れ 宗教 有時、日月、無門関

1。有時の巻

【言霊 ヱ の悟りでの位置】

『正法眼蔵』 第二十 有時の巻に人気があるようでいろいろいわれているのが多くヒットする。どんなものかと見たら、読めない漢字だらけ。天才だから書けた文章でわれわれには手が出ない。有時全文引用しても短いのだけど、このブログの読者では誰も読めないから引用してもしょうがない。そこで引用は削ることにして、わたしの戯言だけにする。

他人、先達の文章を折り込んで自分のものとして有時の巻ができているが、わたしにはどのように読み込んであるのか分からない。解説する坊さんたちも書き方は真面目だけど、その心持ちは真面目なのか諦めなのか取り繕いなのかわからない。道元さんは自分の文章を誰が読んでもどうせ分かりゃしないと言うつもりのようなで、それをそのまま受け取ればいいだけのこと。同じ宗派の坊主、学識のある研究者だからといっても、こちら側からお分かりになっていらっしゃるのですかなんてことは聞いても無駄。天才的と持ち上げてきたのはそもそもが解説者たちから始まっていることなのだから。

わたしは分からないという心が固定したら、分かっていないことを書けばいいだけ。解説者のように無理やりわたしはこう読み込んだなどといって、道元さんから笑われるようなことをしなくてもいい。

『古佛言、有時高高峰頂立、有時深深海底行。有時三頭八臂、有時丈六八尺。有時杖拂子、有時露柱燈籠。有時張三李四、有時大地空。』

という誰か古佛の引用から始まって自身で解説しているようです。

『いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。』

もちろん読みくだしはこれでいいのかどうかもわたしは知らないので、ネットからそのままの引用です。きっとこんなわたしの態度のことを言う方もいることでしょう。文句の付けどころはいろいろあるでしょうが、わたしも道元さんと同様に自分の心に戻って心の元を探しているとしておきます。

主体的な時の在り方を問題にしているので、客観的な時のことは置いておく事にします。

主体が係わった時はその時の長さ計測が客観に依存しません。心の持ち方によって時の長さも変わります。客観的な時とはある決められた約束を表現しているだけで、心には決まった時の長さはありません。

欲望ウ次元の時の流れは、欲しい欲しいと欲している自分を欲しがる事ですから、主体と得られる客観との間はゼロです。金が欲しい大臣になりたいあのおもちゃがいい喰いたい等の餓鬼の心持ちは、思いの内容が即自分になければなりません。

知識オ次元の時の流れは、自分に持ち込んだ自分だけの疑問に答える事ですから、自分と相手対象との間には疑問を解き納得するか忘れるかの時間が流れていきます。人生とは、人は如何に生きるべきか、とかは何年何十年と生き続けています。そう簡単に結論がでませんから死んでも生き続けます。

感情ア次元の時の流れは、情けないほど短くはかないものです。あれだけの素晴らしきものを見たと、光を与えられといいますが、全てその一瞬のことを思いだし回顧し後ろに戻って探し消えたものにしがみつこうとするものです。あっと言う間に飛び去った実在していた現在を呼び戻そうとします。悟りとか見神とかはこの次元の事です。道元さんがどのような方か知りませんが、社会的でなく政治的でなく道徳を説く事もなくまつりごとをもって社会の改良改革に関与した事はないでしょう。基本的に宗教者は個人行で精一杯ですから、そしてオの次元での社会行動政治などの馬鹿らしさは既にご存知で掛かり合う事など思いもしないでしょう。ということはそれ以上の次元には出ていないということでしょう。

宗教者は社会的にはこの社会まつりごと政治の次元に係わりませんが、思想的にだけは尋ねていたかもしれません。ですが、その辺は死語だらけの文章としてわたしに与えられているので分かりません。

そこで次の人間性能の次元がきます。

選択実践エ次元での時間の流れは、上記ウオアの次元を全部包含していて自分の行為による客観創造が行われます。今までの次元では主客の関係が、主客べったりのウ、主客ばらばらのオ、主だけのアというように社会性もなく他者への自覚がないものでした。

エの次元にきて始めて自分の行為が社会性を包含していく関係を得ます。

そしてそれらの上に言霊イ次元の時の流れがあります。経験もしたことがなければ予測もできないので書けません。イの次元を引用して示すことはできますが、知識で知るだけのことでしかないものですから知識ごっこの仲間入りはしない方がいいでしょう。

それぞれの次元で行為をしていくとそれぞれの次元での結果をえます。

例えば、時有って高山の頂に立ち,時有って深海の底を行く.これらは皆譬喩ですから譬喩に相応しい終着点での誇張です。知識を得て有頂天でも、知識解答を探して深海にでもいいわけで、どの時点おいても主体の行為に変わりはないのですが、各人間性能の各次元での現れは異なります。

知識の次元では有時三頭八臂,一丈六尺の仏は不当ですが、ア次元ではそういう経験もあるでしょう。抂杖(しゅじょう)と払子(ほっす)という判断力を頼って手にしていても、大黒柱を抱え明かりをいくら灯しても知識をもって理解することはできず、かといって日常普通に平凡に理解されていることで、天と地は違うことを直覚感情の智恵でやはり同じことだと納得すればいい。とこんな感じでいいかげんに訳しておきます。

主体が行為し時に係わるとその結果がでます。つまり存在と時間が、有時が生じます。

そこでは人間性能の各次元での違いがありますのでそれに応じた存在の仕方があります。

ウの五感の欲望次元での存在と主体。

ウ次元での主体の動きの特徴は、自分の欲望の成り立つ自覚がありませんので、欲しいから欲しいなり、したいからしたいと言うような心の中にでてきた欲望をそのまま自分の元へたぐり寄せかき寄せます。(キ)

この出てきてかき寄せられた欲望は相手対象に向かっていくわけですが、自分の欲望でありしたいことという自分に対する不動な自己目的となります(シ)。

欲望次元では対象へ向かう以前に無自覚を基盤として自我が形成されていきます。不動な自我欲望が決まればその相手対象に自我欲望にマッチしたものを探しに行くことになるわけですが、ここでは自覚がないので、自分の経験、知識、信条等に自己保証を求めていきます。(チ)自分に自分の保証を求めるのですから必ずといっていいほどOKが出ます。別の言い方などではがむしゃらに欲望に支配されたなどともいいます。

ところが実際はその段階では自分の欲望のなんたるかを知らないので自分が何の欲望を欲しているかと規定しきれていないのです。そこで湧き出た欲望は何であるかが(チ)の段階で問われ、その回答としてこういうことを欲しているのではないのかという名分が出てきます。(ニ)この名分も自分への問いかけの循環として自分の中からでてきます。

そうすると、ここからあっそうか自分はこういうことを欲しているしこういうことをやりたがっているなという自分の欲望を自分に公開公表する自分に都合の良い自己表示が起こります。(ヒ)こうして自分の欲望は何々であるという言葉が生れていきます。

欲望を起こしたひとはこの言葉を持って自身と相手対象に向かうことになります。つまり自分の主体の欲望の実を得ることが主客両者に通用する言葉であることを確かめるわけです。(ミ)もちろん自分自身に対しては自己保証ができます。

残るは相手対象の中でそれが得られるか実際に行為していくことになります。(イ)相手対象によって保証されるかどうかは未定のことです。

しかしこの動きは相手対象において成就していくものなので、欲望の終わらぬ限り自分の対象となっているものを追求獲得しようとしていきます。(リ)これらのことは当初から無自覚的な欲望に支配されていたことです。満足したり知らぬうちに無くなったりすればそのまま終わりますが、また何時来るか分からず来ればきたでそのまままた支配されていくものです。

始めに欲望ウ次元の時間の流れは、主体と得られる客観との間はゼロですと書きましたが実際にはゼロというのは観念ですからそんなことはありません。また相手対象が欲望次元の実在となるにも時間のかかることです。同様に上記(キ~リ)の心内の分析でも一瞬に起こることですがゼロというわけにはいきません。譬喩として受け取ってください。『いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。』というふうにおっしゃっていますから。

さて詳細を見ていくと一瞬といってもとんでもなく長いことが分かります(長たらしい書き方ですが)。ここで有(存在)と時に関して、ウの次元だけでもやっつけたいのですが。

般若心経もそうですが、色と空の対比だけでここでも有と時の対比だけのようです。人間性能の次元界には、色というだけ有というだけでは済まない構造の違った階層がありそれぞれが独自の色、有を持っています。当然それに対して独自の空と時もあることでしょう。

欲望ウ次元の対象が即自分だということは上記の、キシチニ(かさたな)、にあります。欲望の心が即対象となってしまう関係ですが、主体側での欲望の確立がそのままでてきます。相手対象との関係を待ちきれない時などは、わたしは大臣になりたいという心がそのままわたしは大臣であるとなっていきます。

2。有時の巻。

オの知識経験記憶次元での存在と主体。

オの知識次元での主体の動きの特徴はウの次元とはまだ違っています。しかし、同一の部分もありますからそこをまずまとめておきます。というのも宗教次元ではこのウとオの次元の同一部分は乗り越えるものとして指摘されているようだけど、差異部分は触れていないようなので、確認できるところだけを済ましておきます。要するに色即是空の色の部分がウとオの次元でその同じ性格をまとめて説いているようだということです。

ウオの次元ではウオの次元そのものが宇宙の本性を現していることに気付いていません。アの宗教悟りの次元では自分の本性は宇宙であると気付いていますが、個人としてであって社会的政治的利他の行としてではないので、それらは全て未来の目標となっているだけです。

ウオの次元ではことの始めに自覚がないので心の中での具体化活動への完結への思いが持てません。

宗教悟りの次元では経験が基本的に要求されますが、対他関係は全て未来の目標になってしまいます。

では空の思想で見過ごされている色での違いを見られたら見てみようと思います。ここまででは欲望と知識に関してまでです。

ウに自覚がないことはことはオの次元では、希望としては知識で持って宇宙世界を説明できると思うこととなって現れます。知識の積み重ねが最上階に達するだろうという心の構造になっているからです。

ウ次元の心は、キ-シ-チ-ニ-ヒ-ミ-イ-リ・・・あ〇-かさたなはまやら-〇わ・・でした。

オ次元の心は、キ-チ-ミ-ヒ-シ-ニ-イ-リ・・・あ〇-かたまはさなやら-〇わ・・です。

何かの現象を見て疑問を感じる時、それを心の中心に掻き寄せます。(キ)この始まりは当たり前の様に感じます。でも隣にいる人もそうかなといえばそんなことはありません。隣の人も疑問を持ったとします。では同じ疑問かなとと思うと全く違う疑問です。疑問の出所は全く恣意的で個人のお気に入り式なのです。

それでもそれぞれ疑問が心に巣くっていきます。そうするとその疑問をいままで蓄積された経験、知識全体で照合することでまず自分の持った疑問が正当であるかを自分に検討します。(チ)

ウ次元の場合は欲望がそのまま自分のものであるという自我による確定がまず出てきました。知識は知的ですからそのまま受けいれることの前に自己審査をすることになります。そうするとなにも分からないで疑問を持ったのに、疑問に対する知識との関係比較が起きてきて既得の知識と疑問との整合性を問い、いままでの知識と疑問とが統合され止揚されるであろう方向が目指されます。(ミ)疑問と既得の知識に実を成らしたく思うようになります。ウ次元では相手対象でしたが、オ次元では記憶概になります。

そこで整理分析され表現できる様なものが出てきます。(ヒ)調べて知ろうとすることも未来を知る様な感じでいますが、じつは記憶概念の掘り起こしです。途中で得た知識も記憶概念として整理されていきます。

比較整理検討され心に正しいと決まるようにしていきます。(シ)決めるのは別に正しくなくとも構いません。つまり自分の知識記憶との整合性があればいいだけですから、それにことの始めは自分のお気に入りで始めてことです。恣意的な選択でした。

こうして心にこうだと決められればその整合性により名目を立てます。(ニ)知識は黙っていることを嫌います。

発表するとか書くとか喋るとかしたがり自己表現を目指します。(イ)知識は記憶概念といわれるいわば寝床にいるくせに自分が喚きたいという性質をもっています。進歩と戦争の動因となるものでしょう。

こうしてひと度疑問は解決され発表されていきます。ところがそれ自体が次の疑問の始まりとなり、あたらしいお気に入りの種をまくものとなります。(リ)

ウ、オの次元とも出てきたものが次の欲望、知識、の発端となるもので際限なく続きます。

こんどは、

アの感情宗教芸術次元での存在と主体。

アの感情宗教芸術悟り次元での主体の動きの特徴は、ウオの次元とはまた別です。

アの次元の心の動きは、チ-キ-リ-ヒ-シ-ニ-イ-ミ、の順でウ、オとは心の動きが違います。

その始めには宇宙と自分の得たものとの関係が明白にあり自覚しています。

その全体が心の始まりとなります。(チ)

しかし全体的な自覚体験はそれ自身を現すにはあまりにも全体的すぎてどうすることもできませんので、自分で対応できる範囲の一つの関心事テーマがこころの中からかき寄せられてしまいます。(キ)

そうするとこんどはそれが全体的なこととなって心の中いっぱいに発展拡大されます。(り)

それが自分の範囲内での表現を得て、当初の自分では説明できていなかった全体に取って代わります。(ヒ)

こうして、自分の範囲内での当初の自覚体験として、心の中に行動の目的となって固定されていきます。(シ)

ここに心の名目が立ち(ニ)

そのまま行動となって動いていき受容してもらえる客体を探します。(イ)

その方向の彼方に目標の実現があるであろうということを指し示し、実のなる事を訴えます。(ミ)

アの次元はここで心の動きは終わります。アの主体から自覚的に始まりましたが、ミ、実を得るだろうという基本要求の元に未来の目標をつくるに留まります。

「いはゆる有時は,時すでにこれ有なり,有はみな時なり」

今はすでにこれ今なり、今はみな今なり

時の流れを感じた時はことがなっていく時、成っていくことはみな時の変化

心にある過去の思いも疑著、疑って、それに固執、執着してもしなくても、確信を得ても得なくても、思いと言葉をもっては知ることはできない。

頭はポカンと放っておいても頭はそこにあると教えられる。

道端の花にこの世の全てが宿り、わたしも宿る。

探しても探すものはなく、ましてや探すということもない。

普通のひとは過去の記憶と現在を比較する。

一方、過去において自分が過ごした今=過去があったとする。

では過去の記憶が蘇り今にあるときはどうする。

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ここまで書いてきて下記のサイトを見つけました。現代確認できるただ一人の悟った坊さんみたいです。『少林窟 -法堂』

http://www.geocities.jp/shorinkutu/hatto.html

言霊学を勉強する人はこの坊さんを超えないと勉強している意味はないことになります。しかし実際に悟った方を相手に何でもない人間がどう相手するというのでしょう。わたしなりに行くしかないでしょう。

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上のサイトを見れば語句の解説から悟りの境地に至るまで全部解説されています。

しかし残念ながら『 今 』そのものの解説と未来への『 今 』がありません。

辞書には現象として捕えたことが羅列されています。素粒子とか宇宙を持ちだして今を解説しているのもありますが、これも顕微鏡で見た今と望遠鏡で見た今の現象解釈です。今という言葉を今更問い直すなんて夢にも思っていないことが起きました。

我にわの 花橘(ハナタチバナ)にほととぎす

今こそ鳴かめ 友に逢へる時 (万葉集 一四八一番)

私の家の庭の花橘は満開である。ホトトギスよ。今こそやって来て鳴くだろう。久し振りの友と逢っているこの時に!!

今についてわたしなりにやってみましょう。

今は、

先天の今(現象以前)

真名の今(頭脳内、イメージ、言葉にまとめる)

神名の今(物象と結びついた今)

対象に受容され了解された今(これも頭脳内)

先天に戻る今

に分けられます。

そしてこの先天から先天へのサイクルが各精神次元個別の意義をもってあらわれてきます。

仏教では色といって色の今のことを分けていません。(しっかり分類していたのならわたしの常に勉強不足ですので。)

つまり、五感感覚からの欲望ウ次元で感じる今感、

知識記憶概念で生じるオ次元での今感、、

感情芸術宗教悟りで捕えたア次元での今感、

そしてそれらを超えた実践の行動に向かう智恵のエ次元での今感、

最後に創造してものに名づけてもの足らしめる創造意思のイ次元での今感、

があるはずです。

3。有時の巻

上記サイトにもありましたが、それはそれ、そのもの自体を得ることが悟りですが、これは知的な次元をたしなめ抜け出ることから起きてくることの様です。つまり、知識のオ次元に対する反省の仕方やオ次元の知識は空だよということがしょっちゅう言われていきます。オ次元全体は過去の記憶概念から出てきて存在にくっつき、過去概念を自分のものとして獲得していくものです。

そこから出て来るものは在ったもの過去の存在での了解事項です。自然の事象や知識で了解したことなどを取り上げることが得意となっています。それらの事柄は今現在それ自体で完結しているというものです。余計な知的な解など悟りと関係ないということになります。

ところが修行者たちは常識に照らしてそんなことは理解できないからどうにかして欲しいと常に言いかかってきます。もちろん悟ったものからすれば二十日鼠のクルクル廻りを見ているのが分かりますので、こうこうだと説明しますが、相手が結論を悟るのは時の彼方にまかされることしかいえません。アの次元の説明で繰り返してきたことがそのまま現れています。

その説明も過去知識の取り扱いが主になり、普通の日常であるいまの行動を実践していく方向がでてきません。

例えば、修行者が老師に求めています。

「薪が燃えて灰になるに非ず。云々」に於いて、薪と灰とは別だと言うことですが、火が付いて、それが燃えて、と言う因果関係が有ると思うのです。それは「今」起こっていることと、前後際断されていることとが、どうも良く分からないと言いますか、矛盾してないかなと思うのです。そこのところを・・・」

と因果と連続性を知りたがります。

「だから薪の時は薪の「今」しかないのです。燃えている時は燃えている「今」しかない。灰の時は灰の「今」しかないのです。だから薪が薪に止まらないと言うこと、縁次第で自由にいかなる姿にも転じていくと言うことです。固まった実体がないが所以にです。これを空というのです」

と答えて、薪とか灰とか固定していく切り取り方が観念である事を示します。

ところが修行者は因果関係を点と線で繋げようとして再質問します。そして答えて、

「この逃げようのない「今」、絶対な「今」にみんな居るのだから、それを疑うな。意を労して他に向

かって探すな。と言うことであり、絶対に信じ尽くして心を持ち出すなと言うことです。「今」「只」有

りの侭。縁の侭にということです。」

これは燃えている薪の過去の姿を指すのなら納得できます。しかし、今火がついていて輝くながら燃えつつある薪に関しては納得できません。

何故納得できないのか、アの次元での悟りでは説明できないのかを問題にしています。

(もちろんわたしが勝手に説明できないと決めつけていてろくに読んでいない事を白状してのかもしれませんが。そのときは申し訳ありません謝ります。)

これを説明するのに同様に、心の動きを利用してみましょう。今回は、

エの実践智恵祀りごと次元での存在と主体の心の動きとなります。その順序は、ア-タ-カ-マ-ハ-ラ-ナ-ヤ-サ-ワ(イ-チ-キ-ミ-ヒ-リ-ニ-イ-シ-ヰ)です。

薪とその燃えている薪とその灰がありますが、ここでは概念と知識と記憶の関係での薪とか灰とかは問われていません。言霊エ次元では実践の智恵の次元で、もっている欲望、知識、感情をどうするかの次元です。

薪が燃えて灰になる一連の過程についての経験知識があって、暖をとる為か明かりの為か山火事か自然発火か分かりませんが冬のたき火としましょう。

寒さで暖が欲しいといっても欲しい欲しいだけではぜんぜん暖まりません。暖まるには薪はマッチとかの材料の知識と使用の知識が必要ですが、マッチや薪の組成がなんであり原子番号がどうのなど、燃えるのは酸化でという知識はぜんぜん暖房とは違います。マッチの輝き薪の燃え上がる火の踊るような動きの好みがあってもぜんぜん温かくなりません。

暖を取るにはそれらの総合知識が在った上に、火をつける実行行為が必要です。質問者が考えている火の付いた薪の連続性は、ある意思行為の結果としてあります。その概念知識と生きた知識との差の次元が問答されています。火で暖まりたいとなればウの欲望次元に、火の性質を知るとなればオの知識次元へ、火の感情情緒理解ならアの感情宗教次元へ、火の必要性から使用法ならばエの選択次元へ、とそれぞれに分化していくある一つの次元階層での話が悟りの話となっています。

ですので人生の最終目標である悟りというものはありません。人間の全体的な意志行動実践の単なる一段階です。ウオアエの次元があって最後にイの次元に至りますが、ここにきて人の完成の始まりとなります。

ですので悟り問答での「薪が燃えて灰になるに非ず。」は五感感覚の欲望次元なら、薪は燃えたら熱いだろうかとか灰を裸足で踏んだら熱いのじゃないかになり、知識次元なら、乾いか細い方が燃えやすいが太い方が長持ちするといった知識に関する問いになり、概念の取り扱いで悟り問答のようなものがでてきます。

このエの次元では低位のウオア次元を全て含み実践の智恵が問われるところですので、「薪が燃えて灰になるに非ず。」というような、ものとなったこと、の取り扱いではなく、今後に係わる如何にするかが問われます。悟り次元での限界である、結論を時の経過に任せる事などしてはいられません。いまここの一瞬で実践する事です。公案には知識次元での話がありますが、現実実践次元での智恵の問題です。要するに日々普通の社会的共同社会での集団行動の実践になります。禅や宗教の世界にはないけれど当たり前の世界です。

そこでここでの問いは薪と灰にごだわるなら「薪をどのように燃やすかどのような灰を作るか」とうになるでしょう。この次元では現象社会、客観物質、他者への働きかけと結ばれる次元です。智恵が行動となり他者との関係をつくります。宗教、悟り次元では個人の行いが主ですからこういった事に対する理論も行為も用意がありません。

イ-ア次元の全体感は継承されていますが単なる自覚としてではなく、自他社会集団の全体と個別の自利他利が了解されています。

チ-暖をとる事への全体が、気象事項とかも含め与えられます。

キ-自己状況への最適な判断要素がかき寄せられます。

ミ-自己状況は他の中での結びつきとして現れるようになりますから、自他の見極めが選択されます。

ヒ-見極めは両者に向かうものですので両者のワを作る言葉による表出をします。

リ-この表現が心いっぱいに拡がります。

ニ-そして名目が立てられます。

イ-立てたものは強力推進されなくてはなりません。

シ-そして結論目的に向かい集約されていきます。

ヰ-当初か両者へのワへの意図がありますからイマココおけるこころの完成された結論結果が確定されます。

ここでの特徴は最初から自他とのワが考慮されている事です。

------引用サイトから--------

「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」

「有る」全ての物の存在は即ち「処、空間」を占めている。だから「時」でもある。

大事なことは、物も時の縁に依って生じた姿で、それ以外の何者も無いのです。縁の物だから、縁次第です。縁が尽きれば消滅する代物です。存在とは時間と空間を有するが、しかし時とか時間というものは無いのです。全く観念上のものです。全ては流転に拠る「今」です。無常故の活動体と言う事です。だからそれらを概念化し情報化して、物と時を別々に見ることは間違いだと言うことです。

これだけを見ても哲学を超え観念世界を超えていることがよく分かるでしょう。時間を横から眺めれば過去・現在・未来と言う事は出来るし、時計で過ぎた時を数値にする事が出来るし、又未来の時間予測が出来る。しかし実体は「今」が過ぎたものを過去と言い、未だ来て無い「今」を未来と言うているだけです。過去は既に無く、未来は未だ現れていない。無いのだから計測のしようが無いでしょう。「今」しか無いのです。だから今も時も時間も、それ自体を掴み出すことの出来ない、無くて有る、有って無い世界です。従ってその真相を確かめる方法は、その物自体になって初めて自覚されるのです。

要するに自己を忘ずることです。それが見性です。ついでですから言ってしまいますが、無常だから物も働きも作用も有るのです。「今」の活動自体の事です。この「今」の様子と活動自体を「有時」と言うのです。精神的な働きを見るとよく分かるでしょう。考えたりする知的作用も、感動したり祈ったり、尊敬したり意志決定する。これはもうその時限りの様子でしかないものです。しかもそれ自体は瞬間の事柄ですから、分かる分からないを超えているので、知りようが無いのです。

その後で存在を証明することは出来ないが、けれども明らかに有った事を知る。これが人間の限界なのです。過ぎた跡形を捉えて問題視しているのです。だから幻を幻だと知らないから実在と信じてしまう。これが囚われであり迷いです。

有時とは今今の様子であり全ての本性です。空というのと同じです。

この言葉に道元禅師がぞっこん惚れ込んで、そこで一ひねりやったのがこの「有時」です。俺の有時を聞かせようぞ、と哲学的な論法を用いて、無い「今」を説き、有る「今」の様子を説いていくのです。気を付けなければいけないのは、言葉に着いて廻らないことです。特別な事ではないと言う事を知らしめる為の言葉が、言い回し方と語彙の多さで訳が分からなくなります。要するに、全て「今」が存在であり、而も仮の物でありながらそれが真相なのだと言っているので、更に深遠な法理が有る筈だなどと思わぬことです。

------ここまで--------

4。有時の巻

しかし、更に深遠な法理が有る筈だなどと思わなければならないのです。

ア次元の宗教悟りがこの実の世の中に無力である事はすでに知れ渡っています。人の性能次元を別々に切り分けてしまうのならそれでもいいでしょう。人間とはそういう事となりますから。しかし現代という時は何故人間とはそういう事になってしまったのか、考えその理由が見つかった時になっています。始めから人間性能は別々ではないし、いつの時代も今もべつべつバラバラではありません。宗教者たちも孤立している理由はあってもそれが当然であるわけではありません。

今は、頭脳内での過程を示すと、

先天の今(現象以前)

真名の今(頭脳内、イメージ、言葉にまとめる)

神名の今(物象、言葉と結びついた今)

真名の今。対象に受容され了解された今(これも頭脳内)

先天に戻る今

に分けられます。

これは神名(かな)を中心にして自他の了解を形成することです。自他といっても一人で行ずるような時でも、言葉による超スピードの頭脳内活動によって自分自身内での自他の関係は維持されています。

この過程は頭脳内の心の働きとしてどの次元でも誰でも共通です。

何故悟ることが出来るのかは次元の移動はどうして起こるのかということで、何故悟れるのかに限らず、相互に上下に次元を移動できる構造がここにあります。つまり、ウオアエのどの次元への行き来も先天の構造が同じであるから、越えたり落ちたりできるのです。

そしてこの先天から先天へのサイクルが各精神次元個別の意義をもってあらわれてきます。

般若心経は色不異空からはじまって無無無で終わりますが、何でも無といっているのではなく受想行識の五感から記憶概念による知識に依って起こされる世界までを無無無といっていて、無無無という般若の智恵は別次元にあります。しかし般若の心持ちから下の次元の色界は解説できて、真実不虚ですが、般若の智恵の行方とそれを越えることにはギャテーギャテーで不明なのです。本来ならば自身の智恵を地に付けこの現物世界を解放しなくてはなりません。般若の智恵をもって社会政治に係わることが般若心経、仏教、悟り、宗教にはないのです。(アの芽を知・地に付ける、アメツチ)

この悟りと宗教の限界から古事記は始まっています。その禍を直すのに古事記はまず先天構造を得ることから始めます。それは同時に人間性能五つの次元層を形成することであることになります。つまり、有も時も今も存在も各次元層に相応しい現れがあるといいます。

五感感覚からの欲望ウ次元で感じる今感、(有感、時感、存在感以下同じ)

知識記憶概念で生じるオ次元での今感、、

感情芸術宗教悟りで捕えたア次元での今感、

そしてそれらを超えた実践の行動に向かう智恵のエ次元での今感、

最後に創造してものに名づけてもの足らしめる創造意思のイ次元での今感、

があるはずです。

人は動いて行動して社会と人間関係をつくっていくのに、アの次元は自分の行為にしか関心を示しません。それを人生の目的という最高の人生という悟りとか神とかいう言葉に閉じ込めています。もうそういった態度でいられる時代ではありません。

さあ行きましょう。

-----以下引用------

イの間=人間生命の初めであり根本となるものは何であるか、という問題に明らかな答えが出されたこととなりだろう。一切の現象の親であるもの、そしてそれを自覚して言葉で表現した初めての音である言霊イこそこの世の活動や存在するものの根源であり、宗教で言うところの造物主であり創造主神ということである。

古事記や聖書の冒頭に書かれた「天地のはじめ」というのは、心の構造を知った立場から見るならば「今・此処」のことである。心が活動を開始する今のことであり、此処のことである。心が活動を起さない時、それは禅で言う空である。

何も起らない、何も始まらない。そこに心が動く。心の底に初めて動くものは何か。生命の根本意志である。この動き始めが天地のはじめである。今である。

生命意志言霊イの間であるから今(いま)という。はじまった処が此処である。心の構造から考えるならば、心が活動を開始した今・此処が心の宇宙のはじまりである。古神道ではこの今・此処を中今(続日本紀)と呼ぶ。

その「いのち」はイの道であり、イの間、今でしか活動していない。何処にあるのか、此処にある。

「それじゃあ、イノチってどこで働いてるか」っていえば、「イマ」に働いております。「イの間(マ)」に働いております。みなさん、「イノチってどこだろう」って。地球上に人間が63億ぐらいいるそうですな。だけど、どなたに聞いても、「命って何だ」って聞いてお答えする方はいないと思います。命を見た者はいませんから。

霊能者になると「見た」って言う方がいらっしゃいますけれど、こんなこと言っちゃ申し訳ないですが、だいたい眉唾もののようでございます。わたくしもいろんな霊能者の方にたくさんいままで会ってまいりましたが、だいたい命というものをそのまま見るということはないような気がいたします。

「それじゃ、絶対に嘘か」っていいますと、言霊の学問では最後の禊祓という行のところの最後の行において、自分の命を自分で見ることができる段階がございます。みなさんよく勉強なさって、自分の命を自分で見られれば、これは便利だと思いますな。「もうちょっと長生きしろよ」って、「はいよ」って言えるかもしれません。

「そんなことはないだろう」と思ったら、あることをここで宣言しておきますから。その宣言をしておきますのは、わたくしがまだそれになっておりませんので、ここでなっちゃおうというわけです。最後のふんばりで、そこまで行かないとみなさんに「この言霊の学問は真実ですよ」と言えませんですから。厚かましいんですけれども、皇祖皇宗にお願いして、見せていただきたいものと思っておるわけでございます。

「いつ」と言ったら「今」。今より他、言霊は働くときがありません。それじゃあ「どこで」と言ったら、「ここ」ということになります。イというのはですね、イの次元の道理だから「イの間」=「いま」と申します。そしてその道理は「イの道」ですから「いのち」と申します。

-----引用ここまで-----

有時の巻。今とは。

我にわの 花橘(ハナタチバナ)にほととぎす

今こそ鳴かめ 友に逢へる時 (万葉集 一四八一番)

私の家の庭の花橘は満開である。ホトトギスよ。今こそやって来て鳴くだろう。久し振りの友と逢っているこの時に!!

ここでの今は期待の今です。鳴かせてみようと言った政治次元を加味して歌った人もいます。アの次元からエの次元へいくことのようですが過去権力の回想となっているオ次元のことです。

そこでエ次元の歌では本当に今ここで鳴かせなくてはなりません。

この間の事情を図示してみましょう。今ここという一本の柱が立っています。

ウ。五感感覚からの欲望ウ次元で感じる今感、今現在の柱そのものです。〇

オ。知識記憶概念で生じるオ次元での今感、過去から現在。過去→今の柱。→〇

ア。感情芸術宗教悟りで捕えたア次元での今感、現在から過去。過去←今の柱。←〇

エ。実践の行動に向かう選択智恵のエ次元での今感、過去・現在から未来へ。過去=今の柱+→。〇→

イ。創造してものに名づけてもの足らしめる創造意思のイ次元での今感、〇~→

ウでは今庭で鳴いているかいないかで、今鳴いていません。

オでは今までの経験知識を持って来て環境を作ったりして今鳴かす作戦を立てたり考えたりします。

アでは今鳴く声を聞いた感情を今保持しようと努めます。

エでは自分の心の今の動きの中で自在に今待つことができます。

以上ではこころの柱は固定していました。イでは柱が自由に動き自分の心も動きます。自分があそこに留まって百羽と共に今さえずっているのが聞こえます。

5。有時の巻。

今今と口で今といえば今のことの様に思えますが今の内容は一筋縄ではいきません。

ウの欲望次元の今は今という心の柱が欲望の充足まで続きます。餓鬼はあれが欲しい欲しいと駄々をこね一分二分どころかとうとう家に帰るまで数時間今を続けます。金儲けを目指している人は一生その今が続きます。大臣の地位を狙うのも椅子に座るまで何年でも今が続きます。

今は主体が係わる時間の持続に関していますから客観で測れる今時間がありません。

オの知識次元の今は例えば疑問を持ったとしてその疑問が解けるまで続きます。疑問は今もっているのは疑問の記憶となったもので過去となった疑問を持ち続けることです。疑問を持ち続けていれば疑問は今との接点を保ちますが、その今であることが疑問を解く邪魔な位置にあることになります。今の位置にあるのは解答解決ではなく疑問であるからです。そこで疑問は既得の知識の総体過去記憶の全体に頼ることになり、蓄積された概念知識に向かい正解とされるものを過去に探していきます。

こでは持ち続ける疑問は今ですが、それを助け明かすものたちは既得の過去の記憶になります。こうして過去からの矢印が一方的に今に向かうことを示しました。

禅の公案はこの新鮮な疑問と過去知識との乖離を解けと言うもののようです。

アの感情次元の今は、オの逆で、感情となり印象となった心に与えられたもののインパクトは大きいですから、心の全面を占めるものです。しかし残念ながらその寿命はウ次元の欲望に較べてはるかに短くあっと言う間に手指の隙間から落ちて消えていきます。閃きとも言われるような今です。そのためアーーといった歓声を挙げたことを保持保存するには特別な訓練さえ必要です。得られた感情を保持しようと、未来に眼を向ける余裕が無く、自己感情意外に関心がありません。ここから芸術家宗教者たちに社会性のない性格が出てきます。

実践の行動に向かう選択智恵のエ次元での今は、前下位の三次元の世界がこれからのこと未来のことを見れないのに反して、今あることをどうしていくかの実践の次元になります。

選択実践の世界ですが、前三者の上にあるということは前三者なりの選択もあるということで、前三者の選択次元と取り違える危険があります。

ウ次元の選択はまるで自覚のない、欲しいということも腹がへるということも向こうからやってくるがままに選択させられるものです。

オ次元の選択は自己に有利となるような自己的な選択の為に知識が使用されていきます。

ア次元の選択は自分の感情がウオの次元から出たものであることの自覚はあります。音楽家は画家の色に関心無く、悟りを修業するものは音にも色彩にも囚われず過去知識の止揚をする自覚構造からでてきます。

一方エ次元の選択の智恵は始めから実践行動へ向かう社会性をもっていますから、自他との関係の中で心の柱を前に倒していきます。

ですのでエの選択にはウオのようにあれは駄目、アのようにこれには関心を示さないといった取捨がなく、かかわる全体が持ち上げられていきます。天地の初発の時高天原に成りませる神の御名は天の御中主となります。

最後の最上次元での、創造してものに名づけてもの足らしめる創造意思のイ次元での今は、心の柱自身が動いていきます。すなわちものを指してこうだと名付けることが現象を産み出すこととなる世界です。そのためには古事記冒頭の百神の循環を通過していることが必要で、天照を打ち立てて古事記の百神を先天構造内に保持した天の御中主ということの再現が必要となります。(〇にチョンが入るといいます。)単に名を指示して名付けると言った話ではありません。

こうしてイの次元の作用の御蔭で、過去現在未来への飛翔が可能となるのです。

上の次元からは下の次元は見やすいのですが、ここで言うイの次元は自覚的な体験としてはわたしにはありません。

「解会は時なりといへども、他にひかるる縁なし。」

今を人の性能で解していけば五重の解となりますが、主客で解するとここでは、理解しようと関わり合おうと存在それ自体はそれ自身で他にひかるる縁なしです。縁は無くても存在それ自体の動く法則の世界はありますからそこから主観抜きの科学的な判断がでてきます。しかし心の自己を求める方向へ行くのですから、そんな客観世界は手を付けません。

「いまもわが尽力する有時なり。」

そこにあるものはそのままで尽力つくされている。何もかも全部そのままそこにあるではないですか。

これは存在している物の世界に対するものです。禅は存在しているものを語る相手とすることが多い。存在を理解して上から存在を見ているからですが、動いている自分自身を動いている通りに語ることも必要です。

「尽力経歴なり。わがいま尽力経歴にあらざれば、一法一物も現成することなし、経歴することなしと参学すべし。」

経歴とは、その様に現れ経験して過ぎて行くことです。日々の事です。全てが自分の様子だから、目を使い耳をつかい、手足全体で、毎日好きな様に自由自在に出来るんだが、もしそうでなかったら一歩も動けないじゃないか。何も出来ないではないか。みんな困るだろう。そのことが分かるならば、もう理窟をこね廻さずに、その時その物に成り切って、自己無きを期すれば良い、と自覚し弁道しなさいと言うことです。(この段落引用のみ)

勉強しなさいと言いますが、勉強したって分からないのです。この世は勉強もしない人々が多数です。一生を欲しい欲しい成りたい成りたいで過ごす人だらけです。悟りを解説する和尚さんからして悟れるのは百万人に一人もいないということは知っていることです。

こんな社会ですが何故坊さんは個人行をしていれば安心してしまうのか。社会ということ、まつりごととということを何故無視していけるのか。悟りへの到達が人生では非常にまれなできごとだからとしているからですか。悟りに向かって努力していれば社会不安や不公平貧困戦争殺戮など大乗の行があるといって大乗に任せているから大丈夫ということですか。

人生の目標になるような思想なのに何故無力であるのか、世界宗教者会議は神を見たもの、神に仕えるもの、悟ったものたちが集まっているのにほんの一ミリ足りとも政治の進歩をもたらしていない。

有時の巻。今の完璧な結論。

今は、主体側の精神領域で感じられことです。その精神領域での性能によってその時処位の各層が現れます。そこで前回では一生かかって続く今とかあっと言う間のはかない今とかをいいました。この一生とあっと言う間ではたいした違いがありすぎる様ですが、心の原理でいえば全て同一です。前回はその一端も示しました。

同一というのは今も頭脳内で感じるもので頭脳内を流れる時間がありその過程の大小次元層での共通な人間特性があるということになります。

種を明かせば何時でも常に古事記の記述です。古事記に沿って述べれば自然に解決へと導かれ誰でもが当然と思える結果に導かれるのです。(もちろん個人差がありますが。)そこで古事記による完璧な今の結論を探そうというわけです。道元や般若心経での今の解は言霊ア次元までのことですから、わたしとあなたとみんなの社会はどうするどう行動する次元での解が無く、そのために当然みんなに共通に与える言葉の次元がありません。では古事記はそれを示しているのかといえばもちろんそうです。そのために世界唯一の至宝となってなにも知らなくとも数千年間守り続けている家族があるのです。

古事記に従えば、今を感じ考えている頭脳内の構造は、次のようになり、

先天の今(現象以前)-真名の今(頭脳内、イメージ、言葉にまとめる)-神名の今(物象と結びついた今)-対象に受容され了解された今(これも頭脳内)-先天に戻る今、に分けられます。

同じことを心の領域で示せば、

(一)、淡路の穂の狭別の島 -(二)、伊予の二名(ふたな)の島-(三)、隠岐の三子島-(四)、竺紫の島-(五)、伊岐の島-・自己意識領域の発生。オノゴロ島、島生み、神生み、現象生み-・後天性。現象領域の生成、(六)、津島 (天の狭手依比売)-(七)、佐渡の島-(八)、大倭豊秋津の島 (天津御虚空豊秋津根別)--・客観表現、現象、-表現・・火の夜芸速男の神 言霊 ン -・運用領域。 客体と係わる主観領域 -(九)、吉備の児島 -(十)、小豆島 -(十一)、大島-(十二)、姫島 (天一根、文字)-・客体領域。〇、黄泉の国、〇、みそぎ-自覚的主体性へ。(十三)、知訶島-自己実現領域。自覚的飛躍領域。(十四)、両児島

同じことを心の動きの手順で示せば、神代の巻きの百の神名を天の御中主から三貴子まで追うことになります。

これが始めの一語を発声する形を借りて神代の巻で示され、その時の構造循環が蓄積される心の田んぼ(五十音図)を一語ごとに踏みしめることになります。。

このたったの一語の発声には心の田んぼをウオアエイとそれぞれ五十回づつ循環して実用的社会的な普通のこうした会話できる始めの一語なります。

最初の一語の発声は直ちに記憶されてその正当性が検討されて次の二語目の先天性となって控えていき、二語目の了解と共に連結されます。この繰り返しが単語になります。

今というのはイ・マの二語ですから、イ・マがそれぞれ上記の循環を経て、イという発語の正当性とマという発語の正当性とその連結の正当性が、自分と相手他者との両者に正当な言葉となっているかが確認されて発語されています。これは今という単語を知っている人には共通です。

このイマという共通性をそれぞれの次元層で表現することが人間ですが、その次元層は異なりますから、それぞれが勝手なこともいえることになります。今アイスクリームが食べたいという今と、今とは何か悟ろうとする今とは違い、今の知識を探求する今とも違います。次元層の違いと同次元内での違いもあります。

6。有時の巻。

これらは全て心の田んぼのどこから顔を出すかで変わってくることです。その違いの実際的な象徴が単音のアイウエオ五十音なのです。

客観的にはこの田んぼに立てた心の柱の廻りを何べんも何べんも廻ればお互いの了解に達していくだろうということですが、それを仲介している今という言葉の全威力に誰もが捕らわれてることを忘れては成りません。

人は誰でも自由に今という言葉を使っていますが、この自由さを保証していく主がいます。

今という意味の約束事がではなく、自分です。各人です。正確には自分の伊耶那岐の大神と名づけられたもの、伊耶那岐の大神によってつくられた大和言葉を使用しているからです。

大和言葉の不思議は今という言葉の内容を知らなくとも今と言えばその言葉の内容を容易に知ることができることです。

つまり言葉の表現と内容が一致しているのです。例えば今のイで繋がった言葉、いま、いますか、いのち、いきてる、いまいきます、とうのイイイのイは現れ出てきた動きの持続する働きの韻、動きだした力動が持続していく韻で、妹須比智ニの神の名が配当されていて、須らく智に比べて近しということで、智よりも自分に近いものは行動している自分自身を支える智恵です。この行動を始めることによって受け取る智恵の持続がイです。

この、行動を始めることによって受け取る智恵の持続がどの人のこころの動きの中にもあり、その動きが共通である為容易にイの伝達が行えるのです。この共通性を支えているのが縁の下の力持ちである各人の伊耶那岐の大神です。

今に各次元層での違いを見ましたが、その違いを支えているということです。先天的に共通性が無ければ違いも生じてきません。

表題に、今の完璧な結論、などと書きましたがもちろん有時の巻き般若心経のことをいっているのではなく、古事記のことです。ではどこに完璧な結論ということが示されているのか。

【 かれその伊耶那岐大神は、淡路(アワ)の多賀(たが)にまします。】

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no182/no182.htm

書くのが面倒くさいのでここを読んでください。何故古事記なのかが分かります。

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「 すべてを自覚しながら、静かに現象世界を見そなわしている状態 」

残るのは客観世界での法則だけです。そこで建速須佐の男の命が神遂(かむやら)ひに遂(やら)ひたまひきとなって、出番が与えられました。

相変わらず下手な書き方で申し訳ない。