こ 心の運び方言霊ア・イ・ウ・エ・オの時置師

ア 心の運び方 言霊アの時置師。

イ-チキリヒシニイミ-○

言霊アの次元とは宗教家や芸術家の心です。

そのア段の父韻の配列は、イ・チキリヒシニイミ・○です。

イ) アの次元に至って人は自己の本性即宇宙であることを自覚します。母音の自覚を得ます。

チ) それゆえ現象となる父韻の配列の第一には宇宙そのものが現象となる韻であるチとなります。ア次元でありますゆえ、その行動の最初は感情の宇宙がそのまま発露されることを示します。

キ) その次に、その時そのところの一つの関心事悪いはテーマが、心の中から掻き寄せられ、

リ) 心の中にいっぱい発展拡大されて、

ヒ) 一つの表現を得、

シ) その表現がここの中に行動の目的となって固定され、

ニ) そこから行動の名目が定まり、

イ) それが行動となって動き、

ミ) その方向のかなたに目標の実現があるであろうことを指し示し、訴えます。

○) 八父韻の配列の最後がミで終わることは、その指示するものが基本要求であり未来の目標であるに留まり、いま・ここの一瞬において完結した思考体系でなく、結論は時の経過に委ねられます。半母音の自覚を欠くことになります。

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言霊アの段階。

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「自分のものにする」という言葉があります。物であれば金を出して買って自己の所有物とすることです。知識で言えば、それを暗記しているだけでなく、概念・理論・法則をよく理解して、論理的思考を駆使することかできるようになることです。

ところでこの第三段階の言霊アにおける言霊の勉強は、言霊を自己のものとすることではなく、言霊が自己の生命そのものであることを知る始めの段階、といったらよいでしょう。このことを知ることは自覚という言葉に最もふさわしい事実ということができましょう。「天上天下唯我独尊」と仏教で申します。

宇宙において我一人と尊しとはなんと高慢な態度と思われるかもしれません。けれども、 自分の心の中を深く見つめていって、ついに、自分の心の根元が宇宙そのものであり、その宇宙から現れた自分の構造内容を知ることによって、とりもなおさず、人間を、社会を、世界を、知ることができるのだと知ったならば、 天上天下唯我独尊とは真理なのであり、真実であり、決して高慢な自惚れではないこととなりましょう。

自覚とはこういう種類の確認を言うのです。

第一の言霊ウと第二の言霊オの段階の学習態度は進歩をめざすことです。欲望を遂げるには一にも二にも前進することが基調となります。学問する言霊オの心構えも広く本を読み、多数の人の話を聞き、質問するなど進取の態度が必要です。一つでも多くの経験を積みそれを少しでも広い理論体系に概念的に心の中で組み立てていくことであります。

この二つの世界においては他人より強く大きいよくぼうを持ち、その経験を少しでも他より広い確かな理論体系にまとめた人が勝ちとなるはずです。進歩が学習の基本です。

ところが第三段階の言霊アの勉強になるとその心構えが逆転します。その態度の基調は退歩なのです。「天地の初発の時高天原になり増せる・・・」(古事記)、「元始に神天地創造たまえり」(旧約)、「太初に言あり」(ヨハネ伝)。この『はじめ』すなわちいろいろな心の現象が起こっては消えていくその本源の宇宙の自覚の次元が言霊アです。

とすると言霊ウの次元の経験と、言霊オである概念的把握という二つの個人的見解では、 どうしても、その見解が出てくる元の世界は捉えることができません。経験と概念理解を無限に積み重ねれば起こってくる現象はそれだけ正確に捉える事はできるでしょう。

けれどもその現象が起こる以前の、または、その現象が消えてしまった後の、何も無い宇宙そのものをとらえる事は決してできない道理です。ここでは進歩の追求態度は通用しないのです。それでは言霊アの把握の方法には何があるというのでしょうか。

そこに退歩の学が登場します。

人間が初めてこの世に呱々の声をあげて生まれ出た時、その心は真白で汚れないものでありましょう。まさに神の赤子です。その後に身につける経験や・意見・希望・理想等々の個別的見解を持っていないためだということができます。

これら種々の見解の基礎成る知識・経験は人間精神の成長にとって欠く事ができず、またその知識・経験の獲得によって自我を形成していくのですけれど、同時に人間はその自分の持つ価値判断の基準となる経験・知識の体系を本来の自分自身だと思い込んでしまいます。そして各自の経験・知識が触れ合うところに競争・議論・反発等の騒動も起こってくるものです。

いま、人間がこのような精神成長の過程で、経験・知識によって形成された人格の有限さ・狭さ・不自由さに気づき、何もの・何事にも制約されない精神の自由の境地があることに気付く時、その探求の態度はそれまでの進歩をめざすことから百八十度の転回を余儀なくされるのです。

それまで自我を成長させようとせっせと集めてきた経験や知識が、実はすべて他人や社会からの借り物であり、本来この世に生まれ落ちた自分自身とは別のものであることを心の中に確かめていく作業を始めねばなりません。いままで一生懸命集めて自分の着物として重ねて着込んできた経験・知識・信条等を、一枚一枚脱ぎ去っていくのです。それ以外に精神的赤ん坊に帰る途はありません。

この精神ないのUターンすなわち反省に、おおむね二つの方法が考えられます。宗教でいうところの自力と他力です。簡単に紹介しましょう。

その一

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色々な心的現象を生起させる本源の宇宙が、すなわち本然の自己が、必ず現前することを確信し期待しながら、いままで自己自身だと思い込み生きるよすがとしてきており、判断の基準ともなっていた経験・知識・信条・理想等々を、反省の内に否定していく道であります。「庇・ひさしを貸して母屋を取られる」という諺があります。生まれ長じて知識・教養を身につけてきたはずであるのに、いつのまにかその知識・教養が自分という母屋を乗っ取ったのですから、それをことあるごとにひとつひとつ自分自身に言い聞かせて再び母屋から庇に出ていっもらう作業です。その知識・信条の内容がどんなに立派なもの、有益なものであろうとも、どんなに命をかけて信じているものであっても、借りているもの・本来の真白な自分でないことに違いはありません。それを庇にまで帰ってもらうのです。

人間が一度と経験したこと、手にした知識は、どんなに否定しても決して全く忘れ去り、関係のないものになることはできません。けれどもそれらの経験・知識に自分自身が翻弄されてきた今までのことを反省し、実は自分が時所に応じてそれらの経験・知識を反対に使いこなすのが自由の態度なのです。

反省し否定するといっても、その中心に本来本然の自己である宇宙の存在を確信しなければなりません。この確信のない単なる経験・知識・信条等の否定は、当然のことながらニヒリズムに陥って危険をはらんでいます。今は現前していない本然の自己である宇宙の自覚を確信するのですから、この態度・心構えは信仰ということができましょう。

仏教の一つの宗派である禅などはこの方法の典型的なものでありましょう。禅宗などはこの方法の典型的なものでありましょう。禅宗では借り物である知識・信条等を否定していく働きを無といい、最後に自覚する本然の宇宙を空と呼びます。心中にこの経験・知識を否定しても、その経験・知識はまるで生きもののように自己主張し反撃してきます。

それでも遂に否定し否定し尽くす時、忽然として、じこの本体が実は広い広い唯一つの宇宙そのものであることが自覚されます。それまで自分という個人が勝手に見ていると思っていたのが、実は宇宙そのものがこの目を通して、この手に依って、この耳を通じて、見、触れ、聞いていたのであることが、はっきりと自覚されるのです。

この、見られる光・宇宙に充満している光・また、感じられる無限の暖かさ、その世界が言霊アなのです。

この宇宙が、溢れ出る感情の世界であり、芸術・宗教のよって興る世界であることも明らかに看取されます。この光と熱の充満した宇宙が天地の初発なのであり、仏教で無凝光といわれ、キリスト教で「光に歩めよ」と称えられる宇宙のことであることがおのずと了解されます。

その二。

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第一の道が、自分の本然の姿の実在を信じて、その自覚を妨げている色眼鏡である自我の経験・知識等を心中に否定していくのに対し、第二の道は自己とはあくまで起こっては消え現れては去っていく心的現象の自己であることを心に反省し、そのささやかではかない自分、しかもそのはかなさゆえにかえって威張り散らして勝手に生きているあさはかな自分を、それにもかかわらず安穏に生かさしてくれる神または仏等の慈悲・愛に感謝しながら生きようとする努力の道であります。

この方法の顕著な例は仏教では「南無阿弥陀仏」の道があり、もう一つはキリスト教のイエスへの帰依の信仰であります。浄土真宗の悪人正機、すなわち「善人なほもて往生をとぐましてや悪人をや」(歎異抄)とか聖書にある「幸いなるかな心貧しきもの、天国はその人のものなり」(マタイ伝)等の信条はこの道の要諦であり、これを他力の道といいます。

これに反し先に挙げた禅宗は自力の道ということができます。ささやかで・さかしき心の自分を日々刻々生かし続けて下さる神仏に感謝し尽くす時、自分を生かして下さる大きな力すなわち愛と慈悲に抱擁されている自分を発見します。

キリスト教でいわゆる罪の子がこの瞬間から光の子あるいは神の子に変わります。この、全てを抱擁し生かしている愛と光の世界--これが言霊アの世界なのであります。

自己の本然の姿が宇宙そさ自体と信じてそれの自覚を求める自力の第一の道と、現象界の中にはかなく現れては消える罪と業の深い自己をみつめながら、それを生かして下さる愛と慈悲の神仏の大きな力の恩恵に感謝して神の子の自覚に導かれる他力の第二の道は、言霊アの自覚において同じ終着点に交わって一つ境地となります。

言霊アの自覚は人間の魂を束縛している原因が除かれた状態に立つことであって、自由の境地に遊ぶことができます。ピカソの抽象画をご覧下さい。その中の人間は眼が横に付いていたり後ろに付いていたり頭の上に小鳥がとまっていたりして、まさに子供が楽書きをしているようではありませんか、そうです。ピカソは実際に子供のごとく絵の中で遊んだのです。遊ぶことのできる数少ない画家の一人であったということができるでしょう。

逆にピカソの具象画を見ましょう。かれはその絵の中で鋭くきびしく美を追及しています。絵を通して魂の自由を追及したのです。追及の結果美本来の境地に到達することができました。

真善美といわれるその美の世界に没入することのできたピカソは、その世界の中で遊んだ(アそんだ)のでした。それが彼の抽象画です。楽書きに理屈をつけたら野暮というものです。

右のように魂の自由を得て、その広々とした境地に一生満足して遊んでいる人がいます。その人は、この世の出来事に巻き込まれて、朝から板まで齷齪あくせくと働いている人をみると馬鹿馬鹿しく思われるでしょう。しかし言霊の自覚の道はこの段階がまさに第一歩であるに過ぎません。言霊の道はこれからが正念場なのです。

伊勢神宮の本殿中央の真柱が五尺の内下二尺が地表下に隠されていることの真の意味は、これ以降の勉強によって解き明かされてくることになります。