ま 相手を説得する法。海佐知毘古と山佐知毘古。1

1。相手を説得する法。海佐知毘古と山佐知毘古。前書き。

海佐知毘古・火照(ほでりの)命と山佐知毘古・火遠理(ほをりの)命の系譜。

木花佐久夜毘売、

故、後(のち)に木花佐久夜毘売、参出(まゐで)て白しけらく、「妻(あ)は妊身(はら)めるを、今産む時に臨(な)りぬ。

故、其の火の盛りに燃(もゆ)る時に生める子の名は、火照(ほでりの)命。次に生める子の名は、火須勢理(ほすせりの)命。次に生める子の御名は、火遠理(ほをりの)命。亦の名は天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほてみの)命。

----書き下し文 。1。----------------------

故(かれ)、火照(ほでりの)命は海佐知毘古(うみさちびこ)と為(し)て、鰭(はた)の広物(ひろもの)、鰭の狭物(さもの)を取り、火遠理(ほをりの)命は山佐知毘古(やまさちびこ)と為て、毛の麁物(あらもの)、毛の柔物(にこもの)を取りたまひき。爾に火遠理命、其の兄火照命に、「各(おのおの)佐知を相(あひ)易(か)へて用ゐむ。」と謂ひて、三度(みたび)乞ひたまへども、許さざりき。然れども遂に纔(わづ)かに相易ふることを得たまひき。爾に火遠理命、海左知を以ちて魚釣らすに、都(かつ)て一つの魚も得たまはず、亦其の鉤(つりばり)を海に失ひたまひき。是(ここ)に其の兄火照命、其の鉤を乞ひて曰ひけらく、「山佐知も、己(おの)が佐知佐知、海佐知も、己が佐知佐知。今は各佐知返さむ。」と謂ひし時に、其の弟(おと)火遠理命、答へて曰(の)りたまひけらく、「汝(いまし)の鉤は、魚釣りしに一つの魚も得ずて、遂に海に失ひつ。」とのりたまひき。然れども其の兄強(あなが)ちに乞ひ徴(はた)りき。故、其の弟、御佩(みかはし)の十拳剣(とつかのつるぎ)を破りて、五百鉤(いほはり)を作りて、償(つぐの)ひたまへども取らず。亦一千鉤(ちはり)を作りて、償ひたまへども受けずて、「猶(なほ)其の正体(もと)の鉤を得む。」と云ひき。

----書き下し文。2。-------------------------

是(ここ)に其の弟、泣き患(うれ)ひて、海辺に居ましし時に、塩椎(しほつちの)神来て、問いて曰(い)ひけらく、「何(いか)にぞ虚空津日高(そらつひこ)の泣き患ひたまふ所由(ゆゑ)は。」といへば、答へて言(の)りたまひけらく、「我と兄と鉤を易へて、其の鉤を失ひつ。是に其の鉤を乞ふ故に、多くの鉤を償へども受けずて、『猶其の本(もと)の鉤を得む。』と云ひき。故、泣き患ふぞ。」とのりたまひき。爾に塩椎神、「我(あれ)、汝命(いましみこと)の為(ため)に善き議(ことはかり)を作(な)さむ。」と云ひて、即ち間勝間(まなしかつま)の小船(をぶね)を造り、其の船に載せて、教へて曰ひけらく、「我其の船を押し流さば、差暫(ややしま)し往(い)でませ。味(うま)し御路(みち)有らむ。乃ち其の道に乗りて往でまさば、魚鱗(いろこ)の如(ごと)造れる宮室(みや)、其れ綿津見(わたつみの)神の宮ぞ。其の神の御門(みかど)に到りましなば、傍(かたへ)の井の上に湯津香木(ゆつかつら)有らむ。故、其の木の上に坐さば、其の海(わたの)神の女(むすめ)見て相議(あひはか)らむぞ。」といひき。

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現代文での読みはここには載せません。

今回のシリーズは以下のような意図を持っています。

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----言霊学での一つの解として。----------------------------

海彦山彦の心に置き換えた物語。

どうしても言う事を聞いてくれない兄がいます。

その兄が弟の言う事を聞いて従うようになる物語です。

これらを心の動きとして取れば、日常生活では常にみられることです。

総体的に意見の不一致の物語といってもいいですし、

次元が違うので意見が合わない物語といってもいいし、

駄々をこねる子供と言う事を聞かせようとする母親でも、

政府と反対派でも、

自分の中の葛藤でも、

知識を多く持った者と単なる知ったかぶりの者とでも、

空を説く坊主と俗人とでも、

自分の言ってしまったことにうじうじすることでも、

何でもいいです。

注意してもらいたいのは、兄が弟に負ける物語ですから、要するに上の者が下にやっつけられることになります。下の次元にいるものが、でかい顔をして上を従える物語です。

無知が知に、俗が聖に、餓鬼が両親に勝つ原理になります。

こんな凄い事が言霊学での解になります。

これを歴史的、世界史的に見ていけばこうなります。

人間の生存を脅かし破壊し不安を増長してまでも、死の灰を撒き散らし、大量破壊兵器を生産し、欲望拡大生産要求に従う金融資本に拝跪し、その心を当然のものして、現代社会にまで成長してきた在り方となります。

人の良心は常に負け、心の崇高さは裏切られ汚れ、金力と権力の奴隷となっていく現代人であることの原理です。一切の宗教の教義を無力化して、形骸化に成功させる方法です。

悪と野望が勝利していく原理といってもいいでしょう。

こう書いたからといって保証はできませんし、その必要もないし、歴史はもうそういった方向にありません。

古事記の冒頭百神は島田正路氏によって、正当な原理となって解釈が決まりました。今更古事記の上巻は古代史だ、神話だ、などと言っている時間はありません。

言霊百神以降は心の応用問題みたいなもので、各人がそれぞれの心に当たるものです。海彦山彦はわたしの眼には「相手を説得する法」と写りましたたので、これから確かめようとするものです。しかも弟が兄を従える意味を探らねばなりません。

皆様方の大々的な援助を期待しています。

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2。用語。相手を説得する法。海佐知毘古と山佐知毘古。

1。の前書きで白状した通り、冒頭百神については島田氏の絶対的に正しい解読がありますので、それに付いていけばいいのですが、この上巻最後の段落はそれをあてにすることができません。

古事記の百神以降の解説が非常に少なく、われわれ各人の自分の心に聞くだけとなります。もちろん通常の解釈は一切役に立ちませんから、智恵を絞って考えたこと思ったこと、閃いたこと等、出てきたアイデアを書くという、駄目なことを始めることになるでしょう。

アイデアが増えて知識が増えることに満足するだけのことなら、誰かにやってもらってそれを覚えればいいだけです。それではいつまで経っても実相を得ることはできません。駄目な上にまただめ押しを加えるだけでしょう。

そこで今回はいい年をして始めて自分の心に聞くことをやってみます。ですので、これは「相手を説得する法」では無く、自分を説得する法ともなるでしょう。過去のものを読んで考えてアイデアを出して自分のものを出していくのは、努力と苦しみとがあり、それなりに楽しいことです。

実相内容を得たという虚像はいくらでも得られますが、せいぜい知的な虚像です。それなりの成果は各人にある事でしょうが、取り組んでいる土俵があまりにも小さすぎます。

古事記で「火照(ほでりの)命」と言う時、語感とか、現実に還元出来るものを探すとか、その歴史とかを求めても、知識としての「火照(ほでりの)命」はより豊富になっていくでしょうが、「火照り」と安万侶さんが言った心が、分かるわけではありません。人の心がどのように火照りとなって一万年も生きた言葉となっているのか、言葉の研究では確かめられません。

ここでも、途中からは多くの思い付きアイデアが出ることでしょうが、フトマニ言霊の原則と自分の心とを頼りにやってみます。今日明日にも駄目になるかもしれません、自信などありません。が、皆さんの参加はおおいに期待しています。

心での反照の問題ですから、「火照(ほでりの)命は海の漁師として、大小の魚を取り、」というような、始まり方はできませんので悪しからず。

皆さん方の解釈とは完全に違った全くマイナーな物ですが、唯一の真理を導いた島田氏に習ってみたいとおもいます。

もともと生半可で覚えたものですから、分からないところは無視して素通り、分かったところはココロに確認していくということにします。

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【 火照(ほでりの)命は海佐知毘古(うみさちびこ)と為(し)て、鰭(はた)の広物(ひろもの)、鰭の狭物(さもの)を取り、

火遠理(ほをりの)命は山佐知毘古(やまさちびこ)と為て、毛の麁物(あらもの)、毛の柔物(にこもの)を取りたまひき。】

火照(ほでりの)命

海佐知毘古・火照(ほでりの)命と山佐知毘古・火遠理(ほをりの)命、亦の名は天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほてみの)命は、木花佐久夜毘売からでた子達です。

木の花は、子(子音)現象が花の咲くように今ここの短い期間にしか生きられないこと、気(木)の表現表象が咲いて散る期間に隠されているという、主体側、客体側、能動受動の両者の意味を包含しています。

母親木の花というように母親自体も咲いている花の現象界を指しますから、その子供も同様です。子供を産むことによって、それぞれが独立した方面として成りたち、海彦と山彦になりました。子供は親を受け継ぐと同時に独自でもあります。

そこで子供(現象、表現言葉、文字)の一方に、霊の継続を割り当て(火照命)、もう一方に(火遠理命)、音、音声、体、等を割り当てたのでした。

つまり一つの現象表現には、主体側の意志の継続方面と、物質的な形象表現があることになります。物語の中では数人の子供を産みますが、それぞれが子供の数だけの独立した方面を表すと同時に、一人の子供しかいない、その観点の相違となっています。

火照りは霊(ほ)照りのことで、霊(ほ)によって照らされている、

鰭(はた)を取るとは魚のヒレを取ること、ヒレは、古代文字のムカデの比礼、蜂の比礼、蛇の比礼、等で表されるヒレに掛けたもので、現象をもらたす霊的な方面をいいます。

どのような方面かというのは、海さちひこ、ウの原、で示されている、言霊「ウ」の五感感覚による欲望次元、それから発する産業経済生活活動のことです。

現象となったものには、それが現れされた、主体側の霊(ほ)が照り輝いているとなります。何の事はありません、通常の日常行為、思い、考えの事です。

海彦山彦の段落ではこの兄が負けて従うようになりますが、主体、能動性、霊的な意思方面が、火遠理(ほをりの)命に従うことになります。

どういうことでしょうか。ついで、

火遠理(ほをりの)命。

「ほをりの命」は霊(ほ)降りで、霊が降りて無くなり、霊的主体側が形象となって固定化現象となったものを指します。

できた物の世界です。

「毛の」とあるのは「気の」ということで、気の運用によって、

「あらもの」は、五十音図「あ」から「ら」へ向かう、アカサタナハマヤラに向かう方向に考え生産すること、

「にこもの」は、そのことによって、正規の生産創造物として、「に(似せられた)」「こ(子、現象)」にしてしまうことです。

考えられたもの創られたものは、それを造り出すに至る主体側の意識(ほてり)とその結果(ほをり)の二面を持っています。

海山彦の物語は、この心と心の結果のそれぞれの二面性のうち、結果が優勢となる過程を描いていきます。例えば、金を稼げば稼いだ金が金を呼ぶようになり、暴力を振るえば暴力が暴力を呼ぶようになり、というように、結果の世界が、今度は取って代わって人や自分を強いることを描いています。

亦の名は天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほてみの)は、そういったことは、心の先天(あまつ)にある霊(ひ)の働き(こ)の霊(ひ)の現象(こ)となる、霊(ほ)の出始め(ほ)の選択肢(て)に結び付く(み)となっている働き(命)ということです。

「あら」の方向というのは、欲望充足次元での意識の運用のことで、当初の無自覚なところに成り立つ欲望に操られたまま、それを自分にかき寄せ、それを自己名分として固定して進展行動していくことです。

その結果が、「ほ降り」のように、目的意志が結晶したように見えてきて、次の目標向かう原動因となっていきます。

【 爾に火遠理命、其の兄火照命に、「各(おのおの)佐知を相(あひ)易(か)へて用ゐむ。」と謂ひて、三度(みたび)乞ひたまへども、許さざりき。】

ここは結果を産んだ世界が、それを始めた意思に問う形になっています。出来上がった物の世界が、それを創った主体意思世界に問うのです。要するに物が、自分はもっと大きく強くなりたいから意志による方法をこちらに欲しいと言ったことになります。

物が自分を創った意志に、やり方を替えてみようということですが、そこにある世界が自ら動くことは無くもともと無理な注文です。

三度(みたび)乞ひたまへども、許さざりき。三度というのは、ここに物が有るということを基準にして三段階ということですから、物の創造を遡って、物は自分が自分で創ったと主張しているところをみればいいわけです。もちろん物にはそんな力はありません。

ここに物が有るということは、物がそこにあると存在しなくてはなりません。(半母音世界)

また物を見る人感じる人がいなければなりません。(母音世界)

そして両者が感応交換して両者において共感共有を得なければ、そこにあるものの在り処を知り得ません。(父韻世界)

三度というのはこの三世界を指します。回数のことではありません。

その証拠に、【 火照(ほでりの)命。次に生める子の名は、火須勢理(ほすせりの)命。次に生める子の御名は、火遠理(ほをりの)命】

と、古事記の木花佐久夜毘売は海彦、山彦の途中に、ほすせりの命をもうけています。

実際には主体側意志があってその客体側結果がでますがいつも同じということではありません。その同じ主体が働きかけているように見えても種々の出来事が起きる基となってるのが、火須勢理(ほすせりの)命です。

主体側の意思(ほ)を客体側の結果に静に落着く(す)ように、主客をすり合わせ競り合わせる(せり)役目の働きの命です。両者の橋渡しです。主体と客体があるだけでは何も起きませんから。

良いことにせよ悪いことにせよ、ある物の世界が自分を語るように見るのは、自己正当化の始まりです。

ここでは原理上の話ですから、本来は良いとか悪いとかは無いので、心が先天的に持つ働きです。ですので良い悪いは象徴的な言い方です。暴力を振るうのも善行を続けるのも同じ心持ちが隠されているというわけです。

やったことが自己反省され、繰り返されますと、結果とそれをはじめた意識との間に逆転がおこります。そのためには結果が正当化されなければなりません。

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3。用語。相手を説得する法。「 佐知(さち) 」。

さち。

「各々佐知(さち)を交換して使用してみよう」と結果客体側から提案を受けます。ちょっと良い話がありますよ。金が金を産みますよ、暴力が暴力を、善行が善行を産みますよと、誘われたことになります。

そこにある結果客体側はそこにあるだけのものなのに、口八丁手八丁に掛かって心が動いてしまい、ほんのちょっとだけなら、ということになりました。

結果が意思を産むように見えることがあるからです。

「さち」は当て漢字で幸と書く通り、幸せをもたらせるものです。自覚的な自己の実現が他者との間に乖離を見いださない事です。それは「さ」の「ち」を知る事になります。

「さ」の「ち」の「さ」は自覚的な意識行為にあっては、全体と部分、宇宙世界と自分との隙間が無く他人とは自分の事、自分を自覚するとは世界を自覚する事と関係の中で、結論を集約できることです。そしてその結論が「サ」(タカマハラナヤサ)です。

それは天照らすの音図(スメラミコトが使用する)による意識操作によってのみ可能となります。この自覚的操作とその結論が得られ知るに至る事が、「さち」(幸)ということです。

また一方、「さ」の「ち」を交換しようということは、山彦が「さ」の「ち」を知りたいということで、山彦独自の「ち」の位置を替えて欲しいと言った事なのです。

天照らすの音図では「ち」から始まって、「さ」の結論へ導かれますが、山彦は欲望充足の意識次元において、キシチニヒミイリの自分の音図上の「チ」の位置を始めに持ってきたらどうなるか、実験したいと願ったのです。

欲望充足の音図(金木音図)は、その初発部は、こころの手順の自覚が無く、自分の心の中の欲望の一つをかき寄せることで始まります。

五感の欲望でも、知識の欲望でも自らにどこから来たのか分からないままに、欲しいから欲しい、思いついたから思った、アイデアが浮かんだからアイデアにした等々の無自覚進行を自分の中心に置くものです。

この中心に置かれた自我欲望が「ち」ですが、それは当初は生まれも育ちも不明であったものです。それが既に自己の中心に居すわり、そこから止めども無い活動へ誘うわけですが、山彦は一つ学究探求物質世界の充実の為に、盲目的な「ち」を、ことの始めに設定して物事が無くものかどうか、試させてほしいと言いました。

ですのでここでの「さち」は「幸」の「さ」を得る為に意識操作上「ち」の位置づけを変更するというものです。普通の言葉で言えば手順の変更です。食事をするのに口に食べ物を運んで口を閉めて噛むのを、手順を替え、口を閉めてから食べ物を口に入れようとするようなもので、結果は「都(かつ)て一つの魚も得たまはず」となります。

屁理屈だこじつけだと誰かがいいます。読書して学習する手順が違う、人の口を無理やりこじ開けようとするものだと言います。そこから、先人の努力、温故知新を無視しているというのは言い過ぎです。言霊学には何も無視するものはありません。

現在固定されている見解は、宣長さんの見解を取るものからにしろ、伊勢神宮の創建の千数百年前からにしろ、当然出るものがでてきた結果です。言霊学は千年二千年どころではなく、少なくとも五千年以上前からある古代大和の聖人達の理解に則ったという立場からのものです。

現代の解釈の方が閉じられた口に無理やり食物を入れようとしているものなのです。学問研究解釈の歴史は、ある学究学者の、思い付きや夢、閃きから始まっているというのは既に誰もが知っていることではないですか。

「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」(エジソン)

各学識者の、各人の、「1パーセント」がそれぞれ喧々諤々の原因なのです。

もう一つの「さち」の交換。「さ」の「ち」の交換図(た行に「ち」がある)。

あ・かさたなはまやら・わ(金木音図)

あ・たかまはらなやさ・わ(天照るの音図)

あ・たかさなはまやら・わ(山彦の要求した交換、上に書いてきた事。)

あ・さかたなはまやら・わ(もう一つ考えられる山彦の要求)

意識操作で「さ」をまず持ってきて、「か」を続けると、こうなります。

「さ」は自分の中で既に形象が出来上がり、相手に向けて発送している段階の言霊です。手紙の差し出し、花が咲く、等の「さ」の内容です。

【 火遠理(ほをりの)命は山佐知毘古(やまさちびこ)と為て、毛の麁物(あらもの)、毛の柔物(にこもの)を取りたまひき。】という生産活動をしています。

その活動の最初に「さ」がくると、欲望において物を得たいという場合、「さ」という出来上がった形象がまず指し示す物としてあることになります。これは行動の目的となって既に出来上がったものです。海にいって釣るということなのですが、何を釣るのかその前提が何もありません。

やるやるといって何もやるものが無いことがあります。自分の為の目的目的といいながら何の目的もありません。そのくせ自分に備わった目的なりやることがあると言い聞かせて落着いたものです。

「さ」の次には「か」がきます。山彦はこのようにしてみたかったからです。

「か」は、自分の心にかき寄せるものがあるので、それを探り寄せます。しかし、そこにあるものは、目的という心、やるやると自分に決めた心です。内容については何も設定されていません。

ついで「た」に移行します。ここに「ち」が入っています。「ち」は全体が発現する心持ちです。山彦の獲物を取りたいという全体性が発言するはずですが、そこにあるのは内容の無い目的目的、やることやることというだけのものです。

目的、やること、というだけの「た」は「な」へ移行します。「な」は自分の行為の名目を見つけ自分を鼓舞するものです。ここでは「よーし、やるぞー」という掛け声です。

この掛け声ととも「は」の段階に至り、自分は「やるゾー」という言葉を自分に聞かしめ納得します。

「ま」にくると、自分の行為が他に結ばれ身に付け実を結ぼうとします。ここでは「やるぞー」という言葉です。

「や」になると、行為として目標とする客体に向かっていくことになります。

そして最後の「ら」になります。やるぞ、やるぞが行為の内容となって、やるぞーの欲望の世界が進展していきます。当初に定立されたやるゾーの目的が、また発端に戻ります。こうして限りない、やるゾーだけの欲望の世界が続きます。

結果は、もともと内容が無い設定から出発していますから、当然なにもありません。

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4。用語。相手を説得する法。「 な 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

【 爾に火遠理命、海左知を以ちて魚釣らすに、都(かつ)て一つの魚も得たまはず、亦其の鉤(つりばり)を海に失ひたまひき。

是(ここ)に其の兄火照命、其の鉤を乞ひて曰ひけらく、「山佐知も、己(おの)が佐知佐知、海佐知も、己が佐知佐知。今は各佐知返さむ。」】

とんでもないおねだりをした後での惨敗です。

【 火遠理命、海左知を以ちて魚釣らすに、都(かつ)て一つの魚も得たまはず、

亦其の鉤(つりばり)を海に失ひたまひき。】

魚は「な」と読むと(例、岩魚いわな)、人の創造行為によって生じたものには名を付け、何々が出来た、と名を付けることになるのですが、山彦による創造現象(子音現象)が何も無いので、得られた結果に付ける名もありません。「一つの魚(な)も得たまはず」です。

しかし、ほをりの命は客観側に出来上がった物の世界にいます。つまりそれ自体に名が付けられ名を持っているのです。ほをりの実験は名が名を呼ぶかというものでした。太古の昔にこんな事が既に考えられていたのです。現代人は、金が金を呼ぶと言われるとすぐよろけます。

古代の精神性の深みには誰も到達できません。その代わり、物質研究の深みに邁進し到達したのです。というよりそのようにさせられたのです。誰に。古代のスメラミコトに。古事記がそのスメラによる工程表なのです。

上巻の最後に海彦山彦の「名辞による物質創造」の物語をもってくるところなど、現代物質世界での、物の生産による富の創造から、金融という名辞にすぎないものによる富の創造とちょうど一致しています。

つまり、現代社会の最後を向かえてるという事です。

古事記では次は上巻を終えて、中巻の実際の治世行為になっています。

「ウカヤフキアエズ」の時代になるのです。

ウカヤ、とは、ウの欲望産業経済社会生活次元の事、カヤ、は屋根、葺き合えず、はまだ完成していない、で、欲望による社会生活の創造は未完であるということです。

フキアエズ王朝による物質文明の創造は、現代においてほぼ完成しています。しかしそれは物質の創造と、物質の知識次元だけで、物質の社会への分配、物質を使用する心の喪失の回復は未完です。

2012年を象徴的に使用すれば、いよいよ、真の物質社会へまもなく向かうことになるのです。ですが、人間側の自覚的な政(まつりごと)運営が必要です。オバマや菅が上に立ったところでどうにかなるものではありません。フトタマ言霊学の素養があくスメラミコトが立たなくてはならないのです。

古事記神代の巻き最後の言葉です。

【 かれ、御毛沼(みけぬ)の命は波(な、魚)の穂をふみて常世国に渡りましき 】

この言葉の謎を解き運用できる聖(ひじり、ひしり、霊知り)人の出現が人類には必要なのです。

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5。用語。相手を説得する法。「 さちさち 」。海佐知毘古と山佐知毘古。

張り切ってやってみたのはいいけれど、釣り針(ち)も海(ウの原)に失ったということです。

この後失ったはりを探すことになるのですが、何を失ったのでしょうか。「さち」です。

「さち」は「さ」の「ち」で、結果である「さ」を知ることです。結果を知ることが幸に繋がります。最近の用語では情報よこせということです。

心の操作、言葉、言霊の使い方を間違うと、山彦のように「な」を得ることが出来ません。「な」については前回4、心の運用法については前々回3、をご覧下さい。言霊ナに関心のある方は別ブログ言霊辞典48「言霊ナ」http://blogs.yahoo.co.jp/senryounoinshu/folder/1511656.html をどうぞ。

山彦は「さ、ち」と呼ばれる釣り針を、現象世界に投入して、現象の出てくる順位を間違えた為何もなることができませんでした。

それなら、針だけなら返せばいいのですがそれも失ったというのです。どういうことでしょうか。

釣りをすることで言えば、針がなければ、糸があっても竿があっても餌があっても、何にもならず全連関が断ち切られたということで、針という個別のものを指すだけではありません。

そして何よりも、釣りへの意志を削がれ、獲物の期待が裏切られるのです。行為の選択肢が無くなります。

これは言霊循環の一つに不正不純なことを仕掛ければ、循環連関の輪が立ち行かなくなることです。

あいうえお五十音図の「さ」と「ち」の位置を入れ替えただけのことですが、一切がおじゃんになるのです。五十音図とはこのように魔法のような音図なのです。スメラミコトとはこの音図をヤタノカガミによって駆使する人なのです。

「さ」と「ち」の操作法を間違うと、本来の立っている自分の場所も崩れてしまい、自信の存在を失います。これはウ次元の欲望充足もオアエイの他の次元に通じていることをしめします。ウ(海)の幸を得ようとして、オの幸(知識)、エ(選択)、イ(意志)、ア(歓び)の全次元の人間性能を失ったことになります。

次に面白い言い方があります。

【 是(ここ)に其の兄火照命、其の鉤を乞ひて曰ひけらく、

「山佐知も、己(おの)が佐知佐知、

海佐知も、己が佐知佐知。

今は各佐知返さむ。」と謂ひし時に、】

物事が立ち行かなくなり、どうするのか、というところで、まるで呪いみたいな言い方です。

針を返せ、元に戻せとなりました。

宣長は「山佐知も海佐知も、己(おのれ)己の佐知佐知」というように考えると分かりやすい。」といいます。

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古事記伝より引用。

○山佐知母己之佐知佐知、海佐知母已之佐知佐知。

ここの「佐知(さち)」も幸取(さきとり)で、幸を取る道具のことを言っているのは、前と同じである。「母(も)」は「てにをは」である。

「已之(おのが)」は「それぞれの」ということである。【俗言で「面々の」、「手前手前の」などと言うようなものである。火照命が「自分自身の」と言っているわけではない。】

「佐知佐知」と重ねて言うのは、一般に二つのものを対照して言うときの古言の使い方で、山幸を海幸に対して言い、海幸を山幸に対して言うのである。こういう例としては、

万葉巻九【三十三丁】(1804)に「遠津國黄泉乃界丹、蔓都多乃各々向々、天雲乃別石徃者(とおつくにヨミのさかいに、はうツタのおのおのむきむき、アマグノのわかれしいぬれば)」、これは弟が身罷ったことを詠んだのだから、その弟一人のことだが、「向き向き」と重ねて言うのは、現世にとどまった自分に対照してのことである。

また古今集の恋の歌(654)に「思うどち一人々々が戀ひ死なば、誰によそへて藤衣著む」、これは思いを交わした男女のうち、どちらであろうと一人が恋のうちに死んだなら、という意味であるのを、「一人一人」と言っているのは、これも残った一人に対してのことである。

【竹取物語に、「一人々々に逢ひ給へ」、これも幾人もいる中の、いずれか一人ということで、その他の人に対して言うのである。

大和物語で「一人々々に逢ひなば」、これも同じ。源氏物語の「若紫」に「一人々々罪なきときには」、同「椎本」に「一人々々なからましかば」などとあるのも、すべて二人の間でどちらか一人というのを、その相手方に対して言う。

今の言葉遣いから考えると、「一人々々」とは「それぞれの人ごとに」というように思えるだろうが、そうではない。漢籍の礼記、曲礼に「二名不2偏諱1(二名は一つ一つでない)」とあるのは、二字の名前のことである。これは二字名で、上だろうと下だろうと、分離してその一字一字をいうのではない、と言うことであるが、その「偏」を「一つ一つ」と読むのも、古言の使い方によく当てはまっている。おおよそこれらを見て理解すべきである。】

「山佐知も海佐知も、己(おのれ)己の佐知佐知」というように考えると分かりやすい。

○今は「いまは」と読む。【俗に「もはや」と言うのに相当する。】○各は、ここでは「おのおの」と読んでいい。ここの文の全体の意味は、山幸の弓矢も海幸の釣り鉤も、それぞれ生まれながらにして与えられた幸であるから、長期にわたって交換したままにはしておけない。一度は交換して試したのだから、今は元に戻そうという意味である。

----引用ここまで-----------

ついでに出エジプト記14

「神モーゼに言ひたまひけるは、

我は、在りて在る者なり。

また言ひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫に言ふべし。我在り、といふ者、我を汝らに遣はしたまふと。」

神宮の鏡の裏に書かれているという、「我は、在りて在る者なり」。

キリストの磔刑場面によく描いてある「 INRI 」(い(i) きしちに(n)ひみいり(r)ヰ(i)五十音図のイ段)

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さちは意識操作の手順のことですから、各人それぞれに特徴的な手順があるとはいっても、詰むんだ口に食物を入れようとしてもできません。原則に沿ったものなら、「山佐知も、己(おの)が佐知佐知、海佐知も、己が佐知佐知。」ですから、各人の内においては無理なく行なわれるものです。

ところが山彦は原理上の運用を替えてしまいました。そのために生産創造行為が出来なくなったのです。(岩戸開きでのスサノオ)

山彦は現象結果の世界で、自分自信が現象結果を扱っていますから、自分の姿に似せて、釣り針を造ろうとします。本文の始めに「毛の麁物(あらもの)、毛の柔物(にこもの)を取りたまひき。」とありますように、主体側の動きににせて釣り針を作ります(にこもの、似せて現れたもの)。

兄の持っていた言霊要素五十と運用要素五十を真似て、自らの判断(十拳剣)で五百鉤(いほはり)を作ります。これは、あいうえおの五段を基調として、要素と運用を上下に取った百の鉤を作りました。五百個の鉤ではなく、百個の鉤のことです。

続いて、「一千鉤(ちはり)を作りて」とありますが、これも千個のことではなく、道(ち)の鉤、つまり、言霊要素をつくり、運用原理を示し、実際に運用してみせた事です。

何か壊した後、同じようなものを持ってきて、ほら、同じでしょう、ここもこうだしこうなっているし、こう動かすとほら前と変わらず同じでしょう、というようなものです。

しかしそれは本人からすれば、「山佐知も、己(おの)が佐知佐知、海佐知も、己が佐知佐知。」ということになります。

結局「償ひたまへども受けずて」ということになりました。

物を壊した後の替え玉を例にしましたが、これは意識原理上の事です。どんな事にも当てはまります。

わたしは勉強していると称して分かったような事を書いていますが、安万侶さんが見ていたら、「オイオイ、、、」と声を掛けられるでしょう。また今までの古事記の解読に努力された学者たち全員もそうですし、言霊へは何何、言霊トは何々とつづっているブログ等も同じ部類です。

本物の聖から見れば見え見えの駄目なものでも、われわれ各人次元では、それぞれ自信を持って主張することがまかり通ります。

山彦のやましい山師ということです。でもがっかりしないでください、それで当たり前なのですから。手を替え品を替え何とか取り繕おうと、山師の努力は続きます。

でも一応その前に、「泣き患(うれ)ひて」くらいはありますよね。

----書き下し文。2。-------------------------

【是(ここ)に其の弟、泣き患(うれ)ひて、

海辺に居ましし時に、塩椎(しほつちの)神来て、問いて曰(い)ひけらく、「何(いか)にぞ虚空津日高(そらつひこ)の泣き患ひたまふ所由(ゆゑ)は。」といへば

、答へて言(の)りたまひけらく、「我と兄と鉤を易へて、其の鉤を失ひつ。是に其の鉤を乞ふ故に、多くの鉤を償へども受けずて、『猶其の本(もと)の鉤を得む。』と云ひき。故、泣き患ふぞ。」とのりたまひき。

爾に塩椎神、「我(あれ)、汝命(いましみこと)の為(ため)に善き議(ことはかり)を作(な)さむ。」と云ひて、

即ち間勝間(まなしかつま)の小船(をぶね)を造り、其の船に載せて、教へて曰ひけらく、「我其の船を押し流さば、差暫(ややしま)し往(い)でませ。味(うま)し御路(みち)有らむ。乃ち其の道に乗りて往でまさば、魚鱗(いろこ)の如(ごと)造れる宮室(みや)、其れ綿津見(わたつみの)神の宮ぞ。其の神の御門(みかど)に到りましなば、傍(かたへ)の井の上に湯津香木(ゆつかつら)有らむ。故、其の木の上に坐さば、其の海(わたの)神の女(むすめ)見て相議(あひはか)らむぞ。」といひき。】

逆転のチャンスがきました。

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6。書き下し文。相手を説得する法。----書き下し文 。3。4。----

---- 書き下し文。3。----------

故、教の隨(まにま)に少し行きまししに、備(つぶ)さに其の言(こと)の如くなりしかば、即ち其の香木(かつら)に登りて坐(ま)しき。

爾に海神の女、豊玉毘売(とよたまびめ)の従婢(まかだち)、玉器(たまもひ)を持ちて水を酌(く)まむとする時に、井に光(かげ)有りき。

仰ぎ見れば、麗しき壮夫(をとこ)有りき。甚異奇(いとあや)しと以為(おも)ひき。

爾に火遠理命、其の婢(まかだち)を見て、水を得まく欲(ほ)しと乞ひたまひき。婢乃ち水を酌みて、玉器に入れて貢進(たてまつ)りき。

爾に水を飲まさずて、御頸(みくび)の(たま)を解きて口に含(ふふ)みて、其の玉器に唾(つば)き入れたまひき。是に其の、器(もひ)に著(つ)きて、婢を得離(えはな)たず。

故、著ける任(まにま)に豊玉毘売命に進(たてまつ)りき。

爾に其のを見て、婢に問ひて曰ひけらく、「若(も)し人、門(かど)の外(と)に有りや。」といへば、答へて曰ひけらく、「人有りて、我が井の上の香木の上に坐(ま)す。甚(いと)麗しき壮夫ぞ。我が王(きみ)に益(ま)して甚貴し。

故、其の人水を乞はす故に、水を奉れば、水を飲まさずて、此のを唾き入れたまひき。是れ得離たず。故、入れし任に将(も)ち来て献りぬ。」といひき。

爾に豊玉毘売命、奇しと思ひて、出で見て、乃ち見感(みめ)でて、目合(まぐはひ)して、其の父に白しけらく、「吾が門に麗しき人有り」とまをしき。

爾に海神、自ら出で見て、「此の人は、天津日高(あまつひこ)の御子、虚空津日高ぞ。」と云ひて、

即ち内に率(ゐ)て入りて、美智(みち)の皮の畳八重(やへ)を敷き、亦畳(きぬだたみ)八重を其の上に敷き、其の上に坐せて、百取(ももとり)の机代(つくゑしろ)の物を具(そな)へ、御饗(みあへ)為て、即ち其の女豊玉毘売命を婚(まぐはひ)せしめき。

故、三年(みとせ)に至るまで其の国に住みたまひき。

----書き下し文 。4。----------------------

是(ここ)に火遠理命、其の初めの事を思ほして、大きなる一歎(なげき)したまひき。故、豊玉毘売命、其の歎を聞かして、其の父に白言(まを)しけらく、「三年(みとせ)住みたまへども、恒(つね)は歎かすことも無かりしに、今夜(こよひ)大きなる一歎為(し)たまひつ。若(も)し何の由(ゆゑ)有りや。」とまをしき。

故、其の父の大神、其の聟夫(むこ)に問ひて曰(い)ひけらく、「今旦(けさ)我が女の語るを聞けば、『三年坐(ま)せども、恒は歎かすことも無かりしに、今夜大きなる歎為たまひつ。』と云ひき。若し由有りや。亦此間(ここ)に到(き)ませる由は奈何(いか)に。」といひき。

爾に其の大神に、備(つぶさ)に其の兄の失せにし鉤を罸(はた)りし状(さま)の如く語りたまひき。

是を以ちて海神(わたのかみ)、悉に海の大小魚(おほきちひさきうを)ども召(よ)び集めて、問ひて曰ひけらく、「若し此の鉤を取れる魚有りや。」といひき。故、諸の魚ども白しけらく、「頃者(このごろ)、赤海魚(たひ)、喉(のみど)に(のぎ)ありて、物得(えく)食はずと愁ひ言へり。故、必ず是れ取りつらむ。」とまをしき。是に赤海魚の喉を探れば、鉤有りき。

即ち取り出でて、洗い清(す)まして、火遠理命に奉りし時に、其の綿津見(わたつみの)大神誨(おし)へて曰ひけらく、「此の鉤を、其の兄に給はむ時に、言(の)りたまはむ状は、『此の鉤は、淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)。』と云ひて、後手(しりへで)に賜へ。然して其の兄、高田(あげた)を作らば、汝命(いましみこと)は下田(くぼた)を営(つく)りたまへ。其の兄、下田を作らば、汝命は高田を営りたまへ。然為(しかし)たまはば、吾(あれ)水を掌(し)れる故に、三年の間、必ず其の兄貧窮(まづ)しくあらむ。

若し其れ然為たまふ事を恨怨(うら)みて攻め戦(たたか)はば、塩盈珠(しほみつたま)を出して溺らし、若し其れ愁ひ請(まを)さば、塩乾珠(しほふるたま)を出して活(い)かし、如此(かく)惚(なや)まし苦しめたまへ。」と云ひて、塩盈珠、塩乾珠并(あは)せて両個(ふたつ)を授けて、

即ち悉に和邇魚(わに)どもを召び集めて、問ひて曰ひけらく、「今、天津日高(あまつひこ)の御子、虚空津日高(そらつひこ)、上(うは)つ国に出幸(い)でまさむと為(し)たまふ。誰は幾日ひ(いくか)に送り奉りて、覆奏(かへりごとまを)すぞ。」といひき。故、各己が身の尋長(ひろたけ)の隨(まにま)に、日を限りて白す中に、一尋和邇(ひとひろわに)白しけらく、「僕(あ)は一日(ひとひ)に送りて、即ち還り来む。」とまをしき。

故爾に其の一尋和邇に、「然らば汝(なれ)送り奉れ。若し海中(わたなか)を渡る時、な惶畏(かしこ)ませまつりそ。」と告(の)りて、即ち其の和邇の頸に載せて、送り出しき。故、期(ちぎ)りしが如(ごと)、一日の内に送り奉りき。其の和邇返らむとせし時、佩(は)かせる紐小刀(ひもかたな)を解きて、其の頸に著けて返したまひき。故、其の一尋和邇は、今に佐比持(さひもちの)神と謂ふ。

是を以(も)ちて備(つぶさ)に海神の教へし言(こと)の如くして、其の鉤を与へたまひき。

故、爾(そ)れより以後(のち)は、稍兪(やや)に貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め来ぬ。

攻めむとする時は、塩盈珠を出して溺らし、其れ愁ひ請せば、塩乾珠を出して救ひ、如此惚(なや)まし苦しめたまひし時に、

稽首(のみ)白(まを)しけらく、「僕は今より以後は、汝命の昼夜(ひるよる)の守護人(まもりびと)と為(な)りて仕へ奉らむ。」とまをしき。

故、今に至るまで、其の溺れし時の種種(くさぐさ)の態(わざ)、絶えず仕へ奉るなり。