06 (リ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。

(リ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。

(イ--意思の発動)

チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)

イ--以ちて、(や行のイ)

キ--伊耶那岐の命

ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、

シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め

リ--成せ」と、 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神

ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、

ニ--言依さしたまひき。

(ヰ--意思の帰還)

リ--「成せ」と、 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神

「 創造したものに適当な名前を付け、整備しなさい、との意味です。混沌とした世界を一つ一つ区切って、言葉の言うように似せること、創造したものの内容・その存在がよく分かるように適当な名前を付け、他のものとはっきり区別出来るようにすることを言います。 」

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妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 (ヱの性質)保存収縮の拡がり。 なりさま、実体。今-未来。

ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻

「言霊リ。大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。」

大いなる量りのわきまえ。選択識別されたなりさまが繰り返し述べられるような働き。

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「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め・成せ」 の原文を便宜上二つに分け、「言霊シ、意富斗能地、の、この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め・」と、

「言霊リ、大斗乃弁、・成せ」 にしてあります。

心は一度通過したものは、思い出す出さない、現象としてあらわれるあらわれない、とかに関係なく全て記憶にして行きます。ここまでの段階では、ギ・ミを働きと実体の剖判で示すと同時に、オ・ヲの性質を持った角杙(つのぐひ)の神・妹活杙(いくぐひ)の神としても示してあります。つまりギ・ミ神は、記憶過去概念の知識全体をその働き・実体で示しました。

ですのでギミの神がどのうよにいつどこで出てくるというようなことは、全く自覚無くおきます。自分もこんな経験をしていたんだ、こんなことを思ったことがある、等、人は誰でも自分である以前に、気がついたら私という自分になっていたわけです。

誰がこんな自分にしたのだというのは、チイキミ・シの「修理(おさ)め固め」の「シ」の前に、経験過去知識としてのギ・ミの神がいたからで、それでもやはり自分に責任があるというのも、チイキミ・シの「修理(おさ)め固め」の「シ」の前に意思創造としてのギ・ミの神が来ているからです。

そのギ・ミに「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め・成せ」といっています。

注意してもらわなくてはならないのはこの時点では、ギ・ミにいわば前提と成る実在世界の条件と自分の力能を発揮する性能が揃いました。しかし、「シ」の順位が後にあるということは、それをどうするかについては言われなくてはを知らないのです。

チイキミシ・・・・の「イ」に持続の働きがあるじゃないかと思うでしょうが、残念ながら「イ」の前にギ・ミの実在も働きも来ていません。つまり「イ」はギ・ミを知らないのです。

このように順位というのは一つ位置が変わると意味内容がまるで変わります。というのも人の心は八種になっている一塊であって、どれか一つを使うと残りは七つ、どれか二つを使うと残りは六つというように、絶対的に「八」という一塊から逃れることはできないからです。

八つの間の戸(やまとの語源)の出入りは、一つの戸を開けると他の残りを全部開けて通過しない(矢のイメージ)とその戸に戻れないという、八つの矢が八つの間の戸をそれぞれ開ける、精神意識の構造になっています。

ですので、これは正しいことも間違ったことも、良いことも悪いことも無く、全てに当てはまる原理で、そういった価値判断みたいなものの根源をなしています。

さて、その言霊シの神名は意富斗能地です。 大いなる量りの働きを述べ納得の行くように鎮める地固めをする力動韻です。ギ・ミの実在世界の選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働きで、ギ・ミの内容と成るものついて、 「理(おさ)め固めよ」と、言われました。つまりどうするのか、どうしてけりをつけるのかと言われました。

あるにはある、用意は整っているのに、使えない使用法を知らないみたいな状況です。

しかも残りの手持ちは、「(チイキミシリ・)ヒニ」の「ヒ」と「ニ」の二父韻だけです。上にも述べた通り一度使ったものは一巡するまで使えないのです。複数人数でする家族ゲームで全員が一回づつしか賽子を振れないようなものです。

この「八」の理解が大和(八・矢・間戸)の鉄則です。

(とはいうものの、そう簡単には分かりません。ヤマタノオロチの段では「八」の扱いについて神話を用いた比喩で述べています。原理の応用問題です。この段では八つの尾(オ-ヲ)を処理して得た「くさなぎの太刀(九つのサをなぐ判断力)」を持って「すがすがしい」という、ちょっと理解に苦しむところですが、要点は「八」からくさなぎの「九」へ意思の次元をあげることにありそうです。いつか別項目でやりたいと思います。)

そこで次に、言霊リが、「成せ」と、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神 が言ってくるわけです。「成せ」というのは今進行中のブログのテーマである父韻そのものの働きを指巣ことでもあります。

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神が結果「シ」を目指して「成せ」といいます。もちろんなんでもいいから「成せ」ではなく、のこった手の内にある「ヒ・ニ」を使用するしかない「成せ」です。

「おおとのべ」は大いにその識別の度量と成ったものを述べるで、その述べ方は「ヒ・ニ」を使う方向でしか述べることができません。幸いにチイキミシ・・・実在内容とその先天の働きは用意されましたから、実際に「ヒ・ニ」を使って「成せ・述べ世」というわけです。

そこで、先程も述べたように心の述べ方は八種しかありませんから、ここでの言霊リは、八種の述べ方を成せになります。つまりチイキミシを受けて、次の「ヒ」に継がれるように言霊リが八父韻として働くことになります。

実際には、チイキミシリが八種の「ヒ」になることです。

人はこれが私の考えだと一つ提示したり、こういう場合とこういう場合があるといったりしますが、本来はどの人も八種の在り方の一つ二つを、これだといっているに過ぎません。各人には八種を提示する性能がもともと備わっていますが、個人でおこなえるかどうかとは別の問題です。三人寄れば文殊の智慧というのも八人寄れば完璧でしょう。