あめつちの鏡 [運用 01] 金山毘古(かなやまびこ)の神

あめつちの鏡 [運用 01] 金山毘古(かなやまびこ)の神

神と夢

古事記はこの金山の神までに丁度五十神を配しました。その各神に言霊あいうえお五十神が配当されている書物が皇室の賢所にあるということです。神とは人の心の動きに名付けられた言霊を神名を用いて示したもので、冒頭の天の御中主(みなかぬし)の神以下、そういった神としては存在していないのです。今のところはそんな事を言っても誰も信じないし、神との神秘経験や交信があるという人達がおり、神がいないとはいえません。

しかし夢の世界は誰もが見ていて経験していますが実在している本当の世界と言う人がいません。何故なら夢に関しては夢から現実までにあまりにも多くの間隙を見出しているからです。ところが神体験に関しては神体験という言葉もある通り五感と結び伝いることが特徴です。でもそれを他の人に知らせることができず、あるいは自分自身の体験にも疑い戸惑いを隠せないのです。通常の五感体験ならば自分に確認納得させることはできるのに、神体験や特殊体験になると同じ五感体験を自分に疑ってしまいます。

神との交流体験や特殊な体験も意識のある経過経験であることが解明されれば、神や特殊といわれるものがいるのはあっち側の世界にではなく、誰にでもある普通の意識活動の戸惑いを結果現象として確認する以前に、意識内経験を確認せずにそのまま外在化固定化してしまうところに成り立ったものでしょう。

神の五感感覚による経験事象も自分の感覚はあるものの、復誦されず、意味を見出せず、自分の心に客体化しないまま外部に表出してしまい、外部にあるものの名前と結ばれるところに成り立つでしょう。ここで普通に光景を見るように自分にその意味内容が納得されれば、ああこういうことなのかと了解でき、自分の中に客観化できます。

それができないということは感覚事象の経験を自分の頭の中でかき回し混ぜ合わして経験事象に名前を付けられないところから来ているでしょう。

ミシミシ不明な音を聞いた時、音の意味内容が自分の頭の中で対象化され名指しできればいいのですが、ミシミシ音の頭脳内での所在を見失うとその音の主が外部に立ち現れてくるのです。

つまり経験体験感覚実感があるのは当たり前ですが、それを自分の頭脳内で客観化する代わりに、外部に体験内容の主体を設定してしまうのです。こういった構造は普通にあり、それを意識運用の一つの技術とすれば自由に神と語れるということになるのでしょう。いずれにしても現象を頭脳内で産んでいるのですが確認できていないのです。

言霊循環は五十の言霊を全部通過して自己確認された現象を産んで始めて子現象ができますが、(先天、ウアワヲオエヱチイキミシリヒ二イヰ。津島、タトヨツテヤユケメ。佐渡、クムスルソセホヘ。大大和、フモハヌ・ラサロレノネカマナコ・ン)

その途中で脱落したり自立したり飛ばしたりするときに、それぞれの時点が、結果である現象として立ち現われてきます。

夢は先天・津島の頭脳内の領域で心象が物象と結ばれる以前の心の言霊ユと 言霊メとを結んだ線で出てきます。

神の場合は体験経験が伴いますが、心象が五感物象と結ばれているとろまでは個人の頭脳内経験としてあり、その明らかな強烈な経験(カ)を自己内で意味内容を戸惑いながら了解する以前に、自分以外の外物に対象化結実(ミ)化してしまいます。ここに外部の主体意思を感じると神あるいは威力を感じるようになるのでしょう。

信じる

信じるということは、五十音言霊の循環の最後に来る、・・・か・ま・な・こ・んの循環を閉じ終えないでいるからで、各人の心の運用において各自の頭脳意識内に言霊〈カ〉の戸惑いを、留めておくことで起きてきます。言霊〈カ〉の神名は大戸惑子の神といいます。

留め置かれた言霊〈カ〉に外部主体を見い出し結びつけると、結ばれた相手に応じた〈カミ〉が浮かび上がってきます。

この神(心)は戸惑いの内にあるので、確定的な子現象表現とならず信じる信じないの間をさ迷うことになります。これが神を信じるか信じないかということの初めで、両者共に同じ言霊〈カ〉の上に立っているものです。

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この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山毘売(びめ)の神。次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。次に和久産巣日(わきむすび)の神。この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。

この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。

この子とは火の夜芸速男の神のことです。またの名である火の炫(かがや)毘古の神・火の迦具土の神も同様に頭に「火」の字が附されています。伊耶那美の命は夫君伊耶那岐の命と婚いして三十二の子音を生み、それを神代文字(言霊ン)に表わして、合計五十神・五十言霊がすべて出揃いました。これ以上の言霊は有り得ません。伊耶那美の命はもう子が生めなくなりました。この事を最後に火の神を生んだので伊耶那美の命の女陰が火傷(やけど)をして病気になってしまった、と表現しました。太安万侶一流の洒落であります。五十音言霊が出揃いましたので、これよりそれ等言霊の整理・活用の検討が始まります。

たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。

たぐりとは嘔吐(おほど)の事でありますが、ここでは「手繰(たぐ)り」の意の謎です。金山毘古の金は神名の意です。言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにした甕を手で手繰(たぐ)り寄せますと神代文字の山(神山)が出来ます。精神的なもの、物質的なものすべてを整理する為には先ずすべてのものを手許に寄せ集めることから始めなければなりません。金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちます。

【註】金山毘古の神に始まる古事記神話の言霊の整理・活用法の検討は実に総計五十の手順を一つ残らず明らかにして行きます。その間、どんな小さい手順も疎(おろそ)かにしたり、省略する事はありません。その手順はキッチリ五十にまとまります。その手順の一つ一つを読者御自身の心中に丁寧に準(なぞら)って検討されることを希望いたします。

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いよいよ思惟活動の実際の手順に入ります。

上記の引用に続いて関連した引用を無作法に載せておきます。

何故無作法になのかといえば、金山 毘古においていずれにしてもたぐり寄せられたものだけが、その人の扱う材料となっていくからです。

後から追加されたり先天的にあることもその人の金山となるのは、< たぐりに生(な)りませる>として現われたもの、ウオエア次元で選択されたもの、が取り上げられていきます。

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金山毘古の神に関する引用集

この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山毘売(びめ)の神。

五十音が揃ったかなというのが金山毘古の神、五十音の文字が揃ったかなというのが金山毘売の神。人間は如何なる時にも、このように頭を使い、働き、動かしております。

古事記の始めに伊耶那岐・伊耶那美の二柱の神様が力を合わせて三十二の子供である言霊の子音を生みます。その子音を神代表音文字である古代文字に表した粘土板にして素焼きにし、伊耶那美の神様はもう用がなくなり、いなくなります。神様がいなくなるというのは、高天原から他の世界へ行ってしまったということです。

次に伊耶那岐神はアイウエオ五十音を整理活用する作業に入ります。高天原はあくまでも主体側であります。度々「茹で小豆」を引用いたしますが、作るのは人間です。作られるのは客体側の小豆です。砂糖、水、少々の塩等々で味付けします。

作られました「茹で小豆」が旨く煮あがったかどうかは客体側に責任はございません。旨いか不味いかは作った主体側の人間にあります。伊耶那岐神と伊耶那美神は子生みして子音を生みましたが、生みました伊耶那美神は黄泉国へと去りました。

でありますから主体側の伊耶那岐神がアイウエオ五十音を整理活用する方法を考えることになります。粘土板の五十音を全部集めまして、それを金山毘古の神、金山毘売の神と申します。

ただ、集めただけなのですが、人間の頭の中で集めたと想定しますと、子供が十人いるとしたら、集まるのは何人くらいかなと何方でも考えるでしょう。そのような頭の働き方、動かし方を説いているのが古事記です。

金山毘古の神の金(かな)は粘土板に書いた五十音の言霊のこと。手繰り寄せますと山が出来た。金山毘古の神を奉った神社は福井県の三方五湖という景色の良い所にございます。金山毘古の神は言葉、金山毘売の神は心、霊です。

今度は、古事記の天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神から火の夜芸速男の神まで全部出揃いましたから、ここで子供を生むのは止めにして、金山毘古(かなやまびこ)の神から建速須佐男(たけはやすさのを)の命まで。言霊五十音を整理して人間の持っている最高の精神の構造を作るために検討に入ることになります。

二段に重ねた鏡餅の下の段を検討し、説明することになります。子供を生んできた伊耶那美命は御用がなくなりましたから高天原から去っていくことになります。何処へ去るのか、上の段の餅は貴方と私が対峙してすることではなくて、対象を見ている自分自身の心の裡のことです。

これからは貴方という伊耶那美命は必要なくなる。検討は私自身がすることになります。裡なる宇宙を検討する場合は自分自身の責任に於いて行わなければなりません。例えば、小豆、砂糖、塩、水これ等を合わせて煮ますと茹で小豆が出来上がります。出来上がるまでは作っている私と外界と協力して作ります。

外界のものがいらないとなると。永久に茹で小豆は出来ません。作る人と作られる物があるから出来ることです。出来上がってしまいますと小豆、砂糖、塩、水は必要なくなる。後は旨いか、不味いか、作った人の味付け次第ということに似ております。

古事記に伊耶那美命は一先ず用を終えまして客観世界の主宰神として「神避りたまひき」と書かれておりますが、死んだのではなくて客観世界へ行ってしまった。伊耶那岐命は客観世界の整理に入ります。

「たぐり」とは吐くという意味ですが、謎々です。手繰り、たぐり。粘土板に焼きました五十個の言霊を整理するのですから手繰り寄せたということです。

そんな簡単なことを何故神様の名前で表したのか。人間は何かをしようとする時に必ずこういうことをしています。「あいつに今度会ったら、何て言ってやろうか、あんなことをしやがって」と、ああいうことも、こういうこともと策を手繰り寄せます。整理する時には自分の可能性を手繰ります。そのように言霊を手繰り寄せる。

釼が十七個の言霊で構成されている心の先天構造であることを説明した古事記は、次に判断力の太刀の力である分析の働きを以って人間の心の現象を分析して行く。古事記の文章の「既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みたまひき」とある所である。

そして後天子音である大事忍男神=おおことおしを(言霊タ)以下三十二神(言霊)を生んで行く。先天十七神、後天三十二神、計四十九神(言霊)、それに言霊を神代文字化する言霊ン、総合計五十個の言霊となる。人間の心を分析して五十個の言霊が要素として現われる。この全部で五十個の言霊を糸で連結した分析の結論が三種の神器の曲玉を以って表徴される。

人間天与の判断力を十七の言霊で構成された心の先天構造(天津神諸=あまつもろもろの命・天津磐境)として自覚し、その働きによって人間の心が全部で五十個の言霊で出来ている事を確認した古事記は、今度は天与の判断力の釼(連気)の総合力によって生れ出た五十個の言霊を総合し、整理・活用して、元の生命の姿に戻す作用が開始される。これが金山毘古の神より須佐男の命までの五十神で示される作業のことである。

言霊五十音の整理・復元の作業は三段階に行われる。初めの金山毘古神(かなやまひこ)より和久産巣日神(わくむすび)までは五十個の言霊の初期整理の段階で、そこで得た整理の五十音構造を天津菅麻(音図)という。

生い立ちというもの、生い立ちの以前の性質というのは何時くらいに具わったのか、そのついた性質というものは、どういう場面になると発揮するのか、されるのか。それによって過去の歴史に於いてその事件の中で自分はどんな関係があったのか、なかったのか。

51番目から100番目の須佐男命までが、50の神を整理運用活用してくると、こういう結論になりますよというのが、この51番目から100番目神様のところでございます。 それで、まず51番目の神ですな。金山毘古(カナヤマビコ)・金山比売(カナヤマヒメ)のところから、ちょっと説明をさせていただきます。

「この子を生みたまひしによりて、御陰(ミホト)灸(ヤ)かえて病み臥(コヤ)せり」。伊耶那美命は火の神様を産んだので、御陰…子供ができるところ…が火傷しちゃって病気になっちゃったという。もう32のお子さんを産んで、子種がなくなったので、高天原にいる務めがもう全部終わりましたので、「終わった」と。いなくなっちゃうことの前提となるように、「火の神を産んだので火傷しちゃって病気になっちゃった」と、しゃれた文句でそれを言っているわけです。

これはわかりますな、「御陰灸かえて病み臥せり」。「ホト」(霊止)でもって、子供が産まれるところが火傷しちゃって病気になっちゃった。

「たぐりに生りませる神の名は金山毘古(カナヤマビコ)の神。次に金山比売(カナヤマヒメ)の神」。「たぐり」っていうのはですな、昔は吐くこと。吐いたものを「たぐり」といいます。だけど、そのたぐりじゃありません。たぐりはですね、手を繰る。何を手繰ったかといいますと、50の粘土板の甕神をこうやって集めた。整理運用ですから、まず自分と伊耶那美命で創った50の粘土板の神名を、まずこうやって手繰り寄せた。それだけの話なんです。

次に手繰り寄せたその中の、言霊のほうを背負ってるのが金山毘古。金山比売はその文字と見てもいいし、音と文字と見てもかまいません。要するに、ヒコのほうが言霊の霊のほうを司って、ヒメのほうが言霊の言を司ってると見てもよろしいです。音のなかに言霊は含まれますから、ヒメと申します。整理するためには、まず手繰り寄せなくちゃなりません。

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心の運用が始るとはどういうことでしょうか。

心の働きの物語がここから始ります。心の現われる実体要素が既に出揃いました。それを取り入れることによって心の動きは自らを実体の上に現すようになります。

そこで心の始まりは何かとなります。朝目覚めた時のぼんやりした時に意識主体は何をするかです。

金山は仮名の山で直接には仮名の書かれた粘土板の五十の仮名文字の山のことです。八種類の書かれ方をした一万年前からあるものです。皇室儀式の壷切りでは、壷の中の仮名粘土板を剣でかき回します。剣という判断力を用いて仮名要素を処理する練習をして、スメラミコトに成る準備をします。

ここからは与えられた仮名現象を扱うこころのことになります。

仮名、現象表現となったものが現われるとは、まず心が物事があることを了解することから始まります。単にあるというだけで詳細はまだ出てきません。(この後の屎(くそ)尿(ゆまり)に成りませるで具体化されます) 全体的にあるあったというだけのものですが、言霊五十の要素が全部揃っているという前提となります。

実際には個人が幾ら頑張っても全部を揃えることはできません。せいぜい考えられる限りのことを、あるあっただけのことを出すだけで、全体からすればスカスカですが、ここに主体の働きとして提出されるとその主体者の全体の形を取るようになります。

たぐり寄せられるのは主体の関心興味等手の届く範囲を主としますが、主体が提出したものというときはその人の全人格となります。

さてこの主体に 毘古と 毘売の二面があります。 仮名としてなら音と文字、言葉としてなら意味内容と表徴表現文字、 活動の能動側と受動側、ものの働きと実体、いきさまとありさま、等です。

仮名をたぐり寄せる行為が始るや否やこれらの両者が顔をだします。たぐり寄せる以前は何も無く、物質の相互作用の世界となっているだけです。

手繰り寄せるは手で手繰るだけでなく、耳で眼で等五感全部の行為に相当し、また思い出過去を手繰る等や意識情景感情を手繰る等心の総ての行為を指します。現象となっている言葉は音方面と文字方面の全体が手繰り寄せられることになります。

ここで注意しなければならないのは既に仮名、現象、を扱っていますが、 その物の物理物質的な側面性質を取り上げるだけなら科学の役割ですので、心に載る方面が取り上げられます。

客体受動側(金山毘売(びめ)の神)は、客観表象物と密接に結ばれます。つまり主体側が客観という枠に縛られたまま活動していきます。これはこの状態は続き黄泉の国で呪縛の構造が明かされ、意を決して事戸を渡し、禊ぎの段落で洗われ変体変容します。そこでは物象性を持った枠は禊ぎされ、主客の輪のある統一された言葉の場を構築するようになります。

まず前もって、心の流れを古事記の順番通りに現象要素が出てくるまでを記してみます。

古事記で天津神諸々の命といわれる先天十七神の構造が時処位の今ここという一瞬にあります。

十七言霊の活動が起こり、自我主体がいざなわれ目覚めます。

自我主体は自分の活動とその領域を見立て、客体をみそめることで、先天構造に起こったことが心に載るようになります。

その初めは、

先天構造内のことを心に載せて、そのことが心象となって頭脳内のイメイジにまとめられていきます。

イメイジは物象とまだ結ばれていないので形を持ちません。そこで心象の物象化が始まります。

そこでは

言葉という介在物をもって、物象は心の意味内容を全部引き継ぎ現象表現になろうとします。

こうして、一つの発想が一つの考えにまとまり、表出されようとします。

そのためには、 、

その考えが言葉に組まれて口で音声として発音され、言葉となって

その声が、言葉が空中を飛び、

人の耳で利かれ、

復誦検討された後、こういうことだったのだな、と了解され、確認、納得されて、

心と言葉の循環が一段落して、

現象が画定し、 初めて一つの出来事が決定されます。子である現象の実相が生まれます、

そして、言葉として一般性の形をとって再び最初の先天にかえります

ーーーーー以下工事中ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー