二) 天津罪

9。先天規範からの逸脱 (天津罪一~八)

規範があるといったり、ないといったりで、読むほうも大変じゃないかと思います。

心の御柱の廻りをくるぐる廻っている人を見てください。一周している人を見ていれば、正面向いたり後ろ姿になったり横向きだったりするでしょう。外野席から見るとそうなってしまいます。そして普通はそんな見方しかできません。

右左正面後が気になる方は、できることなら自分が中央に立つ御柱に変態してしまえばいいのです。

とはいっても人が昆虫のように変態することはできません。数万年の精神史で精神の変態に成功したのは、古代大和のスメラミコトにつながる若干の人だけで、その後に宗教指導者となって変態を目指した少数者と変態の自覚の入り口に到達した少しの芸術家がいるだけです。

スメラミコトの凄いのは精神の変態を遂げて、その秘宝を世界中に分け与え新しい世界史を作る準備を一万年前に考えて、準備して実行してしまったことです。秘宝の解読の方法は大和の地においてのみ残していきましたが、現在はスメラミコトの子孫たちも理解を放棄した状態です。

古代の早い時期からスメラミコトが家系として成立しているには、変態の秘儀に関する情報の伝達があるはずと思っていますが、その秘伝が形だけでも続けていてくれれば後にその実体も明かされるときもくるでしょう。

ただしその時は、内容を(明かし)理解しフトマニ言霊学の運用に達者な世界朝廷に目覚めた者がスメラミコトとなるので、家系とはまた別の問題になります。

木々に実を付けるには全然別の形態である花という変態を通過しなければならず、花の受粉も蜜蜂や昆虫たちの他者の手を借りなければならないようになっています。この論理を敷衍すれば、現在の天皇家という形をスメラミコトにまでにするには、花と蜜蜂が必要なのです。

現在の天皇家にはすでにスメラミコトとしての自覚を失ってから久しいですが、実を着ける木として数千年を過ごしているのですから、花が咲き蜜蜂が集まれば変態を開始します。今時点の皇室の成人たちには期待は持てませんが、それでも世界歴史の大木に隠し持った秘宝があるとの予感はもっていると思います。

どうか御賢所にある、言霊と古事記の神名を書き記した書物に関心が向きますように。世界朝廷が開始されますように。

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参照。1。

山腰明将。 書道神代文字研究家の山腰弘道・美志子の三男。父の弘道は旧尾張藩士、昭憲皇太后付きの書道家。 明治天皇と昭憲皇太后は、宮中賢所と皇太后が一条(藤原)家からもたらした和歌三十一文字を作る心得を書いた古書の中の言霊布斗麻邇に関する文献に基づいて、言霊言の葉の誠の道の研究をしていた。 弘道は天皇、皇后両陛下の言霊学研究のお相手を勤めた。

「古事記」の神代の巻に出て来る神様の名前がそれぞれアイウエオ五十音の一つひとつと結び合わされていることから、アイウエオ五十音言霊の学(まなび)の研究ともいう。 弘道は皇室の血統である大石凝真澄と親交があり、言霊学研究を明治朝廷で行なった。 明治天皇の崩御後、その言霊学研究の流れは大正天皇には伝わらず、民間に流出、その正統は弘道の子である明将に受け継がれた。

参照。2。

千九百年の時が流れた。ヨーロッパに於て物質科学の研究のメスが物質の先験構造内に入り、原子物理学が世界の脚光を浴びようとする時、あたかも東西呼応するごとく、日本の朝廷の中に、ささやかではあるが一つの画期的な研究が始まった。

明治天皇御夫妻による言霊布斗麻邇の学問の復興のための研究である。先師の師、山腰明将氏より伝わる話によれば、それは明治天皇にお興入れした皇后様のお嫁入り道具の中に、三十一文字(みそひともじ)の和歌の作り方を書いた古い書物があり、その中に日本固有の和歌と言霊との関係が記されていたという。すると天皇がたしか賢所に古事記と言霊に関する書物があったはずだ、といわれ、ここに古事記神話と言霊布斗麻邇との関係を探る端緒が開かれたのだという。

明治天皇御夫妻は、その時皇后と皇太子(大正天皇)の書道の先生であった前尾張藩士、山腰弘道氏が国学者でもあったことから、この山腰氏をお相手として古事記神話の謎ときの研究を進められたと聞いている。

聞き知るはいつの世ならむ敷島の大和言葉の高き調べを (明治天皇)

敷島の大和言葉をたて貫きに織る倭文機(しずはた)の音のさやけさ (昭憲皇太后)

上の明治天皇御夫妻のお歌を拝読させて頂くにつけて、御夫妻が日本固有の言霊の学問に日本の将来の希望を託されていられたかが想像されるのである。

(以上。)

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古代から大和の地に生まれる者たちへのそれだけの細かい準備はしてあり、原理教科書も1300年前に書かれ、一般に読むことができます。もちろん読んだとて戦後の天皇家自身が放棄するくらいに謎々で書かれてますから、まだ理解するとかしないとかいう次元ではありませんが、根はまだ枯れていません。

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天津罪・ 思惟規範運用上の思惟の逸脱

天津罪は以下の八つ。父韻の八つと対応している意識の働きの先天の逸脱間違えです。

一、畦あ放はなち、 ( 宇比地邇(言霊チ)の神 ・全体提起の間違え・はたらき側

二、溝みぞ埋うめ、 ( 妹須比智邇(言霊イ)の神 ・全体持続の間違え・実体側

三、樋ひ放ち、 ( 角杙(言霊キ)の神 ・自分の方向へ引き寄せない

四、頻しき蒔まき、 ( 妹活杙(言霊ミ)の神 ・進展無く同じことの繰り返し

五、串くし刺さし、 ( 意富斗能地(言霊シ)の神 ・選択の方向無く固定させる

六、生いき剥はぎ、 ( 妹大斗乃弁(言霊リ)の神 ・特定の方向のみ示す

七、逆剥ぎ、 ( 於母陀流(言霊ヒ)の神 ・表面で留まらず飛び出す

八、屎くそ戸ど、 ( 妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神 ・中心に組まれるものを散らす

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一、畦あ放はなち、(天津罪) ( 宇比地邇(うひぢに)の神

古事記の神話では、天照大神は営田みつくだを耕していらっしゃいます。また神かむ衣みそを織っていらっしゃいます。田も衣も縦横に線を引いた形である所から、五十音言霊図表に基づいて言霊を運用し、人類の歴史を創造して行く事を表徴しています。

天津罪の「畦放ち」とは五十音図表の言霊を仕切っている線、即ち畦を取り去ることを言います。五十音図の言霊の縦の配列は五つの次元の相違を、横の配列は八つの父韻による実相変化の律を表わしますから、その仕切りである畦あぜを取り払う事とは文明創造の営みの秩序を破壊することと受け取られます。

以上、島田正路著 『大祓祝詞の話』 による。

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宇比地邇(うひぢに)の神。父韻チ。(ウの性質)全体性

精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻 ・創造・陽出力

宇は地と比べて近い。天は地と比べて近い。吾の眼の全体感はそのまま相手対象に向ういとなみ・働きをする。

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一、畦あ放はなち、(天津罪) 宇比地邇(うひぢに)の神 ・全体提起の間違え・はたらき側

畦(あぜ)はこちらの田とあちらの田の境を示し、四隅を囲って一つの田全体になります。

畦で囲まれた一つの田はその人の全体と取れるし、その人の係わっているテーマ、次元での全体とも取れます。その人の係わる吾の眼の全体がその人のあり方、そのような問題提起と取れるでしょう。そればかりではありません。

田を言霊五十音図の表徴としてその音図の構成を見ていきますと、父韻部、母音部、半母音部、子音部の畦の仕切り、外枠の畦部と各単音言霊部の仕切りの畦、先天部と後天部の畦仕切り、父韻の働き部と母音の実体部の畦仕切り、というような区別ができますから、それぞれの部分を全体として見ていくと、全体に関するだけでも相当な組み合わせができます。

畦あ放はなち・ 宇比地邇(うひぢに)の神・

吾の係わるものを全体とするその関係を放棄断絶無関係化する逸脱・間違え。

畦あ放はなちの組み合わせ、全体のとり方の種類。

・音図全体対他の音図全体、(わたしとあなた、自他、こっちとあっち間の畦あ放はなち)

・父韻部、母音部、半母音部、子音部の畦の仕切り、(構成要素に分けた時のそれぞれの要素間の畦あ放はなち)

・外枠の畦部の放ち、(自己の畦、限界を無闇に取り去り、相手対象に辿り着けない畦あ放はなち)

・各単音言霊部の仕切りの畦、(個、個人的、個別的なことを全体とする畦あ放はなち)

・先天部と後天部の畦仕切り、(先天後天、潜在顕在、可能と現実の境を取り去る畦あ放はなち)

・父韻の働き部と母音の実体部の畦仕切り、(機能、機関、働き、実体、存在の混同畦あ放はなち)

・黄泉国(よもつくに・客観世界)で実体をはたらきととり違えることも記しておきましょう。

(古事記の黄泉国(よもつくに)全体が逸脱の仕方とその解決法を記したもので、より具体的になっています。)

・上記相互間での畦放はなち

さらにこういうこともあります。

・言霊父韻は八つありますがその個々の父韻働きを全体として拡大固定し、そこだけを逸脱させていく。(→樋放ち)

・言霊母音は四つありますがその各々の母音実体を全体として拡大固定し、そこだけを逸脱させていく。(→樋放ち)

等の畦のできている部分を切り離す、場所違い、他分野へ侵入、部分を全体とする、別次元を混同、自分と他者の混同同一等の間違え、逸脱があげられます。問題が始まる全体提起での逸脱になるでしょう。

古事記は例によって最小限の言葉でしか語らず「畦あ放はなち」というだけですので、畦のイメージをウイヂニの神に該当させると、上記のような全体と畦の関係が出てきます。

古事記の神名を借りますとそれがそのまま天津罪の説明になりますので、以下各罪も同様の関係になります。

ここでは八種類の父韻に対応していて、この八種の父韻のはたらき運用上の逸脱になります。もちろん五十音図の構成を父韻母音子音に分けたからといって、母音実在部そのものに間違いが有るのではなく、子音部の実体現象そのものに逸脱があるのではありません。

一足す一は三である、漢字の書き取りの、封筒の住所の宛て名書き等の間違えも、それらの現象は有るべくして、そのようにあるものとして解答表現されるべく解答表現されたもので、そのものとして間違ったものではありません。それが他者との交流対応があるときに逸脱となります。

畦を取り払う例なら、自他との境をないがしろにすることや、テーマ次元を掻き違えお門違いな主張をしていくことにもなるでしょう。それでも主張する本人だけには全面的なこととなっています。

また一つの田の中にあって、主客(母音半母音)の境を無くして混同することや、はたらきと実体(父韻と母音)をまぜこぜにすることも指摘されるでしょう。

畦で囲まれた全体をどこにどのように取るかの相違のように思われます。田と田を分かつ畦と見るのか、畦で囲まれた一つの田全体と見るか、吾の眼、私の意識の置き所の違いで成り出るものが変わります。

「畦あ放はなち」は最初の逸脱の象徴です。

「畦あ放はなち」でないその反対の放たないことが正解となりますから、畦を取り払わないで正解を探すにはことは、上記を裏返しにして見ればいいわけです。

また畦を自我、自己と他者の境、表面結界としますと自我論の端緒ともなるでしょう。

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参照。ルカの福音書5:1-11

畦放ちに限らず、罪を犯すのに自覚があるかないかについて。

イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」マタイ16:21

宗教では神と人の関係にしてしまいますが、フトマニ言霊学では人間内に起こることです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」神は先天十七言霊のことで、人は吾の眼のことです。

参照。 淡路の穂の狭別の島(あわじのほのさわけ)

先天構造の最初に出て来る言霊ウの区分を示す島名です。神話形式で言えば天の御中主の神の宝座ということになります。アとワ(淡)の言霊(穂)が別れ出て来る(別)狭い(狭)道(道)の区分(島)という意味であります。この島の名の意味・内容は古事記解説の冒頭にあります天の御中主の神(言霊ウ)の項の全部と引き比べてお考え下さるとよく御理解頂けるものと思います。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神……」の古事記冒頭の文章自体がこの島名の意味を端的に表わしているとも言えましょう。

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二、溝みぞ埋うめ、 (天津罪 )( 妹須比智邇(いもすひぢに)の神 ・全体持続の間違え・実体側

溝とは水を流すため地面を細長く掘ったものを謂います。五十音言霊表の運用を潤す生命の流れの通り路を埋めて言霊の気の働きを妨害すること、と思われます。

以上、島田正路著 『大祓祝詞の話』 による。

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妹須比智邇(いもすひぢに)の神。父韻イ。(ウの性質) 全体性。 動き出した力動が持続する韻・繁栄・飛至力

すべからく智に比ぶるに近かるべし。智による選択に依らずとも相手対象のなりさまと成る。

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水は死活問題で、 水の流れと溝のあり方はそれを大きく左右します。

溝を流れる水と流す溝の構造ありさまとに分けられるでしょう。心の流れとその持続、そのまま妹須比智邇(いもすひぢに)の神の問題となります。妹須比智邇は持続流れを司りますから、その逸脱間違いは溝埋めによる停留滞留となります。

畦の全体領域が提起され、問題が有るのか無いのか、出すのか出さないのか、係わるのか係わらないのか等の大いなる現象が、そのまま確認されるかされないのかになりました。

今度はその問題の存続していくか途中で止められるのか、流れているのか詰まるのかになります。

溝埋めは流れの全体に関することで、溝を埋めて流れの方向を変えたり、特定の方向や出口に向かわせたりするのは、次の樋ひ放ちになります。流れの方向を変えてその有用性や経験効果を見ていくからです。溝埋めでは流れのあくまで大いなる一つの全体に係わっています。

それはそのまま畦放ちに対応していますので、自他の関係、全体と全体、全体と部分の組み合わせ関係等の問題の持続存続になっていきます。

畦と溝が対になっています。畦を川岸のように理解しますと、河の流れと寄りそる岸となります。畦に沿った溝もよくあります。もちろん個々の問題では常に対になって出てくるというわけではなく、取り上げられ方は一定(チイキミシリヒニ)していません。どこにどのようにでてくるのか、この後の解説にある天津罪と組み合わされたり、重なりあったり省略されたりになります。

畦放ちと対応した、溝みぞ埋うめ・全体持続に関する間違え方。畦放ちの全体のとり方に応じた溝があります。そしてそれに応じたそれぞれの逸脱過ちがあります。

・全体対他の全体あるいは部分との関係で、わたしとあなた、自他、こっちとあっち間の溝を埋め、自分の持続だけを進行させていくことや、自他間の交流を停止することなどでしょう。 領海領空侵犯。他人のものに手をつける、国境、村境。等。

・父韻部、母音部、半母音部、子音部の間の溝を埋め同一視していくことで、構成要素に分けた時のそれぞれの要素間の溝を越えていくこと。 領有宣言。犯行声明。各要素の時間差を無視して同時に行うとか、思えば即そこに実在が現れるとか、等。

・外枠の溝を埋め新たな溝を作る、自己の溝、限界を無闇に取り去り、自己の拡張で(相手から見れば侵害浸食)、持続を止めない溝埋めという形。相手対象に辿り着けない、あるいは相手はこう慮外。 領海拡大。了解拡大解釈。同一行為の反復、等。

・各単音言霊部の仕切り内の領域を、個、個人的、個別的なことなのにそれを全体とする、自己と他者との間に溝が無いとする個と個の間の溝埋め。 井の中の蛙。自己中心。等。

・先天部と後天部の畦仕切り、先天後天、潜在顕在、可能と現実の境を取り去る限界は無い突き当たりはないとする溝埋め、 空想夢想。思い描き。等。

・父韻の働き部と母音の実体部の実体を働きとし、働きを実体とする溝埋め、機能、機関、働き、実体、存在の混同、拝めば必ずいいことがある、パワーストーンはエネルギーがあるとか。 働き即結果。心即実体にしてしまい信じれば救われるというような溝埋め。等。

・黄泉国(よもつくに・客観世界)で実体をはたらきととり違えること、実体の次元層の取り違えも記しておきましょう。

間違えるのは父韻の専売特許で、実体母音側、黄泉国(よもつくに)の実在が間違うことはありません。実在世界の次元層がありますが、父韻の働き側が逸脱をしていくわけです。

溝を流れるのは心、意識です。心も意識も今では簡単に口にできますが、簡単明瞭に何なのか答えるのは骨が折れます。

説明抜きで言えば、古事記の冒頭十七の言霊神が、心、意識で、これが溝をながれます。一言で言えば吾の眼(アメ、漢字で書けば天・あめ)です。

吾の眼は、父韻八、母音四、半母音四、創造韻二で構成された先天の心、意識を受け入れることで自らも先天と同じ構成を構築して活動の原理となって、この統体が常に働いていきます。

溝を埋めれば詰まります。心の流れが止まりあふれ、他の流れを作ってしまいます。心の流れがあるのは感じられるとして、ではそれを流す溝とは何でしょうか。水があっても溝がなければ流れはありません。また水は溝のあり方に沿います。では心、意識の流れを作る溝とはなんでしょうか。それは言葉です。

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三、樋ひ放ち、(天津罪)( 角杙(つのぐひ)の神 ・自分の方向へ引き寄せない

樋ひとは水を導いて送る長い管、またはせき止めた水の出口に設けた戸で、開閉して水を出入りさせるもの、の事と辞書にあります。人間の生命の流れは母音より八つの父韻を通り半母音に向って流れます。アよりワ、イよりヰ、エよりヱ、オよりヲ、ウよりウに流れ、それぞれ歴史を創造します。その流れの緩急が程よく行けば社会は常に平穏無事でありますが、母音より半母音への流れ路が取り払われ、また緩急の調節が出来なくなると、社会の進歩は急変または停滞することとなります。これが樋放ちであります。

以上、島田正路著 『大祓祝詞の話』 による。

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角杙(つのぐひ)の神。父韻キ。 (オの性質)掻き進める働き。体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻 ・収納・陰掻力

立てた規範をもってその運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働き。

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参照。ウィキペディア。

漢字「樋」のこの意味は日本独自の国訓である。「樋」の本来の意味は字書には「木の名」とあるが、中国では古典でも現代でもほとんど使われない漢字である。

(角杙(つのぐひ)の神。父韻キ。「木+通」、キを、通す。)

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溝は本流、全体的な水、心の流れの全体に関するもの、樋は個別的なものに相当するかもしれません。しかしこのようなわたしの理解はあまりにも現象的に過ぎます。天津罪は思惟規範の運用上の逸脱に関するものですから、個々の現象を比較するものではありません。

畦放ちと溝埋めはそれぞれ一つの全体の現れ方と全体の流れとして見ていきますが、そこで全体というのは意識の思いつくだけが現象となる全体で、他の心が係われば全体の範囲が変わったりします。心の係わるだろう自他全部をひっくるめた全体というのは現象させることはできませんが、それらはいずれも先天の全体の中からあらわれてきたものです。

全体を相対視すれば部分になり、部分を絶対視すれば全体になりますが、いずれも先天の全体の吾の意識の切り取り方です。この全体(部分)が過去意識概念(記憶)に結ばれて表現されると樋放ちと次の頻き蒔き(角杙と活杙)の逸脱が可能となります。

樋放ちと次の頻き蒔きも、以下も同様で、全体を見る思惟規範の相違としてみていきますので、解説の仕方は特徴的な具体性あるいは象徴的な言葉使いをしていきますが、そのようなことを実体化していくのではありません。常に奥に十七神の言霊原理が潜んでいます。

例えば角杙・妹生杙では掻き寄せる・結びつくということをいいますが、全体を掻き寄せる・全体に結びつく、というようになります。現象してくるのは全体的な形をとりますが、それは吾の眼(わたしの意識)のかかわる経験知識範囲が全体として出てくるからです。(その人にとっては全体的、絶対的、それしかないという形になります。)

もし全体そのものを取り上げるなら、全体に対する見方が対になった四つで計八種類あるということです。これは現象を産む原動因となっているものです。ここでは樋放ちと次の頻き蒔きが対になっています。言葉の上からは少しこんがらがりますますが(樋と頻き蒔き)、そんなことは言ってられません。

この後もイメージし難い、現代社会の罪とは関連付けられそうも無い天津罪の名前がでてきますが、主題を先天の全体としたならば全体に関するの八種の罪となります。これは日常でわいわいがやがや普通に喋っているときには普通の見地として何でもなくでてきています。

それなのに天津罪の名だけを見て実体実在的に解釈しているので、現在のこの罪の表現部分が書き換えられ、省略されて伝承が疎外されているということです。言霊学で理解していこうとすれば宝物を掘り起こすことになりますが、いやだという人に強制もできません。

次の国津罪ではもっと恐ろしい表現となっています。これらはスメラミコトが数千年先を見越して託した表現ですので、この間は人をこうして罪観念内に閉じ込めることにたやすく成功しています。その分だけ真実が明かされたときには闇から光への転換も素晴らしいものとなるでしょう。

と、そんな希望はありますが、省略削除されたのではどうしようもありません。

宗教における闇や地獄やあの世の世界も、どの宗教にも必須項目のようになっていて、どこにも出てくるようになっています。これもスメラミコトによって、光と幸福至福な世界同様、主張させられているものです。こちらの楽しい方は削除されることはありませんから、こちらの方面から探る手もありそうです。

(いつか、潜在意識にとじこめられた幸せの原理というものではなく、誰もが自分に持っている実体から始まって、実在現象としていく言霊による幸せの原理を探したいものです。)

しかしだからといって、天津国津罪を思惟運用上の逸脱と解してそれが真実と受け入れられても、人々の考え方が理想的になるということは無いでしょう。

屋根に付いた樋は雨水を下水口に導くもの、山間に設置された樋は清水を水瓶まで誘導するもの、ため池河川の水流、放出を制御する流水口、導管等、誘導された水の出口に意味があります。それなのにせっかく集めた水を無駄に放つ間違いがあるということでしょう。

わたしには心の相手に向かう流れがあり、まずは、心が相手を認知して相手に向かう流れがあります。その流れに沿い相手に達します。ところが心は動いて行くのに相手を認知しないとか避けるとか否定するとか、水の出口を定めないことがあります。

また、目的対象が分かっていても、途中で停滞停止して反転や放棄などすることもあり水の出口を断つことがあります。

また、順調に行っていたのに、あっちの水は甘いぞ式に、樋の様式を変えてしまい水の流れが表現できなくなることがあります。

いずれも樋という形式の維持を変化変形してしまい、自らの水の落ちるべきところを見失っていきます。流れ来た水を引き寄せることも、溜めた水を利用することもできません。

樋放ちはこのように、過去経験から得た目標の行き着く先を失い、目標を持つことを失うことを指すでしょう。

フトマニ言霊音図に翻訳すれば縦横の流れの、摂取口から樋を通して排水口に至る、(母音側アから半母音側ワへ)水の有用性を利用する循環不良不順となるでしょう。あるいは心の思いの流れとその入り口出口の流れの不良なことです。ただしここには水の摂取口と出口とその間を連絡する樋の知識経験があります。樋放ちはこの経験概念と係わり樋のあり方全体が決まっていきます。

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三、樋ひ放ちのつづき。

三、樋ひ放ちの解釈例。 (天津罪) 角杙(つのぐひ)の神 ・自分の方向へ引き寄せない

樋(角杙(つのぐひ)の神・言霊キ)の十四の運用とその逸脱。樋という経験知識を「全体として」該当させたときの運用例。言霊オ(掻き寄せる経験知識)を樋という「全体として」見ていく場合。

1)、全体問題の提起。( 淡路の穂の狭別の島、言霊ウ ・問題提起の間違い、提起しない) 任意の場所空間に樋という全体概念を設置して水を集めようとする間違え。集める水と集められる水、それを通す樋に関する経験知識の勝手な設定。樋を設置せず、バケツを置く。

机の下にある何かを踏んだ。子供は落ちているものを何でも口に入れる。小銭を落としたみたいだが眼鏡がないので確認できない。

2)、生膚いきはだ断たち、( 伊予の二名の島、アワ ・生きた気(イキ)を断つ、実体側しか見ない、あるは働き側しか見ない。) 働きの予めの(伊予)計画思い設計はあり、集約された知識や場所時間の選択(樋入り口出口)等も予め予定されているが、実践に移せない計画倒れ。立派なダム、樋はできたが水がない。

落ちたものがあるとの意識はあるものの、何であるかは分かっていない。ここに既に、主体側の意識とその意識が赴く落ちた何物かの実在持続がある。生きた気を断つ(生き肌断ち)ですから、意識に昇った掻き集まった何物かを、気にせず無視したり、蹴飛ばして脇へ追いやれば、その後はなにも起きてこない。

3)、死膚しにはだ断たち、( 隠岐おきの三子の島またの名は天のオシコロワケ。ヲオエヱ ・過去-今-未来を繋がない) 計画も材料もそろえたのに、肝心な大いなる実行するべきところを実行せずに、無闇とささいな事役に立たないこと、破壊され死に絶え不動な物事にこだわる。使用可能に出来上がっているのに、解剖検査みたいにして変形改造改修、実験実験の繰り返し。

人間意識の非常に重要な位相次元で、過去からの経験知(オ)と未来への実践智(エ)を司る大いなる心の部分です。この心の過去から未来への流れが今ここにあるこころ(意識)が動かない(死)ため、過去から掻き寄せたものが今ここにあらわれず、今ここで掻き寄せたものが動かない(死)ため未来へ配分按配できないことをいいます。

最も重要な精神性能次元ですが、今ここを「死(不動)」として扱っていまので、過去も未来もありません。

4)、白人しらひと胡こ久美くみ、( 筑紫(つくし)の島 ・途中で任意に留まり滞留する) 皮膚の色素が抜けてまだら状態や瘤障害等の滞留。筑紫の島は父韻の領域で父韻の働き全体についての障害間違えとなる。意思の連絡流通が不全となり途中の障害のため留まる。樋の途中に瘤や穴や抜け道等があって正常に流れていかない。

ここは精神性能の働き全体の領域です。掻き寄せたものはチイキミシリヒニの流れの全体を通過しないと正常なこととして生じないのに、その途中にに瘤(こくみ)や抜けた部分(しら)があり通過できず困難になります。

5)、己が母犯せる罪、( 伊岐(いき)の島 ・ 父韻によって母音から子音が生まれるのを、逆にして現象から母音を見る ) 父韻の働きによって母から子が生まれたのに、現象実体をまず鎮座させ、そこから無縁な母音実体を要求請求していく逸脱間違え。樋はそれ相当に作られたのに、作ってくれた父母に、不完全不十分を訴え、本来の水源を無視して他を要求する。

創造意思の根源にある領域ですが、創造意思そのものとしては現象できませんので常に創造現象という子(子音)で表現されます。スポーツ、経済、生存競争社会ではよく結果が物を言うと云われています。あるいは目的は手段を選ばず何をしても構わないなどとして母を犯すわけです。

6)、己が子犯せる罪、( 津(つ)島またの名は天のサデヨリヒメ ・ 現象子音の配列を崩したり取り違える、夢を見る ) 先天の計画予定が渡され一つ一つ現象物質化して、まだできていないのにあるとして、現象化過程にあるものを破壊不要化していく。夢を樋の計画と取り違え夢を強制実現しようとする。

津島は途中経過のある形態で親であると同時に子である、自分は何かから生まれ自分も何かを生んでいく、親と子の両方の性格をもっています。

子供が家を出て学校へ行く途中、回り道、寄り道、近道やどこかにたむろしたり、いたづら石けりなどして、危険な道や人通り車の多い道など途中経過をいろいろ生んでいきます。これらの途中経過に対する不良不正なことをするとか、学校に着くまでの間に生まれる不正なことの準備等のことでしょう。

7)、母と子と犯せる罪、( 佐渡(さど)の島 ・ イメージを言葉に渡さない。物象化しない。) 佐渡の島は計画思いが物象化にまでこぎ着けた段階です。物象化されたものは第三者となってわたしとあなたとは相対的に独立したものとなっています。先天からのイメージでの母と子ではなく、ここでは物象となったものを子とし、イメージから物象に結びつき物象を産んだ母という事です。

ですので母と子という二者のことではなく、母が子を産むという過程全体のことになります。前⑥の領域では物象化していない段階ですが、ここでは物と結ばれています。

この過程経過上の間違え、物象に結びいけない、何時までも思いの中に留める等の事になるでしょう。樋はあれこれあるのにどの樋も使用しない。

8)、子と母と犯せる罪、 ( 大倭豊秋津(おほやまと)島 ・先天(母)から現象(子)が現れたことを見ずに現象の客体化を固定する) 母と子ではなく子と母になっています。この島の領域では現象創造が明らかに渡されて行き(豊秋津)現象となる子を産みますので、子と母の二者を指します。つまり現象と現象を生んだ全体(母)に関する事です。

要素が実在するのに無いとしその過程と共に無視否定する事、要素をあるとしてもその成立した過程と共におとしめ卑しめることなどでしょう。樋は完成してできているのに、稼働させない。

9)、畜けもの犯せる罪、( 吉備(きび)の児島 ・幼稚な規範(気もの)だけで処理する。) ここからは実在要素が既にある事が前提です。実在要素の扱い運用あるいは運用そのものの逸脱になっていきます。

畜はけもの、気モノで霊、心、意思、思惟等の事です。吉備は良く備わった子供のしまりです。物事を知らないままよくしゃべる子供ということでしょう。

それでも全ては通じている受け入れられてると思うものです。

吉備の児島は集めた材料要素で一応自己主張ができ、樋の恰好だけは付きました。その受容力稼働力は幼稚で不明なのに、何でもできるというような主張。

10)、昆虫はふむしの災、 ( 小豆島(あづきのしま) ・父韻の明らかな続きを恣意的に泣き騒ぐ。耳元で唸る耳障りからの連想。泣き沢女の神のこと。樋は出来てありながら、その効能書きをうるさくのたまう。口八丁手八丁。

11)、高津神の災、 ( 大島(おほしま) ・個別的な経験領域から出ようとしない。

大いに有効な利用価値のある樋なのに、利用範囲を制限し固執し、応用可能臨機応変を排除していく。

12)、高津鳥の災、 ( 女島(ひめしま) ・個別的特別な表現表出に執着する。

大いなる樋ができました。鳥がバタバタ羽ばたきうるさい。どう、見て見て私の出来具合飾り具合、鏡さん世界で一番美しいのはわたしなのよ、バタバタと他の表現表出法を無視していく。特定の樋だけが一番。

13)、畜仆けものたほ(お)し、( 知訶(ちか)の島・天の忍男(おしを)) ・気ものの反省を主張する。

畜けものは前出同様家畜ではなく、獣姦とか屠殺とかではありません。知訶(ちか)の領域、知・知識を叱りたしなめる領域で、人が精神の禊ぎ祓え以前に到達できる大いなる働きを発揮できるところです。発揮するのは蓄・ケモノ・気モノで、人の持つ大いなる精神性能です。

この領域では精神の反省から始まって原理原則を立てて、禊ぎ祓え以前の最高の精神性能で活動できるところです。

通常の考えられる最良の状態での指針を立て実行できるものを、遠慮して打ち倒してしまうことです。

知的に納得了解していても感情的に受け入れられない時とか、作品が完成しているのに打ち捨てる心持ちとかでしょう。

14)、蠢まじ物ものせる罪、 ( 両児(ふたご)の島) ・ 両児島の領域の成立によって人であるのに、人以外の諸々によって判断をゆだねる。 人の意識行為を排除する。

13、14を連続したものとすれば、「感情的に受け入れられない」というところを、人の意識外のあっち側の諸力に従うことになります。

ここでは切り離して、せっかくの人の創造意思による行為産出を、ないがしろにするとしました。

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四、頻しき蒔まき、 (天津罪) ( 妹活杙(いくぐひ)の神 ・進展無く同じことの繰り返し

穀物の種子を播いた上に重ねてまた種子を播き、穀物の生長を害すること、と辞書にあります。天照大神の営田は音図向って右から左へア・タカマハラナヤサ・ワの順で種子が播かれます。その事で物事は始めより終わりに向って滞る事なく遂行されます。それが例えば、タから始まり、タカマまで来た時、マに表徴される事態が既にほとんど完了してるのに、その過程の百パーセントの完了に執着して、マ・マ・マと何時までもその段階の行為を繰り返し、先に進まないような事態に陥る状態を指している事でありましょう。

以上、島田正路著 『大祓祝詞の話』 による。

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妹活杙(いくぐひ)の神。 言霊ミ。(ヲの性質) 掻き集める動き。 精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻 ・整理・旋回力

立てた規範を中心にして相手対象に適合させるようななりさまを探す働き。

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天津罪の精神性能の先天の逸脱は、精神意識の先天にある逸脱ですから、そうなるのはいわば当たり前で、当たり前に間違うということです。わたしは正当な正しい意見を言っているという当たり前な間違えを、人は平気で知らず知らずにしていくということになります。

別の方面から言えばその人が個人的に間違うのではなく、誰でもが間違う間違え方の一つがその人にあらわれただけです。ただ人は自分の主張として意見を述べますから、自分は正しいとしていくことになり、謙虚さも無くしがちです。もちろん謙虚であっても正しさが保障されるわけでもありません。

ですので、正しかろうと間違えであろうとそのような主張しかできないのが人の性です。主張の外見を取り去ればそんなものとしてそれ以外には無いということです。逸脱には無数の形がありますが、現象となった逸脱の形ではなく、それを整理分類すると八つのもともと人にある間違え方になるというものです。

天津罪を一つ一つ解説していくと、父韻の八つに対応しているとはいっても、わたしの下手な解説では、個々の対応が勝手気ままなコジツケのようになってしまっています。私の了解の不十分さからくるところです。間違えが八つの型しかないのかということは、それはそのまま、思惟の動きも八つしかないのかということになります。

しかし八つを思ってみると、世界人口が幾ら多くなり何十何百億になろうと人は男か女かの二つしかないのです。たったの二種類で何十億の人が全部整理できてしまうのですから、八つでは多過ぎかもしれません。とはいってもスメラミコトが八つしかないと発見したのですからそれに従います。古事記ではあちこちで「八」が出てきます。ヒフミ神示はそれを真似て「八通りに読める」という言い方をしています。

現象の話ではありませんが、現象となる話です。現象では八通りでは到底片づけられませんが、現象を創造する先天の型は八つということです。

その一つの「罪(逸脱、間違え)」としての頻き蒔きは頻繁に繰り返す逸脱のことです。種蒔きの種は実で、対応するのが妹活杙(いくぐひ)の神、丁度言霊ミです。これをヒントにしていきます。「頻き」を四季にとりますと、春蒔きの種を季節に囚われずに蒔いてしまうことにもなるでしょうし、シキを四気にとれば意識次元の欲望、知識、感情、選択の四つの次元を取り違え、知識の問題を感情で扱ったりすることにもなるでしょう。

心の構成要素は大きく別けて、心の実体部(主客の御柱)と心のはたらき部(八尋殿)です。頻き蒔きはこの関係を頻繁に無駄に繰り返すことです。心の実体側にはウオアエの能動側実在の母音と受動側実在のワヲウヱの半母音があり、それに働きの右回りの四つのチキシヒと左廻りのイミリニの父韻が対応しています。

シキは父韻を対の四種であらわしていますから、ここにも父韻のシキ(四気)があらわれるでしょう。言霊チであらわすものを言霊イであらわしたり、キをミにしたりして父韻の働きをまき散らすことにもなるでしょう。

天津、国津神両者とも思惟の動き運用に関するもので逸脱としてあらわれるものをあらわしたものですから、難しい比喩や象徴など使用しないで最初から逸脱の八つの動き方を示せばいいのですが、古事記があって古事記の解があって、解の正解があって古事記の正体が明かされた後に、古事記の名を出さなくとも八つの逸脱が当然のように語られる時がくれば、そうなるでしょう。

ですので今はこんな形式の語り口に付き合ってもらい、ブログを読む方や言霊学を勉強する方は古事記の権威を高め、真意を広めることに協力してもらわなければなりません。

妹活杙(いくぐひ)の神、言霊ミが配当されているように、既にあるものにさらにあるようにさせ、実っている実にさらに実を成らそうとするものです。

これは精神的物質的に既にあるものにさらに同じことを繰り返すので、宣伝洗脳学習訓練にはよく使われる手です。効果があるなら間違ってはいないとなりそうですが、先がありません。猿芝居、馬鹿の一つ覚え、独りよがり、貪欲、右肩上がりのへつらい追求等になるでしょう。

自分が立てた規範が中心ですから、他は無視、あるいは敵として攻撃の対象です。

自分の蒔いた種の上にまた蒔くのですから個人主義となります。

蒔く種が拡がっていく場合には相手の領域に侵略していきます。

成果は全く個人のものだけにします。

現実と可能性、未来への通路が個人的な欲望の実現に向けられ、可能と思い込むようになります。

他人の種蒔きした畑へ、種蒔きするように、他の領分を侵すことです。他の領分を侵すことというのがありますが、蒔いた結果のことではなく蒔く行為自体が罪になることを行っています。研究を発表と称して学者や知識を披露するときに良く使う手です。引用による権威づけも同じようなものです。

こころにあることを何度も何時までも繰り返す間違いです。子供の得意技です。

頻き蒔きは、言霊ミが言霊ヲの性質を強力に持つことの現れです。どうしても執着してしまいます。これに対して執着を捨てよといいますが、こころは執着を捨てるようにできていないのでそのような教えもどこかが逸脱しています。持ち来たり止揚消化すればいいのです。

以上のように思い付きで頻き蒔きを書いて行くと、どこに八つとなる原理があるのか怪しげになってしまいます。これは私の未熟なところで、本来ならこんなことは書かなくていいものです。それでもフトマニ言霊学と古事記の研究は民間の手に移ってしまっていますから、こうした無謀な書き手も現れるわけです。わたしにおいては何を持って原理の比喩にするかまだ決まっていないのでこういうことになっていきます。

頻き蒔きが罪にならないようにするには、あるべきところ成るべきところに種を蒔き重ならないようにすればいいのですが、それには適切な場所を前もって知っている必要があります。これが活杙の「自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻」である言霊ミで、現象界では身、実となってあらわれるものです。

頻き蒔きを重ねて種を蒔くこととして、その精神的な意味に翻訳した場合、表面的には繰り返しが必要な場合があります。朝になって起きなければならないのに目覚めないときには、同じことを繰り返して揺り起こします。事を覚え物を覚えるときも繰り返しが必要です。この場合には繰り返さないことが「罪」です。

このような表層的な見方をしなくするには頻き蒔きの実体内容を把握しないといけません。種は一カ所一カ所場所を定めて蒔いていくわけですが、ある特定な時点で留まることがあります。

この特定な時点は行為していく間には常につきまとい、行為者の影となっています。そもそも目標を達成することが特定な時点として意識の中にあり、これが成就したときに停止点もあらわれるでしょう。

この成就すべき停止点が途中経過上に前もってあらわれてしまうこともあります。

その時点で不完全であるか、途中で満足してしまうのかはいろいろあるでしょうけれど、停止の反復繰り返しを了解している構造ができることもあります。

それは種を同じ所に蒔き続けることとは違うように見られますが、達すべき目的に対して、停止の反復という形も示してみました。

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五、串くし刺さし、 (天津罪) ( 意富斗能地(おほとのぢ)の神 ・選択の方向無く固定させる

人間の文明創造活動を言霊によって示す言霊五十音図表は縦五列、横十列の言霊の並びがあります。縦に次元の順序、即ち位置師を、横に実相の移り変わりの変化のリズム、即ち時置師、処置師の働きを示します。この縦横の順序や変化の推移を示す言霊の並びを、あたかも団子に串を刺すように固定してしまい、社会がその時処位に応じて、自由に新しい文化を作って行く事が出来ないよう規制してしまう事、これを串刺しと言います。信仰や信条、または社会的哲学、倫理学、経済学等の経験的知識に基づいて制定された道徳や国家体制、憲法、法律等は往々にしてこの串刺しという天津罪を犯す事となります。近代に於ける世界の共産体制の崩壊などもこの串刺しによる国家社会の硬直化がその原因と考えられます。

以上、島田正路著 『大祓祝詞の話』 による。

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意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ。 (エの性質) 拡がりの保存収縮。 精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻 ・調和・透刺力

大いなる量りの働きの地。選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働き。

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串刺しです。イメージはし易いですが、はたしてなんでしょう。昆虫採集が趣味の人は昆虫をピンで止めることとか、食べ物なら串団子とか、あるいは串焼きと聞いて直接一杯呑む方へ行く人とか、色々です。それに心を結べといわれると、甘口の心だとか、辛口のこころだとかになりそうです。あるいは連続したものを固定するとか、脱線した列車とかもイメージできますが、それぞれの思い付きイメージが解釈の基盤ですから単なるアイデア勝負です。そんな思い付きは止めて、大祓祝詞作者の意図はどこにあるのか見てみたい。

串刺しは九シ刺しで、くしくも、言霊シの意富斗能地(おほとのぢ)の神が配当されています。丁度、このアイデア思い付きの、われこそが正当であるというのをいろいろよりどりみどり並べて串刺ししているようです。

意富斗能地(おほとのぢ)の神、言霊シの解釈からいくとぴったりの感じがします。個人の次元では一つ二つの解釈、考えを出すのがせいぜいですが、できる人はいくつでも出すし全体から見れば無数に近い解になります。

意富斗能地(おほとのぢ)の神は、ことを「シ」として静め鎮めることですから、私のブログでは「シ」を多数作る間違え、選択の方向無く固定させるとしておきましょう。

「シ」として鎮まるには父韻主体側から客体側へちょうど十個渡って「シ」とするのですが、最後の「シ」がワ行にいたって完成するときに、つまり、九つの「シ」を通過して(九シ・くし・串)十番目に至る時に、他のものを「シ」としたり、複数の「シ」を持ってきて選択したり目移りしたりすることでしょう。

こうと決めてこうなると思っていたのに、最後の最後に別のことになっていたときのことなど例になるでしょう。

最後の「シ」が定まらないのを、複数の選択肢を提供できるからいいことじゃないかとみることもできるでしょう。しかし、九まで経過して十になるところで変えるというのは、飛行機でハワイに行くところを電車で行こうという様なもので、最初からやり直しになるでしょう。

もちろん最初から複数の選択肢を用意していることもあるし、わざと最後の選択を恣意的にしてしまうこともあります。

どのような場合でも、「シ」は最後の集約に向かい当初の意図を固定化しようとするものですが、当初の意図以外のもので固定化串刺しにすることが罪とされているようです。思い通りの結果が出ないということでしょうか。

串刺しを九つの「シ」を刺し通すとすると、どこに九つの「シ」があるのか、一つしかないではないかということになります。

例えばある一つのこと、子音のトを取って「戸」として、「戸」の現象を見ていくと、八百万の「戸」の見方があります。押す戸、引く戸、エアーカーテンみたいな戸、動く戸、自動戸、等等。

このたった一言「戸」といいながらどのような見方をされようとも「戸」である事を保障しているのが父韻で、「戸」という始まりの「イ(ア)の戸」から八種の「戸」を通って終わりの「ヰ(ワ)の戸」へ行く間に八百万の「戸」が押し込まれています。

十通過していれば意識は「戸」というとき、どのような「戸」がきても、こんな「戸」だあんな「戸」だということができ、どのような「戸」を選択しても「戸」として通用できるのです。(五十音図横段は十あります。)

通過というのは一つの筒の中を通過するようなもので、そこに父韻で分けられた八百万の「戸」が過去今未来を通して収まっています。どの「戸」も父韻を全部通過しているので、どのような形態状態を持っていても、「戸」であるという規範に相当できますから「戸」と呼ばれることができます。

もしここで、筒の中を通っていく途中で、串で刺されて流れを邪魔されとどめを刺されますと、どのような「戸」も「戸」として云われるだけのものを持てなくなります。それは板じゃないか柱じゃないか把手じゃないかと、部分要素になってしまいます。

要素を取り上げて、それは「戸」の部分であるといえるのは、父韻を全部通過して「戸」であるというのが了解できているからで、それ以前に串ざしされ動きを止められてしまいますと、「戸」という判断規範がないので、これは何の部分だろうということになります。

流れを途中で止める逸脱は常にあります。弁当を作ってる途中で止めれば、食べかけか食べ残しか分からなくなり、完成しても包まれ持ち運べるようになっていなければ、忘れ物か捨て忘れか分かりません。

実は言霊シにおいては静止停止において完成消費に向かうので、元々完成停止を目指しています。串刺しでの停止は途中の未完成停止ということですが、完成した「シ」の停止の規範をもっていません。

子供のやる仕事と大人とでは、大人は完成した規範をもっているので中途半端ということが分かりますが、子供は終わりの姿を描けていませんので、途中で終わっているのが分からず、まだ先があるのではなく、終わりは終わりとして終わっています。

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六、生いき剥はぎ、(天津罪)( 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神 ・特定の方向のみ示す

生命活動を表わす五十音図表の中の縦の五母音の中の一つ乃至二つの並びを剥ぐように抹殺してしまう事。即ち生命活動として当然具備されている性能を何らかの理由の下に無視してしまう事。これが生剥です。例えば近代共産体制にあって「宗教は阿片なり」の教義の下に言霊アに属する信仰性能を否定してしまった等がこれに当ります。人間の生きた生来の性能活動を社会から抹殺する罪であります。

以上、島田正路著 『大祓祝詞の話』 による。

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妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ。 (ヱの性質)保存収縮の拡がり。 ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻 ・滲透・

大(大いなる)量りの(斗乃)わきまえ(弁)。選択識別されたなりさま(わきまえ)が繰り返し述べられるような働き。

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生き剥ぎ、イの気を剥ぐこと、命の精気を剥ぐことで、人、動物の生皮を剥ぐことではない。

本当にそんなことをしていたのかと疑いたくなる。言霊学以外の解説では生きたまま皮を剥ぐことですが、古代大和でそんなことをやる訳がない。後世においても大和日本では生き剥ぎの記録は見つからない。

生き剥ぎで検索かけたけれど、中国では普通に刑罰として行われたらしい。中国の話を聞いて、大変な罰であることを、精神領域に当てはめたようだ。ではそんな大それたことになる精神の逸脱とは何でしょうか。

生き剥ぎの「イキ」は息をしている生きている生体のことではなく、イの気のことで、精神の精気、その流通発展を疎外することがあるということでしょう。

生き剥ぎには妹大斗乃弁(おほとのべ)の神、言霊リが配当され、大いに述べ拡大進展する方向が、剥がされることを指しています。

生き剥ぎは、串刺しと対になっていて、次の逆剥ぎと対になってはいません。

串刺しが内部に中心へと固定されるのに対して、生き剥ぎの苦痛が拡がるように、待ちがっかほうこうが発展拡大押し拡がる方向をとります。串で指すにはバランスの取れる中心を探しましすが、皮を剥ぐには剥いだ皮がかさばり邪魔されなように拡げていきます。

それに対して逆剥ぎの逆はサガで性のことになります。

イの気(生き)を剥ぐですから、父韻の流れの発展拡大を任意の時処位での停止逸脱、あるいは識別された逸脱の拡大のことでしょう。

他の罪同様何を指しているものかについてはいろいろイメージは湧きます。父韻大斗乃弁(おほとのべ)の神、言霊リとの対応で見ていきます。

生き剥ぎをイの気を剥ぐとしますと、イ(伊耶那岐の神と父韻のはたらき側言霊イ)と五(い・実在母音側)の双方に掛かるでしょう。

剥ぎは、ハキで、葉の気、言葉の気となるでしょう。国津罪には、生きはだ・死にはだ断ちというのがあります。イの気の言葉の田(いきはた)、四二(4×2=8)の父韻の言葉の田となるものでしょう。

まるでコジツケのようですが、記は「ツケ」と読むことがあり、コジツケは古事記の基本です。フトマニ(真似)古事ツケ学。(脱線ですが、それを証明するには心の内側でのみ検証可能です。天津罪を農耕社会での犯罪だというのもアイデアに過ぎません。強者が事を決めて行くものなら自らの成すことを犯罪だ罪だとするのはおかしいでしょう。)

生きているイの気といいますが、生きているのは何でしょう。パソコンも、お金も、鉛筆も出来上がってしまえば、それらの素材は耐用年数がたてば不要物です。またその期間中も使用されるというだけで生きているわけではありません。

では心はどうなっているでしょうか。

何故心は生きているのでしょうか。

心の生きているイの気というのはこころのイマココ(今此処)のことです。過去は生きてしまったこと、未来はまだ来ていない、あるのはイマココだけです。過去も未来も無いのにこころはあったし、あるし、あるだろうとしていきます。客観物を扱っていてもこころに取り上げられるときには様子が変わります。(ここに何かの秘密があるのだろう。)

古代大和のスメラミコトはイマココの秘密を解き活用できたから、世界歴史の運用主体になったのです。(秘密といってもわたしが勝手に思っているだけです。ちょっと飛躍しすぎですが、いつかスメラミコトが復権するまで待ちましょう。)

その秘密は古事記の上巻として神代の神話の形でしめされ、民の社会生活に浸透させ、行事や文化の種々の形態であらわされ、神道を創建させ、皇室内に秘儀として伝承させました。さらに種々の古文献もあり、不思議なことに御告げや降臨の教えも全てイマココの秘密を説いたものですが、解答や正解を与えず暗喩と謎々で教えたものです。

そしてその正解を考えさせる手段というのが素晴らしい。というのもそのための大和の日本語を創出しておいたからです。大和の日本語は心を解き創造するための体系と要素として構築されていますので、全く世界の他の言語とは違います。父韻と母音の組み合わせで子音ができ心のワ行を持ちます。

(一般の解説書では子音と母音の組み合わせといいますが、これは音韻音声のことで、心をあらわす言語のことではありません。こころをあらわす古事記の言語論では父韻と母音の組み合わせで心の子音ができるのです。これは全世界の言語論とは扱いの基盤が全く違います。)

古代のスメラミコトは全くもって超天才であったことでしょう。そうでなければ財力も武力も無い一万年も前から代を継いで権威を持続できないでしょう。過去に何の力もない天皇家は消え去る時はいつでもありました。生存競争下克上の社会なのに当然のように存続しているのが不思議なくらいです。いつか大和の心の先天の秘密が解けたときに分かるでしょう。(?)

さて、脱線の締まりをつけるためわたしなりのイマココを記しておきたいところですが、未だ未熟ですので上手く行きそうもないので、どうなることか。

いまここに生きているこころが今-未来の方向を持つには、イマココの心に未来に向かう力が内包されているからです。その典型的なあらわれが、さあ大いに述べるぞ、というオオトノベです。

例えば単純な視覚をとってみても、視覚もイマココでしか見ていないのに、常に次々見ていき眼をつぶって世界を遮断することがありません。視覚で何かを確認を求めているわけではないのに、眼を開けて見続けることに反することをしません。ここにあるのが、父韻大斗乃弁(おほとのべ)の神、言霊リの動力因です。

この動力因のあらわれは「斗述べ」、弁(わきま)えられた識別を実現していく、として螺旋上昇状に今-未来のイマココの一点の時点に内包されています。今を抜け出した隣の未来に父韻大斗乃弁(おほとのべ)がいるのではなく、イマココに他の神と共にいます。今の時点に未来に導く動力因が含まれていなければ、未来には行けません。

その動きの反対を述べるのが、生きた気を取り除いてしまう「生き剥ぎ」でしょう。

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七、逆剥ぎ、 (天津罪) ( 於母陀流(おもだる)の神 ・表面で留まらず飛び出す

逆剥は性さか剥ぎであります。性さかとは現象の実相を決める八父韻の働きの事です。逆剥とはこの八つの父韻の並びの中から一つ乃至二つのものを無視・抹殺する罪のことであります。例えば信仰行為に於いてタカラハサナヤマと並ぶ父韻の並びの中から、信仰に於いて最も必要である筈の主体性の確立を表わす言霊タの自覚を抹殺し、教祖の教えをそのまま暗記させ、教団の利益にのみ奉仕させるよう洗脳する行為等がそれに当りましょう。最近の宗教団体による詐欺行為などはその典型であります。また近年の教育にみられる「偏差値」による受験勉強なども逆剥ぎの傾向が充分窺えます。双方共、信仰または教育の真の目的を成就する手順の中の何らかを無視した事の結果であります。

以上、島田正路著 『大祓祝詞の話』 による。

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於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ。(アの性質)火花の先端にて、表面性。精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻 ・開顕・開発力

意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働き。

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これも恐ろしい名付け方ですが、逆(さか)は坂(さか)と同様に性(さが)の意で使用されています。天津罪のそれぞれの名前の内容は全て精神意識の性ですから、ここでわざわざ逆というからには、何か特別な意味内容があるかもしれません。

性といえば何でも性と言えてしまいますので、性で無いものを探す方が難しくなります。性であるのにそれを無視して自分が創造した自分が考えた、自分がまずいるのだというような主張は返って逆さまとなる性でしょう。

配当されている於母陀流(おもだる)の神、言霊ヒの表面に完成する働きにならないことと、逆さにすることを思って罪を作ってみます。

切手を貼る場合、逆さにすると、ひっくり返した切手に封筒を近づけるとか、字を書くのに鉛筆を固定して紙を動かすとか、包丁できるのでなく野菜の方を動かすとか、葉っぱが枝から出てくるのではない、葉から枝が出てきたりするような心の持ち方があります。

父韻の働きが母音の実体に働きかけに行くのに、逆さにして、母音実体が自分に働きかけてくるのを当てにしたり待ち焦がれたりすることもあります。相手対象である実体側に思いを寄せると、何か実体側が自分に働きかけてくる感じを得ます。

逆剥ぎとはこのような心の運用をいうのでしょう。自分で表現する実体と働きが分離剥がれてしまい、自分が実体側にいて相手からの働きかけに応じることになります。

また、われわれのように自覚無くしゃべる時には間違え逸脱があるのが当然で、そうなのに自分の喋っていることは正しいなどということが、当然間違うという性に反しています。

われわれのいう正しい意見などというものは高がしれていて、文献にあるだとか、過去にあっただとか、権威者と同じでこう言っているだとか、統計・数字はこうだとか、実験ではこうだから、等々といった外部との一致を拝んでいるだけのものです。

論理的にはこうで、客観的にはああで、他の人を納得させることができるとか、感情的でない主観的でないとかもいろいろありますが、正しかろうと間違っていようとそもそも主張することが性としてありますから、正否などはひとまず脇に置いておける問題なのです。

言霊ヒは表面を飾り表層での判断をする働きになりますので、思い付きの判断、一目惚れの判断というようなものでしょうか。

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天石屋の段には天津罪に対応する言葉が多くあります。

畦はなち、溝うめ、くそまりちらし、あめのフチコマをサカハギにはぎておとしいるる、。

この四つが出てきますが、言霊父韻に対応させますとチイ・キミシリ・ヒニの始めの二つと終わりの二つです。順番もそのままです。チ、イは全体がそのまま出てくることと全体の持続、ヒ、ニは全体の表層と全体の中心に関しています。偶然でしょうか。

あるものの存在につての見方にはそのものの全体を見るとき、この全体の四種の見方と他の四種の見方があります。机の上のスーパーの袋は、そこに全体としてデンとある(チ)、全体があり続ける(イ)、さらに全体から受ける印象には表面を見せ広める(ヒ)、買い物の中身があることを示す(ニ)があります。

この全体はさらには、前(過去)から続けてある(キ、ミ)こと、立てた規範に全体を引き寄せる(キ)と立てた規範を全体にしてしまう(ミ)と、それにこれから(未来)もそこにある(シ、リ)こと、選ばれた全体が静まっていく(シ)と拡大拡がる全体(リ)、とをも含んでいながらそれぞれ別々の様相を見せます。この全体がサガとなるものです。

上昇円環破り。

ものがあるという簡単な事を取り上げてもこの八種全体を全て統体としていなければ、そこに物があるとはいえないのです。しかしところが、意識においてはこの円環を破り逸脱していくことが普通に行われていきます。どのようにかと言えば、それが現象を作って表現しものを客体化することによってです。

自覚の無い全ての表現現象はこの逸脱の内にいます。自分の考えつくだけのこと思いつくだけのことがが原点ですから、自分では良くできたと思っていても、他の人は簡単にその円環を破り欠陥なり気付きなり新たな賛同視点などを与えてくれます。つまり、いずれの側からもそれぞれの欠けた円環を表現し合うということになります。

宣長は古事記伝で、アマテラスがスサノオの、悪行に対して「我那勢之命(アがナセのミコト)」と言っていることに、弟を親愛の眼差しで見ている心が感じられ、はなはだありがたいお言葉である。」といってます。

自然の情愛をいうと同時に、精神性能でいえば逸脱、間違え(悪行)は先天の思惟運用に自然に含まれているということでしょう。

(表現すること自体が逸脱の形のあらわれです。少々大げさに言えば、無自覚な思惟運用では逸脱して当然ということでしょう。逆に言えば、誰もが間違え、正しい規範を知らないのに、どこに間違えがあるのか、ということもできるでしょう。正しいと主張すること自体が間違いということで、何でもなく間違っていることが正常なのです。仏教を真似した言い方でした。)

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黄泉国(よもつくに)で黄泉軍(よもついくさ)に追いかけられる段落にも「さか」が出てきます。

「黄泉比良坂(よもつひらさか)」

黄泉は客体客観世界、ヒラは紙・葉・花弁など、薄くて平らなもの、粘土板に書かれた文字、霊(ひ・心)が顕れてくる文字、坂はサカ・性で、文字・表現の原理。

「かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。」

伊織夜(いふや)坂は、言うが性、言い出すや否や表現するや否や、どんどん湧きいずる雲のように客体世界を作っていく、表現現象の性。

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八、屎くそ戸ど、 (天津罪) ( 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神 ・中心に組まれるものを散らす

古事記神話に「大嘗にへ聞こしめす殿に屎まき散らし」とあります。屎とは組む素で五十音図表を構成しているそれぞれの言霊のこと。五十音図の縦横の並びの順序の如何を考えず、バラバラにして播き散らしてしまう罪であります。須佐之男命が高天原に於ける天照大神と月読命との三貴子の協調体制から離脱し、高天原の精神構造を表わす天津太祝詞音図の組織をバラバラにして、自らが求めようとしている物質世界の法則を探ろうとして、その構成に躍起になった様子、即ち「須佐之男命、依さしたまへる国を知らさずて、八拳須心前やつひげむなさきに至るまで啼きいさちき」がこの罪に当ります。

以上、島田正路著 『大祓祝詞の話』 による。

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妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ。 (ワの性質)火花の先端にて、表面性。物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻 ・成熟・吸引力

心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働き。

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これまた汚い話ですが、神殿に糞をまき散らすなどと本気で解釈しているようです。ビニール袋があったわけでなく、持っていく途中で自分の方が参ってしまうでしょうに。大小便をしているときには無防備状態ですが、どうしたんでしょうか。

アイデアはいろいろ浮かびます。そういう人たちには、解釈しなければならないというのがあって、そこにお気に入りの解釈を持ってきてひっかけるわけです。何をひっかけるのかといえば解釈しなければならないという人の性となっているこころです。

糞はクソで、組む要素です。戸はトで止まる(陰部・ホト)。要素のことはよく知っていてばらまくけれど、全然積み木のように形にならない、組む要素の塊だけはあるが利用法を知らない、要素間の関係に疎いのでまき散らすだけとか、のそういったことでしょう。クソ(組む素)を煮詰めていくことを知らないことでしょう。

せっかく手持ちの要素を持っていても煮詰めていくことができない、物知りなどもその分野の人でしょう。アイデアも手持ちの材料もあるけれど、間違った調理法いい加減な調理をしてしまうことでしょう。クソマリを糞とするアイデアに固執し過ぎます。

ところが人間の解釈なんて勝手なもので、「現在、多くの神社の「大祓詞」は、「天つ罪」・「国つ罪」の罪名の部分はカットされています。」という記事がありました。文章そのものを削り捨てることまでしています。せっかくの心を組むべき要素材料が無駄になっています。というよりか材料を捨ててしまっているのだから、口にも出したくないということでしょう。

言霊学フトマニで解していけばそんな心配は全然ないのに残念なことです。

天照大御神が「神聖な所を汚す罪」だなんて言っていないのに、後世の解釈もしたいほうだいです。「屎如(くそな) すは、酔い醉(ゑ)ひて吐きちらす」で「吐く」ことはどうするのでしょう。

「ヒにホトつきてみうせき(死)。(梭で陰部を突いて死んだ)」 ヒは言葉・霊で、ホトは穂止で実りの稲穂が出てこない、陰部は子を産むところで、言葉の要素が組めないので子音ができない、創造現象が出てこない、逸脱した形にしかならないとなります。

この組む素(くそ)の働きが停止して、精神現象が出てこないということですが、天津罪としては先天の精神性能であることが重要なところです。つまり自覚のないわれわれには逸脱した形で現象を創造していくことになります。

積み木遊びをするときも、赤ちゃんは積み木もできません。幼児は真似して積むことをしますが、倒れないように積むことを知りません。重心を取るのはまだ後のことです。大人になると倒れないようにするばかりか、倒れそうに積んだり、倒させるように積んだりもできます。だからといって積み木の要素を全部知っているのでありません。幼児は積み木を持ってテレビの画面を叩き壊し、投げたり食べたりします。

さて、罪というのは津身(つみ)で渡して身となることで、そこから転じて身とならないことを罪というようになりました。肯定的なツミは、積み荷、ゲームでいう積み、ツモル等も同じで、相手側に渡してルール上の完了や移動や仕事の完了をいいます。否定的には、こちら側の荷実体をあちら側、あるいは心の中に表現できないことです。

阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神、言霊ニを用いれば、吾(あ)夜(や)恐れ多い(かしこ)音(ね)になり、私の意識(吾)の心の表面部でなく見えない部分(夜)がおそれ多くも創造現象(音)となって顕れることで、その反対が罪です。

心の中心部を積み上げ形にすることができず、「吐きちらす」、ハキ散らす、言葉の気(組む素)を散らすことになります。

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参照。

折口信夫は、天つ罪は元は「雨障(あまつつみ)」で、梅雨の時期に農民が忌み蘢ることを指していたが、それが「天つ罪」とされ、日本神話におけるスサノオ命が高天原で犯した行為(岩戸隠れを参照)と解釈されるに至り、それに対応するものとして「国つ罪」が作られたという説を唱えている。

ツミはツツミの約言であって、神怒をかうべき悪しきもの、穢れたるもの、曲がれるものを神に対してツツミ隠すの意である。故にツミはまたケガレと同意義であって、ケガレから出たケガ(怪我)なる語は、ツミから出たマガツミ(禍)なる語とほぼ同義に用いられている。ツツシム(慎)という言葉も、またツミとなるべきものをツツミ隠す動作を称する語であろう。瀧川清次郎。

まず都美(ツミ)といふは、都々美(ツツミ)の約まりたる言にて、もと都々牟(ツツム)といふ用言なり、都々牟とは、何事にもあれ、わろき事のあるをいふを、体言になして、都々美とも都美ともいふなり、されば都美といふは、もと人の悪行のみにはかぎらず、病ヒもろもろの禍ヒ、又穢(キタナ)きこと、醜きことなど、其の外も、すべて世に人のわろしとして、にくみきらふ事は、みな都美なり。 万葉の歌に、人の身のうへに、諸のわろき事のなきを、つゝみなくとも、つゝむことなくとも、つゝまはずともいへるは、今の世の俗言に、無事にて無難にてという意にて、即チ都美なくといふなり。宣長。

罪「つみ」というのは体を「包む身」という意味で、すばらしい神様からの体を包んで隠してしまうということである。春日大社葉室頼昭宮司。

共同体の「和」を乱すものが「罪」であり、「みそぎ」とは、共同体が「和」を回復する方法である。ひろさちや。

ツミという語は、ツツミ(包、障)と関連があるかも知れない。ツツミは、ツツムの名詞形で、事故とか障害の意である。川の堤は、水の流れをせき止め、さえぎるものだが、ツミも禁止を破って神意の働きをさまたげたり、さえぎったりするわざの意と解される。西郷信綱。

(以上一見コジツケのようにみえる罪の解も、コジツケを可能にする日本語のクソ(組素)から始めれば、いいのですが、皆さんもどうぞ参加してください。)

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