①ア・ウアワオヲエヱイヰ、先天構造

①ア・ウアワオヲエヱイヰ、先天構造

一)先天構造。 【天地の初発の時 ~ 伊耶那岐・美の命】

ア・ウアワオヲエヱイヰ、 先天構造

アワ・ウオヲエヱ、 在り様実体後天現象

イヰ・チイキミシリヒニ、 生き様働き

二)おのれの心の領域。

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今の予兆というか今の意識の芽、何か知らないが私の今の吾の眼が動き出そうとします。今の何であるのかは分かりませんが、今があるというだけの得体の知れない物事の初発の時です。書き感じ喋り出す以前の意識の初めがあります。古池に蛙が飛び込む以前に聞こえて来る音です。テレビを付ける以前にもう付けたつもりになっている心です。それが全ての始りで、吾の眼の全ての事の中心を貫く御中の主です。この原動因が天の御中主の神と呼ばれ、腹の底から出てきて音と結ばれると『ウ』になります。

この最初に生まれた言霊を以ってしては、主・ヌシとしてあるというだけですが、そのことが了解されると直ちに了解している自分と、了解された相手とがあるという細胞分裂が起きます。主客の剖判ということですが、「客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。主体とは感覚を受け取るものであり、意識である。」といわれているような、物と意識のことではありません。

また、ハイデッガが言っているように「これは存在の問いでいえば、問われているもの=存在、問いかけるところ=存在者、問いによって求められたもの=存在の意味」と、三つに分けて世界内存在を導くものでもありません。

古事記は精神、心内の話ですから、客体というのも心の中での客体で、外物である物の事ではありません。客体を外物である物とするのは、精神操作の行き着く先から出たところに成り立つもので、言葉の生成を以ってする、外物の命名による物の引き寄せから始まるところです。古事記で言えば、黄泉国に行く、または根の国へ行くことです。

ここは間違えやすいところというか、普通に間違えて当然な顔をしていられるところです。というのも五感感覚ではっきり与えられる相手対象があり、それを客体としやすく手ごたえを得やすいからでしょう。

単純な視覚像を取ると、見た物がそこにあるからそれが客体だとするのは普通のことです。

そのまま現象として客体を意識してしまうとその対面にあるのが主体となり、その両者によって求められた物という現象存在を探さざるを得ません。

ところが、存在現象に軸足を置くとそこから出てくるのも存在となりますが、主体と客体の出所を失います。主体を働きとか機能とかにしてもそれがどこから来たのか明かされません。あるものはある、あったものはあったとなるだけです。

ハイデガは次のようにいっているそうです。「問うということには次のような三つ要素からなる。問われているもの(Gefragtes)。問いかけるところ(Befragtes)。問いによって求められたもの (Erfragtes)。」

これでは心の活動である「問う」ことから「求められたもの」は出てくるでしょうが、 「問う」 事そのものはどうして成立したの分かりません。さらに三要素の最後にあるものは、前二者が問うことなのに、その結果を現象を言っているようで明らかに問うこととは次元が違います。問うことの中に含まれてはいないことが要素の一つになっています。(と、こんなことを言いますが、引用文を読んだだけの感想です。)

言霊学では「問われているもの。問いかけるところ。」の前二者に足りない物は、つまり問いそのものの中に足りない物は二者を結びつけるものです。 「問われているもの。問いかけるところ。」 の関係を結ぶものを問いそのものの中に見出して、それを三つ目の要素にします。あなたとわたし、主体と客体、 問われているものと問いかけるところに、結ぶ物が入ります。

ここで出てくる反論は、主客は実態だが結ぶは働き機能で次元が違うのでは、となります。

そこで出てくるのが御中主さんです。 御中主さん は主客の前に陣取っていて主客を生んでいるのです。そのお蔭で主客の実体次元での違いを持つ両者ができています。

では両者の取り持ちはどこから来るのかといいますと、まだ出てきませんが父韻からきます。そんなことなら要素の中の生むに含まれていないじゃないかとなりますが、先天の十七(神)が一丸となっている循環が出てくると同時に、御中主さんに働きと実体が含まれているがために 「問われているもの。問いかけるところ」 、あなたとわたし、主体と客体 になれたわけです。

主客のそれぞれに問う働きと問われる働き、問う働きの実体と問われる働きの実体があります。これらが未剖判の御中主にあるというだけの姿で既に含まれていました。

こういう風に先天にあるからという考えを持ち出すとズルイように感じるでしょう。ところが例えば鼻が顔の中央にあるのはいくら頑張ってもその答えは見つからないように、主客の前に御中主がいるというのも何故かという答えは見つからないのです。

その代わりに鼻は顔の中央にあるというのを受け入れてしまうと、たちまちのうちにそれが先天の思想となって大いなる力を発揮するようになります。鼻のあるどんな動物に関してもこの動物の鼻はどこにあるかと問われれば、見たことも聞いたこともない動物であっても、顔の中央にあると答えることができるのです。そこで実際に確かめれば原理の確かさが分かるようになるのです。

これは古事記の心の原理にも言えることです。ハイデッガなど読みもしないのに文句を付けることもできてしまうのです。しかし読みもしないで文句をつけるというのは、無自覚無責任ですから後にみそぎをすることになります。このみそぎをした者・スメラミコトが世に出た後、世界宗教者哲学者会議がスメラミコトの主導の下に古事記のことたま学によって進められます。

さて寄り道しないでいきましょう。

今は意識のかかわる性能次元によってその形が変わります。

人間が自分の性能を段々自覚し向上していく順序にすると次のようになります。

ウの欲望次元での今は、欲しい欲しいの現在あるなしが今となる。

オの知識次元での今は、知る知らないの過去の現在にあるなしが今となる。

アの感情次元での今は、感情の現在あって過去から現在に持ち来たっていることが今となる。

エの選択次元での今は、現在あるものを未来の選択として置くことが今となる。

例えば今を時間と見るひとがいます。一秒前も一秒後も今ではなく瞬間が今だとか、それに類する客観的な区切りを言うときには、その喋られている内容には関係がないのです。そこで指摘されている一秒というのは分割も延長も千年経っても際限なく続けられるので、実はその喋っている人の過去知識を披露している時間が今です。(オ)

もしその人が今について喋りたいと欲したならそれを表出するのが今です。(ウ)

また複数ある今の考えからどれかを選択すならそれを提起したときが今です。(エ)

そんな考えもあるのかと関心したり疑ったりしますが、そのような感情を得て持続しているのが今です。(ア)

自分のしていること今していることが分からないといいそれに意味を与えるのだとも言います。この場合も同じで、

過去現象を持ち出して現在に繋げようとする(オ)ところで引っかかり今が分からないとなり、為す選択と過去が結ばれればそれに意味を与えた(エ)となり今を手にし、喜びが見出され(ア)、今の満足を得ます。(ウ)

では客観的な今はどこにあるかといえば、古事記で言えば黄泉国根の国にあります。つまり人との繋がりを持たない物の分析された姿として現れます。時計の秒針を見つめて一秒一秒と経っていくときは、六十で区切られたそのひとつを見ているだけです。そこにひとたび思いが関わると区切りでしかない一つが長くも短くもなってきます。

古事記全体は意識の関わる今を、主体側と客体側の両方から原理的に見ていくものです。

客観的な今を扱うのではなく、意識の中の客体側の今が客観になるところまでが書かれているので、今が瞬間だとか過去と未来の真ん中だとか言う現象を区切る基準の話はありません。その逆に主体側の意識が客体に降りていく話になっています。

今の主体と客体

ウの欲望次元での今は、欲しい欲しいの現在あるなしが今となりますが、欲している主体の内容は自分自身です、自分の欲している物を自分にするのですから主客は同じ物です。欲している寿司は欲されているすしと同じです。ところが、

オの知識次元での今は、知る知らないの過去の現在にあるなしが今となるので、過去知識概念の記憶のどれかが湧き出てきて今の形を作るので、同じ物ではなく同じ物を探して出来たものです。

アの感情次元での今は、感情の現在あって過去から現在に持ち来たっていることが今となる喜怒哀楽を示しますから、出てくる感情と自分とが一致しない事があります。

エの選択次元での今は、現在あるものを未来の選択として置くことが今となることで、現在あるものとおかれるものは常に一致しているとは限りません。

そこで五十音図では主体側の母音行はアイウエオで半母音行はワヰウヱヲでウだけは同一となっていて、他にはそれぞれ対応する客体側があります。もちろんこの客体側は書き記すときには物とかものとかで書いていきますが、客観物質の物の事でなく、精神頭脳内での相手側対象となっているもののことです。

五十音図上で説明すればそれぞれの次元は、

ウの欲望次元での今は、ウからウの現在あるなしが今となる。

オの知識次元での今は、オからヲの過去の現在にあるなしが今となる。

アの感情次元での今は、アからワの現在あって過去から現在に持ち来たっていることが今となる。

エの選択次元での今は、エからヱの現在あるものを未来の選択として置くことが今となる。

ここまでで今の姿はウアワオヲエヱの主客の形が出来ました。

しかしこれだけでは主客としてあるというだけで、何の動きもありません。記憶が出てくるとか選択するとか言っていますが、両端を際立たせるためで,だからといって動きが出てくるわけではありません。つまり母音半母音はあっても、五十音図で言えば途中の八音が無視されています。今になるとは言っていますが正確にはそうなりません。私の今、あなたの今はまだありません。私もあなたもいないのに一般性はないからです。

注意。ここに言葉の一般性が出てくるのですが(淡島と蛭子のこと)後述します。

時間の流れを実体だけで見るとこうなります。ここにバナナがあって半分に切ります。左半分を過去とし右を未来として現在を切り口にあてます。そうすると過去と未来はあっても現在はみつかりません。次にバナナを切った自分が切り口の中にいるとすると、切られた左は過去の事象でその記憶があるだけで、切られた右側はまだ来ない未来を想像しているだけで、そこにあるのは切り口である現在だけです。これは普通に得られる間違えた考え方ですが普通に流通しています。

男と女がいるだけでは何も起きず背を向き合ってそっぽを向いているだけです。過去と今あるいは今と未来があるというだけでは今も現在もどのようにあるのか分かりません。

男女を向き合わす、主体と客体を向き合わす、能動因が必要で、さらにその能動因を誘導する誘因がいります。

◆ この下工事中

途中にある八音

男と女がいるだけ、人がいてテレビがあるだけ、過去と今があるだけ、今と未来があるだけでは何も起きません。母音行が互いに突っ立ているだけの状態では、何にも起きません。ここに途中にある八音が意味を持ってきます。