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日本古来の古神道の禊祓とは

( ブログ「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」からの複写。発言者は島田正路氏。 ) 2011年07月02日より連載・・・http://imakoko.seesaa.net/archives/201107-1.html

引用の後にわたしの感想が続きます。以下同じ。

日本古来の古神道の禊祓とは

今日から入ります古事記の禊祓という方法は現代人の考え方では決して思いつかない精神的な方法でございます。なんだかごちゃごちゃしてどうなってしまうか判らないという世の中に居まして、この禊祓の方法が自分の心の中でちゃんと確かめられる人が一人でも多く出ていらっしゃると、それに応じて世の中が大号令をかけなくても変わってくる、その大切な方法でございますのでお聞き下さっておわかりにならないところは後からご質問なさって下さい。

竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはら)というところに伊耶那岐の大神が降り立ちまして禊祓をはじめます。

繰り返し申上げますが、古事記の云う禊祓と申しますのは今の神社神道がやっております様に、身が穢れているからそれを清める為に水を浴びたり滝にあたったりして、清めるものとして禊祓という言葉を使っておりますが、それは現代の神社神道が、従来の外国から来た宗教の真似をしている業(わざ)でありまして、日本古来の古神道の禊祓と申しますのは、ただ、自分の穢れを祓うと言う小乗的な、自分の為にする業ではありません。

この地球上で起こっている一切のものを自分の体の中で起こった如くに考えて、それが全部自分の責任だという立場から、自分の身を清めて、そして世界人類の文明を新しく創造して行くにはどうしたら良いかということの方法を述べるのが古事記の禊祓でありますので、単なる個人的な穢れを清めるということとは全く違いますのでその点を心に留めてお聞き下さい。

---以上コピー。-------------------

『 この地球上で起こっている一切のものを自分の体の中で起こった如くに考えて、それが全部自分の責任だという立場から、自分の身を清めて、そして世界人類の文明を新しく創造して行くにはどうしたら良いかということの方法を述べるのが古事記の禊祓でありますので、単なる個人的な穢れを清めるということとは全く違います 』

出だしから恐ろしいことになりそうです。ブログ「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」からの複写をベースにして、わたしの勝手な言い分を書こうというものです。

自分の身体の中で起こった如くに考えなさい、ということですので、もう既に震えています。ということで逃げ口上をまず書いておきました。

また、引用です。

『心を求めても分からない、心というものは分からないもの、実体がないもの、分からないことを分かろうとするから悩む、コロコロと変転止まないものに安定を求めても不可能なこと。

それを知るには修行の途中で答えを出そうとしても無駄、分かろうとして努力したけれど、どうしても分からない、迷ってもそれが当たり前だと知る、その時に初めて解脱できる。

空は求めなくては分からない、求めている内も分からない。』(引用ここまで。)

古事記の禊祓の文章は次のように始まります。

『 ここを以ちて

(◎) 伊耶那岐の大神

の詔りたまひしく、

「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」

とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。』

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、、、、、、』

『 ここを以ちて』と言って文章を始めています。『ここを以ちて』が無ければ禊祓などありません。

何を以ちて『 ここを以ちて』というのでしょうか。その内容は汚いと感じている心持ちです。この心持ちが無ければ、祓うものもないのです。

水行でも滝行でも構いません。お風呂に入ることでも、精神的な汚れでも、肉体的な穢れでも、感じられた汚れ以上に汚れはありません。ですので水行や滝行などでは、もともと精神的な汚れを気にして始めてはいないので、終わった後はすっきりさっぱりというだけのものです。

『 ここを以ちて』の『ここ』がそもそもの始めからその人のものです。小さいものならばちいさいまま、大きければ大きく、形だけなら内容は無く、水浴びは水浴び、お風呂はお風呂というように、禊祓されます。もちろん行為の途中での内容の変化などがありますが、それはまた後の話です。

ところが二番目の引用では、

『 空は求めなくては分からない、求めている内も分からない。』

と言っています。

知る人ぞ知るですが、知ったところで分かったのではありませんから、われわれは知ろうとする意志だけはもっても、ごちゃごちゃいうのは止めておきましょう。古事記の流れに身を乗せましょう。

『竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)』 というのが、各人の意志の全部、そもそもの初めに持っていたもの、『ここを以ちて』です。

「原」を地名場所として探し出すとと、禊祓を水行滝行にしてしまうことと同じ次元になってしまいます。

また禊祓を汚れた時の特別の行為にしてしまうと、精神意識内での心の進行過程で起きることが見えなくなります。つまり、禊祓いうのは毎時毎秒一瞬の心の動き内の出来ごととしても同様にあるものです。(三貴子の登場までが、一瞬のこと、一瞬であり全体、ですから。)

『竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原』とは心そのもの、あるいは心のある場所のことです。ここでは汚いと思う心、禊祓をしたいという心のことです。

今のわたしで言えば、わたしはこんなことを書いていますが、大丈夫だろうか間違っていないだろうか、わたしは安万侶さんの隠した意図に到達するだろうか、わたしは禊祓が出来ていくだろうか、等といった不安のことでしょうか。

自分の思うこと感じることに疑問があり、不安があり、疑いがあり、戸惑いがあります。これは自分の意識の中で自動的に生じて、自動的に確認、解消していきます。禊祓はこの確認、解消の過程でもあります。

上巻は、一つの歴史過程のように見えますが、その同じ構造が意識の一瞬の働きにも見られるというものです。この一瞬の過程というのは、一つの単語を話すことが単位としてではなく、単語構成する単音が単位となっているものです。それを言霊といいますので、単語という構成された言葉を言霊というのではありません。

この単音の単位が成立するのを、百の神を通過して説明しているのがとりも直さず神代の巻きということで、今まで人類の世界最深奥の秘密として賢所に秘められているのです。

「単なる個人的な穢れを清めるということとは全く違います」 ということですが、大は世界の歴史、人類全体、小は個人ということでしょう。単なる個人が語る言葉も、世界全体が語ってくる言葉ですから。

「あ」という単音を発生することも、天の御中主の神から始まって、黄泉国を通過し、禊祓を通過して、 天照大御神に至り、百神を通過して、始めて発音されることを、古代の大和の聖人は人類の意識に共通のものとして発見したのです。

人の意識はその百の過程のどこででも逸脱でき、自分の勝手として主張でき、それを元に社会を創造することも発見しました。ということはそれをコントロール出来れば、人の自然な意識の流れに沿った社会もできることです。

その自然な世界の歴史の流れを仕組んで人類への遺産として残しておいたのが神武天皇、あるいは古代のスメラミコト達です。

古事記で禊祓の場面は、物質創造の条件が揃った後に、千頭殺して千五百産む、でてきます。これを地球単位の規模で示し実行させたのが古代のスメラミコト達でした。

現代は金儲け権力欲さえ無くなれば、自動車も各家庭に一台づつただで配れるくらいの生産力があります。電気、水など生産して金を儲ける時代などもうすぐ終わります。国境の拡大のための戦争などどの国の政府も考えていません。

その歴史的条件を通過しなくてはなりませんが、それが歴史における禊祓です。

そして、禊祓は一つの必然的な過程にありますが、禊祓をするには物質側の条件が整わなければなりませんが、実行者は人間主体側です。

ここにきて、物質側条件の暴走が起きています。それを手なずけようと、しょっちゅう国際会議が開かれますが、主催者側、指導者たちには自らを禊祓する自覚がありません。

『今日から入ります古事記の禊祓という方法は現代人の考え方では決して思いつかない精神的な方法でございます。なんだかごちゃごちゃしてどうなってしまうか判らないという世の中に居まして、この禊祓の方法が自分の心の中でちゃんと確かめられる人が一人でも多く出ていらっしゃると、それに応じて世の中が大号令をかけなくても変わってくる、その大切な方法でございます』

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言葉は心を伝えるもの

---引用開始。----------------

「衝き立つ船戸の神」 船戸の神と申しますのは、言葉と言いますものは心を運ぶもの。「一杯持って来てくれ」って言うのも「飲みたいから」という言葉を相手に伝える為のものですね。だから言葉は心を伝えるものです。

船と言うのは人間の体を伝えるものですから、同じに言葉のことを船と、昔の人は譬えることがあります。仏教に小乗、大乗という区別がございます。小さく乗る、大きく乗るという区別。

小乗と言うのは小さい人間を乗せると言うのではありません。小乗とは個人の吉凶禍福と言うものを慰める為に説かれたものを小乗仏教といいます。それを越えて、大勢の人が、いわゆる社会が平穏に暮らせる様になる事の心構えを説くのを大乗と申します。乗というのは乗り物、心の乗り物という意味ですな。

さあ、衝き立つ船戸の神というのを掲げたんです。判断力の元、鏡ですな。この神はここで初めて出てきますがその正体は何かと言うと、古事記のお話のずっと前に出てまいります、建御雷の男の神(タケミカヅチノヲノカミ)という神様です。茨城県の鹿島神宮にお祭りされている神でございます。

全てのものが判断できる最高の基準

いわゆる伊耶那岐の命と伊耶那美の命が協力しまして子を生みます。全部で五十の言霊を生みます。

この言霊で人間の心は構成されているのだという事を確かめまして、その五十の言霊をどういう様に整理、活用したならば人間の最高の心が出来上がるか、どんなことも、その構造を鏡として考えると全て正邪善悪美醜、全てのものが判断できる最高の基準とは何か、という事を考えまして建御雷の男の神という構造を発見したのです。

それを伊耶那岐の命が心の中で「あ、これだ」とわかったんです。ただし、この建御雷の男の神というのは「男」という字が書いてあります様に、この最高の構造を伊耶那岐の命は主観内でのみ納得しただけでありまして、それが世界中の事物を吸収して昇華して、世界人類文明を創造していくという客観的なものにそれを応用した時はほんとにそれが出来るかどうかは、まだ未確認な状態、それを建御雷の男の神と申します。

今度はそれを客観的に、世界中の文明を実際に創造していく上において、それが妥当であるかどうかを決める為には、外国の神様にそれを適用して確かめなけりゃなりません。

( ブログ 「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」 からの複写。・・・http://imakoko.seesaa.net/ 発言者は島田正路氏。 )

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大神(わたしのこと、あなたのこと)は、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」と言って始めました。

汚いというならそれなりの判断があっていうことです。(アの芽が地に着く・あめつち。) 汚いものは汚いのだと決め込む人もいますし、自分はよくて他人は全部駄目という人もいます。規範の持ちようが個人の段階にあるだけのことです。禊ぎはそういった個人行は相手にしません。

とはいってもわたしたちは、そういった人達と大した違いのない個人からしか出発できません。仏教でよくいう広大無辺な嘘八百みたいな譬喩なら、禊ぎの段階に達していなくても、何とか書いていけそうです。

ああ何ということでしょう、完成を目指して古事記を勉強し禊祓の段階に達しようとすることは、個人的な欲望でしかないのです。この自己矛盾を止揚するのが禊祓です。せいぜい個人的な段階でしかない悟りも「禍」として禊ぐということになります。

情けないことです。犬の遠吠えみたいにこんなことしか言えません。

これは自分の考えだ自分のものだと言って主義主張を言い張るのは簡単なことです。経験知識と過去概念を元にして自分で考えたものですから、当然自分のものと思い、自分の経験を元としていて、自分の経験以外のことは知らないのですから、自分の言うことは至上最高です。

そこに経験知識の概念が客観的な科学的な知識と結ばれ、主観を飛び出していきます。主観内での当たり前の有効性が、客体側と結ばれ客観的にも有効であると横滑りさせられていきます。「事実はこうだ」という言い種となって、みずからの主体的な主張を暗に放棄しているのに気付きません。

意識の流れは自然とそうなっていきますが、健全でみんなが納得できるものかと言えばそうはいきません。各人の判断と言うのは、自分で集めた経験の範囲内であることを自分で隠しているからです。百人十色、これは個人的な、それはあなただけの、意見ですと、都合のよいように主客の立場を変えても知らんふりです。

しかし、ネタ切れのような詰まらないことを書いていますね。

安万侶さんが泣いている。いやそんなことはありません。千年単位の歴史を設定して来たのですから、いまさら、菅の政治がどうの、オバマの政治がどうの、世界の軍事動向がどうのなどといっても、神武が敷いたレールに変更はないのです。

アの芽が着いて地になるのは、世界の歴史の流れとしても、わたし個人あなた個人としても何の変りもないのです。

やけくそのたわごとに聞こえますね。

本日はまるでなっていません。

止め。

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誰もが満足して承認出来る様な考え方・・・斎き立つ

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2011/7/9(土) 午前 4:14●古神道の禊祓とは

誰もが満足して承認出来る様な考え方・・・斎き立つ

八咫鏡・ヤタノカガミ

( ブログ「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」からの複写。・・・http://imakoko.seesaa.net/archives/201107-1.html 発言者は島田正路氏。 )

わかりませんから、ある国学者なんかは、日本の神様の名前と言うのはわからない程尊いのだ、と、言う方もいます。現にあの伊勢神宮の事を「何事の、おわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」変な話なんですが。

しかしあの伊勢神宮の本殿に行きますと、確かに何となく荘厳で、何となく清々しく、奥が深いような感じはします。もし奥に入っていってみると、何にもない。舟形の台の上に、御船代と申しますが、八咫鏡が在るだけです。

八咫とは咫が太古の尺度の名前でアタと言います。アタは人間の人差し指と中指を開いた広さだそうです。このタを八つ集めた大きさですから、そう大きくはないですね。

と言うわけで外国にたくさん主義主張が出てきますから、千差万別の発明だ新説だと出てきますが、それら全てをまとめる学問は一切ございません。何故かと言うと分析だけをするのが今の学問の得手とするものですのでね。

---引用 つづき。------------------

誰もが満足して承認出来る様な考え方・・・斎き立つ

それで判断力(杖)を投げ棄ったところが、「衝き立つ船戸の神」が現われた。衝き立つは斎(いつ)き立つの謎です。

「斎き立つ」の「斎き」が「机」の語源でして、昔は何かわからないことがあると、例えばこの村で今度のお祭りに何をしたら良いかいうような時にどんな人でも意見が違います。そうしますと机の様な台を持ち出しまして、その上に榊の枝を根こそぎにして立てるんです。

そうして皆さんが車座に座り、村長さんにあたる人が、「次のお祭りにはどんな事をしたら良いか、皆さん考えて下さいよ」と言ったら、喧々諤々と議論するわけじゃないんです。

周りに集まって目をつぶってただ静かにしている。その内にこうしたい、ああしたいという気持が段々段々昇華されてくる。何となく変化してくる。結晶になってくる。それで集まった人の考えは違うのだけれど、誰もが満足して承認出来る様な考え方がここに出来上がってくる。

という方法をとったのが昔の祭りであります。ですからその斎き立つというのはその為に立てる事。何かの判断の元になる様に立てる事をいいます。

---以上引用。-------------------

「伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)は、第一着(だいいちちやく)に御杖(おんつゑ)を投げ棄て賜うたのであります。」

「然るに神は、この杖までも投げ棄て玉うたと云ふことは、よくも汚れたものであります。」(出口王仁三郎)

ネットで探ったものです。綺麗とか汚いとか言う物質的な理解です。すでにもう取るべきものもないのですが、歴史的なものとなっているようです。

ここで、「第一着に」と言っていますが、何事にせよまず初めに出てくるのは、欲しいしたいやりたい知りたいという欲望意識です。最初から杖を捨てることはありません。伊耶那岐も「かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」と言っています。大神の場合は自覚的ですから、欲望次元は意志表示としてあります。これが「第一着」です。

ついでその意志に沿って判断規範の「杖」を投入しました。第二着です。

禊祓の知識の整理と働きの理解です。(二)

それらは感情的に納得されることになります。(三)

そして、ではどうするかの選択に進むでしょう。(四)

斎き立つに関して、続きの引用では不思議なことが語られています。

「周りに集まって目をつぶってただ静かにしている。」

斎き立つの内容は、天の岩屋戸の段で上中下枝に意識の表徴(三種の神器)を引っ掛けるとしてでてきますし、その詳細が、衝き立つ船戸の神に続く五神です。

気になるのは斎き立つものの性格です。議論せずただ静かにしているだけというのです。民主主義の自由討議ではどうなるでしょうか。今の民主主義の政党政治では不能なことです。議論して多数の決が出れば何でも正義にしてしまうのとは大違いです。

斎き立てるのは、民主主義的な知性での論議というばかしあいの中で納得するのではなく、天の香山の五百津の真賢木(ま・さかき・榊)を根こじにこじて、行なわれます。

榊・さかき・は、各人の性(サガ・サカ)の気(キ)で、知性知識概念に留まらずそれぞれの人の持っている全部の心の意です。知的な比較検討をするだけではありません。したいやりたいこうしたい、名誉権力金をむしり取ること便宜を得ること、隠れて相手を陥れる等々全部の、さが・サカキが集まります。

つまり、欲望で始まりますが、欲望で始まる限り駄目なことです。しかし、その欲望を実現するのです。

大神は自覚した意図的に、われわれは、目指す完成に向けて、ということです。

現実の延長を画策するのではありません。(ここは禊祓の段落です、汚きを禊ぎしようとしています。)

霊界だとか2012年だとか言われる割りには、斎くことは言われていないようで、神とは口にしても、「いつく 【斎く】.心身の汚れを去り神に仕える。」なんてことは関係ないようです。神は相変わらず礼拝の相手で、あわよくば幸運の采配者で、弱きものの味方のようです。

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また引用。

「「斎(いつ)く」と「拝(おろが)む」

古代の日本人の神様に対する態度は、大変はっきりしていました。その態度は二種類あり、言葉の上で明快に区別されていました。一つは「斎(いつ)く」であり、もう一つは「拝(おろが)む」ことです。

斎くを説明しましょう。斎くの語源は「五作る」です。五を作るとはどういうことなのでしょうか。そこに言霊が登場です。人間の心は五つの母音の重畳で出来ています。心の先天構造の項でお話しましたが、五官感覚による欲望の宇宙(言霊ウ)、経験知の宇宙(言霊オ)、感情が出て来る元の宇宙(言霊ア)、実践智道徳の宇宙(言霊エ)、それに創造意志の宇宙(言霊イ)の五段階の宇宙です。

「五作る」の作るとは、よく理解して使い分けるという意味です。人は物事を考える場合、ともすると眼前の事態を欲望の問題として対処すべきか(言霊ウ)、過去の経験知に全面的に頼るのがよいか(言霊オ)、それとも感情の赴くままに解決すればよいか(言霊ア)……等々、問題の捉え方に迷って考えあぐむことがよくあるものです。この場合、人がもしそれぞれの異なる心の宇宙や次元を自分の心中にはっきり区別し、認識して、それぞれの次元の心がどう動くかのメカニズムの相違を熟知しているとしたら、その人はどんな問題にも気持よく対処して行くことが出来るはずです。迷うことはありません。

そういう人間になろうとすれば、どうしても自分の心の中で、ウオアエイの五つの母音宇宙をしっかりと把握しなければなりません。この五つの母音宇宙を把握し、自覚することを「斎く」(五を作る)と名付けたのでした。この五つの母音宇宙を把握している人を、霊を知る人の意味で聖と昔の人は呼んだのです。斎くとは神に対する最高の態度であると同時に、神そのものの態度である、ということが出来ましょう。

「拝む」に移りましょう。拝むとは神様の前で頭を下げて、誓いをしたり、ご利益を願ったりする態度です。今より二千年前、崇神天皇という天皇は、その時まで人間精神の構造を表し、日本の言葉の原典であり、政治の鏡でもあった言霊の原理を、天照大神という名の神様として伊勢の神宮に祭ってしまいました。それ以来、生きた聖がこの世に次第にいなくなっていったのです。人間の心の住み家である五つの母音宇宙(家・五重)のうち、人々は最高段階にある生命の創造意志(言霊イ)と、その意志の法則である言霊の原理に則って行う実践智(言霊エ)である英智の自覚を失ってしまいました。

人々は生命を支配する法則と、その運用法である実践智の自覚を失った結果、その大きなものを神と見立てた神社の前で頭を下げ、身の安全と幸福を願い求めるより他に方法がなくなったのです。これが拝む態度です。

古代には現代社会が持っているような物質科学や機械文明はありませんでした。だからといって、大昔の人が野蛮人であったのではありません。現代人が想像も出来ないような精神文明が花開いていたのです。その時代の人間の精神程度からすれば、現代人はやっとティーンエイジに届くか届かないかの「青二才」なのかも知れません。 「拝む」と「愚か」とは語源を同じくしています。拝むということは神に対して愚か者のとる態度ということが出来るのです。」

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般若とは持って生まれた判断力

2011/7/8(金) 午前 3:35●古神道の禊祓とは

般若とは持って生まれた判断力

・・・http://imakoko.seesaa.net/archives/201107-1.html ( ブログ「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」からの複写。発言者は島田正路氏。 )

言霊 「般若」とは持って生まれた判断力

但し、それが有ると、橋げたが無くなっちゃった川も渡る事が出来る。それを伴って、友達にすると、月も出ていない真暗闇にでも自分の住んでいる村に帰る事が出来る。そういう意味です。

何かっていうと人間の持って生まれた、オギャーと生まれた時から授かっている判断力、いわゆる知識を集めた、その知識で判断するんじゃありません。持って生まれた判断力、これを仏教で「般若」といいます。

般若湯という有名な言葉があります。お坊さんは酒を飲まない事になっていますが、般若湯は飲む。確かにお酒を少し飲みますと頭の回転が良くなりますので、そんな言葉があるのでと思います。

さて、その杖を投げ棄ったら、投げ棄つとは捨ててしまったということではありません。外国(黄泉国よもつくに→黄ざす泉の国)ではもう、秒、分単位で、世界全国から色々な考え、色々な発明、色々な主義主張、黄ざす(萌ざす)泉の如く主張されて出来上がってくる。

ただし、出来上がってくるのは誠に結構なんですが、出来上がってくる主義、主張、学問には、世界中から湧き上がってくる種々のものを、どうまとめたら良いのかという方法は遺憾ながら一つもございません。

みんな自分の経験知と申しまして、自分の集めた知識において判断してそれが正しいと言います。自分達が沢山意見を述べ合って世界の文化は出来上がっておりますがその文化を統合しまして、人類の文化としてどういう文明であるべきかという統合する学問はひとつも無いのです。

その統合する為の学問というのが、今、ここで申し上げております言霊の禊祓の学問なのです。

杖を投げ棄ちましたら、そこに「衝き立つ船戸の神」という神様が出て来ました。神様の名前といいますのはみんな太安万侶が苦心してつけたなぞなぞでありますから、この名前を前にして腕組みをし、たとえ百年考えましても決して太安万侶が何を言っているのかさっぱりわかりません。

---以上コピー。-------------------

「かれ投げ棄(う)つる御杖(みつえ)に成りませる神の名(みな)は、衝(つ)き立つ船戸の神」

わたしは全てを見通して自覚的に禊祓をする段階にいないので、段階的に完成する方向へと読むわけです。実際、悟ってもいない者、悟りぐらい通過していない者、が禊祓を語るのは困難なことです。わたしもその一人ですから安心してください。(そんなことを言ったら真面目な皆さんに失礼ですね。申し訳ない。)

解説では判断基準としての言霊原理の投入ということですが、われわれは完成した原理を持っている自覚がなく、それを目指す方です。ここが古事記を解説している島田氏とは違います。

それでも精神構造は同じなのでここに各人の、わたしの、判断基準があるわけです。

まず、先天的にある人間としての精神規範で、五次元(欲望、知識、選択、感情、意志、の天津スガソ音図)の上に、 多かれ少なかれ、黄泉国で得た、自分のものという、三つ子の魂何とかいうものが乗っています。

そういったものが自分を動かす自然な権威とさえなっていて、いつの間にか得たものに頼って、自我だ、自分だ、己だ、わたしは、われわれは、と言っているわけです。自分の頭を使って考えましょうなんて、夢のまた夢なのにいい気な者です。こういう人たちに達に突っ込まれたら崇め奉るしか手がありません。

わたしたちは、自覚的でなくはっきり言えませんが、そういったこころの五次元世界がまずあるというのは確かなことで、それが、各自においてまず突き立てられているということです。それをわれわれ無自覚的な人間たちの、衝(つ)き立つ船戸の神、とします。

それなりの人間性能としての五次元世界を持ち、五十音図構造によって心を表現しています。判断を投入するといっても、知的な概念や経験知識も含めた、人間性能の全体を投入しますので、知的な概念を用いた表現をしていてもそこにはその人の全体が付随しています。

象徴表現の杖とか剣とかは、分析力、統合力、のことで、生まれた時から授かっている判断力です。先天的に植えつけられてしまっているものです。いわゆる知識を集めた、その知識で判断するんじゃありませんが、それらの知識を集める元となっているものです。

こうして杖を投げ棄ちましたら、そこに自分の五次元を現す、「衝き立つ船戸の神」という神様が出て来ました。

判断を投入することは、投入される相手があることで、相手があるという主体による選択によって相手があります。ここにある相手があるということを判断した主体側の判断が、衝(つ)き立つ船戸の神です。机の上にあるもののうちから鉛筆を選んだ時、その鉛筆を問題とするのではなく、選んでいった主体側を動かすこころの問題です。

般若湯は坊主が隠れて飲む酒ですが、廻りの小坊主達と五戒の知識を共有すると共に、真実を見抜く悟りへの智恵というような権威や感情を付加導入することによって、般若という言葉を投入したものでしょう。般若という言葉が知的に扱われるだけでは、いくら師匠でも隠れては飲めないでしょう。これは一つの言葉に五次元の全体がこびりついている例として挙げました。

さて投入される相手は、禊祓以前のものです。要するに表現結果である黄泉の国全体と、その過去の歴史、それと、禊祓しようする相手を見つけた自分自身です。要するに、人間の成すこと全部です。黄泉国とは、黄ざす(萌ざす)泉の如く沸く国=人間のこと人間のすることしたこと、歴史と文明でできあがった、こうしてここにある世界のことです。

このように禊祓の相手は長大広大で、各人の知っている限り知り得る限りの全歴史と文明が含まれています。個人的に悟りを得たでは、とうていおっつかないものです。

そして、投入される相手は、もう一つあってこれが本題となるものです。

その相手とは、自分自身のこころです。

かれ投げ棄(う)つる判断を投入しますと、御杖(みつえ)に成りませる神の名(みな)は、衝(つ)き立つ船戸の神という自分の姿です。自分の判断を投入しますと否が応でも、自らの全自己、全自我の原理原則をを表明することになります。自覚するしないに係わらず自分のよって立つ柱となっているものです。

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分析と統合…太刀と剣

2011/7/7(木) 午前 4:23●古神道の禊祓

分析と統合2011年07月04日・・・http://imakoko.seesaa.net/archives/201107-1.html ( ブログ「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」からの複写。発言者は島田正路氏。 )

言霊 分析と統合…太刀と剣

「たち」というのは断つ、切るという事、二つにわるという事、割って、部分部分の性質がわかったら、今度は元に統合しなくてはなりません。統合するのを「連む」といいます。

よくいいますな「つるんで行こう」なんて。分析し、統合するとどうして良いかが完全にわかりますので、分析、統合すると両刃の剣になります。

柱と申しますのは人間を一個の家に例えますと、大黒柱が立っていないと直ぐに倒れてしまいます。ですから心の拠り所という様な意味に使われます。みんな人間の判断力のことです。

禅宗の無門関という本には「扶(たす)かっては断橋(だんきょう)の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る」という名文句が書かれています、私の好きな一節です。何で扶かったのか、何を伴ったかは書いてございません。それはいわく言い難し。

---以上コピー。-------------------

「伊耶那岐の大神 の詔りたまひしく、

「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」

とのりたまひて」、と禊祓に入るわけですが、自発的自覚的に行なわれる精神の禊祓はわれわれが想定したり、予想したりできるものではありません。

それでも喰らい付いて行こうと意志だけはあっても、成功する保証などにはなりません。

伊耶那岐の大神は自覚的に始めていきますが、その前提が予母都国との絶縁です。人類の歴史を汚いと退けて、その禍を直そうとし、それによって、全世界を手にしてしまうのです。

はっきりいって、ここの部分は到底理解できるところではありません。

古事記のスケールが大きすぎます。

それでも、先天的に黄泉、禊祓を通過して、歓喜を得たり、という過程がありますから、そちらの方からの分け前をもらうことにしましょう。

予母都国との縁切りが理解できないとその後のことも分からないので、そこから始めてみます。といって始めたところで、分からないのは目に見えていますが、もしかすれば進歩とか言うものがあるかもしれません。

禊祓は百パーセント精神内の出来ごとに関するものですから、その前提である予母都国を出るとは何かです。

予母都国(黄泉国)というのは手短に言えば、こころの現象結果の客体側です。その人間行為の現象側の主宰神をイザナミの大神といいます。

禊祓はこのイザナミの言う概念を一切排除する、事戸を渡すことからはじまります。

何を言っているのか分からないと思います。概念でしか話せないのに、概念を一切排除するなんていうのですか、まともではありません。

黄泉国の段落の終わりに連続して大神が出てきます。

『 かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて、、黄泉津(よもつ)大神といふ。

またその追ひ及(し)きしをもちて、、道敷(ちしき)の大神といへり。

またその黄泉の坂に塞れる石は、、道反(ちかへし)の大神ともいひ、

塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。』

その後に、、伊耶那岐の大神となります。伊耶那岐が創造したのではないし、伊耶那岐に大神と付く以前に大神を付けています。余程重要なものなのでしょう。何とか解明したいところです。

通常、主体側と客体側、とに両者を簡単に分けています。わたしとあなた、自分と他人とは違うなどと簡単に言いますが、両者の関係はそう簡単ではありません。

ことに両者間に現象が関わり合うことになると、こんがらがります。中間にお金が落ちていて両者ともが自分の物と主張します。所有者がはっきりしていても目撃証人がいても両者とも主張を譲りません。なぜなら両者ともに金という概念が共通だからです。金への欲望も共通で、そこにある金を選択するというのも共通です。

これはわたしの考えたものだわたしの思想だ、お前のは剽窃だ、考えが駄目だ幼い高級だ、論理的でない、等々言いたい放題のことが言われ、自分は他人と違うと主張されます。なぜなら過去概念、言葉など一切造ったことが無くても、両者共に言葉という概念が共通だからです。

要するに ここには、両者共に、主体のわたしと客体のあなたなどというものは無く、共通の現象概念に丸め込まれた、わたしの特徴もあなたの特徴も持たない両者がいるだけです。

こうした知らず知らずのうちに取り込まれ、汚れまみれた黄泉国=現象客観世界から抜け出し止揚するのが禊祓です。そういった国の中にしかいない自分を禊祓しようとするのですから、水に浸ればできるというものではありません。相手は神どころか大神となっているものです。

まず、客観現象全体が大神で、これをやっつけなければなりません。「かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神。」

ついで、それが用意されてきた今までの流れ全体が大神で、これもやっつけなければなりません。「その追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神。」

そして、それらをやっつけようという意志(千引の石)を相手の現象世界に与えてしまったこと自体を、反省(道返し)しなくてはなりません。「その黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神。」

これらの全体が相手側と自分側の境の戸の前に頑として置いてあります。「塞へます黄泉戸(よみど)の大神。」

これら大神は伊耶那岐が創造したのではなく、客体現象の経過を追っていく時にでてきたものです。 現象世界がそこにあるということは、そこにあるということと、そこにあるに至った歴史と、それをどうするかということも含まれています。

禊祓は、この現象世界の三種の様態に全て対応しなくてはなりません。ここに主体意志の関わりが無いと、現象世界はそれ自体の作用反作用の過程に入り、単なる有る無しの分析分解創造の科学とその成果となっていきます。

科学は目前のものを分析破壊することで始まり、結果が出るまでそれが正しいかどうかを知りません。その経過も過去概念と経験概念を適応するしかできず、派生した事象にお気に入りの概念を配当していきます。分析分解をしながら過去概念でしか説明する言葉を持たないという矛盾が、論争とか理解とか言われるものの内容です。

それらは差し障りのある障害ですが、伊耶那岐の大神なら、古神道なら、古事記なら、わたしなら、あなたなら、どうするのかといえば、分解するでなし、破壊するでなし、移動するでなし、消滅させるでなし、禊祓するだけです。

相手に向かってこちらはお前とは違うんだというとき、相手側の全体と、相手側が出てきた歴史文化の全体と、自分はそうじゃないというこちら側の意志があります。禊祓はこれらを汚きものとして禊ぎ祓うことになります。

ところが、わたしたちはその方法を知っているわけではないので、古事記に沿って行くことになります。

『 ここを以ちて

伊耶那岐の大神の

詔りたまひしく、』 から始まります。

相手が相手で、客観世界全体を対象としますから、個人の歴史どころか数千億万年という期間も相手となるものです。

そういったことが可能となるには、単に黄泉の国を抜ければいいだけです。それらを全部引っさげて自分の国に行けばいいのです。伊耶那岐の大神が待っています。

「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」

とのりたまうだけです。

ところが、のりたまうには各人の水準があり、各人はそれに従うわけです。

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両刃の剣

2011/7/6(水) 午前 2:22●古神道の禊祓とは

2011年07月03日・・・http://imakoko.seesaa.net/archives/201107-1.html ( ブログ「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」からの複写。発言者は島田正路氏。 )

言霊 両刃の剣

そこでですな、禊祓いを始めます時に伊耶那岐の大神はまず「かれ投げ棄(う)つる御杖(みつえ)に成りませる神の名(みな)は、衝(つ)き立つ船戸の神」と申します。

古来の宗教、神道含めまして、杖、又は剣、又は柱という言葉の意味は、ただの道具としての意味のみではありません、まず杖は歩く時に足腰の歩行を助ける役をします。

剣というのは何か物事に対する時、これをどう解釈したら良いかどう対処したら良いか、いう時に人間の心がその事態を分析し状況を分析し、分析したものを又一つにまとめて、自分はこの様に対処しようと心に決めます、その分析力を剣といいます、日本の剣は両刃の剣ですね。

片方にしか刃がないものは刀(かたな)といいます、これは切る事しか出来ません、両刃の剣は片方で切って片方で連む(つるむ)んです、切る方を太刀と申します。

---以上コピー。-------------------

わたしたちは、古事記の神代の巻きという精神原理の教科書を書いた立場にいませんから、読みながら完成に近づいていきます。

神代の巻きはスメラミコトの仕事の原理ですが、スメラミコト以外にも原理は広範に知られていたようです。しかしだからといって原理の内容を知っていたかどうかは分かりません。後代のスメラミコト自身が知らないのですから、取り巻き官史達が知ってたとは思えません。

神武以降は内容を公言することが禁止されたかもしれず、古事記神代の巻きは神武が造った表現を暗唱で言い伝えてきたものかもしれません。

表現の乱れがあることが古事記の新たに編纂された動機となっているようですが、では、神代の巻きを、正史、精神原理の正史、と誰が判定したのでしょうか。判定するスメラのミコト側にその材料があったか、神武以来完璧な記憶反復があったかでしょうか。

いずれにしても勉強の内容とは関係のない傍系のことなので止めておきます。

竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはら)という、心の実在する場所から話がはじまります。

しかし、話の進展が非常に速いようで、第二回目には既に、「かれ投げ棄(う)つる御杖(みつえ)に成りませる神の名(みな)は、衝(つ)き立つ船戸の神」がでてきます。

分からないなりにも喰らい付いていかねばなりません。

あわぎ原というのは平面にして書き表せば言霊五十音図のことで、わたしたちはこの音図から言葉を選んで文章にしています。

わたしの例で言えば、「分からないなりにも喰らい付いていかねばなりません。」という言葉の出所です。

わたしは自分の喋り書いたことに対して、自分の主体を確立しなければなりません。そこで、

・竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)、とは、

・主体の確立に、竺紫(つくし)、尽くし、

わたしとわたしの語る相手対象に対して、日向(ひむか)の、日に向かうがごとき、生命の照らしだされたような、輝ける言霊を使用して、

・そういった立場と人格的な性格とを持った、橘(たちばな)、立場、性格(たち)、の言葉を打ち立て、

・そのような相互に明瞭な、小門(おど)、おと(音)を用いて表現しなくてはなりません。

・その為には、心の実在する場であり、その書き現された言霊音図、阿波岐原(あはぎはら)に、到ることが必要となります。これは四隅がア-ワ-ヰ-イで、ヰ-イが詰まってギとなり、アワギ・原(音図)となる。

生徒であるわれわれは言霊音図のあることなど知りませんから、そのまま受け取るしかありません。

また、一方音図を知らなければ知らないままで進まなければならず、その手だてを考えないといけません。

「分からないなりに食らい付いて行こう」というのが音図代わりの立場になっていますから、その心持ちがあるところに、降り立ったということになります。この記事を読んでも分からない方は、分からないという心持ち、ウソをいうなという方は、そのウソ言うなという心持ちのある心のある場所へ、降りていきます。

これは正しいとか間違いとかではなく、正否とは関係なく心の土俵はここにあるということです。正否などは当初当面はまだ知らないのです。

土俵に立ったことが確認されればそれは何かを知ることが始まります。

『阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。』

そこで、「かれ投げ棄(う)つる御杖(みつえ)に成りませる」 というように、杖で代表される判断が投入されます。

もしここに杖を投入せず、つまり判断をしないなら、進展はなく、土俵にあがったはいいけれど、ぐるっと散歩して何も無かったように降りるようなものです。

判断が投入されるとは、「分からないなりに食らい付いて行こう」という心を判断する何ものかを保持していないと、自分の姿が見えないということです。

禊祓は純粋な精神行為ですから、伊耶那岐の大神が、「かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」 とのりたまひて、 かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、、、、ということは、伊耶那岐という主体(=自分という主体)が自らを祓えしようと、自らの判断規範を投入したということになります。

そこで成りませるのが、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神、

・自らが自らを斎立て(衝き立つ(つきたつ)、自らの言葉が判断となって自らを打ち立てていく判断言葉を造る為の言葉を乗せて、

・その創造される過程である、通過し運ばれていく言霊五十音図の一つ一つの言葉(戸)と、各精神次元を示す五段の戸(十、と)、を通過するということです。

ややこしい言い方ですが、自分の自分による自分の為の自分を判断する、規範を創造したということになるでしょう。ここで自分というのは、伊耶那岐を自分としたときのことで、主体と設定できる全てのことに該当できるでしょう。

日常でスイスイと話し合ったり、書いたりしているときは、話すこと書くことがそのまま自分のものとして出来ているつもりのものを表現しています。

多少の反省する心を加味してはいるものの、自らを汚き国から出てきた者とはしていません。考えれば考えるほど、書けば書くほど自分の意見の蓄積という感じでいます。

禊祓は自分の言ったことを反省考え直してみるのではなく、主観主体を主体内で禊祓するというものです。自分のことを客観的に見ましょうということではなく、主体的な原理原則の元に見返すものです。

自分の感じ考え思うことは自分のものだから当然のものと思っていますが、これを主体的に見直すことになります。

「分からないなりに食らい付いて行こう」という自分の当然の思い考え感じを、主体側からとりあげるということになりそうです。

しかし、その前提があります。自分の言うこと感じることを、 「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。」とすることです。

それは単に、自分の考えはあっているだろうかとか、正しいだろうかとかいうように、疑問を持ち整理し反省することではありません。

主体側の精神、意識の向上だけを求めるなら坊主になればいいのです。禊祓は「伊耶那岐の大神」が行なうものです。

自分は「 吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき」ものだと、そういった言葉を吐き、考えをしてしまっているということを感じていなければなりません。

自分の言葉は当然であると思うと共に汚いものだと思う両者が、自分の心に共存しているでしょうか。

禊祓は、先天の構造内あるとともに、自覚的な人為的なものでもあります。人為的な禊祓をしようとする時には、「かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」という大決心が要ります。二祖慧可の腕切り落としを越える決心が要ります。仏教の目指す悟りは個人的なものですが、古事記の禊祓は世界人類が相手です。

そもそもが世界を相手にしている人でないと出来そうもありません。わたしなどはどうしても縮こまってしまいます。それでもやっているうちに、世界を相手にできる智恵が付くなんてこんな素晴らしいことはありません。

さて、禊祓いを始めます時に伊耶那岐の大神はまず「かれ投げ棄(う)つる、御杖(みつえ)に成りませる神の名(みな)は、衝(つ)き立つ船戸の神」が出てきます。

杖は判断規範のことですが、直ちにこの場で判断をするのではありません。

禊祓をすることの始めは杖を、判断規範を持ち込むことですが、どういうことでしょうか。

杖はどこにあるのでしょうか。禊祓を始める前にあった、「 吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき」「国」にいたという判断のことでしょう。汚き国の片棒を担いだということでしょう。

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禊祓祓(みそぎはら)えの入り口

2011/7/17(日) 午後 5:50●古神道の禊祓とは

禊祓祓(みそぎはら)えの入り口

禊祓祓(みそぎはら)えとは。

禊祓祓え、みそぎ・はらえ、実削ぎ・原へ、 のことで、自分の作った実(現象)の成り立ちを明かにする為に原へ行くこと。あるいは実(現象)を作るに至る過程を明かにする為の、心の成り立っている原(心の場)のこと。

・ み、実とは各人の心の内容のことで肉体のことではない。つまり心である伊耶那岐大神のことで、実現すべく所持しているこころの内容意図が何かに結びつこうとするもの。

それを実現するための、あるいは意図内容の実現となって実となった心身の現象結果の、点検整理分析実現しようとする意思内容の対象言う。

・実・削ぎ、実現対象の創造過程を、実現経過を「削ぎ」という。、というのは初めにある意図意思の全体(アの芽)が削られ内容が表れ、結果が表れ出てくる過程のことで、古事記で言えば「子の一つ木」であり、彫刻で言えば切り出された丸太から、作品が出てくることであり、日常生活ではやりたいことや意志や思うことが実行されるであり、古事記の禊祓の段落では 衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神が成り動くことである。

ですので、別にこれといって禊祓とは何々であるということにする必要はないが、禊祓本来の姿を問う時には、古事記の伊耶那岐の大神からの段落がそれに該当する。禊祓本来のという時には自覚的な意思が伴うからである。

・原というのは、整理運用する心の場をいう。心の整理場所は、客観世界から受け取りできてくる心と、心の場を主体的に作る心そのものとがある。それぞれの段階において禊祓の場ができてくるが、伊耶那岐の大神の禊祓の場は、自覚的な両者の統一場において、意図を実現していくことにある。

実というものが、客観から受け取り自分の実となったものと、自分の作った実であるとするのとがありますが、さらに、子を抱く母親のように分かち合いが一体になっている自分の実を作ることがあります。本来の禊祓の段階はこの子を抱く母親の段階です。

このように禊祓は、無自覚的に先天の行為として自然に起きていくもの、自覚的主体性を主張し当てはめていくもの、そして、主客を統合して両者共に成り立たせようとするもの、とのそれぞれの段階がある。

・そこで、心の運用の場である原とはアイウエオ五十音図のことで、各次元各段階で名前が変わる。ここでは、大神の禊祓の場であるので、阿波岐原(あはぎはら)で、母音行がアオウエイの、天津菅麻五十音図の四隅のア・ワ・イ・ヰをとってアワギ(イ+ヰ)と名付けた音図のことになる。

名前が変わることに関して、古事記は心の働きが先天から始まる時、先天の心の運用場の場合には高天原といっている。天の高みにある先天の心の原となる。

人の欲望性能の構造と知識構造の両者の構造は違うように、それぞれの人間性能の構造に見合った禊祓の場がある。つまり、人間性能の違いに見合った、五十音図が存在する。(学校で習うのは金木五十音図で、天照す大神、スメラミコトの使用しているのは、天津太祝詞五十音図、等の配列の全く違う音図となっている。)

・禊祓はそれぞれの人間性能の表れ段階ででてくるので、次にでてくる禊祓五神において、人間の各次元に応じた五十音図がでてくる。

・本来の、伊耶那岐の大神の禊祓とは、このアワギ原で自身の意図の整理運用を点検するということになり、自覚的な子を抱く母の禊祓となる。

それで、自覚の観点からは次のようになる。

まず、無自覚で先天的なもの。運用点検には、われわれ無自覚な者たちの行なう自動的な禊祓、(言霊ウ、オ、ア次元での禊祓)がある。欲望、知識のウ、オ次元の禊祓は自覚の無い、自分勝手で知らない内に起こってしまうのが特徴ですが、アの感情、宗教次元の禊祓では、自覚はあっても、納めるところを知らないのが特徴です。意思はあっても納める先を知らないし無視していくのもある。

そして、伊耶那岐の大神のように意思して自覚的な者の行なう自覚的意識的な禊祓がある。(言霊エ次元)この場合には意志の納まる場所、相手も自覚的に意思されているので、行為の完結性が得られる。

ですので、ここから、禊祓には、 二つの意味がある。

無自覚な態度で、自分の心である伊耶那岐の大神を見完結に実現すること、と、

自覚的な態度で、自分の心である伊耶那岐の大神を実現完結すること、である。

それを、冒頭の句「あめつち」になぞらえれば、

・「あめつ、レ点、ち」「アの芽が地につく(あめつ・返り点・ち)」

無自覚な態度では、「アの芽が地につく(あめつ・返り点・ち)」で、心である伊耶那岐の大神の意図が実現して禊祓五神に分かれることであり、大和日本語語以外の一切の言語構造となっているもの。

主語が直接動詞と結ばれ、その後修飾がいかようにも施される言葉の運用になる。

・「あめつち」「アの芽がついて地となる」

自覚的な態度では、「アの芽がついて地となる(あめつち)」で、心である伊耶那岐の大神の意図が禊祓五神を通過して実現することである。五十音図に則った大和日本語言葉となっている。

主語は必ず禊祓五神を通過していくので、心の内容と結果は一致する。

古事記は冒頭百神の言霊循環によっていますから、そして今ここでは禊祓を扱っているので、禊祓の初発の時は「あめつち」ということになります。

「あめつち」は禊祓の初発の次元での表現です。アの芽が付いて地になる、というのは、竺紫(つくし)の日向(ひむか)う、尽くして日に向かう、と、同じことになるでしょう。

岡本天明の日月神示がありますが、日月は、ヒツキで、霊(ヒ)にツクで、竺紫(つくし)の日向(ひむか)、と同じ意味です。現代人に心の禊祓を準備するようにという神示です。

ですので、禊祓とはこうでこうだと固定的に考えても意味のないことで、水行だ滝行だ、あるいは、精神行だと言い張るのも意味のないことです。

今まで多くの先達が行なってきた、身体の水行の禊祓は、精神的な意義は後から付け加わるだけのもので、単なる解釈です。身体が先行して、身体の動きに沿って行法が体系化されたものです。ですのでとって付けた精神的な意味しかありません。

また、今までの禊祓を、(あるいは神道全体を)次のように見ることもできます。

この千年以上の間、精神的な意味は無いものと、あるいは、不明ながら後から言葉を付け喰われたものとして、それぞれ独自な(勝手な)ものとして、伝統の形で育まれてきたものがあります。

それらの内容は分からないまま形を残し作ってきたものの中には、精神の動きを行法として表しているのに精神上の理解に達していないものがあります。この場合は、精神の動きの反省が加えられ、精神の動きがそのまま行となる可能性があります。ただし古事記の百神の解読に成功していないと無理です。

前者はお風呂に入るお作法と変わりません。いろいろと難しい言葉が加えられているので、素人から見ればいい加減にして欲しいと思いますが、安万侶さんからの伝統みたいなものです。分からないように分からす方法として与えられたみたいなものです。

現在までの解釈では、禊祓は、身に付けたものを取り去っていきますが、服に付いた穢れか、身についた穢れか、精神の穢れか、をはっきりさせません。分からないまま、有り難いといって、祝詞、禊祓祓言葉を唱えています。

そういった、無闇に有り難がる心情が汚れていることに無頓着であり、ことに禊祓をするという考えそのものが汚れているので、禊祓しようということに思いも及びません。

このように書くと言葉を弄ぶきちがい事と捕えられます。有り難がる心のどこが穢れているのかと怒鳴るかもしれません。禊祓するという正しい心持ちのどこがいけないのかと蹴飛ばすかもしれません。

でもよく考えてください。禊祓は人間の精神創造文化全般に関するものです。神道を有り難がるのも結構です、でも、そこには他の者達もいます。キリスト教徒も回教徒も仏教徒も共産主義者もいます。皆さんそれぞれ有り難がっているのです。全体をどうするのかという何の指針も見いだせず、互いに殺戮を正当化してきているではありませんか。

全体に目を向けることが怖いから神道サークル内に縮こまるのが神道の禊祓ですか。

少なくとも、穢れを落とすというのは正しい心持ちだというかもしれません。でも、そこには他の者達もいます。神道でいう穢れは他の人たちとは違うところにあります。無理やり神道の穢れを押しつけていませんか。チベットでは僧が死ぬと切り刻んで、隣で順番よくならんで待っている禿鷹に投げ与えます。殺人犯も同じことをしています。

禊祓を個人の行為とするなら、知らん振りもできるでしょう。それなら神さんのことなど語らないでください。

はたして、禊祓の入り口にまで来たでしょうか。

●●●●●入り口。

道の長乳歯の神・時量師の神

2011/7/16(土) 午前 2:31●古神道の禊祓とは

言霊 道の長乳歯の神・時量師の神

帯を投げ棄ちましたら「道の長乳歯の神」が生まれます。道は道理です。長乳歯とは、若い歯が生え揃った幼児の歯というわけです。ずっときれいに並んでいる歯ということから、物事が切れ目無く連続している性質又は関連している事を調べる心の働きという意味です。

外国の文化が来た時、これは知っている事が順序正しく主張されているかどうか、又は他の文化との連続性はどうか関連性はどうであるか、突飛でもって全然関連性がない空想的な事なのか、それとも完成された現実のものなのかと言う事をまず調べる働き。この関門を通らせるという事です。

時量師の神

「次に投げ棄つる御裳に成りませる神の名は、時量師の神」 御裳と申しますのは古代の着物で特に腰の下につける物と辞書に書いてあります。そして大概の御裳には襞があると書いてあります。

天津菅麻音図は縦に母音がアオウエイと並びます。その下のイの段、そこに八つのひだがある。そして向こう側に半母音ワヲウウヱヰと並びます。ですから、そのイ段にあるひだ、つまり父韻の並びの事が出てまいります

( ブログ 「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」 からの複写。・・・http://imakoko.seesaa.net/ 発言者は島田正路氏。 )

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5:31 「わたしが自分について証言しているのなら,わたしの証言は正当ではない。

7:16 それでイエスは彼らに答えた,「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わされた方のものだ。

7:17 だれでもその方のご意志を行ないたいと思うなら,わたしの教えについて,それが神からのものなのか,それともわたしが自分から話しているのかが分かるはずだ。

7:18 自分から話す者は自分の栄光を求める。しかし,自分を遣わした方の栄光を求める者は真実な者であって,その人の内には不正がない。

7:28 それでイエスは,神殿で大声を上げ,教えて言った,「あなた方はわたしを知っており,わたしがどこから来たかを知っている。わたしは自分の考えで来たのではなく,わたしを遣わされた方は真実な方だ。あなた方はその方を知っていない。

7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来ており,その方がわたしを遣わされたからだ」。

8:47 神に属している者は,神の言葉を聞く。この理由であなた方は聞かない。あなた方が神に属していないからだ」。

ヨハネによる福音書より。

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今回は聖書まで飛び出しました。聖書とかキリストとか神の名前とか知らないで読めば、どんな宗教にも通じるのに、読む方の人間は相変わらず差を付けたいようですね。

どんな宗教もその創始者もキリストも「神、父」の内容を明かすことは出来ないでいるのですから、宗教の創始者が出来ないのに、読んで解釈する人間たちのすることというのはまったくいい気なものです。

その一半の責任はもちろん創始者たちの性ですが、その創始者を作った神が、創始者に「神」とか「父」とか名前を言うだけでいいと命令したのですから、その通りに実行していただけです。

そして三千年が過ぎ、現代はそれが足かせとなっています。

神、父、全能者について、解説者、創始者を含めてその内容を言うことができず、できないことが有り難いこと、分からないことが涙こぼれることというようになっています。感情的にそのような納得もありますから、仕方ないことです。

また、そうでなければ拝みの対象にならないからでしょう。その替わり鰯の頭を示さねばなりません。

宗教の次元にいて鰯の頭を理性的に示すと、宗教感情に受け入れられません。知識次元で鰯の頭を理性的に示すとすぐ受け入れますが、宗教になりません。

禊祓の行為は宗教、知識次元を超えたものですから、わけの分からない有り難さに浸っている暇はありません。知識を用いて自分はあれはこれはとあげつらう概念は不要です。

滝もお風呂もプールも必要でないのは言うまでもありませんが、何を以て禊祓と言うのでしょうか。

禊祓五神としてその内容をしめしてありますが、通常はどうしても、宗教的に知的学問的に解してしまいます。それらの態度を止揚するのが禊祓であるのに、どうしても抜け出せません。

ここで禊行とか瞑想法、鎮魂帰神御霊の何々を持ちだしても、何も変わらず三日もすれば元通りか、神と通じ合えても「神、みたま、父」の内容は明かに出来ないのですから、また初めに戻るだけです。

真面目に行ずる方に不作法な言い種になっていますが、陸上の運動場で水泳を教えることもどうかと思えます。神道においては、どのような伝統と古式も神道の内容実体を教えられていないというのは、指導者自身が分かっていることです。

イエスは自分の言葉を喋っているのではないというがごとく、自分の意図を自分で結論付けることが出来ません。(イエスに限らずどの宗教でも共通です。)

ところが日常では誰もが、自分の意図を自分で結論付けていきます。その結論の付け方方向づけ、結論そのものに対しては、正否、充分不十分、善悪良否等ですが、それはひとまず置いておきます。

宗教で大きなことを言う割りには何もせず出来ずしない、というのは、現代では常識的なことですが、日常ではそんなことは無為なことはやっていられません。日常においても各人それぞれ全知力を尽くして考え行為しているわけです。竺紫(つくし)の日向(ひむか)です。

誰でもが、「父」を頼るだけの頼りないイエスを超えた生活をしているのです。ところが、それをわざわざ、 「かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とするとつまずいてしまうのです。

禊ぎとか言う言葉を持ち出し、心の禊(はらへ)、心にとっての禊とは何かで、禊ぎ五神のことだというのは、古事記に則ってそう説明されているので採用しているのですが、そういった態度を禊ぎする段になると、わけが分からなくなります。

わたしの言うことに文句を言う方も賛成する方も同じです。

ではそういった賛否を示す態度を禊祓してくださいと言うと、わたし同様わけが分からないはずです。

これが分かればスメラミコトに一歩近づくことですから、急いで分かることもないし、日常では自然に分かっていると言われていますから、ある程度安心していられることもあります。

このブログでは多少は禊祓のことを突ついているわけですから、もう少しは知りたいと思います。

そういった知ろうとする態度が禊祓されない限り駄目、といわれるかも知れませんが。

わたしはここのところ、行き詰まっていますので、元に戻ろうと思います。

古事記の神道というのは、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)のことを、手を変え品を変え語ってるだけですから、わたしもそれにあやかってみたいと思います。

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禊祓をして摂取する前の五つの関門

2011/7/15(金) 午前 0:37●古神道の禊祓とは

禊祓をして摂取する前の五つの関門

それで主観的ではありますが、それを鏡として掲げまして、実際にやってみて、ああこれは大丈夫、だという事を確かめたいので、実験が始まったのです。禊祓というのはこの実験段階なんです。

さて、禊祓が始まりますが、外国からそれこそ今でも一秒に何十という程せわしなくわいわいと主張が出て来ます。その主張をどういう様に扱ったら良いか。色々な人が色々な言葉で主張して来ますので、それを審判にかけますには、まず整理しなくてはなりません。

とても頭の鋭い人がきれいな言葉で主張するとは限りません。思いついたものをパッパカ言って、それが世の中のブームにのし上がって、それが世の中を風靡してしまうという事も無きにしもあらず。

ただ、それを世界文明として取り上げる為には、主張はどういう内容であるかをはっきり確かめなくてはなりません。それを確かめる為に五つの項目を定めたのです。

それでまず禊祓をして摂取する前に世界中の黄泉国から主張されるものの内容をはっきりさせる、曖昧な言葉を正してはっきりした内容とさせる為五つの関門を設けます。

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禊祓の手順・・・タ

それがこの衝き立つ船戸の神の次に出てくる五つの神様の名前です。申しますと、道の長乳歯の神(みちのながちはのかみ)、時量師(ときはかし)の神、煩累の大人の神(わずらひのうしのかみ)、道俣の神(ちまたのかみ)、飽咋の大人の神(あきぐひのうしのかみ)という五つの神様の名前で行われます整理なんですな。

一つ一つ申し上げていきます。

「次に投げ棄つる御帯に成りませる神の名は、道の長乳歯の神」伊耶那岐の大神の着物のうちの帯を投げ棄てたというのですから、その着物といいますと心の裳(も)、つまり衣で、伊耶那岐大神の心の構造の音図を天津菅麻(あまつすがそ)音図といいます。菅麻とは清々しい衣という意味です。

その音図は人間がオギャーと生まれた時、知識も何も無い時に既に授かっている天与の心の構造は何か、それを天津菅麻音図と申します。その菅麻音図にのっとって、外国の文化学問の曖昧さを無くし内容を明らかにしょうと言うので、その帯を投げ棄つこととなります。

帯というのは長いもので、体を結わえたりまとめたりするものですね。という事から「緒霊」ということです。緒は鼻緒というように長いもの、それを結んでまとめたりするんですな。ですから連続性とか関連性とかいう事に哲学的に言いますと通じるんです。

( ブログ 「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」 からの複写。・・・http://imakoko.seesaa.net/ 発言者は島田正路氏。 )

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前回は八つ当たりみたいでした。

禊祓が分かっていない状態は変わりません。

それでも「やっぱりお風呂」というコメントには撃たれました。世間はほんとうに広いし、わたしの不真面目さも、とうとう反響を呼ぶことになり、こんなことになってしまい申し訳ないと思います。

もっとこじんまりした、独りよがりの自己主張路線になるようにします。

今回のコピーは「禊祓をして摂取する前の五つの関門」ということですが、ますますむずかしい。

前もって古事記の神名を使って五つの関門を示しておきます。

・・(主観内真理)----------◎ 伊耶那岐の大神 (こころの身禊。さがの摂取)

・・(自己主張の拠り所)------- 衝き立つ船戸の神

(身禊五神)

1。(関連性と連続性) 道の長乳歯の神(みちのながちはのかみ)、言霊イ次元。

2。(時処位の検討) 時量師(ときはかし)の神、 言霊エ次元。

3。(曖昧性の排除) 煩累の大人の神(わずらひのうしのかみ)、言霊ウ次元。

4。(分枝点方向の明瞭化) 道俣の神(ちまたのかみ)、 言霊オ次元。

5。(実相を明らかに組む) 飽咋の大人の神(あきぐひのうしのかみ)、言霊ア次元。

これらが自分の心の洗濯項目です。「醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき」の内容となります。各神が自分の汚さを表すものとなります。

例を挙げようにも難し過ぎてどんな例にしたらいいのか分かりません。

各人の発する一言一言には、それぞれこんなに汚いものが付いているという自覚を要求されていて、わたし自身にも誰にも当てはまることというのですが、どう理解したらいいのでしょうか。

こんな時に「ポチ」っとされようものなら、殿、あまり早まったことをなさらぬように、と言いたくなります。

古事記は心の汚さを上記の五つに纏めているわけですが、せっかくの好意的な反響コメントを反故にするわたしの反響(汚い心)を整理分析するということで、何とか償いをしてみたいと思います。

禊祓の練習です。

(自己主張の拠り所)--かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸の神。

わたしはいいとか、うまいとか、偉いとか、褒められるのが嫌いです。人のいいところを見つけて褒めましょうなんて言うことを、わたしに該当させて欲しくありません。

これが自分の性格だ、ナチュラル精神だ、生まれつきだ、として、それを判断の基準としています。習慣となってしまった頑固さというものでしょうか。なんら自ら作った性格ではありません。それがあるときの蓄積された心地よさの記憶から出来たもののようです。後生大事にするようなものではありませんが、第二の性質として固定しているものです。

(身禊五神)

身体にまとい付いたものを解いていきます。帯、御嚢(みふくろ)、御衣(みけし)、御褌(みはかま)、御冠(みかかぶり)の順で、まず、これが自分だ俺だと言い張る帯を解きます。

1。(関連性と連続性)--「次に投げ棄つる御帯に成りませる神の名は、道の長乳歯の神(みちのながちはのかみ)、言霊イ次元。

帯は自分の衣の全体が崩れないように固め留め支えているものです。確かに過去から引き続いて今もあるものです。悪く言えば引きずっているものです。後から補強したり変更したり改修したりでそれなりの歴史がありました。その帯を解きます。するとそこに表れてきたものは自然な衣のそれ自身の歴史、過去からの連なりです。

帯を解けば着物の自然な姿が表れます。わたしがそれを選んでしまった意思表示をしたものであったとか、気に入りいざなわれて手にしたものとか、格好を付ける以前のわたしだったものが出てきます。

「帯を投げ棄ちましたら、道の長乳歯の神」が生まれます。道は道理です。長乳歯とは、若い歯が生え揃った幼児の歯というわけです。ずっときれいに並んでいる歯ということから、物事が切れ目無く連続している性質又は関連している事を調べる心の働きという意味です。」

着飾る、締めつける帯、バンドを外せば本来の自然な流れにある帯、バンドが見えてきたというとでしょうか。

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分からないまま載せておきます。

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2。(時処位の検討)-- 次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときはかし)の神、 言霊エ次元。

3。(曖昧性の排除)-- 次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、 煩累の大人の神(わずらひのうしのかみ)、言霊ウ次元。

4。(分枝点方向の明瞭化)--次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、 道俣の神(ちまたのかみ)、 言霊オ次元。

5。(実相を明らかに組む)--次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、 飽咋の大人の神(あきぐひのうしのかみ)、言霊ア次元。

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禊祓を始める時。 つづき。

2011/7/14(木) 午前 1:17●古神道の禊祓とは

禊祓を始める時。 つづき。

わたしには禊祓をする資格がないのかと思うくらい、行き詰まっている感じです。

この数日、ブログが前に進みません。

昨日は、非常におちょくったことを書きました。

両者共に千年単位の歴史が見えていないことを示したようです。

禊祓を水行としている限り、もっとすがすがしくなりたければ石鹸でも使ったらと、おちょくりたくなります。つみ、穢れを除去して心身を清めるなんて言われると、子供の塗り絵遊びのように色を変えればシンデレラになったり、魔法使いに成ったりするのを本気で信じているのかと疑いたくなります。

神との合一を目指したところで、神の声を聞いたと感じて神さんの言いつけを繰り返すだけでしょう。そんなものは、ラジオの実況放送ほどにも届きません。

伊耶那岐の大神が 「かれ吾は御身(おほみま)の」 と言って始めた 「吾」 を棚上げしているからです。神代の神々の御心に触れて、「何事の、おわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」だけなら、いろいろとシネマやドラマもあるでしょう。

自分の意見を言ったり主張しても、千年単位の神社神道が変わるわけでもないし、変わりたくもないでしょう。バプテストのヨハネの首の価値が分からないから、値段がついていません。空気に値がつくまで待たねばならないのでしょうか。

さて、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。」です。

これは、

「心の全てを竺紫(つくし)て、

霊に向(ひむか)い生命のいざないに直面し、

橘のように常緑で変わらぬ香りを放つような、

性(たち)を表す言葉(ば)の名(な)の音(おと)になるような、(性質、実体内容と表現現象が一致するような)、

創造された文化現象音、小門(戸、おと)、であるところの、

阿波岐原(あはぎはらという言霊原理の五十音図)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。」 になります。(ア-ワ-イ-ヰ、の四隅でアワギ、原は音図)

生命のいざないに尽くす言葉を発する心の原(はら)を地に着く立場として行くということです。各人の心の内にある言葉の出所を指します。流行になっている言霊の、言葉の霊力とかよい言葉とかではなく、先天的な言霊の発信源のようなものです。良いとか悪いとか後から取ってつけた理由付けによるものでなく、心の最小単位となっている言葉であり、言葉が心であるものです。

それを平面で表したのが五十音図で、全体を一言で表すと「あ」で、その「あ」を表すことを「あめつち、(アの芽が地につく、アの芽が付いて地になる)」といい、漢語を借りて「天地」と書き、漢語で表現されたせいで今まで秘密の呪示言葉として千年以上が経ちました。

古事記は漢語の「天地(てんち)」で始まりますが、漢語の天地とする限り一切は間違いから出発するように、構成されています。これは安万侶さんの天才的な創造力によるものか、あるいは、「ウガヤフキアエズ朝」の完成を企画した神武天皇によるものかの、どちらかであると思われます。いずれにしても千年単位の人類史を見据えた超超超のつく嘘八百、超超超のつく方便ということでしょう。

古事記の冒頭を「あめつち」としてしか読まなくなったとき、大和の指導する世界の脱皮変態が始まります。

今日もまた調子がおかしいようです。

木霊が響きます。

それではお前がやってみろ、、、そ、れ、で、は、お、ま、え、が、や、っ、て、み、ろ、、、そ、、、、れ、、、、、、、で、、、、、、、はーーーーーーーーーーー、、、、

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柿本人麻呂

橘(たちばな)の、本(もと)に我(わ)を立て、下枝(しづえ)取り、ならむや君と、問ひし子らはも (2489)

通常に解された意味・・ 橘(たちばな)の木のもとに私をたたせて、下枝を手にとって、「実を結ぶでしょうか、あなた。」と問うたあの娘は、今はどうしているでしょうか。

言霊学で解してみると・・橘は表現結果現象で何を表象したものとしても構いません。

「本、下、問いかけ」の三者で主体から客体へ渡ることで、表現行為の実行、造化三神の出現のこと。これが愛でも恋でも思いでも何でも自由な解となっていきます。

本が主体側、下枝が客体側、両者を結ぶのが問ひしですが、ここでは下枝の現象結果側から問いかけています。客体側の能動行為というのはありません。

つまりあちらがわにいる誰かが問うことをしても何も得るものはありません。当然実らぬことなのです。

しかし、実らないといっても、相手側の実在に対する記憶概念分析知識は残ります。これを客観実在として外側に見ていくと、あの子はこうだああだと客観概念だけは出てきます。

この状態を橘の常緑と香りにかけているようです。「橘(たちばな)は非時香果(ときじくのみ)とされています。非時香果(ときじくのみ)とは、いつでも香りたかい果実、という意味です。」

すると、あの子は「実は結ぶか」と問うてきたけれど、きっとそんなことはもう忘れてしまっていることでしょう、それにしてもわたしときたら、未だに忘れられずにいることよ、となるでしょう。

では、禊祓とどんな関係があるのでしょうか。通常の解ではあの子の事を気にしていますが、ここでは自分の心が主題です。

常緑と香りの橘ですが、その解は、自分の持っている性質内容タチ(性)を表す言葉(バ)の名(ナ)のことですから、いつかあの時声をかけたあなたへの心の思いは変わらずにいるのにということでしょう。

でもあなたが僕に囁いた言葉のあれこれは何も実現しなかった、というのも、あなたは、受け取る立場にいながら、僕に変わって与え働きかけることを言い出していたから。僕は君の言うことはみんな分かっていた。ただ囁きたかっただけ、僕をくすぐりたかっただけというのも知っていた。

だから君を引き止めることもしなかった。でも僕の心は橘だったのだよ。

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禊祓を始める時。

2011/7/13(水) 午前 1:00●古神道の禊祓

禊祓を始める時。

・古事記の禊祓という方法は現代人の考え方では決して思いつかない精神的な方法でございます。

日本古来の古神道の禊祓と申しますのは、ただ、自分の穢れを祓うと言う小乗的な、自分の為にする業ではありません。単なる個人的な穢れを清めるということとは全く違います。

この地球上で起こっている一切のものを自分の体の中で起こった如くに考えて、それが全部自分の責任だという立場から、自分の身を清めて、そして世界人類の文明を新しく創造して行くにはどうしたら良いかということの方法を述べるのが古事記の禊祓であります。

・禊祓いを始めます時に伊耶那岐の大神はまず「かれ投げ棄(う)つる御杖(みつえ)に成りませる神の名(みな)は、衝(つ)き立つ船戸の神」と申します。判断力(杖)を投げ棄ったところが、「衝き立つ船戸の神」が現われた。衝き立つは斎(いつ)き立つの謎です。船戸の神と申しますのは、言葉と言いますものは心を運ぶもの。

判断力の元、鏡ですな。その正体は何かと言うと、古事記のお話のずっと前に出てまいります、建御雷の男の神(タケミカヅチノヲノカミ)という神様です。

・全てのものが判断できる最高の基準とは何か、という事を考えまして建御雷の男の神という構造を発見したのです。

この最高の構造を伊耶那岐の命は主観内でのみ納得しただけでありまして、それが世界中の事物を吸収して昇華して、世界人類文明を創造していくという客観的なものにそれを応用した時はほんとにそれが出来るかどうかは、まだ未確認な状態、それを建御雷の男の神と申します。

・それで主観的ではありますが、それを鏡として掲げまして、実際にやってみて、ああこれは大丈夫、だという事を確かめたいので、実験が始まったのです。禊祓というのはこの実験段階なんです。

それを世界文明として取り上げる為には、主張はどういう内容であるかをはっきり確かめなくてはなりません。それを確かめる為に五つの項目を定めたのです。

・( ブログ 「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」 からの複写。・・・http://imakoko.seesaa.net/ 発言者は島田正路氏。 )

---次も引用。--------------------

実を言うと、かくいう筆者も

既に話した如く、心の先天、後天の構造とか、禊祓に於ける光の言葉による人類文明創造などと言うと、如何にも難解であり、またその難解な言霊学をマスターし、活用し得る人はどんなにか頭脳明晰で高潔な人格の持主であり、我々凡人から見ると雲の上の人の如く思われるかも知れない。

例えば大宗教の開祖、教祖についてその人間放れした神人らしい記述が書かれているせいもあろう。実を言うと、かくいう筆者も自身の日常生活が余りにも世間知らずで、オッチョコチョイな生活態度を思うにつけ、昔の孔子様やお釈迦様、またイエス・キリスト様などは端正な態度で、すべてのことを承知した偉人、聖人であったのであろうと思うことが多かったものである。

特に「論語」にある「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」などの文章を読むと、「あっちに突き当たり、こっちにぶつかる」自分なんか遠く及ぶものではない、と自棄を起したりする。

先月下旬に入った或る夜、連日の多忙で少々疲労気味で元気がなかった。静坐して自分の意気地なさを反省した。大切な言霊学を勉強させて頂いておりながら、時々弱気が起こる。自分には感謝の念が足りないのであろうか。

生命とは言霊イの道即ち「いのち」

自責の念が続いた。その時、ふと思った。尊い皇祖皇宗の人類文明創造の仕事に参画させて頂きながら、私は疲れるとついつい弱音を吐く。全く情けない人間だ。何時も「もっとしっかりせねば」と思いながら、改められない。「三つ子の魂百までも」と言うが、私のこの性質も変わりようがない。私はこういう人間なのだ。とつくづく知った。

すると同時に、こういう人間でも生きている。こういう人間でも生命(いのち)は何時も変わりなく私を守り、生かして下さっている。生命とは言霊イの道即ち「いのち」である。

そうだ。言霊学が言霊イの道であり、人間の道の学問であるから、言霊学とは私の如き横着で意気地がない人間そのものを映し出した学問なのだ。聖人君子を映し出した学問ではない。平凡な人間の空相と実相をそのまま映し出した学問なのである。そう気付いたのであった。

人間、この世に生きていれば、気の合う人にも、気が合わぬ奴(やつ)にも会う。ぶん殴ってやりたい奴もいる。喜怒哀楽交々(こもごも)である。ストレスを溜めない人などいるわけがない。にもかかわらず人は生きている。

言霊イの次元の生命が他のウオアエの四次元の現象を総合して「霊駆(ひか)り」の調和を以って包み、新生活の創造に取り込んで下さるからだ。生命は頼まれなくても、言霊学で謂う「禊祓」を時々刻々、分また分、一秒一秒毎に行ってくれている。言霊学はただその創造行為を理論的に、行動力学的に映し出したに過ぎない。

人間の肉体は必ずしも健康によいことのみを行っているわけではない。目出度いと言って酒を呑み、気に入らんと思って深酒をする。太ると知りながら甘いものに目がない者もいる。健康によいものをと手当次第保健薬を飲む人、体に悪いから煙草を吸うな、と言われ、吸えないくらいなら死んだほうがましだなどと一日に五・六十本も吸う人、人はまちまちである。けれどそんな人でも結構生きている。

生命は身体の我侭や無理を程よくカバーし、調和して、明日の活動力を与えてくれる。これも生命のおかげである。その生命も自らの生命自身の内なるものなのである。禊祓は肉体の面でも日一日、分また分と滞りなく行われている。

言霊学を極めたからといって、平々凡々な人間より一歩たりとも上に出るわけではない。矢張り平凡な人間に他ならない。では言霊学を極めた人と、言霊学を知らぬ人との間に何も相違はないか、否、唯一つある。それは何か。

物事を言霊の原理によって見ることが出来る人は、世界人類のことを自分一人のこととして考えることが出来ることである。 (会報第199号「古事記と人間生命」)

( ブログ 「言霊、言霊学、コトタマノマナビ 」 からの複写。・・・http://imakoko.seesaa.net/ 発言者は島田正路氏。 )

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次はネットで見つけた、誰かさんの普通の禊祓。

「禊」とは、「水滌ぎ」「身削き」の意味といわれており、衣服を脱ぎ棄て、水中に身を投じ、身を振りすすぐことによって、水の霊威により清浄に至るをいいます。

そして、雪の降る中で水をかぶったのでございますが・・・

翌日、発熱いたしました。

---以上引用。--------------------

禊祓は、水とか濡れるとかに関係しない精神事業ですが、正しい禊祓の内容が公開されても、千年単位での呪縛はまだ続きます。

こちらの方が正しいのだからなどと言っても仕方の無いことです。

道はそのように敷かれていて、そもそもが、その敷かれた言葉、大和言葉、の上に乗っているからです。

一切は、言葉の真の理解に係わっていますが、知っていようといまいと、皆が同じレールの上で踊るように仕掛けられているのです。

千年単位の理解が間違っていたと言うことと、本当はこうなのだと言うことに差はなく、お前は間違い、わたしは正しいと言うことにも差はありません。

両者とも、そのように言い合うことができるのも、同じレールの上にいるからで、まもなくそのレールは全解明され、世界に統一されるのですから、俺がお前がという差は無くなります。

政治、軍事、経済でも同様です。今は大小強弱があるので、俺お前の主張が成り立っているだけです。統一されてしまえばどこにも差がありません。せいぜい邪悪な者によるのを避けたいという漫画のような理性がでてきているだけです。

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「生命は頼まれなくても、言霊学で謂う「禊祓」を時々刻々、分また分、一秒一秒毎に行ってくれている。」

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〇〇法、何とか秘伝、鎮魂帰神、〇△□×、神人十種神寶印結びお気に入り神名を唱えること等々も結構ですが、お身体を大切にしてください。風呂上がりのすがすがしさもお忘れなく。