古事記の鏡9 禊ぎ(イザナギの大神、御身おほみま)

ここから精神の更新が禊ぎとして始まります。

大神。一対全。

ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。

ここからの主体がイザナギの神、命から、イザナギの大神へと変身します。一個の主体としてのイザナギとしては既に完璧です。しかし一対一の主客を思った場合には相手側客体が全く不完全です。いくら主体側個人が完璧に整っていようとも主体一対相手側客体は世界全体として不全です。汚き(気、霊、田無き)世界全体に主体として一人で対応しなければなりません。整っていない客観世界は気田無き、気の言霊原理の無い国です。そこで自覚覚醒が起きなくてはなりません。

完璧な個人主体を汚い世界に向かわせねばなりません。

汚い国の主であるイザナミとは縁を切りました。しかしイザナギは一人で客観世界を相手にしなくてはなりません。完璧な主観世界を持てたとしても、世界は広すぎるため自身の力量では一個主体を持たらすのみです。そこでどうしても客観世界を完璧に導くための準備、方策と主客の完璧な一致を残しておかねばなりません。

その方策は自身に問うことしかできません。不完全な相手に問うことはできません。また何もせずに自覚の精神意識がやってくるのをただ待つだけでもありません。ではどのようにして行うのでしょうか。

そこで、ここをもちてのりたまひしく、です。


かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。


かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ

自覚と決心。

よし俺はこの世と未来の為に尽くそう。


イザナギは神(実体実在)、命(動き働き)から大神(主客の統一態)へ変身しました。がしかしここは客観世界を置き去りにしてのことです。それを掬い上げなければなりません。個人の悟りを得ることはほんの前提となるようなものです。

この精神の変容には多大な決意を必要とします。自分の精神のみならず他者の身体をも取り組んだ主体と成ります。しかし決心にも決意の程があります。

自身において相手を取り込むのは相手に質問をするというよりも、その質問と返答の全体を自身に完成させることです。

ここに主体一身において引き受ける、醜めき汚き世界全体を自身に設定することになります。数千年後の世を引き受けたと思われます。

まずは同じ完璧かつ汚い自分の客観世界の土俵へ登る為の準備です。                  


竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。

客観世界は見られては恥ずかしいながらも、それなりの努力をしています。客観世界もかつてはそして今なをあはぎはらの理想を追っています。その土俵は音図で表現されます。

竺紫(つくし)の。精神を尽くす。大神の精神に巣くうところの汚い意識を。

日向(ひむか)の。霊に向かう。言霊原理を用いて日の輝く方向をとり。

橘(たちばな)の。立場。性質の花が咲くように。

小門(おど)の。音の。客観世界共有性を持った言語を使用して

阿波岐原(あはぎはら)に。四隅がア・ワ・イ・㐄(ギ)ハラ、葉羅。最も初期の客観世界でも通用した指標となっている音図。

到りまして。 取り入れて。

禊ぎ祓へたまひき。実削ぎ、除き払え。

訳。主客の根底に原動力となる、尽くし尽くされるものが有り、それは言霊原理に向かい向かされるという、性質の花が開くように、両者の音調も整えられている、四隅をアワイ㐄で囲まれた、指標を取り入れて、背負ってきた客観世界の渾沌とした実情を剥ぎ張り替えるようにしなさい。


その為には決意と共に吾の眼を投入すること、つまり、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す、天地の原理を投入し、大神の身に付いた原理ではなく、大神に到るの五つの準備原則を得ること。


かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、

衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。

次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、

道の長乳歯(みちのながちは)の神。

次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、

時量師(ときおかし)の神。

次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、3、

煩累の大人(わずらひのうし)の神。

次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、

道俣(ちまた)の神。

次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、

飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

投げ捨てるとは、吾の意識を投入して相手側客体と同じ意識を受けいれ得ること。

この五つの方策を実行することで相手の意識に成り変わる。


まずは、音図から吾の意識をいつき建てること。

0、杖は身を支えるもの。意識を掲げその身を表明しそれと共にあることを示すもの。

ア次元、決意、希望。イ次元、意志、夢。ウ次元、欲望。エ次元、多目的。オ次元、限定目標。つきたつふなど。

ここはイザナギ(私、各人)の自覚の程度を示している。いつき立てるものは各人違うが、各人の決意の次元内容も違う。その実相が分析総合される。

古代のスメラミコト達聖人が数千年後の民達を思ったり、知識として古事記から言霊学を解明するのだぞという決意等がありうる。決意を掲げるのはいいがほんの短い間だけのものも有る。

1、帯は長い布地で身を縛るもの。掲げた意識が消滅し欠けることなく連綿と繫がって揃っていること。

みちのながちは。

2、袋は物を詰めるもの。掲げた意識を詰め蓄えつつその時間的期限に捕らわれ、一時の為だけでなく各世代各時期ともそこに有る事。

ときおかし。

3、みけしは襞、ひだ、の目立つスカアトのようなもの。特定の縦皺が主張を強くしてしまい片寄る事の無いようにすること。

わずらいのうし。

4、袴はそれぞれ一本づつ二本足を入れるもの。余りにも多くの選択肢を掲げず多すぎず少なすぎず意識の持続の選択が適切で行われる。

ちまた。

5、かぶりは隠れた実在をかぶりものの形で現すもの。掲げたものに途中の変化が無く明らかに意識の表明が続き本人のものである事を示すもの。

あきぐいのうし。

そして次ぎに。


次に前五者の禊の後に続いて、五者の意識の動き働きを調べ、それを自らの身体意識に載せることをします。こちらからあちら側へと、あちらからこちら側へとの、行って帰る動きの手続きです。


次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、

1、奥疎(おきさかる)の神。次に、 2、奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神。次に、 3、奥津甲斐弁羅(おきつかいべら)の神。

次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、

4、辺疎(へさかる)の神。次に、 5、辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。次に、 6、辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。

たまきは腕輪。音図上を母音から半母音へと行って帰る円環する動きの象徴。

その動きの往復の在り方にそれぞれ三態づつある。

1、ア行の起点を掲げて始めとすると同時に起点から動き始めそこから遠ざかる。    4、ワ行の終点を掲げて終わりとすると同時に終点を始点に向けて遠ざけ離れさせる。

2、起点とをつなぎ留めておき持続させる全ての働きを助ける。       5、終点とをつなぎ留めておき持続させる全ての働きを助ける。

3、掲げた起点から終点までの行程を一つの手段でたどり減らしていく。   6、掲げた終点から起点までの行程を一つの手段でたどり減らしていく。


言霊ウ次元 キシチニヒミイリ 天津金木音図

  オ次元 キチミヒシニイリ 赤珠音図

  ア次元 チキリヒシニイミ 宝音図

  エ次元 チキミヒリニイシ 天津太祝詞音図

  イ次元 チキシヒミリイニ 天津菅麻音図


ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、

八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に

大禍津日(おほまがつひ)の神。

この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。


吾の意識を建てる決意することは同時に吾の意識全般を立てることなので、どの次元の意識かは決まってはいません。次いで意識の動きを得て、そこで次にはどの次元の意識が良いのかを探し出します。

人の意識は五つの次元層から出来ていてどれが善でありどこが悪であるということはありません。しかし自分が意識を持つことは必然的にあはぎはらの音図の上にのっかかることになりますから、自分の意識の次元層を負うことになります。そこで禊ぎを始めるや否や禊ぎの指標が現れてきますが、意識の次元はまだ確定しません。それどころかアとイ次元の使用はふさわしくないということを、禊ぎの決意と共に知らされます。決意の内容が具体的でないし、決意の表明が一般的な言葉でしか現されないからです。


ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、

ここに詔りたまはく、と言っていますが、禊ぎの準備としての前記十二神を掲げた自覚反省から出た言葉です。でも何故速し弱しと分かったのでしょうか。現象を創れず自分の意識内でしか表明できないからです。創造された形に現れた現象ではなく、自分しか確かめる者がいないからです。

と言うのも、決意した当初は子細は無く、あったとしても大変に大雑把なものであるからです。決意はとても短いものです。そして他の人との違いを際立たせるものです。ここは意識の流れを川の流れの瀬に例えています。意識の五つの次元層を上つ、中つ、下つ瀬と分けて、それぞれア、オウエ、イ次元に配当しました。そしてそれぞれの次元層の特徴を調べます。まずは、

上つ瀬は感情次元での対応になります。相手の言うこと成すことの対応は、分かった分かったいや分からない、の一言で終わってしまいます。理想と自由を見せるだけでは一般的で瀬速しです。

下つ瀬は意志次元での対応になります。相手の言うこと成すことの対応は、具体的に形が見えてこないここはどうなの、の一言で終わってしまいます。意志の強調、、原理を見せるだけでは瀬弱しです。

そこで中つ瀬に入ります。


初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、

八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に

大禍津日(おほまがつひ)の神。

この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

中つ瀬に入ると気のつくことがありました。

自分の掲げた意識、準備しようとした意識の欠陥が見えてきました。確かに決意の表明には欠点はなく見事な意思表示です。津日、つひ、日、世界文明・人類の文化・に沿い向かっていると思われます。しかし具体的ではありません。多くの身近な事柄から遠ざかったところにあります。せっかく掲げた未来像ですが適当ではありません。

しかし中つ瀬に入ることによって自分の掲げた意識が帯に短したすきに長しであることに気付きました。


初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、(以下引用)

上つ瀬のア段も、下つ瀬のイ段も禊祓の実践の次元としては不適当だという事を確かめた伊耶那岐の大神は、初めて中つ瀬の中に入って行って禊祓をしました。中つ瀬とはオウエから流れるオ―ヲ、ウ―ウ、エ―ヱのそれぞれの川の瀬の事であります。次元オは経験知、その社会的な活動は学問であり、次元ウは五官感覚に基づく欲望であり、その社会に於ける活動は産業・経済となります。次元エからは実践智性能が発現し、その社会的活動は政治・道徳となって現われます。共に文明の創造を担うに適した性能という事が出来ます。

成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神。

中つ瀬に入って禊祓をしますと、八十禍津日の神、次に大禍津日の神が生まれました。伊耶那岐の大神は禊祓を五次元性能のどの次元に於てすれば文明創造に適当か、を調べ、先ずア段とイ段で行う事が不適当と知りました。そこで上つ瀬と下つ瀬の間の中つ瀬に入って禊祓を行う事にしました。すると最初に不適当だと思った言霊アとイの次元が禊祓を実行するために如何なる意義・内容を持つ次元なのであるか、がはっきり分かって来たのでした。八十禍津日の神と大禍津日の神とは、それぞれ禊祓実行に於てア次元とイ次元が持つ意義内容を明らかにした神名なのであります。

八十禍津日の神

人は言霊アの次元に視点を置きますと、物事の実相が最もよく見えるものです。そこで信仰的愛の感情や芸術的美的感情が迸出して来ます。その感情は個人的な豊かな生活には欠かせないものです。けれどこの感情を以て諸文化を統合して人類全体の文明創造をするには自由奔放すぎて役に立ちません。危険ですらあります。禊祓の実践には不適当(禍[まが])という事となります。けれどこの性能により物事の実相を明らかにすることは禊祓の下準備としては欠く事は出来ません。八十禍津日の神の禍津日とはこの間の事情を明らかにした言葉なのです。禍ではあるが、それによって黄泉国の文化を聖なる世界文明(日)に渡して行く(津)働きがあるという意味であります。以上の意味によって禊祓に於ける上つ瀬言霊アの役割が決定されたのです。

では八十禍津日の八十(やそ)は何を示すのでしょうか。図をご覧下さい(略)。菅麻(すがそ)音図を上下にとった百音図です。上の五十音図は言霊五十音によって人間の精神構造を表わしました。言霊によって自覚された心の構造を表わす高天原人間の構造です。下の五十音図は何を示すのでしょう。これは現代の人間の心の構造を示しています。元来人間はこの世に生まれて来た時から既に救われている神の子、仏の子である人間です。けれどその自覚がありません。旧約聖書創世記の「アダムとイヴが禁断の実を食べた事によりエデンの園から追い出された」とある如く、人本来の天与の判断力の智恵を忘れ、自らの経験知によって物事を考えるようになりました。経験知は人ごとに違います。その為、物事を見る眼も人ごとに違います。実相とは違う虚相が生じます。黄泉国の文化を摂取し、人類文明を創造する為には実相と同時に虚相をも知らなければなりません。そこで上下二段の五十音図が出来上がるのです。

合計百音図が出来ますが、その音図に向かい最右の母音十音と最左の半母音の十音は現象とはならない音でありますので、これを除きますと、残り八十音を得ます。この八十音が現象である実相、虚相を示す八十音であります。これが八十禍津日の八十の意味です。言霊母音アの視点からはこの八十音の実相と虚相をはっきりと見極める事が出来ます。

この八十相を見極めることは禊祓にとって必要欠く可からざる準備活動です。けれどそれを見極めたからと言って、禊祓が叶う訳ではありません。そこで八十禍と禍の字が神名に附される事になります。

古事記が八十禍津日の神に於て人間の境遇をアオウエイ五段階を上下にとった十段階で説く所を、仏教では六道輪廻の教えとして説明しています。それを敷衍して図の如く書く事が出来ます。

大禍津日の神

八十禍津日の神が、伊耶那岐の大神の禊祓の行法に於ける菅麻音図のア段(感情性能)の意義・内容の確認でありましたが、大禍津日の神は禊祓におけるイ段(意志性能)の意義・内容の確認であります。言霊イから人間の意志が発生しますが、意志は現象とはなりません。意志だけで禊祓はできません。また言霊イの次元には言霊原理が存在します。この原理は禊祓実践の基礎原理でありますが、禊祓を実行するに当り「基礎原理はこういうものだよ」といくら詳しく説明したとて、それで禊祓が遂行されるものではありません。言霊原理は偉大な法則です。けれどそれだけでは禊祓をするのに適当ではありません。そこで大禍(おほまが)となります。しかしその原理があるからこそ、伊耶那岐の大神は阿波岐原の中つ瀬に入って禊祓が実行可能となるのです。中つ瀬に於て光の言葉(日)に渡され、禊祓は完成される事になります。大禍に続く「津日」が行われます。言霊イの次元の意志の法則である言霊原理は、それだけでは禊祓の実践には不適当であるが、その原理を中つ瀬のオウエの三次元に於て活用する事で立派な役を果すこととなる、という確認が行われました。この確認の働きを大禍津日の神と呼びます。

この二神は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

八十禍津日の神と大禍津日の神とは、伊耶那岐の大神がかの黄泉国という穢い限りの国に行ったときの汚垢(けがれ)から生まれた神である、と文庫本「古事記」の訳注に見えます。この解釈では禊祓の意味が見えて来ません。そこで少々見方を変えて検討することとしましょう。

伊耶那岐の命が妻神のいる黄泉国へ出て行き、そこで体験した黄泉国の文化はどんなものだったでしょうか。その文化は物事を自分の外に見て、そこに起る現象を観察し、現象相互の関係を調べて行く研究・学問の文化でありました。その学問では、今までに世間で真理だと思われて来た一つの学問の論理を取り上げ、それに新たに発見した新事実を披露し、今までの学問では新事実を包含した説明は成立しない事を指摘して、次に今までの学問の主張と新しい事実との双方を同時に成立させる事が出来る論理を発表して新しい真理だと主張します。この様に正反合の三角形型△の思考の積み重ねによって学問の発達を計るやり方であります。

客観的現象世界探究のこの学問では、他人の説の不足を指摘し、その上に自説を打ち立てる競争原理が成立ち、自我主張、弱肉強食そのものの生存競争世界が現出します。伊耶那岐の命は黄泉国のこの様相を見て、伊耶那美の命の身体に「蛆(うじ)たかれころろきて」居る様に驚いて高天原に逃げ帰って来ました。この事によって伊耶那岐の命は、黄泉国で発見・主張されている文化は不調和で穢いものではあるが、世界人類文明を創造する為には、これらの黄泉国の諸文化を摂取し、言霊原理の光に照らして、新しい生命を与える手段を完成しなければならないと考え、禊祓を始めたのであります。

その結果として種々雑多な黄泉国の文化を摂取して行くのにアオウエイ五次元の性能の中で、アとイの次元の性能は禊祓の基礎とし(イ・言霊原理)、また下準備とする(ア・実相を明らかにする)のが適当である事が分かり、八十禍津日、大禍津日の二神の働きを確認する事が出来たのであります。「この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成りませる神なり」の意味は以上の様なことであります。

古事記の文章を先に進めます。(引用ここまで)

この二神は、八十の禍・大いなる禍でありながら津日である、明るい陽に向かうことができるという二律背反のような捕らえ方になる。虎穴に入らずんば虎子を得ずとか、水に入らなければ泳ぎは修得できないとは違い、八十の禍、大いなる禍そのものが創造的な新しい生命の礎となります。


次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、

神直毘(かむなほひ)の神。次に

大直毘(おほなほひ)の神。次に

伊豆能売(いずのめ)。

次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘(かむなほひ)の神。次に大直毘(おほなほひ)の神。次に伊豆能売(いずのめ)。

(以下引用)禊祓をアオウエイ五次元性能の中のどれでしたらよいか、を検討した伊耶那岐の大神はア次元とイ次元を調べて、この双方は禊祓の下準備(八十禍津日)や、基礎原理(大禍津日)としては必要であるが、そのもので禊祓をするのは不適当である事を確認して、上つ瀬でも下つ瀬でもない中つ瀬に入って禊祓をすることとなりました。その時に生まれましたのが神直毘の神、大直毘の神、伊豆能売の三神であります。中つ瀬にはウオエの三次元性能があります。神直毘は言霊オ、大直毘は言霊ウ、そして伊豆能売は言霊エの性能を担当する神であります。

神直毘の神

言霊オの宇宙から現われる人間の精神性能は経験知です。伊耶那岐の大神が禊祓を実行する為に心の中に斎き立てた衝立つ船戸の神(建御雷の男の神)の鏡に照らし合わせて、人間の経験知という性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。その確認された働きを神直毘の神といいます。神直毘の神の働きによって黄泉国で産出される諸学問を人類の知的財産として、世界人類の文明創造に役立たせる事が可能だと確認されたのであります。

大直毘の神

言霊ウの宇宙より現出する人間の精神性能は五官感覚に基づく欲望性能です。この性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。この確認された性能を大直毘の神と呼びます。この大直毘の神の働きによって、世界各地に於て営まれる産業・経済活動を統合して世界人類全体に役立たせる事が可能である事が分かったのであります。

伊豆能売

阿波岐原の川の中つ瀬の最後の言霊エの宇宙より現出する人間性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。この確認された働きを伊豆能売といいます。言霊エの宇宙から発現する人間精神性能は実践智と呼ばれます。人間のこの実践智の働きによって世界の国々の人々が営む生活活動の一切、言霊ウオアエの性能が産み出すすべてのものを摂取、統合して、世界人類の生命の合目的性に添わせ、全体の福祉の増進に役立たせる事の可能性が確認されたのであります。伊豆能売とは御稜威の眼という意です。御稜威とは大いなる人間生命原理活用の威力、と言った意味であります。眼とは芽でもあります。眼または芽とは何を指す言葉なのでしょうか。

禊祓をするに当り、人間の根本性能である五母音アオウエイ性能のそれぞれの適否が検討され、その中のオウエ三つの次元が適している事が確認されました。この後、更に適当だと確認されたオウエの三性能について、可能とする道筋の経過が音図上で詳しく検討されます。その経過は明らかに言霊そのもので明示され、確乎とした事実としてその可能が証明されて来ます。その時、オウエの中の言霊エの性能が人間精神上最高・理想の精神構造として示され、主体的・客体的に絶対の真理であるという言霊学の総結論が完成されて来ます。その絶対的真理となる一歩手前の姿、という意味で伊豆能売、即ち御稜威の眼(芽)と謂われるのであります。

(引用ここまで)

次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、

神直毘(かむなほひ)の神。次に  噛む砕く  なおもまだ  ひ陽霊文明に向かえる。   オ。

大直毘(おほなほひ)の神。次に  大いなる  なおもまだ  ひ陽霊文明に向かえる。   ウ。    

伊豆能売(いずのめ)。      みいずめ、見いだされる精神意識原理の芽の威力    エ。      


禍であるが有用であることを得ました。

今度は自分で掲げたものを禍であるとして、禊ぎ、実削ぎ、することになります。禍津日を押し通すと本当に禍になってしまいます。そのわけは具体性がないからです。具体性を持たせるには、過去の事例を持ち出す(オ次元)、欲するものをだす(ウ次元)、目的を見いだす(エ次元)ことが有効です。

過去の具体例を噛み砕いて研究し直もまだ生かせるところを陽に向かう文明とする。オ。

現在の大いなる欲望をなおもまだ実現可能とされるところを陽に向かう文明とする。ウ。

未来に見いだす陽に向かう文明の威力のあるものを取り上げる。エ。未来開拓の威力の芽が浮かび上がってきました。

どのようなものとしてどのような動き働きとしてでしょうか。


 次に水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見(そこつわたつみ)の神。次に底筒(そこつつ)の男(を)の命。中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒の男の命。水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。次に上筒の男の命。


意識の五階層を中津瀬で次元の違う意識なのにまとめてしまっています。今度はそれを解き放ちます。これら三者の特徴は、客体客観現象として創られるということです。


(以下引用)

 水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見(そこつわたつみ)の神。エ。

 伊耶那岐の命の天津菅麻(すがそ)音図の母音アオウエイのアを上つ瀬、イを下つ瀬としましたので、オウエが中つ瀬となります。そこで今度はオウエを区別するために中つ瀬の水底、水の中、水上の三つに分けたのであります。即ち水の底は言霊エ段、中は言霊ウ段、水の上は言霊オ段となります。そこで水底である言霊エ段に於いて禊祓を致しますと、底津綿津見の神が生まれました。

底津とは底の港の意。言霊エの性能に於て禊祓をすると、外国の文化はエ段の初めの港、即ちエから始まり、最後に半母音ヱに於て世界文明に摂取されます。そうしますと、摂取されるべき外国文化の内容は底の津(港)から終りの津(港)に渡される事となります。綿(わた)とは渡(わた)す事です。すると底津綿津見の神とは、言霊エから始まり、言霊ヱに終る働きによって外国の文化は世界文明に摂取されるのだ、という事が明らかにされた(見)という意だと分ります。伊耶那岐の大神が心中に斎き立てた建御雷の男の神という音図の原理によれば、禊祓によって外国の文化を完全に摂取して所を得しめる事が可能だと分ったのです。


 次に底筒(そこつつ)の男(を)の命。

 衝立つ船戸の神の原理によれば禊祓は如何なる外国文化も摂取する事が可能であると分りました。とするならば、その初め、言霊エから始まり、言霊ヱまでにどんな現象が実際に起るのか、が検討され、明らかに現象子音の八つの言霊によって示される事が分ります。それはエ・テケメヘレネエセ・ヱの八つの子音の連続です。八つの子音は筒の如く繋がっていて、チャンネルの様であります。そこで下筒の男の命と呼ばれます。


 何故下筒の神と呼ばずに下筒の男の命と言うのか、について説明しましょう。神と言えば、働き又は原則という事となります。禊祓の場合、エとヱとの間に如何なる現象が起きるか、が八つの子音言霊の連続によって示されるという事は、生きた人間が禊祓をする時、その人間の心の内観によって心に焼きつく如くに知る事が出来る事です。そこで男の命(人)と呼ばれる訳であります。内観ではあっても、それは子音であり、厳然たる事実なのです。その事は禅宗「無門関」が空の悟りを「唖子の夢を得るが如く、只(た)だ自知することを許す」と表現するのと同様であります。


 中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。

 中つ瀬の水の中と言うと言霊ウ段の事です。言霊ウの宇宙から現われ出る人間性能は五官感覚に基づく欲望性能であり、その性能が社会現象となったものが産業経済活動です。この性能次元で禊祓をすると、外国の経済産業活動から生産・流通して来る物質は極めて速やかに世界人類の生活に円滑に奉仕される事が明らかになったという事です。中津綿津見の神の最初の津とは言霊ウの働きがそこから始まる港のこと。次の津は言霊ウの働きがそこに於て終わって結果を出す港の意。中津綿津見の神の全部で、言霊ウの欲望性能で禊祓をすると、外国の産業経済活動が世界の経済機構に吸収され、その結果世界経済の中で所を得しめる働きがあることが証明された、の意となります。


 次に中筒の男の命。

 では言霊ウ段に於ける禊祓がどういう経過を踏んで達成されるか、の言霊子音での表現が明らかとなった事であります。即ちウよりウに渡る間の現象を言霊子音で示しますと、ウ・ツクムフルヌユス・ウの八子音で表わすことが出来、この実相が心に焼きつく如く明らかに禊祓を実行する人の心中に内観されることとなります。


 水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。

 中つ瀬の水の上は言霊オ段です。この母音宇宙から現出する人間性能は経験知です。この性能が社会的活動となると学問と呼ばれる領域が開けて来ます。この性能に於て禊祓をしますと、上津綿津見の神が生まれました。言霊オから言霊ヲまでの働きによって外国で生れて来る各種の学問や思想等が人類の知的財産として摂取され、人類全体の知的財産の向上のためにその所を得しめることが可能であると確認されたのであります。


 次に上筒の男の命。

 そして外国の学問・思想等知的産物が世界人類の知的財産として所を得しめられるまでに、八つの現象を経過して行なわれる事が分りました。その経路はオ・トコモホロノヨソ・ヲの八つの子音であります。この八つの子音が繋がった筒(チャンネル)の如くなりますので、またその八つの子音は禊祓を実践する人の心中に焼きつく如く内観されますので、上筒の男の命と呼ばれる事となります。


 以上、底中上の綿津見の神、筒の男の命六神の解説を終ることとなりますが、御理解頂けたでありましょうか。伊耶那岐の大神が客観世界の総覧者である伊耶那美の命を我が身の内のものと見なし、自らの心を心とした御身(おほみま)を禊祓することによって外国の文化を摂取し、これを糧として人類文明を創造して行く禊祓の実践の作業は、これら六神に於ける確認によって大方の完成を見る事となります。そしてこの六神に於ける確認によって五十音言霊布斗麻邇の学問の総結論(天照大神、月読の命、建速須佐之男の命の三貴子[みはしらのうずみこ])の一歩手前まで進んで来た事になります。


 ここで一気に総結論に入る前に、底津綿津見の神より上筒の男の命の六神の事について少々説明して置きたい事があります。古事記神話の始まりから結論までに五十音を構成している母音、半母音、父韻、親音については縷々(るる)お話をして来ました。けれど子音についてはそれ程紙面を割(さ)くことはありませんでした。何故なら子音の把握が他の音に比べて最も難しい為であります。子音は他の音と違って現象の単位です。現象でありますから、一瞬に現われ、消えてしまいます。母音、半母音、父韻、親音は理を以て何とか説明することが出来ますが、一瞬に現われては消える現象は説明の仕様がありません。そこに把握の難しさがあると言えます。


言霊ウ次元 キシチニヒミイリ 天津金木音図

      ツクムフルヌユス       

  オ次元 キチミヒシニイリ 赤珠音図

      トコモホロノヨソ

  ア次元 チキリヒシニイミ 宝音図      

  エ次元 チキミヒリニイシ 天津太祝詞音図

      たかまはらなやさ        

  イ次元 チキシヒミリイニ 天津菅麻音図


次に水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、

底津綿津見(そこつわたつみ)の神。次に

底筒(そこつつ)の男(を)の命。

中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、

中津綿津見の神。次に

中筒の男の命。

水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、

上津綿津見の神。次に

上筒の男の命。


この三柱の綿津見の神は、阿曇(あずみ)の連(むらじ)等が祖神(おやかみ)と斎(いつ)く神なり。かれ阿曇の連等は、その綿津見の神の子宇都志(うつし)日金柝の命の子孫(のち)なり。その底筒の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命三柱の神は、墨(すみ)の江(え)の三前の大神なり。


ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、

天照らす大御神。

次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、

月読(つくよみ)の命。

次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、

建速須佐の男の命。

この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、

天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。

次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ」と、言依さしたまひき。

次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(よなばら)を知らせ」と、言依さしたまひき。

故(かれ)、各(おのおの)依(よ)さしたまひし命(みこと)の随(まにま)に、知らしめす中に、速須佐(はやすさ)の男(を)の命(みこと)、依さしたまへる国を治らさずて、八拳須心前(やつかひげむなさき)に至るまで、啼(な)きいさちき。その泣く状(さま)は、青山は枯山なす泣き枯らし、河海は悉(ことごと)に泣き乾(ほ)しき。ここをもちて悪(あら)ぶる神の音なひ、さ蝿(ばへ)如(な)す皆満ち、萬の物の妖(わざわひ)悉に発(おこ)りき。

故(かれ)、伊耶那岐の大御神、速須佐之男命に詔りたまはく、「何とかも汝(いまし)は事依させる国を治らさずて、哭きいさちる。」とのりたまへば、答へ白さく、「僕(あ)は妣(はは)の国根(ね)の堅洲国(かたすくに)に羅(まか)らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の大御神大く(いた)忿怒(いか)らして詔りたまはく、「然(しか)らば汝はこの国にな住(とど)まりそ」と詔りたまひて、すなはち神遂(かむや)らひに遂らひたまひき。故、その伊耶那岐大神は、淡路の多賀にまします。

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