ヤマタノオロチ、原点スガソ音図の成り立ち



訓読:かれやらわえて、イズモのクニのヒのカワカミのトリカミのトコロにくだりましき。

このおりしもハシそのかわよりナガレくだりき。ここにスサノオのミコト、「そのカワカミにヒトありけり」とおもおして、マギのぼりいでまししかば、オキナとオミナとふたりありて、オトメをナカにすえてナクなり。

「イマシたちはたれぞ」とといたまえば、そのオキナ「アはクニつカミ、オオヤマツミのカミのコなり。アがナはアシナヅチ、メがナはテナヅチ。ムスメがナはクシナダヒメともうす。」

また「イマシのナクゆえはなにぞ」とといたまえば、「アがムスメはもとよりヤオトメありき。ここにコシのヤマタオロチなも、トシゴトにきてクウなる。イマそれキヌベキときなるがゆえにナク」ともうす。

「そのカタチはいかさまにか」とといたまえば、「ソレがメはアカカガチなして、ミひとつにカシラやつ・オやつあり。またそのミにコケまたヒ・スギおい、そのナガサやたにオヤオをわたりて、そのハラをみれば、ことごとにいつもチあえタダレたり」ともうす。<ここにアカカガチといえるは、いまのホオズキなり。

>かれハヤスサノオのミコトそのオキナに「これイマシのムスメならば、アレにたてまつらんや」とのりたまうに、「カシコけれどミナをシラズ」ともうせば、「アはアマテラスオオミカミのイロセなり。カレいまアメよりクダリましつ」とコタエたまいき。ここにアシナヅチ・テナヅチのカミ、シカもうさばカシコシたてまつらんともうしき。


訓読:かれハヤスサノオのミコト、すなわちソノおとめをユツツマグシにとりなして、ミみずらにササシテ、

そのアシナヅチ・テナヅチのカミにのりたまわく、「イマシたちヤシオリのサケをかみ、またカキをツクリもとおし、そのカキにやつのカドをつくり、カドごとオにヤツのサズキをゆい、そのサズキごとにサカブネをおきて、フネごとにそのヤシオオリのサケをもりてマチてよ」とノリたまいき。

かれノリたまえるママにして、かくマケそなえてマツときに、かのヤマタオロチまことにイイシがゴトきつ。すなわちフネごとにオノモオノモかしらをタレテそのサケをのみき。ここにノミえいてミナふしねたり。

すなわちハヤスサノオのミコト、そのミハカセルとつかツルギをぬきて、そのオロチをきりハフリたまいしかば、ヒのカワちになりてながれき、

かれそのナカのオをキリたまうときミはかしのハかけき。「アヤシ」とおもおして、ミはかしのサキもちてサシさきてみそなわししかば、ツムガリのタチあり。かれこのタチをとらして、「あやしきモノぞ」とおもおして、アマテラスオオミカミにモウシアゲたまいき。コはクサナギのタチなり。


訓読:かれここをもて、そのハヤスサノオのミコト、ミヤつくるべきトコロをイズモのクニにまぎたまいき。ここにスガのところにいたりましてノリたまわく、「あれここにきまして、アがミこころスガスガし」とノリたまいて、ソコになもミヤをつくりてマシマシける。カレソコをばイマにスガとぞいう。

このオオカミはじめスガのミヤつくらししときに、ソコよりクモたちのぼりき。かれミうたヨミしたまう。そのミうたは、「やくもたつ、いずもやえがき、つまごみに、やえがきつくる、そのやえがきを」。


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解読・ヤマタノオロチ

ヤマタノオロチの段落は怪物退治のお話ではなく、スガソ音図と呼ばれる初歩のまだ赤ちゃんのようなういういしくすがすがしい意識段階の構造機能を音図にして、取得するお話です。


前提。

スサノヲは髯を切られて下界へと追放されました。髯は霊(ひ)気(げ)で、霊気・ひげ・が無いため拠り所となる自身の音図はありません。

オオゲツヒメ、カミムスビから授かった五穀・意識の五次元世界と天賦の判断力としてのトツカのツルギの他に何もありません。

スサノヲはいわばゼロからの出発ですが無色地のキャンバスが用意されています。


かれやらわえて、イズモのクニのヒのカワカミのトリカミのトコロにくだりましき

出雲の国:地名にある出雲の土地に降り立ったのではなく、意識のいず(イズ)み湧き出す組んで模(モ)索する精神の国にいるということです。まだ音図を持てずにいますが、意識の五次元層ははっきりとあります。

出雲にある川に降りたことにより実在母音層・アイウエオ・が現れ、父韻の余白も現れました。というのも川は言霊音図の象徴となっているからです。左右に両岸があってそれが行の主体側と行の客体側となって上流と下流があって子音の生まれる流れもあります。ただ動韻である父韻が見つかりません。

そこでスサノヲは父韻の居場所を求めて音図の上段よろしく上流に向かいました。上流には源流が父韻としてあります。

ヒの河上 : 肥・ヒ・の川とは霊・ヒ・の精神意識のことで、これからスサノヲの、我々の、音図作りが始まります。河上とは言霊音図の源流。

トリカミ : 父韻の別の象徴で、鳥神・行ったり来たり飛び交う先天の動韻です。音図作りといいますが先天的に原型は与えられています。

トコロに下りましき : 下りましきというのはオノコロ島の段落で天の浮橋から島をコヲロコヲロと産んだことに対応しています。コヲロコヲロはオロチのオロと対応していますが今度は娘を喰うです。皆子音産みに関しています。トコロは問う心でありまた、十の心・父韻でしょう。十と八の使い分けは先天を重視するかどうかによります。


このおりしもハシそのかわよりナガレくだりき。

おりしも : 父韻が動韻として働き始めるや否や実在母音も意識し始めるというのが、おりしもです。

はし : 天の浮き橋から落とされた子音言葉の象徴です。(と同時にヤマタノオロチでもあります。)後にこの川はヒのカワちになりてながれき、になります。血になるのではなく、地に成ります。降ろ地・オロチのチ、アメツチの吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成すのチです。現象子音です。


ここにスサノオのミコト、「そのカワカミにヒトありけり」とおもおして、マギのぼりいでまししかば、

その河上に人ありけり: スサノヲは父韻を見つける前に現象子音を見つけました。私達は通常現象子音に囲まれ囲いつつ暮らしています。子音創造には父韻が必要ですが、ということはそれならば、父韻の存在も身近にあることになります。(まさかヤマタノオロチが・・・)

そこで出会う三人の姿は丁度父韻の無い音図(娘は八人いる)の格好をしています。


オキナとオミナとふたりありて、オトメをナカにすえてナクなり。

泣くなり : オキナとオミナが泣くだけでは鳥のさえずりと同じで何の力もありません。ナキサワメノ神は腹ばいして泣きました。

 そこでスサノヲは泣く替りに問いました。ナキサワメの大げさな腹ばいからすればおとなしい限りですが、スサノウは川を血の海に変えることを後にやります。

オトメ :ヲ十芽。現象子音となる十の意識の芽生え。(オトメ八人で一体)


「イマシたちはたれぞ」とといたまえば、そのオキナ「アはクニつカミ、オオヤマツミのカミのコなり。アがナはアシナヅチ、メがナはテナヅチ。ムスメがナはクシナダヒメともうす。」


いましたちはたれぞ :登場人物、

オオヤマツミ :言霊子音ハ。ヤマの神、八間(父韻)の神。

アシナツチ・テナツチ :地に現象子音となって付き(ツチ)それぞれ言霊の霊と音声をになう。耳を叩く現象となるので、客体相互に認識し合える。二人とも父韻ではないがそれによって生まれた。

(参照:つぎにカゼのカミ、ナはシナツヒコのカミをウミマス。(息、心)

つぎにキのカミ、ナはククノチのカミをウミマス。(気、発声)

つぎにヤマのカミ、ナはオオヤマツミのカミをウミマス。(父韻、八間)

つぎにヌのカミ、ナはカヤヌヒメのカミをウミマス。マタのナはヌヅチのカミとモウス。(耳、聞く)

クシナダヒメ :櫛名田秘め。櫛は五十音図に縦の切れ目を入れた形をしている。そこに言霊の名を与える田のように秘めている様子をしている。五十音図で八本の歯が揃わなくてはならない。

ハヤスサノオ: ここでのスサノオは髯・霊ヒ気ゲが無いことに注意。

また「イマシのナクゆえはなにぞ」とといたまえば、「アがムスメはもとよりヤオトメありき。

泣く :音図の父韻は八ヶ所にあるので、娘八人全員が揃わないことを泣いている。スサノオにとっては先天の父韻ではない。

元より八乙女: 元より八で一体の発見をしつつ、完全に揃った父韻を頭に描く。


ここにコシのヤマタオロチなも、トシゴトにきてクウなる。イマそれキヌベキときなるがゆえにナク」ともうす。

コシ: 子供の四種類、子四。意識の四次元、ア感情、ウ欲望、エ選択、オ経験。イ意思は現象として顕われない。各次元は八個の子を生める。

ヤマタノオロチ: 八間田の、一つ身だが八つの間を田として持ちそれを直接に主張する、蛭子、淡島のような存在。

トシゴト: 各年に一個、つまり八個の一つ一つは独立している。一つ一つしか食えないのに。

コシノヤマタ: 音図には四×八で、三十二個の現象子音元素が配当される。


「そのカタチはいかさまにか」とといたまえば、「ソレがメはアカカガチなして、ミひとつにカシラやつ・オやつあり。

形: 意思の動韻そのものは形としては現れない。それを形として現せるようにしたのがスメラミコトの偉いところ。

音図の形は幾つかある。平面からの四角いアイウエオの言霊五十音図と、父韻の機能を強調した八角形の円盤であるヤタノ鏡と、天の御柱八尋殿形式の立体図と、ミひとつにカシラやつ・オやつありで立ち上がったオロチ形式の、四つの形がある。

オロチ退治の理由: 最後の四番目の形式は現実にあって迷惑をかけているとしても、そぐわないので退治しなければならない。何故なら身一つに頭、主体の目標八つ、尾、客体の結果八つは同時に一つ身に入らないし、また、一つ身の意見を全動韻から来たものと強制することも、一つ身の意見を全結果の八つに帰結するものと強制することもできない。身一つに父韻の展相は八つあるが、全部を同時に身にまとうことはできない。それを現したオロチは怪物となる。ところがまた現実の思考、意識の方ではそういった主張は意識の蛭子、淡島同様よくあることだ。

一つ身の意見を無理やり八つの動韻から導き出したり、全部の結果に帰結させたりすることはよくある。主客の一致が見通せないのに欲望だけはある。


またそのミにコケ・ヒカゲまたヒ・スギおい、

その身に: オロチを音図とみなしてみると当然の枠組みとなる主体側客体側子音と動韻とそろっている。

コケ・ヒカゲ: 五十音図の結果客体側。半母音側。

ヒ・スギ: 目的主体側。母音側。

一方身に付いている意識の主体側はスギの幹のように他を省みず真っ直ぐであり、日陰であっても苔むすのは生命の次元となるところでは客体のこととして当然である。谷神は死なずとある通り母音列を受け持っている。


そのナガサやたにオヤオをわたりて、

八谷八峡: とにかく長く巨大な、つまり日常茶飯事身近な存在だということ。隣を見ても前を見てもいつ見ても目につく蛭子のような一般的な存在としている。原罪に相当する。

これはオロチの実在次元の普遍性を指している。言霊となった時には強制を伴った一般性、権威主義、全体主義となる。


そのハラをみれば、ことごとにいつもチあえタダレたり」ともうす。<ここにアカカガチといえるは、いまのホオズキなり。

腹を見れば: 腹は原で音図の原。腹は子音が生まれる領域だが、正規の霊・ヒ・の本に生まれていない。食って産もうとしても腹を血で満たし、ヒ・霊で満たせない。赤くするだけ。アカカガチのアカは金木音図のその時だけの欲望充足の音図のことか?。


>かれハヤスサノオのミコトそのオキナに「これイマシのムスメならば、アレにたてまつらんや」とのりたまうに、

たてまつらんや: 櫛名田秘めによって髯無しの音図を元に戻そうとする。

スサノオの勝算はあるのか。蛭子の場合は葦(アからシ)船(天津祝詞音図)に載せて流布したが、今回はどうなる。

父韻は八つ揃わなくてはならないがどうするのだろうか。


「カシコけれどミナをシラズ」ともうせば、「アはアマテラスオオミカミのイロセなり。カレいまアメよりクダリましつ」とコタエたまいき。

ここにアシナヅチ・テナヅチのカミ、シカもうさばカシコシたてまつらんともうしき。

アメよりクダリましつ: 正規の天津スガソ音図を創る積り。しかし先天から降りましつなら髯を切られたとはいえ、先天の音図を降臨と共に与えられているのではないか。


訓読:かれハヤスサノオのミコト、すなわちソノおとめをユツツマグシにとりなして、ミみずらにササシテ、

ユツツマグシ: 身一つの乙女をユツツマグシ、五十音図、に変える。がしかし、まだ完成していない。クシナダヒメにたいして欠けているものがある。櫛によって音図の枠結び(枠組み)はできたが肝心の父韻がいない。

身自らにささして: そこで今度はスサノオがヤマタノオロチのかわりになることになる。喰うことなく櫛に変えて身に付ける、身に取り入れる。


そのアシナヅチ・テナヅチのカミにのりたまわく、「イマシたちヤシオリのサケをかみ、またカキをツクリもとおし、そのカキにやつのカドをつくり、カドごとにヤツのサジキをゆい、そのサズキごとにサカブネをおきて、フネごとにそのヤシオオリのサケをもりてマチてよ」とノリたまいき。

酒: サの気(タカマハラナヤサに到る八つの父韻の原型・タカサハマラヤナ)がえられるように。

垣: 言霊を囲い込み、五十音図の枠結びの中で、その組み合わせを逸脱することなく、正当な結論へ導けるように。平面の五十音図を母音五、半母音五、父韻八、子音三十二の垣で囲まれた間。

門: 八つの門を造り、各門の一つ一つが主体となれるように。タカマハラナヤサの横一列の枠組みが得られるように。

桟敷: 一つ一つが主体の主となって座敷を得て尊重されるように。

酒船: 酒船は父韻から出発して母音を選んでから子音を産んで半母音に到る。伊勢のミハシラと同じ構造。鏡となる音図が後にアマテラスの太祝詞音図になるとしても、今は櫛の形でスガソ音図を載せることとなる。

八塩折りの: 言霊実在の為の四次元の象徴。四主体側と四客体側計八間で枠の左右をかこみ、この枠の中を往復する。

待ち: 意識、行動の動韻となる八つの父韻が音図、垣の上段に宣(の)るのを待つ。また同時に音図の下段に載って囲まれるのを待つ。しかしスサノオはこの事、現象子音を産むことに、関しては手だてがない。


 かれノリたまえるママにして、かくマケそなえてマツときに、かのヤマタオロチまことにイイシがゴトきつ。すなわちフネごとにオノモオノモかしらをタレテそのサケをのみき。ここにノミえいてミナふしねたり。

言いしがごと: 母音世界は誰でもが何らかの意識を持って識別できるが、それが正当な意識であるかどうかは分からない。

船ごとに己も己も頭を垂れて: 音図の間には一音づつしか入れない。オロチのように一つ身の間に複数の頭は不可能。一つ船(間)に一つ頭を用意されて安心してサの気を呑む。蛭子のように安定(一般性)を求めて放逐しない。桟敷の主となったので安心して寝てしまう。


すなわちハヤスサノオのミコト、そのミハカセルとつかツルギをぬきて、そのオロチをきりハフリたまいしかば、ヒのカワちになりてながれき、

その身はかせる十拳の剣: 霊気、ヒゲ、先天の判断力(ツルギ)は無くならない。寝入ってしまったオロチの八マタの八に対して、身に付けている十ツカの十が効き目のあるものかどうかは分からない。というのもスサノオはトツカの判断力にまだ自覚的でない。その判断で感情的にクシナダヒメを娶ったに過ぎない。しかしこの事は後に九(く)さなぎの太刀を得る前承となる。八九十。

切り刃振り: オロチは一つ身に八頭八尾に固まっていたがスサノオは八つに裂いた。ずたずたにではなく、櫛の形にそって縦に。

肥の河血になりてながれき: そこで霊(ヒ)の河地に成りて、地に根付いて元通り子音を創造できるようになって流れた。しかし霊(ヒ)の流れの下流のことは分からない。

一応結果的には十つかは八マタに勝ったがしっくりこない。

     

かれそのナカのオをキリたまうときミはかしのはかけき。「アヤシ」とおもおして、ミはかしのサキもちてサシさきてみそなわししかば、ツムガリのタチあり。かれこのタチをとらして、「あやしきモノぞ」とおもおして、アマテラスオオミカミにモウシアゲたまいき。コはクサナギのタチなり。

タチ: 太刀、断ち、片刃。もっぱら断ち切るだけの判断力。

ツルギ: 剣、連る気、両刃。切り離したものを繋ぎ合わせ創造する判断力。

尾を切りたまう時御刀の刃かけき: 自分で起こした切る行為に欠陥がある事に気付きます。

怪しとおもおして: 無自覚であることに気付き、

先をもちて刺し裂き: 結果を出す以前の意識に戻ってみると、



ツムハのタチ・ガリのタチ: 摘む葉の太刀。詰む葉(八)刈り。スサノオは八の判断力の積りでヤマタノオロチと戦った。それでも勝てたのは先天のトツカのお蔭だった。

クサナギのタチ: 草なぎの太刀。九サなぎ。尾から得られたタチをアマテラスに見せたところ、クシナダヒメを守るためのものであったことが分かり、感情を考慮に入れた九拳(ココノツカ)であることを知らされた。

スサノオが持っていた十拳の剣: 未だに無自覚ではあるがそれなりに役立つ。


訓読:かれここをもて、そのハヤスサノオのミコト、ミヤつくるべきトコロをイズモのクニにまぎたまいき。ここにスガのところにいたりましてノリたまわく、「あれここにきまして、アがミこころスガスガし」とノリたまいて、ソコになもミヤをつくりてマシマシける。カレソコをばイマにスガとぞいう。

宮造るべき所を出雲の国にまぎたまいき: 音図の出所を自分の意識と同じ場所にすることに気がついて、

須賀のトコロ: 地名ではなく、すがすがしさを得た(十の・父韻)心。

吾が心すがすがし: 当初はヤ・八・ツカのタチの戦いと思われ、クシナダヒメを櫛にして櫛の垣を創ったのが功を奏し、無意識であったが九つのツカとして十ツカの剣を運用できたことがすがすがしい気分である。

宮を造り: 自分の意識に沿って音図(宮・霊屋・みや)を作り、

(参照。大宜都比売とは大いに宜(よろ)しき都(霊屋子)(みやこ)である言葉を秘めている(比売)の意であります。言霊の内容が現象として現われたのが霊屋子です。


このオオカミはじめスガのミヤつくらししときに、ソコよりクモたちのぼりき。かれミうたヨミしたまう。そのミうたは、

「やくもたつ、いずもやえがき、つまごみに、やえがきつくる、そのやえがきを」。

雲立ち昇りき: 組(ク)んで模(モ)索する意識が湧き出てきた

やくもたつ、いずもやえがき、つまごみに、やえがきつくる、そのやえがきを

八父韻を垣の配列と見据えたならば、湧き上がって出てくる八つの意識のうねりに、今こそここで創造対応するためには、八つの父韻の床の間を整え、その垣で囲った配列を乱すことなく使用しなさい


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