2・子の一木(ひとつき)、一続きのキ。

2・子の一木(ひとつき)、一続きのキ。たぐる主体側

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かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつけ)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、

名は泣沢女(なきさわめ)の神。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

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( ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾(あ)と汝(な)と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。)

人の眼は頭の前面に付いていて前しか見えません。後は頭蓋や脳みそが邪魔をして見えないばかりかその機能もありません。その代わりに意識、身体、運動が関連して振り返り見ることができます。

人の活動一般もそうであり言語活動も意識主体、物象客体、両者を取り結ぶ働きがあってその結果現われる現象ができるのは同様です。そして一般活動、言語活動、意識活動も同様であるなら、父韻の活動もまた同様です。

父韻の場合はそれ自身が働きですので、狭義にはそれ自身の働きを示せばよいと思います。父韻というのは既に元素次元の要素で父韻の構造機能は分析できても、それ以上は分析できそうにありません。

眼を開ければ物事が見えます。しかし見えた世界の何が見えているのか説明するようにされると突然事情が変わります。物事が千差万別の様相を現しまるで一つの同じものを見ているのではないような事態となります。道端に落ちたパンくずは鳩にとっては食べられる物かそうでないかくらいの相違でしかありませんが、人が見た場合には複雑な反応を得るでしょう。眼を開いて見たという行為は同じでも、人にこの相違をもたらすのが父韻です。

この違いを日常生活では千差万別十人十色各人各様と言いますが、言霊学はその違いをもたらす原理の違いを父韻と名付け、古事記により八つの神名として提供を受けています。

眼を開けて物を見る場合なら次のようになるでしょう。

1・今あると識別する世界の主体側。眼を開けて物を見た見ないの世界、今あると五感で了解している世界。

2・今あると識別する世界の客体側。1の妹背の物が今あり有り続けている世界、今あり続けていると五感が持続している世界。

3・あったものが今あると識別する世界の主体側。眼を開けて見たものが今もあり続けていることに結ばれる世界、記憶を掻き寄せて現にあるものに結び付こうとする世界。

4・あったものが今あると識別する世界の客体側。3の妹背で眼を開けて見た今ある世界を過去の世界の中身、果実とするように成果をあげようとする世界。

5・あるものがこれからもあると識別する世界の主体側。眼を開けて見たものの選択において今あるものがこれからもあるように鎮めようとする世界。

6・あるものがこれからもあると識別する世界の客体側。5の妹背で、眼を開けて見たものの選択において今あるものがこれからもあるように動き拡張しようとする世界。

7・今全体があると識別する世界の主体側。眼を開けて見た全体印象においてその表面に了解安心を見出す世界。

8・今全体があると識別する世界の客体側。7の妹背で、眼を開けて見た全体印象においてその中心内面に了解安心を見出す世界。

これら全部をひっくるめて見るという一つの行為で、実行された行為が上記のどれかとなります。一つの表現に八つの内容があります。十人八色八百万(やおよろず)。

かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、

かれここにと、場面が変わることが示されます。意識の流れの次元が変わり章が変わります。この2章では父韻について語られます。見る主体と見られる客体があって見ることができました。見られて出てきた客体側は先天・心象・物象・文字(現象表現)と形を変え、イザナミの神そのものはかむさり姿を消しました。姿を消しても消滅したわけではなく、消滅したとしても主体側の記憶概念から消えたわけではありません。いとしさ麗しさ等の感情は残り、心象、物象は残り、表現となった意識の形も残ります。

子の一つ木は、現象(子)の一続き(ひとつ)の気と木、霊と体、意識と物質で、単音であっても単語、文節、文章であってもそれらの現象(文字)となっているもはいずれも、一続きの意識(一木)の現われということです。要するに言霊です。言霊はコトタマで濁らず、言と魂ではなく、言の魂です。愛する妻を一人の子という、意識の現象に代えて物質現象を得たことになります。意識の形として残った表現現象にはイザナミの神としての先天イメージは易(か)えられて、一木(精神+物質)になったということです。

ここまででは、表現の発生する過程を始めから検討して、各自の意識規範を音図という形で手にしました。各人の主張言葉はその音図に則って表現となります。つまり、その意識規範たる音図においてしか表現ができません。

ところが音図にまでは到達しましたが、音図の客体側のイザナミが姿を変えて気である木になってしまいました。イザナギは木を相手にすることが出来ず途方に暮れます。

イザナギには大まかな五十音図、言語規範図が残されています。イザナミがいないのでこれを相手にするしかありません。悲しみに打ちひしがれていると涙が出てきます。勿論、主体の動きの純化を誘い出すための演出です。

涙は名実田で、田はいつでも言霊音図を現しています。

御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、

イザナミがいないので自らを確認できる相手方がいません。その代わり活動をこととする主体側に父韻がいます。ここでは一人で自照、自証するしかありません。それがまた物凄いありさまです。腹這いになって哭(な)くということですが、父韻の働きである名の気を最大限に働かしてみることです。

働きそのものとか動きそのものは形に見えず、形を現してくれたイザナミは神去り、イザナギの主体性を見せようにも主体が載る相手がいません。しかしだからといって形を現さないから主体がないのではありません。驚いたことに古事記は主体そのものの動きを検討しようというのです。主体イザナギは自分を相手に検討を始めます。

幾ら主体そのものを検討するといってもイザナミがいなければイザナギの宣(の)る相手がいないのですから、彼の動きの現れようがありません。そこでイザナギが見出さなくてはならないものは、物象でもなく心象(イメージ)でもなく、自分の出自を明らかにする先天しかありません。この完璧な先天があるお蔭で自分、イザナギが個別的なものとして生まれることが出来、また他者が出てきます。

ですのでここでは泣き、名の気、を 相手にします。先天の存在のАからzを身体の全体を現す御枕方から御足方で象徴しています。既に持っている和久産巣日の先天の五十音図のことです。

御枕方(みまくらへ)は、御間闇舳先で、イザナミのいない次元の暗闇の間をくくろうと意識の舳先を向けてです。相手対象のいない真っ暗闇の世界に向けて名の気を求めます。

御足方(みあとへ)は、こちらは実跡形へで、名の付いた実の足跡を探し足跡を付けた自分の形跡をたどります。いずれも自分の中だけの行為です。

自分の中だけの行為と言ってもその活動場があります。イザナミがいないからといって勝手にどこでも動き廻るわけではありません。

腹這いてとあるように、腹、原、野原をはいずり廻ります。つまり音図の原を尋ね廻ることです。そこで音として名の付いている気と父韻との合一を確認するのです。

この確認は腹で、腹に反映される母音でもって追認され自証されていきます。(腹母音の項目参照

五十個の言霊とその表音文字が出揃い、今はその言霊の整理・検討が行なわれているところです。その整理に当る伊耶那岐の命の行動を、妻神を失った伊耶那岐の命の悲しむ姿の謎で表わしています。御枕方と御足方とは美の命の身体をもって五十音図(菅曽音図)に譬えた表現です。人が横になった姿を五十音図に譬えたのですから、御枕方とは音図に向って一番右(頭の方)はアオウエイの五母音となります。反対に御足方とは音図の向って最左でワヲウヱヰ五半母音のことです。そこで「御枕方に葡匐ひ御足方に葡匐ひ」とは五十音図の母音の列と半母音の列との間を行ったり、来たりすることとなります。「哭きたまふ」とは、声を出して泣くという事から「鳴く」即ち発声してみるの意となります。

御涙に成りませる神は、香山の畝尾の木のもとにいます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。

は、名実田・ナミタ、で意識に名を付ける実質内容を持っている田のことで、その田(音図)の中で活躍働いて名付けられるものがでてきます。ここでの意識の名付けられたものは各自なりの規範から勝手に普遍性を語ってでてきます。これが十人十色の元です。

泣沢女は、名気サ・ワ芽、で得られた名の木・気を各人なりのタカマハラナヤサのサに落ち着かす(和とする)ことです。つまり得られて表現となった名の気を理想の音図の最後にくるサとして落ち着かせる芽です。この働きは父韻として規範図を支えています。

ナキサワメは芽生えの芽で自分なりの規範枠が出来たので自分で自分を見ることが出来るという、自覚に至る芽を持ったということでもあります。古事記は後に意識的な自覚に至る規範を提起してくれます。

自覚は自分において名付ける木・気(実在・内容)の落ち着く先を自らの規範内に見ることですが、それは涙に成るといいます。涙は名実田・なみた・で、名(な)を満(み)たそうと耕(たがや)す父韻の働きを指しています。

さて、御涙に成りませる神のいる場所が特殊です。香山の畝尾の木のもとにいます。山のふもとの何かの木の下にいるといいますが、勿論謎がけの象徴表現です。

香山(かぐやま)は、書く山で物象表現となったもので、

畝尾(うねを)は、田の畝、うねりの高く輝き出た音図の田から一木の言葉となって表徴された気で、

木のもとは、表現をさせた主体の元々の秘められていた創造意思です。形となって現われたイザナミはもう形となって動かないのでここでの考察の対象になりません。

全体を通して、自分の表現を見た時、現象として輝き現われるものの腹の底に自己活動の原動力(父韻)を見出したということです。主体活動はその根源としては縁の下の力持ちとして、イザナミとは違う位置に秘められていますが、そこにこそ父韻の活躍し成り出る場があります。

泣沢女の神(ナキサワメ)は 泣(鳴)き騒ぐ父韻を象徴していますが、鳴き騒ぐ芽でもあって発芽の様々な条件とマグワイをします。条件と言うのはイザナミ側に属しナキサワメは父韻側に属します。女と表記されていますが全く女神ではなく、古事記には男神とか女神とかはいません。さらに発芽の条件が全部揃っても発芽はしません。

芽生えの原動因が生きていて、自分自身の中にある力が働かなくてはなりません。生きるは五気流(イキル)で五つの生命の気が流れていることです。

発芽で言えばその条件は様々ですが、ここでは主体側だけが問題になっています。

ナキサワメとしての主体は、

一、条件の現存とその持続を感知する力があること、

二、あった条件に接続しそれを引き寄せる力があること、

三、条件と共に前に出る心とそれと一緒に動く心と力があること、

四、前記三条を全体でまとめることができ全体を煮詰める力があること、

五、そして前記四条を自分の中で活かし生きる力があること、

の五つを満たしていることです。

この五つを満たすとどうなるのか。涙・名実田を作り、意識の生産物を、現象を産み出します。

ではイザナミはどうなるのかは次の通りです。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

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それ自身で動くことのない物質の形を取った意識(イザナミ)は、動き止やまない意識の働き(父韻・出雲)と意識次元の実質内容の精気(母音・伯伎)の産物(境)である、言霊(ヒバ・霊葉)の五十音図(カサタナハマヤラの八つの間の子音)に納めてある。