03章 大いなる心の部分

大いなる心の部分

大いなる心の流れ

時。とき、十気、十機、戸気、戸機の発生。

【国 (くに)稚(わか)く 、 浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、

【次に国(組み似せることが)稚(わか・沸き加えられ)く、

【浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に

【葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は

二十(ふと)

宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神、次に 天の常立(とこたち)の神の領域。 【宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神、

【 天の常立(とこたち)の神。

記憶とは。

【 この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

【 次に成りませる神の名は、国の常立(とこたち)の神。次に

【 豊雲野(とよくも)の神。

選択の系列、至上命令へ。

【 この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

大いなる心の部分

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この章の原文は以下の通りです。

【次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、

葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、 】

【宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に 天の常立(とこたち)の神。 この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 】

【 次に成りませる神の名は、国の常立(とこたち)の神。次に 豊雲野(とよくも)の神。 この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。 】

直訳

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前半。言霊ヲ・オ。

『次に心を現わすのに自らを組(く)み区(く)切って似(に)せることがまだハッキリしていなく稚(わか)く 、水の上に漂う油のように不安定で、そのため混沌として暗黒で暗気(くらげ)に包まれている時に、

葦の芽のごとく次々と連鎖反応を起こすように吹き出てくる意識上の実体は 』

『霊妙な(うまし)葦の芽(あしかび)のように次から次へと萌え出てくる記憶の世界です。』

『次に、記憶を大自然(天)のように恒常的に今現在に成立させていく主体的(立)に記憶しその関連を考える側の主体があります。 』

『この心の宇宙世界もそれだけで充分独立していて他に頼ることなく存在する世界となる。 』

後半。言霊エ・ヱ。

『次に現れる心の実体の名は、組んで似せること(国)が今後恒常に(常)成立する(立)ためのどう扱うかの選択が現れてくる宇宙の実体(神)です。』

『次に、先天構造を構成している言霊の基本数十四(トヨ・豊・アイエオウ、ワ、チキミヒリニイシ天津太祝詞音図の十四先天言霊)が組まれ(クモ)実践智の世界。』

『この二つの意識もそれ自体は現象となって姿を現すことはない。 』

意訳

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「心を表現するのに心の宇宙世界の区分が幼く不確定でものの分別がハッキリとしてなく、まだものに名前を付けられないので、渾沌として暗黒のうちにある時に、」

「アーウウーと言いながらも次々と頭に思い浮かんでは消える時と所を選ばず吹き出てくる意識は」

「果てしなくまた勝手気ままであり、時と処を選んだりしないで出てくる霊妙な記憶の数々で、過去のものとなっているのにいつまでも緒を引くものの実体、記憶そのものの世界(記憶となっている客体側世界)が出ててきます。 このような心は記憶概念の受け手側となます。 」

「次いで、記憶を成立させている主体側を、自然な状態で常に記憶し関連づける主体側世界の働きが出てきます。 このような心は記憶する主体側となる。」

「この記憶のあった記憶されていた記憶の客体世界も、記憶し記憶をもたらす記憶の主体世界も、それ自体で十分独立していて他に頼ることなく存在する世界です。」

「次に記憶の世界が分かったら、どう扱うかの選択の世界になります、今後の世界の創造に係わり常に立ち続けることができる実践智の選択肢を扱う世界です。 このような心は選択する主体側となります。」

「意識の現れは能動的な主体意識と受動的な客体意識(アとワ)の元に、ウアオエの四つの次元世界を十の現れ方の性質を組み込む(クモ)ことで成り立つ、その成り立ちの選択を与える実体。 このような心は選択の受け手側となります。」 」

「この選択する心と選択される心もそれ自体としてあり、現象以前のものです。

これが、

言霊ヲ 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神

言霊オ 天の常立(とこたち)の神

言霊エ 国の常立(とこたち)の神

言霊ヱ 豊雲野(とよくも)の神

に対応しています。

大いなる心の流れ

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時とは物事の実相の変化です。

時間とは変化であるとよくいわれますが、変化を実在現象の変化と取りがちです。それを実在としていますから客観性を要求され、それを抽象した数字の変化だとしがちです。ここでも実相の変化と実在の変化、本質である御中主(身中主)と後天現象、とが混同されています。

後天現象である時間を問題としているときには、例えば時間とは何かと問う時には、問われている問題は次のようになります。

時間を問うている自分と時間について問われている自分の二つの「ア」「ワ」の問題です。その問われている時間の内容は各人の実相から出てきたものです。

それを、時間とは何かという本質を問う問題にしてしまうと、問う「アワ」次元の問題を「ウ」次元の身(御)中主の問題の地平に置いていることになります。

問うている本人は自分は本質を問うているつもりですから、正統な問いを投げかけている積もりです。しかしそれは自分の問いという現象を問い解明するものですから、どこまでいっても自分の色に染まった問いへの自己回答でしかありません。

自分の作った問いに自分で答えることですから、もともと自分の知っている範囲を表出するだけのことです。もちろんそれに尾ひれがつきますから、見かけは着飾ります。

そこで出てきた回答を自分の頭で考えたと称して発表することになります。

確かに全く普通なことと見えますが、根本的な取り違えがあります。

それは、自分で問うて自分で出した答えは、自分の答えであって、本質の答えではないということです。問いを作ったときには問いに本質的に答える積もりでしたが、本質の次元に立ったものではなく、自分の(考えた、創造した、感じた、勉強した、得た)次元を繰り返したに過ぎません。それらを得る過程で努力と時間を費やしあるいは一生を費やすこともありますが、どれもこれも本質次元に立って出てきた回答ではありません。その方の努力の結果ですが、本質の次元にたたれて出してきたものではありません。

幼稚園小学校以来自分で考えてご覧なさいと言われ続けた結果で、その結果を科学的に数字的に客観的にしてきましたが、本質の立場から創造されたものはありません。世界中のどの思想家も哲学者も宗教家も、努力の成果の違いがあるだけで、本質から出したものはありません。

ではこれから、時とは何かを解けた人は出てくるのかといえば、でてきません。

何故なら既に解けてしまっていて、それを時(とき)と表現してしまっているからです。古代において時間とは何かを解いた方がその本質を「とき」と表現してくれました。われわれその後の人間たちが「とき」という言葉を使用する限り、古代において「とき」と表現してくれた方以上に出ることは出来ません。

しかし、そこの地点にまでは誰でもいけます。なぜなら私たちは「とき」という言葉を使用しているからです。

ただし勘違いしないように。いまわれわれがやっているようなことからは出来ない、ということです。

私たちが時と言うときには既に現象として理解されている時を身にまとっています。それが種々様々ひとそれぞれであるのにもかかわらず、それらを整理分析して時の本質として提出しています。それはかたや時という概念の元で現わされた自分の考えで、自分の考えを時という概念の「本質」としたもので、本質の立場に立って出てきた結論を「とき」と名付けたものではありません。「とき」という借り物の上に自分の考えを築いただけのもので、本質の上に立ったものから「とき」と名付けられたものを作ったのではありません。

時。とき、十気、十機、戸気、戸機の発生。

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時とは物事の実相の変化で、変化は二者間の比較を第三者の固定された計量基準をもって行なうことです。

では今の時点の吾の眼が付いて地になる御中主になり、それが剖判してタカミ・カミ・ムスビとなっているときに、比較をしようという計量規範はあるでしょうか。何か分からないが生まれ出てくる意識と、その意識があることが分かっただけですので、変化の内容が比較できているのではありません。

トキという意識を持つには、まずは何も無いトキから始まっています。トキという概念なり観念は後から持つのです。

それにもかかわず、持ってしまったいるトキから始めてしまいます。

当たり前に当然ある概念から始めるのは普通の意識の運用です。そこからは現象を現象で分析統合して解していくことしかできません。

トキの変化においても、まずは御中主のようにトキの中今の主が現れ、主客に剖判したところです。トキという現象がすぐ使える言葉として控えていて、直ちに発声の立ち位置にいても、その無自覚な与えられた偶然の現象に支配されるのには待ったをかけなくてはなりません。そうしないと現象と現象の掛け合わせ相撲が始まってしまいます。

ときの初め。

最初に、現象として意識されたトキはありませんでした。しかし私たちは先天的に流れの中にいますから、トキの流れを意識させられます。注意してもらいたいのはときの流れを意識するという主体的なことではありません。流れの変化を意識しますが、それを「とき」とするのは後のことです。時間は変化ということも変化の意識を後に時間と呼ぶのです。

そこでは意識することも受動的で、受動的に意識させられて意識することが始まるので、意識はトキの流れを取り入れることができるようになります。

ここには先天の意識の働きが、意識になる各人の意識の働きに働き掛けて、先天の意識が各人の意識に宣(の)ることによって、各人の意識の能動性が発生します。各人の意識は受動的に先天の意識を受け入れますが、受け入れて働きを現わす作用場・手段・媒介物象を持ちません。

主体性というのは受動的に始まるのです。

そこで、先天から働き掛けられ、やはり同様に先天から先天の手段物象を与えられます。この与えられた先天物象を受け入れることで初めて、各人の主体側の意識の働きが出てくるようになります。前提とか前提条件とかいう場合物理的な後天現象のことでなく、先天にあるということです。古事記では天津と言います。

(天津とは、先天の働きがツッーとでてくることで、顔の正中線上に鼻があるのは何故かという疑問には答えられないということです))

一度主体側の意識が先天からの意識を受け取りますと、直ちにその意識の地となる主体が成立します。ここに先天の意識を受け入れたものなのに、つまり他のものなのに、自分の意識の地としてしまう構造ができました。ここを俗に言い換えますと、自我は存在しない、自己というのは借りものだ、自分の考え主張などはない、となります。

先天の上に自分の意識の地が整地されました。ここに主体の柱が立つことになります。その柱の内容が後の各人の主張となる後天の意識です。

そして、ここにおもしろいことが起こっています。

先天の意識の働きが、各人の意識の働きを相手対象としました。それが載って(宣って)各人の意識の地ができました。この主客の関係が各人の意識内にも持ち来たらせられ、意識内の主客という構造が発生していることです。

私たちは自分の意見を頭からそのまま言葉として出して発声しているようですが、実は、自分の意識が自分を相手対象に選んで客体化したものを、主体的に話しているのです。その内容は後々明らかになるでしょうし、形もできてきます。

先天の意識が頭脳に載りました。宣った後はどうなるのでしょうか。先天が私を相手対象としたように、頭脳内に立ち上がった私の意識もその働きと働く相手との二者に剖判していきます。

古事記は次の二者をまず挙げます。

【次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、

葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、 】

【宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に 天の常立(とこたち)の神。 この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 】

で示された、うましあしかびひこぢ(意識の地)の神 と あめのとこたち(経つ・建つはたらき)の神 です。

【国 (くに)稚(わか)く 、 浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、

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比喩暗喩で書かれたものですが、神代の巻全体が、心のあり方働き方の暗喩ですので、ここも当然不安定な国土創生を指したものではありません。

意識の国土、領域がはっきりしていないことです。国土は名付けられた国の国境が他と分別されているところに成り立ちます。ここはコクドではなくクニと読むようになっています。

古事記の進行上(=意識の進行上)、意識の領域も今は、ミナカヌシ、タカムスビ、カミムスビの三神の出現で世界全体を現わしただけです。

ミナカヌシで意識の始まりの全体を現わし、その全体に主体側と客体側を確認しただけです。それぞれが意識の次元世界の全体を現わしていますが、それ以上のはっきりしたものはまだ持っていません。

ミナカヌシは全体を明かすとき、全体を組(く)んで似(に)せて出て来たもので、

タカミムスビは全体の中に確認される主体を明かすとき、主体を区(く)切って似(に)せるときに現れたもので、

カミムスビは全体の中に確認される客体を明かすときに、客体を組(く)んで似(に)せられて現れ出てきたものです。

それぞれの神々が現れるときに、その神々が組(く)んで似(に)せたものがクニ(国)です。漢語の固定的な意味合いから来たものではありません。

ここまでの段階では世界を全体としてみる、それを主客でみるというだけのところまでしか話は進んでいません。

しかし、ミナカヌシはその次元の話ではそこの全体を現わし、タカミ・カミムスビもそれぞれの次元での全体を現わしているので、過不足は無いのです。後段の複雑豊富な世界から見れば、不完全で不足している頼りない世界に見えますが、その時点に立てばそれが全てです。

考えれば考えるほど複雑になり詳細になりますが、最初のミナカヌシの次元を越えることは無く、考えるという次元が分化複雑化しただけです。タカミムスビは言霊アとなって感情情緒方面を司りますが、考えれば考えるほど感情も複雑になるというものではありません。当初の感情面は忘れなければそのまま持続していきます。

ミナカヌシは欲望次元を司りますが、幾ら考えたところで欲望が考えられる分けではありません。

ということで、後段から見た規定はまだ受けていないので、はっきりせず不安定のようですが、それはそれとして十分でそのものずばりそれぞれの次元世界を形成しています。

物事を外部から見て比較しますと様々な比喩が生じますが、そのことの中に入り立って見たときには比喩ではなく実相を得ます。

前三者の神には比喩で形容したものは用いられておらず、実相の呪示暗喩で直接的な表現となっています。形容された比喩はここから始まります。なぜでしょうか。形容は比較の眼、他者の眼、単位基準の眼が必要ですが、この段階において初めて比較形容の眼が出てくるということです。

それ以前には無いものでした。

欲望世界の内容は比較できません。有るものがあり続けるか無くなるかです。同様に得ている感情も持続させるか忘却してしまうかで、別のものへと相手対象の変動はあっても、欲望そのもの感情そのものの直截さがイマココの時点で変更されたものではありません。

ところがここに、比較変更第三の眼というものが可能となるものが出てきたということです。

今まではそのもの自身の世界だけであったものから、相対化相対視の世界が芽生えてきたのです。

注意してもらいたいのは、比較相対化することではなく、この段階ではその働きも自然なそれ自身で存在している働きということです。

【次に国(組み似せることが)稚(わか・沸き加えられ)く、

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国稚(くにわか)くを、組み似せることが沸き加えられるとすると、直ぐ後に出てくる、 萌(も)え騰(あが)る物に対応しているのか分かります。

何故、沸き加えられるのかは、鼻が顔の正中線上に何故あるかというのと同様分かりませんが、そこにあるのは確認できる先天の出来事と働きです。

欲望を持ったら持ったで、感情を持ったら持ったで次々とその後が続いて出てきます。この続いて出てくる働きは今ここで実在した欲望そのものではなく、感情そのものではありません。しかし尾を引くように尾を付けるように自然に沸き加わります。

それは記憶、概念と呼ばれ後に知識となります。

そしてその各々が自分を主張するようになるのです。

まずその出方には秩序がありません。勝手気ままです。予測もできずそれをつかまえて幸不幸を得ることも偶然です。いつどこでどのように湧き出るか分かりません。そんな勝手なものですが、一度出てくると出てきた場所(頭脳)を占領します。

分けも分からず勝手に出られて勝手に占領されていきます。これが一応思い考えている方向に向いていればいいのですが、その実、それだけしか出てこないという形をとるためその人の頭脳が考えたものとして受領されていきます。

その人にはそれだけのものとしてしか出てこないので、それがその人の唯一の所有物となり、同じテーマの他の主張が見えません。そこで自分の得たものを後生大事に抱えますと、他との違いが目障りになってきます。

この段階では単に暗闇で何かの気配を感じたというだけのもので、何もはっきりしたものは分かっていない状態です。

【浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、

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世界に対して勝手に出てきて、他との関係も確認されていませんから、自分の領域があるのか自分の領域しかないのか、それが全てであるのかもはっきりしません。

それでも欲望、感情の後から出てきて、欲望ではなく感情でも無い、しかし応対する相手は欲望と感情しかないという状況です。

そこでどうしても出てきたもの(記憶、概念、知識)達は自分の地盤となっている、欲望や感情とむすばれることになります。闇夜に察気されたものが勝手に大きくなり、思い過ぎから察知されたものへとなっていきます。

でもこの段階では、自分の得た察気されたものは欲望か感情の全体に結びつき、あるかないかというだけの非常にあやふやなものです。

浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へるものです。くらげ(水母)というのは、察気して自分にありながらはっきりしていないので、暗気(くらげ)ということです。ことの初めには付き物となっています。暗気が結びつくのは感情方面で、混沌とはしていますが、マイナス方面であるかプラス方面であるかはまた後の話になります。

【葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

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感情の世界では、分けがわからなくメチャメチャに楽しいとか、止めども無く非常に悲しいとか、無感動であったりしている中に、 葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、 というものがでてきます。葦の芽が勢いよく次々と出る様子だということですが見たことはありません。しかしここはこころの表徴ですから自己反省的に確認はできるはずです。

古事記には多くの感情表現を借りた神名がでてきます。トマドイとか面足るとかアヤシとかヤスラカ等々と言った具合で、大いに歓喜を得るまでが綴られています。しかし感情は感情で欲望でも無く知識でもありません。また感情は止めども無く次々と芽を出し変化していくのでもありません。ではこの時点において出てくるものはなんでしょうか。原文には葦の芽とあるから、心のアシのことでしょう。

葦は後に不具の子を産んで葦船に入れて流したというのがあり、その葦と同じものです。

ここは先回りして既に有るものとして説明するしかないものです。あるけれど証明はできないが、確認はできるものです。前にあげた何故鼻は顔の正中線上にあるかの問いには答えられないけれど、人の鼻は顔のどこにあるかには誰でも顔の真ん中にあるよと答えることができ、誰でも確認できます。

アシ(葦)というのも同様に説明されますので、植物の葦は忘れてください。

人の心とは五十音図のことです。五十音図は心の実在実体と働きとそれによって創生された現象子音でできています。その音韻は現在は欠けていますが五十個です。つまりこころとは五十個の要素での表現となります。

様々な心があるように、心に応じた五十音図があります。学校教育では母音行がアイウエオの五十音図だけが教えられていますが、心に応じた他の音図があります。それは心の様相というか次元に沿ったもので、心の欲望次元、知識次元、感情次元、選択、意思といったように、それぞれ配列の違う五十音図があります。

現在の音図はアイウエオとなっている欲望次元を現わすための音図です。後に音図の内容は語られますのでここでは、ア段がタカマハラナヤサとなっている音図があるのを知る必要があります。

タカマハラナヤサ音図には両端にア・ワが付きます。アという主体からワという客体に渡るのに、タカマハラナヤサ、を通過するということです。スメラミコトとは何かといえば実はタカマハラナヤサを熟知し行使できる人のことをいい、タカマハラナヤサ音図の実の名である天津太祝詞音図の実行者ということです。

心の解説はウ・ア・ワと進んできたわけですが、解説の都合上アシ(葦)を語っているところです。天津太祝詞音図は誰も知らず誰も理解していないといっても、人は生があれば生きていくというように、無自覚に先天的に誰でも与えられている五十の構成要素の配列を持っています。どんな物体も限られた数の元素からできているようなものです。心の場合は五十ということで、それを示したのが五十音図ということです。

これはどんな人にも当てはまるので国籍言語を問いません。現在各国の言語となって不完全に伝わっているだけのことです。その完全な形は皇室の賢所に秘蔵されているといわれます。

二十(ふと)

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さて、その人の意識に普遍的にあるとされる天津(先天のという意味)太(フト・二十)祝詞(心に宣・の・る言葉)音図のアからシへの経過がアシです。

主体を意味するア段の吾(ア)から始まり、タカマハラナヤサと実在実体を渡るのに、イ・チキミヒリニヰシ・の働きを通して、相手対象であるワへ渡ると物事の現象が産まれます。ア・タカマハラナヤサ・イ・チキミヒリニヰシで十九になり、見事渡り終えるとワの二十(ふと)を得ることになり、相手対象との和・輪を得ます。

この実際の解説は禊祓(水行ではない)の項目でなされるでしょう。

本来は五十音全部を渡るのですが、ここではまだア段しか登場していません。ア・タカマハラナヤサ・ワで、その各々を渡り締まりを付けていくのがイ段の言霊達で、イ段の締まりを受け持つ最後のシを通れば事が成りますが、ア段しか登場してないし、登場してもはっきりしない状態では、アからシへ渡り行くのに暗気なすということです。

吾・わたし・からワ・相手対象へ渡るのに象徴的に二十の言霊が必要となるというのが太(フト・二十)の意味です。それは同時に言霊表記でアから始まってシへ行くことを意味し、シを確認了解したところで自他・主客のワ(輪・和)をえます。

渡るというのは橋を渡るとか母音行から半母音行へ渡ることですが、テクテクと時間をかけていくことではありません。つねにイマココの一瞬において渡ることです。二十(フト)もの言霊を瞬時に渡る様子を解明したから、世界を治めるスメラミコトとなれたのです。一万年前に大和ではイマココの瞬間の心の動きを解明し終えていました。この衝撃は世界中に伝わり学びを請う聖人達(モーゼ、キリスト、釈迦、孔子、伏儀、等々)が大和に遊学にきました。

さてしかし、ワを得ることの一歩手前の段階があります。冒頭のアシ芽のごと萌えるとか葦船とかは、その状態です。シを渡り終えワを得た場合には豊葦原(日本の古名)のように使います。(豊・十四・ウオエア×イ(チキミヒリニイシ)ヰ)

これかなあれかなとアからシにまで渡ることで色々の思いが出てきますが、ワまで達せず、どれ一つとして決まりのつかないままです。

宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神、次に 天の常立(とこたち)の神の領域。

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イマココの一瞬のうちに頭脳が機能していきますが、分析確認を試みますと多くの場合うまくいきません。

心の中で勢いよく萌えるように出てくるものは記憶で、ここから記憶の話になりますが、幾ら頑張っても記憶をたぐれないことはよくあり、到底萌え上がる勢いやそれでも次々に出てくると感じられないことはよくあります。

しかしよくよく思い起こせば、古事記の冒頭では【初発の時】とはっきり述べられていて、初発の時の瞬間の全ての動きを述べています。剖判も増殖も成長も五年十年かける話ではなく、イマココの一瞬の話となっています。

ここで注意しなくてはならないのは古事記の冒頭で語られているのは先天の原理・その構造です。子供が言葉を覚えるのに数年かかるとか、死へ老い渡るには七十年かかるといった、現象の話ではありません。

ですので葦の芽のように次々に出てくるというのも、次々出てくる時間経過の事ではなく、パッと萌えあがり出てくるイマココのことを指しています。

こうして四番目のウマシアシカビヒコヂの神が出てきます。

この章の表題は「大いなる心の部分」となっています。心のどの部分をとっても大いなるですからどれがどこがとは言えないのですが、古事記の分類では「隠岐(おき)の三つ子の島を生みたまいき。又の名は天の忍許呂別(アメノオシコロワケ)。」となっていて、

隠岐とは、隠れた気(オキ)、

三つ子とは、心の三番目の締まりを現し、後に三種の神器や三貴子に対応していく、ウ・アワ・ヲオエヱの三段に対応した言霊(キ・隠岐のキ)の隠れている(三万物を生ず)、心の領域(島)

天のとは、先天構造における、

忍許(オシコロ)とは、大いに押し出されてくる心、

別(ワケ)とは、別々の部分と、

と読み込まれます。

アシカビヒコヂは大いなる心の部分を示すその始めの神さんで、造化三神を受けてイマココに過去の全世界を引っさげて出てこようとしているものです。

ですので次には、過去の全世界をイマココに提起する天の常立ちに依って引っ張りだされ、

次いで、引っ張りだされたものを選択してイマココにおいて未来に向かう実践の動因を与え、

選択されたものがイマココの 実践の結果となるようになります。

この四神によって、日常の心の働きである記憶を処理して行為していくというおおいなる部分が遂行されます。

それは心の三番目の締まりを四神によって現します。何故三番目に記憶と記憶の行使を司る神が出てくるのかというのが問題です。

自分でも何故記憶の世界が心の働きの三番目に出てくるのか知りたいものですが、古代スメラミコトが全てを解明してしまっているので後を追いかけることしか出来ませんが、うまく追いかけられるかどうかは分かりません。

大いなる心の領域は四つの神で構成されています。その前半が過去から記憶をイマココに現すもので、その後半がイマココに持ち来らせた記憶を未来に宣(の)せるものです。

こうして記憶が今に甦り、記憶によって今が未来に掘削されていきます。前半と後半は時処位を異にしたものそれぞれの神名が配当されてい手、頭脳内の高天原において主客を分け持っています。

そこで頭脳内の領域で主客を常に簡単に了解してしまうと、客体とは意識から独立したいわゆる物であると、なります。それは客体を躓けば痛い路傍の石とするものですが、石は石ころで意識とは何の係わりもありません。そのような主張は路傍の石を見て石と言うと、そこに意識によって感得された石があることの同一性を説明すればいいことなのです。

ところがそれがうまくいかないという人間思想の歴史なのでした。つまり意識から独立して存在する外界の事物の名が、意識と同じ名前である不思議を解けばいいことです。

しかそれを解くには解けるだけの思惟規範がなければ二十日鼠の空回りを続ける事になってしまいます。

解くに至る言語規範を手にすればいいのです。

しかし、また、ところが、となります。既得の言語規範によっては、自身に色を塗り飾り分ける事はできますが、分析整理する事はできないのです。分析整理できるだけの上位規範を持たないからです。

そこで二千年間は二十日鼠ということでした。

実は、実に驚いた事に歴史は無自覚に自然の経過を取り弱肉強食のように見えても、人の意識によってそのようにさせられていたのです。

人は自覚的であることによって動物界から分かれましたが、歴史を見ていると、自覚的自我によって戦争をしているのに、それ自身を動かしている自覚がありません。例えば世界統一をすると言いますが、世界統一するまでのことしか考えられていません。

問題は統一後の全人類の幸福なのに、用いる手段も成就の暁の後も無自覚です。

それは丁度過去の記憶を未来へ押し込むだけのものでした。負を負い前面に出してがむしゃらに駆けてきた様なものです。

つまり思想の領域でも物質文明の領域でも、無自覚であったのです。

物質文明は物として現れますから、物を感知するのか得意な人間には、問題があればそれをすぐ指摘するようになっています。

こうして現代は世界的規模で問題点を指摘できる様になりました。それなのに思想意識の方では対処療法を取るしか知りません。

物質世界が全体的であるのに、頭の方は相変わらず個別的な対処の継ぎ接ぎです。

人にはまだ解決策が見出せていないのです。

ここに出てくるのが古代にスメラミコトが韻没しておいた、フトマニ言霊学なのです。

意識から独立した存在に正当な名前を与える事のできる、それによって意識と物の名前の同一性を解説できるものです。

これは完全なワ行を持った音図である大和の日本語でしか解けないもので、世界にワ行を知らしめなければならないところです。

【宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。

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・神名の解。

宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議な、満ちたりていて素晴らしいの意。

阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと。

比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事。

・神名全体の意味。

「霊妙に葦の芽の如く萌え上がるように出て来る言葉」といえば直ぐに記憶の事だと思い当たります。

この神は人間の記憶、経験したできごとの記憶のことになります。記憶はイマココの現在に出てくるから記憶なのであって、過去にあるものではありません。

無門関三十八にこういうお話があります。 【牛窓前を過ぐ】 五祖(法演和尚)が言った。「譬(たと)えば牛が窓前(そうぜん)を過(よぎ)って行った。頭角や四蹄が皆過ったのに、どうして尻毛は過ぎ去ることが出来ないのか」

心の窓を開け外を見ると、図体のでかい牛が窓の向こうを通りすぎていくが尻尾が過ぎ去らない。

これは頭や身体が窓前を通過して行ったという記憶が残っているということで、すれ違った気になる人の顔つきに見とれていたが、装いや靴の色は気にしていなかったということです。気にしていないことは記憶として現在の窓に姿を現さないということになります。

目前に有るものは何か。出てきた記憶です。

記憶とは何かといえば、うましあしかびひこぢです。漢字表記をすれば、有(う)間(ま)止(し)吾(あ)止(し)火(か)日(ひ)霊(ひ)凝(こ)地(ぢ)になります。

それを読み込んでみると、

有りて有るものが成りゆく動きが止まって(ウマシ)、私の意識の眼に静止したものが明らかに現れて(アシカビ)、それが形式内実共に凝り固まり意識の地に植えられる(ヒコヂ)、となります。

記憶も、今に現れたところでその動きが止まり、意識に載って明らかな物となり、意識された自分の持ち分として言葉の形で固まります。

牛の頭角が過ったのはその記憶がその人に留まっているからで、その留まったものが明らかに表象となって、言語表現の地に植えられたからです。尻尾の場合はその逆で表象を形成しないということです。

これは過去にあると思われている記憶がイマココに現れることを記憶された頭角の方面から見たものです。

見たためにあったものをあるとすると同時に、見ないけれど有るはずなのに何故見えないとする、意識と言葉で混同する遊びみたいなものです。

その一方、現れてこない尾尻を見ようとする方面からの見方もあります。

この場合は記憶概念が先走っていて、実体が有るはずだとしていきます。過去にあるはずとしていた記憶がここでは現在位置に有るため、その記憶をここに定置し未来を創造しようとします。

つまり、実体のない概念で未来に続く尾尻が有るはずだと主張していきます。

ここまでくると、無文関の設問方法が怪しいことに気付きます。違う次元の話や、別々の機能を同じ物と見たりしていることです。

例えば、通過したのに通過しないというわけですが、言葉が同じだからといって同じ時処位の話にはならないのです。無文関はわざと間違った時処位を使用して、同じ言葉使いであることをいいことにして、坊主たちに考えるように促しているわけです。

仏教は非常に細かい認識分析を提出してくれますが、心の原理構造としては提起されていません。認識分析を統轄する柱がないままの現象分析で、軸足を中に置くか空に置くか無に置くか等で、同じことを言いながら違ったことを示すという構造から逃れられないので、色即是空空即是色や無文関の公案等の形式をとらざるを得ません。悟りの内容の表現を自らに持っていないということになるでしょう。(あるいは伝えられないこととして仏陀は隠し通したのでしょう。)

仏教の認識分析の例。

六入(感官)---六境(対象)---六識(知覚)

眼(げん)(視覚器官)--色(しき)(色かたち)--眼識(視覚)

耳(に)(聴覚器官)--声(章)(音声)--耳識(聴覚)

鼻(び)(嗅覚器官)--香(こう)--鼻識(嗅覚)

舌(ぜつ)(味覚器官)--味(み)--舌識(味覚)

身(しん)--触(そく)(冷熱)--身識(触覚)

意(い)(思考器官)--法(思考の対象)--意識(内覚)

仏教は仏(仏陀)の教えで、キリスト教は神の言葉を伝えるもので、フトマニ言霊学は神を創るものですので、それぞれ位相次元が違います。

ここまでで、ミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビと創出してきて、アシカビになりました。そしてその後百神にまでなるのですが、一つ一つ増えていって百になったら止めるというものではありません。語り終えるのに百の要素を必要としますが、百以上でも以下でもなく、同時に百まで順番通りに進むというものです。スメラミコトでないわれわれがするときには勝手な思いが加わるのでふらふら飛んだり省略したり、他からの思いつきを受けたり入れたりしますが、古事記の冒頭は完璧なものです。

意識の瞬間の初発の時には何もありません。その初発の時に同様に石ころを見つけて石と思って石と言って石だと了解するのも瞬間なのです。この何も無い瞬間に全てが了解されている瞬間の解説書が古事記で、心の原理書となっています。

ミナカヌシは何も無いことの始めでした。と同時に無い事を了解した結論を得たことでもあります。今ここでは無いことと言いましたが要は石ころでも構いません。眼をあけてみて石ころを見つけて石と思って石と言って石と了解することに構造の違いはありません。

こうして書いていったり読んでいったりしていくと、嘘のように思えます。瞬間と書いてあると瞬間を思い考えてしまいますが、そこで書いてあることなど糞食らえと気にすることなく、実践したことを反省してみて、ここに書かれたことを後から突き合わせてみればいいと思います。

初発の時には何もありませんが、しかしその何もないところが今後のことの中心です(御中主)。柿の種に桃は成りません。種には何もありませんが、柿には柿の桃には桃の結果が出るまでの全てがそろっています。何もないとはそういう意味ですが、無いことをあるいは有る事を意識した途端に意識している自分と自分に意識された相手に分かれます。無い(有る)という場合なら無い(有る)という意識を持った自分と無い(有る)と言われている対象となっている自分の両者が現れます。(それを客観事象としてしまうと、客体とは物であるというように、全てがこんがらがります。)

この剖判は書く順序としては二番目ですが、無い(有る)と気付いたと同じ瞬間の出来事です。さらに同じ瞬間の出来事がいま進行中のアシカビヒコジが生成されることで、書き記すと意識の三番目の領域に属しています。

無い(有る)から始まったことが、意識の主客に宣(の)り剖判を現します。剖判を示すということは、それはそのまま、ミナカヌシと同じ瞬間に、剖判の内容が三番目に明かされることになります。

有る(無し)ことに気がついたという事は、今度はそのような事(有る無し)に気がついたことで、それなりの実体があることになります。すると次にはそれなりの実体が有ることに気付く自分主体があることに気付きます。

ここにおきる問題は、主体側が係わらなければ客体側を意識することもないのに、何故ウマシアシカビヒコヂという客体側の記憶が、続いて出てくる天の常立ち(とこたち・記憶する働きの主体側の神)の前にいるかという問題です。しかも同じ瞬間内でのことです。これも同じ言葉で現される異なった時処位の問題で、公案と同じ言葉遊びで引っかかる問題です。

ここで起きているのは主体が先なのに、後から主体が現れるのは何故かということですが、経験的には瞬間の内に成るもので、普通に経験しているものです。それを書き喋るとこんがらがっくるだけです。螺旋階段を昇って元の位置に戻っただけで、同じ位置ですから同じ言葉を使いますが、上下の差があります。

螺旋階段があろうとなかろうと登る意思がなければ登ることは無いので主体が先ですが、階段が無ければ意思の実現は見えません。意思は有る世界をあるとしつつ自らを実現するので、有るという実体世界が主体の前にきます。

窓前の牛の公案では、頭角を主体の働きとし、尾尻を客体側とすることもできます。頭角は自分の意思の働き側ですからいつでも自分と共にあります。思い考えることは常に窓に現れ顔を出します。ところが閉められた窓で幾ら牛を思おうと頭も尻尾も見ることはできないのです。しかも、牛は窓の前をモーと鳴きながら過ぎていったのにです。

逆に開いた窓前を牛が通っていっても、気にかけずにいればそこにいてもいないのと同然です。窓という記憶の門とそこによせる主体意識の関係です。頭が通過したというのは、その記憶があることで頭が通過したというその記憶に引きずられることです。つまり頭を見たという記憶の尻尾を引きずっていることで、頭という尻尾を常に見ていることです。

頭という記憶の尾尻は実体ではないのです。過ぎ去った概念記憶でしかありません。概念記憶を以て牛という実在実体を語ることはできないのですが、通常平気な顔をして牛がいるといいます。暫くすれば頭という記憶の尾尻に余計なものがついていくようになります。概念が概念を呼び重ねて、記憶を実在実体とするようなってしまいます。尻尾が通れないどころか尻尾しか見ないことになります。つまり、尾尻しかみえないところにいれば尾尻の区別もつかないので、尾尻も通れないというわけです。

うましあしかびひこぢは、霊妙に満ち足りている(ウマシ)、私の意識の現れの(アシカビ)、地に着いた働きの実体(ヒコヂ)で、牛の頭角が忘れられず、意識にはっきり残り、心を占領しているので、頭角を尾尻としていまい、実物の尾尻を見ることができなくなった、あばたもえくぼ式の状態です。

【天(あめ)の常立(とこたち)の神

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天(あめ)のは、私の意識の眼による意識界全部

常立(とこたち) は、恒常的に成立している

で、言霊オが配当されている。

柿の種に柿の実となるものが含まれていますが、種は実でない替わりに桃の実は絶対に成りません。

記憶の世界、在った事の世界が記憶として出てきますが、経験した事のない出来事の記憶は出ようがありません。

分けの分からないことが出てくる夢や、予見予言見神等も、その部分部分は経験事項からなっています。

記憶し記憶の連関を扱うことは人の意識行為の全てのように思われますが、記憶と独立した世界もあることをまず確認しておきましょう。

古事記の神の百神は、一瞬を百で解説すると同時に、百の厳密な系列を並べ立てたものです。記憶世界を担当するアシカビとアメノトコタチは四・五番目に出てきてその序列を形成しています。つまり系列上からはそこから記憶という独立した世界が始まることです。逆に言えば四・五番目以前には記憶世界は存在しないということです。

記憶の存在しない世界などと言うと、そんな馬鹿なことをといわれそうです。しかし、人生の大部分を占めていることも有るくらいのものです。つまり一二三番目の神の世界には記憶がないと言ってもいいのです。上昇螺旋循環して登る以前の序列による上昇の話です。言霊ウの欲望世界と言霊アワの感情世界のことです。

柿の種に桃の実はならないというのはそれぞれの種の違いとその後のことを知っているから、柿の種に桃の実はならないと言えます。初めて柿の種を見せられたときには柿の種のその後のことの記憶はありませんから、柿の種から派生する記憶を元とする話はできません。

それがちょうど、ミナカヌシの有る無しの次元、タカミとカミムスビの相対するものを見たときのことに相当します。この二つの世界には記憶が無く、記憶を元として話をすることもないのです。この両者は言霊ウの欲望から発展していく、産業経済、したいなりたい欲しい欲しいの世界と、感情を初めて自身に相対するものとして得たときに得られる言霊アワの世界です。

寿司を喰いたいカレーを喰いたいといった欲望世界では、喰いたい味を想起することではありません。もちろんそのようなこともありますが、味の想起と喰いたいとは別の次元のことです。想起は想起で独立していて、喰いたいは喰いたいで記憶に関係なく食うことの今現在の実現に関することです。

また感情世界は、記憶する記憶があると、いう以前に成立しています。夕焼けをみて「わぁー」と叫び、すれ違ったあの人に「アッ」という始めの時、そこで得られた印象は記憶から来たものではありません。そればかりか記憶は印象を後から追っかけていき、留め結びつけておこう探し回ります。

記憶を記憶した期間(時間)で分類するものがありますが、記憶をした後の現象の長さをいうものですので、フトマニ言霊学でいう記憶した瞬間の話しとは違います。

記憶の瞬間には、記憶を必要としない言霊ウアワ次元と、記憶となっている言霊ウアワ次元を記憶とすることとは別々のものがあります。記憶となったものを最初から受け入れてしまうと、後は長期とか短期とかの記憶現象の分析になり、フトマニ言霊学では記憶に成りゆく話をしようとしています。

一生涯金を儲けるのだ儲けたいという欲望には、それが一生続いたとしても何らの長期的な記憶があるわけではありません。一生涯、現に有る欲望を現に得ようとしているだけです。そしてその欲望がある限り、その人は記憶以前の段階で生を送っているのです。

1) 記憶はあったものを今へ持ち来らす喜びを得ようと働き、五感欲望と相対するものの感情、が記憶の内容となります。

2) そして概念が形成され記憶の領域ができます。

3) すると今度はこの記憶が内容となって、その記憶を表出する働きが選択按配をするようにでてきます。

1)は記憶の内容、記憶する以前の内容に関するもの、2)は記憶の領域そのもの、3)は記憶の表出再生忘却に関するものになりますが、それぞれが一連の繫がってはいるが独立した別の段階にあります。

記憶の特徴は 1)(ミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビ)から 2)へ渡るときに言語変換されるので、欲望とか感情とかも一般概念として言語やイメージという物象の形を取り、そのまま記憶領域(ウマシアシカビ)の世界に形成(アメノトコタチ)されていきます。

この 2)の領域は記憶と記憶同士の連関の領域で、よく脳との関連の話になったりしています。しかしそこでは物理的な連絡関係を探るので、在った記憶同士の物理的科学的な連関を見ていきますが、1)から 2)へ渡る記憶の成立を見ているわけではありません。

そしてさらに、これに行動への要求が起きてきたときに、3)の国の常立ち・豊雲野へ自らを内容として渡します。(これが次の項目。)

記憶の内容が五感感覚欲望と相対したものの感情だというと、喋り書いている概念世界が抜けているように思われます。これは在ってしまったものの世界から始めればそうなるというだけのことで、在るものの世界が不十分に見えるのです。しかしそこには記憶に成る世界が無視され、あるいは在るものの上に在るものを重ねて覆い隠しているのです。

科学的な脳と記憶の分析も在るものの世界の分析ですから、幾ら深化させても記憶の成立には達しません。問題は前期の 1)2)3)の流れを統合的に通過することです。

1)では各個人の所有となる感覚や欲望が 2)へ渡るときには概念一般性となってしまうこと、さらに 3)へ渡って実践行為を必要とされる段階では、表出された内容はまた実践する人の個人の特殊性へ戻されることになります。記憶も同じ道を通過していきます。

ですので、考えていることや喋ることを一般概念で表出しているのに、喋っている内容は個人のものと思っています。

脳内分析では幾らやってもこの過程は明らかになりません。

記憶は物事との対応で非常に早い次期に記憶になってしまいます。古事記の言霊百神のうちの四番目にアシカビヒコヂとして登場します。そのためその後の現れは非常に不安定で、意識の様々な状態に対応したようなそれぞれの記憶の現れが、それぞれの形で自己を主張していきます。この不安定さは物事を見る始め(吾の眼を付ける)からのもので、人類は最初からこの不安定の上に乗っています。

ですので古事記の神名に多くの負の言葉での表現がありますが、その根拠となるものです。阿夜、闇戸、惑、夜須、闇、黄泉、疎、等がありますが、最後は天照らす、です。

記憶の内容は、ある時にあるだけであることをあらしめたらそれで終わる世界の欲望世界と、感情世界・相対するものを見た時の世界であるといいました。

それはある人の顔を見てその再現を試みるのに、情報量が時間差によって変化するということではありません。

そのようなことが在るのはその他の様々な指摘、見解の中の一部を抜き出しただけのものです。視点の移動と共に増減や角度が変化します。古事記の言霊学でいうのは出来上がった世界の視点や気付きの変化を提出することではなく、それらの全ての根源はどこに在るかを指摘することです。

経験のすぐ後で思いだそうと一年後であろうと、経験という一瞬のコンタクトの中に含まれているものです。十分後より一分後、五秒後の方が豊かに記憶を引き出せることが問題ではなく、いずれの時間が経つにしろ経験の瞬間に全てが秘められていたことです。

つまりそこにあるものは、その瞬間を形成していたものの全てです。それが意識されるか他のものと比較されるか関連付けられるかは、その後の段階になったときのことです。もちろんその後というのも、その同じ瞬間のことを言うこともあれば、一年後十年後死に間際といった長短の瞬間のこともあります。

いずれにしても記憶の内容は、その始めの瞬間にはまずは言霊ウアワの全てのことです。そして次に、言霊ウアワが現在イマココにあることだけに関心があるのに対して、その過去の出自や何故という疑問と共に、他の記憶との連関が要求されてくるところに、記憶の出番が必要になります。

その時には、記憶は在ったものに結ばれて出てくるのが特徴で、現に有るものをパッと在らしめることや、実践執行のために按配の選択をする場合とは異なります。

この記憶に結び付く働きが天の常立ちです。

在ったものに結ばれる仕方は後に父韻の項目で出てきます。

ただ問題は、言霊ウアワの次元を記憶するといっても両者は次元位相をことにしますから、直接には記憶できません。欲望は成就したときには消え、欲している間は記憶ではなく現実です。感情は保持し捕まえていないとすぐ消えてしまい、過去に行ってしまった感情はいつもどこか小さくいじけています。

欲求も感情も何らかの物象に変化させ、欲望や感情それ自体とは違う別の次元へ移行でき、記憶が扱える概念知識や、イメージに変換されなければなりません。というのも、記憶は概念知識を扱うのが得意ですから、記憶の次元で話すときには相手も概念であると気が楽に感じています。

相手も自分も、アシカビ・吾止カビ、私の意識(吾の眼・あめ)を常に立ち上げ続けることによって、過去に結ばれ、結びますが、吾止カビ、で双方の意識、私の意識が止まったものを相手にするからです。

その有り様はイマココが起点となりますから、二つの方向を取るように見えます。今が過去へいく方向と過去が今へ来る方向です。

この方向決定づけるのは後に出てくる父韻と呼ばれる項目で明かされます。

ここではアシカビヒコヂの記憶の世界に対して、記憶し記憶を関連づける世界があるというところまでです。

【 この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 】

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冒頭にあるにもかかわらず何回か繰り返されている言葉です。他に頼ることなくそれ自体で存在している世界であり、み(実・身)となる現象としては現れることはないという意味です。

ここまではまだ現象の話はしていない、これは現象の話ではない、ここ記憶の項目でも記憶現象の話はしていない、次の項目も同様であると繰り返しています。それ自身は現象でない、ということが余程大事なことなのでしょう。

物質の現象世界なら風が吹けば草木がなびく力の作用反作用の現象を目にします。ところが意識にそれらか映ると事情は変わります。意識には五次元の位相があるので、その位相に沿って見ていくからです。今まで出てきた意識の次元層は欲望、感情、知識の言霊ウアオの世界です。(このあと言霊エとイの世界が続きます。)

ですので草木がなびくのも、それぞれの次元での見方で受け取っていきます。これが個人個人の受け取り方だ俺の自由だと後になっていくものです。

風が吹けば草木がなびくのを解き明かすのは科学の役目です。そこには生きた吾の眼(あめ)をもちこむことは禁止されています。吾の眼の止(葦・あし)まった物理現象の相互作用が計量されていきます。風力を取るか草木の抵抗力をとるかその他か多くの眼の付けどころが出てきます。意識での見方もその現象を扱うと無数の見方になっていきますが、根本は意識の五つの実体世界、言霊アイウエオ、以外には出てきません。その内イは創造意志の世界ですかそれ自体は現象としては現れません。

【この三柱の神(ウアワ)、この二柱の神(オヲ)、この二柱の神(エヱ)、】というのは五十音図の母音行、半母音行を指しています。これらは隠れているというのです。

イとイ段の創造意志もそれ自体は現れずということで、五十音図で隠れていないところをみると三十二が残ります。もちろん隠れていない言霊(神)の話はまだ何もしていません。

今までせっせと何かを明かそうとしてきたものは何であったか。

目前にリンゴが在る場合、それを食べようと欲するか、美の対象とするのか、産地を知り種類を知るのか、甘そうか酸っぱそうかを選ぶのか、等々、人が実在に向かうときには人の持つ関連の得方がそれぞれとなります。

しかし、人間側はリンゴに対して様々な係わりを持ちますが、リンゴそのものにはそれを分け与える力はありません。比喩的にはリンゴの実在が有している在り方を明かすように人に依頼しているように見えます。人間側はそれを受け取りますが、五感や感情、知識で受け取っても、そこに成立してくるものは物と物との相互作用、概念の一致、情緒の刺激が起きてくるので、主体側の心を寄せたものの成立とは違います。

リンゴを見て美しいとか食べたいとかその他の心の在り方が受動的に喚起されることと、それと同時に起こることもある主体的に美しいと思ったり食べようとしたりすることとは別の心の働きです。

受動的な心の喚起と物のあり方は物理的に対応しているだけで、能動的に心で対応したものではありません。

ですので食べたいという脳の働きも、美しいという光方への反応も、いつかは脳内科学であかされるでしょうが、食べたいので食べる美しく見て心を楽しませるというような主体的な働きは、いつまで経っても分析できないでしょう。

それは人間生命が意志としてあるという以外に、鼻は顔の正中線上にあるという理由以外の理由がみつからないようなものです。

このように人間の意識世界は、人間には先天的に実在の世界がありますが、同時に物理的な反作用の世界もあるといってもそれは、意識に宣(の)る世界とは別なものです。物理現象の脳内での電気的科学的な運動が進行していきますが、それとは別のところで意識の活動が行なわれていきます。

目を開けて光があればリンゴのある光景が映ります。全く同じようなことですが、目を開けて目前に何かがあるなと感じ「何だろう」と見ようとして見て、リンゴがあったと気付くこととは、別々のことです。片や光の作用の受動と脳の反応過程でのことであり、片や主体意思の対象への問いかけと確認了解です。

これを一言で暗喩したのが「あめつち・吾の眼を付けて智となる」です。

【 国の常立(とこたち)の神。

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国の常立の神、言霊エです。国家・社会が恒常に(常)成立する根源宇宙(神)という事です。天の常立の神が「大自然を恒常に成立させる根源宇宙」であるならば、国の常立の神は国家・社会を恒常に成立させる宇宙ということが出来ましょう。

国といっても国家のことではなく、ある領有規範によって手許に置くことのできる範囲のことで、国はクニで、組(ク)んで似(ニ)せること、似せられたもののことです。寿司カレーりんご等は知っている範囲に属し次の食卓を形成する国の一角となりますが、聞いたこともない見ず知らずのものは自分の国に入れません。

組んで似せて国に入れるものは何でしょうか。

以前のものたちです。

言霊オヲのあったものの世界です。あることを知っているからできることです。注意してください、ここでは先天の話ですので、知っていること、というのは現象になったものですからそれ自体を話題にしていません。

前段では知識を得る動因が加わってくると直ちに言霊オヲの世界が現れました。在ったものが何であるかと問われ、在るものとして前面に立たせられ、現に在るものとされるには記憶で接続されていなければなりません。それは経験知という形で現れ、記憶と知識の世界となっています。

こうして在ったものが立つとその記憶と知識の了解の仕方や範囲内で、今度はそれを如何にするかどう扱うかの選択に眼が移ります。選択するにはそれなりの記憶知識による了解が獲得されています。つまり此処に在るものということがそれなりに分かっています。

すると人間の先天的な行動因となる力に押されて在るものを手にとるという実践行為が起きます。猫じゃらしに飛びつく猫のようにです。人はどうしようもなく、自らの判断を確かめようと物理的に精神的に手を出します。この実践に結ばれる手を出すに至る選択する次元の世界が言霊エの自分を得る、選ぶ世界となります。

ここでいう選択というのは、服や靴を選ぶのに在るものを目前に並べてどれにしようかというものではありません。前段の言霊オの経験した過去の出来事や得られている経験知をイマココの目前に置くというものです。過去に在るものが此処に現れ、此処に現れたものを置いて受け取ろうとするものです。

時間的には瞬間ですから、瞬間に働く選択の働きを実践の智恵として、在るものを自分のものとします。というのも在るものの知識は他の多くのものと連関していて、その連鎖をどこかの選択された時点で断ち切り今に立てないと現れてきません。

つまり自己への強制的な連鎖の切断が、自分の為になり喜びになるように選択が決定されていくことになります。その瞬間の判断宇宙を構成しているのが言霊エになります。

この言霊エの世界はその後の実践実現の現象となって、政治、道徳、分配、按配の世界を形成していきます。

【 豊雲野(とよくも)の神。

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豊雲野の豊(とよ)は十四(とよ)の意です。人の心の先天構造を表わす基本数は十四で表します。

雲は組の呪示です。

野とは分野・領域のこと。

豊雲野の全部で先天構造の基本数、十四個の言霊を組むことによって打立てられた道徳律の領域である宇宙、ということになります。道徳律とは道徳の基本原理に則って、「こうしてはいけない、こうせよ」という教えのこと。

(豊 → 十四(トヨ)個の言霊アイエオウ・ワ・チキミヒリニイシ/心の先天構造を構成する言霊数17言霊の中の代表言霊 → 演繹法数霊 8(4+4)+帰納法数霊 6(3+3)=14/東洋哲学と西洋思考を唯一統轄出来る世界で唯一の思考原理を持つようになります。8×8+6×6=64+36=100)

心の先天構造の此処までの活動で、広い宇宙の中に何かまだ分からないが、何者かが現われ(言霊ウ)、それに人間の思惟が加わりますと、言霊ウの宇宙は見る主体(言霊ア)と、見られる客体(言霊ワ)に剖判し、更にそれが何であるか、を見定めるために言霊オとヲ即ち過去の記憶と記憶するもの(言霊ヲとオ)が剖判・出現し、そのオとヲの記憶によって「何か」が決定されるという段取りとなるのであります。眼前のものが何であるか、が決定しますと、次に何が起るのでしょうか。

国の常立の神は言霊エ、豊雲野の神は言霊ヱであります。

国の常立の神とは国家(国)が恒常に(常)成立する(立)根本の実体(神)といった意味です。この宇宙からは人間の実践智が発現して来ます。言霊オから発現する経験知が過ぎ去った現象を想起して、それ等現象間の関連する法則を探究する経験知識であるのに対し、言霊エから発現する実践智とは一つの出来事に遭遇した時、その出来事に対して今までに剖判して来た言霊ウ(五官感覚意識に基づく欲望)・言霊オ(経験知識)・言霊ア(感情)の各人間性能をどの様に選(えら)んで採用し、物事の処理に当るか、の実践的智恵の事を謂います。経験知と実践智とはその次元を異にする全く別なる人間性能であります。

今までの心の先天構造を構成する言霊として現出したものは言霊ウアワオヲエヱであります。これ等の言霊の中で主体側に属するものは(ウ)アオエであり、客体側に属するものは(ウ)ワヲヱとなります。

言霊ウは一者であり、主体でも客体でもないもの、或いは主体ともなり、客体ともなるものです。この様に分別しますと、まだ出て来てはいませんが、言霊イとヰも同様に区別されます。

すると主体側として母音ウアオエイ、客体側として半母音ウワヲヱヰの各五個が挙げられます。主体であるアと客体であるワが感応同交して現象子音を生むということは既に説明しました。更にまだ現れてはいませんが、この次の説明として出て来ます主と客を結ぶ人間の心のリズムである八つの父韻というものがあるのですが、豊雲野の神の「雲」が示す「組む」という働きが実際には主体である母音と客体である半母音を結び組むことを意味しているという事、また母音五、半母音五の中で、半母音五を言霊ワの一音で代表させますと母音と半母音は六、それを結び組む八つの父韻八、六と八で合計十四となります。

まだ説明していない言霊の要素を先取りしてお話申上げておりますので、読者にはよくお分りにならないかも知れません。これについては言霊エ・ヱの次に出て来ます言霊父韻と言霊イ・ヰの項で詳しく説明させて頂きますが、「豊」の字の示す十四とは、右に示しました母音五、半母音一、それに八父韻合計十四数のことなのであります。これを先天構造の言霊数十七の中の基本数を表わす数としています。

人間の実践智の性能とは結局はこの十四の言霊をどの様に組むか、の性能の事なのであります。これは言霊学の基本となる法則であり、豊の字は日本国の古代名である豊葦原水穂国にも使われております。

国の常立の神・言霊エが人間の物事を創造して行く実践的・主体的行為の働きであるのに対し、豊雲野の神・言霊ヱは実践的智恵によって創造された各種の道徳並びにその規範に当ると言うことが出来ます。

選択の系列、至上命令へ

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言霊オの経験知と言霊エの実践智とは現在同じように思われています。けれど全く次元を異にする違ったものなのです。

経験知は既に過ぎ去った現象、または現象と現象同志を想起して来て、そこに起る現象の法則、または現象間の関連法則を調べることによって得られる知識です。

実践智とは今起っている現象に対し、如何に対処し、新しい事態に創造して行くか、の智恵のことです。両者には大きな相違があります。

意識の領域を語るときには言霊オヲエヱは同じ領域(島)にいます。経験知と実践智はそれぞれ独立しているが切っても切れない連関の中にいるからです。

目前のリンゴをパッと見てまずリンゴの有る無しの世界(言霊ウ)、次に有ることが意識に分かる世界(言霊アワ)、分かるものがあればそれは何で、どこから来てどこへ行くかの世界(言霊オヲエヱ)、の三段を通過してリンゴを見るなり手に取るなり行為へとなっていきます。

多様もので構成されている目前のもの達からリンゴを選んで見ること自体が選択の実践となっています。眼を開けて偶然に見るような場合でも、見たものに眼が留まり、そのものを確認しようとし、了解の上で見つめるという手続きを踏んでいきます。(いわば言霊ウ次元でのリンゴの見方)

意識的にリンゴを見ることになれば、探す意識が加味されます。最初からリンゴを探すという自覚された意識がその人の行為を采配していきます。過去知識であるリンゴとはこういうものであるという規範概念が取り締まっていきます。(いわば言霊オ次元でのリンゴの見方)

前記オ次元でのリンゴの見方はその人のリンゴの規範に則っていればそのまま無意識にリンゴを選択して見つめていきます。

さらに、リンゴを見ても見ていない。リンゴとはこういうものであるというリンゴの見つめ方があります。多くの場合は芸術的宗教感情の元での認識となります。一粒の麦、空飛ぶ鳥を見よ、のように命の全体感を何かに投影してみることもあります。

そして、自我の消えたような、リンゴを選択させられ見させられる強制命令を経て、リンゴと自分と世界が同時止揚される世界があるようです。

人は動物である以上動かずに事を済ますことができません。また意識を持つ以上物理的な身体運動にも意識が伴います。条件反射のようなことにも、口で言葉にならなくとも、頭脳内では超スピードで状況判断が行なわれています。身体運動に固有な動き時間があるため、意識もそれに合わせることもありますが、だからといって意識の動きが言葉を発するスピードであるとか、書いているスピードであるとかにはなりません。

身体の構造に合わせて意識の発現するスピードが自由に変わっていきます。しかし、その行動の基盤はイマココの上で行なわれますので、百億年の宇宙の歴史もイマココの一瞬として、一語一語書きながら考えているときもイマココの一瞬として、それぞれの連関を現していきます。いずれも了解したことを選択して目前に提起していきます。

提起されるものは言霊アイウエオワ㐄ウヱヲの母音半母音世界です。イ㐄はまだ出てきていませんが、この言霊オヲエヱの意識領域を隠岐(おき)の三子(みつご)の島といい、隠岐は隠れたキでオ・キですから隠れている言霊イを秘めていると暗示しています。

この秘められた隠された言霊イによってことが成就していくことになります。別の角度から言いますと、人は主体的に事を運んでいると思っていますが、そこに隠れ潜んでいる言霊イの命令一下にあるということです。時として説明できない事象を創造していくこともあります。その創造の内容が次章になります。

【 この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。 】

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言霊エ・ヱの道徳実践の性能は他の人間性能に依存せず、独立しており、また先天活動として実際に現象として現れることがありません。「独神に成りまして、身を隠したまひき」となる訳であります。

(追加)

三章の領域は、言霊オヲ・エヱの宇宙に於ける区分の事です。隠岐(おき)は隠気で隠り神の意。三つ子とは天津磐境の三段目に位する言霊を意味します。またの名の天の忍許呂別(おしころわけ)とは先天の(天)大いなる(忍)心(許呂)の区分の意。言霊オ(経験知)と言霊エ(実践智)は人間の生の営み、人類文明創造に於ては最も重要な心の性能であります。

「次に隠岐(おき)の三子(みつご)の島を生みたまひき。」隠岐(おき)は隠れた所で先天構造、三子(みつご)は第三段目の島の意。即ち言霊オ、エ、ヲ、ヱ四言霊を指示しています。「またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)」とは「天の」は先天のこと、忍許呂別(おしころわけ)とは大いなる(忍)心の(許呂)の区分(別)の意であります。経験知と実践智は先天の働きの中でも傑出した働きであります。

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