こころの原論。天照大御神の誕生。2

006 こころの原論。天照大御神の誕生。言霊学の誕生。 ◎

問題は自分の意見を述べたり、自分の考えを主張したり、自分の気付いたことを固執したり、考えられた主観を披露することではありません。

確かに、個々のこころの持ち方感じ方はそれぞれまちまちで、考えるというこころのパターンの総体が人間文明を築き上げてきました。

文明の半分は殺戮と不幸と悪と不自由不公平の創造です。高度な発展を目指してはいますが、その反面にある暗部も同時に進化発展していきます。どの国も正義と公正、神の名のもとによる戦争です。

発展高度化のためには殺人も侵略も行なわれ、サッカーなど審判の目をかすめて大衆の前で如何に相手を蹴飛ばし踏みつけることが技術の修得として是認されています。禁止事項は原則として掲げられているだけで全員の達成する必要のない努力目標です。

これはその行為を与える側に問題があるのではなく、その証拠に受け取る側の獲得すべき目標でもあります。発展進歩の仕方方法がまちまちであっても、どちらもが同じ基本的なベースの上で考えているので、その時の力と宿命みたいなものによるのでしょう。

時の歴史はこんな調子で動いてきました。

しかし、ここに始めて自覚的な歴史運用の可能性が出来てきました。

古事記神代の巻の明治天皇から始まった解明が完成し、神代の巻とはフトマニ言霊学の呪示された世界の秘宝であることが疑いもなく明かされたからです。

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no184/no184.htm

http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/%a4%ab%a4ؤꤴ%a4ȡʸ%c0%ce%ee%b3ؿ%ef%c1ۡ%cb

◎007 こころの原論。天照大御神の誕生。天の岩戸。 ◎

誕生には誕生のその始まりがあります。

こう書けば当然のようですが、ところが考えを書くとか思っていることを表現するとかいう場合には、誕生の始まりを無視等閑にして、思ったこと、感じたこと、閃いた事からそのまま書きつらねていきます。

思ったことがちょうど具合良く当てはまり、感じたことがぴったりと自分を現しているとして、閃きが救いの神様のようになっていきます。

時には反省して自らに疑問を投げかけ、一時停車をしますがこの疑問を起こすことも閃きに依っています。

結局、出生の手順も、状況も、秘密も知らず、書くというのはこうしたいい加減な無自覚から始まるのが大半です。思ったことを素直に表現しましょう等とおだてられ、それが素晴らしいことと教育されて来ているので、要するに本人にはお気に入りの自分を開花するネタになると感じていますが、他の人には疑問を与え戦争の種になるものです。

それはそれ、あなたはあなた、あなたの主張も充分尊重しますということで、自分の主張が売れ残るのを防ごうとし、ネタの量、経験知識記憶の優劣を競いあるいは隠していきます。

自分の思いのたけを語って何が悪いのかということになります。表現の自由だろうということになっています。もちろんそれらは結構なことです。ここではそれらの依ってくる由来を訪ねていて応用しょうというもので悪意はありません。なるべく欠陥を減らして自他と持ち満足のいく方法を見つけようとするものです。

そこで欠陥不備の出所を探すと、それらは全て出来上がった頭脳内に浮かんだ知識を元にして進行していくためです。誕生には誕生のそのまた始まりがあることを忘れているからです。もしそれに気付いて誕生の元になるものから始め、その自覚を維持していけば、それはそれで完結することができるので、自他ともに安心できる結果をえられることでしょう。

天照大御神は伊耶那岐の大神が「ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照らす大御神。」とあるように左(ひたり、霊足り)の御目から生れました。自らの充分に整備された言霊規範から生れたということです。自分の力で生んだので、相手との関係はありません。

ついで、右(みきり、身切り、実を切り判断総合する)目からは月読(つくよみ、判断総合によって天照らすに月、つき、着き従いその読みを提供する)の命(はたらき)、が生れ、

御鼻(五感感覚からする欲望の象徴。人相見でも生活力、プライド、金運、精力等)からは、建速須佐の男の命、が生れる。建(たけ、田気、言霊五十音図)速須(すさ、凄まじさと澄みきった静けさ)、佐(たすける、欲望、経済界のすさましい興隆を言霊五十音によって整理して天照らすを助ける)、の命(はたらき)。

天照大御神は世界最高の思想実践規範として、伊耶那岐の大神から生れました。

生物で言えば、伊耶那岐自身から生れてきたので母親がいないということではありません。実は伊耶那岐は主体的な意志行動の本源のはたらきですから、その意志行為の対象があります。

天照は主体的実践的な側の伊耶那岐から出生していますから伊耶那岐の性質をそのまま受け継いでいます。そこで天照の相手となる方はこの世の現象界全てということになります。伊耶那岐が天照の形を借りてこの世界この宇宙を相手にするということです。

では完全な言霊規範となっている天照自身はどのように活動を開始するのでしょうか。

天の岩屋戸をおもい出してもらえれば分かる通り、スサノオの狼藉をみかねて活動を開始する前に暗黒の中に閉じ籠もります。このことは、天照大御神がこの世を前にして隠れているということで、自分の意志考えが未だに明瞭化していない、暗中にいることと同じ状態です。自分のこころが生れる以前はどこかの暗闇の洞窟内にあったという比喩となります。

さらに応用展開していけば、人生の目的を失って閉じ籠もっている、意志がなく動くことができない、物事を運用するのに(会社を、自分を、関心事を、世界の平和を、世界の征服を、等々)未だその運用者が表に出てこない、ということになっていきます。

そして岩宿戸の物語は自分のこころがどのように現れるかを示した世界初の物語なのです。生れてしまったこころ、太古からいるとされる神等から始める他の物語や、人の思考、創造行為とは違って、自分の意識が生れるその起源を解明したものです。

神が生れる物語とか出来上がった神を信じるとかいう物語ではありません。内容は古事記冒頭の十七神を物語にしたものとなっています。

こころの始まりのほんの瞬間的な出来事ですから、非常に難解です。数千年前にはこんなことが常識になっていたなんて、古代大和人はもの凄い智恵の持ち主だと思わざるをえません。

そこで当然、天の岩屋戸に挑戦することになりますが、未だに分かりません。こんなことを書いた都合上群盲象をなでる程度のものです。

天の岩屋戸。

天のは先天の、頭脳内の潜在的な活動の、

岩はいわ、五十の葉、言葉、言霊五十音、

屋は家屋、五十音図を家と見立てたもの、

戸は開く扉、こころ、意識が出てくる扉、

のことで、こころの宇宙が現象となってでてくることです。

閉じ籠もっているのは天照で、アの間を照らす、アはこころの全体的な始まりを示すもので自分自身のこころを照らし戸を開けでてくる物語です。今は暗中にある判断規範。

では。

わたしは天照大御神として岩戸の暗闇の中にいます。当面は意識はなく何も感じず考えていない状態です。そこに、まずはわたしの意識に暗闇の中で何が何だか分からないながら、何かが始まる一瞬があります。

普段何もしない意識が突然目覚める場面です。音を聞いたり、何かを見たり、アイデアが浮かんだりするその直前の様子です。脇で大きな音を出されれば否が応にも聞かざるをえませんが、聞いて何の音か判別するその根拠となるものです。頭脳内で自分が何かを意識する直前の様子で、何であるのかという判別してしまう以前のことです。

生理的物理的には受容感覚器官と脳との物質交換とか電気、科学物質の物質交換とかで、蜜柑を見た、音を聞いた、等々となっていきます。これは物質現象を物質現象で分析していくだけで、意識を説明したものではありません。

ここの場面は、天照(わたしの意識)は岩宿にこもって全世界は暗く、なんの判別するもののない世界です。

判別はできないといっても潜在的な客観対象の世界は先天的にあります。この時にわたしの何にもない無の意識に対応するものは、客観的な世界になるだろう過去と現在の全体を気付いたという今ココに表現されるものです。

潜在的にあるといっても未だ気付いたものではなく判別したものでもありません。ここでの形はそれは物でもなくこころでもない、という物心の未剖状態です。

物でもなくこころでも無いものというとおかしく聞こえますが、人が頭脳に感じる直前の世界は物と指定するものもなく、だからといってれはこころだ、意識だ感覚だと言い切れるものにはなっていません。これは各自経験できると思います。

その心は闇の中ですが、死んだものではなく、その人の全過去歴史が秘められています。一度動きだせば幾らでも時と処と次元を移動できます。暗中霧中の中でこころの振動エネルギーが揺り動かされようと張りつめ静まり返っている様子です。(これを他の古文書では天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊としてあります。)

と同時に、後に判別、選択をしていくわけですから、闇の中においてそれらの根拠を用意しておかなくてはなりません。五つの各次元の準備です。例えば、後に判別されるといっても机上の蜜柑がそのまま頭脳内に侵入してくることはできません。物理的に不可能です。では蜜柑と言われるものの何が判別されるのでしょうか。何が頭の中に入ってくるのでしょうか。

蜜柑は現象として現れる時には、五感感覚の欲望対象であったり、どこ産の蜜柑だろうスペイン産かイタリア産等の学術分類の対象だったり、芸術感情を現す絵画の静物画の一部だったり、禅坊主が出した公案蜜柑のへたの上にて踊るとはこれいかにだったりして、その実在はたんにあるというだけではありません。

これは全ての例に該当します。どのような例をとってもいいわけです。これを別に表現しますと、自分の意識に昇ってきたものを主張しているのはほんのほんの少しなものでしかない、それを自分の主張だ、個性だとするのはおぞましいということになるでしょう。でもそれが歴史です。気付いたら訂正できるのも人の意識です。

人は誰でも全歴史、全世界、全宇宙、全人類を受け入れることが出来る割りには、ちっぽけな自我に固執するものです。天照は暗黒の中にいてこの全何々の潜在的な享受者です。もちろんわたしでありあなたであります。

その享受する構造が天の岩屋戸の物語ですが、何とか突破したけど分からないところだらけのままいきます。

問題は天照がどのような全何々という宇宙をも持っていることを説明することです。しかも、現象以前の意識に昇る以前のこととしてです。

こうして八百万(やおよろず)の神々は、天の安河原で相談します。

先天的にわたしの(各自の)頭脳内(天の安河原)には現象世界となる物事を捕らえるこころが存在してきます。

これは思いつきや閃き等になる以前の全体的なもので、こころの動きが揺すられて五里霧中のなかを彷徨うところです。

●「天の岩戸開き」で滞っています。前に進めません。

◎008 こころの原論。天照大御神の誕生。天の岩戸開き。 ◎

天照大御神が隠れた天の岩戸の段落は、その原理に該当する人間意識行為の全ての解明となります。

俳句をひねるときの句が出てくる瞬間の感動はその前にわたしの眠っていた意識があってそれが叩き起こされました。人生如何に生きるか目標が見えない時わたしの意識はまだ隠れたままです。問題に突き当たりどう理解するか思い悩み、突如グッドアイデアが閃き歓びを得る時でも、閃き以前には岩戸の闇の中にいました。

このように隠れていた意識が出現する構造が岩戸の段では示されます。五感感覚によるしたいやりたいという欲望、知識を過去概念を探す知りたい欲しいという要求、また、感情感動が沸き起こりこころが満たされていく時など、自分の意識の前の状態と後の状態との成り行きの違いと、どのように意識が発生してくるかを説明しているのがここの部分です。天照自身の発生でもあります。非常に細かく分けて象徴的な暗喩だらけの難しいところです。

天の岩戸開き。

・「ここをもちて、・八百万の神・天の安の河原に神集いつどいて、」

=内と外・天の岩戸と天の安河原・頭脳内意識と外界・という状況設定のように見えますが、意識の発生する場面であることを考慮すれば、実は、両者とも天照の意識に関するものです。発生する意識とその先天性に関することです。

精神分析、分析心理学のいう潜在意識、無意識、集合意識などはできる限り過去に確認できる現象に結ばれていくもので、結局現象を現象で説明しようとするものですが、言霊学では現在今ここでの意識を説明しようとします。

ここでいわれる八百万の神とは天照の今の状況に対応した、暗中で動いていない意識に対する片割れである先天対照部分をいいます。この片割れは天照の意識が動きを開始すればそのまま天照の意識となっていくものです。

同様に天の安の河原というのもどこかにある外界の河原でなく、天照の片身の影ことを指します。

河原に集まったもの集まれるものがそのまま天照となるだろうという構造です。

岩戸の中で目覚めることなく安らかなので「安」の河原ということです。

・「高御産巣日の神の、・子思金の神に・思わしめて、」

=天照自身が「思う」のなら、高御産巣日の神がとなりますが、今は覚醒していないので、彼の影が「思う」という形になっています。(天照を彼と呼びましたがわたしが男だからで、あなたが女なら彼女となります。)その影分身の働きと実体を「子思金の神に思わしめて」と言いました。

高御産巣日の神は全体的な始まりの主体側能動側を受け持つ役目で古事記冒頭の神様で言霊アです。

これで分かる通り岩戸の物語も冒頭十七神の別の形の物語、隠れたものが出てくる、意識が発生する、感覚が起きてくる、思いつきが出てくる等々です。

冒頭には天の御中主の神がいますが、岩戸物語では「神集いつどい」という全部集合状態がそれに相当します。

世界全体に光がないのですから、岩戸の中だけが暗いのではなく河原も暗いのです。その意味で同じ暗中にいて、両者の間に川が流れていてそれぞれが接点を保っています。せせらぎの音と大勢の神々が河原を歩く時の小石達のぶつかる音は暗中でも聞こえています。

この音が後にどんどこ踊りの音になっていくわけですが、音は小石のぶつかり合うところから出てきて、河原の小石は音を出す言葉の象徴となっています。音はあっても意識が目覚めていませんからそれは言語としての役目はありません。

そこで目覚めた時の言語規範の創造が必要となります。

なぜならば人は言葉でしか自分を現さないからです。

熱い寒いの感じやしたいやりたいの欲望はそのまま思いや感じや欲望を現す行為となるように見えますが、その前に、頭脳内では体感から言葉への、閃きから言葉への、欲望からその表現言葉への橋渡しをする脳内活動があります。

身体、物象で表現する場合も同様で、言葉を発しなくても頭脳内では言葉の働きによる物凄い動きが起きていて、その言葉の動きの現象を身体、物象がなぞっていくのです。

この脳内活動は瞬間的で複雑怪奇ですが、具体的に自己を表現する以前に必ず通過しているものです。

(古事記神代の巻とはこの動きを解明したものです。これが古代において既に解明されていることが大和日本の誇りですが、今はその秘密の保持者がいるというだけです。しかしまもなく皇室が気付かされますからそこから劇的にこの世の変化がもたらされます。)

古事記のこころの原理を当てはめれば、ここの岩戸開きとは主体意識自体の剖判、淡路の穂の先別を扱ったものとなります。

主体意識が目覚めるには主体内に目覚めの根拠が形成されなくてはなりません。それが以下に続く難しい文章となっています。

・常世の長鳴き鳥をつどえて鳴かしめて、=母音を鳴らすこと

・天の安河の河上(かわら)の堅石(かたしは)を取り、

・天の金山の鉄(かね)を取りて

・鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(まぎ)て、

・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、におおせて、鏡を造らしめ、

・玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、

・八尺(やさか)のまがたまの五百津(いおつ)の御すまるの珠(たま)を作らしめて、

・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・布刀玉(ふとたま)の命をよびて、・言霊ア。

・天の香山(かぐやま)の真男鹿(まおしか)の肩を全抜(うつぬ)きに抜きて、

・天の香山の天のははか(はわか)をとりて、

・占合(うらえ)まかなわしめて、

・天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を

・根こじにこじて、

・上枝(ほつえ)に八尺のまがたまの五百津の御すまるの玉を取り付け、

・中枝(なかつえ)に八尺鏡(やあたのかがみ)を取りかけ

・下枝(しづえ)に白和幣(しらにぎて)、青和幣(あおにぎて)を取り垂(し)でて、・

・この種々(くさぐさ)のものは

・布刀玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取りもちて・

・天の児屋の命太詔戸(ふとのりと)言ほきまおして、

・天の手力の男の神、・

・戸の脇に隠り立ちて、・

・天の宇受売の命、・

・天の香山の天の日影(ひかげ)を・

・手次(たすき)にかけて、・

・天の真折(まさき)を鬘(かづら)として、・

・天の香山の小竹葉を手草(たぐさ)に結いて、・

・天の岩屋戸に・

・うけ伏せ・

・踏みとどろこし神がかりして、・

・胸乳をかきいで・

・裳緒(もひも)をほとにおし垂れき。・

・ここに高天原動(とよ)みて・

・八百万の神共に笑いき。

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コーヒータイム。

訪問者の方のブログで面白い主張を見つけました。「思いを率直な気持ちで書いているが受け取り方は読み手次第だから、読み手も素直な気持ちで感じてもらいたい、と言う書き込みです。芸術方面のブログで作品に対する反応が多様であることを受けたものでしょう。

感情感性情動の表現には自分の受けた感情は隠して相手の反応を楽しむことができます。

また、受けた感動が大きい場合などどうしても相手に伝えたく、率直というより情熱を持つ場合もあります。

情動の確信を伝える場合など宗教的な狂信的な心持ちさえ起きてきます。

ところが、知識を扱いますと知ってる知らない、量とか質とかで判断の違いによる戦争の種が蒔かれますが、同じ個人的という言葉であっても感情を基盤としていると直接の仲違いは起きませんが、結論は受け手の経過に任されてしまいます。

太初に言葉ありき、言葉は神と共にあり、言葉は神なりきという人間外の神霊の力を体験と共に設定する立場もあります。

言霊学に依る理解は完全な自由意識に始まって、こころに完成された結論結果が確定され「いたく歓ぶ」ことを得ることになるでしょう。

◎009 こころの原論。天照大御神の誕生。「タ」と「カ」 ◎

天の岩戸開き。

先天性内での原初的な客体。

・ここをもちて、

=ここから場面が替わる。天の岩戸開き。

天照は岩戸の暗中にいて、外の様子を描いているように感じるが、そうではなく、意識のまだ働いていない天照の先天構造を示したもの。岩戸暗黒内の天照の眠っている意識の構造で、これからどのように目覚めるかを示すところ。

・八百万の神

=天照大御神以外の全部、天照の相手対象客体となりうるもの全体。わたしの意識の対象となりうる全時間全処全次元。後に天照の意識となる宇宙のこと。

・天の安の河原に神集いつどいて、

=沈黙している天照の意識内でのこと。

「安」は今は沈黙している意識で、「河原」は「河」「原」の二つの別なもの。「河」は流れるで、先天的な父韻、「原」は石ころの集合体、潜在的な客観宇宙の集まり。「天地の初発の時高天原に」に対応しているので、隠れている天照が「安の河」(高天原)、

流れる「河」(原初の父韻)と接触しているものが後に意識となる。その客観宇宙の集まりで、受動側。主体側の働きかけを静かに待っている、安らかな原である宇宙の集合体である神の集い。

岩戸に籠もっている天照に対する外界である対象宇宙だが、天照とのコンタクトの接点となるところ。そこで潜在的に意識の対象となるものが、安らかで静かに受け入れを待っている河原。先天性内での原初的な客体。

未だ働きを開始していない暗中にいる主体意識に対応した原初の父韻。

まず潜在的に客体となるものが措定される。何が何だという内容は未分化で指定できない。

天の岩戸開き。先天性内での主体。

・高御産巣日の神の、

=主体側能動側を受け持つ。

・子思金の神に・

=まだ何か分からないが、何かある何だろうと思うその思いの初動を現し、その動因を持続していくことを示す。

・思わしめて、・

=天照は暗中にいて未だ意識の働きはないが、全ての働きの始めは主体側からの働きかけに依ります。天照の対象宇宙は無限大で、天照は暗中の宇宙の中にいてこの両方からして、天照が活動働きを開始する処は常に宇宙の中心に位置しています。ですから何時何処で天照の意識の芽が出てくるとしてもその瞬間が宇宙のはじまりです。

「ここをもちて」と場面の替わりを指示しますが、一方意識の始まりとは「ここ」において「もちて」という「今ココ」であることを示しています。

ここに客体が主体が載る(詔る、祝詞)構造が完成します。天照はいつも暗中にいなければならないということではなく、主客が同じ基盤に立てばいいわけです。これを同じ土俵に載るといって、相撲の神様の天の手力の男の神

に通じることになりますが、何をする神様かは後で示されるでしょう。

例えばここは、普段何もしない意識が突然目覚める場面です。音を聞いたり、何かを見たり、アイデアが浮かんだりするその直前の様子です。脇で大きな音を出されれば否が応にも聞かざるをえませんが、聞いて何の音か判別するその根拠となるものです。

頭脳内で自分が何かを意識する直前の様子で、何であるかという判別以前のことです。

天照(わたしの意識)は岩宿にこもって全世界は暗くなり、なんの判別するもののない世界です。ですので、何が来てもそれが宇宙の中心となって原始的な意識の中心で始まりとなります。

判別はできないといっても潜在的な客観対象の世界は先天的にあります。この時にわたしの何にもない無の意識に対応するものは、客観的な世界になるだろう過去と現在の全体を気付いたという今ココに表現されるものです。

潜在的にあるといっても未だ気付いたものではなく判別したものでもありません。ここでの形はそれは物でもなくこころでもない、という物心の未剖状態です。

片一方の心は闇の中ですが、死んだものではなく、その人の全過去歴史が秘められています。一度動きだせば幾らでも時と処と次元を移動できます。そのこころも輝く時は闇の中で輝くわけですから、何時何処で輝いてもそれが宇宙の中心となります。これが、思いや感じが自分の中心占めていく、自己中心になっていく根拠なります。

光が照らされた処が地盤となってしまいます。暗中にいて自分の位置関係が分かっていませんから、その始めの光は殆どその人の自覚とは違う、習慣、因習、外力等に依るものとなるでしょう。これは本来自我とか個性とかはないという根拠です。

一見すると自己中心であると個性はないとが両方とも成立してしまうことは奇怪しくみえますが、これは続いて起こる最初の光を取り入れていく過程が成長発展していくからです。最初の光が成立した後に扱われるでしょう。

と同時に、後に判別、選択をしていくわけですから、闇の中においてそれらの根拠を用意しておかなくてはなりません。こんどは五つの人間性能の各次元の準備です。主体側と客体側が同じ土俵に乗らねば相手と見合うことはできません。話が違う噛み合わないのは別々の土俵にいるからです。

そこでハッケヨーイ残った、となりますが、ここでいうハッケは八つの気で、八父韻のことです。これが格闘してノコッターと出てくるのが現象、子音です。相撲は誰かが身体運動という形で残しておいた言霊解の秘密です。日本の行事、伝統はこんな処にまで言霊の解明に気付くように配慮されています。大和日本に残っているのはこんな凄いことばかりです。何とも驚くことばかり。

さて、同じ土俵に載るというのは、普段は何でもなくしていることですが、知的に理解しようとして解していくとすぐ突き当たり停滞してしまいます。これが今のわたしの状態です。

天照、わたしの意識、闇の中で眠っていますが、原初の意識となるためにはそれに対応して相手対象も自分に向き合わねばなりません。

それが以下の難しい段落になります。

・常世の長鳴き鳥をつどえて鳴かしめて、

=もちろんおんどりを鳴かすことではありません。母音を鳴らすことです。

自分自身が宇宙そのものの現象であることを忘れがちです。自分に起る出来事は自分の事件であると同時に、それは宇宙 の出来事でもあるわけです。

そこで高御産巣日の神の子、オモイカネが指揮を執り、アマテラスを表に出すための作戦を開始します。

これは、わたしの主体的な動きが始まった事を現し、その主体性を現す事を一つの神、思金の神で示しています。その内容はつまり主体性は、冒頭の十七神全体のことです。また、特に思金という時には主体側の動きを指しますから、父韻八神のこととなります。

そこで、思金は まず、長鳴鳥(鶏)を集めていっせいに鳴かしました。

長く鳴くというのは母音のことで、あ行イエウオアです。母音は息の続く限り途切れません。このことはこの世が続いてきた五つの次元世界の象徴です。それを常世と言っています。

ウの世界は五感による欲望達成経済産業世界、これは途切れることなく人類と共にあります。オの世界は知識経験概念記憶の世界で、知識によって欲望世界に疑問を呈すると生じてきて知識を求めるようになります。そしてこれは何かなと経験記憶と対応するものを求めようとする瞬間に選択の知識が求められ、それによって実の振り方を采配するところに、エの世界の実践智恵が生れます。これらのものの最初に世界と対応するのが感情でこの機能によってわたしと相手が分けられ分かるアの世界が生れます。このような全ての動きの原初の動因がイの世界にあります。

この世と人の生命人生とはイエウオアの世界全体のことです。道教では谷神・五行として、インドでは五大として、キリスト教では五天使として伝えられました。思金はまず、潜在世界にそれらを呼び覚ましたということをします。ただし、わたしの意識は岩戸の暗闇の中にいますから、その世界は現象以前の客観世界です。

わたしはここにいて、相手となる世界が潜在的に出揃いました。しかし、わたしと相手がいるだけでは両者の間を取り持つことができません。わたしは未だに岩の中にいます。発想も考えもまだ出る状態ではないということです。

そこで各次元世界はわたしの前でファッションショーよろしくそれぞれを見せつけなければなりません。そのための準備が以下に続きます。経験、意識、記憶、因縁、原則、因習等々そのひとの持ちうる、ウの手助け、オの手助け等々となるものが先天的に揃っていきます。これらが後に発現すると、思ったこと、感じたこと、閃いた事、感動したこと、等となるものです。

準備は整っていきますが、客観世界が自らを示すことはありません。それは主体側の働きかけに応じてその分だけしか姿を現しません。そして、隠れているわたし(天照)を誰がどのように引き出すのか手順がまだ決まっていません。わたしは自分で出てくるのか誰かが戸を開くのかこの段階では未定ですが、客観世界が事をおこすことはありません。相変わらずわたくしの意識は闇夜の中です。

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ここで天照大御神のやたの鏡の規範音図を示しておきます。この音図からいろいろと言葉がでてきます。

●天照大御神の天津太祝詞音図

ア・タカマハラナヤサ・ワ

イ・チキミヒリニイシ・ヰ

エ・テケメヘレネエセ・ヱ

オ・トコモホロノヨソ・ヲ

ウ・ツクムフルヌユス・ウ

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・天の安河の河上(かわら)の堅石(かたしは)を取り、

=天の・先天的の

=安・まだ活動していないが潜在力動を秘めている(言霊スの状態)静かで動かない意識の始めにある。

=河・力動因となく父韻のながれ。

=上・音図の左右は母音、主体側と半母音客体側を示します。音図の「上」をさす。

タカマハラナヤサのこと。

=堅石(かたしは)を取り、・その「カ」と「タ」を取り上げること。

言霊カと言霊タのどちらを先に取るか不定だが二つの選択基準があることを示す。これは「カ」と「タ」の発音を取ることではなくて、その意識構造を取り上げることで、端緒の意識には、精神宇宙全体がそのまま現象発現に向かって動きだす「タ」の言霊意識になるか、精神宇宙の中で己にある自己の体験内容を自我の方向にかき寄せようとする「カ」の言霊意識になるか、のどちらかを示している。

堅石(かたし・は)は堅い葉、硬し言霊ということ。

大げさに言えば、人間とは始めに「カ」を取り上げるか「タ」を取るかで全てが決定していく。古事記の冒頭の神名は【言霊ア】 高御産巣日の神(たかみむすびのかみ)の「タ」であり、次いで【言霊ワ】 神産巣日の神(かみむすびのかみ)の「カ」となっている。これは同時に主客の関係でもあります。

天照をアとマの間を照らすと読むと、上の図をみても分かる通りア・タカ・マでアとマの間の「タ」と「カ」を照らし明らかにすると読めます。

では、言霊タと言霊カとは何かというのが神代の巻全体で説明されているのですが、古事記の学問本来はスメラミコトに許された学問であるためとても難しい。しかし、終戦時に皇室は古事記とは関係ないと言ってしまったので民間が勉強するしかない。平成(平民に成る)の世になって天皇も平民となったのだからこだわりなど捨てて打ち込んで、再度スメラミコトになればいいのではないかと思う。

◎010 こころの原論。天照大御神の誕生。茶を一服。天の岩戸開き。 ◎

史実によって考古学上の証拠によって辻褄を合わせようとする態度があれば、思いつきや閃きを大事にしてそれを損なうことなく辻褄を合わせる態度もあり、多数、権威者、お世話になった人の意見を取り入れていき辻褄を合わせる態度もある。面白く嘘付いていくことや、信じきった態度さえある。もしと釈迦やキリストがアマテラスを説明すれば定言断定的にしか言わないだろうと思われる。説明は取り巻き連か教祖に任せられる。

日本語は数千年前からの言葉を使っているのに未だに通じている。漢字を取り入れたために大和言葉の表記が変わって、時の支那の支配民族の違いによる音の違いも取り入れたので複雑にはなったが、訓、大和言葉の読み方に変化は無かったといってもいい。ところで古代大和においても表記、神代文字は多数あることが分かっていて、古事記には山津見として、八種の意識の現れ方を示した神代文字の発生が記載されています。

もともと大和においても言葉の表記法を替えることが行なわれていたので、漢字の移入は簡単なことでした。中華の民族支配が代わるたびに音が変わって中国人同士で通話できない状況が現代まで続いています。漢字を移入しても簡単に消化してしまえたのは大和の訓読みがあったお蔭です。

ではいったいどんな秘められた力がこの大和言葉にあったのでしょうか。

大和言葉は言霊原理によって創造された人造語で、言霊は人の意識原理の表現ですので、大和言葉は人の意識を表現した言葉です。その人の意識の表現されたものを訓読みとして保持していれば、表記が幾ら変わろうと人間意識が変わらない限り、同じ言葉を使います。こうして一度命名されたものは今でも同じ名前で呼ばれこころで通用しているのです。

これは世界で唯一の事で、日本語が比較言語学にも引っかからない理由となっています。しかしただ単独唯一であるだけなら、単独賞とか孤独で賞、連続賞を得るだけですが、大和言葉はそのような賞を超えるものとしてあります。大和言葉は人間とは何か、こころとは何かの回答の構造がそのまま大和言葉の構造になっているという、信じられない超知性の持ち主であった古代大和の人々によって作られている事です。二千年間その真の姿は隠されていましたが、今は公開されて自由に勉強できるようになっています。

ですのでこのブログは古事記を扱っていて神様のことを勉強しているようですが、内容は古代大和の人々が発見解明したこころとは何かです。神とはこころを説明するために借りてきた仮の名前で、古代大和の人々には拝む対象となった神様はいません。古代人は単純おおらかで知識が乏しかったから、というのは現代知識人達の怠慢で、古代人を夢を見る人達のように扱っているだけです。

こころの内容に神と名付けたのですから、神を拝む事とは自分を拝む事なり、愚かな事です。拝むの語源はここから来ています。神を拝む人達の心持ちを現していて、おがむ、おろがむ、おろかで自分を神とすることほどおろかなことはありません。古代大和の人達の用いた言葉はいつくです。いつく、五作で、人間性能の五つの次元を作ることで、伊勢神宮の心の御柱のことです。

しかし、ここに二律背反のような事があります。伊勢神宮も御柱もその他神道も、そして全部の世界宗教も含めて人々に神を拝むようにさせた方がいます。その方はおろかな人々に心の外にあるものを、おろがむことを教えましたが、同時におろがむこころの止揚法も見つかるように隠していたという事です。これは精神こころの次元で起きている事であると同時に社会経済発展の中でも起きています。経済社会の発展は目的を持つ、目標を作るという盲目的に拝む態度を基盤としていますが、それによって出現する全部の負の部分を吸収するように宗教社会精神が作られています。

さらに時を同じくして精神世界において人間の精神元素が再び日の目を見たように、物質界においても物質元素と生物ゲノムが解析され全精神界と全物質界、全生物界が自由に手に入るようになったことです。社会的には生産物が大量に生れ、自覚的に生産消費を整理できれば、全ての人に何でも行き渡るようになっています。個人資産の蓄積のためには現代の生産物は過剰となっています。生産物での遊びはもう終わったので、金融物でわざと捨てたり下げたり壊したり奪ったりしているのが現状です。全世界の発行金額を人口で割ったとしても各人は大金持ちです。

人間の外に神を設定して拝む物質的条件は既にありません。科学による勝利は既に確定しているし、宗教の継承者と解説者達は何の力も無いことは誰でもが認めていますし、彼らが世界を散歩するときには何という恥ずかしそうな顔をしていることか。残るのは主体側の態度です。物質客観世界と精神意識を客観物質的に扱う世界は限界を迎えています。原典として残っている世界宗教とそれを学ぼうとする個々人の意識があります。そして最も肝心なことは、世界宗教の創造者達が従わざるをえない強力な御言葉があったということを思い出すことです。

今後の世界運用は日本の仕事ですが、未だに司令塔が立ちません。

以上の事は単に関心か反撥を引くだけの事でしょうが、たまには言いたい事です。

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本題へ。

○・思金の神

○・天津麻羅(あまつまら)

○イ・伊斯許理度売命(いしこりどめ)

○オ・玉祖の命(たまのやのみこと)

○ア・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)

○・布刀玉の命(ふとたまのみこと)

○ウ・天の宇受売の命

天津まらで滞っています。

天津真浦(あまつまうら)の「うら」という読み方と後の、「うら合い」とが関連しているようです。

また、「堅石(かたしは)」と「真男鹿(まおしか)の肩」の「カタ」と「マラ」を関連させるものが

宝音図のあ段、あ・たからはさなやま・わ、で、「かた」を「抜く」と「ら~ま」で「まら」ですが、不明。

マラを男根とするのは時代考証で不可ということですが、文献上でのこととして、男根で有る無しに関わらず、伊耶那美の御陰やかえて病みこやせり、裳緒(もひも)をほとにおし垂れき、と対になっているので充分に考慮できるところです。今のところ不明。