こころの原論。天照大御神の誕生。3

011 こころの原論。天照大御神の誕生。スサノオ。天の岩戸開き。 ◎

天の岩戸開きの始めはスサノオの狼藉が元となっていますが、「海原」の統括をするうえで、欲望を基盤とした達成のための性急さが元々の原因です。スサノオの余りにも真摯なストレートな態度をいいます。五感感覚の欲望の上に立った研究、追求、誠実さのため、他を省みることが無く自己の主張第一主義になっています。古事記では悪行をしているかのような書き様ですが、五十音図上では当然の行為です。赤ちゃん、餓鬼の態度や、経済のことしか考えない経営者の勝手な我欲なやり方、欲しい欲しいの主張を繰り返す人々、あるいはそれを煽動する人々となっていくものです。

例えば、スサノオが「糞まり散らし」というのも糞はクソ、組む素のことで、自らの統括範囲である「海原」、言霊ウの世界をウの言霊次元で考え改良し実践していこうとする短絡的な熱意の現れです。スサノオなりに自らの次元宇宙で世界を解明したい分かりたいという強い欲求です。

くそ、組む素、を振り返ってみれば普通に自分でしていることになります。何かに疑問を感じたり、何かの不足を感じたりした時など、そのことだけが気になっていきそれを中心として自我欲望の柱ができていきます。それの達成のためには過去に取得していた現在手持ちの知識と欲望の総体でことに当たるわけですが、それだけのものしか持っていないのですから、そこから出て来るものは自我一辺倒になります。要素の、状況の、判断は自分の持ち駒で勝手に切り刻んで行くことになります。

これが組む素をまき散らすということで、思いを述べ、意見を言い、各自が内心では結構いいことを言っているなと思いつつその実は、糞マキと言うことです。自分の意見感じの出所に対する自覚が無く、自他との繋がり結果の確認が捨ておかれてながら、自分の欲望、疑問だけの殻の中からでることがなく、殻の中で勝手に気の付いたことを振り回していきます。特徴的に欲望の強い人の主張と直に行為に結ぶ付く情熱を思ってみれば納得いくことでしょう。

しかしそれらは当然の成り行きとなることですから天照は注意もしませんでした。相手を蹴落とす競争社会での発展の動因となるものですから、芽をつぶすことはできません。結果は、現代社会の繁栄とその負の遺産となっています。これを止める理由はありません。スサノオの方は最後まで研究の情熱を絶やしません。当然どこまでも行くつもりです。

そこで行き着いたのが、「服屋の頂」、縦横糸の織物を作る小屋で人間頭脳意識領域です。その性能機能をスサノオはウの次元でのみ追求開発していこうとすること、それを改造して強制的に生産していこうとする態度にでます。ほと、陰、は現象や子の生れるところの象徴です。人体実験やゲノム改良による新生物の創造、掛け合わせによる改造、気象や地殻を動かすこと、原子核の破壊実験、脳の改造となって現れてきています。

ここで昔の物語を現在に敵応することへの疑問があることと思われます。歴史の経綸の解説になっていきますので、後々に述べることになるでしょう。一言だけ言っておけば、古事記はスメラミコトノ世界創造の経綸の書となっています。古代大和のスメラミコトがユダヤ、モーゼ、キリストに与えた命令とか、世界宗教を創造させた話とかになっていきこの場では適当ではありません。(一言メッサージのアドレスから入って歴史を参照のこと)

スサノオはそれなりに自分の道を選択実践していくわけですが、知識からは理解されないやり方になります。もちろん智慧のある選択行為ができるわけではありません。自分のやっていることはそのまま正しいと思っています。スサノオを自分のこととして考えると当てはまるのではないかと思えます。

ということはわたし、スサノオには、智慧が足りないということです。五感の感覚をじぶんの考えの基盤にして、感じたことからそのまま考えることへと昇った積りになっています。感じ、おもいつきをわたしの物と固執して所有し、それを自我の柱として屋根を造っていくわけです。正直に誠実に素直な態度で自分を表現しているつもりになれるものです。これと同じことをスサノオはしました。

このことは別の見方をすると、スサノオ自身、私自身、の天照大御神が隠れているということになります。ウの行為、思うことは当然普通のことです。ただ自分の次元世界を自覚していないばかりか、他の次元世界にまで我欲を押し込めようとしてしてしまっています。よく、これはわたしだけの考えですという言い方がありますが、そのような喋り方自体が余計なものであるのに気付いていません。

そこでスサノオでありながら、わたしの(スサノオの)天照を岩戸から引きづりだすにはどうするかとなります。わたしはスサノオでありながら天照の次元に上昇する方法が岩戸開きというわけです。しかしこれは単なる量の上昇、知識の働きには拠りません。過去概念を幾ら溜め込んだところで、魂の変態上昇には達しません。

確かに一人の人間による魂の変態上昇に関することですから各自の持っているいるのは一本の柱です。今回が最後の「式年遷宮」になるように、次回には柱を引き抜いてしまうことができるようになりたいものです。

◎012 こころの原論。天照大御神の誕生。スサノオ。天の岩戸開き。 ◎

スサノオは田の形をした言霊構成図を自在に研究している積りで、その実は縦横組み合わせを目茶苦茶に好き勝手なことをしているわけです。スサノオは欲望達成に精出す人、経済産業活動に専念する人となっていくので、多かれ少なかれ現代の殆どの人達のことになり、そのようにしか知識活動をしない人となっていきます。

ここまではウ次元の人達の普通の行為ですが、スサノオは殿にクソをまき散らします。くそは組む要素、で五十の一つ一つの言霊要素のことで、五十音図を見れば分かるように決められた位置があります。また、誓約生みでの五つの男子は各母音段で代表された一つ一つの段を現した象徴言霊のことで、天照の子達です。それをスサノオは自分の好き勝手に位置を換え物事の研究探求追求の役に立つかどうかやってのけました。

五十音図の中でタカマハラとあるはずの位置を自在に変化させて物事を追求したのです。これなどもよくあることで、例えば古事記を話をスサノオの英雄物語にしたり、ヘブライ、朝鮮、道教の影響の下に見たり、宇宙人による地球乗っ取りにしたりすることとなっています。その態度は誠実な物からふざけた物まで幾らでもあります。ここではそれらが成立していく根拠が述べられたことになります。

天照は自分の生んだ言霊要素まで勝手なことをされたので、ということは、スサノオにおいては、自分で正統な判断規範を隠したという事です。社会的に見ますと、いろいろと目茶苦茶な事件が起こりますが、起こした当人の当時の様子には変わった事がなく当然の行為であるように見えます。ウ次元の思いつきはやってしまうまで終りがきません。思いつきで素晴らしいとされる事を書きなぐるブログなども同じような物です。こうして自分の思いの正統さが出るにしろでないにしろ、車で人を追いまくりひき殺すわけです。

「常夜」が来たと嘆いているわけにはいきません。政治も宗教も教祖も教育も全て無力です。個人的に歎きを書き留めるにはブログはいい場所となっているでしょう。言霊を言葉の威力と捕らえている人もいて、言霊を唱えると何らかの力を得るというのもあります。一つ公開して美しい世の中にしてもらいたいところです。無料で。そもそも外的な威力を頼ることがウの次元での宗教的な仮面でしょう。なけなしのわずかな経験の買いかぶりです。一つ間違えば車で人を追いまくることになるでしょう。

荒野で叫んでいるわけにはいかないのです。一人を殺すか何十万人を殺すかかに関係なく人を傷つけ殺すことは正当化されています。嫌だといっても加害者になり被害者になるのです。それでも未だに相手を責め自分を擁護しています。サッカーなどどこにも健全なものは無く、人を蹴飛ばし合い公衆の前で華麗な反則を競い合う汚い精神と唾を吐き合う競技です。多数の和を求め要求しながら自我の行に閉じ籠もり、神と感応するため水浴びをして個人救済の小乗行をしているときではありません。

「常夜」が2012年に開けるというアナウンスもありますが、次元上昇とかいって光が降り注げば開けた口の中で全員が善人になるチョコレートに変化すると期待しているようです。昔言われた宗教は阿片だということを思い出しました。科学的な裏付けを自認するだけ質が悪く反省がありません。

「常夜」が開けるということは岩戸開きを理解してそれに則らなければなりません。次元上昇とか降臨待ちとか正法の時代とかは宗教の始まりと共にあるので、何故宗教が創造されたかを見た方が手っとり早い。外部事情はいつの時代にもまもなく世が開けるという思想なり期待はあったので、時代を点検しても何も出てこない。どの時代にも主体側の状態が整っていないことだけが共通していたからです。

岩戸の話は意識とこころの原論から見て、新世界文明の始まる原理ともなっていますが社会文明上の準備が整っていない分だけ主体側の意識の準備も整っていないようです。確かに一人の民間人によって古事記の言霊原理は解明され開示されました。わたしもその波に載りたいなと思い、このブログを読む方は第三の波があるらしいという感触を持っています。しかし何分にも数千年の歴史が相手です。さらに本来の司令塔は職務を放棄してしまいました。その後に何の芽のでる兆しもありません。

「日月神示」から。

ウメの巻 第十三帖(四四〇)

天(あめ)の岩戸ばかりでないぞ、地(くに)の岩戸臣民の手で開かなならんぞ、誠一つで開くのぢゃ、誠のタチカラオの神、誠のウズメの命殿御用結構ぞ。

極め之巻 第二十帖

今の学者には今の学しか判らん、それでは今度の岩戸ひらきの役にはたたん、三千世界の岩戸ひらきであるから、少しでもフトマニに違ってはならんぞ。廻りくどいようなれどとつぎの道から改めなされよ、出舟の港は夫婦からぢやと申してあろう、ミトノマグハヒでなければ正しき秩序は生れんぞ、

至恩之巻 第十帖

国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、天運正にめぐり来て、千(智)引の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠(マコト)を知る鍵であるぞ。

上記の引用からさらに部分的に引用。全て言霊五十音図で解説できる神示のようです。こう言った物が手に入ると力が湧いてきます。

「地(くに)の岩戸臣民の手で開かなならんぞ、」/この神示では既に民間による言霊原理の開示が示されている。地(くに)というのは、組んで似せること、言霊原理の使用をいう。

「とつぎの道から改めなされよ、」/とつぎとは十の理(鳥居のこと)を次々に渡るということ。父陰、主体側の力動因。

千(智)引の岩戸(言答)(一八十、五十葉戸)/、叡智の敷き引かれた言霊の岩戸のこと。

以下古事記に依る開き方が説明される。

前持ってわたしの掴んだ神髄と思われるところを挙げておくと、堅石(かたしは)、真男鹿(まおしか)の肩(かた)の「かた」、これが高天原の「たか」へと変換転換変態止揚出来れば、常夜が開けるだろうと思われる。

◎013 こころの原論。天照大御神の誕生。修復。天の岩戸開き。 ◎

常夜が開けるだろうと思われる。前回はこんな大見得をきってしまった。アホなことだ。

至恩之巻 第十帖

国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、天運正にめぐり来て、千(智)引の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠(マコト)を知る鍵であるぞ。「日月神示」

真相が紹介されている。これを有り難く頂戴しよう。

日月神示はネット上での情報で上手い具合にヒットした物をコピーしました。そこでは、岩戸は何で開くのかと自問して、「マコト(歓喜、喜び、愛、ココロ中心)で開かないとならない」と自答されています。

マコトは巻く、混ぜる、丸めるのマ、コトは引用にある九(こ)と十(と)のことで、九拳剣、十拳剣の判断のことです。アの段の判断とエの段の判断で、月読みと天照の規範を指します。スサノオの八拳剣の規範では力及ばないものです。「地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、」です。マコトというのは漢字で書けば実で、実相のことを指します。われわれは実相が見えないので実相実相といいます。われわれの手持ちの経験概念を整理して実相といっています。ところが、実相は判断の間に九、十の判断を丸め巻き込んでいることで、スサノオノ八拳剣、つまり通常のわれわれの判断を凌駕します。(オロチの話しの段では八拳剣の判断を変身させる)

まさにここの構造が岩戸開きに当たります。古事記の与えた解説に挑戦していきましょう。

前提はスサノオのあまりにも真摯な研究態度によって五十音図がばらされ言霊の配置がスサノオ好みとなっています。

これを見て、機織り女が驚いて死んでしまいます。機織りとはもちろん五十音図の整然とした縦横のことで、布を織るように言葉を紡いで行くのですが、スサノオの思い違いから来る自分勝手な主張から縦糸横糸がメチャメチャになり、緯糸(横糸)をとおすヒ(父韻のこと)で、子を産む(現象を産む)ところを突いて死にました。布は生産されず言葉は創造されないということです。

何故そうなったかと言えば、服屋の屋根を壊して、天照の五十音図の上段ア行のア・タカマハラナヤサ・ワの配列を壊して、ふち馬の逆さ剥ぎを落しこんだからです。ふち馬は点々と斑のあるつまり整然と整理されていないことで、その時その場の思いつきの欲望言霊ウことです。馬はウのマで言霊ウの欲望次元がぶちの点々を見るようにあっちを見こっちを見、見境無くあっちこっちへと移動して気に入ればそれに結ばれ、思いつき気づき次第で態度を決め事を始めてく姿を指しています。一旦決めると、それがちょうど馬が一目散に疾走する姿と重なっています。欲しい欲しいという人態度です。そればかりでなく逆さ剥ぎにしたということは、順番通りに主体側のア行から始めないで、客体側のわけの分からない思いつきの結果を押しつけようとするものです。

クイズパズルや物を作る時、普通のブログ記事にはよく起きることです。うまく行けばいいですが、その強引さで基盤まで壊されてはたまったものではありません。

とうとう言語規範の枠組みが破壊されました。

こうなっては何の交流も行なわれず世の中真っ暗です。

・ここをもちて、・八百万の神 ・天の安の河原に神集いつどいて、

となります。

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天の岩戸開き。完全な判断規範の生成。

・・ここをもちて八百万の神、・天の安の河原に神集い集いて、

規範の修復。

スサノオに目茶苦茶にされたら普通なら、壊れた駄目になった部分にまず目が行き、そこを修復しようとします。ところが古神道はそのような手順は取りません。今でも鍼灸の経絡治療では古代に大和で教えられた通り、その場の対処療法は避けています。

(易や道教、五行、経絡の元となる思想は古代大和の言霊フトマニにあります。それらは後に逆輸入されたものです。日本においては非常に多くのものが逆輸入されていますが、古事記の言霊思想の解明と共にその理由がまもなく明白になるでしょう。伊勢の内宮、外宮のある理由です。こんなことをいうと何でも起源は朝鮮という古事記のフトマニ版になりそうですが、真相の出現を楽しみに待っていてくださいというか、大和言葉の中にあるので各自探してみることです。興味半分のついでに言えば、モーゼの教えの元にもなっています。)

今度は天の安の河原にスサノオと天照を除いた神々が集合します。天照とスサノオは伊耶那岐の片割れですから、この両者に対する他者という構図になります。つまりここは伊耶那岐のイザと立ち上がる主体側の系統を引くものですから、スサノオの隠れた天照、主体的な判断規範、を探すことになります。スサノオの勝手な自在さをどのように天照の規範にしていくかということでしょう。

では対処療法を避けてどこまで戻るかというと、「天の安の河原」にいる高御産巣日までです。速い話、まるで始まり以前まで戻ります。これは問題対処の第一となるものです。

天というのは先天を指しますから、当の問題が発生する以前まで戻るのです。問題発生以前には全てが静かで安らかな状態でした。それを「天の安らかな河原」と表現しています。安らかなので問題はまだ起きていません。しかし河の止まない流れのエネルギーの持続があります。自分も自分の廻りも相手も相手の廻りもあるがままで、恣意的な判断が入り込む余地はありません。そこまで戻ります

河は流れ、石ころは相変わらずころがっているのです。対岸には樹木があって鳥がさえずってさえいます。この何の変哲もない状態が八百万の神が神集い集いて、ということです。しかし、生きている自分がいて、五感があって、疑問や、さて何をしようかという思いがうごめいています。せせらぎも聞こえます。

(もし人生とは何かで悩んでいる方がいましたら、出来上がってしまった悩みから、自分勝手に造り上げ選んだ悩みから出発しているのですから、その直接の原因などを探すことなく、静かで安らかであった時まで戻ってみてください。)

こうして問題の起きる以前、安らかな状態にまで戻りました。

そこでどうするのかが次です。ここで注意しなければならないのは戻ったとしても手持ちの駒が増えたわけでは無く知識が増えたわけでもないことで、前と同じです。

・・高御産巣日の神の・子思金の神の神に・思わしめて・

そこで話は高御産巣日の神まで戻ります。

岩戸の中で天照は動きが無いのですから、その状態に対応しなくてはなりません。それが高御産巣日です。その高御産巣日の神の子思金の神が作戦を立てます。そう簡単なものではありません。

しかし何故ここに子供が出て来るのでしょうか。もちろん生物学上の子供ではありません。おもいかね、かねというのは、かな、ひらがな、言霊のことで言霊を思うことです。

高御産巣日(アの言霊)は主体側の全体ですから、客体側へ行くこと、客体側から受けること、時処次元の選択をすることの全体です。その高御産巣日の自己分析の内の思い金ということになります。

後に出て来る神名が次のような対応がありますので、ここでいう思い金の神というのは父韻のことを指します。思い金を多くの思慮を兼ね備えたの意味にしてしまうと、鳥を鳴かす思慮とは何かとなり、意味が見えてきません。神代の巻は御中主から全て生れていくので、全部の神がそれに通じています。自分を御中主とすれば全てのことは自分のこととなるのが納得されるでしょう。天照は隠れた自分であり、スサノオは欲望を実現しようとする自分であり、思い金は問題解決をしようとする自分であり、全て自分一人のことで八百万の神とは自分のことです。(あまり強く主張するときちがい扱いになるし、主張するまでもなく当然なことははっきりして来るでしょうからここまでにしておく)

○・思金の神・父韻

○・天津麻羅(あまつまら)・統合された状態をいう。

○イの言霊・伊斯許理度売命(いしこりどめ)

○オの言霊・玉祖の命(たまのやのみこと)

○アの言霊・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)

○・布刀玉の命(ふとたまのみこと)

○ウの言霊・天の宇受売の命

この自分の中にあるある特徴的な部分を思い金として表現しているのですが、ここでは隠れた天照に対応した状況にある思い金、父韻となります。私たちは何もしなくても河の流れがあるように、意識と意思の流れの中にいます。これは赤ん坊の時からどうしようもなく持って生れてきたものです。各人に安の河が流れているわけです。これは、自分の考えを元に、自分の意志・判断で行動しようとする態度、もう一方の実在、客体と相互作用したり、関係をもつ存在を主体とする以前のことです。主客に剖半する以前の自分の中にある流れがあります。自分が相手を判別し物を見分ける以前のことです。

物を見分ける以前に何があるというのでしょうか。神代の巻では冒頭の十七神で、見分ける以前を説明し、次いで三十三神で見分けるものが現れ、ついでその後の五十神で見分けたものをこう言うものだと説明しています思い金はこれらの百の行程の総称です。

例えば、まず、

・常世の長鳴き鳥をつどえて鳴かしめて、

とあります。

長鳴き鳥とは母音のことです。道教では谷神は死なずと表現しています。

◎014 こころの原論。天照大御神の誕生。実在母音行。天の岩戸開き。 ◎

・高御産巣日の神の・子思金の神に思わしめて、

・常世の長鳴き鳥をつどえて鳴かしめて、

とあるのは、

/父韻に活動させて。

/母音を集めて実在母音へ働きかけ(道教では谷神は死なず、と言っています。)て現象を産む、ということですが、超むずかしいところです。

哲学にしろ精神分析学にしろブログにしろ、意識に現れたもの、現れた意識を扱ったものはいくらでもあります。というより知識で経験でその概念で扱えるのは現象だけです。あったものを整理分析判断しているわけです。予想、科学的予想まであるらしいが、その予想というのも既得経験の概念延長でしかありません。

古事記がここで扱うのは意識そのものの現れで現象してしまったものではありません。これから出て来る意識で、今は岩戸の中の暗黒領域を探ろうとするものです。そのためにはまずは自分が岩戸の中の暗黒領域と同等な状態でなければ、相手と対等にはなれません。天照と同等に成るには自分も暗黒になって相手の興味を引かねばなりません。それが非常にこまかな準備となって記載されています。一見すると無意味にずらずら並べているかのようです。

現象となった以前の意識を問うのですから、現象としての言語で解説するのは無理というものです。しかも、問題対処の第一として「天の安らかな河原」に戻れなんて言ってしまっています。口は災いの元だ。そんなことは言っていられないし、古事記を斎立て己のこころの島(オノゴロ島)に天の御柱と八尋殿を立ててやってみよう。

古事記の記載からは次のように読めます。

・自分が相手と同じ暗黒であってもも、できること、あること感じることから始める。→「安の河原」に行く。

・まず主体活動の主である高御産巣日であることを止める、→その子となる。

・暗黒宇宙でもあるものをさがす、→実在母音を設定する。

・相手の実在次元をさがす、→、母音次元の選択をする。天照はアの次元。

・それを整理して相手と同じ始まり方を探す、→「カ」と「タ」のどちらか。

・整理された規範を相手に近づける、→言霊イでは、言霊オでは、言霊アでは、言霊ウでは、、、、、

そうしたら、

・相手の興味を引き出す。→暗黒中でも相手の全体の注意を引くものを探す。

一応古事記の記述からこのように読めますが、何のことだが分からないし、しかも暗黒中の出来事です。よく不明なメールが来ますが、だす方からすれば相手は岩戸の中です。相手を引きつけるような件名を懸命になって考えているようで、一度メールが開かれれば相手が理解できるような仕掛けがワンサ見つかります。こんなところも参考にしてみましょう。

さて行きましょう。

常世の長鳴き鳥は何匹いるでしょうか。とり、十理、鳥、というから十羽ですというのが一つ、母音と半母音の五+五羽というのが一つ、主体側の五羽だけというのが一つ、世界にはまだまだいろんな母音があるからその総体というのが一つ。そこら辺で捕まえた鶏だから数不明というのが一つ。夜明けを告げる光明をもたらせた鶏だから一匹というのがひとつ。

もちろん長く鳴くというのは、一度発声すれば変わることなく続く母音のことです。鳥、十理、とりは五十音横の列十音です。集えてとありますからある数の集合を指し五十音図の母音行五つと、各横列です。全部で五十音図のことになります。しかしこの五つの母音は主体側の活動開始と共に始まるので、活動以前の「安」の状態ならば半母音側の五つです。これを純粋客体側と言ってもいいでしょう。他の文献では「ス」とか○チョンとか天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊とかいっていますが、古事記はそのような記載をせず「何々の時」というだけです。

ところが鳥(十理)を集えて鳴かしめてとなると、もう鳴かしてしまうのですから、父韻が関与して母音と結ばれ現象子音が発生するのでそこには単音ができます。単音は時処次元の相違を現すと五十個になります。

正式に現象となった実相から見るなら、常世に常に鳴きわたるのは単音五十個の言霊元素とその組み合わせです。

しかし鳴かす働き(父韻八)と鳴かされる母音(半母音五+五)を既成のものとすると、鳥の新たに生れて来る実体だけを勘定すると三十二です。

自分で問いなど作らなければこんなことにはならなかった。読む方はさっぱりでしょう。

ところで、世界中に多くある他の母音を考慮しないのかという疑問があると思います。何故大和言葉の母音五つだけが取り上げられるのか。

この問題に関しては高天原大和の古代人達が何百年何千年とかけて解明発見したので、わたしには手が出ません。人間の精神宇宙を見つめ続けて研究した成果としてただ受け取るだけです。日本語でないと精神とこころが言葉と結ばれる原理が出てきません。例えば「い」から始まる日本語には古代大和以来の精神を示すことができますが、「i」を語頭とする英単語を並べても精神宇宙は見えてきません。

美しいものを見て「アァーー」と嘆息する時、自分の力量を超えたものに「ァアーー」と圧倒される時、何か発見したら「オー!」という時、不思議だなー「オー」という、何か先が分からない時「エッエッ」という、腹減っているのに待てといわれる「ウーッ」と鬱血する。

人の精神世界はこれらの言霊母音からでてきますが、その一つ一つはそれぞれの次元世界を作っていきます。人が感動する時にはウーとか、イーとかいって感動はしないのです。それぞれは全く別次元を作っていきます。人間とはこれらの母音の焼き直し延長で、どんな偉い先生もこれの上に立っていて誰でも同じ人達です。

これらの母音は人間生命の根元に存在していて、精神宇宙を開き開発していきますが、それ自体は現象としてはあらわれず、物質的な媒介物の現象となっていきます。その顕著なものは言葉ですが、実のところ言葉は単なる空気の振動でしかありません。音さえ出ていない濃密過疎の空気の振動です。音と聞こえ意味が捕らえられるのは聞く耳があるからです。ここにあるのは現象とはならないが先天的に存在していて物象を意味ある実在する力動です。独神と成りまして身を隠したまいきということがその秘密です。

母音には実在と実在へのアピールはありますが、独自に行為することができません。常に隠れていて取り上げられるのを待つだけです。腹減ったという空腹感はあっても、お腹が減ったという言葉で取り上げられないと自らを実現できません。美しいものを見た聞いたの感動はあっても、自分の感動を相手に伝えられないようなものです。

思い金はこの母音世界を集めたのです。当然五重の層となっています。衆生・声門・縁覚・菩薩・仏陀の五段階、五重塔で象徴され、言霊フトマニの古代世界への拡がりに応じて、五大、五行、五大天使、忌柱、等々で表象されています。古事記では冒頭十七神全体のことですが、世界へ流布する時に多少はしょっています。

思い金は人間精神の、その宇宙の全材料を集め、ついで選別整理、調理準備にかかります。

母音世界を集めると何故それがそのまま全材料になってしまうのか、母音だけでは無いのかという疑問もあると思います。

前に書いたとおり高御産巣日は主体側能動側を受け持ち、その息子も同様な働きを継承しています。息子の名前の思いが示す通り意識、意思の能動的な働きを示していきます。一方母音側は自主的な能動性を持たず、常にウーーー、アーーーと鳴り続けているだけです。空腹感でも美しさへの感動でもいいですが、それらが何時の何処のどのような物であるかを明かしてくれるものが必要となります。つまりまぐわいの段での成り合わざる処を塞いでどのようなどんなものであるかを示す相棒が必要となります。それが思い金です。

思い金の父韻の働きによってカレーでなく寿司が喰いたかった、いや水が欲しかっただけということが分かるのです。

つまり思い金には鳴り響き母音の内容を決めてしまう力があります。思い金が働く時には同時にその時処次元も動くのでそのまま材料のあり方も決まって出てきます。意識の発生の説明のため順を追う手順が必要なのでまず母音行がきました。

そこで材料の選別整理運用にかかります。

・・天の安河の河上(かわら)の堅石(かたしは)を取り、

・・天の金山の鉄(かね)を取りて

思い金が働いたので材料は集まりましたが、どさっとかなの山、金山が置かれたままで未整理です。精神世界での材料とは言語活動で表現されますから、言葉になります。常に金、かな、言霊が取り上げられていきます。

◎015 こころの原論。天照大御神の誕生。かな。天の岩戸開き。 ◎

高御産巣日の「子」とあります。高御産巣日が直接思うのではなく子どもが、ということではなく、高御産巣日が直接思うことですがその結果が出ている、考慮の設計図があるということで、思い金が何も無い処から思いを造り始めたのではありません。高御産巣日の思いの結果を思い金といっています。ですので思ったことのあれやこれやの材料がごろごろここにあるということです。

そこで集まった材料の選別整理運用にかかります。

・・天の安河の河上(かわら)の堅石(かたしは)を取り、

・・天の金山の鉄(かね)を取りて

・・鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(まぎ)て、

思い金が働いたので材料は集まりましたが、どさっとかなの山(金山)が置かれたままで未整理です。精神世界での材料とは言語活動で表現されますから、言葉になります。常に金、かな、言霊が取り上げられていきます。

これは暗黒の中で物が見えなくとも可能なことです。人の言語活動は言葉を使わない領域でも、頭脳内では物凄い勢いで言葉の使用として活動しています。言葉に出せないような感動も頭脳内では瞬間的に言葉の全構造が活動して、感動の表現を支持していきます。

まず何が始まるのかというと、

・・天の安河の・河上(かわら)の・堅石(かたしは)を取り、

です。

・天の安河の、/先天(天)の純真無垢(安)な精神世界の活動(河)の

・河上(かわら)の、/精神活動を五十音図と取りますとその上部(河上)(天照の音図の上部)である言霊ア段、タカマハラナヤサ・ワ。

・堅石(かたしは)を取り、/堅いということについて。かたしは、という特徴的な読み方から。堅し葉、堅し言霊で母音行。堅石を堅イワと読み直して、堅い確実な五葉イハで母音行。

・堅(かた)について・外国語にはかな(アルファベット)に人の意識を見出すことは殆どなく、かなの連続にも意識が直接現れているということもありません。bookのどの組み合わせを見てもそこから意識を探りだすことは無いようです。大和言葉は一音一音が意識に対応した意識から出来上がった世界で唯一の言葉の構造を持っています。

例えば「し」と言えば、意識の決まった方向の結論へと収束するように選択肢がこれしかない状態を産み出し、今現在を静め収めようとする律動や、精神宇宙にる精神内容が螺旋状の中心に静まり治まる力動因と説明され、シー、静かに、死、等の意識の表現と言葉とが直結していきます。

このように同じかなアルファベットと呼ばれていても本質的に異なったもので、比較によってしか自分の姿を現せない外国のかなの柔な不確定不規則なものは取り上げず、意識の表現がそのままかなとなっている大和言葉の確実性を堅いといいます。

さらにもう一点は、かなが構造となって全体的な組み合わせとなっていく時にどのかなから始まるのかというと、言霊「カ、タ、、、」又は言霊「タ、カ、、、」の順になり最重要な始まりの言葉ともなっています。これは後に鹿の肩(カタ)骨を抜き取るところでもでてきますが、最重要な「カタ(肩)」を抜き取るとどうなるかが示されていきます。

何故最重要かといいますと岩戸の物語の始めの建速須佐の男の命の神遂(かむやら)の場面で「かれその伊耶那岐大神は、淡路の多賀(たが)にまします。」とあり、人間としての意思の発動が「多賀(たが)」、言霊タと言霊カにあるとしているからです。たがはたがねのことで桶の分解を防ぐもの、言霊五十音図のことで、ウズメがひっ繰り返して踊った桶です。

・・天の金山の鉄(かね)を取りて/かな。

=金山は、ひらがなの集まり。常世に実在している金山(かなやま)、かな(ひらがな)の山から言葉の組み合わせを取り上げていくこと。

言霊ひらがなの山、対象となる材料。始まりがカとなるかタとなるかで全ては鉄のごとく硬く決まっていく。ここで「カ」か「タ」かで組み合わされた後の意識は全て決まる。

意識の表出となるかなの集まりが山のようにあり(かなやま)その内の確実なかな言霊(かたしは、カかタ)を取り上げ、始めとしました。そして今度は残りのかなの山から確実な現象子音となっているかな(鉄かね)を取り上げます。

ひらがなは既に古代大和の五千年以上前に作られていたものですが、現在の漢字を崩した形ではないので混同する必要はありません。

神代文字と呼ばれていて、意識の活動に沿った形で創造されていました。【言霊ハ】 山の神名は大山津見の神(おほやまつみのかみ)が担当しています。

皇室の立太子の礼は今でいう成人式で、ツボ切りの儀式を行ないます。壺の中を刀で掻き回す儀式です。壺の中にはひらがなの記載された粘土板が入っていて、スメラミコトとなって言霊の運用をする立場になる準備となります。刀は判断力の象徴。このように神道、皇室の行事、儀式、事物等は全て五十音図の解説のために見つかるように隠された秘密です。

外国のかなは幾ら発音しても単音としての意識も意味もありません。日本語においてのみ発音と意識が一致しています。しかも単音単位です。単音の単位は五十音図にある通り五十です。濁音半濁音を入れて数が増えているものもありますが、単音時の意識は同じものです。例えばハは言葉の表現が宇宙の表面に完成する韻で、バでもパでも同じ意識の現れを過去と未来の方向へこころを寄せたものです。

ということは人間は何十億といますが、その心は五十の持ち方しかないということです。その精神宇宙は母音行の五段階、見る方と見られる方に分ける母音と半母音の意識、その両者をかけ持つ精神行為が八つ、その結果が三十二の子音、まず始めに十七の先天活動がそれの力動因となっている、図にすれば五十音図、柱にすれば伊勢の御柱、二本で現せば鳥居、二個の岩で示せば二見浦、三種の器物なら三種の神器、失われた契約の箱に入ったマナを納めた金の壺、アロンの杖、十戒を記した石板、等々、人間とはフトマニ言霊であることを証明するものばかり。(マナはフトマニのマニから、スメラミコトがモーゼに与えた)

そこでかなの材料は集まりました。今度は整理有効な運用です。

・・鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(まぎ)て、

言霊イ。・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、

言霊ア・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・

言霊エ・玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、

言霊オ・布刀玉の命(ふとたまのみこと)を召して、

言霊ア・天の宇受売の命、

と、続きます。