ、といった調子でした。
みんな言霊の研究が最重要な事を感じてはいても、人間の普通にある性能と結びついた古事記に沿った解説はありませんでした。
正解は灯台元暗しで、簡単過ぎ優しい説明だと知識の出番が無いため価値が見えなくなります。
父韻は主体側の現象を生む行為実践に関することで、行為を言葉で語るので千年経っても誰も理解できません。そこで行為を言葉で語るのでなく、言葉を行為で語るように言葉の行為が行為を語るように一致していけばいいわけです。
そこで手本となっている古事記を見ます。
前回にテーマにした文章です。
【 「チ」ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと) 「イ」以ちて、「キ」伊耶那岐の命 「ミ」伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、 「シ」「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め「リ」成せ」と、 「ヒ」天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、「ニ」言依さしたまひき。】
この部分は一語一語「14 ~21。チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。」で解説してきました。最後の「ニ」は、「依(よ、世、四)さしたまひき」でウアオエの四つの世界であることを示しました。
次いでこうなっています。「言依さし」は、「事世・事四・ことよ」で、「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと) 「イ」以ちて、」のあらわれで、チイキミシリヒニの一巡が終わりウオアエの「事四」ができました。それは「「キ」伊耶那岐の命 「ミ」伊耶那美の命の二柱の神」を内容としています。
「事四(言依) 」というのはギミの二柱の神のことでした。
ここで第二巡目が始まります。
((要注意。「これは何々」というときは、各循環のその循環内でのこれは何々で、そのものが次の循環になると、別の言い方になります。昆虫の成長変態や、人の子供少年青年成人中年老人のような一生という大循環の中に各循環が循環してる関係です。表現される言葉使いは変化しますが、一貫したものがあります。))
【 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのごろ)なり。】
この文章の詳細はこうなります。前段との対比も組み込んでみます。
(イ--意思の発動) (0) 前段の全体がきます。
チ--かれ二柱の神、 (1) ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--天の浮橋(うきはし)に立たして、 (2) 以ちて、(や行のイ)
キ--その沼矛(ぬぼこ)を (3) 伊耶那岐の命
ミ--指し下(おろ)して画きたまひ、 (4)伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ--塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、 (5) 「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--引き上げたまひし時に (6) 成せ」と、
ヒ--その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、(7) 天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--これ淤能碁呂(おのごろ)島なり。 (8) 言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還) (0)今回の全体が来て、次段の0となる。
数字を書き込んでありますが、これが「ひふみよいむなや・こと・たり(1~8の事(言)をもって足り」の実体です。
こうして淤能碁呂(おのごろ)島・おのれのこころの島・ができます。
今度は「ニ」の「これ淤能碁呂(おのごろ)島なり」が煮詰まりました。「ニ」の中身はどうなっているの、と続きます。
おのれという締まり領域(島)ができたということは、他の領域を了解しているということです。そこで出てくるのが「君の身体はどうなっているのか」でした。
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04)チイキミシリヒニの秘密。
一巡目に続いて二巡目も父韻の配列は、チイキミシリヒニです。
心は四つの現れと言うなら、四つの父韻の配列があるのにどうして、ウの次元の配列もオの次元の配列もその他も出てこないのでしょうか。
それはここまでの心の動きでは、心からの能動的な主体的な動きではないからです。別の言葉をもって言えば自覚がないからです。
淤能碁呂(おのごろ)島というのは、おのれのこころの島ということですが、自覚がないから成立した島・領域なのです。
そんな目茶苦茶なことはあるかと思うことでしょう。しかしよく元を辿ってみてください。赤子幼児餓鬼であったころ、どこに自覚がありましたか。自分の性格も考えも知識も動物生物的な習得で、アメリカに住み移れば自然と米語を話し、何々家に生まれれば星の王子様になりメトロの一区間が幾らするのかも知らないとかいうことは見聞きしていると思います。
赤ちゃんや子供の話でなくても、私たちが自覚なく覚えることは全てチイキミシリヒニで表現を与えられ煮詰まった「ヒニ」から始まります。古事記の、言霊学の知識も最初は書かれ聞かされたことを覚えてしまい、知らず知らず自分の考えとしてしまい、自分が表現するときには自分のものとして擁護したくなってしまうものです。
科学知識の習得も、古事記の、言霊学の知識も最初は実験したことも見たことも自証したこともないけれど、概念知識はいくらでも入ってきます。その大本がチイキミシリヒニの無自覚に依る習得の御蔭です。
もしこの段階が無いと、自覚したと称するものしか頭脳には入ってきません。ちょっと見ただけでも自覚したそんなものは各人の手持ちとしては極小部分でしかありません。人はどれだけ自覚して自分を築いてきたか、恥ずかしくて言えません。それでも自分の利益のためには主張していくんですね。主張するときには、自分の頭脳に有るものは全部自分のものというつもりです。
どこでいつ仕入れた分からない過去知識も、自分の主張の為なら何でも今の自分の基礎としてしまいます。さらにあることないことが加わり、それらをひねり回したことが加わります。感じたとか、気づいたとか、閃いたとかも加わります。
過去知識概念は無限ですから、自覚の拠って立つ時点も無限に支えられ、あたかも自分の主張は堂々と過去全体を背負っているように感じてしまいます。このように無自覚であったからこそ今の自分になれたのです。
こういった物凄い性能を人間はもっています。オノゴロ島は無自覚に築いた島(こころの締まり)ですが、古事記は常にこのように先天に出来上がったもの提起し、そこから始めています。
ではその先天原理のチイキミシリヒニがどうなるのかというのが神話を借りて語られていきます。実はここではそのための、チイキミシリヒニの配列が昆虫の変態よろしく、ウオアエの配列になる転換が起きています。
さて、話を戻して原文に行きましょう。
ニ巡目 一巡目
チ-- かれ二柱の神、 (1) ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ-- 天の浮橋(うきはし)に立たして、 (2) 以ちて、(や行のイ)
キ-- その沼矛(ぬぼこ)を (3) 伊耶那岐の命
ミ-- 指し下(おろ)して画きたまひ、 (4)伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、
シ-- 塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、 (5) 「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ-- 引き上げたまひし時に (6) 成せ」と、
ヒ-- その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる (7) 天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
塩の累積(つも)りて成れる島は、
ニ-- これ淤能碁呂(おのごろ)島なり。 (8) 言依さしたまひき。
一巡目は先天の活動が始まるところでしたが、一巡目の終わりには言葉を与えられその実体となった四つの次元世界を持ったものができました。
ここから二巡目が始まります。「ヒフミヨイムナヤ・9(こ)を0(と)する循環をモチいて」という歌があり、上記のことを指します。
チ-- かれ二柱の神、 というのは一巡目の全体内容を持ったもので、先天の四つの次元世界を内包しています。そこでその実体を探ろうとするところです。
イ-- 天の浮橋(うきはし)に立たして、というのは、自分の実体を探ろうという意思の持続が確認されます。意思は自分側の働きと、働きかける相手対象とを見ますから、ここに両者を繋ぐもの(橋)がでてきます。出てくるのは人の先天の性能である八父韻の働きです。
キ-- その沼矛(ぬぼこ)を、というのは、沼矛は舌、言葉の表徴で、一巡目で与えられた言葉に依る判断で自分の中に有るものを自分に引き寄せようとします。
ミ-- 指し下(おろ)して画きたまひ、というのは、沼矛で集められたものの方に自分から進んでくっつき結ばれていきます。
シ-- 塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、というのは、塩は、しほ・四穂・四霊で、自分の廻りに集め結ばれて言った各次元世界です。集められ、欲しい欲しくない、いる要らない、とどめるとどめない等の取捨選択がおきます。
リ-- 引き上げたまひし時に 、というのは、ここで自分を固めるために確定していきます。
ヒ-- その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、というのは、「しほ(塩)」という四つの次元世界の実体が蓄積して行って、自分なりの締まり(島)を形作るということです。
ニ-- これ淤能碁呂(おのごろ)島なり。というのは、そこであらわれ名付けられたのが「これ淤能碁呂(おのごろ)島なり。」、おのれのこころのしまり、ということです。
古事記では 【 その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】となって、ここに自我の成立が宣言されます。
天の御柱は伊勢の最深奥の秘儀を成していて、実は、人々各人の心の事で、意思と心の四つの次元世界をいいます。、一度ここにこころが立ちますとその廻りに事を一つ一つ尋ねながら形成されていく拡がりができます。(やひろどの)
そしてこのあと、自我が成立することは他者を意識することですから、「きみの身体はどうなっているの」とつづきます。
次は言霊学で説明されている、父韻が主客を結ぶこと、淡路とか橋とかを渡すこと、母音行アから半母音行ワに行くことについて調べてみたいと思います。
「君の身体はどうなっているの」とアがワに尋ね結ばれる、これを「まぐわい」と言っていますが、「間を食い合う」ことで八父韻の動きを指します。
それを示す表徴が前回にあげた、
一つは平面五十音図型で、(鳥居、橋、橋を渡るという表象)
他方は立体五重の塔型です。(柱、柱を立てるという表象)、あるいは、
○にチョンという表徴を用いた天照すの八咫鏡(やたのかがみ)型円盤を用いたいつく・斎く父韻の動きです。
いよいよ次に現象を生むとは何かへ。
主体と客体、アとワ、母音と半母音、を結びつけるに、挑戦です。
男女のまぐわい(間の食い合い)にたとえられた「成り合はざる・成り余れる処」とは何かを探します。
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5)秘密。チイキミシリヒニの
「主体と客体を結び付けて現象を生む」父韻といわれ、五十音図が添えられています。
父韻は「チイキミシリヒニ」であらわされていますが、子音のちいきみしりひにのことではなく、子音頭のローマ字にすれば「TYKMSRHN+i」のことです。
また、父韻と書くもので父親のイメージや韻から考えた音韻、カミナリ親父の音韻と思いがちです。また添えられた五十音図を見つめていると、右の母音列から左の半母音列へ行くと視覚的に理解してしまい易い。
前回書いた通り、平面相対観型や立体絶対観型、そして、天照すの円盤鏡型等もあるので、特定のイメージから父韻とはこんなものだとすると、原理的な適応ができなくなります。イメージを得るのは結構なことですが囚われては困ります。
ことに父韻の古事記の言葉での説明では、「成り合はぬところ一処(ひとところ)、成り余れるところ一処あり」というまぐあい(性交)で表徴されています。このイメージは、あまりにも強烈強力なため、それを原理の言葉まで戻して、語る人が出て来られません。我々全員イメージ負けです。
しかし、強烈な感覚欲望次元のウ次元で語られていようと、その元になっている先天の次元(イ-ヰ)があることを忘れてはなりません。
もちろん、忘れてしまうから色々と正負陰陽ののおもしろい事が起きるのですけど。しかしそうした閃きや思い付きに囚われるのはサンタクロースがやってきた時みたいな自分に得になるものを感じますが、アイデア勝負の社会でのことです。
ではわたしは思い付きや自分の考えでなく、古事記の考えができるのでしょうか。全日本人が未だに逃れられない「まぐわい(性交)」のイメージを昇華することができるでしょうか。
問題の箇所は以下のようです。
【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。
【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】
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以下島田正路氏「http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no168/no168.htm」からの引用です。
古事記神話が先天十七言霊全部の出現で人間精神の先天の構造がすべて明らかとなり、言霊学を解説する視点が先天構造から後天構造へ下りて来ました。ここで後天現象の単位である現象子音言霊の誕生の話に移ることとなります。先にお話しましたようにアオウエ四母音とチイキミシリヒニ八父韻の結びで計三十二の子音誕生となる訳でありますが、古事記はここで直ぐに子音創生の話に入らず、創生の失敗談や、創生した子音が占める宇宙の場所(位置)等の話が挿入されます。古事記の神話が言霊学の原理の教科書だという事からすると、何ともまどろこしいように思えますが、実はその創生の失敗談や言霊の位置の話が言霊の立場から見た人類の歴史や、社会に現出して来る人間の種々の考え方、また言霊学原理の理解の上などで大層役立つ事になるのであります。その内容は話が進むにつれて明らかとなって行きます。
吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり
子音創生の話を、古事記は人間の男女間の生殖作用の形という謎で示して行きます。男女の交合とか、言葉の成り立ちとかは人間生命の営みの根元とも言える事柄に属しますので、その内容が共に似ている事を利用して、子音創生を男女交合の謎で上手に指し示そうとする訳です。
伊耶那岐の命が伊耶那美の命に「汝が身はいかに成れる」と問うたのに対し、美の命が「吾が身は成り成りて、成り合わぬところ一処あり」と答えました。「成る」は「鳴る」と謎を解くと言霊学の意味が解ります。アオウエ四母音はそれを発音してみると、息の続く限り声を出してもアはアーーであり、オはオーーと同じ音が続き、母音・半母音以外の音の如く成り合うことがありません。その事を生殖作用に於ける女陰の形「成り合はぬ」に譬えたのであります。
我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。
「我が身」とは伊耶那岐の命の身体という事で言霊イを意味するように思われますが、実際にはその言霊イの働きである父韻チイキミシリヒニのことを指すのであります。この八つの父韻を発音しますと、チの言葉の余韻としてイの音が残ります。即ちチーイイイと続きます。これが鳴り余れる音という訳です。この事を人間の男根が身体から成り余っていることに譬えたのであります。
この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土生み成さむ。
この一節も男女の交合(身体の結合)に譬えて言葉の発声について述べたものです。父韻を母音の中に刺し塞ぐようにして声を出しますと、父韻キと母音アの結合でキア=カとなり、父韻シと母音エでシエ=セとなります。このようにして子音の三十二言霊が生れます。
「国土生み成さむ」の国土とは「組んで似せる」または「区切って似せる」の意です。組んで似せるとは父韻と母音とを組み合わせて一つの子音言霊を生むことを言います。その子音、例えばカの一音を生むことによってカという内容の実相に近づける事です。区切って似せると言えば、カという音で表わされるべきものを他の音で表わされるべきものから区切って実相を表わす、の意となります。
人間智性の根本リズムである言霊父韻と、精神宇宙の実在である母音言霊との結合で生れた、現象の実相を表わす単位である子音言霊を組み合わせて作られた日本語は、その言葉そのものが物事のまぎれもない真実の姿を表わす事となるという、世界で唯一つの言葉なのであるという事を、その言語を今も尚話すことによって生活を営んでいる現代の日本人が一日も早く自覚して頂き度いと希望するものであります。
---引用ここまで。------------------
父韻の解説、言葉の発生でこれ以上のすばらしい解説はできないでしょう。
古事記は心の原理を語っているのですから、この部分だけ肉体次元の言葉で通してしまうという今までの学者、神主のやりかたもどうかと思います。なんて大きなことを言っていますが、わたしの言うことが正しいとかではなく、安万侶さんがニヤリと笑いかけてくれるかどうかです。
・「ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、」--主体が客体に問う。
・「「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、」--客体の身体(実体)はどうなっているか。
・「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。」--実体としては常にあるが、実体を動かし実体たらすものが無い。
・「ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。」--わたしは成ろうと有らそうとする働き、機能だけは常にあるが、相手となる実体が無い。(あぶれている)
・「故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、」--では、働きと実体を結んでみて、
・「国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、」--現象結果を生んでみたいと思うが。
・「伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。」--いいでしょうやってみてください。
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言霊学の用語に変えなくてもこのまま簡単に通じてしまいます。同意を求めてオッケーされました。しかし同意に至る心の動きをみなければなりません。まずこの文章は言霊学で言う何次元の言葉ですか。欲望次元ですか、欲望次元なら国生みなんか出てこないでしょう。相手の身体の特長を知識として知りたいのですか、自分と比較したいのですか。
神話だから伝承だからで済ませたければそうしましょう、それ以上の余計なことをすると角が立ちます。こんなところで自分の考え感じ思い付きを述べたところで無駄骨です。自分の頭で考えましょうなんていわれたら収拾の付かない混乱が起きます。安万侶さんに述べてもらうほかしかたありません。
上記は 【 その島(能碁呂島)に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】の後に述べられた言葉です。おのれのこころが立ちました。
柱の比喩は五十音図型の平面相対観ではなく、五重の塔型の立体絶対観型です。主客が平面型のように左右にありません。心柱の中に主客が収まっていて各次元層をつくりその廻りを八父韻が囲みます。
ここでは母音から半母音へ渡るイメージ、主客を結ぶイメージが非常にしづらい。
そこでは、ア行の母音側を柱の中にあるとして、そこではどうしたらいいのか分かりませんので、平面で考えているア・ワのイメージ以前に戻ります。アは主体能動側でワは客体受動側です。そこで陰陽裏表を持ち出し該当させても後が続きません。うまく了解できません。
そこで物象となるイメージを必要としない、能動と受動、見る側とみられる側、する側とされる側のように働き側と働きを受ける側にします。これは前段のギミの命の性質を受けています。
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6-1) チイキミシリヒニの秘密。
今度はこういうことになるでしょう。
前提。
6-1)秘密。チイキミシリヒニの
前提。
古事記の上巻は冒頭の十七神の原理の繰り返しで成っています。
次元場所時間が違うと言葉が変わり、神名が変化しますがいつも同じ原理の適応となっています。それを言霊循環と名付けました。その原理とは冒頭の姿そのままです。
【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし言霊ウ・)の神。次に高御産巣日(たかみむすび・言霊ア)の神。次に神産巣日(かみむすび・言霊ワ)の神。】
天地(・あめつち・吾の眼が付いて地に成る、私の意識の眼が働いて相手対象の内になるということ)から始まって、何かの兆しが動き出し剖判します。
象徴的に書けば、ウ<ア・ワで、ウのア・ワへの剖判です。これが部分を貫き全体十七神の構成を貫き、次元の違いを貫きます。
全体も、吾の眼(天)<父韻・母音(地)の剖判で構成され、アの能動主体側内がオ・エの客体実在母音世界とチキシヒの父韻世界、ワの受動客体側内がヲ・ヱの実在半母音世界とイミリニの父韻世界に剖判しています。
そこで、剖判という言葉を各人が分かりやすく了解しやすい言葉に変換して納得していけば完成です。物理物質関係から見たければ作用反作用、表裏、遠心力求心力、抽象がお気に入りなら正反、陰陽、潜在顕在、生物的に見たければオスメス、男女、人間に関してなら主体客体、能動受動、父母、頓智を好めば、押すは引く入るは出る、精神事象でなら、天地、精神と物質、神と人間、等々それぞれの分野でそれぞれ用語が用意されています。
古事記の場合は心の事象内部でのことで、「神と命」がそれに相当します。母音半母音、父韻といういい方は言霊学で言い換えたものです。どの分野になっても、出てくる場面次元時間が違えばそれぞれ別々の神名になり、対の妹背、男女神等になっています。そこでの始めの原理としての剖判には神名が付いていて、「タ・かみむすび、かみむすび」の二神で、「タ」以外は同姓同名です。
「神・カミ」は、カッと自分に明るく了解された実(ミ)で原理法則としての心の内の存在実体、
「命・ミコト」は、未(み)を現象にする十の心の働きそのものと、その原理法則を表現した言葉又はその体現者です。
現代では長い歴史によって「神」にはあまりにも付加付与されたものが多くなって、お気に入りの選択が勝手気ままな状態と成ってしまい、神も命も混じり、宇宙知識や霊界知識なども混じっています。「神」と「命」が作用反作用陰陽等の剖判に相当する言葉といっても、そう簡単に受け取ることができないと思います。
実は既に千年以上も前からそのように別解があてがわれるようにされていたのですから、いまさら訂正するわけにも行かず、公式な解釈、研究学会で決まったこと、神社神道での常識にもなって、教科書のような解答も用意されています。そこに感情的に異なった解釈の主張される余地はありません。もう既にそのように固定された機構構造体系になっていますから。
そういうところから見ていけば正しいとか正しくないとかは、たいして意味があるものでもないでしょう。固定された既得の知識は大多数が納得できる、多数の正しさがあり、感情的にも支えられて正しい感情になって、常識的に流布していきます。
出来上がった体系にはそれなり吾の眼(私の眼、社会、集団の眼、民族、国家の眼等)の関心事がありますから、それが拡大拡張されていきます。(例えば強制された従軍慰安婦とかスメラミコトは男子でなければならないとか、古事記の上巻は神話だとか。) 自明の理のごとく出発点が確定してしまっています。
その為そういった事実、史実の受け入れ、感情感動の受け入れ、明白明瞭であるとされることを納得する意識の動きが決まった方向しか向いていません。それらに意義を唱え新しい事実と称するものを提示しても、変化を起こすことは難しいものです。
そこでそれぞれの関心事を元の元に戻してその出所を探り直さなければ話は進みません。各人各集団は「元の出所」からそれぞれの関心事を得ているのですから、その「元の出所」以前に立たないと同じ土俵が見えません。
その際には実体側の関心事の出所も、関心も持つに至った精神の働きそのもの側も元に戻さなければなりません。出来上がった関心事から出発していては終点は見えないことでしょう。
(この段落はアの次元「タカラ・・」をエの次元「タカマ・・」にしたものです。)
そこでわたしは「神かみと命みこと」を「実体と働き」と言い換え、現代的に分かる言葉で語るようにしました。つまり神と命の、実体と働きの上昇循環になります。
上巻の構成を振り返ってみると、三貴子までの構成も、冒頭十七神が実体原理で、次いでおのれのこころの島の冒頭で「天津神諸々の命もち」の「働き」で始まり、その働きの動きがまぐわいで述べられます。次いで述べられることは実体現象(子音)の創造です。
実体(子音)を創造し終わると嘔吐をもよおし、直ちに現象(実体)子音の働きが述べられます。次いで整理運用の神たちもそれぞれが働きと実体のペアで紹介されます。
次いで働きの自立性を確立して自他との境を確定した後に、実体の国(黄泉国)とはどういうものかが、働きの眼で検討され、次いでミソギという働きそのものの世界を示します。次いでそれが実体を伴わない中途半端な「禍」であることを自証他証して、自他(働きと実体)の統合された理想的な姿をとります。
こうしてウ<ア・ワの剖判していたミソギ神を全部ひきつれ、つまり全実体が働きによって引き上げられます。
原理はここまでで終了し、次いで、スサノオによって実体世界での活動が始められます。
古代支那国の賢人たちはヤマトで陰陽を学びましたが、陰陽二者の物象的な性質を「気」として教えられただけのようで、ですので陰陽に依る創造の原理は伝授されませんでした。
陰陽論では「一方がなければもう一方も存在し得ない」というように有る無しと物象世界のその相互作用をいうだけで、創造現象を語ることはできません。古代ヤマトのスメラミコト達は世界歴史創造のための方便として、世界からの来朝者にその秘密を隠したのです。
隠したのはいいのですがそのまま埋もれ忘れてしまう事も在るため、神武応神天皇以降様々な方策を講じ、千三百年前にその秘密をまさに伝承させるが為の本文であるべきものを、神話の形を借りた「前文」として古事記を残させたのです。
以上を前提とします。
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これから検討される原文と意訳は次の通りです。
一)・「ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、」--主体が客体に問う。父韻が母音に問う。
二) ・「「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、」--客体の身体(実体)はどうなっているか。母音はどのようにできているのか。
三) ・「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。」--実体としては常にあるが、実体を動かし実体たらすものが無い。母音は発音されれば息の続く限り同じ音が出て行く。
四) ・「ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。」--わたしは成ろうと在らそうとする働き、機能だけは常にあるが、相手となる実体が無い。(あぶれている)「父韻は(チイキミシリヒニの)イという音が余韻となって続く。」(イ音は親音で母音のイでは無くアイウエオの統合された「創造の韻・ひびき)
五) ・「故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、」--では、働きと実体を結んでみて。 父韻頭TYKMSRHNを母音と一緒に発音してみて。
㈥) ・「国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、」--現象結果を生んでみたいと思うが。子音を創造してみよう。
七) ・「伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。」--いいでしょう一緒にやってみましょう。親音の「イ」とならばいいでしょう。
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このあとに「まぐわい」という言葉が出てきます。
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6-2-1) チイキミシリヒニの 秘密。
天津神に「国を修めつくり固め成せ」と言われ、
オノコロ島というおのれの心の締まりを得、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てて自我が確立しました。
自我が立つと相手が気になり、下心がでてきます。下心は疑問となり自分を確かめようとしていきます。ここでは、「国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」を実現したくなりました。
((これは同時に何故言霊ヲが言霊オ以前にあるかという説明にもなります。小笠原孝次氏はこの事を「言霊学に於けるコペルニクス的転換」「両者はどちらが前、後ということのない同時的存在である。」と呼んだのでした。わたしは以下主に母音行で解説します。))
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一)
・「ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、」--主体が客体に問う。父韻が母音に問う。
「問い」とは何でしょうか。
問いというのは「トイ・十の伊耶那岐の命」のことで、能動主体側の知識概念次元で「十のイ」をそれぞれ確定するにはどうするかということです。
ウ次元の欲望を問うことはできますが、勝手に出てくる欲望には「問い」はありません。したいからしたい、欲しいから欲しいです。
ア-ワ次元の感情を問うことはできますが、感動感情のア次元には「問い」はありません。明らかにあるのが分かっているのが自分の感情感動です。
ヲ次元の知識としてあったものを問うことはできますが、在ったそのものの客体実在次元には「問い」はありません。カレーは自らに問うて俺はカレーかなどと問いません。
オの知識の次元以前(ウ-ア-ワ-ヲ)には「問い」は無く、オ以前に在ることは自明なもの達です。
オ次元になって、主体能動側が自我を形成し他者を意識できることによって「問い」も始めて生じることができます。ヲは他者を意識できるア-ワ次元を経過していますが、ヲの性格は受動客体側で自ら動き自ら問いを発する側にありません。
ヲの客体側がオの能動主体側以前にあるのは、自分の精神以前に身体が、自分の心身以前に両親や先祖が、日本以前に地球が、地球以前に宇宙があったという自然過程の反映です。ですのでヲだけ客体が先に来ているのではなく、原理として客体側がまずあります。
では「アメツチ・吾の眼が付いて地に成る」という吾の眼の主体的活動で始まっているではないかとなりますが、古事記でも、ウ-ア-ワ-ヲ-オ・・・で「ア」の主体的な活動から始めています。ここで言霊循環を思い出してもらいます。イメージは螺旋状の上昇循環で五重の塔を昇ります。各階には八段の階段があります。
ウ-ア-ワ-ヲ-オ・・・は一直線上に併置された各時点、各次元で分割された領域を示したものではありません。五十音図でも母音行は縦行に配置されているように、五重の塔・伊勢の心柱を昇るように上昇螺旋循環をしています。
オ次元の主体活動はアの主体活動を成し遂げた後の言霊循環で、「一巡を得た後の二巡眼」のことを指しています。ですのでア-ワで自他とに主客に剖判している、客体側「ワ」の全体を受けています。「こんにちは」というときは各単音の発音がグルグル五回繰り返され、下から積み重ねられ、各音を内包して行って、「は」にまで到達できたら「こんにちは」になります。
ここでは「こんにちは」と言おうとする主体意思(イ)が基底にあり、意思の働きは形ある物象を取らねば自らを現せませんから、アイウエの実在世界を借りていきます。各層の「ウオアエ」階に行くには、それぞれ八段の階段があります。
主体意思(イ)が基底にあるといっても、発言される言葉やイメージとしてあるのではなく、ウ次元のもやもやを形成するものとしてです。古事記には登場しませんが、 「天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊(あめゆずるひあめのさぎりつきゆずるくにのさぎりのみこと)」始原に置く文献があります。「ゆずる」を揺すり揺すられ揺すり合い揺れだす初動の意思とすれば思い当たるものが出てくるでしょう。
心柱の「イ」が発動して「ウオアエ」を借りて「ヰ」の意思の帰還・帰魂にまで、つまり上層階に導かれたら一循環の完成です。現象を創造したら、子供が作ったら、子音ができたら橋を渡り終えたということです。つたない図示を試みてみますが、参考にしてみてください。
「=」のところは、前段全体を次段の始めとする時、と読みます。
一階昇り始め→階段→一階終了 = 二階→階段→二階終了 = 三階・・・→
「イ」→「ウオアエ」→「ヰ」 = 「イ」→「ウオアエ」」→「ヰ」 =「イ」・・・・・・
下0→12345678→上0 = 下0→12345678→上0 =下0→123・・・→
先天精神→物象→現象精神 = 先天精神→物象→現象精神 = 先天精神・・・→
主体→客体→現象 = 主体→客体→現象 = 主体・・・・→
「ア」→父韻→「ワ」 = 「ア」→父韻→「ワ」 = 「ア」・・・→(同次元内)
「ウ」→次元上昇→「ウ」 =「オ」→次元上昇→「ヲ」 =「エ」→次元上昇→「ヱ」・・
ここで言霊原理の母音行「ウア(ワヲ)オエ(ヱ)イ(ヰ)と五十音図の「アイウエオ」の母音の順位の違いについて。実は母音行の順位は心の在り方を示したもので、心の在り方に応じてその都度変化します。
心の住み家(五重・いえ)
欲望を事とするとき (アイウエオ)、
知識を事とするとき (アイオウエ)、
感情を事とするとき (イエアオウ)、
選択を事とするとき (アイエオウ)
とそれぞれの心の動きが違います。
それら各次元の心のあらわれは、意思から出てきますから上記全体を発動させ統括する母音の並びがあります
意思を事とするとき (アオウエイ)。
これが伊勢の心柱の並びです。
人の行動考えはこの伊勢の御柱からでてこの御柱に還っていきます。
では心を統括する意思を事とする(アオウエイ)はどこから出てくるのでしょうか。古事記冒頭の言霊原理からです。
言霊原理はそれらとはまた違って、ウアオエイです。
神名を借りて言霊、「ウア(ワヲ)オエ(ヱ)イ(ヰ)」になっています。
言霊原理母音行は人が意思において考え行為するその根拠としての母音行を示したものです。
人は意思を持った人間である前に、作用反作用の物質的な存在で、生物動物を経て脳髄に意思が宿り、意思において事を始める人間であることを保障する原理です。
ですので冒頭は存在を意識することのできる原理、人が考えることのできる原理、人が行動できる原理で、それらの発動が、意思、欲望、知識、感情、選択の各次元となって開いていきます。
言霊循環するということを忘れないようにして上記をまとめます。心の五重の塔を昇るように書いてみます。下から読み始めます。
心の住み家(五重・いえ)
0。0。塔頂。意思の帰還。創造現象。
イ。5。自覚。心柱。「アオウエイ」。中心で心を貫く、仏陀、言霊、生命意志。創造意思。今創造。
エ。4。命令。選択。「アイ(エ)オウ」。道徳実践智慧、政治、按配、菩薩、なすべし。今-未来へ。
ア。3。感謝。感情。「イエ(ア)オウ」。芸術、宗教、自我。縁覚。今の総体へ。
オ。2。記憶。知識。「アイ(オ)ウエ」。概念、科学、経験知、声聞、過去の寄せ集め。過去-今へ。
ウ。1。本能。欲望。「アイ(ウ)エオ」。産業経済、五感、衆生。したいやりたい、欲しい。今-今だけへ。
0。0。土台。原理。「ウアオエイ」。精神上部構造を支える。言霊原理。
これは心の棲家であって働きではないので注意してください。働きは形ではないので記載不能です。各階にそれぞれ固有の母音行があります。上記の五重の塔自体は精神の成長進化を示したもので、ウ→オ→ア→エ→イに上昇することを示しています。3の感情次元と同じですが、三階に降りて感情次元をみるときには、アを中心として、アに関心が近いものをアの上下に置き、興味が薄いものが外縁側にきます。
スメラミコトの前提はこのこのアイウエオの順位を使いこなせることで、これを知った上でそれぞれに応じている父韻の運用にたけていることが、今後の世界朝廷のスメラミコトたる最低の条件でしょう。男とか女とかではなく、言霊原理の習得者が先ず第一です。
そこで、父韻は各階で個別に働きかけて現象を生んでいきます。
例えば父韻が「ア」次元に働きかける場合に、3の感情次元と2の知識次元と1の欲望次元では、「ア」のとり方意味合い価値が変わります。
父韻が3感情次元に働きかける時の「ア」。自分が自分の存在している次元にいるので「ア」の自覚から始まる。そのような「ア」になる。
父韻が2知識次元に働きかける時の「ア」。知識過去概念にとって、感情はむしろ排されるもので、知識内容からは遠いところにある。そのような「ア」になる。
父韻が1欲望次元に働きかける時の「ア」。欲望にとっては同じく今あるものでも、五感の欲望を満たすものとはならない。そのような「ア」になる。
父韻が4選択次元に働きかけるときの「ア」。分配選択の実践では各意識の実現は経験知識に沿うことが望まれるので、感情的な価値は考慮され難い。そのような「ア」になる。
父韻の形が「問い」になるときには、このように「問い-答え」は変化していきます。
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6-2-2)秘密。チイキミシリヒニの
6-2-1ではもっぱら問いと実体側についてみてきました。今回は、「問い」という主体側の能動的な働きは自らを問うことができるでしょうか、問いは問いを問えるか、働きは働きに働きかけれるかということです。
なぜこんなあげ足取りみたいな些細なことを問題にするのでしょうか。
例えば6-1、で出したように陰陽論がありますが、陽が陰に、男が女に、作用が反作用に、水が火に、精神が肉体に、天が地に、ことばの霊が音に働きかけるようにいっています。陰陽裏表があることが分かっても、何のどんな裏表かを分からすために五行や五大を持ち出さないと到底現実に対応しきれません。
6-2-1では五大五行の代わりに五母音行で説明をこころみましたが、五つの母音行自体にそれぞれ独自の並びがあってそれによって「陽」の受取受け入れ方が違うことを示しました。一つの言葉でも用いられる次元層によって意味内容価値が変化していきます。しかし、巷で流布されている、いわゆる言霊の霊の力とかいうのとは別です。
良い言葉とか悪い言葉とか言う分類は陰陽論みたいなもので、ほとんど意味の無いもので、良い言葉を発すると良いことが起こるとか、不吉な言葉を発すると凶事になるなどとなっては、自分の心を否定する神頼みに堕したものでしょう。古事記の言霊ではありません。
陰陽論での「陽」の働きは、はじめに与えられた規定が持続していくだけです。ですので最初に規定された「陽」自体に含まれている部分は処理できても、他分野で変容していく部分は解釈者の経験年季霊感思い付きに応じていきます。陰陽五行の関係というより、解釈者の経験思い付きが主です。
そこで相生とか相剋とかの相互作用で関係づけようとしますが、木を見て森を見ない個別現象の拡大解釈を納得することで法則化していきます。ここには現実現象の物事が出てきますが、陰陽五行の実体世界だけの係わりを解釈していきます。陰陽五行論では、木は何々河は何々海は花は牛は馬はと実在の事物がいろいろと分類されますが、どれ一つとして自ら創造したものはありませんし、創造する仕組みを持ちません。
つまりそこには実体の働きに関することは陰陽五行内に存在していないので、解釈者によって勝手にあるいは年季であるいは霊感なるもので補完していきます。それがかえって論理運用の価値ある部分にさえなっています。何故現代までそのようなことしか出来ないのかといえば次の事情によります。
実は、陰陽五行論の構造図は古事記の冒頭と全く同じです。古代支那国の聖人達が大和に来朝した折にスメラミコトが与えたもので、父韻までの形式を彼らの地の言葉に応じて与えたもので、父韻の内容は伝えませんでした。ですので働きに関することは解釈者の勝手ということになってしまいました。
陰陽五行論を見れば現実の事象に関する言葉は全て出てきますが、分類分別があるだけで創造はいっさい無く、こころの働きには言及できません。一方古事記の冒頭の原理は現実の創造過程の内容を示したものですから、現実の働きを語っています。
(でかい口をほざくな、お前の言うことは抽象的で分からん、出直せ。)
(その通りです。救助の浮き袋を必要としています。投げてください。ただし何を助けたのか分かりませんから御礼しようもありません。あしからず。)
・・問うことについて。
ここで前もって言霊ヲが言霊オより先になっていることを、「働き」側からみておきます。
「働き」というからには能動主体側のこととしてしまうと、陰陽による作用も説明できなくなってしまいます。
言霊学での受動側は能動側の相手ですから、鐘を撞いて音を出す能動主体側はおからでできた鐘や段ボールの鐘は撞けません。能動主体に対応できるものが前もってなければ、無いものに対する能動行為は実現しません。叩こうと思ってからその相手を作り始めることなどできません。学校に行こうと思ってから学校を建てるわけにはゆきません。
つまり、働きを思いついたとき相手があること、「受け取る働き」があることが必要です。しかし、鐘は物質客体側で「働き」ではなく「受け取る働き」でもありません。ここにある溝を止揚するのが創造父韻による現象創造になります。先天の鐘を後天の鐘にすることです。(現物の実体の有る無しではありません。)
問題は言霊ヲという客体側のどこに「受け取る働き」があるかです。実は客体側はア-ワのワの系列で受動側「受け取る働き」が既に示されています。ウ-ア-ワ-ヲ-オ・・・。剖判した後の何かなという相手を知ることは、過去経験の中に該当するものを求めようとします。オの知識の働きは記憶概念に結ばれようとします。
結ばれようとする能動主体側の働きが無ければ事は始まりません。これが第一巡目です。何も無いところに意識の芽が生まれます。そこに「あめつち」の吾の眼がついたとたんに剖判が起き、地になります。ここでは能動主体側の「働き」が先です。そこに剖判が生まれて他者が出来て一巡目が終わります。
ついで一巡目の全体の上に全く新しい事が二巡目としてできてきます。二巡目においてもこれは何かなという能動主体側の意識が常に先働きます。しかし二巡目の「知る」という次元では、剖判した相手を今までの過去知識の中にあるものと結ばれることでしか「何かな」という意識は表現できません。それは一巡目の剖判に先天として全てあらわれているものです。これを実体化したのが言霊ヲ、ウマシアシカビヒコヂです。
ですので相手がなければ、イメージも浮かびませんが、経過の中では相手というのは実体客体ではなく、先天客体で、現象客体として出てくるのはその後のことです。
そして今度はこれがエ次元の選択の相手となります。
ここで選択次元のエを出して比較します。選択するのだから先ず客体受動側が用意されていることが必要と思えますが、古事記ではエ-ヱ、主体側-客体側の順で出てきます。エ-ヱでは選択されるものが全然用意されていないことになりますが、常に言霊循環を思い出してください。後段後出は前段前出を全部含むという関係です。
ですのでエ次元の選択は、前段のオ-ヲを、過去の経験知識記憶を全部含んでいて、選択材料は揃っているのです。エ次元が意識されたということは、オ次元が前提となって循環の上にあるということです。ここから次は言霊エ次元では過去知識の選択をするオ次元でのようにではなく、それを「どう扱うかで未来に置く」意識がでてきます。オ次元のように過去と結ばれ整理するのではなく、これからの未来のための運用としてエ次元が働いて、言霊ヱを準備します。
そして準備されたヱをチイキミシリヒニが喰いに行くわけです(マグワイ)。
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6-2-3) チイキミシリヒニの秘密。
・・(6-2-2から続く) 問うこと。
能動主体側の「働き」の現れは「実体」となります。何らかの物象を被り結び付かないと自分を表出できません。そこで働いているときには、能動側の働きと受動側の働きは同時進行です。そこで説明をするときには前後関係ができますが、上昇循環の上に立ったもので、実体客体として固定してこうだというものではありません。
上昇循環は前段を全て含んでいますから剖判した両者の性格も含まれています。オヲを主体と客体、働き側と実体側としてバラバラにしてしまうのではなく、働きかけられる受動側はそれが働きかけられる主体として名乗りを挙げなければ、結ばれることはありません。
客体、実体を語るのは割りとうまくいくものです。有る無しの世界ですから分からなくともどちらかに与すればそれなりに主張していけます。しかし働きを働きとして語る動きを動きとして語るのは至難の業です。簡単に客体に対する主体だといいますが、そこには働きがあるのではなく「主である体」が在るというだけで、何も働きを示しません。
オが主体だということは、オが主体という実体だというだけで、働きを示すには様々な動詞を付与して、これが主体の何々の働きというように、外的な説明を張り付けることになってしまいます。主体は主体の働きをもった実体のことで、オの働きの内容を説明することがオの主体に成るようにしないと、「主体」についてのきりのない和の内説明になってしまい、働きから出てくる主体が見つからなくなります。
そうではなくて、主体には主体特有の働きがあってそれによって主体足らしめる、働きの発現によって始めてその主体となる、というような主体でなければ着せ替え人形の主体になってしまいます。それは原理にある主体ではなく、二巡目以降の後段落に出来てきた主体です。
そのような主体の説明はそれなりに時処位に応じ最新知識に応じるように見えるので、その時点では充分に説明されているようにみえます。つまり、説明される以前に、過去知識概念が集められそれらの整理運用が提起されるだけなのです。既に名前のついた事達が自分を主張していきます。
父韻と母音とによる第三者の創造現象をなしたのではなく、実体を実体に、この主体をあの主体に置き換えたものとなります。(もちろんそれなりの労力に応じたものですが。)
○ 働き動きを語るには、「主語」を何々に成るようにせよと、結果が「主語」に集約されるようにかたらないと、力を持てません。
オが主体ですという語りかけでは、実体に実体を対比併置するだけですから、他の方はそれぞれに関心のある他の名詞をもってきて、私のオは何々です、とお気に入りの展示会になってしまいます。ですのでオに働きがあることを語るのに、オのあの性質この性質とあれこれときりの無い併置とお気に入りの介入を許してしまいます。
これは考えが間違っているということではなく、思慮が足らないということでもありません。フトマニ言霊学ではどのような一語の発現にも百神の循環を通してあらわれると説きます。そのそれぞれの循環にはそれぞれの場所で実体の先天-後天構造が発生してきます。百神を渡り終わる前に、それらの実体次元で止まり留まり休憩をするのは普通のことです。ですのでそこで休憩をしていると、途中経過中であるのにもかかわらず、各時点での先天-後天が、実体として固定してしまい、各人の頭を占領してそこから始めるようになってしまいます。
(カマナコのナを付ける以前に、出来合いを、てんやものを取ってしまうということです。)
一方、結果が主語に集約されるように語れば、少なくとも語っている本人にはそこへ至る道筋しかなく、もし、他者が追体験してくれれば、そこにそれしか共有するものがない両者間の確認事項が出来てきます。
(これが、たかまはらなやさが「さ」で終わるゆえんです。)
こうして「働き」を「実体」で説明し、実体に実体を配置していきますと言葉の綾が出来てきます。それはそれで、考えが豊かになり多彩になり充実感や満足感を得られるように思われますが、いつか幻想であったと気づくことにもなります。
ところで働き、動きを語るときには、主体側能動側と受動側客体側は働きの中では同時進行となりますから、なになにされる主体といういい方もできるのです。男と女も主体同士がむすばれるのです。同様に客体はその働きや運動の中では、客体とされた主体になり、主体にされる客体なったりします。
受動側になになにされる主体側という働きがないと、ことが成就しないという場面は日常普通にあることです。(母音側、実体側、女は強し、です。)
(これは精神活動の逆転現象で、蛭子を生む根拠になり黄泉の国、および後半の物語のテーマとなっていきます。ヲ-オかオ-ヲかを見抜くことが、先天から始まり剖判を了解することに続く古事記を理解する入門ということになり、ここを通過しないと何時までたっても黄泉国から抜けだせないことになります。)
そこで問うことは、主体が客体に問うと言いますが、客体はものとして、精神内対象としてあらわれているもので、ものには口はありません。のれんに腕押しとなります。元々「動きと実体」では次元が違いますのでうまが合いません。
○ よくみると主体が客体に問うは、客体側では客体の受け取れる働きに問うことで、主体側では主体の働きかけることのできる実体を与えることです。それぞれの側で自分を変換しています。問いに限らず働きは物象に乗りますから人の成すこと全てということになります。
例えば概念で考えているときも同じで、「神さんのひげは伸びるか」では、伸びるという働きを実体に転化し、ひげという実体を伸びるという働きを受け取るものに転化しています。この両者のまぐわいが無いと解答もありません。
ここで解答があるということは、働きが働きに、実体が実体に返答したということです。
しかしその解答は「働き」でも「実体」でもなく、両者を止揚した第三者です。
ここで肯定的に答えを受け取る受けとらないかは、最初の問いの次元内に問いの仕方として含まれていますから、その線に沿って受け取ることになります。本当にひげの有る無しを気にしていた人には「パンツをはいた神のごとし」などと答えられたら、「ちゃんと質問に答えて欲しい」と文句をいうかもしれません。
そこで、働きは働きと、実体は実体と話し合わねばなりません。
能動側の働きは八種(四種チキシヒ)、主体側の実体は四つの次元(先天として)、
受動側の受ける働きは八種(四種イミリニ)、客体側の実体も四つの次元(実在として)。
問いという「働き」の相手が実体であることは、実体には四つの次元がありますからそれを問うことになります。問いの言葉は一つでも内容は別になります。(話が通じない元凶。)
そのあらわれは、五十音図のそれぞれ縦の行になっていきます。ですが「問う」という働きを見る場合には、何を問うかどう問うかどうして問うかとかいろいろ表現がある通り、問うという父韻自身を問うことです。父韻の動きは八つでそれに原因を問う結果を問うを加えれば十の問い方があり、問いは「問う=十のウ・十の始めのウ」になります。
「十のウ」の「ウ」は欲望次元のウで、問いたいという欲望のあらわれになり、
知識を得たい時には「十のオ」となり、
選択を問う時には「十のエ」となっていきます。
「三里に灸するより、松島の月先ず心にかかりて」と、こころは先発しますが足が言うことを聞きません。
以上は能動側の働きを、客体側の実体に問うています。これは働きを実体にしようというものです。
しかし、繰り返しますが、働きと実体は違いますから直接話はできません。
能動側の働きは、受動側の受け取る側される側の働きに問わねば成らず、実体には問えません。
そこで「問い」はこういうことになります。
1) 能動側の働きは、受動側の働き(働きかけられる働き)に働きかける。見ると見られる。
2) 主体側の実体は、能動側の働きに乗って、受動側の働きかけられる働きに乗った客体側の実体にあらわれようとする。 (八父韻の変化)見るを見られるに繋ぐ。
3) 能動主体側は自身を相手側に実現しようとする。見ると見られる間を減らし自身が相手と成る。
1') 受動側の働きは、能動側の働きを受け取る働きをする。(働きかけられる働き)
2') 客体側の実体は、受動側の働きかけられる働きに乗ってきた実体を、主体側の実体であらわせようとする。
3') 受動客体側は能動側の働き実体に自分を実現させられるようにする。
これらは書き下すと複雑ですが、この行って帰る同時進行内でのことです。古事記で実体的神で書き表したのが、「奥・辺」で示される六神です。(遠ざかるとかつなぐとかへらすとかの動詞の読みに注意してください。)
そしてこの六神の行き来には過去知識概念の「禍」がこびりついているので洗い直して止揚していこうというのが禊ぎとなります。つまりもし理想的な「問い」が在るとするならば、まだまだその「問い」までは遠いということです。理想的な「問い」も言霊百神の循環を渡り終えたときに成立します。
この六神の問題は、客体側ヲが実在するにも係わらず、「主体側で現せられる」というところです。そうすると結果を事実とするのに、主体側の感情、意思の主観に依る価値で結果を判断してしまいます。せっかく受けた回答を自分の判断で取捨してしまうことが起きます。
(そんなことは当たり前じゃないかと思えることでしょう。自分の価値観が入ってどこが悪いと反論がきます。「問い」という知識次元で行くとこれ以上進めませんのでここまでにしておきます。)
古事記ではこのように述べています。
【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、】
【この吾が身の成り余れる処を】をと言っています。【身の成り余れる処】とは、伊耶那岐の実体部を指します。
ここでは伊耶那岐のミコトがのりたまうのでイザナギの働きの実体となって現れる部分を示しています。イザナギは意思意図霊働き等の精神意識を実現する表象の働きをもっている側です。アンパンを買いに行くという意識はパン屋側ではあんパンを用意しておくということで、買われる側ですから、パン屋にはどこにもあんパンを買いに行くという意識はありません。
一方主体側にあるのは、単に買う意思(働き)ではなく、あんパン(実体)に結びついた買う意思です。買うという成り成りた買う意思がいくらあったところで、アンパンに結ばれなければアンパンは買えないのです。父韻の働きがあるだけでは、なにも現れないということです。主体側の神名がタの一字を除いて客体側と同姓同名であることを思い出してください。
これで一応、(一)の「ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、」--主体が客体に問う、父韻が母音に問う、の解説にしておきます。
ここまできて気付きましたが、問いにも上手な問いと下手な問いがあると同じように、問いの解説も同様です。理想的な問いとは言霊百神を一巡することが意識されている問いで、相手の回答を自分に誘導するものでしょう。まだまだとんでもなく遠いことです。
次回は、二) ・「「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、」--客体の身体(実体)はどうなっているか。母音はどのようにできているのか。
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6-3)秘密。チイキミシリヒニの
二)
・「「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、」--客体の身体(実体)はどうなっているか。母音はどのようにできているのか。
ここでの質問の内容は、相手の実体の内容(土で成っているのかとか音で成っているのか、欲望で成っているか)を問うと同時に、「働き」がどのように成っているのかを問います。問いの外見上は「身」について(四つの次元)ですが、必ず「働き」の下心(八つのチイキミシリヒニ)が入り込んでいます。
しかし、ミの命には能動的な働きが無く、受け取るばかりです。
ギは自分の質問が通用するか、どの次元で叶うのか、どのように叶うのかを知らねばなりません。ただ質問を出せばいいというものではないわけです。能動側も自分に反作用を受けないと自らの立場がないわけです。
(とはいいますが、これはどのような次元の質問にも対応できるスメラミコトのイ次元に立っていないということを示してしまいます。どこからでもかかってこいという次元も存在します。)
主体側と客体側を物理実体世界で捕らえますと、主客は表裏作用反作用陰陽になってしまいますが、人間世界の主体というのは客体とは本質的に違っていて、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて地(ち)に成す「あめつち」という働き、いとなみを持つことです。
これが、「「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、」で、客体の身体(実体)の組成要素はどうなっているかではなく、如何なる「働き」で形成されているのかになります。--そこで確認します。
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三)
「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」--実体としては常にあるが、実体を動かし実体足らすものが無い。母音は発音されれば息の続く限り同じ音が出て行く。
・・ 答えがきます。しかし、実体側の答えは実体内容でしか答えません。石とか鉄骨とか空気でできているという答えです。つまり出来ているものは出来ているもので、出来っ放しでしかない、働き、機能が付いていないので動けないということです。自然過程の作用反作用、初動の持続、蓄積された力の放出しかない。
それを「成り成り、鳴り鳴り」といい、締まりがありません。母音側には自己領域というものがなく、有りっ放しの状態です。これは別の言い方をすれば、母なる大地、大地は全て民のもの、母音は共通のもの、一般化は共有されるということにもなるでしょう。
ただし、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」になっていないということです。
母音客体世界では、在りっ放しといっても、自分が在ることに要した初動は自身のものではありません。母音を「ア」と発音すれば「アーーーー」の「ナリナリて、成り合わない」ことになりますが、初動と持続の源がなければ在り続ける事は出来ません。
客体世界は主体性がなく受け身なのに何故在り続ける事ができるのでしょうか。
人間世界では実体があるということはその一方で働き機能があるということです。物理世界科学的な分析では主体側の働きがあることは極力度外視し影響を受けないようにしていきます。後にスサノオはこの物質世界の研究がしたいと高天原から抜けます。
これが、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。」で、実体としては常にあるが、実体足らすものが無いことです。わたしは有るものとして有りますが、わたしを有らしめるものがありません。
( I Am that I Am 「わたしは、『わたしはある。』という者である 。」出エジプト記)
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四)
「ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。」--わたしは成ろうと在らそうとする働き、機能だけは常にあるが、相手となる実体が無い。(あぶれている) 「父韻はチイキミシリヒニのイという音が余韻となって続く。」(イ音は親音で母音のイでは無くアイウエオの統合された「創造の韻・ひびき)
・・ ここで能動側は素晴らしいものを見つけます。能動側は「働き」で本来実体ではなく石でも鉄骨でもないので、客体側と対話はできません。が、能動が主体となると、「働き」が形と成ってあらわれます。能動側が動くということは何かが形となることです。
ギの命は自分が動き能動側の主体であることを見せたとき、その働きに実体が付いてくることを発見したのです。
○ 「自分には実体が付いてくる !!」
「イザ、凪を揺り起こそう、わたしはイザナギだ。」 (「凪」は国字。)
イザナギとイザナミの名前を見ますと、おとなしい凪(なぎ)に男の方が、波を起こす方に女がきています。どうして凪(なぎ)に男神側をあてたのでしょうか。
名の気と名の実で、凪じゃない波じゃないなんて言わないで、それが循環していって凪、波になる方向を見てみるのもいいではないですか。
高御産巣日(た・かみむすび)の神は主体側をあらわし、 神産巣日(かみむすび)の神は客体側を示します。両神はひらがなでは同姓同名で、「タ」が付くか付かないかです。
この二神で象徴されるごとく、二神は、陰陽、下と上、裏と表、働きと実体、いとなみとなりさま、先天と後天、一巡目と二巡目と言うように一心同体なのです。
タ+カミムスビ
タ+・・+ムスビ
タ+カミ+・・・
タ+カ+ミムスビ
カミ+ムスビ
・・+ムスビ
カミ+・・・
カ+ミムスビ
というように、お互いにお互いを内包し合っているのです。
もしここで、言霊アは主体、言霊ワは客体、高御産巣日(た・かみむすび)の神は主体側をあらわし、 神産巣日(かみむすび)の神は客体側をあらわすと、別けてしまいますと、これら二神の感応同交の意味を失います。
未剖のウからアとワに分かれました。双葉に成り細胞分裂が起きました。しかし、右の若葉が主体になって左の若葉に働きかける、細胞分裂した左は主体になり右は客体になるのではありません。
「タ」は縦横整然とした「田」で五十音図のことで、全体として示された私の意識・霊・「あめつち」の「ア」です。これは人の成長で各年代の呼び方が変わるようにアとかタとかウとかも、時処位で名前が変わるだけで、それを押さえないとある種のまやかし現象表現になります。
そこでギの命はいいます。
「あなたの身体は成る物成る物で成っただけで有り続ける物ですが、わたしの身体は、成ろう成ろうと成ろうとするばかりですが、成ろうとする時そこに何時までもくっつき離れないものができています。成ろうとする働きのいとなみに、成る物が実体として成り様を現したいように突き出してきます。
成ろうとする私の意思に何かの成り様を示したい物が一緒にあるのを感じます。まるでわたしが子を孕んでいるようにです。ギ(男)側が子を孕むという意味になるようにとれますが、生物的に見ても精子と卵子をそれぞれ孕むものを分担しています。
これが、「ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。」で、わたしは有らそうとする働き、機能だけは常にあるが、相手となる実体が無いことです。(あぶれている)
( I Am that I Am 「わたしは、『わたしはある。』という者である」。実体側から見た訳ですが、働き側から見た別訳があります。 「わたしは自分がなるところのものとなる」。
この神の言葉は片や実体から、片や「働き」からだけみられ、一つの表現で二つの方面から見られるものですが、それを統合する仕方を知りません。宗教の特長はあるあるというだけで、その治め方を知らないという特長はここからでてきます。訳は成り合わぬと成り余るそれぞれの方面からのものです。)
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6-4)秘密。チイキミシリヒニの
五) ・「故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、」--では、働きと実体を結んでみて。 父韻頭TYKMSRHNを母音と一緒に発音してみて。
・・ そこで、主体側のギの命は自分の意思に結ばれくっついてきた物を明かそうと思います。
それでどうするかといえば、「働き」の力をもって自分の実体的な何物かを動かし、相手側に向けようとします。
これはギの命側に働きの載った実体があるため、ミの命と同じ土俵に立てるということです。逆に言えば、ミの命は、ミと同じ実体を持たないものは受け付けられないということです。
ここでギミの似た者同士が通い合うことになります。あるいはギの「働き」というミの実体とは似ても似つかないものが、ギ自身に結ばれて出てきたギの実体に乗ることによって、ギミを結ばせ似せ合うことにもなります。
ミと同じ土俵に乗ると、ギの命にはおもしろいことが起きます。ギが上というとミは上、右というと右へという具合にギの八種の父韻にそれぞれ対応した形を提供し出すのです。
父韻は四種の陰陽計八種の違いがあり、実体の表出法表現が八種と成ってあらわれます。
これが、「故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、」で、働きと実体を結んでいくことになります。
「余れる処、合わぬ処」
確認をしておきます。
ギとミの、「余れる処、合わぬ処」とは同じものです。
注意してください。現象としてあらわれたものに探すのではなく、現象を現そうとするものの段階ですから、出来上がったものの比較ではありません。男女の身体から来るイメージを持ち込むのではなく、男女の身体が起こせる、身体によって成せる行為をイメージして下さい。成してしまった行為の実体ではありません。
例を羅列すれば、
父韻(TYKMSRHN+イ)のイと母音側のイ
鐘を撞く棒と鐘の接触面、
頬を叩く側と叩かれる頬の面、
手を結ぶ握手を求める側と差し出される手で作られる握手の形、
鉛筆を持つの行為を起こす側とその相手側の持たれた鉛筆
男性の成そうとする性交の行為と女性の成そうとする性交の行為での結合の形、
キスしようとする側とキスされようとする側のキス、
ここに、「この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、」と言う、現象実体となる前の姿があることでしょう。
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○ ㈥)
・「国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、」--現象結果を生んでみたいと思うが。子音を創造してみよう。
・・ そこで実際に現象を生んでみようとなります。ギに能動があるといっても、ギの能動は成ろう成ろうとするばかりですから、形に現すには相手と合体しなくてはなりません。またギの能動は、持つとか走るとかのあらゆる動詞表現に変化できるので、ギ自身においても何をどうするということは分からず、意思の表明は相手において成されあらわれます。
現在の「漂える国」にいるところから「何を」を意思し、「国土(くに)生みなさむ」を表明しなければなりません。
鐘を撞く棒と鐘の接触面が合致しないと現象は起きず、頬を叩く側と叩かれる頬の面の双方で適当な時処位の合意一致がないと、触ることさえできません。
ですので、ここで叩きたい叩きたいと言う思いは叩く実体とならなければ実現しないものです。そうでないと意思の先走りになります。つま楊枝で鐘や頬は叩けず、戦車の砲塔で叩くこともできません。普段は結果の世界から見てますから、馬鹿な奇怪しい例のあげ方とみえるでしょう。始めから順序通り見ないで結果だけをみる世界に毒されていることもあります。
そこで主体側は自分の中にある主体の要素を客体側に探します。つまり主体側の自分の働きに、相手客体と感応同交できる実体の時処位を探すということになります。
「タ+カミムスビ」という自分の中にある「・・カミムスビ」を働きいとなみを介して、自分と似た者を外に求めることになります。寺の鐘を撞くという過去知識はすでにありますが、選択されて出てくるのは、楊枝で撞く、割り箸で撞く、さじで撞く、スコップ、戦車の砲塔、戦艦大和の巨砲で撞くと無限でてきます。
そこで自分にある相手方の「・・カミムスビ」と一致共感を得るものを、自分の中から確定していかねばなりません。ですから時処位に応じて石ころで叩いたり頭突きを食らわしたりする人もいるでしょう。
前に「国・クニ」とは「組んで似せる」ことですが、ここでも、「タ」において「組んで似せ」たものがでてきます。つまり「国」を生みなしたのです。
前には「 この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」でした。(一巡目)
今回は先天の働きから、自我が成立しています。「天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。」の後で、自我による「国土(くに)生みなさむと」(二巡目)になります。
そこでうまく共感同交が成し遂げられれば現象が生まれます。(三巡目)
これが「ア」が「ワ」になることで、現象を見ると、「タ+カミムスビ」の「タ」がとれて自分にある「カミムスビ」が現象し、「あA」に「W」が新しく付いて「WAわ」の現象になります。
(注。剖判のア-ワは一巡目で、ここでのア-ワは二巡目です。これは経過の切りとり方の位置取りをしているからこういうので、固定したものではありません。)
( おまけ。これがひふみ神示の冒頭の「不似(二二)は晴れたり(富士は晴れたり)二本(ギミ・日本)晴れ」の暗号解です。)
ですのでここで言う「クニウミなさむ」の「クニ」は、ミの実体側だけにある「クニ」ではありません。まだその段階にまでは行っていない、ギの命に結ばれて出てきた漂えるものです。それを「国」にしたいのはギの意思によります。それによって、ギの思いの中にある「国」が、能動の働きと組み合って、ミの実体の「国」に行って一緒になり「組んで(ク)」で「似(ニ)せる」ことになります。
これが、「国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、」で、現象結果を生んでみたい、自分の意図したものに似せて相手を産みたいがどうだろうか、ということです。
簡単に言えば主体側にくっついて出てきた「クニ」に似た「クニ」を客体側に探すことになります。そこでの表出の仕方が八種ですから、八種の似た「クニ」があらわれ、そのうちのどれかを選択していきます。
古事記はこの後、柱を右に廻れ左に廻れと続きますが、左右に同時に廻るとあっち側で落ち合ってしまい一周できません。
これは廻るのではなく、右は、みきり・実きり、ミの実体の四つの次元のことで、ミの命は四つの客体側実体を提示提供しなさい、ギの命は、それに乗り得る左(ひたり・霊足り)を追加提供しますということになります。
(今回はそこまで行っていませんので、また後で。古代に柱信仰があったとしても古事記とは関係ありません。)
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6-5)秘密。チイキミシリヒニの
七)
・「伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。」--いいでしょう一緒にやってみましょう。親音の「イ」とならばいいでしょう。
・・ ここでやっと相手対象であるミは同意を与えます。同意を与えるというのは書き方上の方便です。そもそも解説するというのが方便で、組んで似せて作るということです。
ギの命は自分を現すのに八つの父韻、従ってその現れは八つあり、その各々が相手対象となる四つの客体側にかかわります。
ここでは、ミは同意できるものしか同意しません。ミの土俵に合うものを受け取ります。一方ギは能動側で主体側ですから自分の好きなものを提起できます。故意も恣意も勝手ですが、ミと合意できるかどうかは定かではありません。
では実際に合意して作ってみましょう。
原文。
【 ①ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、②「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、③「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。④ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、⑤「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。⑥故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、⑦伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】
父韻の始めは、宇比地邇(うひぢに)の神、言霊チで、これに代表させます。
宇比地邇(うひぢに)の神、言霊チは自己意識がそのまま相手対象に向かう今現在の全体性をあらわし、自分の全体を示そうとします。
【① ここに、働き側の宇比地邇(うひぢに)の神、言霊チはその妹(いも)伊耶那美の命の実体側に問ひたまひしく、
【②「汝(な)が身、四つの客体次元(UOAE)に分かれている実体はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、
【③「吾が身である客体世界は成り成りて存在するという実体だけで、時空を超え大過去から存在し続け未来へ向かってあるというだけで、成り合はぬ締まりもけじめもないというところが一処(ひとところ)としてあり、その機能するところも働くところも動くところも創造されるところもなく、自然な作用反作用の持続しかありません。私はこの私の四つの次元層を提供します。」とまをしたまひき。
【④ここに今は、宇比地邇(うひぢに)の神、言霊チとなっている、「イ」である伊耶那岐の命は自らの働きと実体を紹介して詔りたまひしく、
【⑤「我が身、
・「イ」である伊耶那岐の命のチイキミシリヒニに展開したチであり、
・「イ」である伊耶那岐の命の意志意図の発現と成ったウオアエの根底のイであり、
・チ(T+I)となっての働きは、TTT・・と成り成りていく、言霊チの自己意識がそのまま相手対象に向かう今現在の全体性をあらわそうし、自分の全体を示そうとする働きがあり、
また、
・チ(T+I)となってのその実体は、Iーーーと成り余れるところとなっているウオアエを秘めた実体の一処となっている。
・従って我が身は、このI(イ)、父韻のイと母音のイにおいて、みずからの意図と意思を「チ」の形において実現したく思っている。
ですので、私のIの次元はAOUEにも成れ、今回の私は宇比地邇(うひぢに)の神、言霊チなので、実体「I」にチの働き「T」を乗せて、お前のUOAEと合致共感できるか見てみよう。
【⑥故(かれ)この吾が身の成り余れる処、(T+)Iーーーを、汝(な)が漂い締まりのない身の成り合わぬ処、AーーーOーーーUーーーEーーーに刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、
【⑦伊耶那美の命答へたまはく、あなたの「I」をUOAEとして下さるなら、「しか善けむ」とまをしたまひき。】
私は受動のミで私からあなたの元へは行けません。しかし私もイザナミの受動の働きを引き継いでいる身として、あなた様のいうことに同調共感を与えることはできますが、わたくしは四つの次元層を持つ身ですので、その内のどれをお目当てにしているのかが分かれば、それぞれの次元の間を開いておきます。
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ということでここから先は次の段落になります。ちぎりとまぐわい。
そこではまぐわいしようと「かく期(ちぎ)りて」、つづいて、左右に廻って「約(ちぎ)り竟(を)へて」と、二回続けて「ちぎり」がでてきます。
この「ちぎり」は「地切り」で「あめつち」の「ち」を四つに切ることです。「ち」は吾の眼が付いて地に成るの「ち」で、主側活動の相手側です。
始めの「ちぎり」はギの主体側のイ(I)を四つに「ちぎる」ことで、二番目の「ちぎり」は客体側から提供された四つのどれかを「ちぎる」ことです。
黄泉国(よもつくに)でも千引きの岩の「ち」がでてきます。地、千、道、血等を「ち」として、様々な解ができますが、ここでは最も初期の段階として、四つの次元層を千切るとしておきました。
この四つの次元層をそれぞれ間とみて、さらに父韻は八つありますから、その八つの間も加わり、間の和の取り方で三十二の現象子音ができるという説明です。
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