タカ(高)アマ(天)の原での父韻の展開

古事記の冒頭より。

天地初發之時。於2高天原1成神名。天之御中主神。<訓2高下天1云2阿麻1下效此>

訓読:アメツチのハジメのとき、タカマノハラになりませるカミのミナは、アメノみなかぬしノカミ、<タカのしたのテンをヨミテあまトイウ。しもコレニならえ。

原文では、テンをヨミテあまトイウ、と注意されているのに無視されています。しかし指示通りに「アマ」と読んでも、何故わざわざ訓読の注意書きがあるのかを千年間理解してきていません。

冒頭の天地をアメツチと読み、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す、を略したものであると読むと同様に、高天原はタカアマと読み、タとカのア(吾)の間(マ)の原を、を略したものです。

高天原はどこかの高原地帯や場所でなく、人間存在の高原、つまり頭の意識に展開する原っぱ(言語規範音図)のことです。そこで展開される人間に特有の自覚された展開が「タ」で始まるか、それとも無自覚な展開が「カ」で始まるかを示しています。意識の活動が開始されるその初めに関するものです。

この冒頭に掲げるさりげない古事記の注意書きこそ、これからの人類の精神文化と歴史の創造を司る源泉となるものです。

今後、ここからスメラミコト、日本の歴史のみならず世界の歴史をスメル方が出てくるわけですが、いまのところそういった兆候は無く、ことの重要さを感じ少しは聞き知った者達の言霊学を理解する努力が継続しているだけです。

そこで私も底辺を少しは拡げるために多少のことを口真似のように書いておきます。

最初に何故「天」を「アマ」と読まねばならないのか、タカアマ(高天)はタとカのア(吾)の間であるのかを、解説したものを孫引きしておきます。

--- 引用開始 ----------------------------

ここまでに母音ウオアの三つの次元宇宙に働く八父韻のそれぞれの配列について説明してきました。これら三つの配列を見て気付く顕著な相違について少々お話しをしておこうと思います。

それは三つの配列のそれぞれの最初の父韻についてであります。

ウとオの次元に於いては父韻キで始まりますが、アの次元ではチで始まることです。

この相違は当事者の心構えの如何なる違いを示しているのでしょうか。

次元ウ・オの宇宙に働きかける父韻の初めはキであります。

キは先に解説しましたように「精神宇宙(心全体)の中からある一つの記憶または経験を意識の中心に掻き繰って来る韻」であります。

このことに示されますように、心の動きの初めから主体と客体が分かれています。

心の先天構造の中に意識の萌芽とも謂える動きが起こる事、古事記神話の冒頭の文章「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神(言霊ウ)、・・・」と示されている人間生命の本体である「精神宇宙全体と、そこより発現して来る主体と客体がまだ分かれていない意識の芽(言霊ウ)の双方とも、ウとオの次元の活動意識ではネグレクトされている、という事を示しています。

平易に表現しますと、次元ウから起こる産業・経済活動と次元オの学問の活動では、人間生命の全人格がそのまま活動の本体となって初動するという事はない、という事が分かります。

次元ウの活動の初めの父韻キは「売ろう、儲けよう、・・・」の意識であり、次元オの学問に於ける父韻キは「従来の説に対する疑問」であります。

それに対して次元アの宗教・芸術活動の最初の父韻チは「精神宇宙がそのまま活動となって現われ出る韻」であり、その活動が人間人格全体の感動から始まることです。

宗教活動では愛という感動です。愛という経験知識ではありません。芸術活動に於いては美的感動から始まると言うことが出来ます。(愛からでない宗教活動、美の感動の感じられない芸術作品がないわけではありませんが。)

第四番目の母音エの宇宙に働く父韻の説明に入りましょう。

その八つの父韻の配列は、チキミヒリニイシ(タカマハラナヤサ)です。

この配列は人間の実践智と呼ばれる智性の原動力となる並び方であります。

実践智は人間社会を創造していく力でありますが、その最も典型的なものが五十音言霊の法則に基づく古事記の所謂「禊祓」である人類文明創造の原理、八咫の鏡であります。

五十音の言霊によって結界された清浄無垢な精神世界を古事記は高天原と呼びますが、その名称はこの実践智の父韻の配列タカマハラナヤサから来ているのであります。

エ次元の八父韻の配列は前のア次元の時と同様父韻チで始まります。

アの次元の父韻に於いては、その行為の初めが人間の全人格の感動である愛の心または美の感動から起こると説明しました。

エ次元の行為の初め父韻チも全人格の発動である事に違いはありませんが、エ次元の行為の典型である禊祓で説明しますと、その全人格とは言霊の学問で教えられます人間の心の全景であるアイウエオ五十音言霊図の事となります。

禊祓と謂われる人類文明創造の行為の初めは、人間精神の全構造である五十音言霊図が心の中に姿を現わす事から始まります。

--- ここまで引用。「言霊父韻について その二。 島田正路」から --------

何事かを始めるにあたっての「カ」と「タ」の言霊。

この二つの場合の古事記の記載を見ると。

カ)。結果現象から始まる場合。

『 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。

ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。』

伊耶那美は客観客体現象側で、心の動きの初めから主体と客体が分かれています。

イザナミに逢いたいと言う欲望の主客の分かれたものから出発している。

タ)。全人格の規範から始まる場合。

『ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。

かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。 』

あはぎ原は先天意識規範で、人間精神の全構造である五十音言霊図が心の中に姿を現わす事から始まります。

自分となる自分を律する意識規範を立てている。

ーーーーーーーー

前者、カで始まるのはごく普通なので書くまでもないことのようです。カレーを食べたいからカレーを食べるというのにおかしいところはありません。

ところが古事記ではそれを黄泉の国に入るとしています。

どういうことでしょうか。

カレーは当の本人ではなく、本人は食べたいという意識の方です。ここに既に食べたいという意識とそれがむかう相手対象との間に乖離が生じています。

この主体意識を得るためには相手対象の国に入らねばならないというわけです。

ところがカレーはカレーで、そこにあった今あるこれから成る物で実在世界のものです。

意識は他者としてある物に立ち向かい、その物を自分に引き寄せ掻き繰(く)くることで、自分を実現しようとします。

しかし何時までも自己と他物という対立のままですので、ここにそこに創意工夫とか知識とかの諸々の自分の関心事がくっつき加わってきます。

--------

後者、タで始まる場合では異なってきます。

タでは自己の全体を最初に現わします。前に食べた忘れられない味であったり、習い覚え聞き知った限りのカレーとはこういう物だという思いであったりします。

この場合にはカレーに関する自己の修得した全構造がそこにありますから、自己意識と相手対象となるカレーが同一です。

同一といっても時の流れと共に変化はありますが、常に最初にあらわれてきたカレーとはこういう物だという自己の持つ構造物の中で処理されます。

手持ち材料の関連性、そこから起こる時処位、不明瞭さや選択のあり方などが、最初の思いから外れることなく進行していきます。

--▼▼▼-- ここから以下未完 --▼▼▼---

--▼▼▼-- ここから以下未完 --▼▼▼---