イ 心の運び方 言霊イの時置師

イ 心の運び方 言霊イの時置師

人間精神進化の最終段階は言霊イ次元です。五十音言霊の世界です。その五十音言霊図を心の鏡として言霊エ次元の選択創造の心の運び方を会得しますと、人間社会・人間文明を運営してゆく最も確実な手段・方法をいつも明示することが可能となります。

イ) そして重要なことは、 この、仏教で比喩的にいうところの果位の菩薩の衆生救済の心の運び方の図式が、またとりも直さず、私達が言霊子音を自覚確認するための方法・手段でもあるのです。もちろん私達は仏陀ではなく、五十音図が心の中に確立成就しているわけではありません。けれども先に検討しました如く、父韻チキミヒリニイシのそれぞれの生命意志の活動のリズムについて知っています。

また父韻チキミヒリニイシと並ぶ心の運び方とは、いま・ここの一点における社会的創造に言霊ウである欲望と、言霊オである概念的探求と、言霊アである感情面とを、どのように選(エ)らんで運営していけば理想的社会を実現し得るかの運用法を示しているのだということを知っています。

チ) ですからいま社会的に創造活動を起こそうとする時、心に自分が学び覚え知った限りの五十音図を行動の鏡として掲げることです。このことを古事記では「衝立船戸の神」と神様の名前で呪示しています。

五十音図を神道では御船代といいます。五十音図を心の戸として斎立て(衝立)よとの意味です。

キ・ミ) その上で主体と客体の実相を明らかにし、

ヒ) 双方を総合する言葉を言霊のうえで検討し、

リ) その言霊での言葉を拡大させて、

ニ) 行動の眼目

イ) が、出来上がり行動として動き、

シ) 結論が確定する。

㐄) このような、一般にいう道徳・政治または個人的な選択行為の実行の中に、 言霊子音は一つ一つ内観自覚されていくのです。

すなわち言霊ウ次元にある欲望を主体とする人との対応行為の中に、ツクムフルヌユスの八音が、

次に言霊オ次元に住む概念的探求をこととする人に対する行為のなかに、トコモホロノヨソの八音が、

また言霊ア次元にある感情を主体とする人に対する創造行為のうちに、タカマハラナヤサの八音が、

それぞれ、言霊エ段にたって救済行為をする主体の側の心の中に心に焼き付けられるがごとく自覚されてくるのです。

と同時にこれら三種の対応行為の自己の内面の実相として、テケメヘレネエセのエ段の子音をも確認することができます。

この合計三十二子音の自覚の成就が人間精神の理想体系の実現であり、 仏教でいう仏陀、キリスト教の救世主、儒教の「心の欲する所にしたがって矩のりを超えず」の出現を意味しています。

天津太祝詞音図

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アタカマハラナヤサワ

イチキミヒリニイシ㐄

エテケメヘレネエセヱ

オトコモホロノヨソヲ

ウツクムフルヌユスウ

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言霊イの段階

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第五段階の言霊イの次元は第四の言霊エ次元の勉強修業の完成の次元ということができます。すなわちいかなる自体に対処しても誤ることなく完璧に行動し得る人格完成の次元です。そしてこの次元に到って初めて人間の思考行動がはっきりと五十音言霊図に則って表現され決定されるようになります。

第一段階から第二・三・四・五段階へ勉学が進むにつれて言霊母音ウオアエイの実在が明らかに区別され自覚されてきます。そして第五段階の言霊イの次元に一歩足を踏み入れる時、母音に続いて言霊イすなわち人間意志の展開としての言霊父韻が心に焼きつくごとく自覚されてくることになります。

第五の段階はまさに言霊の領域なのです。その領域は人間創造意志の究極的構造を言霊五十音をもって総体的に捉えた人間精神の全貌です。この次元を仏教では仏陀といい、キリスト教ではキリストすなわち救世主と呼んでいます。

まず言霊イの展相である八つの父韻の補足の方法からお話を進めることにしましょう。いままで何度もお話いましたように、言霊父韻というのは言霊イすなわち人間生命の創造意志の展開する相であります。親音であるイ・㐄の実際の働きです。そして母音ウオアエに働きかけて後天現象の最小単位である言霊子音三十二を産み出すきっかけとある韻です。

八父院はチイキミシリヒニですから、例えば父韻キが母音アに働きかけて生まれる子供はキアで、詰まってカとなります。この子音を生む行程から考えて母音ウオアエである欲望・知識・感情・道徳の現象の基底には必ず人間創造意志が働いていることがわかります。根底に創造意志が働かなければ現象は生まれてきません。この行程を心に留めておいて、人間精神の進化の第三段である言霊母音アを求める退歩の学の場合を簡単に顧みてみましょう。

本然の自己を求めんとして心の中に次々に生まれて来る現象の判断の基準となるいわゆる自我を形成している経験・知識・習性・信条等を一つ一つ否定していきます。言霊アの自覚として広い広い本来の自己なる宇宙を求めるにはただこの否定だけで用が足りました。否定に否定を重ね尽くした時、仏教でいう空なる本然の宇宙は心に自知することができました。

けれど人間創造意志そのもの(実はそれに五十音単音を結び付けますと言霊そのものとなる)の基礎である八つの父韻を自覚するためには、その否定行動そのものを更に見つめる必要があるのです。そしてその否定の行動の中に知性の原律である父韻の働きを捉えるチャンスがあるのです。

広い宇宙が実は自分の本姓であり自我であると信じ、その自覚を曇らせている従来の自我観念すなわちそれを構成している経験・信条・知識等を、それは「借り物であって自我ではない」と言い聞かせたところで従来価値あるものとして許容し、信頼して生きてきた知識や習慣はなかなか母屋から庇へ立ち退こうとはしません。

何かに感じるとそれらの知識や習慣はたちまち自分の心全体を占領してその判断の行動へおしやります。言霊アの自覚の修業は実はこの否定と失敗の連続であるわけです。それにもめげず否定の活動を心の中で続けていきついに否定し尽くした時、豁然かつぜんとして宇宙そのものが心の本姓として自覚されます。母屋が戻ったのです。と同時に、それまで自分の否定に反抗して、希望に反して現れてきたと思われていた一つ一つの現象が、そのまま現実の実相として、焼きつくような真実として、容認、是認されます。謎は即真実なのです。

仏教でいう諸法空想が理解されると、同時に諸法実相が是認されてきます。そのことを煩悩即菩薩などといいます。このときさらにこの実相発現の一瞬を凝視してみましょう。ある時は期待に反して、またある時は期待通りに現れ出てくる現象の奥に、その現象を押し出して来るごとき原動力が存在することに気付きます。

言霊ウ、オ、ア、エそれぞれの宇宙に働きかけ、刺激して、経験・知識・感情・道徳心等々の現象を惹起させる生命意志の根源存在を認識することができます。そしてその生命意志の動き方に八通りあることがわかってきます。八父韻の自覚です。言い換えて説明しますと、言霊アである自由な世界を得ようと努力した自利の行では全然意識することもできなかった人間生命意志の存在とその働きの様子が、言霊エ以後の利他の行の中でははっきりと八つの韻として自覚されて来るのです。この八つの父韻が人間生命の創造意志の現れであり宇宙自体の創造力であります。

父韻キ・ミ

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先に述べましたように自己の本姓を見ようとしてそれまで自我だと思い込んできたその構成要素の知識・習性・信条を否定し続けます。けれども小さい時から身につけた癖とか信念とかはなかなか強情で、「お前は後天的に仕入れた借り物なんだから呼ばない限り出てくるな」と幾度我が身に言い聞かせても、ある状況では必ず姿を現し否定の力を押し破ってしまいます。

否定しても否定してもその癖が出てくる状態をもう一歩踏み込んで反省する時、否定の力を押し退けて経験的に身につけた癖・信条等と結びつき、またはその知識・信条等を心の宇宙の中から自分の方へ掻き入れようとするいわばデモーニッシュな力の存在に気付くのです。これが創造意志の力です。

この掻き操ろうとする意志の働き、これが父韻キであります。

八つの父韻は実は互いに夫婦の性質を持つ二つの韻四組の合計であることは先の父韻の項でお話ししました。父韻キが心の中心からその中にあるものを掻き繰る韻であるのに対し、父韻ミは心の宇宙の中のあるものに真っ直ぐに結び着く働きの韻です。父韻キとミは互いに作用と反作用の関係の二つの韻です。

父韻チ・イ

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たびたび申し上げていることですが、父韻とは心の現象が起こる原動力である意志の働き方のことで、当然、心の現象の表面には現れることがありません。その現れないところのもののせつめいでありますので、いかに説明しようとも比喩であり、ヒントであることをご承知の上お考えください。人はある重大な岐路に当面しますと、こうしようかそれともああしようかとlいろいろ迷います。この迷うということは、いままでに経験し勉強してきて知っているAの方法をとろうかそれともBの道を行こうかの選択の迷いです。迷いに迷った末に「どう考えてもうまくいきそうとも思えない。下手な考え休むに似たり、こうなったらこざかしい考えは止めて、その場になったら全身全霊で当たって砕けよう」と決心します。

この、自分の過去の経験や知識に頼るだけでなく、自分の全身全霊を投入してことを起こす、すなわち心の宇宙全体がその時その場で全体を現象化する瞬間の意志の韻--これが父韻チであります。剣道で言えば、大上段の構えから全身を相手にぶっつけるように振り降ろす働きです。「とーっ」とか「たーっ」とかの掛け声が当然かかることでしょう。(タチツテト)

いまここに宇宙全体である全身全霊が現象化した次の瞬間、その働きは惰性的な持続的なものにかわります。この持続性の意志の働きの韻が父韻イであります。

父韻シ・リ

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本来の自己を求めて独り静かに座っていますと心の中は静まるどころか返って色々な雑念が湧いてきます。これではいけないと気を取り直して精神を集中させようと努力するのですが、 いつのまにか何かの記憶とか心配事が現れ、次から次へとそれが発展し心中に拡がり、ついには心全体を占領してしまう--といったことがよく起こります。この、心の中をぐるぐる駆け回りまさに螺旋状に心全体に発展していく動きの原動力になる意志の韻、これが父韻リであります。

螺旋状というと平面的に聞こえますので、むしろ段々に振幅を増していく螺旋階段状に心の立体宇宙全体に拡がっていく動きといった方が適当かも知れません。

作用あれば反作用あり、反対に螺旋状に求心的に中心に向かって静まる意志の動きの韻が父韻シであります。

父韻ヒ・ニ

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心の中に何かが起こり進展している。けれどもそれが何事なのであるか、もやもやしていて分からない。こういうことはよくあることです。このもやもやの気持ちが起こるのは秘匿の事態が心の中で充分に進展し煮詰まっていないためであります。

この事態が心の中心に煮詰まる根本意志の韻が父韻ニであります。

煮詰まってくると表面意識的にハッとその時起こってきた事態が何であるかに気付きます。気付くとは言葉で表現することができたということでもあります。

この言葉として意識表面に完成する原動力となる意志の動きが父韻ヒであります。

以上、チイキミシリヒニの八父韻を自己の心の中に確認する方法のヒントをお話しました。

もちろんこの八つの父韻は現象が生まれる以前の、その現象を生む原動力である先天的原律でありますのでそれ自体は決して姿を現すことはありません。それゆえどのように説明を尽くましても結局はそれぞれの人が自らの心の中で確認しようとせぬ限りお分かりいただけないものであります。

しかし自己の心の中で一度確認してしまえば全くの真理であって、 この父韻の活動こそ宇宙万物を創造させる生命の根源であることがおのずから知られるのであります。中国では古来易経がこの八つの原律を概念的に捉えて易の八卦で示し、それはキリスト教において「天にまします父なる神よ、御名をあがめさせたまえ」と二千年渇仰されてきたものであり、仏教で八正道の根本義として表現されてきたものでもあるのです。