言霊の循環

言霊の循環

さて先天構造の活動によって言霊子音が次から次へと三十二個、津島、佐渡の島、大倭豊秋津島――先天へ帰って行く順序について綴って来ました。頭の混乱を防ぐために図を作って整理してみましょう。(図参照)。

→宇宙(空)→先天(あな)十七音、父母音<伊耶那岐の神・伊耶那美の神→吾・脳・タトヨツテヤユエケメ→真名・物象化・クムスルソセホヘ→口・

大気中・フモハヌ→我・汝・耳→ラサロレノネカマ・真名→脳・コナ→先天あな→宇宙(空)→

言霊の循環図 小笠原孝次氏「言霊百神」より引用

言霊のことを真名(まな)ともいいます。その真名も心の宇宙の諸区分によって呼び名を変えることがあります。この区別を先ず定めることにしましょう。先天構造内の言霊真名(まな)を天名(あな)と呼ぶことがあります。次に先天から生れて、そのイメージの把握が問題となっている区分タトヨツテヤユエケメの十真名(津島)を未鳴(まな)と呼びます。まだ音を結びつけてない区分だからです。次の佐渡の島のクムスルソセホヘの八言霊は真名と呼ばれます。一般の言葉を構成して「言葉の言葉」の名分が文字通り立っている区分です。次に口腔で発声されて空中を飛んでいる区分、フモハヌの四真名を神名(かな)と呼びます。その神名が人の耳孔に入り、人の話す言葉から次第に復誦、検討、煮つめられて、再び真名として真実の了解を得るまでのラサロレノネカマナコの十言霊はまた真名であります。そして言霊ナコで話は了解され、事実として承認されますと、天名(あな)として先天構造へ帰って行きます。

以上の、天名(あな)―未鳴(まな)―真名(まな)―神名(かな)―真名(まな)―天名(あな)と変わる廻りを「言霊の循環(じゅんかん)」と呼びます。そして人間の社会の営みはすべてこの循環の法則に則って行われ、例外はありません。宇宙で何年もかかる惑星探査の仕事、何光年の遠くの星雲の観測も、または一瞬にして決まる柔道の技もこの言霊の循環の原理から外れるものではありません。

言霊の循環図についてちょっと奇妙に思われることをお伝えしておきましょう。先天構造の十七言霊が活動を起こし、次々と三十二の子音言霊が生まれます。そしてそれ等三十二の言霊の現象によって人はその先天の意図を事実として認定します。その認定する働きの三十二の子音が、起って来る事実のすべてである、という奇妙な事に逢着(ほうちゃく)します。このようなことも、言霊が心と言葉の究極の単位である、という根本原理なるが故に可能なことなのでありましょう。まるでパズルの奇妙な世界に引き込まれるような気持にさせられるものです。

上のように言霊(真名[まな]、麻邇[まに])が言葉の最小の単位であると同時に心の究極の要素でもあるということによって表わされる、一見奇妙とも思われる性能を「言霊(ことたま)の幸倍(さちは)へ」と呼びます。言霊で創られた日本語を日常語とする日本の国を「言霊の幸倍ふ国」と呼びましたのも同じ道理によってであります。今までに会報上で何回か発表したことでありますが、新会員の方も多数となりましたので、この「言霊の幸倍へ」について二つのことを取上げ説明することとします。

その第一は誰でも知っている「いろは歌」であります。「イロハニホヘト、チリヌルヲ、ワカヨタレソツネナラム、ウヰノオクヤマケフコエテ、アサキユメミシヱヒモセス」四十七の言霊を重複することなく並べて、人間の心が躍るきらびやかな現象世界を後にして、現象が生れ出て来る以前の心の宇宙に帰る心構えを説いた教えであります。四節に分けて説明しましょう。

「イロハニホヘトチリヌルヲ」この世のことはまことにきらびやかで心を惹く興味深い出来事に満ちているけれど、考えてみると、そのきらびやかに思える花もやがては散ってしまいます。仏教でそのことを諸行無常、まことに儚(はか)ないことである、と言うごとく、心の拠り所とすることは出来ません。

「ワカヨタレソツネナラム」私達が誰でも何時までもこのきらびやかな現象世界にいるわけにはいきません。やがては死んで行くのです。是生滅法(是れが生滅の法なり)、即ちこのことがこの世に生れては消えて行く儚き道理なのです。

「ウヰノオクヤマケフコエテ」きらびやかさを喜び、儚さを悲しむ一瞬々々の出来事の喜怒哀楽が頼りにならないものなのだ、と知って悩みの山を越えて行けば(生滅滅己[しょうめつめつき])、浮かんだり、沈んだりの連続の人生を卒業すれば。

「アサキユメミシヱヒモセス」はかない夢に一喜一憂して酔いしれることなく、寂滅為楽(じゃくめついらく)。即ち煩悩の苦しみを越え、極楽に住むことが出来る。

以上が言霊を土台とした「いろは歌」の解釈であります。人の心の構成要素である言霊五十音(四十七音)を重複することなく並べて、仏教で謂う「色即是空、空即是色」の法則の中の色(現象世界)より空(なる元の宇宙)に帰る心構えを余すことなく簡潔に説いた見事な歌であります。いろは歌の作られた年代は種々の説がありますが、諸説よりズゥーと年代の古い頃の、言霊原理活用時代の作と思われます。

「いろは歌」に次いで取上げますのは、所謂「ひふみ歌」です。実はこれは歌ではありません。奈良県天理市石上(いそのかみ)神宮に三千年間伝わるといわれる「布留の言本(ふるのこともと)」という文章で、四十七言霊を重複することなく並べて、心の宇宙の中にその内容として存在する「布斗麻邇」即ち言霊の原理を以って、現在の乱れに乱れている世の中を建替えし、建直して布斗麻邇の生命原理に立脚した人類の第三文明時代を建設して行く確乎たる手立てを書き記した大宣言なのであります。今講義が続いております「布斗麻邇」講座をもう少し先に進みませんと、「布留の言本」の詳細な意味をお伝えすることは少々難しいことですから、ここでは比較的簡易に解釈をすることとしましょう。まず言本の四十七文字を書きます。

「ヒフミヨイムナヤコトモチ、ロラネシキル、ユヰツワヌ、ソヲタハクメ、カ、ウオエニサリヘテノマス、アセヱホレケ」

理解し易くするために句点をつけました。原文にはありません。句点に従って解釈します。

「ヒフミヨイムナヤコトモチ」一二三四五六七八九十の十数の十拳剣(とつかのつるぎ)を以って、の意。一から十の十数を以って判断するのは言霊エの実践英智の判断です。

「ロラネシキル」ロラネとは言霊循環の図を御参照下さい。佐渡の島でイメージが言葉と結び付けられ、口腔で発声された音声がフモハヌと空中を飛び、人の耳にラサロレと波動として入って行きます。その「ロラの音(ね)」を十拳の剣の十数を以ってその内容、経過を仕切ってみよ、ということです。

「ユヰツワヌ」ユヰは結(ゆ)ふこと。ツワヌとは子音言霊発生の初め、タトヨツテヤ…のツとワであるその結論とを結びなさい、ということです。タトヨツと子音が生れて来て、タと全人格が宇宙から飛び出して来て、それが言霊五十音図の横の十音の変化と縦のアオウエの四音の次元の異なりの網の目を通って発想の意図が縦横の網の目によって濾されて、先天のイメージが明らかになり出したものと、その行き着く結論とを結びなさい、ということです。

「ソヲタハクメ」そこに現出してくる経過をタハで組んでみよ、といいます。タハとは言霊五十音の一音一音、即ち言霊で以って組め、ということです。

「カ」言霊を以ってイメージとその行き着く結論を結びますと、瞬時に心の中に「カ」と焼き付くように一つの光景が浮かび上がります。真実の実相が浮かび上がります。焼き付くような心中の実相変化、布留の言本は「カ」の一字で表わします。

「ウオエニサリヘテノマス」対処する出来事がウオエのどの次元であるか、その次元に沿うよう区別して述べなさい、という意味です。

「アセヱホレケ」アセヱの前の言葉ノマスは、述べよと訳しました。アセヱホレケは「どのような心構えで」と言います。アセとは天津太祝詞音図の上段の十音のことです。このア瀬は、古代日本の政庁に於けるスメラミコトの座であります。そのスメラミコトの心を大御心(おほみごころ)と申します。そのスメラミコトの下に集(つど)う国民を大御宝(おほみたから)と呼びました。今言本の取上げる「アセ」とはこのスメラミコトの国民に対する大慈大悲の心を言っているのです。どのようにして述べるか、を「ホレケ」と言っています。ホは言霊です。レは言霊の列、並びのことです。どのように並ぶか、一字で「ケ」と示しています。言霊循環図の津島の言霊の列をご覧下さい。タトヨツテヤユエケメと続き、先天で発想した意図が何であるか、が略ゞ(ほぼ)確定した音がケメでありました。としますと、「ホレケ」とは言霊の並びが明らかに示されるように宣言しなさい。と布留の言本ははっきり言い切っていることが分ります。

以上、言霊四十七を重複することなく並べて、文章の内容も明らかに、言霊原理を以ってこの世の中の建替え、建直しをする法則を述べた布留の言本の解釈であります。お分かり頂けたでありましょうか。

「いろは歌」「ひふみ歌」と呼ばれる二題について「言霊の幸倍へ」の話をして参りました。言霊は人為に関する人間のすべての出発点であります。道に迷ったら出発点に帰れと言われます。二・三千年前、この言霊という出発点を忘却した人類は、現在道に迷ってニッチもサッチもいかなくなりました。ちょっと見た所、やる事、為す事一切は失敗の連続です。物の道は成功です。心の道は失敗です。失敗の道をいくら考えても失敗の結果しか得られません。心の原点である心と言葉の究極の単位である言霊という単位に帰ること、これが一切の出発点です。比喩でもなく、概念でもない、心の実在と現象の単位である言霊の学を言霊の会は今後共世界に発信を続けて行きます。