八咫の鏡の使用法

はじめに。

八咫の鏡はグーグルイメージに幾らでも載っていますが、全部裏面だけです。この試論では鏡の表の使い方を見ていきます。表の写真が無いのでどういうものか分かりませんが、おそらくつるつるで顔が写るのでしょう。顔の何が写るのかといえば、我は在りて有る者、I am that I am、という心内が出てくるのでしょう。八咫の鏡は心を写すものですから、誰でもがみることができます。ところが真の自分の心を見ることに関してはなかなかそうはいきません。

心は直接には見られませんから、見ることのできる仕組みを作らねばなりません。その材料が必要で言葉や態度となって現れてきます。天照大御神の天の岩屋戸の物語は心のご開帳の一連の流れをあつかったものです。現れた態度も相手に伝えるには言葉による橋渡しが必要となるので、結局は心は言葉となります。以心伝心や態度で示すという時も両者間を物凄い勢いで言葉が飛び交い頭脳内を駆けめぐっていきます。

このように八咫の鏡の表は簡単に誰でもが見ることができますが、和を持って正しい使い方ができているかといえば、とんでもないことだらけです。誰も使用法を知らないばかりか、所有者は模造品であっても見ようともせず、祭り上げているだけです。勿論見ても分からないし驚くだけで、驚きに対応する時代の条件がもう少しまだ速く、整っていないようです。

実のところ私もまだ八咫の鏡の見方を知らないのでここではぶっつけ本番です。やれるところまでいってみましょう。自分の心を見るというのが八咫の鏡を見るという事ですから、誰にでも簡単なはずですが、、、。

天の岩戸。

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岩戸の事が出ましたので、これのネタばらしをできるところまでやっていくことから始めます。古事記にはイワト(五十葉戸、五十音図言霊の戸)を開けてアマテラス(吾、自己意識、の間を照らす)が顔を出すお話しがあります。

意識活動が無い暗い世界から意識の光が照る瞬間を描写したものです。

瞬間というのも色々にとられますがここでは例えば、シュンカンといったときのシュのシを発声した時の瞬間です。何故そのシが発声されるのかというイマココの瞬間を物語にして述べたということです。脳内の電気位相の相違を見ればそういった瞬間は確認できるでしょうが、これを太古に人間の原理として確立していたわけです。

時間的には意識が始まる瞬間の物語であり、意識の流れの原理ともなっているものです。

意識の何も無いところから始まりますが、何も無いということを確認するためにスサノオの導入部分があります。実は何も無いということは無く、先天が用意されている事を示しています。

しかし岩屋戸の物語としては自己意識の間を照らすことは無い暗い状況から始まります。

しかし注意して下さい。何も無いとか暗いとかを確認する本源的な生きている意識はあるのです。

自分の意識である天照す(吾の間を照らす)大御神がまだ活動を開始していないので、何の判断も下されていないというところから始まります。

訓読:意訳。

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・すなわちタカアマノハラみなくらく、アシハラのなかつくにコトゴトにくらし

=心の運用規範を失ったので判断ができない。先天世界も後天世界も心が開いていく方策が何も無い。心が働く以前のことを暗いといった。

・これによりてトコヨゆく

=それでも生きていく動因は闇夜に働いている。トコヨは床(巣)の世。巣(床)は何も無いようでいて親鳥が子を育みそこから新しい一切が生まれるエネルギーで充満していながら静かに澄んで動かない状態です。

・ここにヨロズのカミのおとないはサバエナスみなわき、ヨロズのわざわいコトゴトにおこりき

=闇夜の動因の作用は思惟規範が無いので支離滅裂である。(世界単位で言語状況を見れば丁度そんな感じ)しかし、光が当たればそこにあるものが直ぐ現われるようによろずの響が既にある。響きは音以前のもので韻としてある。

・ここをもてヤオヨロズのカミあめのやすのかわらにカムツドイツドイて

=ここでまず、先天の実在する諸条件諸世界の韻となるものは、動因の相手対象として、働きかけによってあるものがあると単に確認されるものとして集められる。(鏡の裏面の記載文字の内容である意識の立ち上がりによって実在してくるものの客観対象側が集まる。)

・タカミムスビノカミのこ、オモイカネのカミにおもわしめて

=タカミムスビは主体意識一般、オモイカネは思いを神音に寄せるで、主体意識の働きの主である、主体が思うという働きを動かして、(鏡の裏面の記載文字の主体主観側。裏面の文字はこの両者を表現したもの)

・とこよのナガナキドリをつどえてなかしめて

=トコヨは先天の実在世界が集まってはいるが寝ている床(巣)、その実在と働きがそろったので、まず先天母音世界(ウオアエ)の実在を思い確認し次元世界を一つ一つ分別し(四次元ある)、

・あめのやすのかわのカワラのあめのかたしわをとり

=各先天の音図の片側の四つの言霊(片四葉・母音行)を主体の発する位置と定めて、次元世界に始めの働き掛ける主体側の働きに立ち、その次元世界の先天枠を定め、(ア行に立ち)

・あめのかなやまのカネをとりて

主体側の母音行と主体側にある客体側の母音行(半母音行)の両者を用意して、その両者を繋げるため(オとヲ、エとヱ等)、その各次元での先天の判断要素となる仮名(言霊)を集め、(意識の対象を集め)

物質としての文字をや仮名を集めるのではなく、主体内での共通した主客となっているもの、母音の音韻をまず集めて、両者間を渡る(津見)準備をする。

・カヌチあまつまらをまぎて

=言霊要素材料があるだけでは何にもなりません。言霊要素を融解して連結させ関係づける方策を持ち寄り探らねばなりません。溶解したものは型という間の羅列に流します。(例えば言霊要素の単音、単語へ、文へというように)(実は単音の中にも十四の領域を経る間がある)

・イシコリドメのミコトにおおせてカガミをつくらしめ

=主客の要素がそこにあるだけでは動きませんので、動かす規範を作ります。

主体意識側の意志を凝り留め明かに示すための規範となる鏡の五十音の判断規範を作ります。

アマテラスという規範・鏡をこれから創ろうとしているのに、規範を作る規範をまず作る、つまり、脱皮変態する前規範のことになります。(脱皮状態に応じて鏡が変わる)

天照すは既に規範鏡ですが、現象の鏡を産むには、イメージの鏡が必要で、イメージの鏡を産むには先天の鏡が必要です。ここではまず意図意識を凝り固めた先天の鏡のことです。

この鏡は床世(床四)の世界にタカミムスビの意志を加えた五次元の構成です。

二重三重に同じことが繰り返されますが、規範の中心に意志の言霊イがあるためです。

・タマノオヤのミコトにおおせてヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをつくらしめて

=言霊要素とその連結と連結した姿を準備します。タマノオヤにいって、ヤサカ(八つの性質・さか)を既に持っている勾玉型の、イホツ(五穂津、五つの次元言霊に分けられる、五を基準として実在言霊要素五十とその運用言霊五十の百、五百ではない)の、この先天後天の世を統制している数珠を作らして。

言語規範となっている鏡に沿って、言霊要素の五十の勾玉を作ります。言葉となるのに必要な言霊要素の連鎖を作らせて、要素と運用の五を基準とした、要素五十、運用五十の百音図にして意識を統率する数珠(ミスマル)にします。

オヤは全部を統括しているということ。五(イ)百(ホ)津(ツ)之御統之珠。

・アメノコヤネのミコト・フトタマのミコトをよびて

=コヤネのコは半分ということ。主体側の母音行と客体側の半母音行の両者で全体。従って言霊要素の主体側半分だけ(二十タマ)を呼び寄せる。後に現象が現れるときの前現象となる。

まずア次元の感情世界の言葉の一般主体性を流布させ、主体側に運用させるものを与えることで客観性を得る。フトタマは二十霊のことで、五十の言霊の内、主体性によって濁点を付けて自らを過去に置くことができる言霊のこと。記憶を呼ぶ。

あめのかぐやまのマオシカのカタをうつぬきにぬきて

=あめのかぐやまは先天の書く山で、客体側に現象表記として現われてくるもので、ここではまだ現象以前の現象、物象表徴いわゆるイメージ、の段階となっている。

マオシカ(真男鹿)は一般主体性(オスという能動性、意識の主体側能動性)の象徴で、

カタは型となるイメージから表記へと成る客観性物象。上記のフトを代表させカタといったので二十(フト)の能動性と二十(フト)の受動性意識の物象。

うつぬきは、その招ぎ合い(マグアイ)の客観性な合一を得るため共通のものとさせ、主客を通用させ(ぬき通す)ること。

主体の意図とその表記の同一性をカタ(型で肩ではない)で示すために、といった。ここでは主体側からのフト(二十)の働きかけに応じて、主体側意識内の受動性が受け止め、カタができる。

・あめのかぐやまのアメノハハカをとりて、ウラアエまかなわしめて

=今度は半母音側の準備に移る。ハハカは母カ、主体性内の受動側で能動側がうつ抜きに抜きての後に半母音側に現われる。

ウラアエは裏合えで、残りの二十の一般性の表記の客体側に立ち、主体側の次元と同じであることを確認すること。書く山、表記されたものや記憶概念の主体の働きかけを受け取る受動客体側(ハハカ)が、主体側の内容意味を了解するように(裏合え)することで、半母音となって現象する一歩手前の段階。二十と二十の主客の意図内容の受け渡しが一致する関係のことで、占いとは関係ない。

・あめのかぐやまのイオツマサカキをネコジにコジて

=主体内主客の応対の判定に進む。

一般性表記の五十音言霊要素(五を基準とした真性の気・真正の言霊図)全体を用いて、こうして主客の交流流通が全体的に確認され。主客の確認できる五十音図を用いてということですが、アマテラスの出現によって真性の気を持った思惟規範が出てくるというのに、ここでも再び前・先天・鏡が設定されています。

東洋思想ではワ行によって受け取る受動的な主体性が常に設定され、西欧のワ行が無く主体個人の活動の結果を見ていくこととは違います。

主体内受動性を得る準備が続きます。

・ホツエにヤサカのまがたまのイオツのミスマルのたまをとりつけ

=まず最初に、たま(言霊)を用意します。(現実にはその人が持つそして知っているだけのものしか用意できませんが、先天的には全員は同じ土俵に立っています。)

八つの性質(ヤサカ)の言霊要素の五を基準とした主客の意識を統率する言霊によって、つまり言霊を統る、スメル、言霊である父韻を取り付けてということです。主体側の能動要素が働きやってきたところです。それと同時に受動要素も準備されてます。

こうして、判断要素となる言霊のそのときの判断となる全言霊要素を準備してその連絡連鎖を選択していきます。その時の様子がヤサカ(八つの性質)の働きを用いて現わされます(八父韻を用いて)。

しかし要素が準備されるだけ、父韻勾玉の取り付けだけでまだ働きはありません。続いて規範によって動き方が与えられます。実践の規範が来ます。三種の神器の勾玉。

・ナカツエにヤタカガミをとりかけ

=次いで、父韻の動きを見る八咫の鏡、言霊要素を用いて運用規範、判断規範とするための鏡を準備し。あるものがどのようにあって、何処から来て、何処へ行くのかを見極めます。三種の神器の鏡。

・シズエにしらにぎて・あおにぎてをとりしでて

=最後に、あるものの判定をします。ニギテは握ることで、指を一つ一つ曲げていき全部曲げ終わったときに事の判断を握りしめること。

しらにぎてのしらはしらける空白のしらで、しらを切るのように与えられたものを全体で受け取り全体で判断すること。

あおにぎて既に色のついた過去概念規範のいずれかを受け入れてそこから判断すること。

白も青も色のことではない。

この赤ん坊のように全体を受け入れるか、色の付いたものを受け入れるのかの判断の準備。三種の神器の剣。

以上は主体側が用意しながら主体側に与えられる。

こうして判断する上での、玉とかがみと剣の三種の神器、判断言霊要素と判断規範と判断運用が揃いました。

・このクサグサのものは、フトタマのミコト、フトみてぐらととりもたして

=勾玉。

そこでこれらの判断三要素は、受動的に受け取りながら主体活動の全体の動因として扱われ、それが思惟運用の主体となっていきます。

ミテグラは運用するということ、二十を運用する、主体を運用するということになります。

運用の初めは主体側が動くことですので、主体の全体を示すフト(二十)タマがまず判断を主導します。

・アメノコヤネのミコト、フトのりごとネギもうして

=鏡。

アメノコヤネは運用意識の全体のことで、主体意識の主体側二十に宣(の)ります。

言霊アで全体、カキクケコサシスセソタチツテトハヒフヘホ、を代表させたときの名前がアメノコヤネです。コヤネのコはヤネの半分主体側。

この主体性の意識を用いて、残り半分の対応している二十を求めます。(オスがメスを求めるように)

・アメノタヂカラオのカミみとのワキにかくりたたして

=剣。

三種の判断要素がそろいました。今度はそれを実際に動かす役の神(動因)が要ります。応じる客体側で受ける役割の主観意識(フト)を置いておき、ここにもう半分の受け取り専用の陰性のフトと合体させるために探します。その合体を見つける隠れた力持ちの出番となります。(ある対象を見る場合、対象を見られたという受動するような主体が働かないと対象は確認できない)

チカラはそれ自体は見えません。それで隠れているといいます。

みとのワキは御戸のワ行(半母音行)の気(言霊)のことで、音図のわ行の戸を開けることで主客の合体が現われます。

外国語にはわ行の気の体系がありませんから、主張だけはしますが相手受動側を慈しむ意識が希薄となります。

ここまでが最初の意識が出てくるときの準備手順です。

現象となる意識はまだイワトの中にいます。

・アメノウズメのミコトあめのかぐやまのアメノヒカゲをたすきにかけて

=言霊ウ次元のウズメを借りて手順が執行されていきます。他の次元世界も同様な構成です。

まずは始めの意識である欲望の表現であるウ次元の客体側の持続する実在を得ようと準備し、

タスキは田を鋤く、規範の運用配分を助ける。

ヒカゲは霊陰、言霊リニイシ、主体内で確認する受動側言霊。わ行から合体して出てくるウ次元世界の残り半分のフトをどのようにどのように手助けするか(タスキ・陰性四言霊の田を鋤く)考慮して自ら背負い。

・アメノマサキをカヅラとして

=カヅラは鬘で頭に被るもの。まず目指す意識の行動規範の目標象徴として、マサキ、正しい気を設定して(先天のたかまはらなやさの順列に従う五十音図)。

・あめのかぐやまのササバをタグサにゆいて

=欲望表現表記の手順と言葉の要素を、予め玉と鏡と剣の判断規範を用いて了解可能な束となって連結していて(先天において欲望表現が既に準備できている)、

主体意識の側にある主張や手持ちの客観要素を、それなりの意図に沿った恣意的な規範として、

・あめのイワヤドにうけふせて、ふみトドロコシ

=ウズメ独自の五感感覚による欲望充足世界を得ようとします。桶はものを受けるように置かねばならないのに、恣意的な規範で勝手な主張をして、

ウズメの次元世界は欲望からする実在世界を指しますが、ウズメには実在世界そのものには働き掛ける機能はありません。そこにあるのは物質の作用反作用の世界ですので、ここでのウズメの意識であるイワヤドに直接はたらきかけることはできません。そこで物理世界をかき回して五感に訴える反作用を生じさせることをします。

それが桶をひっくり返して太鼓のように叩き騒ぎを起こすことです。桶は箍(タガ)で絞められていて、ウズメはウ段のタガに向って騒ぎます。

例えば腹減ったと騒ぐ時を見てみれば、その時のタガは腹減ったという欲望のタガを揺るがしていくので、他次元のタガ(父韻のこと)を叩いても欲望次元は目覚めません。

欲望充足の対象がまだ得られず、何が出るかまだ分からないが、主体側の主張だけはでき、受け取るものはまだ無いということで桶がひっくりがえっています。

知識概念のオ次元でも、知識は過去世界に既にあったもので騒いで勉強して得ますが、自分で創造したものではありません。

・かむがかりして、ムナヂをかきいでモヒモをホトにおしたれき

=がむしゃらな動きをしても欲望が欲望の充足を産むことはありません。欲望は欲望として一つの世界を作っているので、充足とは別の世界です。あたかも何も無い地(ムナヂ)の上で踊るようなものです。 それでも実在と実在を連結すれば何かが生まれると思い、子を産むホト(陰部)に逆方向から実在を持ち込もうとします。

知識知識と叫んでも知識が増えるわけでもないのです。

・かれタカマノハラゆすりてヤオヨロズのカミともにわらいき

=こうした精神意識界での心の原理を無視した行いを全実在世界から笑われます。しかし物質同士の作用による騒音、五感を覚醒することは残ります。

主体側の働きかけはここまでです。

後は働きかけを受け取る側がうごきます。人は主体的に事を動かしているようですが、実はここまでです。

・ここにアマテラスオオミカミあやしとおもおして、アメのイワヤドをほそめにひらきて

=ここにアマテラスが出てきますがウズメの他にアマテラスがいるのではなく、古事記の神というものは自分という人間の各次元での現れの表徴的な分身を最も適切な名付けによって示したものです。ですので五十神がいようが百いようが全て自分の分身のその時処位の特徴的な名を与えられたものです。

ここでウズメは逆行した行為を笑われていて、アマテラスも聞きつけたということですが、実はウズメ自身の隠れた心の精神規範が自分の行為と合わないことに関心を示したことになります。アマテラスと言うのはいまここの時点ではウズメに隠されている正当な思惟規範ということで、自己反省気付きの始まるところです。誰にでも備わっている自己確認の機能が働いたということになります。

自分が了解する直前に必ずポッと顔を出す困惑疑惑の類です。

・うちよりのりたまえるは、アがこもりますによりてアマノハラおのずからくらく、アシハラのナカツクニもみなくらけんとおもうを

=それでも直前の困惑をいつも乗り越えていくのは、誰でもが先天の規範を使用しているからです。

アマテラスというのは潜在的な完璧な思惟規範ですが、まだ自己に所有していないばかりか、自己規範の正当性を外部(イワトの前に用意されている)との摺り合わせ確認もできていません。

そこで自己の精神世界も暗く外部も暗いと思っています。ということはこの暗さに対して光の照りを対比させていることで、その光の出所が自身の持つ先天の思惟規範というわけです。

・などてアメノウズメはあそびし、またヤオヨロスのカミもろもろワラウゾとのりたまいき

=何故かどうしてかという興味関心意図などは結局は暗いながらに持っている自分の判断軌範によるものです。(ここではウズメの隠れた正当な規範の代弁者としてのアマテラスですから、アマテラスに借りた自問自答です。不法犯罪非道反人格的な行為を犯すときに最後の瞬間に訪れる犯罪者への光です。)

・すなわちアメノウズメ、ナがミコトにまさりてとうときカミいますがゆえによろこびあそぶともうしき

=先天の中での主客の規範の二重性を各人が、私もあなたもウズメもアマテラスもそれぞれの時点で、持っています。

ここで言う二重性というのは人格の二重性というようなものではなく、自他・主客共に同じ規範を持ちつつ、自分の働きを自分の受動側で受け、自分で受けた受動側を自分の主体側で確認するというようなことで、ウズメの起こした騒ぎのアマテラスの名を借りたウズメの自己発見自己反省独り言解釈です。

また、先天の規範が表徴の規範となってあらわれでることで、ついで現実の行動規範となって了解確認されるところです。

・かくもうすあいだに、アメノコヤネのミコト・フトタマのミコトかのカガミをさしいでて

=客体側の鏡規範を見せてアマテラスに自己確認を求めます。この客体側の鏡は主体側の働き掛け様式に反応するだけで、鏡に向って仕掛けた通りの事を返してきます。ここではアメノコヤネが鏡を介して行き交うアマテラスとウズメの全体を代表し、フトタマがウズメとアマテラスの主体側の働き掛けを代表しています。

・アマテラスオオミカミにみせまつるときに、アマテラスオオミカミいよいよアヤシとおもおして

=主体側であるアマテラスのする通りに鏡は返答します。

普通にはものを見てこれは見えているものだといって簡単に済ましますが、見るものが見られたものと同一だということは大変な出来事です。 五円玉が一万円札に見えたら驚くでしょう。アマテラスはイワトにいて騒ぎに五感を起こされて、起こされた五感通りのことが展開されていることをアヤシと思います。確認直前の惑いです。普通に経験しています。

・ややトよりいでてノゾミますときに

=そこで更に身を乗り出します。ということはやってきた五感の物理・生理作用に自然な反作用を、アマテラスの受容可能な範囲内で反応可能な物理生理の反作用を起こします。と同時にアマテラスには先天の判断規範が備わっていますから、それが働きます。つまりアマテラスの物理生理の反作用が判断規範の言葉となって現われ出ることです。

その一連の動きの元となっているのはウズメの騒ぎです。その騒ぎの内容は、実在で実在を産もうとすることですが、アマテラスはタカアマハラという精神意識界の総覧者で、一方ウズメは騒ぎの意識界での表現者なので、実在物質世界とは直接に関係していません。

そこで騒ぎという物理的作用を仲介してアマテラスの意識界に反映するものが、アマテラス側の生理的な反作用に続いて必要です。そうしないと意識界に騒ぎが反映されません。

・かのカクリたちたるアメノタヂカラオのカミそのミテをとりヒキいだしまつりき

=こうして、物質界の騒ぎと精神界の騒ぎとの交流点が物象・半分物質半分精神というイメージ、に見つかります。ここで物質側はこれ以上変身できませんが、精神側は半分半分になれるという性質を利用して、物理反応を物象の反応として物象の反応を物理反応としていきます。ここには物質世界の介在、表現表記の介在たる言葉が出てきます。

その為には働き、チカラ、動因、意志等の意識への働きかけが物象となった形で必要となります。

タヂカラオは父韻の総体を代表させた名前で、実在に働き掛けて実在を現前させます。タヂカラオは例えば物を見るとき、見させられた物を見させるようにする力動を主体側に伝えるために、主体側の見る力動を受け入れる隠れた力動です。簡単に言えば意識上の主客の連結を取り結ぶ役割にあります。

その現れが物を選択する手(テ)と表徴されています。ここではウ次元のウズメの騒ぎ(テ)を受け取ったということで、確認して、了解して、ウズメに返したということになります。

・すなわちフトタマのミコト、シリクメナワをそのミシリエにひきわたして、ここよりウチにナかえりましソともうしき

=ここで自分の中にある主客の一体性が客観世界の主客の反映として統一されます。(客観世界の主客というのは、残り半分のフト、二十、が主体側に渡るという主。)

しかし、注意しなければならないのは、実在世界は四つの次元世界としてありますから、意識界もそのようにならねばなりません。その為には意識界におけるウオアエ次元の混同を避けるための結界がフトタマによって引かれます。

フトタマが引くというのは、各次元世界の主体側を引き受けているからです。

その意味は、ウ次元のウズメが投げたボールはウズメに返さなければ理解交流ができないということで、アマテラスが選択させられた次元から出たならば、その後には他のオアエの世界があってもそこへ戻ることは混乱を呼びます。主のフトが客のフトに答えるということです。

・かれアマテラスオオミカミいでませるときに

=こうして例えばウ次元の思いがあったときには、そのウ次元の思いを得なければなりませんから、アマテラスもウ次元の姿を取って出てくるわけです。

アマテラスは自分の意識、ウズメの場合はウズメの意識ですが、いずれにしてもアマテラスが主体的に出てくるように見えるのは、引っ張り出し役のタヂカラが働きであって実在ではないからです。

・タカマノハラもアシハラのナカツくにもオノズカラてりあかりき

=こうして最初意識が出てきて、また元に戻りました。最初の意識の話をしているのにまた元に戻るというと矛盾しているようですが、これは言霊循環の一瞬間のスナップ写真だからです。

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以上は、ウ次元を例にとった次元世界の現れ(現象子音の発生)ですが、そのまま他の次元の原理でもあります。

分かるところだけ訳注を付けましたが、何だそれはと思うことでしょう。実はこの段落はそういった思いの始めの一言が出てくるときの心を描写したものです。もし「そんなバカなことを」と言ったとしたならばその時の言葉の最初の「そんな」の「そ」が出てくることを丁重にスメラミコトが超人的な頭脳を持って分析したものです。こんなことが約一万年前に通用していたのです。(古事記としての表記は千三百年しか経っていませんが。)

イワトの物語はアマテラスの出入りの形をとっていますが、八咫の鏡は八角形で同じことを示しています。イワトにしろ鏡にしろ五十音図にしろ自分の心の形象ですから、心のようにころころ替わっても構いません。五重の塔は縦型だし、伊勢神宮は建物で唯一神(心)を明かにする作りとなっています。

全て天津イワサカの五段階区分が原理ですから、その現れは心と同じように自由で、丸か八角か四角か縦長にするかを問いません。

ではつるつるの鏡の表を覗いてみましょう。

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覗く始めに。

覗く始めには覗き見る相手の存在を確認しなければなりません。

そして覗く意志の確認も必要なことです。

意志と見るものがあることを確認しただけでは不十分です。暗闇では見られませんし、位置角度条件等を選ばなければ見えないし、見ているのに興味関心関与注意力の念がなければ見過ごします。

これらの全てのことを原理として示したのが、古事記の冒頭十七神です。天津イワサカといいます。

天津イワサカ。

・1・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ウ・天の御中主(みなかぬし)の神。

・2・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ア・高御産巣日(たかみむすび)の神

ワ・神産巣日(かみむすび)の神。

・3・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ヲ・宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神

オ・天の常立(とこたち)の神。

エ・国の常立(とこたち)の神

ヱ・豊雲野(とよくも)の神

・4・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

チ・宇比地邇(うひぢに)の神

イ・妹須比智邇(いもすひぢに)の神

キ・角杙(つのぐひ)の神

ミ・妹活杙(いくぐひ)の神

シ・意富斗能地(おほとのぢ)の神

リ・妹大斗乃弁(おほとのべ)の神

ヒ・於母陀流(おもだる)の神

ニ・妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神

・5・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

イ・伊耶那岐(いざなぎ)の神

ヰ・妹伊耶那美(み)の神

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これは古事記の冒頭の十七神を五区分したもので、これが人間の心の原理構造、天津イワサカ(五葉性)といわれるものです。人の意識活動の先天原理です。

十七の神さんがいるのではなく、人の心を先天として見たときに一つの心が十七神にみえ、心は十七の様子をしているということで、更に一つの心が五つのグループ次元相に分けられ、その次元相の通りに成長していくという多重に循環しつつ心が脱皮変態成長をするというものです。

これは考えられたものではなく人の成長に該当しているものですから、何らの余計な知識を必要とせず自分を見ていけばいいのです。

ですので既存の神道とか古神道とか学会の知識とかも必要ではありません。勿論、磐という漢字が配当されているからといって岩石探しをすることもありません。自己反省する心があれば足りることです。とはいえ大和の日本語に漢語を当てはめた表記を象徴的に使っているため、解凍する苦労は要ります。そのために照らし合わしすり合わすものはこの三千年間の学問知識ではなく、誰でもが普通に持っている自分のことです。大和の日本語の平仮名で読むことがまず重要なことです。

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八咫の鏡の構造と思われるもの。

古事記というのは意識の現象が生まれる子(こ)の事を記したもので、創造子現象の完璧な解答を与えたものです。

鏡において創造子現象とは鏡に映る映像ではなくて、写った映像を見て確認納得する意識のことです。写った映像は物理的な光線の作用反作用で意識とは別のものです。写った映像は単なる光の作用反作用があるだけですが、そこに映像があるという判断は人に映像に対する受容器官が働くためです。意識はそれに対して働き掛けるので、古事記はその構造機能を意識の次元で全的に明かにしたというわけです。

古事記はそれを連続した最初の五十と後の五十の神名を以て説明しています。始めの五十神が意識の要素(言霊要素)編で、続く五十神が運用編です。

運用というのは直接には感知できません。それは五十の言霊要素に載って現れますが、五段のわ行を持つ大和の日本語表記では、言霊として現れたものがそのまま働き運用されています。他国語のように約束事になって内容と指示するものがバラバラに解されるものではありません。例えば、ワというは実在であり同時に働きでもあります。そしてワという子現象です。

ですので鏡もそのように見ることが必要です。八咫の鏡には実在世界と働きと子現象が一枚で見られる構造になっています。

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まず裏表の前の、有るか無いか。

構造(実在・働き・現象、あり方・生き方・成り方)の全体が備わっているか否かから始まります。

構造体を定位置に置きます。裏返しではつるつるの鏡面が隠れていますので、表を見せます。しかしまず始めの心を読み取ろうという意識の構造は裏であろうと表であろうと同じです。

人は誰であろうと心を持っていてそれを働かし子現象を得ます。機能していない時には電気の点いていないイワトの闇の中です。しかし意識を問題にしていく時には表裏はどうでもいいことですが、鏡が無くては見えません。

ここの段階ではこれから見るための鏡が全人類に共通に備わっているということを示しています。人には裏表にかかわりなく自らの意識を照らし明かすものが有るということです。

つまり人はそれぞれのイワトに住んでいるわけです。人が意識を表明するものを持っているという始めの段階を鏡で示すと奇妙になります。裏表がどうでもいいのですから裏表の無い鏡ということになります。いわば鏡という構造体を形成する以前の鏡です。ゼロの鏡です。

鏡があるとか無いとかではなく、先天の鏡が人には備わっています。

八咫の鏡の構造体の始めは先天の鏡、ゼロの鏡です。

このゼロの上に先天の十七が載っています。(図形はグーグルイメージ『八咫の鏡 言霊学』にあります。)図形の描き方を知らないのでここでは文章での表現となります。天津イワサカ参照。)

1・五つの八角状の同心円があり、その中央にイヰ が並んでいます。大本の動韻となります。中心の和。

2・動韻の現れが八方向に取り囲みます。このために八角の動因になります。第二の和。チキミヒリニイシ。

3・動因が主体となって実在の主体側に働き掛けます。これを現わす第三の和。ウオエア。

4・働きかけの現れる客体側の第四の和。ウヲヱワ。こまでが先天十七。

5・結果となる現れた子現象。全三十二の子音。第五の和。

これが鏡の中を裏から表へと貫徹しています。しかしそのようにはまだ見えません。

鏡を使用して見ようとしない限り見えませんが、見始めたとたんに浮き上がってきます。

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以下の目次。

1・イヰ の使用法

2・チキミヒリニイシの使用法

チキミヒリニイシの使用法

4・ウヱワヲの使用法

5・タカマハラナヤサ、テケメヘレネエセ、トコモホロノヨセ、ツクムフルヌユスの使用法

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鏡の形が書けないので左右に分けた形で代用します。(グーグルイメージ参照。)

ヌ|ノ|ネ|ナ| |ニ| |ヒ| |ハ|ヘ|ホ|フ|

ユ|ヨ|エ|ヤ|ヲ|オ|イ| |チ|ウ|ウ|タ|テ|ト|ツ|

ル|ロ|レ|ラ|ワ|ア|リ|ヰ ・イ |シ|エ|ヱ|サ|セ|ソ|ス|

ム|モ|メ|マ| |ミ| |キ| |カ|ケ|コ|ク|

5ーーーーー5 4 3 2 1・1 2 3 4 5ーーーーー5

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