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2012年の十大ニュース
0) 古事記が人間の精神原理そのものであることが天皇に復言された。
・)
2) モーゼが古代大和のスメラミコトから使命を受けていたことが確認された。
3) ユダヤの世界権力が日本に大政奉還された。
4) 伊勢神宮が解体され神社組織が消滅した。
5) 世界宗教者、哲学者会議において、神を拝むことが廃止された。
6) 世界自然科学者、宗教者合同会議において物心の世界が解決された。
7) 世界政治指導者会議において生存競争が廃止された。
8) 世界の軍備が廃止され、戦争の為の軍隊が消滅した。
9) 世界有数の資本家たちが富の独占的蓄積を放棄し再分配をはじめた。
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赤子のこころ。左の頬を出すおろかさを止めて下されよ。(地つ巻 第14帖 。ひふみ神示。)
右の頬を打たれたら左の頬を出せよ。それが無抵抗で平和の元ぢゃと申しているが、その心根よく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるようなものを心の中に持っているから打たれるのぞ。
マコトに居れば相手が手を振り上げても打つことは出来ん、よく聞き分けて下されよ。笑ってくる赤子の無邪気は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ、世界一家天下泰平ぢゃ。左の頬を出すおろかさを止めて下されよ。
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これは、「マコトに居れば」であっても相手が理解できない時もあるし、理解したくない時もあり、曲解したがる時もあることを忘れているから、やはり打たれるでしょう。
われわれは行動する大人ですから赤子の状態でいることはありません。
一応こういった文句をチラリと出して、もう一度やりなおしてみましょう。
それでも引用文が真理であって、わたしの文句など受け付けられないことになるには何をどう解していけばいいのでしょうか。
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北鮮は撃ってきました。すりかっぱらいはあなたを狙っています。政府は税金をさらに取り立てようとします。実社会の状況の中にいて「笑ってくる赤子の無邪気」とはなんでしょう。
いくら韓国だからといっても国力が百分の一もない燐国と統一できるとは思っていません。統一までには国力が対等にまで近づいてもらわねば、対等の交流は出来ないと思っています。、
東西ドイツの統一時も貨幣価値の違いを目の当たりにして統一の障害となりましたが、西欧社会の伝統であるキリスト教の博愛ははそれを一対一であるとして政府は決断できました。
では朝鮮社会にはどのような精神原理があるのでしょうか。国境をお互いに開いて一対百で対等になれるこころがあるでしょうか。北鮮の崩壊時には国境を閉めることがまず第一に考えられていて、とうてい統一などといって喜ぶこころ持ちはありません。無抵抗で笑っていたら、すべて持っていかれると思っています。韓国側にはこころの準備が出来ていません。
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現実の状況はどの場面においてもまだ整っていません。まず人々の心のとらえ方考え方が旧態依然としたままです。多くの兆候、気付きの萌芽、動きだした信念などありますが、原理の動きがありませんので、一切無効の段階です。
では赤子のこころもちが原理となるようにしていくにはどうするのかみてみましょう。ひふみ神示もフトマニ言霊原理を暗喩したものですから、フトマニ原理での赤子をみてみましょう。
話をさっさと前に進める為今回は結論を先に出してみます。
赤子とは御中主の神のことで、赤子の心に戻るとは、古事記の神名で言えばその順序をより以前の神に戻るということです。
北の砲撃には、その次元以前にずらして元の神に戻る、もう直正月も来ることだしどうですか国境門戸を解放していますからキムチでも食べにきませんか、というように、政治軍事次元に入らないようにする。しかし、招待したはいいけど裏庭に砲門ミサイルを隠していては相手を信頼していないことになりますから、全武装を解除することです。
日本は紙切れだけの憲法は持っていますが、実質はその反対をいっています。軍事行動の馬鹿らしさはすでに誰でも知っているのに口に出しません。上のその上にいる方がまつりごとから切り離され黙らされているからで、またその方も黙っているのをよしとした状態を抜けようとしません。
その間隙をぬって、政府も反対派も資本側も労働者側も危機をあおり、駒を動かすと金が動くと思っています。世界史は古代から隣村の、その隣国の、その向こうには何があるのかとして動いてきました。
そしてある時地球は丸いことを見つけましたが、隣国のその先には自国があることを認識するに至りませんでした。それはいまだ世界交通、情報、経済が日常的でなかったからです。
しかし現代燐国のその先は自国であり、燐国のその先を攻めるのは自国を攻めることとなってきています。それはとりもなおさず燐国と協調すればその先にある自国を丸くできるということです。
世界のどの国も隣のその隣を見ていくようになり、いつかもうすぐ、その輪の在り方が同じ方向にあることに気付くことでしょう。それをいち早く指示しているのが日本語であるのに、日本語を使用している人たちは未だ目覚めていません。
目覚めないというのはまだ日が昇っていないからです。日が昇るには二つの方面があります。日を霊とすれば人為的意志的な努力で霊が昇ることができるでしょう。日を陽とすれば自然の動き、経済産業政治文化の自然な陽はまだ充分に高まっていないということでしょう。
陽の日に関しては日々経済政治文化の中でかたられています。しかしこれは一部の人たちの為だけのものとしてです。金はすでに全世界の人々にばらまいても充分なくらいに印刷はされています。それでも分配は不平等です。
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天の御中主の神 = 赤子のこころ、について。
最初にあらわれた神です。二つの方向があります。宇宙界にしろ現世界にしろ物質肉体界とするのと精神界に理解するとの二方向です。物質界からの考えや人格神は幾らでも簡単に見つかりますのでそちらでどうぞ。
ここでは古事記の本来の意味に戻らされたこころの御中主についてです。同様に赤子という比喩の本来の意味についてです。赤子も神も御中主もどこかにいる他のものとしてでなく、自分の心としてみていこうとします。
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とうとう御中主まで戻ってしまいました。
ということは古事記を始めからやり直せということかもしれません。
赤子にもどり、御中主にもどり、自分の心にもどり、ゼロに戻ることになりそうです。
御中主は算数で示せばゼロです。ゼロとは今ここのことです。しかし問題は今今今ココココココといっても一点であるいまここがどのように動くのかが明らかでありません。
今ここが動いて持続があらわれるといって、その持続は行動によるといっても、誰も今と今がつづいていることを、こことここが続いていることを示した人がいません。
禅では空だ空だ空だといいますが一点の空を説明しても空の連続を説明していません。行動が円環を破るというだけです。
この今と今の続き具合、こことここの続き具合を説明したものが古事記の冒頭百神です。五千年以上前にすでに発見されていて日常で使用されていたものです。
といってもわたしが理解しているとか、わたしの説明を聞いてほしいとかいうのではありません。それができればスメラミコトですからとうていわたしの出る幕はありません。
人類の至宝が日本に眠っていることを知らし、もう起きようと声をかけるだけです。
【 建速須佐の男の命、答へ白さく、「僕(あ)は妣(はは)の国根の堅洲国に罷(まか)らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。】
堅(かた)側が洲(す)の国、反対側はユの国、五十音図を半分してそれぞれの中央にあるス、ユのこと。スサノオの数千年の努力によって片方からもユが湧き出るようになりました。それでもこころは未だにスに係わったきり静かに動きません。ユの流出が始まっています。
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赤子のこころ。主語、私がない。
前回、赤子のこころ、1、2、では既に主体性が全面的に備わっている方向でみてみました。今回はその逆で、ない、という方向からです。
いずれにしても、赤子のこころを自分の外において外部のものとしてでなく、赤子は自分であるという立場からです。
前と同じ例から出発しますと、赤子は乳を吸い勝手に小便をしてにこにこしているわけですが、ここで赤子は、「 私は乳をすっている、私は小便をしている。」と言っているのでしょうか。
言葉による交流には主語述語がありますが、赤子は主語を使用しているでしょうか。発音、発語はまだできません。
生命を十全に生きるという方面からみて赤子には既に人間の全性能が全開で活動しています。宗教の教えはそこを学べと諭していました。
ではその赤子は自分を主張して「私は」という主語を使用しているのでしょうか。
これを自分のこととします。通常の会話でも何でもわたしたち大人の段階なら、自分を主語として話して行為しているつもりです。
ここでの疑問はそれは果たして本当かと言うことです。「私は」何々するなどという主語の使い方で自分、自我を表現しているか、ということにもなります。
赤子のこころになってみましょう。自分とか、自我とか、主語とか、自身、私とかいろいろにいいますがそれらの違いはいちいち考慮しません。まとめて、主語、私がない、ということにしておきます。
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大人なら私は乳を飲む、私は小便をするとはいいますが、赤子ではどうなるでしょう。そしてここが問題です。乳を飲む欲望に主語はありますか、小便したい欲望に主語はありますか。人は知識を得たいこれを知りたいと言いますが、知識は自分をさしてわたしが主語ですと言っていますか。
知識欲に主語はありますか。
確かに欲望の持ち主はここにいる私、あなたですが、自分でもどうしようもない欲望にといわれるように、欲望は欲望です。そこでは欲望が勝手に自分を動かことさえするでしょう。ではそこに、欲望に主語が、わたしがありますか、いますか。
欲望を満足させる実体は赤子なり、わたしなりあなたです。では欲望の主語はなんですか。これは他のどんなことに置き換えても構いません。わたしは歩くでもいいです。わたしは歩きますが、歩くの主語は何ですか。わたしはと言わなくても足は勝手にあるきます。
もし、主語がある、いるとすれば、わたし意外にわたしという主語があることになってしまいます。欲望は欲望をさしてわたしといって、ここにいるわたしに命令してここにいるわたしにことを起こさせたり実現させたりするのでしょうか。
ここから二重人格を導くことこともできるでしょうが、それは置いときます。欲望は人間性能の一つですから、その構造を他の次元にも適応できます。知識学問の次元があります。知識が身につくという時、知識が主語となって自分を記憶するようにしているのでしょうか。知識がここにいるわたしにわたしを記憶しておけといっているのでしょうか。
たとえば朝出掛けにさてどっちの靴を履こうかと迷う時、選択という主語が迷いを起こしているので、ここにいるわたしはどうしようもなくたたずんでいるのでしょうか。
実をいうと、今回は、そうです。わたしたちは自我などなく、主語など持っていないのです。自我を持って自分は何何する、と主語を主張する以前にことは起こされているのです。
今回も古事記をあんちょこにして、主語自我などないのに何故主語自我を主張するようになってしまうのかをみてみましょう。
宗教と感情次元での出来事ではある程度気がついていて、自我を超克しようとする自我が、神からのものであるとか、受け取った情動、感動、感情は与えられたものでありながら、自分と同一でありその一致の中に留まることをよしとしています。
ここでは赤子のこころといわれるものを見ていきましょう。
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上に見たように欲望、知識、選択とう人間性能には主語、私がないのですが、われわれは当然主語をもって語ります。
主語、私などないのにどうしてそうなるのかを説明できればいいのですが、これは自他共に相当に抵抗が大きいものですのでうまくいくとは言えそうもありません。
と同時にもう一つ。日本語では主語がなくても分かります。文法の染み込んだ頭で見ると主語を省略しているのですが、普通の頭ではそれで普通。最近は自分が自分がで、自分の意見とか言うものを主張しないと駄目扱いになってしまっているようです。
一昔前は自分のことをはっきり主張すると嫌われたものですが最近では逆です。書き物でもくだくだ自分の考えだとか自分の感じだとかをものして、発表するのが当然のようです。(おやおや、そんなこというならブログを止めろと言われそう。)
その反面自己主張や意見、感じを述べていくことが、いいと言われ、個人の意識の発展成長にいいと言われていることに奇怪しさを感じている人もでてきています。それはあなたの意見だ、個々人はそれぞれ個々人の考えがあるとかいって、主張することに暗黙の疑問を持つようにもなっています。
つまりここで説明しようとする自我が出ているからです。うまく説明しようなどという魂胆があるからです。ここに鉛筆があります、というのを説明するのに、私が、あるいはあなたが鉛筆を説明する主体となってしまうからです。
鉛筆を鉛筆自身で語らせようとすれば科学的になります。鉛筆を私なりあなたが語ると概念個人的主観となります。そこで鉛筆の存在する感情を語ると芸術なり宗教となっていきます。そして、この自分からか、他者側からかの一方的な見方を超えていくのが言霊学なのですが、今回は難しい。
ですので今回は古事記の真似をしてみるだけです。
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では、赤子のこころ、主語、わたしがない、について。
真理からみるならば自我などありません。これが真理だ言う人はその人の自我を出しているだけでそれを勝手に真理という名前にしているだけで、真理と言う言葉に価値を見いだしているからです。真理が自分を主語にしたのなら、おれは百円の真理か、明日は99円か、全人類の真理かと心配することでしょう。
赤ちゃんが勝手におしっこしてウンチしていくのには何の価値もない真理です。、そこに人間の、欲と知識と選択が介入していくとたちまち価値概念が発生していきます。より大きいとかより小さいとかの量概念が巣くい始めます。見解の相違とか論争とか意見を述べるだけとか、、、。
こういったここでの人の介入が主語を生み、わたしを生み、自我を生んでいきます。赤子のこころを自分のこころにすり替え、自分のしたことを赤子になすりつけます。赤子のこころとして主語を入れ換えるのです。
そうなるとあたかも自分がしてあげたから、赤子はしてもらったように思われてきます。自分はしたという主語の主張において赤子は何々されたことになってしまいます。
そこから先の自分の世界はもうそれこそ色々になります。自我、主張、主語の世界の花盛りです。
一方赤ちゃんは、すやすや寝ています。
わたしの方法、してあげたことが赤子に気に入られたから健やかに寝入ってしまったと思うようになるでしょう。そういう人の主張はさらに発展していきます。
ここでは自分のすることしたことが自分の考えに結びつけられ、良い結果を集めてそれが基準となっていきます。そこに自分がいて、あると思っています。そこから真理を主張しだすまではほんの一歩です。
こうして逸脱の始めが出来てきます。
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自我を主張し、自分を主語とする意識の生々流転を書きたかったのですが、うまくいきませんでした。
自分で感じ考えることがどうして自分になってしまうのか、当たり前のようですが、真理からみれば、よしよし可愛い坊やと頭を撫ぜられる過程をいつか追求してみたいと思います。
今日はここまででお終い。
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赤子のこころ。2。
赤子のこころの動態。
そこで赤子を、われわれ各人の今から行動する精神規範( 鏡 )としてとらえるなら、宗教や神示で述べられる赤子の意味は了解されていくでしょう。
そこで古事記の言霊百神に沿って赤子を今から行動する精神規範(鏡)として理解していくとどうなるかをみてみましょう。つまり現実にあるその場面場面での対応をみてみましょう。
宗教に関心のある場合にはそれぞれの場面で神がどのようにでてきてどのように赤子(人)が対応していくかをみればいいし、その他学問とか、政治とかに関係付けたい場合にならやはりそれぞれの場面を想定すればいいと思います。
そういった全場面に対応できる潜在性が誰にでもあるのですから。
まず最初にいるのは、赤子は先天的な精神規範を持っているということです。生れて泣き勝手に小便をし乳に吸いつき飲んで満足すれば微笑みさえ浮かべる。何もできないくせに何人をも自分に従わせる不思議な威力の持ち主でありその行使者である、こういった先天的と呼べるような赤子の次元 = つまりわたしたち一人一人、青年であろうと老年であろうと、その次元があります。
ひふみ神示は一見目茶苦茶な表現で人に与えられました。それを見てよく唱えろとか、分からないだろうけどやれとか、だれにも読めないことを心しておれといいます。
これはひふみを読んで勉強して理解しろということではなく、読まなくても、読めなくても、理解してもしなくても、同じだということです。もともとわけの分からない記号で送ってきたものですから、解読できて文章にはなっても、どうせ理解はできないということです。
それにも係わらず、心に伝わる心で受ける赤子のこころになれば分かるだろうといっています。そのこころは赤子であろうと大人であろうと誰にでも備わっています。
赤子のこころのように全身全力による反応する力はだれにでもあるので、それを利用しろということです。知識や学識や記憶概念を頼れば一切は駄目だから捨てよ、ということです。
そこには十七の人間性能があり、それはちょうど赤子のこころと同じであるというのです。ですので、比喩としてではなく自証できるものとしてあるからそうしなさいということです。
それが十七・とな・える、唱えることで、理解とか、知識とか、水行でえた経験概念を駆使することとかではありません。十七えることには神を知ろうと知るまいと、信じようと信じまいと赤子と同様な全人的な自分の心が先天的に得られているということです。
ですのでそういった唱えることは、決して外にある神を唱えることにならず、また神の為に唱えることにもなりません。自分の十七に備わっている先天構造を自らに明かすということになります。神示を降ろす方もわけの分からない神を唱えろなどということは一切いいません。
世界の偉大な宗教では神という名も方便で使用されているのです。ただそれの取り巻き連中が、雲の上にいる神とか水中にいる神とかいって禍を撒き散らしているだけなのです。
とはいっても神といえば正しいにしろ誤っているにしろ、了解できる心持ちを人は持っています。この秘められた意識の構造が赤子のこころというわけです。
神ではないけど神であるし、神と言っておけば間違えはなく、神の前に拝跪されても困るけど、いつきたてることも覚えてもらわないと困る、というものです。
その全体を解明する力はだれにもあるので大いに泣き騒ぎ学べということになるでしょう。
以上が古事記の冒頭十七神と赤子の関係です。つづいてそれぞれの場面を示してみます。十七を唱える自己の意識、己の心の島、オノゴロ島が直ぐ次にきます。
ついで、自己意識というか自己領域の芽生えと明瞭化による赤子のこころの規範ができます。赤子は誰が抱いてもいいというわけでもなく、安心を任せられる手に自分を委ねることを知るようになります。それは環境だったり食べ物だったり五感の成長によって自分の領域にいることを自覚していきます。
己の心の領域となります。といっても赤子のこころの次元内でのことです。
そしてそれを明確化していくと、今度は自分の作った範囲内に物や人がいることを要求するようになります。これがはっきりしてくると自分のテリトリー内に自分の痕跡が無いと不満さえ見せます。自分のいつも使用しているスプーンがない、おもちゃが無いと機嫌が悪くなったりしていきます。
己のこころの表出、泣いたり手足を動かしたり等ができるようになると、自分と物理的な対象との関係が良く分かるようになります。
そして古事記では黄泉と呼ばれる客観世界との関係をえる段落へと向かいます。
自分で自分のマークが付けられるようになると、自分のマークがつけば何で自分のものだというような原則を持つようになっていきます。他人のものであれ誰のものであれ自分の物であるという主張の原則がでてきます。
そのようなことになれば当然他の規範との衝突がありますか、喧嘩することが仕事になっていきます。ここでは大いに泣きますが、自己主張であり、どこまでが自分の物であるかを社会の規範に求めていることでもあります。
泣き騒ぎことで自分と他者、自分の所有と他人のものということを知る大いなる能力が、自然に発揮されていきます。これが赤ちゃんの時期にそのこころの中で起きることです。黄泉の国を通過しなくてはならないということにもなります。
ここまで来ると、次には自分の主張を確かめることが起きます。わざと泣いてみたり、自分のものになるかちょっと触ってみたり、ちょっかいの効き目を自覚的に(初期の)確かめたりしていきます。
以上は古事記の黄泉の国を出て赤子のこころの規範ができるところまでを、なぞったものです。
だいたい赤子のこころの成長に沿ってもこのような違いがでてきますが、宗教書の中でも赤子のこころという言葉は同じでも場面、次元の違いがありますから、一口に純粋無垢になれ、神のようになれ、だけでは解せないところもあるでしょう。
宗教書は赤子、子供に書き示したものではありません。れっきとした判断規範を形成してしまっている大人相手です。ですので今度は、そういった大人相手に赤子の比喩を使う場面を、前記のように示さなければなりません。
ここでは神という概念が普通に使用されるでしょうけど、それぞれどんな事をしている時の神か、何を求めている時の神か、何をやらそうとしている時の神かといった場面場面に対応していかねばならないでしょう。
ところがここまで神さんたちを実際の次元世界場面にまで引き出すと、神聖さが犯されると弟子たちは思うようになります。教典聖典自身にそのように現実の場面にまで神が降りてきても、現実に触れないように抽象度を高めて解していきます。
キリスト教会ではキリストさんは子供の次元にまで降ろさないで、牧師たちが子供と接触するような曲解が行われています。子供のようになれというのを、実際の赤子や子供のこととして主体的な精神次元で考えられない例がみられます。
古事記の視点 = 神とは自分のことだという視点、から見ればそんなことはいってられないのですが、、、この後はそれぞれ各自やってみてください。
ここまで。