08 (ニ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。

(ニ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。

(イ--意思の発動)

チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)

イ--以ちて、(や行のイ)

キ--伊耶那岐の命

ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、

シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め

リ--成せ」と、

ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、

ニ--言依さしたまひき。 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神

(ヰ--意思の帰還)

ニ--言依さしたまひき。 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神

「この舌を操作して言葉を創造し、その言葉によって後天の現象世界を整備、発展させなさいと命令し、委任した、ということです。」

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妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 (ワの性質)火花の先端にて、表面性。なりさま、実体。過去-今-全体。

物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻

「言霊ニ。この心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻、これが父韻ニであります。」

心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働き。

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ニ・言依さしたまひき 、 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

チイキミシリヒニの循環の最後に来ました。心の動きの中ではチイキミシリヒニは一回だけしか賽子を振ることができないゲームメンバーのようで、全員が一巡した後で新たに次回の順位を俟ちます。待つといっても数分の一秒にも満たない時間で、それを古代大和は発見したために世界歴史を創造する立場に立たされたようなものです。

世界には多くの国がありますが、未だに世界体という自覚した世界はありません。世界体からみれば各国は要素に過ぎませんが、世界を自覚した運用主体が無いために独立国という名目を与えられて勝手なことをしているわけです。

もちろんこの世界体の運用は世界朝廷を司るスメラミコトであって、国会議員だとか民主主義だとかは必要とされません。フトマニ言霊学の運用に長けたものが三名いればいいだけのことでしょう。

話が逸れているようですが、自我の成立と世界体の成立とを重ね合わせることもできます。というよりもこれからは日本の自主憲法だなんて言う狭い心では、世界の運用は出来ません。多くの分野で、普通の生活上でも既に一般の人たちは世界を感じているですから。

これは「ワ・和・輪」の大和しか考えつかない自然な構造(言語構造)の中にいるからです。大和の日本語だけが世界体を考えることの出来る構造を持っているということは、全世界がもともと日本の相手対象となっているということです。

大和の日本語を良くみれば、大和の日本だけが自我を主張しない構造に造られています。他国語と他国人は自我を主語として主張しないと自分を現せませんが、大和語の日本では主語など無くとも自他ともに「わ」が結べる構造になっています。

これを他国人に納得させることは出来ません。主語が無いと理解が出来ないから、自分が理解できないことは世界も理解ないことになり、我を通すことになります。自我を成立させようと進めてきましたが、これは主語を持たないと何も指し示せないということではないのです。

他国語他国人においては、まず主語を立てないと自分が立たないのですが、ではその主語はどこから来たものかというと、「神」の「カ」に相当する勝手気ままに掻き集め、仮に立て、借りた思い付き閃きを得て、他人に貸していくものです。このように自分でない「カ」で始てしまいます。

神の「カ」で始める他国人に対して大和では「イ」で始まります。チイキミシリヒニのイはや行のイで、ここでいう「イ」はチイキミシリヒニ含まれていないのではなく、それの元となる「イ・ヰ」のことです。

せっかくチイキミシリヒニをやってきたのに、「イ・ヰ」を持ち出され、大和の日本は「カ」出なく、「イ」から始まるなんて言われてもピンと来ません。後に説明したいと思います。

古代大和においては神を拝んだ(おろがむ)ことはありません。古代においては古事記の神などというものは存在したことは無く、「いつく(斎く)」ものでした。

斎くといいますと、現在では心身を清めて神に仕えることになっていますが、本来は「神」を使用することなのです。

あちこちの啓示神示なるものでいわれる、次元の上昇とかどんでん返しとかは、人々が神を拝むことを止めていつく・斎く・五作る・自覚を持つことをいいます。

日本においても「神」という言葉に囚われている限り他国と同様に、世界体のことは理解できずスメラミコトは国連の民主的に選ばれた長ぐらいにしか思えません。

ニ・言依さしたまひき 、 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神は「あやにかしこき音」で、なんとも不思議なことに賢明な畏怖の念に耐えない優れたね(音)という神さんです。

「言依さしたまひき。」は、天の沼矛で言葉を授け、言依賜也(ことよさしたまいき)で、「よさす」とは、「任」の字を書くこともあり、何か事をその人に委任して執行させることである。(古事記伝)

言葉において「依(世、四)さしたまひき」でウアオエの四つの世界を指し示し提示する事です。

ものの成り立ちを感じるときにはどの場面でも感じとることが出来るでしょう。あるっていうことは不思議だね、自分がここに居るって「あやかしこ」だねという神さんです。こころの奥底に何かが見つかったときの想いです。

もしここで、感じられた「あやかしこね」をこういうものだ、これを感じている自分がいるとなれば、ここに「あやかしこね」を含んだ自我が成立しますが、成立してしまったことを指すのではなくその直前です。沼矛(舌・言葉)を授けられ、心の奥底(阿夜・アのよる)に「何か」を得る処までです。

この「何か」を、ヰに渡してあらわすと自我になります。ではチイキミシリヒニではまだ自我が出来ていないのかと疑問を持つことと思います。結果現象としては、イ・チイキミシリヒニ・ヰ、の全部を通過しないと一巡していませんので現象しません。

チイキミシリヒニの「ニ」は、意思の発動の「イ」に似たものが煮詰まり、心に継ぐ二番目のものとして出てくるものです。(これが「二二(不似)は晴れたり」を不似は解消できたという所以です。富士山とは関係ありません。)

ギミの命は「-「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め、成せ」と、いわれています。ここでいう「国」はく・にで組んで似せることで、イの意思の発動に組んで似せて、その内容を表現する言葉を作り、実在現象にしていくことです。

ニニギの命といいますが、二のその次ということで三次的になります。フトマニ言霊学原理がその一、次が原理内容を表明する言葉、その次が言葉の内容を実行すること、つまり我々人間のことです。

では、イ・チイキミシリヒニ・ヰでことが運んでるのなら全ては円満なはずではないのかとなります。どこにも逸脱が無く間違えは無いことになるはずです。

本来はその通りです。間違え逸脱は人間が勝手に造ったもので、人間はそれが出来るのです。

電車が鉄路を外れれば逸脱だし、陸上競技で隣のトラックに入ったら逸脱だし、キーの打ち違いも逸脱です。物質現象界では逸脱は目に見えますが、思考概念世界では自分の思考は全て正しいというところから始めていきます。

自分が思い付き閃けば既に正しいとか少なくとも自分の考えだとかになっていきます。自分の主張は自分から出てきたものと思っていますから、聞き手も無く比較も無く反省もなければ唯一の考えになってしまいます。

人間は二の二から始まって三次的な主張しか出来ないのにいるのに、自分から始まっていると勘違いしています。これも神の「カ」で始めたせいです。

天照す大御神は、 「これのカガミは、もはらア(我)がミタマとして、ア(吾)がみまえにイツクがごとイツキまつりたまえ。」と言いました。

「イ」で始めなさい、と。