古事記の鏡2 おのごろ島 己の心の締りの領域



おの(おのれの)ごろ(こころの)島(しまり、りょういき) 

地理上の島ではありません。

先天編が終わりましたが、先天を列記しただけのようです。実際の活躍に沿って先天を呼び出さねばなりません。先天が実在する、あるというだけでは不十分です。そのためには先天の出てくる場、働く場を提供することです。その場とは心です。まずは先天の心です。先天が先天に載ります。先天の事象に対してはその相手は吾の眼が付く宇宙全体でしたけれども、働く場は各個人の一個の心です。心に先天の宇宙が現れます。しかしそれには場数を踏まなくてはならない長い長い一瞬が必要です。(島産み、国産みではない)そこに全宇宙と繫がる各人各様の意識の場を立てなければなりません。その意味するところは先天十七神が各個人に載っている、宣(の)るということです。

自己意識の領域を創ることから始まります。そしてまず現象の単元が産まれる準備が整うことが必要、領域を得るための領域が必要です。

全体が天地の初発の時で始まるように,ここでも自己意識の初発の時から始まります。先天の十七神が活動を始めます。


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ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、


ここに。

ほんの少し進みました。それでも全世界の実在と動きが先天という形で済んでしまいました。ここから場面が変わりますが、吾の眼を付けて智に成すという原理に従います。本編の始まりは自己意識の創造となり、はたまたとんでもない知恵の輪が待っています。まず吾の眼を定立しなくてはなりません。日常では自己意識から、自分の頭脳に載った意識から直接始めるのが通常のことですが、事実は違い、古事記のいう通りに前段階があってその通りになっています。先天意識が主体に載り主体意識となります。

アシカビヒコジの段落で経験概念を得るのに、主体側の行為が客体側実態の後から出てくるのと同じです。

ここからは根本的な変化があります。十七神の原理から始まりますが、古事記は一々繰り返しません。十七神の神々が各人の意識に載っています。まず神がミコトになっており、ギミの神がギミのミコトとして剖判しています。神は実体を指すとき、ミコトは働きを指すときと分けてあります。また二者一体となっている時には神です。

ここから自分はギミの命に剖判していきます。


ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、 伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、

ここでの吾の眼はギミの命になっています。しかし注意してください。前段には無かった命という言葉が神に入れ代わっています。嗅覚の鼻に視覚に訴える画像を見せても何も起こらないように、行為働き機能等を司る命に、実態を司る神が問いかけても変化はおきません。命は神の命令ではなく、神の働きです。神の命令を聞くには、同じ働きを持つ聞く耳を持たねばなりません。同じ土俵に登らねば成りません。


天津神。

前段の先天十七神です。そこで、先天十七神の命の能動要因が、ギミの神の命の受動要因に問います。ということは今まで神の項目で触れてきたことの裏側に、神(カミ)の命(ミコト)要因が潜んでいたことになります。各十七神はそれぞれ行為への応答反射に対応します。しかしキミの神だけは初めから自主的な統合神として紹介されてきました。何故なら後にこの二神はそれぞれの道を行くことに成るからです。(絶対的な立場から見れば二柱命は一柱ですし、十七柱の神・命もまとめて一柱です。)

そこでここから、天津神は活動を始めます。というのは自分自身が活動することです。自問自答の先天版ということになります。

天津は先天、国津は後天です。前後の関係はあってもここまででは後天の神は出てきてはいません。


諸の命以ちて、

諸々の命の内容は先天十七神、すなわち、母音半母音父韻の十七世界からくる命で、この世の個別現象を創る神はまだいません。五十音図では父韻のイ段が一番下に来て母音半母音が両端を囲みます。真ん中の子音部位は空白です。吾の眼の初発です。

意識の主体が出来たら子音現象が創られますが、まだ後の段階です。


「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。

問いかける範囲は自己意識の定立に関することです。それ以外はまだ受け取る事ができません。丁度古事記の精神現象学を創った当時の社会には入れられなかったごとく、神の神話物語にしたようにです。まずは自己意識の先天の機能にミコトの仕事を成し遂げる用意があるか問われます。

この漂える国を治め固め成すことができるかと。これが吾の眼に載ります。これが載りませんと何も起こりません。

この漂える国

これは、意識にとっては、漂える、タタ酔える、タは全体を現す言霊なので、大なり小なりの領域となっているタという領域がふらつき確固たるものがまだなく、流動している状態をさします。それと同様に他の次元世界も漂っています。その最初で最大のものは名前が無いことです。しかし現実の歴史に換算すれば、歴史はそれなりに進歩発達し各個人も順調に成長しているようにみえます。

しかし放置された歴史ならそれでもいいでしょう。階級闘争やら弱肉強食やらに操られていることでしょう。現在までの歴史、文明、物の構造を無規則に漂わしたままにせず、しっかり言霊に組んで似せる(クニ)ことができるか問われます。

(そこでまず最初の仕事は蛭子と淡島を産むことになりますが、その意義は後ほど。)

修理(おさ)め固め成せ」と、

意識の領域である国を、オを持って治め(修理)、カにより明瞭(固め)に名付け(成せ)と。

国を修理固め成すのはなにも建築資材だけではなく、名前を与えて秩序を構築することもそうです。

オ。おさめ、過去経験、概念から逸脱することなく。

カ。かため、高天原の共通の音図をもって、タカアマハラのカ、タは黄泉の国の後出てくる。

ナ。なせ、治め固められた名をもって。最終的に名が与えられれば漂うことも無くなる。

天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。

天の沼矛

矛は両刃のつるぎで、太刀は片刃、切っ先は舌の形をしている。先天的に十七神を自在に操る舌をもって発音して(天のぬぼこ)。名を付けることをもって(縫う)意識、物事を固める。このように十七神は物事のピン止め名付けを行わせるようにしました。

キミの神は自立神のように見えますが天津神に命じられます。要点は政治社会的な行為を行うことではなく、名を以て発音し修理め固める、言霊を与えることです。他の行為は禁じられ天津神のいう通りにします。このように私達は最初から先天の両刃のつるぎを持っています。

かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、

天に浮かんだ橋ではなく、先天の意識の橋です。また二人並んで立つのではなく、意識上(天)の五十音図のイ段母音側に男神、イ段半母音側に女神が合い向かい配置されます。こうして後天現象を産む準備をします。

この論考はアマテラスの鏡を実際に造ろうとするものですが、当面の理解を助けるために五十音図を利用しています。母音イから半母音ヰへ渡るにはどうするかは次の段落になります。

浮き橋というのは丁度思ったり考えたりする時のように、ここで一方では主体である本人の身体と脳髄があり、他方では脳髄の向こう側に何か手応えのあるものを想定して、何か意識の上で橋をかけているような感触があるようすに似ている。

二神が両端に立って何をするかというと子音を産むのです。名付けることを子を産むという。その準備です。

その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、

沼矛を使用してということは舌を使うことであり、言葉を発するになります。指し下ろす行為機能に八種類あり、チイキミシリヒニの八父韻、相手にする実態に四次元、アウエオ、あります。カキ(画)は今までに与えられた次元世界を攪拌して意識に引っ掛かる所を見いだすこと。そのことで当初の吾の眼を見いだします。

塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、

塩を鳴らすでは意味不明。塩は四穂、四霊(ほ)四つの次元世界をこをろこをろ、子を下ろす子(子音)を下ろす、で四次元世界と父韻を混ぜ合わすことで、子音に成るかどうかを沼矛(舌)を使って試している。母音と父韻との組み合わせは、母音足す父音、父音足す母音、父音足す父音、母音足す母音の組み合わせ。A+T,T+A,T+T,A+Aとなります。

こうして言葉となる組み合わせが見つかれば引き上げられます。霊気開け(ヒキアケ上げ)。鳴らすは発声発音することです。前記の組み合わせでは、T+A,タと発音できるもののみが子音となります。掻き回して鳴らすことができれば、引き上げられます。引き上げというのはワ行から湯気(飛気)の素早く次々と立つように出てくることです。


その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、

ところがこの段階では子音ができる前に、善いも悪いも無く、自己意識を載せる領域、島、ができてしまう。名を付けるため単音の子音現象を造ろうとしていたが、そうはいかず、単音の帰属する領域の塊ができてしまう。塩の累積、四穂、ウオエアの累積。

ここでも自主的な単音創造でなく、それの載る領域創造が先にくる。基礎となる領域が完了しないうちは、下足り、目指す領域に到達しない。

単語の発音となる舌の元の発生、声帯、はこの後にくる。こうして主体意識の領域もまずは主体意識の宣(の)る先天領域を確保することから始まります。これは他の主体との共通語の元となります。ヒルコ。一般社会性

これ淤能碁呂島(おのごろ)なり。

太安麻侶による名付けの謎々傑作は数多くありますがその内の一つです。おのごろ島、己の、心の、締りの領域。とりあえずこれが、おのれの心の島、締まり、領域となる。この領域に乗って出発すれば全てのことがらは自分のものとなる。こうして人間誰でもがおのれの心を持つことが出来、それを自己領域として立てることが出来ます。まだ単音を創出していないので、詳細はまだありませんが、オノコロ島も次のように成長します。

その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。

やっと自己意識の領域ができました。それも土台だけです。しかし徐々に盛られていき、自覚の後は自分で大きくなります。この段階で自我はまだ確立していません。その自我はどこからくるのかといえば、天降り(あもり)のアに先天的にかくされています。

おのれの心の島の構成は当初いたって簡単です。柱一本と拡縮する八つの居間です。これが鏡の原型、おのれの心の鏡となります。

後天現象の蓄積の場となり成長(尋ねる殿)していきます。

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天の御柱を見立て、

ここは意識の領域の確立と記憶の増大に伴って意識の進展するところです。

平面の五十音図で示すと主体側(母音側)と客体側(半母音側)は分かれてしまいます。古事記の説明も橋の両端をイメージさせます。図示するとこうなるというだけで、頭の中が平面や橋であるわけではありません。柱も心を現した一つの比喩です。

一つ柱と一つハ尋殿で一対の心です。

その柱は世界を現すと同時に、五次元に分かれていて意識の言霊五母音に対応しています。主客は一つになっていて、伊勢神宮の心柱のように五分の二は地(意識)中に埋まって立っているという格好です。埋まっているわけは、エとイの言霊世界で、エ次元は選択按配ですからこれから未来に現れるということで埋まっていて、イの次元は見えも触れもしない意志の創造世界なので埋もれています。

この後子音、子現象を産みますが、一切の現象がこのこころの軸、柱から産まれここに戻りまた心となって進展していきます。

伊勢神宮は初めてできた心の軸を祀っていることになります。更にその上に八角の鏡を戴いています。

八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。

八尋殿とは八つの意識を尋ねる宮殿。柱とは別の場所でなく柱の廻りを囲むように、または上に載るように立つ。または相対する柱の間に立つ。

この柱の廻りに意識の拡がりが展開します。八父韻の時空の流れが現在過去未来全体という主体と客体の四方向へ家屋の居間を構えるように、それぞれの居間を作り拡がります。吾の、己の、心の居間。


後天の立場の成立。

さきぼど、まだ自我が無いのに、その自我を立てようとする自我はどこから来るかという疑問を投げかけていました。

私達は「命/ みこと」という先天の機能を持っています。遠い昔(八千年前)のこと、意識の構造がスメラミコトによって発見され解明されて大和の日本人の言葉が作られました。それ以来、古事記の上巻で現される精神現象学が大和の日本語を話す人達の先天の意識構造となりました。天地世界を意識する天地、アメツチ、の初発の時以来、吾の眼を付けるや否や大和の先天十七神の言霊世界の領域に入り込みます。冒頭です。

ひとたび十七神の領域に達するや領域内での活動が可能になります。実在領域と働き領域と原動韻が揃っていて、子現象を産む場所も用意されています。古事記はこの同じ土俵に昇るということが非常に重要視されているように感じます。五十音図も言語規範の運用領域を示したもので、各実在母音世界に応じて四つの五十音図領域があります。

そしてまずは自己増殖のようにして十七神から借りた力で、先天から脱します。そのための現象を産む領域をオノコロ島として作ります。

ここに初めて先天の領域から後天へと至る道が開けました。

ここまでで意識の先天構造の話は終わりました。

しかしまだ後天現象そのものを産んだ分けではありません。

後天の意識を産む領域の用意ができました。

次いで、後天の子現象そのものを産む領域を、蛭子、淡島という形で用意します。両者は抽象概念や一般概念に相当し、個別性となる子現象はこの両者を土俵とします。この両者が無ければ後天現象の行き場がありません。

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ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、

オノコロ島ができましたが、どちらか一方の所有するものではありません。キミの二人で創る自己領域の土俵です。心の締まりの実態(柱)と働き(八尋殿)でなりたっています。これから拡張していきます。島をどうするのかというのと二人をどうするのかというのは、同じ質問です。

父韻が母音に問いかけるという構成です。殊にミの母音世界は上も下も無く規則も形式も無いような世界です。そこで行動運用因果を創り出すギのミコトがといかけます。しかし行動因は実態のどこに話しかければいいのでしょうか。

「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、

キはもっぱら働きの動因として従事しているため、相手の実態の構成については不慣れです。同様にミにおいても働き動因については知りません。キはミの身、実について問いを設けます。しかしキの質問は自分の働き機能に関することになり、ミの実態についての問い掛けにみせています。自分の剖判した片割れへの自問自答です。

「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。

あなた様の働きかけや作用を受けますが、一向に締まりを得る結果がもてません。私の母音世界はアシカビの勝手気ままにまかされています。勝手に鳴り響いていますが、その各々は鳴り止む方策をもちません。例えばアならアを発音すると息の切れるまで際限なく続きます。成り合わぬです。

それもそのはず、実態側のミは自由自在に自分で変化し思う通りに成すことができません。あくまで受け身です。

成り合わないところとは、父韻を受け取れず、自分一人では処理できないことを女性器にかこつけて言い表したものです。

ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。

そこで一方キは、働きはあるがそれを受け止める受け皿を持たないので、そのことを成り成りてとミに分かりやすいように実態の話をするが、実のところ、鳴る鳴ると言葉の働き機能の話をしている。

キの父韻、チイキミシリヒ二、を仮にロ~マ字表記すると、TIYIKIMISIRIHINIとなり、(アと合体の場合タカマハラナヤサTAKAMAHARANAYASAとなり、)母音による歯止めが無い場合は、Ti(IAUOE無し)、Yi(IAU、、無し)、Ki、Mi、Si、Ri、Hi、Niとなる。このため鳴り残しイ音が生じてしまう。鳴りあまれるところありとなります。 母音であるミの神をほったらかしにすることになります。

そこで白紙の領域を色づけようとします。


故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、

今度は明瞭な意思の元に行う行為にするつもりです。ほったらかしにならないようにミのミコトに問います。鳴り余れるミの母音を黙らすためキの父韻で塞ごうとします。

刺し塞ぐとは、母音世界を黙らせることです。と同時に成長を一時的に止めます。それなのに国土を産むというのはどういうことでしょうか。

ここでは父韻と母音とで子現象、子音を得るということです。大和言葉による名付けが始まります。

しかしその前に相手の承諾が必要です。名付けて通じ合うことは、ただ二人の間の承諾ではありません。社会全般に及ぶものです。

伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。

ミの承諾、実態の承諾をえました。これはギミ二人だけのものだけでなく社会全般に通じるものとしてもあります。

そのためには必要悪を決行することになります。蛭子と淡島(霊流子とアワ島)を何よりもまず産むことです。

二人の間には自己領域と社会全般領域に対する子産み、子音産みの承諾がなりました。


ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。

ギの男神が状況をどう行為するか説明します。美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)とは、イザナミ(ミ)を止(ト)める間(マ)の食い合い、のこと。もしくは、実(ミ)を取(ト)る間の食い合いのこと。柱、状況実態、を左右に廻り合うことで巡り逢おうとします。右は実きり、左は霊足りです。

どちらも泣き止まないミの実態次元を確定してあげ、次元の居間を八尋殿の居間のどれが適当か配置します。こうして吾の眼を確定するようになります。

八尋殿はどこへ行ったかというと、行き廻り逢いという行為そのもののことになっている。

かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、

右は身、実切りで、実態次元の配当、

左は霊(ヒ)足りで、父韻次元の配当です。

廻りは間割りで、両次元の居間(今)をあてがうことです。実際に柱を廻ることではありません。

人間意識の五次元層の内実を切り出し、どの行為にするのかを決めます。共に今という時間のことです。

伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。

ここで問題が起きます。しかしこれは前にも言った通り社会全般を取り込むための必要悪です。二人だけの秘事としてでなく、社会性を持たせ一般化に必要なことです。

その為まずミに喋らし、イエウオア、ます。

おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。

ミが始めに話すということは母音世界から順次細部へ規定していきます。住所を問われ、地球です、東洋、日本、関東、東京というように一向に住所にはたどり着かないが、その都度当人の一般性と社会性は確保されていくみたいなものです。

母音のミの命が先に話すとこうなります。Aを例にとると、

At,Ay,Ak,Am,As,Ar,Ah,An,

となって、出だしのア以外は何だかわかりません。


然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。

しかれども、社会一般性を確保した必要悪として認められる。アの中には自己主張や感嘆の気持ちや感銘等が含まれている。ミの後からギが付いて行ってもアの一般的な感情以外はうかがい知れない。

けれども、御子蛭子(霊流子)となる。大事な御子となります。

重要なことは広く社会に応じるため、葦船に載せて流布したことです。葦船とは言語規範の全般をさします。

要するに当該実態次元に当てはまらない父韻を持ち込むか、当該父韻に当てはまらない実態次元を持ち込み、一般性と称するやり方となります。

社会性を得る為の必要悪です。

次に淡島を生みたまひき。こも子の例(かず)に入らず。

アからワへと直接に、中間を問わずに、アを立ててそれをそのまま一挙に結論(ワ)とする、始めと終わりだけの一般普遍性のみのやり方。

正規の子音現象、子の例、には入らないが一般化した場合の子となります。これも主張の成り立ちを頑強に自己のものとするのに役立ちます。

では二人は何が不満なのでしょうか。

自分の領域内の子、子音、でないからです。


ここに二柱の神議(はか)りたまひて、

「今、吾が生める子ふさわず。なほうべ天つ神の御所(みもと)に白(まを)さな」とのりたまひて、すなはち共に参(ま)ゐ上がりて、天つ神の命を請ひたまひき。

ここはやり直し反省するときは原理原則にまで戻るよう示したものです。二人とも自身の力ではどうすることもできません。

何故二人はふさわしい子を産むことを知らないのでしょうか。それは二人の吾の眼を超える事柄が、始めにあるからです。二人の吾の眼を確定する言語規範が無かったからです。主体主観側は打ち立てただけの吾の意識を既にあるものとし、客体客観側は現象ではないにも係わらずあるとしてしまいます。

そこで二人は先天神に問います。

二人の吾の眼以前の先天の吾の眼、御所、ミモト(実の元)、を問います。二人のための一般性を得るためには蛭子と淡島が必要というわけです。その上でミモト(言葉の実の元)を問いました。

蛭子と淡島を産んだことは大失態でしたが、社会一般性を得るための必要悪でした。破壊も消滅もさせず温存します。

ここに天つ神の命以ちて、太卜(ふとまに)に卜(うら)へてのりたまひしく、「女(おみな)の先立ち言ひしに因りてふさはず、また還り降りて改め言へ」とのりたまひき。

天津神は、フトマニに載りますが、キミの二人は蛭子淡島に載ります。

フトマニは占いではありません。二十(フト)間(マ)似(ニ)で、二十の言葉の実の元の間に似せるです。言ってみれば二人が通じ合う相互の間の原始共通言語です。

どちら側から廻れということではありません。ウラ側(みもと)で合え(共通言語を話せ)ばいいのです。

ところが子音はまだ創造されていません。領域もまだ創られてはいません。そこで二人の間を橋渡しする先天規範の登場となります。二十の間で意識の領域作りに似たものを創出します。

二十は先天十七神の実在とその始めの働き、造化三神、で二十、フト、となるためです。

そして自己領域の創出に成功すればそこに子音を載せていきます。


( 3 )

かれここに降りまして、更にその天の御柱を往き廻りたまふこと、先の如くなりき。

▲▲▲ここまで▲▲