古事記の百神意訳 3 言霊運用

言霊運用の概略。

要素の言霊が出揃ったところでその運用になります。3章は無自覚な運用で黄泉の国を作るところまで、4章は禊ぎ(自覚的)運用で、理想的な心の運用規範を作る話の形をとっています。

3章。

初歩的・先天的な判断規範(吉備の児島)

主体側の無自覚な判断規範の創造(小豆島)

主体内の自覚的な判断規範(大島)

4章。

客観表現の規範(姫島)

客観世界・黄泉国(よもつくに)

5章。

自覚された経験知を元とする判断規範(知訶島)

6章。

自覚的に主客を統合できる世界創造の判断規範(両児島)

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初歩的・先天的な判断規範

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【 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。 】

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「これ以上の言霊はもう無いので霊止(陰・ほと)です。五十音言霊です。

辞典には数万という言葉がありこれからもできていくのに、五十音言霊しかないというのでは納得できないかもしれません。そう言う方は五十音言霊に何かを加えて納得できないところを説明してみてください。幾ら頑張っても五十音言霊を基本要素としなければ数万五を駆使することはできません。

組み合わさせた言葉を要素とすれば数万の要素となり、そのまた組み合わせで世界の事象を網羅するすると思えるでしょうが、五十音言霊基本要素から一歩も出ていません。五十個の言霊しかないのですから、古事記はこの五十個を扱います。」

【 たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山毘売(びめ)の神。 】

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『 たぐりとは嘔吐(おほど)の事でありますが、ここでは「手繰(たぐ)り」の意の謎です。金山毘古の金は神名の意です。言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにした甕を手で手繰(たぐ)り寄せますと神代文字の山(神山)が出来ます。精神的なもの、物質的なものすべてを整理する為には先ずすべてのものを手許に寄せ集めることから始めなければなりません。金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちます。』

「物がありますがその扱い方は子供、無自覚者、自覚した者とそれぞれ扱い方が違います。3章冒頭に、その違いが同時に成長となるように古(子)事記は記されているのを真似ました。

まずは天然自然に扱ってしまう子供の次元ですが、成長して乗り越えて終わりということではなく、重層的に前承して循環していくのは、五十音言霊と同じです。

金山は五十個の仮名(金)の山です。

仮名山の扱いは次のようになります。

あったままあるがままそこにあるものを直接主体側と係わるようにします。(ウ・今今)

あるものを一目置いて全体を眺めます。(ア・今全体)

あるものを何かなという記憶に結びつけます。(オ・過去今)

あるものをどうすればどうなると思いに行きます。(エ・今未来)

この四つを基盤にして八つの働き方(チイキミシリヒニ)が掛け合わされ三十二の仮名山の「たぐり」方ができます。

ウ次元のたぐり方を調べてみましょう。ウ(母音)+チイキミシリヒニ(父韻)=ツユクムスルフヌ(子音)を説明してみます。

主体側(父韻)チが母音次元ウに係わります。全体そのままの動きのツが出来て、ツの係わり方、突つく、着く、つまむ等のツができます。

主体側(父韻)イが母音次元ウに係わります。持続継続の動きのユが出来て、ユの係わり方、揺する、ゆれる、結う等のユができます。

主体側キがウに係わります。引き寄せの動きのクが出来て、クの係わり方、食う、くるむ、組む等のクができます。

主体側ミがウに係わります。過去に結ばれに行く動きのムが出来て、ムの係わり方、向く、蒸す、結ぶ等のムができます。

主体側シがウに係わります。未来に結ぼうとする動きのスが出来て、スの係わり方、する、住む、梳く等のスができます。

主体側リがウに係わります。拡がり転がろうとするルが出来て、ルの係わり方、流(る)等のルができます。

主体側ヒがウに係わります。表面に開くフができて、フの係わり方、吹く、拭く、伏す等のフができます。

主体側ニがウに係わります。心の内部に落ち着く動きのヌが出来て、ヌの係わり方、縫う、抜く等のヌができます。

同様に各次元の子音ができて、計で五十個の仮名山となります。

ここでは単音の発生を数学みたいにしましたが、実際の言葉(単音)には意識の次元層が絡まっています。チがウについて(よばいして)ツになるといっても、そのツには五つの意識の次元層が秘められていますので、算数のような無機質ではではありません。

同じツでも、

欲望の心持ちのツ、感情の心持ちのツ、記憶概念の心持ちのツ、選択按配の心持ちのツ、意志創造の心持ちのツ、があります。

それらの心持ちは初期には秘められたままであり、そんなこともあるのかと眺めたり、記憶に問い合わしたり、今後のためにどうするか利用しようとしたりされます。まさに、【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのごろ)なり。 】

一続きの言葉となる以前にこれだけのものが既に秘められています。

そして更にツの成長する心持ちはそれぞれに独立した意識の領域(島・児島、小豆島、大島、姫島、ちか島、両児島)に現れますから、その莫大な累乗を持つ単音のことを八百万の神々と言う事になります。

あっちこっちに神がいるということではありません。」

【 次に屎(くそ)に成りませる神の名は 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。 】

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『 屎は組素(くそ)・組む素、組む一つ一つの要素の意を示す謎です。

言霊五十音を粘土板に刻んだものを埴土(波邇)と言います。

その五十個を集めて一つ一つを点検して行きますと、どの音も文字も正確で間違いがなく、安定している事が分った、という事であります。

この場合も毘古は音を毘売は文字を受け持ちます。』

「要素材料が集まった次は、使えるか使えないかの各要素の全体的な判断がきます。組み合わせてみていきます。ここでも上記と同じ事が起きています。ハニヤスに、ハニヤス自体が八百万になっていきます。言霊要素を組んでみればそこには組む意図に応じた働きを示し、組む実体に応じた次元世界の選択がでてきます。時処位と一言で言ってしまえばそれだけのことですが、書き出せば一生かかります。

たぐるカナヤマに、組むハニヤス、そしていかそれぞれの神に八百万の姿があり、その一つ一つの現れが言霊五十神の生成と同じくし、その使用運用は古事記冒頭の百神の後半五十の記述通りに進行し述べられるというわけです。」

【 次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は 弥都波能売(みつはのめ)の神。 】

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『 尿とは「いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です。

五十の埴土を集めて、その一つ一つを点検して間違いがないのが分ったら、次に何をするか、というと先ず五つの母音を並べてみることでしょう。「五(い)埋まり」です。

その順序はといえば、アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入ります。オウエの三つの葉(言葉)の目が入りました。弥都波能売(みつはのめ)とはこれを示す謎です。日本書紀では罔象目と書いております。罔(みつ)は網(あみ)の事で、五母音を縦に並べてみますと罔(あみ)の象(かたち)の目のようになっているのが分ります。五十の埴土(はに)を並べて整理しようとして、先ず五つの母音を基準となるよう並べたのであります。』

「材料を集めて使用できるものを選別してそして分類します。注意しておきますが、常に意識上の事ですから材料が目前にあるからそれを大きい順に小さい順に、縦方向から横方向から、高いとか低いとかの現象を選んでとりあげることではありません。ここではまだ意識を運用する初歩の時ですからいきなり恣意的な規範を当てはめることは適当ではありません。

まず使えるようになっている五十個の言霊となった意識の時処位を確定してからです。しかし、今現在では判断規範をまだ持たないのに何故、 アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入ります というようなことができるのでしょうか。

それは、五埋まり(いうまり)-要素を組む(くそ)-たぐり寄せる(たぐり)と根源にくだっていきますと、あめつち(吾の眼を付けて智となす)の原動因たる先天の能動因が発動しているからです。別の言葉で言えば私の意識(吾の眼)はイザナギ・イザナミのいざなう能動因から引き継がれ受け継ぎ生成されてきたものだからです。先天的に備わっているからです。もちろんそんなものは感じないし見えません(だから先天)が、古事記は世界で唯一それを可視化することができるので、世界の至宝となっているのです。

(伊勢神宮の心の御柱は先天の世界を象徴していて常に見えないようになっおり、柱であるのに見える現実現象の屋根を支えていません。心の動く働き、心を運ぶ象徴である船の介在によって、吾(私のこと)の間を照らす天照らすを頭上に載せています。)

ここでは、五埋まり(ゆまり)、つまり五の意識を埋めて充実させようとする心の起こるときに出てくる意識です。五の意識とは人の心の五つの次元の事で第一章に述べました。

よく精神次元を十次元だとか十二だとか適当に数を増やしたり、次元数を指摘できないので高次元だ低次元だと言って済ましたりして、増えた分だけ上昇するのだというものがあります。どれもこれも精神意識とその他のごた混ぜで、意識の五つの世界のことではありません。

人の意識には五次元しかありませんし、もしあればその言語表現がどこかにあるのですが、どこにもありません。例えば、神と話した精霊と話したというのも記憶次元のことで、霊の世界を言っているのではなくその時の記憶概念の再起でしかなく、神の世界の事ではなくそのお話でしかありません。神や精霊がいて此処に現れて互いにお話しても、人は人の五次元世界の係わりしかできないので、別に六次元とか十次元とかがあるわけではありません。あっち側の神次元に誘われたらその人はこの世から消えるだけでしょう。

ミツハノメ(三つの言霊の眼)とは。

それにしても何故、 アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入るといわれるのでしょうか。

実はこれは固定していません。ここではア・オウエ・イの順ですが、学校で習う五十音図では、ア・イウエ・オですし、天津太祝詞音図ではア・イエオ・ウになっていてその他にもあります。 まとめると。

ア・オウエ・イ 天津菅麻五十音図の母音の並び

ア・イウエ・オ 天津金木五十音図の母音の並び (学校で習う五十音図)

ア・イエオ・ウ 天津太祝詞五十音図の母音の 並び

ア・イオウ・エ 赤珠五十音図の母音の並び

イ・エアオ・ウ 宝五十音図の母音の並び

中央の三語がみつはのめ( 弥都波能売)です。

中心となる瞳孔がウオエアと変わります。意識の次元層の欲望(ウ)、知識(オ)、選択(エ)、感情(ア)のどれを心の活動の中心(め)に置くかを示します。自分の意識の関心事が中心にきて確定します。アメツチの吾の眼のことで、ここを意識の中心としていきます。中心となる意識の関心事とそれに深い係わりを持つものが両端にきて三つの言霊を形成し、その三つを重要なものとして一つにまとめ浅い係わりを持つものを両側に配置してやはり三葉の眼です。

メの実現に要諦となるものが両脇に付きます。そしてメの意識に遠いものが五埋まりの両端をしめます。それと同時に五次元を柱にすると下から上に向かう方向がその意識の成長発展過程を示すものでもあります。

これが五十音図母音行の見方です。人の意識の関心事の中心は、それぞれ違いますから、五十音図も変化します。例えば

う) お金をとっても、貯めて増やしたいという欲望(う)を中心に置くと金木音図になりその為の経験知識(お)と持続する意志(い)が重要なこととなりすぐ両側に着き、古い金より綺麗な金(あ)のがいいとか金の組成材料(お)には関心がありません。

お) ところがお金の組成材料の知識(お)を知りたいのなら知りたいという欲望(う)と意志(い)の助けが必要になりそれへの感情(あ)と選択(え)の心は遠のきます。

え) また通貨にしようか金にしようか選択(え)するときにはそれらに対する知識(お)と選択への意志の持続が重要で感情(あ)とか金が欲しい(う)とかの欲望はひとまず置いておかれます。

あ) 金の図柄とか色合いとかが気になるなら(あ)それらに対する知識(お)と何を選択(え)するかがもっぱらな関心事として付加され、金を貯めたい(う)とか貯めるぞ(い)とか心は起きないことさえあります。

こうした心の関心事はころころ変わりますから、人はその都度ことなった五十音図を無意識に操作しているわけです。

では母音行を柱にしてその成長を見てみましょう

赤ちゃん自然な成長 ア・オウエ・イ 天津菅麻五十音図の母音の並び

欲望の次元 ア・イウエ・オ 天津金木五十音図の母音の並び (学校で習う五十音図)

選択按配の次元 ア・イエオ・ウ 天津太祝詞五十音図の母音の 並び

概念知識の次元 ア・イオウ・エ 赤珠五十音図の母音の並び

感情の次元 イ・エアオ・ウ 宝五十音図の母音の並び

天津菅麻) 赤ちゃん自然な成長 ア・オウエ・イ い)わけの分からない意志が発生します。え)意思に任せてやたらと選択します。次いで、う)したいしたいの欲望が芽生え、お)習慣学習によって知識が着き、あ)自他との相違を身につけます。

欲望の次元) ア・イウエ・オ お)欲望が起きると直ちに何の欲望であるかの概念に結ばれます。え)すると同時にまた結ばれたものが固定され選択された状態になります。う)こうして理由も分からす欲望であるものに自分が囚われます。い)するとそれを自分のものとすべく自分の意志にしてしまいます。あ)得られる得られないによって感情が起きてきます。

選択按配の次元) ア・イエオ・ウ う)欲しい欲望があることが確認されます。お)欲望の反省知識によって欲望の対象化が可能となり、え)物事を選択することができるようになります。い)その実現には意志を持ってし、あ)結果に感情が伴います。

概念知識の次元) ア・イオウ・エ え)知識を知りたいのに何故知りたいかの自覚はありません。その為知りたいという事柄は恣意的にせんたくされます。う)そこで恣意的に選択されてしまったものが自分のものとなり自分の欲望となります。お)そうすると何々を知りたいという概念知識欲支配され、い)そのまま自分の意志となって自分を立てます。あ)それに結果の感情が付与されていきます。

感情の次元) イ・エアオ・ウ う)自覚された欲しいという欲望がありました。お)それに伴って知識や概念がやってきます。あ)ここに感情感覚が起き自他実在の合一統合がおきます。え)自他の合一が起きましたがその導き方を知らないので自分の行くべき選択を確定できず、い)その方向の彼方に意志の実現があるだろうという目標をおきます。

【 次に和久産巣日(わくむすび)の神。 】

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『和久産巣日とは枠結(わくむす)びの謎。五十の埴土(はに)を集め、一つ一つ点検し、次に五つの母音を並べてみると網の目になっていることが分りました。その網目に他の四十五個の埴土が符号するように並べて整理してみると、五十音全部が一つの枠の中に納まるようにきちんと並ぶことが分って来ました。一見五十音が整理されたようには見えますが、まだこの段階ではこの整理がどんな内容に整理されて来たのかは分っていません。「和久」とは「湧く」ともとれるように、この段階での整理には全体として何か混沌さがある事を示しているということが出来ます。』

「母音世界の整理をして分類していきますとそれはそれなりに現象子音の落ち着く先も決まり、言霊五十音が枠の中に納まりました。ウはウ、オはオ、他でまとまり五段の枠ができましたが、各段の順列は不定です。しかしそれでも一応初歩的・先天的な判断規範(吉備の児島)となります。

赤ちゃん子供の世界は行為働きの仕組みは見通せず不定突発的で予見できませんが、それでもよく備わった(吉備)締まりの中にあります。これは父韻の働きの順位が自由奔放に出てきてしまうことを指します。大人の世界ではモラルの無い姿となってよくでてきます。」

そこで次に父韻の働く順位が検討されます。

次に 泣沢女(なきさわめ)の神が、出てくる番ですが、和久産巣日の赤ちゃんのような自由奔放な判断規範ができると、それなりになんでも応対できます。その和久産巣日の機能を豊宇気ヒメの神といいます。

【 この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。 】

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『豊宇気毘売の神の豊とは十四(とよ)の意で心の先天構造十七言霊の中のアオウエイ・ワ・チイキミシリヒニの十四言霊のことで、豊とは先天構造を指します。

宇気(うけ)とは盃(うけ)で入れ物のことです。

豊宇気毘売全部で心の先天構造から成る入物(いれもの)を秘めているの意となります。

「この神の子」と言う言葉が古事記に出て来る時は「この神の内容、働き、活用法、活用から現われる結論」等を意味します。

豊宇気毘売とは豊受姫とも書き、伊勢神宮の外宮の主宰神であります。「心の先天構造で出来ている入れ物を秘めている神」では意味が明らかではありませんが、この神が伊勢外宮の神である、となりますと、内容が明らかとなります。

和久産巣日の神の内容が「五十音言霊を整理し、それを活用するに当り、先ず「五埋(いうま)り」によって母音アオウエイの順序に従って五十音を並べて枠の中に囲んで整理した働き」が分りました。しかしその整理は五十音図として初歩的に並べたものであって、どうしてその様に並んだのかの内容はまだ不明という事でありました。しかし「この神の子(活用法)である豊宇気毘売の神」が伊勢内宮の天照大神と並んで外宮の神として祭られている事実を考えますと、次の様な事が明らかになって来ます。

金山毘古の神に始まる五十音言霊の整理・活用を検討する作業が進み、最終結論として三貴子(みはしらのうづみこ)が生まれます。その中の一神、天照大神は言霊学の最高神であり、言霊五十音の理想の配列構造を持った人類文明創造の鏡であり、その鏡を祀る宮が伊勢の内宮であります。

その内宮の鏡の原理に基づいて外宮の豊宇気毘売の神は世界の心物の生産のすべてを人類の歴史を創造するための材料として所を得しめる役目の神であるという事になります。和久産巣日の神とは言霊五十音の初歩的な整理ではありますが、その活用の役目である豊宇気毘売の神が、言霊整理活用の総結論である天照大神を鏡として戴く事によって世界中の文化一切に歴史創造という枠を結ばせる事となる消息を御理解頂けるものと思います。』

「 この神の子は、というのは枠(規範)の働きはということ。通常誰でもが規範(枠)を持ってこれが自分の考えたことだ、自分はこうだ真理はこうだと言っています。豊宇気の時点では確かにそれなりの主張がされますが、 それは不安定な恣意的な無自覚的なものです。それでも動き出す規範の働きはそれなりに先天の構造を秘めているということです。記述の順番としてここでは菅麻音図のことですが、最高規範を前にした全ての規範のことでもあります。

絶対正しいと主張しようと独善的であろうと、私の思うことあなたの考えること学者が思索する事、仏陀が教える事キリストが宣教すること、良いとか悪いとかどんな駄目な意見であろうと、天照すの前では天照大神を鏡として戴く事によって、それなりの十四(トヨ)を受けた気を蔵している(ウケ)、 赤ちゃんの手にしている枠規範でしかないということです。

つまり元をただせば皆同じでいいも悪いも、正しいも間違っているもないのです。神も仏も善人も悪人も罪人もないので、現象ができると形になるので光が形に遮られて出来た影を悪だ罪だ反道徳だということになります。

蛭子とトヨ(十四)

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何故この時点で十四受け秘め(トヨウケヒメ)が出てくるかというと、オノコロ島で先ず不完全な蛭子を生んで一般性として世間に放ちましたが、それと同様で意識運用上での一般性を確定するためです。善人の意見であろうと悪人の意見であろうと仏の言葉であろうと神の言葉であろうと、天照すの鏡の前では赤子の枠としての意見に過ぎませんから、それら全てを同様に導くには全てが共通の地盤(十四・トヨ)から出ていることを示すためです。

オノコロ島では女人が先に声をかけました(母音を先に発声した)が、ここでは言霊単位要素が揃っています。しかしその使用順位を知らなく、それでも五十音の枠内の要素が埋まっていますから、それなりに運用できます。ただしそれは無自覚恣意的で勝手な独善的な生成となり、十四(トヨ)の原理を隠していきながら、主張するだけ主張することを可能とさせます。このように主体側の働きが全ての運用意識の形にあります。

ところが先天は十七の言霊原理なのに十四(トヨ)というのは三つ足りません。この足りないのが渡った先のワ行ワ㐄ウヱヲです。すなわち誰でもが自己主張はできますが、結論に渡る術を手にしていないということなのです。赤ちゃんも私もあなたも仏陀も神も同様だということです。それなりの違いはありますが、天照すの鏡の前には誰もが同じということです。」

ここまでの言霊の領域が 吉備(きび)の児島(こじま)と呼ばれます。

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五十音言霊の全部が出揃い、次にその五十音言霊の整理・活用法の検討が始まります。以上金山毘古の神より和久産巣日の神までの六神が精神宇宙内に占める区分を吉備の児島と呼びます。「吉(よ)く備(そな)わった小さい締(しま)り」の意です。児島と児の字が附きますのは、弥都波能売(みつはのめ)という上にア、下にイ、その間にオウエの三音が入った事の確認を基準として五十音言霊を整理し、枠で結びました。吉(よ)く備(そな)わっている事は確認されましたが、その様に並んだ事の内容についてはまだ何も分っていません。極めて初歩的な整理である事の意を「児」という字によって表わしたのであります。

【 かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。 】

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『 こうして伊耶那美の神は火の神を生みましたことで、遂におなくなりになりました、ということであります。但し、伊耶那美の神がなくなられたということは、現代人が考えていますように、人が死んで、身体がなくなり、あの世に魂だけとなって行ってしまった、ということではありません。古神道言霊学は人間の生命を心の側から解明した究極の真理であります。この真理から美神がなくなられた、ということを解釈しますと、次のように言うことが出来ましょう。伊耶那美の神は死んで精神界の純真無垢な言霊のみによって構成されている高天原の世界から離れて、物事をすべて客観的、対象的に見る黄泉国(よもつくに)に去って行った、ということなのであります。

美の神が神避(かむさ)った、ということに関して、私達が注目しなければならぬことがもう一つ御座います。伊耶那岐・伊耶那美の二神は古事記神話の主役として共に力を合わせて子音の創生に当って来ました。そして生れ出るべきすべての子を生み終えて、もうこれ以上生むものがなくなり、伊耶那美の神は神話の舞台である主観世界の高天原から去って、客観世界である黄泉国(よもつくに)へ去りました。高天原には主役として伊耶那岐の命唯一神が残ったことになります。』

「誰もが勝手なことを言えるように設定されましたから、イザナミの出番は無くなりました。主体がそれぞれ言いたい事を言えるのでこれ以上産むものが無くなったことです。」

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主体側の無自覚な判断規範の創造(小豆島)

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【 かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、 】

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『 伊耶那岐の命はその時まで高天原での創造の協同者であった伊耶那美の命を失ってしまいましたので、「わが愛する妻の伊耶那美の命を子の一木に易えてしまった」と嘆(なげ)きました。岐美二神は共同で三十二の子音を生みました。その三十二の子音を表音神代文字火の夜芸速男の神・言霊ンに表わしました。妻神を失い、その代りに一連の神代文字(一木)に変えたという事であります。』

「子之一木は、言霊ンとしては一人の子ですが、どの言霊(三十二)にも一つ木(ひとつづき・一連)の内容が含まれているということで、一であると同時に全体、(=蛭子、=豊宇気)の事を指します。

これからイザナギは一人で活動していきますが、イザナギが取り上げるどの要素もイザナギの活動に対応できる能動因が含まれていなければ反応できないので、どれもが先天から続いていることを示したものです。

どの単音要素も先天の共通原理からできているので、初歩的なメチャメチャな枠(働き)であっても、整理され秩序を見出されるのです。

次段で秩序を求めてそれが実行されます。」

【 御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、 】

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『 五十個の言霊とその表音文字が出揃い、今はその言霊の整理・検討が行なわれているところです。その整理に当る伊耶那岐の命の行動を、妻神を失った伊耶那岐の命の悲しむ姿の謎で表わしています。

御枕方と御足方とは美の命の身体をもって五十音図(菅曽音図)に譬えた表現です。人が横になった姿を五十音図に譬えたのですから、御枕方とは音図に向って一番右(頭の方)はアオウエイの五母音となります。反対に御足方とは音図の向って最左でワヲウヱヰ五半母音のことです。

そこで「御枕方に葡匐ひ御足方に葡匐ひ」とは五十音図の母音の列と半母音の列との間を行ったり、来たりすることとなります。「哭きたまふ」とは、声を出して泣くという事から「鳴く」即ち発声してみるの意となります。』

「心が働く時の配列を探します。実在側と働きそのものの順位と現象の配置です。

母音の配列は既に述べました。心は五次元層で出来ていて中央に最も関心のある事柄が意識の中心と成るようにきて、その両側を次に重要な別の次元層で支え、外側に関心の薄いものが集められます。これがミツハノメ(三つの言霊の眼)でした。

そのような実体次元層を元とするだけでも初歩的な整理は出来それをもって主張がまかり通ることもできますが、所詮他者を寄せ付けない自分だけのものです。

とはいってもイザナギにはミの命が居なくなった今の手持ちの要素は五十の言霊だけです。そこで母音の配置を元に検討が始まります。

腹這いまでして出来た大和の日本語です。腹這いは生理的な反応としてみれば足の裏・下腹から胸・胸郭気管支咽口腔での発声上の反応と意識・心の対応を求めたものでしょう。何世代を費やした知れません。現代でも二千年かかっても解決できない問題はゴロゴロあります。しかしスメラミコト集団は解明してしまったのです。同時に神代文字も形成されていったことでしょう。意識・心に対応する(芸術作品と同じ)ように文字が作られているのが大和の神代文字ですが、これは後に出番がありますので、その時に。」

【 御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、 】

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『 香山(かぐやま・書く山)とは言霊を一つ一つ粘土板に刻み、素焼にした埴(はに)を集めたもの、即ち香山とは「火の迦具土」と「金山」を一つにした名称。

畝尾とは一段高い畝(うね)が続いている処。母音から半母音に連なる表音文字の繋がりの事。その畝尾は五十音図では五本あります。

「その木のもと」とありますから、五母音の一番下イからヰに至る文字の連なりの事となります。涙はその一番下の畝尾に下って来ます。

一番下のイからヰに至る文字の連なりは父韻チイキミシリヒニの八韻です。この父韻が鳴りますと、その韻は母音に作用して現象子音を生みます。』

「御涙(みなみだ)はイザナミの田(ナミタ)で田の形をした五十音図のこと。先天の力動して伝わっているものが、ここの現象子音のイザナミの田においても現れているということで、イザナミの田に植わった一つ一つの苗の言霊(香山)の立ち上がりの元(畝尾)を支える気(木)と、畝全体(五十音図の横の段)の元となる段に、気(能動因)である父韻がいるということです。枠全体としてはイ段の創造意志が下にきて全てを支え、ア行(私、主体)からワ行(あなた、客体)へ渡る力動となります。」

【 名は 泣沢女(なきさわめ)の神。 】 【小豆島(あづきじま)またの名は大野手比売(おおのでひめ) の領域 】

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『涙はその一番下の畝尾に下って来ます。

一番下のイからヰに至る文字の連なりは父韻チイキミシリヒニの八韻です。

この父韻が鳴りますと、その韻は母音に作用して現象子音を生みます。父韻は泣き(鳴き)騒ぐ神です。そこで名を泣沢女(なきさわめ)の神と呼びます。

泣くのは男より女に多い事から神名に泣沢女の神と女の文字がついたのでありましょう。

小豆島(あづきじま)またの名は大野手比売(おおのでひめ)

泣沢女の神の座。また五十音言霊の音図上の整理・確認の作業の中で、八つの父韻の締めくくりの区分を小豆島(あづきじま)と言います。明らかに(あ)続いている(づ)言霊(き)の区分の意です。大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。八父韻は横に一列に展開しています。

菅曽音図の一番下の列、言霊イとヰとの間に展開している八つの父韻に泣沢女の神と名付けた事について今一つ説明を加えましょう。法華経の第二十五章の「観音普門品」に「梵音海潮音勝彼世間音」(ぼんおんかいちょうおんしょうひせけんおん)という言葉があります。

梵音と海潮音とは彼(か)の世間で一般に使われている言葉に優(まさ)る言葉である、の意です。その梵音とは宇宙の音、即ちアオウエイの五母音の事です。また海潮音とは寄せては返す海の波の音の事で、即ちこれが言霊学で謂う八つの父韻の事です。宇宙には何の音もありません。無音です。

もっと的確に言えば宇宙には無音の音が満ちているという事です。何故ならそこに人間の根本智性である八父韻の刺激が加わると、無限に現象の音を出すからです。八つの父韻は無音の母音宇宙を刺激する音ですから、泣き(鳴)騒ぐ音という事となります。

父韻が先ず鳴き騒ぐ事によって、その刺激で宇宙の母音から現象音(世間音)が鳴り響き出します。梵音(母音)と海潮音(父韻)は人間の心の先天構造の音であり、その働きによって後天の現象音が現出して来ます。「勝彼世間音」と言われる所以であります。

お寺の鐘がゴーンと鳴ります。人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。正確に言えばそうではありません。実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。

では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。

音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。

ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。

八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。』

「ゴーンと鐘が鳴る、実は、鳴っていないといわれてびっくりします。

鳴き騒ぐのは心です。身体は心に合わせて震えます。

鐘の音を聞いた時から始まる知識はどうなるのでしょうか、聴覚に限らず五感を取り上げられる事になります。五感感覚を元とした数千年の知識は砂上の楼閣でしょうか。

先天は、母音半母音父韻親韻、意識で捉えられません。前段で母音の並びを述べました。意識出来ないものを述べたのですから、父韻も出来るわけです。まるで手品みたいですが心の原理となっている古事記があるからこそ可能なのです。

そこで今度は父韻の配列になりますが、既に解明された解説があるので、私もそれを頂いて真似ているだけです。常々自分で父韻の配列を確かめたいと思っていますが、なかなかそうもゆきません。

父韻の配列

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言霊世界を寄せあつめて整理したら五層の意識世界ができました。五元素、五行、五重の塔、五大天使、等の古代に流布された各宗教の思想の元はスメラミコトによってそれぞれの教祖に授けられたものです。しかし、そこでどのような世界思想宗教を見ても、父韻の解説はないのです。宗教は現実問題に何の力もないように作らされているのです。整理して結ばれた枠の範囲で勝手に動く能動韻の世界が示唆されているだけです。

これが今後の基礎となるようになっていますからそこから始めます。

アメ。

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ものを聞く見る等の始まりは、古事記によれば十七の先天構造の吾の眼が着くことから始まります。雨が降りだせば全てに付き濡れます。私の何にでも付く意識である吾の眼と同じで、全ての人や事物の頭上に分け隔てなく付いた天(アメ)とも同じです。

ウアワヲオエヱ。

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付いた最初の現れは、付いたという自他の区別の無い直接感情(ウ)です。私が付いたのか相手が私に付いたのか分別する以前です。続いて直ぐに自分が相手に付いたという自他の剖判感(アワ)になります。付けば何に付いたのかと概念知識が出てきて(ヲオ)、これから何に付こうかと選択(エヱ)されます。そしてそこに付き方の相違が父韻によってでてきます。

チイ(う)・キミ(をお)・シリ((えゑ)・ヒニ(あわ)。

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自他の区別の無い直接感情(ウ)を表すのがチイの父韻です。チ(T)のそのまま現す能動韻とイ(Y)のそのまま持続する直接今が現れる能動韻です。

付いたものが何であるかの概念記憶(ヲオ)を自分に引き寄せるのがキ(K)の父韻で、相手側に結び付くのがミ(M)の父韻です。過去知識を今にもたらすか、今を過去に結ぶかです。

ではこれから何に付こうかと選択(エヱ)されるときに自分を判断の地盤とすると父韻シ(S)の働きとなり、それを拡げようとするのが父韻リ(R)になります。今の手持ちを未来に向けるか、未来に流布するかです。

すると直ぐに自分が相手に付いたという自他の剖判感(アワ)をもたらし、自他の表面に充足を得るようにするのが父韻ヒ(H)であり、自分の心にある相手側に煮詰めていく能動韻が父韻ニ(N)です。自分の表面で全体を見通したとするか、自分の内面で全体を見通したとするかです。

さてイザナギが腹這いになって鳴き叫んで研究した父韻の配列です。私たちは戴いて利用する立場ですがそれでもうまく理解できません。

上記にチイキミシリヒニの順にでてきますが、これは心の動きの原理としての順位です。吾の眼が付いて智に成る瞬間の意識の動きですから、ものが欲しい、事を考えてみる、という現象を扱う時とは違います。現象を扱う父韻の配置はもっと後から出てきます。

ここではいわば、始めの言霊ウが出てくる瞬間です。

今現在の時間層。

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瞬間ではあっても時間の流れの中では、何かあるものが付こうとする前、付いている時、付いてから、というような過去現在未来の経過があります。

今現在とは何かには、過去から今現在に付く時の今現在と、付いている今現在と、付いている今現在が未来に向かうときの今現在と、これらの様態を全体として見ている今現在、という四つの今現在があります。

この四つの今現在がそれぞれ母音世界と父韻の力動に対応していきます。

四つの今現在と母音世界と父韻の力動。

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過去から今現在に付く時の今現在は、言霊オ・ヲの世界と父韻キ・ミの過去からもたらすか過去に結びつけるかの力動の違いの現れとなります。。

付いている今現在は、言霊ウ・ウの世界と父韻チ・イの直接顕現とその持続力動の違いの現れとなります。

付いている今現在が未来に向かうときの今現在は、言霊エ・ヱの世界と父韻シ・リの自己判断を静めるか拡げるかの力動の違いの現れとなります。

これらの様態を全体として見ている今現在は、言霊ア・ワの世界の心の表面に開くか内面に煮詰まるかの力動の違いの現れとなります。

ただ普通に今という時は、以上の諸相を自覚的にか無自覚にどれかをかまとめて提出された見方です。

そこで今現在が今此処で動くことになると、八つある能動韻のどれかが、四つの次元層を選んで、初頭としての場をしめます。八つの全ては今現在という一点にあるものですので、どれがこうだと指摘するのは至難の技です。イザナギが腹這いで騒ぐところです。イザナギというよりスメラミコトの聖集団による数世代に渡る研究だったことでしょう。

ということで、瞬間とは八つの心の事を指します。

今という瞬間は八つに分類でき、それぞれがウオエアの言霊母音世界と結び付きますから三十二の今という瞬間の現象を作ります。こうして撞いても鳴っていないお寺の鐘を三十二の違う心で聴く事になります。

濁点と過去。フトマニ。

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八つの父韻はどれでもが今の一点を示しますがどれでもが初頭にくるわけではありません。というのも八つの力動韻は四つの妹背でできていますから客体側になるものを除きます。するとチキシヒの四つが残ります。(注意。今していることはイザナギが鳴き騒いだ研究の真似ではなく出来上がったものを解釈しているだけのものです。)このチキヒシが父韻の主体側能動韻となっているものです。過去現在未来に移動できますから、それぞれに濁点を付けて過去を示すことになりました。

この主体側の能動韻四つがアイウエオの五次元に係わると二十の言葉ができて、意識は過去現在未来を表明することができるようになります。この二十をフトと読ませてフトマニのフトに混ぜて秘密を隠没して、フトマニとは占いの事であるという解釈を残しておきました。ですので、言霊の総数を濁点なども勘定して五十以上にすることは間違いなのです。

また四つの今を示す様態の内、未来にまたがるのが一つありますからそれを拗音のヒ行(パピプペポ)で現し、現在未来のつながりを示しました。

父韻の初め。

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時の流れの一瞬の内に先天の全てが含まれていると入っても、時間の切り取り方によりますので、あてになる言い方ではありません。先天の母音世界は瞬間であり無限です。例えば、アッ、と叫べばその音波は弱まっても時空に無限に拡がっていきます。彼方の宇宙人の声を聞こうという企画もあります。星の光などは億万年前の光を見ているのだし、敏感な方はマリア様の声を聞いた釈迦の声を聞いたなどともいいます。全ては宇宙に充満しているのですから当然でしょう。梵音とか、谷神は死なずとか、無音の音とか、いわれるものです。母音行世界の事を指したものです。

この世はそこから出てくるしかありませんが、その出てくる原因が人間側にある係わりを作り出す父韻です。

人間側の係わりが母音世界と共鳴共感するときに、係わり方に応じて現象となります。人間には五感ができています。鐘は耳で聞きますが、像の足裏は数キロ先の他の像の歩きの振動を捉えるといいますし、昆虫は他の木の枝にいる求愛相手を探すときに、自分の居る枝から振動を送って自分の居場所を伝えるといいます。特定の周波数だけは驚異の送受信能力があります。

そこで人には母音世界を父韻で切り取り、子音という現象を作って相手に与え共感共鳴を得る能力があります。(断っておきますが、父韻というのは父音ではなく、韻・響きです。韻を音にしてしまいますと、五十音ではなく七十だ七十五だ、四十七だ四十八だという議論になります。)それが今の瞬間を分析したときにできた父韻の四つの様相で、そのそれぞれに能動側受動側があるので計八つです。

そこで事を起こす初めですから能動側のチキシヒが得られます。

初動。チか、キか。

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初めというものには、相手側がやってきてその反応反作用で始める事と、自ら始める事の二つの形があります。父韻シは自分の判断をもって事を静めようと止まってしまい、父韻ヒは自分の表面に開いて充足を得て止まってしまいます。

すると残るのが、チとキで、反応反作用で事を始めるのが、父韻キの自分に引き寄せてから始まる事に相当してきます。

そして自分の全体をそのまま現す父韻タが、自ら始めるときの初動に相当します。

こうして、初動の姿は、父韻キを持って始めるか、父韻チを持って始めるかのどちらかになり、と同時に、無自覚か自覚的かの違いともなっていきます。

父韻キを持って始まる。ウ・オの次元。

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五感感情によって得られたものからはじまるばあいには生理的な反作用として後から自分が出てきます。喰いたい大臣になりたい金儲けがしたい知識を得たい、なども欲望の出所の自覚はなく反射反作用として自己を立てていくだけです。更に概念知識に対する疑問を持つ場合も同じで、自分の疑問を出しているように見えますが、疑問を感じさせられて自分を立てていくので、その疑問の中心となる関心事を先ず心に掻き寄せる事になります。

その獲得所有は欲望ならば手段を問わず自己の所有物にすることにあり、知識は自分の頭に記憶や論理思考や多様な概念の所有となって現れます。また欲望も知識も進歩と前進が関心事になります。ですので所有することを人間の進歩としてしまいます。

父韻タをもって始まる。ア・エの次元。

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自分の自覚のあることならその自覚をもって始まります。そのことに関する宇宙世界はその人のものとなっていて、その自覚の全体をもって始まります。感情がハッキリ得られている事柄ならその事柄がまず立ち上がります。あるいはどうするかの選択をするときなどは選択するものの全体世界が先ずあります。

ここでは自分に手に入れる所有は問題ではありません。 感情は自分のものとして明らかですのでその保持と得られた感情との自己同一性をつまり自覚を探すことが重点になります。自覚の保持はその保つ根拠を自らに明らかにしなければなりませんから、それを求めて過去の正当性に遡ります。つまり退歩をもっぱらなこととします。

欲望や知識の世界が前進を事としたのに対して感情(芸術・宗教)の世界は退歩を自己の関心事とします。退歩の行き着く先は天の御中主で自分と世界の統一同一感のある世界です。

エの次元世界はそこから始まります。

終わりを知らないウとオの次元世界。

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始めは言霊チか言霊キになりますが、ではどのように終えるのでしょうか。

欲望次元にはキリがありません。個人が使用消費する分に上限がありません。経済社会では会社も金融業に係わる者たちには自分自身というものがなく、消費する自分というものがありません。アイウエオ五十音図は流浪のら行で際限のない終わり方を示しています。このお蔭で世界の発展がありました。

知識次元の世界も同じで、次の疑問の始まりとなる結論しか提出しませんから、知識の進歩という名目で留まるところを知りません。ですので完結した自覚した自分を立てる事ができません。

終わりを知らないが始めは知っているアの次元世界。

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宗教に入信したのはいいけれど終わりを全うできない人だらけです。どれほど堅固な信心を持とうと自分を完結する事ができません。というのも自分の動きの彼方に未来の目標が設定されているからです。自己努力は現在の基本要求ですが、宗教によって指示されたものは、あちら側とか時の彼方に自己実現の姿を置いていますから、現在において自己を完結する事を知りません。

しかしこれによって欲望や概念世界から加えられる負の要因への反証担保を得た事になり、弱肉強食生存競争からの不安萎縮に抵抗する力を得ます。

始めも終わりも知っているエの次元世界。

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アの次元世界を超えることなくエを語り始めると、真似事とは言っても素振りをした上での満塁打というようなものなので、止めておきます。

イザナギは鳴き騒ぎに騒いで父韻の順位を確定しましたが、私にはまだ無理ですので、後ほど時置師の段落でも同じ問題がでてきますのでそこで再挑戦します。

【 かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。 】

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『 出雲とは出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。

伯伎の国と言えば母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。

比婆(ひば)とは霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます。

伊耶那美の神は火の夜芸速男(やぎはやお)の神(言霊ン)という火の神を生んだので御陰(みほと)が火傷(やけど)し、病気となり、終になくなられた、という事です。これを言霊学の教科書という精神上の事から物語るとどういう事になるでしょうか。伊耶那岐・美二神の共同作業で三十二の子音言霊が生まれ、それを神代表音文字に表わしました。ここで伊耶那美の神の仕事は一応終ったことになります。そこで美の神は高天原という精神界のドラマの役をやり終えて一先ず幕の影(三十二の子音の中)へ姿を隠してしまう事になった、という訳であります。』

「境はさかいで、さかあい・さがあいのことで性(さが)合い、父韻(出雲)と母音(母気)の性が合って子現象(ひば)を産み、三十二の子音の中にかくしまつられたところです。

これからは現象子音を得るたび、手にするたびに隠れたイザナミと対面しますが、イザナギの精神活動があるところに顔をだします。

イザナギと対応して出てくるので、未熟なイザナギなら未熟に、不完全なら不完全にといった具合ですが、そのような判断規範は先天に理想的な完璧な判断力があるから成し得ることです。」

イザナミの客体側が隠れましたので、イザナギの主体の活動の詳細が語られます。

その精神領域を大島といい、主観的な大いなる価値を持った言霊が発露する区分になります。

どうしても主張したい・主張せざるを得ないような主観的な判断が出来上がる詳細です。

主観的な判断操作

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十全な判断力である十拳剣の元に語られます。

チ) 石拆の神は、実体五次元世界への判断力。 知っていること、関心のあることなら自分は何でも喋れるぞという主観。

イ) 根拆の神 は、八父韻の働き。主観内のことなら理路整然と話していられる積もりになれる主観。

キ) 石筒の男の神は、縦にも横にも連絡が取れている確認。 時処位過去にも未来にも考えを発展できる積もりの主観。

ミ) 甕速日の神 は、連絡が取れている中の言霊要素の確認。自分のの表現が正当であるという積もりになれる主観。

シ) 樋速日の神 は、言霊要素が実際に連絡し合っていくこと。自分の主張で事が成る積もりでいられる主観。

リ) 建御雷の男の神 は、主観的になら何でも主張できる判断規範を得る。自分にとってなら全ての正しさを与えられ全体絶対規範

ヒ) 闇淤加美の神 は、十本指を次々に握る形で判断すること。元あるグーの形に一つ一つ羽が噛み合ってくる。

ニ) 闇御津羽の神 は、握った十本指を一つ一つ開く形で判断すること。展開されたと思われる形に一つ一つ近づき煮詰まる。

注意。両端にイ㐄(ギミの命がいない)。

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主体内の自覚的な判断規範(大島)

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【 ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、 】

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『ここに初めて古事記の文章に剣という言葉が出て来ました。古事記のみならず、各神話や宗教書の中に出る剣とは物を斬るための道具の事ではなく、頭の中で物事の道理・性質等を検討する人間天与の判断力の事を言います。形のある剣はその表徴物であります。この判断力に三種類があり、八拳、九拳、十拳(やつか、ここのつか、とつか)の剣です。

十拳の剣の判断とは

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どんな判断かと申しますと次の様であります。十拳の剣とは人の握り拳(こぶし)を十個並べた長さの剣という事ですが、これは勿論比喩であります。

実は物事を十数を以て分割し、検討する判断力のことです。

実際にはどういう判断かと言いますと、十数とは音図の横の列がア・タカマハラナヤサ・ワの十言霊が並ぶ天津太祝詞音図(後章登場)と呼ばれる五十音図の内容である人間の精神構造を鏡として行なわれる判断の事を言います。

この判断力は主として伊耶那岐の神または天照大神が用いる判断力であります。

迦具土の神とは

前に出ました火(ほ)の夜芸速男(やぎきやを)の神・言霊ンの別名であります。古代表音神名(かな)文字のことです。

頚(くび)を斬る、という頚とは

組霊(くび)の意で、霊は言霊でありますから、組霊(くび)とは五十音図、ここでは菅曽音図の事となります。

十拳の剣で迦具土の頚を斬ったという事は、表音神名文字を組んで作った菅曽音図を十拳の剣という人間天与の判断力で分析・検討を始めたという事になります。

という事は、今までは言霊の個々について検討し、これからは菅曽音図という人間精神の全構造について、即ち人間の全人格の構造についての分析・検討が行なわれる事になるという訳であります。』

湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、

湯津(ゆず)とは五百個(いほつ)の謎です。五百個(いほつ)とはどういう事かと申しますと、五母音の配列である菅曽音図の意味を基調として五十音図を作り、この五十音図を上下にとった百音図の事を五百個と申します。

(湯津、ゆつ。櫛の材料となるユシの木からの変化した言葉。古代ではミズラを留めていた。材質が固いため櫛目は荒く縄文時代の櫛は九本しかないのが出土している。中世皇室では天皇は一日一本ぐらいの使い捨てをしていた。櫛は五十音図の上段と縦の行でまとめた物に似ている。ここでは総じて判断材料となる言霊五十音図を指す。)

石村(いはむら)とは五十葉叢(いはむら)の意。

湯津石村の全部で五百個の上半分の五十音図の意となります。湯津石村に走(たばし)りつきての走りつきてとは「……と結ばれて」または「……と関連し、参照されて」の意となります。』

「主体側の活動を始めるに当たって活動できるだけのものがなければなりません。オノコロ島で、天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちてで始まり、神産みで、既に国を産み終えてで始まり、ここでは十拳の剣を既に持っていることから始まります。私自身が存在する前に両親とその働きがなければならないようなものです。

判断の働きを得られた現象に適応してみると、実体と働きの全体から道理(血)が出てきたことです。ここでも吾の眼が付いて血(智)がでてきてあめつちに成ることです。

理想的な判断力を得ようとして現に持っていないのに、理想の判断力を用いるといっています。これは言葉の綾ではなく、この運用循環によって正当な判断力へ成長していきます。」

【 石柝(いはさく)の神。次に 】

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『五十音図を分析して先ず分ったのは石柝(いはさく)の神ということです。

石柝とは五葉裂(いはさ)くの意。五十音図が縦にアオウエイの五段階の界層に分かれていることが分った、という事であります。即ち人間の心が住む精神宇宙は五つの次元が畳(たたな)わっている状態の構造であることを確認したのでした。

人間の精神に関係する一切のものはこの五つの次元宇宙から表れ出て来ます。これ以外のものは存在しません。「五葉裂く」の道理は人類の宗教・哲学の基本です。

この五つの次元の道理を世間の人々の会話の中で観察すると、そこに顕著な相違があることに気付きます。先ず

言霊ウの次元に住む人同士の会話は、その各々の人がある物事について語り合う場合、各自の経験した事柄をその起った時から終るまで順序通りに羅列するように、一つの省略もなく喋(しゃべ)ります。従って会話は長くなります。若い者同士の電話の会話はその典型です。

言霊オの次元に住む人の会話には抽象的概念の用語がやたらと飛び出します。所謂「〇〇的」という言葉です。社会主義新聞の論説はその良い例であります。次に

言霊アの次元に於ては詩や歌が、

言霊エの次元では「何々すべし」の至上命令が典型となります。

言霊イの次元に住む人の口からは、言霊が、または他の四次元ウオアエの次元に住む人々それぞれの心に合わせた自由自在の言葉が出て来ます。以上、人間の心の進化の順序に従ってそれぞれの次元の会話の特徴についてお話しました。その人の会話を聞いていると、その人の心が住む次元が良く分って来ます。

但し自分の心が住む次元より高い次元の話の識別は出来ません。識別出来るのは自らの心の次元以下の人についてのみであることを知らねばなりません。』

「人間の精神宇宙が五次元世界からできているとはいっても、我々の次元では、特にこの論考では単なる知識次元での見方が強く、スメラミコトが遺した言霊イ次元で解明されたものを、知的に追体験しているだけのものです。ですので書き方も、そして読む方の皆様も知的な関心に沿って進めているだけだと思います。

もしそれだけのものなら、古事記を心の原論として読む事など単に知識が拡がるだけのことで、古事記の想定する世界創造には何の必要もなく、アエイの次元世界にも関係のないことです。

ところが古事記の凄いところは、我々を導く力を持っていることです。本章の冒頭に書いた如く今は単に、

主体内の自覚的な判断規範(大島)が出てくる経過を示してくれ、さらに次次があるといっています。つまり、こういった口上ごとを述べるのも、読む側の賛同も異議も、経過上の一成果ということです。」

《イワサクの神 言霊チのウイヂニに対応。

どのような心の世界も母音次元世界(イワ)から出てきますが、それを分析(サク)すると主観内で五つ(五葉)になることが了解されたと分かる。

イワは実在世界が五つの次元層で出来ていてその全体のこと。主観判断は最初に現れてくる全体にたいするもので、自分の位置がどこから出てくるかどこにいるかの全体における位置取りを提起すること。五層がそれぞれ十個で出来ている。(自覚の程度により八九十のこと)》

【 根柝(ねさく)の神。 】

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『 根柝(ねさく)は根裂(ねさ)くの事です。今検討している音図は菅曽音図のことで、母音がアオウエイと縦に並びます。その五母音の一番下は言霊イであり、五母音を一本の木と見れば根に当ります。その根の五十音の列は言霊イとヰの間に八つの父韻が横に並んでいます。その根を裂けば、八つの父韻の並び方の順序と、その順序に示されるように母音に始まり、半母音に終る現象の移り方がより確認されます。』

「単に知識として読んでいけば、通常の解説書と違う、こんな解読もあるのかというだけのことです。 五葉裂(いはさ)くでは、五次元世界を裂くことを要求され、ここでは音(精神創造の基底音)を裂くことが要求されます。

五葉裂くは実体世界を斬り裂いてみて五層の世界を確かめました。ここでは切り裂く働き自体を確認しようと切り裂きます。読んでそれなりの了解を得てそれなりに表現しますが、表現している自分の意見だけはそれなりにどころではありません。自分の全てであり真理として昇華しようというものです。ところがそれも全体の中では十人十色の一つとなるだけですがその自覚を拒否することが多い。

根(音)には八つあることに気付いていません。気付かない変わりにせいぜい他人の意見は尊重しましょうといいます。概念操作の中にいては自分を相対化できません。自分の過去知識と練り合わせて正しいと心に決めてそれを名目にしているのですから、自分の言葉を相対化することさえしません。」

《ネサクの神 言霊イのスイヂニに対応

次に、五層が確認されるとそのどれをも運用できる原動因があることになり、裂きつづける判断力を最下段(根)の創造意志の次元を見出す。父韻の働きの実在を自身に確認する。

この確認の度合いはその人の住む次元層・欲望・知識・感情・選択の現れとなる。》

【 石筒(いはつつ)の男(を)の神。 】

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『 石筒は五葉筒(いはつつ)または五十葉筒の意です。

五十音図は縦に五母音、五半母音または五つの子音が並び、これが順序よく人の心の変化・進展の相を示しています。

また五十葉筒と解釈すれば、五十音図が縦に横に同様に変化・進展する相を知ることが出来ます。筒とはその変化・進展の相が一つのチャンネルの如く続いて連なっている様子を表わします。

石筒の男の神の男(を)の字が附いているのは、その変化・進展の相が確認出来る働きを示すの意であります。』

「後に出てくる三柱の筒(底筒・中筒・上筒)神とは意味合いが違います。ここでは未確定な相手・結論に向かって試行錯誤の筒の中を通ることですが、三柱の筒では相手を見ながら自在に筒中を通ります。

縦横の主観的な思考筒の運用ですので、主観の展開としてどこにでも口を出すことができます。」

《イワツツの男の神 言霊キのツノグイに対応

ツツは水筒・入れ物容器で、自分の心の宇宙の中から手持ちのツツに自分だけの関心事を掻き寄せ集めようとする。主体意識の実相。》

【 次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、

甕速日(みかはやひ)の神。 】

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『甕速日の甕(みか)とは五十個の言霊を粘土板に刻んで素焼きにした五十音図の事です。

速日の日は言霊、速とは一目で分るようにする事の意。

甕速日全体で五十音言霊図全体の内容・意味が一目で分るようになっている事の確認という事です。

音図の内容の確認には大きく別けて二通りがあります。

一つは静的状態の観察です。五十音言霊がその音図全体で何を表現しているか、を知ることです。どういう事かと申しますと、この五十音言霊図は菅曽音図か、金木音図か、または……と、この五十個の言霊が音図に集められて、全体で何が分るか、ということの確認です。これを静的観察と言います。』

「自覚無く自分の心の内に起きてきた主観意識ですが、それなりにその人の全宇宙の現れで(イワサク)、それが持続していくことで(ネサク)、恣意的に設定された目的を求め(イハツツ)、それに結び実を得ようと(ミカハヤヒ)します。 」

《ミカハヤヒの神 言霊ミのイクグイに対応。

掻き繰ったものに結び着くことが自分への結果として現れるように実となり、自分の手持ちとして形(ミ)に現れて明らか(カ)に、(ミカは明らかに刻まれた粘土板)なるように確認していくこと。客体意識の実相。》

【 樋速日(ひはやひ)の神。】

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『樋(ひ)速日の樋(ひ)とは水を流す道具です。

この事から樋速日とは言霊(日)が一目で(速)どういう変化・進展の相を示しているか、が分ることの確認という意となります。

五十音言霊図では母音五つからそれぞれの半母音に渡す子音の実相の動き・変化の流れが一目で確認出来る事を言います。』

「結ばれたものを自分の元に早く落ち着かせようとする一方、」

《 ヒハヤヒの神 言霊シのオホトノヂに対応。

樋・ヒはといで水を流すもの。目的物を素早く(ハヤ)流しやり安定して静める心をもたらすことを確認する精神意識で、落ち着き静める為にヒ・霊を素早く結果へ導く心。速・ハヤという主観行為の内実から見たもの。》

【建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。 】

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『建御雷の建(たけ)とは田気(たけ)の意です。

田とは五十音言霊図のことで、その気(け)ですから言霊を指します。

雷(いかづち)とは五十神土(いかつち)の意で、五十音を粘土板に刻んだものです。

自然現象としての雷は、天に稲妻(いなづま)が光るとゴロゴロと雷鳴が轟(とどろ)きます。同様に人間の言葉も精神の先天構造が活動を起すと、言葉という現象が起こります。

言葉は神鳴りです。』

「 それを自分の意識として他に拡げ影響を与えたくも思います。」

《タケミカヅチの男の神 言霊リのオホトノベに対応。

自分に固め静めようとすると同時にそれを述べ拡げようとする。拡げようとするものは自分に固め静めたもの(ミカ)で、それは主観的なタケ(田気・五十音図)で、自分以外の相手に素早く付こうとする(ミカ・身・実を付けて相手の地に成ろうとする、ミカ付く地)》

【御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、

闇淤加美(くらおかみ)の神。】

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『御手繰りの操作に二通りがあります。開いた十本の指を一つ二つと次々に折り、握って行く事、それによって宇宙に於ける一切の現象の道理を一つ二つと理解して行き、指十本を握り終った時、その現象の法則をすべて把握した事になります。この道理の把握の操作を闇淤加美(くらおかみ)と言います。

十本の指を順に繰って(暗[くら])噛(か)み合わせる(淤加美[おかみ])の意です。そして十本の指全部を握った姿を昔幣(にぎて)と呼びました。握手(にぎて)の意です。また物事の道理一切を掌握した形、即ち調和の姿でありますので、和幣(にぎて)とも書きました。』

「そこで拡がりのある全体としているものを指折り自分に引き寄せると同時に」

《クラオカミの神 言霊ヒのオモダルに対応。

静め固めるのも述べ拡げるのもその操作に二通りあり、指を一つ一つ折り握っていく(くくるのク)ことで拳となって握り終わったときに、自他の気(霊意味内容)を拳の暗(闇クラ)い内部に閉じ込める事で、そこにある(オ緒尾)ものの噛み(カミ)合わした内容を得る。》

【闇御津羽(くらみつは)の神。】

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『指十本を闇淤加美として掌握した物事の道理を、今度は指を一本々々順に起して行き、現実世界に適用・活用して、第一条……、第二条……と規律として、また法律として社会の掟(おきて)を制定する事であります。掟とは起手の意味です。

闇御津羽とは言霊を指を一本々々起して行く様に繰って(闇)鳥の尾羽が広がるように(羽)、その把握した道理の自覚の力(御津・御稜威[みいず])を活用・発展させて行く事の意であります。 』

「自分で握っている自己意識を相手に向かい押し広げ対象内に煮詰めようとします。」

《クラミツハの神 言霊ニのアヤカシコネに対応。

握るのと反対に拳を開いていくことで、相手側に煮詰まり付いていくこと。握っていた拳の暗(クラ)い中にあるもの(現象となる実体でウオエの御稜威・ミツハ)を主観的に顕現させる。》

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客観表現の規範(姫島) へ続く。

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