1・イヰの使用法
1・イヰ の使用法
2・チキミヒリニイシの使用法
3・オウアエの使用法
4・ウヱワヲの使用法
5・タカマハラナヤサ、テケメヘレネエセ、トコモホロノヨセ、ツクムフルヌユスの使用法
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第一の和。イヰ。
中心にある第一の輪を二分して、右半分にイ、左半分にヰ 。
言葉での表記は現実の時間の中れを利用しますから、その流れに反する表記は言葉で理解できません。そこで言葉を越えて悟れとなり、以心伝心があるとなっていきます。ところが以心伝心もそれに類似した体験もよく見ますと、頭脳内を超高速で飛び回る発音されない言葉があることに気付きます。この光のように回転するする言葉を霊(ひ)駆(か)りといいます。このヒカリの言葉を納得して落ちたとか以心伝心とかいっています。これは全く日常的なことです。
言葉として遅れて顔を出す分、その時差に更に言葉(ヒカリ)が加わります。そこで自分の言うことを見失うとか正反対になるとかが起きますが、当初のヒカリ(言葉)は未だ駆け回っています。後になってとか数年後にとかに思い出すもあります。数年前の今の出口がここの今にやっと出口を開いたということでしょうか。ですのでそれは記憶として持っていたものが現れることとは違い、数年前の今が今誕生したということでしょう。
このように人にはここの一瞬の今も、数年万年前の一瞬の今も、今の誕生としてあつかうことができます。イワトの話では全世界が暗くても常に動いているといっています。
この何もなくても無いようであっても常に動いているものがあり、動かされているというところがある、その原動力因があり、それがイ(言霊イ)というわけです。
こうして八咫の鏡は中心に有るイから始まりますが、イは裏面のヘブライ語といわれる文字からしみ出てきます。ですので創造意志の動韻が働いてなければ、単なる銅鏡でしかありません。
イの働きは八咫の鏡の先天構造に沿って働きますが、その先天の構造に誘われて、主体側が誘うとという持ちつ持たれつの表裏の関係にあります。
何が誘われて出てくるかといえば、ヘブライ語(わたしは読めない)で書かれたものでもいいし、英訳されたI am that I amでもいいし、吾の眼を付けて智と成すでもいいし、天地でもいいのです。主体側の創造意志に誘われたものが出てくるのですから、寿司喰いたいラーメンがいいでも構いません。
『オモイ(思い)カネのカミにおもわしめて』とイワトの段落の始めにあります。
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鏡の中心イヰ の使用法。
イヰ は創造意志の世界ですから使用法も何もありません。
ですがイヰの世界としての構造が現れてきますから、その構造を利用することができます。
八咫の鏡の中央の言霊イヰからは次のよう見えるものが現れます。
人に関する全ての実在のあり方の土台となり、(ウ)
全てのことの有る無しの判別の土台となり、(アの手繰り・たぐり)
全ての働きのいき方の土台となり、(オ)
全ての現象の成り方の土台となり、(エ)
自身のあり方、手繰り方、いき方、成り方の土台となり、
自他のあり方、手繰り方、いき方、成り方の土台となり、
自身の確認とその創造表現(言葉)による固定化の土台となり、
自他の確認とその創造表現(言葉)による固定化の土台となり、
自身と自他の子現象による創造創出にかかわり、それらの土台となります。
そして、それらの全体を統括しています。
全体といいましても無意識的、無意思的な場合と意図的意識的な場合とがあリます。八咫の鏡を自他の思惟意識の運用規範として打ち立てるかどうかになりす。
また、八咫の鏡というのはその為の思惟規範となっているもので、それを明かしたいというのがこの論考です。
人に関する全ての実在のあり方の土台となり、(ウ)
全ての土台となりといってもそんなものは見えません。しかし実在しているものは何らかの実在させる土台の上にあるものはあるという思惟規範を与え、我々は受け取ることができます。その土台を言霊イヰとします。
全てのことの有る無しの判別の土台となり、(アの手繰り・たぐり)
実在の意識を持つということは無いものもあることを承認していますと同時に、あるものへの全体感情への意識も発生しています。人はこの第一印象とか気付きとかいうものに囚われて、それを手繰るようになります。
全ての働きのいき方の土台となり、(オ)
あるものがあるということを受け取るとそれは過去からの生きているものの持続したものであることが受け取れます。
全ての現象の成り方の土台となり、(エ)
持続したものであることに気付くとそれの今後の成り方に意識が向かわされます。
自身のあり方、手繰り方、いき方、成り方の土台となり、
全体が意識の対象になるとそこに自意識出てきます。その土台となるウアオエの意識が出て来ます。
自他のあり方、手繰り方、いき方、成り方の土台となり、
自身が他者の上で活動して自他の創造行為へと向います。
自身の確認とその創造表現(言葉)による固定化の土台となり、
創造行為による表現はまず自身の表明です。
自他の確認とその創造表現(言葉)による固定化の土台となり、
自身の表明とは他者も同様のことですから、ここに自他の交通の確立が確認されます。
自身と自他の子現象による創造創出にかかわり、それらの土台となります。
こうして自他の和が確立された子現象の創出となります。
そして、それらの全体を統括しています。
以上の全てのことを運用する隠れた土台となっています。
以上が鏡の中心に浮かびます。
言霊イそれ自体にそこに、いて、いきて、いき、いつく(斎く)、イに宣(の)る(祈り)活動がありますからイは自らを次の次元世界に渡ろうとし、自ら動こうとします。
しかしこの時点では、各人が各人の意志を持って自意識の元に活動するということではありません。人は一見自我において活動を開始すると思われていますが、自我が動かされてという受動の立場で活動を開始していくのです。
上記イの世界の活動韻が自我に働き掛けなければ自我は目覚めません。(ウズメの騒ぎ)
そして、イは意志であるため自らを現わす形を持ちません。
そこでどこかに載っかって現わす形を探すと同時に、意志を載せる形を自ら創造します。
形の無いものが形を創造するとは矛盾したいいぐさですが、イには全ての実在となる隠れた土台でもあるのです。
こうして次に意志は自らを現わすために形を探します。
ところが探す相手の形というのは物象で形を持ったものですが、形の無い意志が物象に載ることはできないのです。意志はあるけど行動しないなんていう表現もあります。
意志が形になるには、意志という気のような意識を形に添えるようなものに変化しなくてはなりません。
意図された意志を持続しつつ形と相性のいい物象に変化させます。
これが八咫の鏡の中心を囲む第二の和となります。
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渡るということ。イからヰへの飛躍。
イヰ から第二のチキミヒリニイシに、また第二から第三に、そして第四第五に渡るにはどうするのか、ここが非常な問題となるところです。
イの世界内においても既にイとヰが設定されていてイからヰ へ渡り、次いでイヰ の展開したイ段チキミヒリニイシへと次元世界を変えます。これは精神の脱皮変態に例えられています。意識においてその過程がどのように行なわれているかということです。
眼を開いてみればそこにあるものが写り何があると瞬時に了解できます。古事記の岩戸の物語はこの瞬時を拡張して見せたものです。古事記の神代の巻は同じこと(意識の働き)を繰り返し述べています。眼をつぶれば世の中真っ黒、開ければ明るくなって何があるか分かるその瞬きの一瞬の物語です。
ほんの一瞬の短い物語に同じ名前の神とか事物が何回も出てきます。あまりにも短い時間を扱うためその拡張された物語との間にしっくり来ないものがあります。解読していても本当なのかと不安なくらいで、意識の働く道筋を追っていくのが困難です。
実を言えば解読といっても自分で解き明かしたものは無く、古事記の冒頭百神に既に書いてあることを参考にしているだけです。それをゆっくり自分に当てはめていくとその通りと感心することだらけとなります。ところが自分で考えてしまいますといつも考えの方が先へ行っていまい、そこに到達する行程を全てないがしろにしていることが多いです。
イからヰへ渡るということも、眼を開けてものを見て納得するというだけのもので、時間としては0.1秒もかからないものですが、古事記の冒頭という長い物語りになっています。
これを日常生活の時間単位や分単位で見ますと、全く意味の無いようにも見えます。また一方、季節単位、年単位、一生に一度単位のできごともあり、そのような場合にも、瞬間に起こっていることと同じ構造であることも気がつかされます。
では歴史そのものについてはどのように言ったらいいでしょうか。
人の成すことに古事記のフトマニ原理が貫徹しているのなら、歴史においてもそうでなくてはなりません。歴史上のことは過ぎ去ったことばかりのように見えます。個人は死に絶え、社会、民族、国等も消滅してしまったものもあります。
ところが歴史をフトマニ原理に照らし合わせると、未だに瞬時の一瞬間さえ過ぎてはいないのです。まだ歴史はイからヰへと渡っていないのです。
今まで古事記の冒頭は瞬時のことだと言ってきましたが、歴史においては瞬時が持続しつつ一万年をかけて、ここに瞬時の百神が成就しようとするところです。
鏡の中心にはイの創造意志がありました。このイの中心にいたのが一万年前にフトマニ原理を発見していたスメラミコト達です。スメラミコトはフトマニ原理をもって世界中を飛び回っていました。古代世界において世界と古代大和の交流史は驚くべきものばかりです。この世界の中心にいるスメラミコトが動いたので世界歴史も始まりました。
そして、岩戸が開くにはウズメ(物質文明のウ次元をスメルる実体)の騒々しい騒ぎが必要でした。丁度現代の産業革命以降の資本主義による人間精神の支配と軌を一致させています。
この論考ではまだ原理を扱っている段階ですので、真の歴史、未だに原理としての一瞬間も越えられない人間精神の歴史、についてはその項目を見てください。
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イヰの鏡を見ると。
鏡の中心イを覗いても何もありません。そこは意志であって、実在と働きの動韻であって、時処位の響きを与えるものです。見える人には鏡の裏にある I am that I am が透けて見えるでしょうが、見える見えないに関係なく誰でもが生きていく韻、響きとして持っているものです。
それはアメノタヂカラオの神のようにワキに隠れています。ワキといういのは和の気のことで、単に脇にいるということではなく、和の気を結んで客体側そのものとなって出てきます。和の結ばれた客体側にはイが載っています。これが心を込める、イを載せるから出たイノリ、イ宣(の)り、祈り、です。
人の成すことの全てはイ宣(の)りによって和の気を得ようと始まります。
ですので、どこかにいる神さん方に祈るのではありません。人間の成すことが祈りなのですから、本来神さんの出番はありません。神さんを想定しているのなら、そのことが既に人の祈り、イ宣(の)り、ですから、神さん方は人がそれぞれ作ったものです。
いわゆる神というのはこの、人の創造精神の逆転から出てきたものです。
(この逆転現象は、黄泉国・ヨモツクニの段落で詳細が語られています。)
ではイは何処に宣(の)るのかといえば鏡に宣(の)ります。鏡の形は八角形ですが、実はこれは次段の第三の和のチイキミシリヒニの八父韻に展開されているからです。その八父韻に沿った形で八角形になっています。
では鏡の原型はといえば、丸い巣の形です。巣・スという始まりまだ親も卵もいませんが、そこから常世・トコヨが生まれ出てくるエネルギーで充満しています。ス・巣は澄んだ愛を育む神聖な床・トコとなり、御手を取り合う場ともなります。
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岩戸の段落を区切って載せます。
タカミムスビノカミのこ(子)
・・・オモイカネのカミにおもわしめて、
・・とこよのナガナキドリをつどえてなかしめて、
・・あめのやすのかわのカワラのあめのかたしわをとり、
・・あめのかなやまのカネをとりて、カヌチあまつまうらをまぎて、
・・イシコリドメのミコトにおおせてカガミをつくらしめ、
・・タマノヤのミコトにおおせてヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをつくらしめて、
・・アメノコヤネのミコト・
・・フトタマのミコトをよびて、
・・あめのかぐやまのマオシカのカタをうつぬきにぬきて、
・・あめのかぐやまのアメノハハカをとりて、ウラエまかなわしめて、
・・あめのかぐやまのイオツマサカキをネコジにコジて、
・・ホツエにヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをとりつけ、
・・ナカツエにヤタカガミをとりかけ、
・・シズエにしらにぎて・あおにぎてをとりしでて、
このクサグサのものは、
・・フトタマのミコト、フトみてぐらととりもたして、
・・アメノコヤネのミコト、フトのりごとネギもうして、
・・アメノタヂカラオのカミみとのワキにかくりたたして、
アメノウズメのミコト
・・あめのかぐやまのアメノヒカゲをたすきにかけて、
・・アメノマサキをカヅラとして、
・・あめのかぐやまのササバをタグサにゆいて、
・・あめのイワヤドにうけふせて、ふみトドロコシ、かむがかりして、ムナヂをかきいでモヒモをホトにおしたれき。
かれタカマノハラゆすりてヤオヨロズのカミともにわらいき。
アマテラスオオミカミ
・・あやしとおもおして、
・・アメのイワヤドをほそめにひらきて、うちよりのりたまえるは、
・・アがこもりますによりてアマノハラおのずからくらく、アシハラのナカツクニもみなくらけんとおもうを、などてアメノウズメはあそびし、またヤオヨロスのカミもろもろワラウゾとのりたまいき。
すなわちアメノウズメ、ナがミコトにまさりてとうときカミいますがゆえにエラギあそぶともうしき。かくもうすあいだに、
アメノコヤネのミコト・
フトタマのミコト
・・かのカガミをさしいでて、アマテラスオオミカミにみせまつるときに、
アマテラスオオミカミ
・・いよいよアヤシとおもおして、
・・ややトよりいでてノゾミますときに、
かのカクリたちたるアメノタヂカラオのカミ
・・そのミテをとりヒキいだしまつりき。
すなわちフトタマのミコト、
・・シリクメナワをそのミシリエにひきわたして、ここよりウチにナかえりましソともうしき。
かれアマテラスオオミカミいでませるときに、
・・タカマノハラも
・・アシハラのナカツくにもオノズカラてりあかりき。